ヤニねこの大家さんはいかにして大家さんになったかの話 作:namamugi
当たり前だが、家賃の回収とはつまり、入居者に金を払わせるということだ。
通常は、銀行の口座で自動引き落としをするのが大概だろうが、このコーポ大谷は例外で、『口座を持てない獣人』も入居者として歓迎するため、昔ながらの現金払いとなっている。貸す側、借りる側、ともに月イチで面倒があるわけだ。
(まあ、その原因の自分が何か言ってもしょうがないっすけど……)
心中で呟きつつ、バタンと扉を開けて出てきた辰野に頭を下げる。
「すいません、今日家賃の日で……」
「あ、今月は大家さんじゃなくて、ヤクねこちゃんが家賃回収なのね。大家さん、まだ出張中だもんね。あと3日くらいだっけ?」
「っす。それまでは自分が代理っす。家賃なんすけど、ここに自分と二人でハンコ押すようにして、変に揉めないようにしろって言ってたっす」
「オッケー。それじゃこれで、よろしく」
言いつつ封筒を渡して、ヤクの渡した書類に印を押す。
ヤクも封筒を受け取ると、その場で金額を数え、問題ないことを確認してから印を押した。
「っす。そしたらこれ、控えです。ありがとうございます」
去り際にもう一度頭を下げると、辰野は『頑張ってー』と一言、声をかけてくれながら、部屋の奥へと戻っていった。
「ふう……。さて、後は……」
呟きつつ、表情に緊張が滲むのを感じる。これで1人を除いて全ての家賃は回収し終わった。しかし、その残りの1人こそが最大の試練であった。
「や、ヤニねこ先輩、いるっすか?」
「にゃ。ヤクにゃ」
部屋の奥からヤニねこが顔を出した。いつも通りのボロボロのシャツにダルダルのズボン、そしてくわえタバコのお決まりのスタイルだ。
「っす。あの、今日って何の日か分かるっすか?」
緊張しながら聞く。ヤニねこはそれに考え込むようにタバコを燻らせた。
「今日……? 別にバイトの日じゃない……あ、妹ちゃんが来る日にゃ」
「え? い、いやそうじゃなくて」
予想だにしない答えが返ってきて、ヤクが動揺した。その隙に、というわけでもないだろうが、ヤニねこが一気に言ってくる。
「部屋掃除しなきゃまずいにゃ! 汚かったら持ってるタバコ全部取り上げられるにゃ」
「いや、あの……」
「ヤク! お前も突っ立ってないで手伝うにゃ!」
「え? い、いや……いや、分かったっす!」
「と、取り敢えずなんとか……座れる場所くらいは出来たっすかね……」
しばらくして、ヤニねこの部屋の中でヤクは額の汗をぬぐった。
辺りに飛び散っていたゴミをまとめ、畳の上のゴミを見える限りで取っただけだが、初めのほとんどゴミ屋敷状態からすれば大きな進歩だろう。
「にゃ……。この畳の黒っぽいのは……」
「それ染み付いちゃってるんで、たぶん畳自体変えないとダメっすよ……」
「にゃ……」
片付いたことで見えるようになった畳のシミにヤニねこが手を伸ばした。その黒ずみを拭い取ろうとし……
「……なんか広がったにゃ」
「ダ、ダメっすよ先輩。下手に濡らして触ると広がるんですから、そういうの……」
「ニャーは何も悪いことしてないのに……」
言いつつ、ヤニねこは煙草を1本取り出して咥えると、先端に火をつけた。先端から灰がこぼれ落ち、せっかく掃除して少しはマシになった部屋があっという間に汚れていく。
「……ええと、それでその、今日なんすけど……」
「これ入んねえにゃ……」
取り敢えず話を進めないと、と思ってヤクねこが話しかけるが、ヤニねこは手元のタバコの灰を落とそうと、大量の吸殻の詰まった灰皿代わりのビンを鬱陶しそうに、つついていて、聞いていそうにない。そのまま立ち上がり、ビンをベランダまで持って行くと……
「あっちょっと先ぱ……」
ビシャッ。
止める間もなく、ヤニねこがビンを逆さにして、ベランダから庭へ吸殻の残りカスを全て捨て去った。
「ギャーッ。何やってるんすか! せっかく掃除したのに! っていうか、偶に庭に吸殻滅茶苦茶落ちてたのこのせいだったんすね!」
思わず悲鳴を上げる。家賃を回収する前にほかの仕事は済ませておこうと、キレイに掃除した庭に、みるみる吸殻がこぼれ落ち、風に乗って広がっていく。
「にゃっ」
「へ?」
ガシャン。
もはや、そのこぼれる吸殻を見ることもなく部屋に戻ってきたヤニねこの足にゴミ袋があたった。中から再びゴミが散らばる。色々なゴミを雑多にまとめていたせいか、異様な臭いが部屋に充満する。
「……」
「……」
「まあ、形あるものはいつか死を迎えると言うにゃ」
「い、いやいや、良いんすか先輩! 妹さん来るんじゃ……」
再びタバコに火をつけようとするヤニねこに、流石にヤクが突っ込んだ。ヤニねこはハッとした様子で辺りを見回す。
「にゃっ! そうだったにゃ! 掃除し直すにゃ!」
「じ、自分は先に庭の方の掃除を……」
「妹ちゃんが来るまで時間がないにゃ!」
「ぐっ、ぐ〜」
「な、なんとか……見られるくらいにはなったっすかね……」
それからまた暫くして、なんとかキレイに掃除を終えたヤクが、うんざりと呻いた。
「焦げ跡とかはどうにもならなかったっすけど、取り敢えずゴミは片したし……ゴミの日じゃないから袋を外にまとめておいたら、近所の人から白い目で見られたっすけど…………」
「にゃ。ニャーはやれば出来るのにゃ」
「大体自分がやってた気がするっす……」
胸を張って言ってくるヤニねこに強くは言えず、口の中でモゴモゴっと言っておく。そしてハッと本来の用件を思い出して立ち上がった。
「そ、そうだ先輩。それで改めて、今日が何の日かって話なんすけど……」
「にゃ? だから妹ちゃんが来る日にゃ?」
「い、いや、そうじゃなくて、今日家賃の日なんすよ。毎月支払ってる!」
「にゃ!? 今月は大家いないから、払わなくていいはずにゃ!?」
本気で驚いた様子でヤニねこが壁に張り付いて悲鳴じみた声を上げた。
「いや、いなくても払わなきゃダメなんすよ。それで、今月は自分が大家さんの代理なんで、ヤニねこ先輩からも頂こうと思ってまして……」
「金ないにゃ」
壁に張り付いたまま、サラッとヤニねこが絶望的なことを言ってきた。そう言われると、ヤクとしては呻くしかない。
「うっ……」
「今全財産……216円にゃ」
「タ、タバコも買えないっすね」
「にゃ。仕送りを金じゃなくて現物支給になったから、全然金がないにゃ。金だと煙草に使うからダメだって妹ちゃんに変えられたにゃ」
「な、なるほど……」
まあ、そうだろう、とはヤクも思う。格好いいし、憧れの先輩ではあるが、かと言って……いや、だからこそ、金を渡せばその日のうちにタバコに変わっているであろうことは容易く想像できる。
「次の日雇いバイトの給料が1週間後だから、それまでシケモク生活にゃ」
「シ、シケモク生活……」
「にゃ」
「あの、じゃあ家賃は……?」
「だから金がねえにゃ」
分かりきったことを言わせるなとばかりに煙と一緒に口から言葉を吐き出す。憧れの存在が憧れたままの姿であるというのに、――むしろそのことに――ヤクは内心絶望した。
(な、何物にも縛られず気ままに生きるヤニねこ先輩をこんなにも悪く思う日が来ようとは……)
「じゃ、じゃああの、払えるようになりそうなのは……」
「だから、1週間後に日雇いバイトの給料が入るにゃ」
「いっ1週間……もう少し、その2日とかでなんとかなりませんかね?」
「なるわけねえにゃ。常識にゃ」
「そ、そりゃそうっすよねー」
(1週間だと大家さんが帰って来ちゃうんすよー)
心中で叫ぶ。
大家が帰ってきたらそこがタイムリミットだ。自分は任された仕事を果たせなかったということになる。
自分に期待して、仕事まで任せてくれた初めての大人なのだ。なんとかその期待に応えたかった。
「い、今からその日払いの仕事とか探してみません?」
「ニャーは今充電中にゃ」
「そ、そう言わずに……ほら、外で仕事して労働の喜びを感じたら気分も変わるかもしれませんよ」
「別に変わんなくていいにゃ」
なんとか動かそうとするヤクと全く動こうとしないヤニねこ。二人の、のれんを腕で押すようなやりとりが暫く続き……断ち切ったのは玄関の扉が開く音だった。
「お姉ちゃん、少しは掃除したのね」
「妹ちゃん!」
ダダダッとヤニねこが玄関へ飛び込んでいく。
ヤニねこは妹に極端に弱い。本人曰く、『ニャーは実家が太いのが最大の強みにゃ。だから実家のみんなから悪く思われるようなことはなるべく避けてるのにゃ』とのことだった。
「にゃー。金がねえって言ってるのに、ヤクが家賃払えとか仕事しろとか無茶苦茶なこと言うのにゃ」
「それ、無茶苦茶言ってるのお姉ちゃんの方でしょ」
訴えかけるヤニねこに対して、ヤニねこの妹は呆れたように返した。そのまま部屋の奥のヤクに向けて頭を下げてくる。
「ヤクさんもすいません、お姉ちゃんが迷惑かけてしまって」
「あ、いや、自分の好きでしてることっすから」
「これ……」
言いつつ、部屋に上がろうとし……ウッとハンカチで口元を押さえて一歩戻り、そのまま玄関先で封筒を差し出してくる。
「え? それって……」
「家賃です。昨日お姉ちゃんが電話で、お金がないけど、今月は大家さんいないから家賃払わなくて良くてラッキー、みたいなこと言ってて、そんなわけないと思って母に相談して持たせてもらったんです」
ヤクねこがヤニねこにも負けない勢いでダッとヤニねこの妹の元へ飛び込んだ。そのまま震える手で封筒を受け取り、中身を確認する。
「あ、あ……」
上手く言葉にならず、どもる。
「ありがとうございます!」
アパート中に響き渡るほどの声で叫びながら、ヤクはその場で大きく頭を下げた。