ヤニねこの大家さんはいかにして大家さんになったかの話 作:namamugi
「週末には、強い台風24号が関東地方に接近する見込みで……」
「台風……」
おう也はニュースを見ながら小さく呟いた。
天井を見上げ、壁に目をやる。決して頑丈な作りとは言えないだろう。ジッと見ていると、なんだか吹けば飛びそうな気さえもしてくる。
「大丈夫だよな……?」
思わず口に出した。
テレビでは、今回の台風は今シーズン最強クラスで、今後の気象情報に注意するよう呼びかけている。
「ええと、台風の対策っていうと……」
ビューッと窓から風が吹いた。部屋の中のものがカタカタと音を鳴らす。
「……いや、アパート、大丈夫だよな……? 吹っ飛んだり……いや流石にそれはないだろ、他にも雨漏りとかはないと思いたいが……出来そうなのは雨戸閉めるとかか……?」
取り敢えず出来そうな対策を考える。しかし、仮に雨戸を閉めるにしても、自分の部屋だけでなんとかなるわけではないだろう。果たして店子達が徹底してくれるだろうか。
「……不安だ」
不安な気持ちを押さえつけるために、部屋を出た。そのまま階段を上がってヤニねこの部屋に向かう。
「おいヤニねこ、台風来るってニュースで言ってるんだが、お前なんか準備とか……」
「にゃー……タバコ……タバコ……」
いつものごとく開けっ放しのヤニねこの部屋の扉を開けると、中ではヤニねこが部屋中の吸殻を集めて、なんとかまだ吸えるのはないか探しているようだった。吸殻の端を切り落として、内側から燃え残りを取り出して別の紙に巻いている。
「お前何やってんだ……」
「ヤニが……ヤニが切れたにゃ……金もねえにゃ」
「台風が来るから準備しとけって、言いに来たんだが……」
「にゃ……台風くらい余裕にゃ」
「バカお前、そういう油断がだな……」
「にゃー」
つらつらと説教を始めそうになったが、ヤニねこはもう、まともに聞いていない。タバコの切れ端をいじることに夢中になっている。
「ったく……水とか食料とか準備して、雨戸閉めてしっかり準備しておけよ」
「屋根が飛んだら欠陥住宅だから家賃返せにゃ」
「不吉なこと言うな!」
「大家さん、どうかしました?」
「ああ。テレビで週末台風が来るとか言ってたんで、備えは大丈夫かなと思って、注意喚起にな」
「ああ、台風……。一応最低限の備えは出来てますよ。水とか食料とか。三日は持つようにしてます」
「おお、流石だな」
「いえいえ、前に住んでた真賀里先生のがそのまま残ってただけなので……」
「ははは、いや、ヤニねこの奴にも聞いたんだが、何にも備えてないくせに屋根が飛んだら家賃返せだなんだと、ふざけたこと抜かしやがってな……」
「……飛ぶんですか?」
急に、部屋の温度が3度下がった気がした。辰野がおう也の方をこれまでになく強い視線で見つめてくる。
「え? い、いや……」
「飛んだら困りますよ! 原稿も漫画も、この部屋濡れたらまずいものしかないんです!」
ガタッと辰野が立ち上がりおう也の肩を掴んだ。凄まじい握力だ。きっとこう見えて、昔は何かスポーツをやっていたのだろう。
「お、落ち着いて……」
「あ、雨漏りとかも大丈夫ですよね!? 一滴の水で原稿がオジャンなんてことも………」
「だ、大丈夫、大丈夫だから……」
どうどう、となんとか辰野を落ち着かせる。
辰野は何度かおう也を揺さぶった後、息を切らしながら言ってきた。
「はあはあ……すいません。その、漫画描いてると水って本当大敵で……。ジュースこぼして一週間の仕事が全部台無しになるなんて話も聞いたことあるんで」
「お、おお……わかった。念の為、台風来る前に屋根は点検しとく……」
「す、すいません、余計な仕事を……」
「いやいや、どのみちやろうかやらないか悩んでたんだ。決められて良かったよ」
「あ、あははは。そうだ、ヤニねこちゃんは屋根の上とか結構出てるみたいで、詳しいかもしれないですよ。後その、本当に漫画は水気に弱いので、そこだけは覚えといてもらえると……」
「あ、ああ、分かった。気を付けるよ」
「おいヤニねこ」
「今度はなんにゃ」
「ちょっとお前、屋根の点検手伝ってくれないか? さっきの話じゃないが、屋根ごと飛んだらお前も困るだろ」
「知らねえにゃ」
「お前なあ……。分かった、じゃあ金出すから。金なくてタバコも買えねえんだろ?」
「先払いにゃ」
「この野郎……まあ、しょうがねえか。ちゃんと働けよ」
「よし、それじゃ、屋根の上を見ていくか」
「にゃ」
慎重に脚立を抱えてきたおう也とは対照的に、ヤニねこはベランダの手摺りをひょいひょいっと跳ぶと、そのまま身軽に屋根の上に着地した。
ベランダの手摺りから屋根の端までは、大人が手を伸ばしても届くかどうかという高さがあるのだが、ヤニねこはそれを大したことのない段差のように悠々と飛び越えていた。
「お、おお。すげえなお前。けど普通にクソ危ねえからやめた方がいいぞ」
「余裕にゃ。よく登ってタバコ吸ってるにゃ」
「……お前、それで屋根燃えたらどうすんだよ……」
呆れて言うが、既に屋根の上に行ってしまったヤニねこにはきっと聞こえていないだろう。
おう也は自らも上がるべく、脚立を立て、一段一段慎重に上がっていく。
「はあはあ……ゔっ」
屋根の上の光景に思わず呻く。本来赤っぽい橙色の屋根に、細かな白い線が何本も生まれていた。白い線……吸殻。
「お前よく吸ってるって……吸殻そのまま放置してんじゃねえか!」
「にゃ」
脚立に乗ったまま屋根の上に顔を出して言うが、ヤニねこはどこ吹く風と言わんばかりだ。
「クソ! なんか誰もいねえのに気付いたら庭に吸殻が落ちてることがあるな、と思っちゃいたが……屋根から落ちてんだろこれ!」
「ゴチャゴチャうるせぇにゃ。屋根の点検しに来たのに、余計なこと気にするんじゃねえにゃ」
「余計じゃねえ! こういうのが雨樋の詰まりの原因になるんだ! まず屋根の上の掃除からするぞ! 俺がゴミ袋持ってくるから、お前屋根の上の吸殻集めとけ」
「にゃー」
「よし、じゃあ次、点検行くぞ」
ヤニねこが掻き集めてきた吸殻をゴミ袋に入れて下ろした後。おう也は改めて脚立に登ってきていた。
「にゃー。掃除まで手伝ってやったんだからバイト代は倍寄越せにゃ」
「掃除までしなきゃいけなくなったのはお前のせいだろうが!」
戯けたことを言ってくるヤニねこに言い返しながら、屋根の上に顔を出す。そのまま全身を持ち上げていき……なんとか体を持ち上げる。
「よ、よし……」
「にゃあ。ブルブル震えてダセーにゃ」
「お前と違って身軽じゃねえんだ、俺は。まずは屋根の板から……」
「にゃ」
つん。
いつの間にか近付いていたヤニねこがおう也をちょんと押した。なんてことのないちょんだ。普段なら持ち前の体重でビクともしないだろう。
だが、今は話が違う。
「うおおおお!」
「にゃはははは」
屋根の上でグラつきながらなんとか堪えるおう也を指差してヤニねこが笑う。
「てめえこらヤニカス! しまいにゃぶっ殺すぞ!!」
「やれるもんならやってみろにゃ。ここまで来るにゃ」
なんとか態勢を戻したおう也が怒鳴るが、ヤニねこはヒョヒョイッとおう也のもとを離れると、屋根の一番高いところに移動して舌を出して挑発した。
「ぬぐぐぐ」
(ヤバい、いくら他にいないからってヤニねこを手伝わせたのは完全に俺の判断ミスだった……)
未だ足をブルブルさせているおう也ではとてもじゃないがヤニねこの元へは動けない。
おう也はおとなしく認めると、方向性を変えることにした。
「わ、分かった。倍出してやる。さっきの分と、残りは後で払う。だから、今は俺の指示に従え。いいな?」
「にゃ〜」
(まずかった。少なくとも屋根の上という奴の土俵に上がるべきじゃなかった……。完全に地の利は奴にある。まずはベランダまで降りて地の不利を消さねば……)
後ろをチラッと見て脚立の場所を確認する。
「い、いいかヤニねこ。まずは屋根の板を確認してくれ。変に浮いてたり隙間が出来てたりしないか?」
慎重に後ろに足をずらしながらヤニねこへ語りかける。
「にゃ……」
ヤニねこが屋根の上を歩きながら確認していく。おう也は自らのずらした足が屋根の端に至ったことを確認して、脚立へ足をかけ……。
「あっ、ここちょっと浮いてるにゃ。大家も見るにゃ」
「うおおおおお!!」
ガタンッ
ヤニねこに手を引っ張られたおう也が、態勢を崩しながら屋根の上へと戻された。その拍子に足をかけていた脚立を蹴り飛ばし、倒してしまう。
(し、しまったあああ。これで俺は自力でベランダに戻れん。ヤニねこのやつはひょいひょい飛び降りてたことを思えば、俺だけが完全に不利! 脱出不可能な密室に閉じ込められたようなもの!!)
「こっちはちょっと変色してるにゃ。あ、これヤニの色かにゃ」
「ぐぬぬぬぬ」
ヤニねこの言葉には、だいぶ全力で突っ込みを入れたかったが、身体的にはそれどころではない。
もはや、なんとか屋根にしがみついているだけの大家を無視して、ヤニねこが屋根の上を庭のように飛び回りながら見ていく。
(お、俺があいつの力を借りないと戻れないということを悟られたら最後、あいつめ、俺を芯までしゃぶり尽くそうとしかねねえ。なんとかさり気なく帰る方向に誘導しなければ……)
「お、おい、ヤニねこ……よく働いてくれたな。どうだ? そろそろ休憩にしないか? お、俺がいる時だけは屋根の上でタバコも吸っていいからな」
「にゃ!? 大家も偶にはいいこと言うにゃ」
「そうだろ、そうだろ。というわけでヤニねこ、俺の部屋からお茶と菓子を持ってきてくれ」
なるべくさり気なさを装いながら続ける。
「あー、いや、やっぱりー、あれは結構重いからな、そこの脚立を立てて下から渡してくれたら俺が受け取……」
ヒョイッヒョイッ
おう也が言っている最中にも、ヤニねこは恐るべき身軽さで悠々と屋根からベランダ、ベランダから一階のおう也の部屋へと跳び回って入っていった。そのまま、あっという間に用意していたお茶と茶菓子を持って屋根へと戻って来る。
「これにゃ?」
「……うん……」
おう也としては頷くしかない。屋根の上もベランダも、ヤニねこにとっては大して変わらないのだ。
「そ、そうだ。ヤクとか呼んで一緒にお茶にしないか?」
「学校にゃ」
「じゃ、じゃあ先生を……」
「前に屋根から落ちかけて、二度と来ないって言ってたにゃ」
「そ、そうか……は、はは……」
それを聞いていたら自分も上がってはいなかった。……とは言えない。
「お茶にゃ」
言いつつ、ヤニねこが湯呑みを差し出してくる。
「……お、おお、ありがとな……」
「……? さっさと受け取れにゃ」
「も、ももももも勿論だ。ちょっとだけ待ってくれ、ちょっとだけな……」
「?」
疑問げにこちらを見てくるヤニねこだが、それを気にするほどの余裕もない。おう也はなんとか時間をかけて態勢を整えると、腕を伸ばした。
「よ、よし、渡してくれ」
「さっきから渡してるにゃ」
「そ、そうだったな……」
ヤニねこの差し出してくる湯呑みを受け取る。普段はなんてことのない湯呑みの重さがやたらずっしりと感じられる。
ヒューッ
そよ風が吹いた。
「お、おおおおおおお!」
ただのそよ風である。冷静ならばなんてことはなかっただろう。だが、余裕のないおう也には自らを吹き飛ばす突風のように感じられた。
「あっづいいいいい!!!」
震える湯呑みから溢れた茶がおう也の手を濡らす。淹れてから時間が経ち、もはや僅かな熱さではあったのだが、おう也は反射的に声を上げた。
「さっきからうるせぇにゃ」
ヤニねこが迷惑そうに言ってくる。
「や、ヤニねこ、思い付いたんだが、雨樋のテストもしておいた方がいいな。そそそ、そのお茶を……」
「茶はもうねえにゃ。今のが最後にゃ」
「そ、そうか、はは、最後なら仕方ねえな、うん」
「もう一杯入れて持ってくるにゃ?」
「い、いやいや、いい! 考えてみたら茶を流して雨樋のテストなんてする必要ないしな! うん」
「にゃあ……」
ヤニネコの表情が明らかに疑問を持った。おう也の方をジッと見る。
「おめえ、さっきから変にゃ。なんか隠してるにゃ?」
「い、いやいやいや、変じゃない、何も変じゃないぞ!」
「にゃあ?」
「ほ、ほらヤニねこ、続きをいくぞ。雨樋の金具がガタついてたり、詰まってたりしてないか確認してくれ」
「……」
「お、おい、ヤニねこ?」
「……」
「な、なんだお前、危ねえからこっちに来るな……」
「背中になんか隠してるにゃ?」
「か、隠してない! 誤解だ落ち着け! 話せば分かる!」
「にゃー!」
問答無用! とは返してこなかった。しかしその行動はどんな言葉よりも雄弁だった。おう也の言っていることを無視して、ヤニねこが文字通り、飛び込んでくる。
「う、うおおおお!」
火事場の馬鹿力としか言いようがない。
なんとか姿勢を低く、屋根に張り付くようにしてヤニねこの突進をかわし……。
「にゃ!」
どすっ。
大家の背後から重い音が響いた。恐る恐る振り返ればヤニねこがベランダに落ちた上、頭をぶつけてその場で倒れている。
「お、おい、ヤニねこ、大丈夫か……?」
屋根の上から声をかけるが、ヤニねこは答える気配を見せない。
「お、おい……きゅ、救急車呼ぶか? ……いや、そもそも俺がどうやって降りれば……」
「にゃ……」
のそっとヤニねこがベランダで起き上がった。ボリボリと頭をかいている様子からは今屋根からベランダに頭から落ちた者とはとても思えない。
「……にゃ?」
何か思いついたのか、ガサゴソと自分のポケットからタバコを取り出そうとし……。
「タバコ切れてたにゃ……」
ガッカリして、ため息を吐いてから逆のポケットに手を入れ、ハッとした様子で手を出した。
「金にゃ! ニャー、ポケットに貯金してたにゃ!」
「いや、それ俺がお前にバイト代で払ったやつだろ!」
屋根の上からおう也が言うが、ヤニねこには聞こえた様子がない。ルンルンと歌でも歌い出しそうな様子で部屋に戻っていく。
「ラッキーにゃ! タバコ買ってくるにゃ」
「お、おいちょっと待てヤニねこ、俺がまだ屋根の上にいるぞ! 待て! 待ってくれー!」
結局おう也が屋根から降りられたのはそれから数時間して、ヤクが帰ってきて脚立を立ててくれてからだった。
ヤニねこは、そのまま本当にタバコを買いに行ってしまい、帰りの道すがらサッカーをしていた子供達に混ぜてもらって日が暮れるまで遊んでいたらしい。
もう二度とヤニねこに仕事は頼まないし、屋根には上がらないぞ、とおう也は決意するのだった。
なお、肝心の屋根の点検は、結局ほとんど進まなかった。