ヤニねこの大家さんはいかにして大家さんになったかの話 作:namamugi
太陽が眩しい。
「っしまった、寝られなかった……」
ちゃぶ台の上に置かれた、びっしりと書き込まれたノートから目を離して、おう也は呻いた。
「今日から仕事だってのに……何やってんだ俺は」
呟いて、ノートを閉じて、ボールペンを放った。
時計を見る。もう早朝だ。今から寝たら、仕事前にはきっと起きられないだろう。このまま起きているしかない。仕事まで何をして時間を潰そうか。
(朝早くにやってる喫茶店でも探すか……この時間ならもう、モーニングくらいやってるだろ。で、朝食とったら仕事行って、帰ってきたら流石に今日は早めに寝て……)
今日やることを一つ一つ、順々に考えていく。……そして、それが尽きた時……今日やらなくていいことも。
「……本当に、何やってんだかな、俺は」
「おはようございます」
「あら、おはようございます、大谷さん。今日からお仕事だったかしら。頑張って下さいね」
「はい、ただ、すいません、仕事前にお願いしたいことがありまして」
自分が果てしなく馬鹿なことをしようとしている自覚がある。あるいは途方もなく無謀なことか。
どれほど机上で計算しても、元を取るのに30年はかかる。調べた限りでも、何のトラブルもなくうまくいく可能性も低いだろう。調べきれなかったこともあるに違いない。
それでも。
それでも、途方もなく大きな、これまでの人生をドブに捨てるかもしれない決断をして、どんな結果が出ようと、それに後悔しない時があるとしたら、それは…………きっと今なのだ。
「このアパート、売って貰えませんか?」
売買の契約は驚くほど呆気なく終わった。
「実はねえ、私、そろそろこのアパート畳もうかって、息子と話してたところなのよ。何しろ年で、ここまで来るのが大変だし、頑張って毎日お掃除しても、お客さん全然来なくて、空き室埋まらないし、あんまりお金にもならないし……。大谷さんが引き受けてくれるなら助かるわあ」と、大家が前向きに受け入れてくれたのだ。
タバコは吸わず、酒もそう呑まず。人付き合いはあっても、ろくに遊びもせず、無遅刻、無欠勤で会社と家を往復し続けて稼ぎ出した、貯金のほぼ全てを頭金として吐き出し、ローンまで組む(こんな無茶なことをしているのに、会社員として真面目に生きてきた20年のおかげで融資だけはあっさり通ってしまった)のはまさしく、半身を失うがごときだったが、それでもやはり、呆気なく終わった。
終わらなかったのはその後の手続きと近所との折衝だ。役所を通すあらゆる手続きや募集内容の変更は、特に、本業は会社勤めのおう也にとって、時間の確保も含め、かなりの困難を伴った。
そして、獣人可のアパートにするにあたっての隣近所への説明は更に困難を極めた。
義務というわけではなかったが、獣人可にする以上、後から揉めるより先に説明しておいた方がいい。そう考えて近隣を一軒ずつ回ったが、とにかく、納得してもらえない。
相手からは絶対に迷惑がかかる、という前提で話してくるのに、逆にこっちからは迷惑をかけない、とはとても言えないのだから、なおさら困ったものだった。
とにかく最初さえ済めば、と必死に役所に通い、近所の人と話をしたが、会社勤めの方も、本部に来てから仕事の内容が変わって、そちらにもかなりの手を割かなければならなかったのもあり、全てが忙しく、目が回る状況だった。
あまりの過酷さとストレスに、鏡を見るたびに生え際が後退し、気がつけば頭頂部まで随分寂しいことになっていた(ここまでくるならいっそ、と思い、髪は全て剃った)。
おまけに、睡眠不足に加え、食事は深夜のコンビニ飯ばかりで、腹には余計な肉が大分ついてしまった。少なくとも会社の仕事に慣れてからにすれば良かったかもしれない、とは毎日のように考えた。
とはいえ。
「ああ……ようやく、だ」
とはいえ、どんな地獄にも終わりはある。
2ヶ月、ほとんど眠れない過酷な日々を過ごしたが、その甲斐あって獣人アパート、コーポ大谷はようやく始動の準備が整ったのである。
「疲れた……いや、けど、ここからが本当の意味での本番か……」
早速ネットや不動産仲介業者には宣伝をお願いしている。獣人歓迎、タバコ可、という文言を付けたい、と言ったら驚かれはしたが、何度も確認された上で、『獣人可、タバコも可でこの価格帯ならすぐ見つかると思います』、と中々に心強い返答を貰っていた。
入居募集はもう出した。後は待つだけだ。
ただ、一人だけ。
募集を見つけてくれるのを待つのではなく、こちらから声をかけておきたい奴がいた。
「……それじゃあ、行くか」
夜半に腰を上げて、アパートを出る。
そのまま大森橋の方に歩いて行き……。
「よう、停学は解けたか?」
予想通りのシルエットと街灯に反射する金髪に、以前のように人違いをするまいと、しっかりと顔を確認してから声をかける。
しかし、対する金髪の獣人は怪しそうに答えてきた。
「誰っすか、あんた?」
「誰って……2ヶ月前くらいにもこの橋のとこで会っただろ。停学中で、1年後に卒業したらどっかに部屋でも借りるって言ってたじゃねえか」
「はあ……? いや、なんかそんな話したような気はするっすけど……あんたみたいなハゲのヤバそうな人相手にそんな話したかな……」
「したんだよ! 2ヶ月前は髪もあったし……」
尚も怪しんでくる金髪の獣人に、少し声を大きくし、大振りな仕草で髪があったことをアピールする。
出来る限り警戒心を解こうとした動きだったが、金髪の獣人はまだ胡散臭げだ。怪しむ素振りを隠そうともせずに言ってくる。
「で、何の用っすか? 停学は解けましたけど」
「単刀直入に言うが、お前、俺のアパートに住まないか?」
「は?」
金髪の獣人が、これまでのイメージとは違う、素頓狂な声を上げた。唐突な言葉に驚いているのがよく分かる。
おう也は構わず続けた。
「いや、まだ卒業前だとは思うんだけどよ。こうやって日々ブラブラしてるのも色々危ねえし、もったいねえと思ってな。卒業までの1年は学生料金ってことで家賃も安くしとくし、足りなけりゃ卒業した後で分割でもいいから……」
「い、いやいやいや、何言ってるんすか。わけわかんないっすよ。俺のアパートって……アパート持ってるんすかあんた? ってか自分、獣人でタバコも吸うし、前科ありますよ? なんなら……その、口座作れないんで、振り込みも出来ないですし……」
身振り手振りを交えて、金髪の獣人が言ってくるが、おう也はふん、と鼻息一つで遮った。
「んじゃ、うちの、コーポ大谷は家賃の支払いは振り込みじゃなくて手渡しにする。タバコも獣人も元々オーケーのアパートだ。悪くねえ話だろ?」
「いや。悪くないっていうか……何狙ってるんすか? じ、自分を囲おうとか思ってるなら……」
言いつつ半歩身を引き、身体を庇うようにおう也から顔を逸らす。
構わずおう也は再びふん、と遮ると、自分の頭をガリガリと引っ掻いた。
「ちげーよ、ただ、お前みたいなのがいて……獣人にはどうにも普通に暮らせる居場所があんまりねえってのを知っちまったから、俺に何か出来ねえか考えただけだ。まともじゃねえかもしれねえが……あるだろ……お天道様に唾吐きたくなること」
「じ、自由っすね」
「全然自由じゃねえよ。普段は会社勤めで、大家業までこれから入ったら1日中スケジュールがガッチガチだ。自由時間なんてほとんどねえぞ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
何か言葉を続けようとして……何も思いつかなかったのか、金髪の獣人は止めておう也の方を見直した。
「分かったっす、そのアパート、教えてもらってもいいっすか? ちょっと、一応親に話してから伺うんで」
「おう。向こうに歩いてったとこのな……」
橋の向こうを指さして、事細かに説明していく。
かくして、大谷おう也の大家生活が始まったのだ。