葉山颯香は断らない。   作:名無し

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第一話 葉山颯香は断らない。

 

 

 

 昼休みというものは、教室という狭い箱の中における人間の階級をもっとも露骨に可視化する時間である。

 

 友達の多い奴は机を寄せ、友達の少ない奴は机を寄せる必要がない。

 

 合理的で大変よろしい。

 

 ちなみに俺、比企谷八幡は後者である。

 

 ぼっちに必要なのは友人ではない。昼飯と適度な静寂だ。

 

 だから今日も俺は自席でパンを齧りながら、教室の中心部から聞こえてくる喧騒を環境音として処理していた。

 

 

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「ちょ、由紀夫! それはさすがに距離近すぎでしょ!」

「いいじゃん別に。俺ら付き合ってんだし」

「いやいやいや! まだ昼だから! そういうのは放課後にやってよ!」

「昼とか関係あんの?」

「あるの!」

 

 うるさい。

 

 というか放課後ならいいのか由比ヶ浜。

 

 視線だけを向けると、いつもの連中が固まっている。

 

 戸部、大岡、大和。

 

 由比ヶ浜結衣。

 

 そして、その中心にいる二人。

 

 三浦由紀夫と葉山颯香。

 

 どちらもこの学校では嫌でも目立つ。

 

 三浦由紀夫はサッカー部の中心選手。金髪にピアスという教師受けの悪そうな外見に反して成績もそこまで悪くなく、顔もいい。

 

 人付き合いにも物怖じしない。

 

 つまり俺とはおおむね逆方向の進化を遂げた生物である。

 

 そして葉山颯香。

 

 こっちはさらに厄介だ。

 

 成績優秀、運動神経良好、容姿端麗。教師からの評判もよく、男女問わず友人が多い。

 

 しかもそれを鼻にかけない。

 

 誰に話しかけられても笑うし、誰かが困っていれば手を貸す。

 

 完璧超人というのは普通、どこかしら嫌味になるものなのだが、葉山の場合はそれすら薄い。

 

 神様はステータス配分というものを知らないらしい。

 

「ほら、颯香」

 

 三浦が葉山の頭にぽんと手を置く。

 

「もう、由紀夫くん」

 

 葉山は困ったように笑う。

 

「髪崩れるよ」

「いいじゃん。どうせ似合うし」

「意味分かんないよ」

「また始まったー!」

「ちょっと結衣まで!」

 

 由比ヶ浜が笑う。

 

 周りも笑う。

 

 葉山も笑う。

 

 はいはい。

 

 リア充爆発しろ。

 

 いや、爆発したら教室の修繕費が税金から出そうなので、校外でお願いしたい。

 

「そういや颯香」

 

 三浦が葉山の耳元を指差した。

 

「まだ開けてねえの?」

 

 葉山の笑顔が、ほんの少し止まった。

 

「……ピアス?」

「そう。こないだ渡したやつ」

「あー! お揃いのやつ!?」

 

 由比ヶ浜が食いつく。

 

「いいじゃん颯香ちゃん! 絶対似合うよ!」

「うん。可愛いとは思うんだけど……」

「じゃあ開けようぜ」

「でも私、ピアスは……」

「怖いんだろ?」

「……ちょっとね」

「大丈夫だって。みんな開けてんじゃん」

「みんなって」

「俺も開けてるし」

 

 三浦は自分の耳を指差して笑う。

 

「せっかく買ったんだからさ。颯香につけてほしいんだよ、俺」

 

 その瞬間。

 

 葉山が、ほんの一瞬だけ。

 

 嫌そうな顔をした。

 

 眉が僅かに下がっただけだった。

 

 たぶん誰も気づいていない。

 

 次の瞬間には、いつもの葉山颯香だったから。

 

「……そっか。じゃあ、開けてみようかな」

「マジ? 絶対似合うって!」

「颯香ちゃん絶対かわいい!」

「ふふ。そんなに期待されると困るな」

 

 また笑い声が上がる。

 

 俺はパンの袋を丸めた。

 

 まあ、本人がいいと言ってるならいいのだろう。

 

 彼氏から貰ったものを身につけたいとか、そういうリア充特有の生態があるのかもしれない。

 

 俺には関係ない。

 

 × × ×

 

 翌朝。

 

「お、来た!」

 

 三浦の声で、教室の視線が入口へ向いた。

 

 葉山が立っていた。

 

 いつもと同じ制服。

 

 いつもと同じ長い髪。

 

 ただし、その耳には昨日までなかった小さなピアスが光っていた。

 

「颯香ちゃん開けたんだ!」

 

 由比ヶ浜が真っ先に駆け寄る。

 

「うん。昨日ね」

「見せて見せて!」

「そんな大したものじゃないよ」

 

 三浦も近づいていく。

 

 そして葉山の耳を見るなり、満足そうに笑った。

 

「やっぱ似合うじゃん!」

「……そうかな」

「お揃い」

 

 三浦が自分の耳を指差す。

 

 葉山はそこを見て、

 

「……うん」

「お揃いだね」

 

 と笑った。

 

 昨日と同じ笑顔だった。

 

 なのに。

 

 なんとなく、変だった。

 

「痛くなかった?」

 

 由比ヶ浜が訊く。

 

「んー……ちょっとだけ」

「えっ、大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 

 葉山は即答した。

 

 大丈夫。

 

 たった四文字なのに、妙に耳に残った。

 

 俺は自分でも意味が分からないまま、葉山の耳を見た。

 

 小さなピアス。

 

 別に何もおかしくない。

 

 本人が開けた。

 

 本人が大丈夫だと言った。

 

 なら、何も問題はない。

 

 ……はずだ。

 

 × × ×

 

 それから数日。

 

 俺は、三浦と葉山のやり取りを何度か目にした。

 

「なあ颯香、今日うち来ね?」

「今日?」

「親いねえんだよ」

「……うーん」

「いいじゃん。最近全然二人でゆっくりしてねえし」

「由紀夫くん」

「ん?」

「そういうのは、まだ早いよ」

 

 葉山は三浦の胸を軽く押して、いつものように笑った。

 

「またそれ?」

「またって」

「俺ら結構付き合ってんじゃん」

「期間の問題じゃないでしょ?」

「固いなー、颯香」

「もう」

 

 冗談めいたやり取り。

 

 周囲から見れば、仲のいいカップルのじゃれ合いだろう。

 

 俺も最初はそう思った。

 

 リア充爆発しろ、と。

 

 ただ、似たようなやり取りを、何度か見た。

 

「今日こそいいだろ?」

「だから、まだ早いって」

「いつまで『まだ』なんだよ」

「……」

「颯香?」

「……ごめんね」

 

 そこで俺は顔を上げた。

 

 何で葉山が謝るんだ。

 

 三浦が何か言う前に、葉山はすぐ笑った。

 

「今度、どこか遊びに行こうよ。由紀夫くんが行きたいところでいいから」

「……まあ、いいけど」

「うん」

 

 それで話は終わった。

 

 誰も喧嘩していない。

 

 三浦だって怒鳴ったわけじゃない。

 

 葉山も嫌なら断っている。

 

 何も問題はない。

 

 ──なのに。

 

 俺は、葉山の耳で光るピアスを見ていた。

 

 × × ×

 

 放課後。

 

 奉仕部の部室には珍しく由比ヶ浜がいなかった。

 

 買い物がどうとか言っていた気がする。

 

 つまり現在ここにいるのは俺と雪ノ下だけである。

 

 雪ノ下はいつものように本を読んでいる。

 

 俺も特にやることがない。

 

 素晴らしい。

 

 これこそ奉仕部のあるべき姿ではなかろうか。

 

 ノックの音がした。

 

「どうぞ」

 

 雪ノ下が答える。

 

 扉が開いた。

 

「失礼します」

 

 入ってきた人物を見て、俺は眉を上げた。

 

「葉山?」

「やあ、比企谷くん」

 

 いつもの笑顔。

 

 そして雪ノ下を見る。

 

「……久しぶり、雪乃」

 

 雪ノ下の手が止まった。

 

「……そうね」

 

 空気が変わった。

 

 そういやこの二人、昔からの知り合いだったか。

 

「それで、何か用かしら」

 

 雪ノ下の声は冷たい。

 

 葉山は少し困ったように笑った。

 

「うん。ちょっと……相談したいことがあって」

「相談?」

「由紀夫くんのことなんだけど」

 

 俺は帰りたくなった。

 

 カップルの痴話喧嘩をぼっちに相談するな。

 

 こちとら参考資料が存在しない。

 

「別れたいんだ」

 

 俺は葉山を見る。

 

 雪ノ下も僅かに目を細めた。

 

「……そう」

「うん」

 

 葉山は笑っていた。

 

「由紀夫くんが嫌いになったわけじゃないよ。優しいところもあるし、一緒にいて楽しいし」

「なら、なぜ?」

「……」

 

 葉山の指が、自分のスカートを掴んだ。

 

「私ね」

 

 珍しく、言葉が出てこない。

 

「由紀夫くんと……そういうこと、したいって思えないんだ」

 

 雪ノ下は何も言わない。

 

 俺も黙っていた。

 

「最初は、まだ早いだけだと思ってた。だから、そう言ってたんだけど」

 

 葉山が小さく息を吐く。

 

「最近ね。それを言うのも、ちょっとしんどくなってきちゃって」

「しんどい?」

 

 俺が訊く。

 

「うん」

「だったら断ればいいだろ」

「……うん」

「したくないなら、したくないで終わりだろ」

「そうだね」

「…………」

「…………」

 

 おい。

 

 そこで終わるな。

 

「……それができないから来たんだよ、比企谷くん」

 

 葉山は笑った。

 

 やっぱり、いつもの笑顔だった。

 

「断ってるじゃねえか。『まだ早い』って」

「うん。でも……」

 

 葉山が視線を落とす。

 

「何度も言われるとね」

 

 そして、自分の耳に触れた。

 

 ピアス。

 

「私、そのうち……」

 

 指先が止まる。

 

「『いいよ』って言っちゃいそうで」

 

 今度は笑わなかった。

 

「……したくないのに?」

「うん」

「何でだよ」

「由紀夫くん、私のこと好きでいてくれてるから」

「理由になってねえだろ」

「そうなんだけどね」

 

 葉山はまた笑おうとした。

 

 けれど、失敗した。

 

「何回も断ると、申し訳なくなってくるんだ」

 

 俺は何も言えなかった。

 

「由紀夫くん、残念そうな顔するから」

「……」

「私がもう少し普通だったら、って思うし」

 

 普通。

 

 何が普通なのか知らんが、少なくとも嫌なものを嫌がることは異常ではないだろう。

 

「だから」

 

 葉山は顔を上げた。

 

「由紀夫くんを傷つけないで、別れる方法を一緒に考えてほしいの」

 

 数秒。

 

 沈黙が落ちた。

 

 雪ノ下が本を閉じる。

 

「……変わらないのね、あなた」

 

 葉山の表情が固まった。

 

「雪乃」

「相手を傷つけたくない。誰にも嫌われたくない。だから自分が我慢する」

「……」

「昔から何一つ変わっていないわ」

 

 鋭い。

 

 葉山は怒らなかった。

 

 むしろ、少し寂しそうに笑った。

 

「そうだね」

「……」

「私、変わってないね」

 

 その横顔を見て。

 

 ふと、朝のことを思い出した。

 

 耳元の小さなピアス。

 

「……葉山」

「ん?」

「お前、それ」

 

 耳を指差す。

 

「本当は開けたくなかったんじゃないのか」

 

 葉山の指が止まった。

 

「…………」

「比企谷くん」

「何だよ」

「どうして分かったの?」

 

 否定しねえのかよ。

 

「昨日、嫌そうな顔してただろ」

「……見てたんだ」

「たまたまだ」

「そっか」

 

 葉山はピアスに触れる。

 

「……私ね」

「うん」

「ほんとは、ピアス嫌だったの」

「……」

「穴開けるの、怖かったし」

「……」

「痛いのも、苦手で」

「じゃあ何で開けた」

「由紀夫くん、すごく嬉しそうだったから」

 

 あっさりした答えだった。

 

 まるで、それで全部説明できるとでもいうように。

 

 俺はようやく分かった。

 

 こいつは断れないんじゃない。

 

 断らないのだ。

 

 一度なら断れる。

 

 二度だって断れる。

 

 けれど、そのたびに相手が残念そうな顔をする。

 

 空気が悪くなる。

 

 誰かが傷つく。

 

 それを何度も繰り返すくらいなら。

 

 最後には、自分が折れる。

 

 相手が傷つくくらいなら。

 

 空気が悪くなるくらいなら。

 

 自分が少し嫌な思いをする方を選ぶ。

 

 ピアスなら、それで済んだ。

 

 少し怖くて。

 

 少し痛くて。

 

 耳に小さな穴が開いただけだ。

 

 だが──こいつ自身が、その次を怖がっている。

 

 このまま何度も求められたら。

 

 いつかまた。

 

 笑って。

 

 ──いいよ。

 

 そう言ってしまう自分を。

 

「……葉山」

「うん?」

「お前の『大丈夫』って、信用できねえな」

 

 一瞬。

 

 葉山が目を丸くした。

 

 それから、

 

「……ひどいなぁ、比企谷くん」

 

 と笑った。

 

 ……でも。

 

 今度の笑顔は、今にも泣きそうだった。

 

「葉山さん」

 

 雪ノ下が呼ぶ。

 

 葉山がそちらを見る。

 

「依頼を訂正しなさい」

「え?」

「『由紀夫くんを傷つけずに別れたい』ではないでしょう」

「でも──」

「彼が傷つくかどうかは、あなたには決められないわ」

 

 葉山は黙る。

 

「あなたは彼の感情まで自分で引き受けようとしている。だから何も選べなくなるのよ」

「……」

「私は、三浦くんがどうしたいかを聞いているのではないわ」

 

 雪ノ下は真っ直ぐ葉山を見る。

 

「颯香」

 

 その呼び方に、葉山が僅かに顔を上げた。

 

「あなたは、どうしたいの?」

「…………」

 

 長い沈黙。

 

 葉山の唇が動く。

 

 けれど、声にならない。

 

 いつもなら即座に答える女が。

 

 誰に何を頼まれても笑って応じる女が。

 

 自分自身のことを訊かれた途端、一言も出てこない。

 

「……分かんない」

 

 ようやく出た声は、小さかった。

 

「私、自分がどうしたいのか……よく分かんない」

 

 雪ノ下は何も言わなかった。

 

 俺も言えなかった。

 

 しばらくして。

 

 葉山は俯いたまま、もう一度口を開いた。

 

「でも……」

 

 指先が震えている。

 

「このままは、嫌」

 

 雪ノ下が僅かに目を見開いた。

 

「……私」

 

 葉山は顔を上げる。

 

 笑っていなかった。

 

「助けて、ほしい」

 

 それはたぶん。

 

 葉山颯香がこの部屋に入ってから初めて口にした、誰のためでもない言葉だった。

 

 自分が傷つきたくない。

 

 自分を助けてほしい。

 

 そんな当たり前の願いを口にするだけで、こいつにはこれほど時間がかかる。

 

 面倒くさい。

 

 本当に、面倒くさい女だ。

 

 ……けれど。

 

 …………まあ。

 

 そういう面倒くさい依頼を押し付けられるために、この部活はあるらしい。

 

 ──葉山颯香は断らない。

 

 これは、そんな彼女が。

 

 初めて誰かに「嫌だ」と言うまでの話だ。

 

 

 

 

 

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