葉山颯香は断らない。 作:名無し
人に助けを求めるという行為には、少なからず勇気が必要らしい。
俺にはよく分からない。
なにせ俺の場合、助けを求める相手がいないので、勇気を出す以前に選択肢そのものが存在しない。
選択肢がなければ迷う必要もない。
つまりぼっちとは究極の意思決定効率化システムなのではなかろうか。
世の経営者諸君にはぜひ導入を検討していただきたい。
……たぶん会社が潰れる。
「……それで」
雪ノ下の声に、俺は現実へ引き戻された。
奉仕部の部室。
俺の正面には葉山颯香が座っている。
さっきまでなら、いつもの笑顔を浮かべていたはずだ。
誰に向けるでもない、感じのいい笑顔。
だが今は俯いたまま、自分の膝を見ている。
「あなたの依頼は、『三浦くんと別れたい』でいいのかしら」
「……うん」
葉山は答えた。
雪ノ下は僅かに眉を寄せる。
「本当に?」
「え?」
「あなた自身が、そうしたいの?」
「…………」
まただ。
こいつ、自分のことを訊かれると途端に処理速度が落ちる。
「……たぶん」
「たぶんでは困るわ」
「雪ノ下、もうちょい手加減してやれよ」
「あら。比企谷くんが女性を庇うなんて。明日は槍でも降るのかしら」
「俺だって人並みの優しさくらい持ってるんだよ」
「そう。人並みという言葉に謝って」
なんでだよ。
葉山が小さく笑った。
その笑顔は、さっきまでより少しだけ自然に見えた。
「二人って仲いいんだね」
「どこをどう見たらそうなる」
「やめてちょうだい。誤解されるでしょう」
「ほら、息ぴったり」
「「違う」」
「ふふ」
今度はちゃんと笑った。
なるほど。
こいつにも普通に笑うことはあるらしい。
いや、当たり前なんだが。
問題は、それ以外の笑顔が多すぎることだ。
「話を戻しましょう」
雪ノ下が言う。
「あなたは三浦くんが嫌いではない。しかし恋人関係を続けることには苦痛を感じ始めている。そして、彼が求める関係には進みたくない」
「……うん」
「なら別れる。それだけでは?」
「それができたら、ここには来てないよ」
「でしょうね」
……容赦ねえ。
葉山は困ったように頬を掻く。
「由紀夫くん、悪い人じゃないんだ」
「誰も悪人かどうかの話はしていないわ」
「うん。でも……」
「でも?」
「私から告白したわけじゃないけど、付き合うって決めたのは私だから」
葉山はゆっくり言葉を探す。
「由紀夫くんが告白してくれたとき、すごく真剣だったんだ。ずっと好きだったって言ってくれて」
「それで?」
「……断ったら、傷つくだろうなって」
「おい」
思わず声が出た。
葉山がこちらを見る。
「何?」
「まさかお前」
嫌な予感がした。
「付き合い始めた理由もそれか?」
「…………」
「…………」
「……全部じゃないよ?」
その答えでもう九割くらい答えている。
「由紀夫くんといるの、楽しいし。昔から友達だったし。好きだよ」
「恋愛的に?」
「…………」
はい沈黙。
分かりやすいな、お前。
「葉山」
「うん」
「お前、三浦に告白されたとき何て答えたんだ?」
「えっと……」
葉山は少し考え、
「『私でいいなら』」
と言った。
雪ノ下が額に手を当てた。
分かる。
俺もちょっとそうしたい。
「何?」
「いや」
「なに、その反応」
「葉山さん」
雪ノ下が静かに言った。
「それは返事になっていないわ」
「そうかな」
「『私はあなたと付き合いたい』ではないでしょう」
「……そうだけど」
「あなた、本当に昔からそうね」
葉山の表情が僅かに曇った。
昔。
その一言だけで、空気が変わる。
「雪乃」
「何かしら」
「……まだ怒ってる?」
「何のこと?」
「昔のこと」
「別に怒ってないわ」
雪ノ下は即答した。
嘘くせえ。
俺ですら分かる。
葉山も分かったらしい。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞けない、の方が正しいのかもしれない。
× × ×
「じゃあ、とりあえず整理しようぜ」
俺は机に肘をついた。
「お前は三浦と別れたい」
「……うん」
「三浦を嫌いなわけではない」
「うん」
「でも恋人としてこのまま付き合うのはしんどい」
「……うん」
「で、そういうこともしたくない」
「うん」
そこだけは即答だった。
俺と雪ノ下の視線が葉山に集まる。
「……何?」
「いや」
少なくとも一つは分かってんじゃねえか。
「なら話は早いだろ」
「でも」
「その『でも』禁止な」
「えっ」
「お前さっきから『うん、でも』しか言ってねえぞ」
「そんなことないよ」
「ある」
「……でも」
「ほらな」
「あ」
葉山が口を押さえた。
こいつ、ちょっと面白いな。
「比企谷くん」
「何だ」
「意地悪だね」
「知ってる」
「そこは否定しないんだ」
「事実だからな」
「ふふ」
また笑う。
俺は少しだけ考える。
「じゃあ逆に聞くぞ」
「うん」
「三浦とこのまま付き合い続けたいか?」
葉山の笑顔が消えた。
「…………」
「考え込むなよ」
「難しいよ」
「難しくねえ。イエスかノーだ」
「……」
「三浦がどう思うかは抜き。由比ヶ浜がどう思うかも、クラスの連中がどう思うかも抜き」
「……」
「葉山颯香はどうしたい」
また、答えられない。
雪ノ下が横から口を挟む。
「では質問を変えましょう」
「……うん」
「明日、三浦くんから『もう別れよう』と言われたら、あなたは引き止める?」
葉山が目を瞬いた。
「え?」
「仮定の話よ。彼の方から別れを告げられたとする。そのときあなたはどうするの?」
「…………」
葉山は考えた。
……そして。
「……引き止めない、と思う」
「悲しい?」
「それは……悲しいよ」
「なぜ?」
「由紀夫くんと今までみたいに話せなくなるかもしれないから」
「恋人でなくなるからではなく?」
「…………」
沈黙。
雪ノ下はそこで追撃しなかった。
答えは十分だった。
葉山も、それに気づいたらしい。
「……そっか」
ぽつりと言う。
「私……」
自分の手を見る。
「由紀夫くんと別れたいんだ」
今さら何を言ってるんだ、と思った。
だが……たぶん。
こいつにとっては、今初めて出た答えなのだ。
「……そっかぁ」
葉山はもう一度呟いた。
妙な顔をしている。
悲しそうで。
それなのに、少し安心したような。
「何だよ」
「いや……」
葉山が笑う。
「自分で言うと、なんか嫌だね」
「何が」
「由紀夫くんは何も悪くないのに、私が別れたいんだなって」
「別にいいだろ」
「よくないよ」
「何でだよ」
「だって――」
「そこが問題なのよ」
雪ノ下が遮った。
「え?」
葉山が口を閉じる。
「颯香。あなたは今、何をしようとした?」
「……何って」
「せっかく自分の気持ちを口にした直後に、その気持ちを否定する理由を探したでしょう」
「…………」
「『別れたい』と思うためには、三浦くんが悪人でなければならないの?」
「そんなことは……」
「なら、彼が悪くなくても別れたい。それでいいでしょう」
葉山は答えない。
「恋人関係は裁判ではないのよ。相手に有責性がなければ終了できない契約ではないわ」
「雪ノ下、急に離婚訴訟みたいな話にすんな」
「比企谷くんは黙っていて」
「はい」
葉山がくすっと笑う。
雪ノ下は葉山から目を逸らさない。
「あなたは、三浦くんを悪者にしなくていい」
「……うん」
「そして、自分を悪者にする必要もないわ」
「…………」
「ただ、あなたが望まなくなった。それだけよ」
葉山はしばらく黙っていた。
「……雪乃って」
「何かしら」
「昔より優しくなったね」
「帰っていいわよ」
「えっ」
「依頼は却下します」
「ごめんごめん」
仲悪いのか仲いいのかどっちなんだこいつら。
× × ×
その日の奉仕部は、結局具体的な解決策まで辿り着かなかった。
というより。
「三浦くんと話しなさい」
雪ノ下が出した答えがそれだった。
「……やっぱり?」
「当然でしょう」
「もうちょっとこう……何かない?」
「何を期待していたの?」
「由紀夫くんが自然と私に興味をなくす方法とか」
「最低だなお前」
「だから困ってるんだよ」
「あるいは由紀夫くんに新しく好きな人ができるようにするとか」
「もっと最低になったぞ」
「じゃあ私が嫌われるようにするとか……」
「葉山さん」
「はい」
「全部却下よ」
「……はい」
こいつ、意外と往生際悪いな。
「あなたはまだ、自分から別れを告げることを避けようとしている」
「……うん」
「相手に決めさせようとしているのよ」
葉山は俯いた。
図星らしい。
「颯香」
「うん」
「あなたが終わらせたいのなら、あなたが伝えなさい」
「……怖いな」
「でしょうね」
「由紀夫くん、傷つくよ」
「ええ」
「怒るかもしれない」
「そうかもしれないわ」
「私のこと、嫌いになるかも」
「その可能性もあるでしょうね」
「…………」
雪ノ下は一つも否定しなかった。
たぶんそれが正しい。
大丈夫。
きっと分かってくれる。
友達に戻れる。
そんな保証は誰にもできない。
「それでも」
雪ノ下が言う。
「あなたが嫌なことを受け入れ続ける理由にはならないわ」
葉山が目を伏せる。
「……うん」
今度の「うん」は、少しだけ違って聞こえた。
× × ×
部室を出る頃には、外はもう薄暗くなっていた。
俺と葉山は昇降口へ向かう。
雪ノ下は教師に呼ばれて職員室へ行った。
珍しく二人きりだ。
「比企谷くん」
「何だ」
「今日はありがとう」
「まだ何も解決してねえぞ」
「それでも」
葉山は靴を履き替える。
「ちょっと楽になった」
「そうかよ」
「うん」
そこで葉山のスマホが震えた。
「あ」
画面を見る。
一瞬。
葉山の表情が固まった。
「三浦か?」
「……うん」
「何て?」
「今日、会いたいって」
「なら会えばいいだろ」
「うん」
「…………」
「…………」
「葉山」
「なに?」
「今の『うん』はどっちだ」
「え?」
「会いたいのか、断れないのか」
葉山が止まった。
スマホを見る。
画面にはメッセージが表示されている。
指が返信欄の上で止まる。
「…………」
長い。
たかがメッセージ一つに何分かけるつもりだ。
やがて葉山が入力する。
消す。
また入力する。
また消す。
「お前な……」
「ちょっと待って」
「俺もう帰っていい?」
「待って」
「何で俺が待つんだよ」
「一人だと送れない」
さらっととんでもないことを言う。
俺はため息をついた。
「早くしろ」
「うん」
葉山がまた画面を見る。
そして。
今度は消さなかった。
『ごめんね。今日は会わない』
それだけ。
送信ボタンの上で指が止まる。
「…………」
「…………」
「比企谷くん」
「押さねえぞ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
「……けち」
「自分でやれ」
葉山はスマホを見る。
息を吸う。
吐く。
そして。
押した。
「…………送っちゃった」
「送ったな」
「どうしよう」
「知らん」
「冷たくない?」
「自分で送ったんだろ」
「そうだけど……」
すぐに既読がついた。
「はやっ」
葉山が小さく声を上げる。
返信。
『なんで?』
葉山が固まる。
「…………」
「おい」
「やっぱり会った方が――」
「お前さ」
「……うん」
「今日何しに奉仕部来たんだよ」
葉山が黙る。
そして。
もう一度スマホを見る。
『今日は会いたくないから』
入力。
停止。
削除。
「消すなよ」
「だって、これすごく感じ悪くない?」
「知らねえよ」
「由紀夫くん絶対傷つくよ」
「知らねえって」
「比企谷くん他人事だからって……」
「他人事だよ」
「ひどい」
「でも」
俺は葉山を見る。
「お前が会いたくないのも事実なんだろ」
「…………」
「なら、知らん」
葉山はしばらく俺を見ていた。
「比企谷くんって」
「何だよ」
「本当に感じ悪いね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないよ」
少し笑う。
それから。
葉山はもう一度入力した。
『ごめん。今日は会いたくないんだ』
今度は。
自分で送った。
「…………」
「どうだ」
「すごく嫌」
「何が」
「胸が痛い」
「そうか」
「由紀夫くん、絶対嫌な気持ちになってる」
「そうかもな」
「……取り消したい」
「好きにしろ」
「止めてよ」
「どっちだよ」
「分かんない」
葉山が両手で顔を覆う。
「もうやだ……」
大げさな奴だ。
たかが一回。
会いたくないと言っただけだ。
そんなもの、普通の人間なら日常的にやっている。
今日は疲れてる。
気分じゃない。
予定がある。
理由なんていくらでもある。
だが葉山颯香にとっては違う。
相手が望んでいることを。
自分が望んでいないという理由だけで断った。
たったそれだけのことが。
こいつにとっては、たぶん。
耳に穴を開けるより怖い。
またスマホが震える。
葉山が恐る恐る見る。
『わかった。また明日な』
「…………」
「何だって?」
「……分かったって」
「そうか」
「怒ってないかな」
「知らん」
「傷ついてないかな」
「知らん」
「比企谷くん」
「何だよ」
「もうちょっと優しくできない?」
「お前が他人に優しすぎる分、俺が帳尻合わせてんだよ」
「なにそれ」
葉山が笑った。
今度は。
俺にも分かるくらい、普通の笑顔だった。
「……でも」
「ん?」
「断れた」
「一回な」
「うん」
葉山はスマホを胸元に持っていく。
「一回、断れた」
嬉しそうに言うようなことでもない。
小学生でもできる。
だが。
まあ。
最初なんて、そんなものなのかもしれない。
葉山颯香は断らない。
だからこれはまだ、拒絶ですらない。
たった一度。
会いたくない日に、
「今日は会いたくない」
そう言えただけだ。
それでも。
昨日までのこいつなら、その一言すら言えなかったのだから。
たぶんこれは。
葉山颯香が初めて、自分を一人分として数えた日だった。