葉山颯香は断らない。 作:名無し
人間関係において、円満解決という言葉ほど胡散臭いものはない。
双方が納得し、互いを尊重し、後腐れなく握手して終了。
そんなものが本当に可能なら、世の中から離婚調停も労働争議も国際紛争も消滅している。
まあ最後のやつは規模が違う気もするが。
……要するに。
何かを終わらせるとき、誰も傷つかない方法なんて大抵存在しない。
そして葉山颯香という女は。
その当たり前の事実を、十七年かけても受け入れられずにいた。
× × ×
「おはよ、颯香ちゃん!」
「……おはよう、結衣」
朝。
由比ヶ浜の声に、葉山が振り返る。
顔色が悪い。
寝不足なのか、いつもより目元が重い。
「……寝れなかった?」
「ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「……三時間くらい」
「全然寝てないじゃん!」
「大丈夫だよ」
言ってから。
葉山が止まる。
「…………」
由比ヶ浜も止まる。
俺も自席からそちらを見る。
「……大丈夫じゃないです」
「なんで敬語!?」
「なんとなく……」
由比ヶ浜が笑う。
葉山も少し笑った。
昨日より進歩している。
大丈夫じゃないと言えるだけで成長扱いされる高校生というのもどうなんだ。
「今日、話すんだよね」
「うん」
「放課後?」
「うん」
「……あたし、直前までいるから」
「ありがとう」
葉山が笑う。
今度は自然だった。
「結衣がいてくれると、安心する」
「う、うん!」
由比ヶ浜がちょっと照れている。
そういうのをさらっと言えるくせに、なぜ「嫌」は言えないのか。
人間というものはよく分からない。
「お、颯香」
声。
三浦が教室へ入ってきた。
葉山の肩が僅かに強張る。
「おはよ」
「……おはよう、由紀夫くん」
「今日さ」
「うん」
「放課後空いてる?」
葉山が一瞬、由比ヶ浜を見る。
由比ヶ浜は何も言わない。
ただ、小さく頷いた。
「……うん」
「マジ? じゃあ――」
「私も、話したいことあるから」
三浦が止まった。
「話?」
「うん」
「何?」
「放課後に話す」
「なんだよ、気になるじゃん」
「ごめんね」
「今言えねえの?」
「……うん」
三浦は不思議そうな顔をした。
「まあ、いいけど」
そう言って、いつものように葉山の頭へ手を伸ばす。
葉山は。
ほんの少しだけ。
身体を引いた。
三浦の手が止まる。
「……?」
「あ……」
葉山も気づいた。
反射的に避けてしまったらしい。
「どうした?」
「ううん。ごめ――」
そこで止まった。
「…………」
「颯香?」
「……なんでもない」
三浦は少し首を傾げた。
「そっか」
そのまま友人たちの方へ向かう。
葉山はしばらく、その背中を見ていた。
……そして。
小さく息を吐いた。
× × ×
昼休み。
葉山はほとんど飯を食わなかった。
「颯香ちゃん、それだけ?」
「食欲なくて」
「パン半分じゃん」
「朝は食べたから」
「何食べたの?」
「……コーヒー」
「食べてないじゃん!」
由比ヶ浜が自分の弁当から卵焼きを差し出す。
「はい」
「いや、いいよ」
「食べて」
「結衣の分なくなるよ」
「いいから」
「でも」
「颯香ちゃん」
「……はい」
葉山が卵焼きを食べる。
「美味しい?」
「うん。美味しい」
「よし」
なんだこれ。
母娘か。
「……ヒッキー」
「何だ」
「何見てんの」
「見てねえよ」
「見てたじゃん」
「視界に入っただけだ」
「ヒッキーってそういう言い方するよね」
「お前らこそ俺を視界に入れすぎなんだよ」
「意味分かんないし」
いつもの由比ヶ浜だ。
葉山が笑う。
その直後。
「颯香」
三浦が呼んだ。
「ん?」
「今日、俺んちで話す?」
葉山の箸が止まる。
「親いねえし、ゆっくりできるじゃん」
「…………」
由比ヶ浜も黙る。
「颯香?」
「……学校でいいよ」
「学校?」
「うん」
「なんで?」
「……学校で話したいから」
「別にいいけど」
三浦は少し不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
「じゃ、終わったら連絡して」
「うん」
三浦が離れていく。
葉山は箸を置いた。
「……言えた」
「言えたね!」
由比ヶ浜が小声で喜ぶ。
「なんだこの幼児教育」
「ヒッキーうるさい」
「でも」
葉山が呟く。
「今、由紀夫くんちょっと嫌そうだった」
「……うん」
「私が家行けば済むのに」
由比ヶ浜の顔が曇る。
俺はため息をついた。
「葉山」
「なに?」
「お前、昨日から何回『相手が嫌そうだった』って言ってんだ」
「……そんなに?」
「数えてねえけど」
「じゃあ分かんないじゃん」
「そういう問題じゃねえ」
葉山は少し笑った。
まだ笑えるなら大丈夫だろう。
……いや。
こいつ相手にその判断基準は一番信用ならないんだった。
× × ×
放課後。
奉仕部には葉山と由比ヶ浜が来ていた。
三浦と話す時間まで、あと二十分。
「……無理かも」
葉山が言った。
「早いよ!」
由比ヶ浜が即座に返す。
「だって結衣」
「うん」
「昨日からずっと考えてたんだけど」
「うん」
「やっぱり、もう少し付き合ってみても――」
「葉山さん」
雪ノ下の声。
「はい」
「逃げない」
「……はい」
完全に教師と生徒である。
「でもね、雪乃」
「何かしら」
「由紀夫くん、今日普通だったんだよ」
「でしょうね」
「優しかったし」
「そうでしょうね」
「だから……」
「三浦くんが今日あなたに優しかったことと、あなたが彼と付き合い続けたいかどうかに何の関係が?」
「…………」
葉山が黙る。
「ねえ、颯香ちゃん」
由比ヶ浜が隣に座る。
「一個だけ聞いていい?」
「うん」
「由紀夫と別れたくない?」
「…………」
葉山は長く考えた。
そして。
「……別れたい」
「じゃあ、それでいいんじゃないかな」
「でも、由紀夫くんが――」
「颯香ちゃん」
由比ヶ浜が遮る。
「今は由紀夫の話してないよ」
「…………」
「颯香ちゃんの話だよ」
葉山が目を伏せる。
「……そっか」
スマホが震えた。
三浦からだろう。
葉山が画面を見る。
「来たって」
部室が静かになる。
葉山が立ち上がる。
「……行ってくるね」
「うん」
「由比ヶ浜」
「なに?」
「ついて行くなよ」
「分かってるし!」
葉山が俺を見る。
「比企谷くん」
「何だよ」
「……もし私が十分で戻ってきたら」
「ん?」
「たぶん言えてない」
「だろうな」
「そのときは……」
葉山が少し迷う。
「怒って」
「嫌だよ。面倒くせえ」
「そこは分かったって言うところじゃない?」
「自分でやれ」
「……そっか」
葉山が笑う。
「うん。自分でやる」
そう言って。
部室を出ていった。
× × ×
三浦は特別棟の裏にいた。
俺たちは当然、その場にはいない。
後で葉山から聞いた話と。
少しだけ離れた部室の窓から見えたもの。
それを合わせれば。
たぶん、こんな感じだったのだろう。
「悪い、待った?」
「ううん。私も今来たところ」
「で、話って何?」
「……うん」
三浦は壁に寄りかかる。
いつもと同じ顔。
葉山だけが、いつもと違う。
「由紀夫くん」
「ん?」
「私ね」
「うん」
「……」
「なんだよ」
言えない。
「もしかして昨日のこと?」
「え?」
「最近、俺なんかした?」
「……してないよ」
「じゃあ何?」
「…………」
「颯香?」
三浦が近づく。
「大丈夫?」
皮肉な言葉だった。
葉山が少し笑った。
「……大丈夫じゃない」
「は?」
「私、大丈夫じゃないんだ」
「どういう意味?」
「由紀夫くん」
葉山は息を吸った。
「……別れたい」
沈黙。
三浦の表情が消える。
「……は?」
「ごめん」
「ちょ、待って」
「うん」
「何それ」
「……」
「なんで?」
当然の質問だ。
「俺なんかした?」
「してない」
「じゃあ何で別れんの?」
「……私が」
「他に好きな奴できた?」
「違うよ」
「じゃあ意味分かんねえよ」
声が少し大きくなる。
葉山の肩が跳ねる。
「俺、なんか悪いことしたなら言えよ。直すから」
「違うの」
「じゃあ何だよ」
「由紀夫くんが悪いんじゃない」
「それ一番意味分かんねえって」
そうだろう。
三浦からすれば、意味が分からない。
昨日まで普通だった。
一緒に遊んだ。
笑っていた。
ピアスだってつけてくれた。
自分が触れれば笑っていた。
それなのに突然。
別れたい。
納得できるわけがない。
「俺のこと嫌いになった?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ好きなんだろ?」
「……好きだよ」
「だったら――」
「でも」
葉山が止める。
「その好きじゃないんだと思う」
三浦が黙る。
「由紀夫くんと話すの、楽しいよ」
「……」
「友達としても好き」
「……」
「でも、恋人として……その先に進みたいって、思えない」
三浦の顔が歪む。
「それ、俺だから?」
「……分からない」
「は?」
「ごめん。本当に分からないんだ」
「じゃあもうちょっと付き合えば分かるかもしれねえじゃん」
「…………」
来た。
葉山にとって。
たぶん一番弱い言葉。
「俺、待つし」
「……」
「そういうの嫌なら、無理にしなくていいから」
「……由紀夫くん」
「別れる必要なくね?」
優しい。
たぶん三浦は、本心から言っている。
だからこそ。
葉山には断りづらい。
「颯香」
三浦が手を伸ばす。
「もうちょっとだけ付き合おうぜ」
「…………」
「な?」
葉山が俯く。
長い沈黙。
「…………うん」
言いかける。
「う――」
そのとき。
耳に触れたらしい。
小さなピアス。
自分で開けた穴。
本当は嫌だったのに。
相手が嬉しそうだったから。
大丈夫だと言って。
いいよと言って。
笑った結果。
自分の耳に残ったもの。
「…………」
「颯香?」
「……私ね」
「ん?」
「ほんとは、ピアス嫌だったの」
三浦の手が止まる。
「……何?」
「これ」
葉山が耳に触れる。
「穴開けるの、怖かった」
「……」
「痛いのも苦手だった」
「じゃあなんで――」
「由紀夫くんが、嬉しそうだったから」
三浦の顔が固まる。
「お揃いにしたいって言ってくれたから」
「……だったら言えよ」
「うん」
「俺、無理に開けろなんて――」
「分かってる」
葉山が頷く。
「由紀夫くんは、私が嫌だって言ったらやめてくれたと思う」
「じゃあ」
「私が言えなかったの」
「……」
「由紀夫くんが悪いんじゃない」
葉山の声が震える。
「私が、ずっと言わなかった」
「……何を」
「嫌だって」
三浦が黙る。
「そういうことも」
「……」
「私、何回も『まだ早い』って言ったよね」
「ああ」
「でもね」
葉山は自分の手を握る。
「たぶん違う」
「何が」
「『まだ』じゃないんだ」
風が吹く。
葉山の髪が揺れる。
「私、したくない」
「…………」
「由紀夫くんと付き合ってたら、いつかしなきゃいけないのかなって思ってた」
「そんなこと――」
「うん。しなくていいんだよね」
「……」
「でも私、由紀夫くんに何回も言われたら、いつか『いいよ』って言っちゃうと思う」
「…………」
「ピアスみたいに」
三浦は何も言えなかった。
「それが、怖いの」
葉山はようやく。
自分が怖かったことを。
本人に言った。
「だから」
声が震える。
「別れたい」
「……俺が、待つって言っても?」
「…………」
「もう言わない。颯香が嫌なら、そういうのも言わねえよ」
葉山の顔が歪む。
たぶん。
それが一番苦しかった。
三浦が怒鳴れば。
三浦が最低な男なら。
もっと簡単だった。
嫌いになれた。
悪者にできた。
でも三浦は譲歩した。
颯香を好きだから。
関係を続けたいから。
「それでも……」
「なんでだよ」
「……」
「俺、変わるって言ってんじゃん」
「うん」
「じゃあ何が嫌なんだよ」
葉山は黙った。
理由。
相手が納得する理由。
相手が傷つかない理由。
相手を悪者にできる理由。
そんなものを。
ずっと探していた。
けれど。
ない。
だから。
葉山颯香は。
生まれて初めて。
理由にならない理由を口にした。
「……私が」
「……」
「私が、嫌だから」
三浦が目を見開く。
葉山の目から涙が落ちた。
「ごめんね」
「……」
「由紀夫くんのこと、嫌いじゃない」
「……」
「好きだよ」
「だったら――」
「でも」
葉山は泣きながら。
それでも、今度は笑わなかった。
「別れよう」
× × ×
葉山が部室に戻ってきたのは。
三十分ほど後だった。
扉が開く。
由比ヶ浜が立ち上がる。
「颯香ちゃん!」
「……結衣」
目が赤い。
泣いたのだろう。
「どうだった?」
「……」
葉山がこちらを見る。
俺。
雪ノ下。
由比ヶ浜。
そして。
「別れた」
そう言った。
「……そっか」
由比ヶ浜が葉山に近づく。
「大丈夫?」
葉山は。
いつものように。
大丈夫だよ。
そう言おうとして。
「…………」
やめた。
「……大丈夫じゃない」
「うん」
「すごく悲しい」
「うん」
「由紀夫くん、傷つけちゃった」
「うん」
「私も……すごく痛い」
「うん」
由比ヶ浜が葉山を抱きしめた。
「……でも」
葉山が泣く。
「言えた」
「うん」
「私、ちゃんと……嫌だって言えたよ」
「うん……!」
由比ヶ浜も泣いている。
雪ノ下は何も言わない。
ただ。
ほんの少しだけ。
表情を緩めた。
「……雪乃」
「何かしら」
「私、変われたかな」
雪ノ下はしばらく葉山を見る。
「一度断った程度で?」
「……厳しいなぁ」
「当然でしょう」
「そっか」
「けれど」
雪ノ下が本へ視線を戻す。
「少なくとも」
ページを一枚めくる。
「昔のあなたなら、言わなかったでしょうね」
葉山が目を丸くする。
そして。
「……うん」
笑った。
泣きながら。
でも今度の笑顔は。
誰かを安心させるためのものではなかった。
× × ×
人を傷つけないことが優しさなら。
たぶん葉山颯香は、今日。
少しだけ優しくなくなった。
三浦由紀夫を傷つけた。
自分の都合で。
自分の意思で。
自分が嫌だったから。
それは。
こいつがずっと恐れていたことだ。
でも。
誰かを傷つける可能性を受け入れなければ。
自分の人生を選ぶことなんて、たぶんできない。
葉山颯香は断らない。
――いや。
もう、その言葉は正しくない。
今日。
葉山颯香は。
初めて誰かを傷つけて。
それでも。
断った。
葉山颯香は断らない。 完