体育館の空気は、春の陽気とは裏腹に、凍り付くような緊張感に包まれていた。
2年生の全生徒が集められたのは、
新入生である1年生との二度目の合同特別試験の説明を受けるためだ。
整列し、教職員の登場を待つ静寂。
しかし、その静寂を打ち破ったのは、野獣のような低い怒鳴り声だった。
「あぁ?誰に口利いてんだよ、テメェ」
1年生の中でもひと際大柄な体躯を誇る男、
宝泉和臣が、2年生の列に歩み寄っていた。
その視線の先にいるのは、龍園翔と須藤健。
「宝泉……いやゴリラ。先輩に牙を剥くとはな。教育が必要らしい」
「お?遊ぶ気になったか?龍園よう」
「今度ばかしは、相手になってやるよ」
龍園が不敵に笑い、それに応じるように須藤も拳を握りしめる。
「おいコラ、宝泉!調子に乗ってんじゃねえぞ!」
「テメェもまた半殺しにされてぇのか?バカ須藤」
「んだと!?俺はもう学力54いってんだよ!」
「ハッ、知るかよ。俺より下のヤツは全部バカだ」
一触即発。
いや、すでに火蓋は切られていた。
堀北鈴音が毅然とした態度でその間に割って入る。
「やめなさい。先生たちが来る前に騒ぎを起こして、どういうつもり?」
だが、宝泉は鼻で笑うと、躊躇なく堀北の肩を突き飛ばした。
「女はすっこんでろ。邪魔だ」
「……っ!」
「鈴音!……んの野郎ッ!!」
須藤の理性が弾けた。
バスケットボールで鍛え上げた強靭な肉体から繰り出される右ストレート。
だが、宝泉はそれを事も無げに片手で受け止めると、
逆に須藤を軽々と投げ飛ばした。
「……嘘だろ、健が……?」
クラスメイトの池寛治が震える声で漏らす。
「あの須藤くんが、あんな簡単に……」
篠原さつきも顔を青くしている。
混乱はさらに加速する。
龍園の配下である石崎とアルベルトが動き出し、
さらには宝泉の横暴を苦々しく思っていた1年生の宇都宮陸までもが参戦。
もはや体育館の中央は、法も秩序もない無法地帯と化していた。
群衆の端で、綾小路清隆は深くため息をついた。
本来なら、茶柱たちが現れて事態を収拾するはずだった。
だが、不自然なほど教師たちが現れない。
これが誰かの意図によるものか、あるいは単なる不運か。
「きよぽん、どうしよう……。このままじゃ……」
隣にいた長谷部波瑠加が不安げに袖を引く。
「……清隆くん、危ないよ、下がったほうが……」
佐倉愛里も怯えた瞳で戦場を見つめている。
しかし、宝泉の標的はすでに綾小路に向けられていた。
宝泉は、自分を冷めた目で見つめる綾小路の存在を、本能的に察知していたのだ。
「おい、死んだ魚のような目をしてるそこのテメェだ。
綾小路センパイよぉ。ここで俺とあの夜の決着をつけろよ」
宝泉の言葉に、周囲がざわめく。
「え、綾小路?なんであいつが?」
「宝泉ってやつ、何言ってんの?綾小路なんて、ただの目立たない奴じゃん」
「てか、綾小路って誰だっけ?」
坂柳有栖は壁際で楽しげに杖を突き、
「ふふ、ようやく表舞台ですか」と独りごちている。
龍園もまた、自分だけがこの劇の真の配役を知っていると言わんばかりに、
喉の奥で押し殺したような笑いを刻んでいた。
一方で、一之瀬帆波は「綾小路くん、逃げて!」と悲鳴に近い声を上げる。
「悪いが、人違いじゃないか?」
綾小路は静かに答えるが、宝泉は止まらない。
「シラを切るな!喰らいやがれッ!」
宝泉が踏み込んだ。床を蹴る音が体育館中に響き渡る。
大型重機が突っ込んでくるような、常人なら腰を抜かすほどの圧力。
「死ねッ!」
放たれたのは、容赦のない回し蹴り。
しかし、綾小路は紙一重でそれを回避した。
いや、回避したというよりは、最初からそこにいなかったかのように、
宝泉の足が空を切ったのだ。
「なっ……!?」
宝泉の猛攻が始まる。左右のフック、膝蹴り、そして頭突き。
そのどれもが、当たれば骨折は免れない破壊力のラッシュ。
だが綾小路の体は、まるで見えない気流に乗っているかのように、
最小限の動きですべてを躱していく。
「当たれや!チョロチョロと……!」
宝泉が苛立ちを募らせる。
周囲の生徒たちは、言葉を失ってその光景を注視していた。
「……ねえ、嘘でしょ?綾小路くん、あんなに動けるの?」
篠原が目を見開く。
「綾小路、一歩も下がってねえ……。
ただ、躱してるだけなのに、宝泉の攻撃が全部かすりもしない」
「すごいの?」
「すげぇなんてもんじゃねぇ。多分、喧嘩自慢が束になっても勝てねぇよ……」
宝泉との一件で、綾小路の実力の片鱗を肌で感じた須藤が、震える声で呟く。
身体能力に優れ、喧嘩慣れした須藤の言葉には、重すぎるほどの説得力があった。
それが波紋のように広がり、クラスメイトたちの驚きを確信へと変えていく。
「みやっち、きよぽんって一体……」
「清隆のやつ……あんなに強かったんだな」
長谷部たちは自分の知っている冴えない友人の豹変ぶりに、呼吸を忘れていた。
その重苦しい沈黙を切り裂くように、愉悦に満ちた低い笑い声が響いた。
「ククッ……テメェら、その節穴な目を皿にしてよく見ておけ。
あの宝泉がまったく歯が立たねえ。今までただの地味なモブだと思ってた奴は、
今のうちにその認識を改めておいた方がいいぜ」
龍園が、獲物を狩る前の蛇のような残酷な笑みを浮かべて言い放つ。
その言葉は、体育館にいる全生徒の耳に、呪いのように刻み込まれた。
綾小路の思考は極めて冷静だった。
「(面倒なことになった。だが、ここで宝泉を止めなければ、
堀北や須藤、そしてクラスにまで飛び火する。最短で終わらせるしかない)」
宝泉が渾身の右ストレートを放った瞬間、綾小路の動きが変わった。
これまでの受動的な回避から、積極的な「迎撃」へ。
綾小路は宝泉の懐に潜り込むと、その腕の力を利用し、重心をわずかに操作した。
「ガッ……!?」
次の瞬間、宝泉の巨体が宙を舞った。
投げ技ではない。宝泉が自ら転倒したかのように見えるほど、流れるような、
しかし暴力的なまでの無力化だった。
床に叩きつけられた宝泉の首筋に、綾小路の手刀が鋭く添えられる。
「……もういいだろう。教師たちが来る。これ以上は、おまえにとっても損だ」
綾小路の声は、機械のように無機質で、冷たかった。
あれほど暴れていた「野獣」宝泉が、その一言と、
喉元に突きつけられた「死」の予感に、初めて戦慄し、動きを止めた。
「……ッ、放せ……!」
宝泉が屈辱に顔を歪めながら、低く唸る。
綾小路が静かに圧を解き、その場から一歩身を引くと、
宝泉は荒い息を吐きながら立ち上がった。
制服の汚れを乱暴に払い、周囲の視線を鋭く睨みつける。
「……ちっ、面白くねぇ。おい、綾小路センパイ」
宝泉は吐き捨てるように、しかし体育館の隅々にまで響く声で言った。
「今回は、この面子に免じて引いてやるよ。
だが、勘違いすんな。……次はねぇぞ。
次の時は、そのツラが恐怖で引き攣るまで徹底的に叩き潰してやる」
挑発的な言葉とは裏腹に、その足取りには先ほどまでの余裕はない。
宝泉は舌打ちを残し、1年生の集団の中へと戻っていった。
嵐が去ったかのような静けさ。
しかし、場に満ちていた「恐怖」の対象は、
今や宝泉から、その場に立ち尽くす綾小路へと完全に移り変わっていた。
体育館に、本当の静寂が訪れた。
誰一人として、声を出せる者はいなかった。
あの凶暴な宝泉を、誰も手が出せなかった怪物を、
クラスで影の薄い少年が、汗一つかかずに制圧してしまったのだ。
2年生も1年生も、呼吸することさえ忘れたかのように固まっていた。
「………綾小路くん?け、怪我は……大丈夫そうだね」
一之瀬が、信じられないものを見る目で綾小路を見つめる。
「お前、マジかよ……すげぇな、綾小路……」
「足が速いくらいだと思ってたのに……」
池や篠原の顔からは笑みが消え、畏怖に近い敬意が浮かんでいた。
「……ふふ、期待以上です。綾小路くん」
坂柳だけが満足げに頷き、
龍園はニヤリと獰猛な歯を見せ笑うも、その瞳には狂気的な興味が宿っていた。
「綾小路くん……あなたは、何者なの……?」
櫛田の呟きも、今の綾小路には重荷でしかない。
遠くから、ようやく茶柱や他の教師たちの足音が聞こえてくる。
周囲からの視線が、痛いほど突き刺さる。
それは驚愕であり、畏怖であり、困惑だった。
これまでの「平穏な学園生活」という仮面が、
今、完全に粉砕されたことを彼は理解した。
「(……やってしまった)」
自分の手のひらを見つめ、綾小路は内心で深い嘆息を漏らす。
明日からの学園生活が、平穏とは程遠いものになることは明白だった。
「……堀北。オレ、帰っていいか?」
「え、あ……、いえ、無理よ、これから説明会なのよ?」
堀北の指摘もどこか上の空だった。
綾小路は、自分が引き起こした嵐の余波を感じながら、
ただ静かに、これからの面倒な日々を思って頭を抱えるのだった。