高度育成高等学校の3年生、その春。
龍園翔の瞳に宿っていたのは、
かつてないほどの冷徹な「静」と、その奥で燃え盛る「狂」だった。
2年生の学年末試験、坂柳有栖との真っ向勝負に敗北。
そして、3年生最初の特別試験でも、
綾小路清隆という「絶対的な壁」を崩し切ることはできなかった。
策を練れば練るほど、龍園は痛感していた。
知略、権謀術数、心理掌握――
それらすべてにおいて、あの男は自分の遥か先を行っている。
「……クク、笑えねぇな」
自室の鏡に映る自分。
3年生になり、少し大人びた表情を見せる自分を、龍園は鼻で笑った。
かつて自分は「暴力」という唯一無二の武器で、
この学園のルールそのものを蹂躙しようとした。
しかし、敗北を知り、協調や知略を学んだことで、
知らず知らずのうちにその牙が「丸く」なっていたのではないか。
スマートに勝とうなどと、いつから思い上がっていた。
綾小路清隆という怪物は、そんな次元にいない。
奴を屈服させるには、奴が最も予測し得ない方法、
そして自分が最も得意とする「原始の力」に立ち返るしかない。
「原点回帰だ。あの日、あの屋上で見た地獄を、今度は俺が奴に見せてやる」
龍園は携帯を取り出し、数人に短いメッセージを送った。
場所は校舎裏、監視カメラの死角となる、かつて自分が支配を固めていた場所だ。
放課後の校舎裏。
湿った空気とコンクリートの匂いが漂う場所に、三人の影が集まっていた。
「龍園さん、こんなところに呼び出して一体何の話っすか……?」
不安げに首をかしげるのは、石崎大地だ。
その隣には、不機嫌そうに壁に背を預ける伊吹澪、
そして岩のような体躯で無言の圧力を放つ山田アルベルトが立っている。
足音が近づく。龍園がゆっくりと、不敵な笑みを浮かべて現れた。
「集まったか、出来損ない共」
「誰が出来損ないよ。あんた、また何か企んでるんでしょ」
伊吹が鋭い視線を向ける。
龍園は答えず、彼らの中央に立つと、服を脱ぎ捨ててTシャツ一枚になった。
「特訓だ。これから毎日、ここでお前らと殴り合いをする」
その言葉に、石崎が素っ頓狂な声を上げた。
「と、特訓!?龍園さん、何言ってんすか!
俺たちが龍園さんを殴るなんて、そんなことできるわけねーじゃないっすか!」
「黙れ、石崎。お前らの意見は聞いてねぇ」
龍園の視線が鋭くなる。
「俺は綾小路に勝つ。知略じゃねぇ。
アイツの骨を叩き折り、喉笛を噛みちぎるため、
俺の暴力を極限まで引き上げる。そのためには、お前らの本気の力が必要だ」
「綾小路を……」
石崎の表情が強張る。
彼もまた、あの屋上での絶望を知る一人だ。
一方、伊吹は唇を吊り上げた。
「……へぇ。あんたを合法的にボコボコにできるってわけ?
面白いじゃない。私はいつでもやってやるわよ」
アルベルトは静かに頷いた。
彼の瞳には、主君の覚悟を受け止める静かな闘志が宿っていた。
◯
「来い、石崎。まずはテメェからだ」
龍園の挑発に、石崎は戸惑いながらも拳を握る。
「本当に……いいんすね?龍園さん!」
「殺す気で来いと言ったはずだ」
「うおおおおおおおおっ!」
石崎が突っ込む。
ラグビー部並みの勢いを持った、野性味溢れるタックルだ。
龍園は逃げない。
あえてその突進を真っ向から受け止めた。
鈍い音が響き、龍園の身体がわずかに後退するが、
彼は石崎の肩を掴むと、膝蹴りを腹部に叩き込んだ。
「ぐはっ……!」
悶絶する石崎を、龍園は冷酷に地面に叩きつける。
「甘ぇ。迷いが見えるぞ、石崎」
「……まだっす!」
石崎が立ち上がろうとするが、
そこへ横から伊吹の鋭いハイキックが飛んできた。
ターゲットは龍園の側頭部だ。
龍園は辛うじて腕でガードするが、伊吹の蹴りの重さに眉を顰める。
伊吹は着地と同時に次々と連撃を繰り出す。
格闘技に裏打ちされた無駄のない動きだ。
「あんた、鈍ってるんじゃないの!?」
「ククッ、言うじゃねぇか!」
龍園は伊吹の回し蹴りを潜り抜けると、
彼女の軸足を払い、崩れた体制のままその細い首筋を掴んだ。
そのまま地面に押し倒すが、伊吹もタダでは転ばない。
龍園の腕を掴み、関節を極めにかかる。
泥にまみれ、汗が飛び散る。
かつてクラスを恐怖で支配した暴君が、配下と共に泥臭く這いつくばっている。
だが、本番はここからだった。
龍園は二人を引き剥がし、ゆっくりと息を整えると、最後の一人を見上げた。
「……来いよ、アルベルト。お前とやりたかった」
巨漢が、一歩前に出る。
山田アルベルト。
龍園が認める「純粋な暴力」の最高傑作。
龍園がどれだけ策を弄し、どれだけ鍛えようとも、
肉体のポテンシャルにおいてこの男には絶対に勝てない。
アルベルトの大きな拳が、風を切って迫る。
龍園は全力で回避を試みるが、
その巨体からは想像もつかないスピードが龍園を追い詰める。
龍園の重い一撃がアルベルトの胸板に突き刺さるが、
アルベルトは眉一つ動かさない。
逆に、アルベルトのストレートが龍園の胸を突いた。
「がはっ……!」
肺の空気がすべて弾き出される感覚。
視界が火花を散らし、龍園の身体は数メートル後方に吹き飛んだ。
地面を転がりながら、龍園は思う。
「(そうだ……この絶望感だ。
あいつは、綾小路は……このアルベルトを難なく、たった一人でねじ伏せた)」
アルベルトを超えられないのであれば、綾小路に指一本触れることすら叶わない。
自分は今まで、この圧倒的な差から目を逸らしていたのではないか。
知略という名の、言い訳の仮面を被っていたのではないか。
「……まだだ。まだ終わっちゃいねぇ……!」
龍園は口の中に溜まった血をペッと地面に吐き捨てた。
膝が笑い、視界が二重にブレている。
それでも、龍園の目は死んでいなかった。
「もう一度だ、アルベルト!来やがれ!!」
何度も、何度も、龍園はアルベルトに挑み続けた。
投げ飛ばされ、殴り飛ばされ、地面に叩きつけられる。
その度に石崎が悲鳴のような声を上げ、伊吹が苦々しく見守る中、
龍園はボロ雑巾のようになりながら立ち上がり続けた。
◯
夕闇が校舎裏を包み込む頃、龍園は仰向けに倒れ、
荒い息を吐きながら空を見上げていた。
全身の骨が軋んでいる。
顔は腫れ上がり、消毒液の染みる痛みが神経を逆撫でする。
アルベルトが、申し訳なさそうに絆創膏と消毒綿を取り出し、
龍園の傷を手当てし始めた。
「……クク、不器用な手つきだな」
龍園が自嘲気味に笑う。
石崎と伊吹は、そんな龍園にどう声をかけていいか分からず、立ち尽くしていた。
「龍園さん……もう、これくらいでいいんじゃないっすか。
これ以上やったら、体が持たないっすよ」
石崎の言葉に、龍園は鋭い視線を向けた。
「いいわけねぇだろうが。こんなもんじゃ、あの男の足元にも及ばねぇ」
龍園は震える腕で上体を起こし、三人を順番に見つめた。
「俺は、何としてでも綾小路に勝つ。
そのためなら、俺のプライドも、この身体も、全部くれてやる」
その言葉の重みに、三人は息を呑んだ。
「お前らもだ。綾小路を潰す気で俺に挑んでこい。
馴れ合いじゃねぇ、殺し合いだ。俺が強くなることは、お前らが強くなることだ」
しばしの沈黙。
最初に沈黙を破ったのは、伊吹だった。
「……ふん。言われなくても、
あんたが綾小路にボコられる姿なんて二度と見たくないわよ。
あんたを倒すのは、私なんだから」
不敵な笑みを浮かべる伊吹。
次に、石崎が顔を上げた。
彼は鼻を啜り、ニカッと白い歯を見せた。
「……そうっすね。
俺も、一度くらいは綾小路に勝ってみたいっす。
龍園さんと一緒なら、それができるって信じてるっす!」
そして、アルベルト。
彼は石崎に目配せをし、石崎がそれを「通訳」する。
「アルベルトも言ってるっす。
『綾小路との再戦を楽しみにしている。
そのための力に、俺の肉体を使ってくれ』……だってよ!」
龍園は、腫れた顔を歪めて笑った。
「ククク……ハハハハ!最高だ、お前ら!」
◯
それからの日々、校舎裏の死角は、四人だけの「聖域」となった。
毎日、泥まみれになり、血を流し、互いの限界を削り合う特訓。
それは学園のルールからも、特別試験の枠組みからも外れた、
純粋な闘争本能の研磨だった。
龍園の動きは、日を追うごとに洗練されていく。
アルベルトの剛力を受け流す技術。
伊吹のスピードに対抗する反射神経。
石崎の泥臭い執念に負けない精神力。
龍園翔の瞳に宿る光は、1年生の時よりも暗く、
そして2年生の時よりも深く、鋭く変わっていった。
「見てろよ、綾小路」
卒業までのカウントダウンが刻一刻と進む中、
龍園は暗闇の中で確かな手応えを感じていた。
暴力こそが俺のアイデンティティ。
そして、この三人の仲間こそが、俺が手に入れた最強の武器だ。
「最後の試験で、お前のその無表情を、恐怖で染め上げてやる」
3年生編のクライマックス、龍園翔と仲間たちの逆襲が、
静かに、しかし確実に始まろうとしていた。