10月20日。
高度育成高等学校の喧騒の中、その日は静かに、
しかし堀北鈴音にとっては嵐のようにやってきた。
事の端を発したのは、数日前。
カレンダーに記された「綾小路清隆・誕生日」という文字を、
堀北は義務感と、それから自分でも説明のつかない何かを込めて見つめていた。
彼はいつだってそうだ。
自分を助け、導き、時には突き放しながらも、
結果として堀北鈴音という人間を成長させてきた。
ならば、相応の報い――もとい、感謝の印としてのプレゼントを贈るのが、
論理的かつ道徳的な判断であるはずだ。
しかし、ここで一つの巨大な壁が立ちはだかった。
「男の子が喜ぶもの」が、さっぱりわからないのである。
堀北は教室の自席に座り、顎に手を当てて深く沈思黙考した。
クラスメイトには、彼女が次の試験の戦略でも練っているように見えただろう。
だが、その脳内で行われていたのは、6人の「堀北鈴音」による、
出口の見えない泥沼の合議制会議だった。
◯
堀北の精神世界には、異なる時間軸の彼女たちが円卓を囲んでいた。
「さて、議題は明確よ。綾小路くんに何を贈るべきか」
司会を務めるのは、現在の高校生の鈴音。
冷静沈着、合理主義の塊。
それに対し、真っ先に身を乗り出したのは、鋭い眼をした中学2年生の鈴音だった。
彼女には、嘗て兄・学に連れられて体験したサバイバルゲームの鮮烈な記憶がある。
「論理的に考えて、実用性と機能美を兼ね備えたものが一番よ」
中学2年生の鈴音が、机を叩いて断言した。
「兄さんが使っていたあのリボルバー…….44マグナム。
あの重厚感、回転するシリンダーのメカニズム。
男なら、あれにロマンを感じないはずがないわ。
10禁のエアガンなら、学生の私たちが買うのもOKだし、護身用にもなる。決まりね」
「ふむ……」
高校生の鈴音は頷く。
確かに、綾小路のどこか浮世離れした、それでいて戦いの気配を纏った空気感には、
銃火器という選択肢も一理あるように思えた。
「ちょっと待ってよ!そんな物騒なものが喜ぶわけないじゃない!」
割って入ったのは、ふっくらとした頬を膨らませた幼稚園時代のロリ鈴音だ。
彼女の手には、日光を反射して黒光りする「球体」が握られている。
「これを見て。私が一生懸命、お兄様と一緒に作った泥団子よ。
砂をかけて、手のひらで転がして、布で磨いて……。これには心がこもってるの。
ピカピカの泥団子こそ、男の子が一番喜ぶ宝物なんだから!」
高校生の鈴音は、その泥団子の完璧な球体具合に思わず見入った。
「(確かに、無心で何かを磨き上げるという行為には、哲学的な美しさが宿るわね。
綾小路くんのあの無機質な瞳にも、この輝きは届くかもしれない)」
「甘いわ、二人とも!」
冷ややかに言い放ったのは、キラキラとした瞳を持つ小学校低学年の鈴音だ。
彼女は当時、テレビの中のアイドルに心酔し、鏡の前でステップを踏んでいた。
「男の子が本当に見たいのは、形のあるものじゃないわ。『私』よ。
私が彼の前で歌い、踊り、最高のパフォーマンスを披露する。
これこそが至高のギフト。綾小路くんのためだけの限定ライブを開催するのよ!」
高校生の鈴音は戦慄した。
歌?自分が?
現在の彼女にとって、それはもはや封印された黒歴史に近い。
しかし、低学年の自分は自信満々にマイクに見立てた鉛筆を握っている。
「却下よ。今の私の歌唱力は……いえ、尊厳の問題だわ」
そこへ、少し落ち着いた雰囲気の中学3年生の鈴音が、エプロン姿で静かに挙手した。
「みんな、誕生日の定番を忘れているわ」
彼女は中学3年生当時、既に家を去った学に認めてもらおうと必死に修行し、
習得した「手作りバースデイケーキ」のイメージを提示した。
「胃袋を掴む。これは古来より伝わる必勝法よ。
甘さ控えめで知的な彼にも合う、特製のガトーショコラ。
これこそがプレゼントの真髄よ」
これには他の鈴音たちが一斉に反論した。
「ケーキなんて食べたらなくなるじゃない!」
「形に残るものにすべきよ、論理的に考えて!」
しかし、司会である高校生の鈴音は、この提案を深く支持した。
「……いいえ、採用よ。ケーキは鉄板だわ。
何より、手作りの栄養と真心を摂取させるのは、
彼の健康管理という観点からも合理的ね」
その決断を聞き、中学3年生の鈴音が感心したように頷く。
「ふむ……さすが現代の私。私に一番近いだけあって、実に聡明で話が早いわね」
「当然よ。あなたの努力は、今の私に繋がっているのだから」
二人の「直近の鈴音」が、強い連帯感で握手を交わした瞬間だった。
「じゃあ、これはどうかしら?」
最後に口を開いたのは、図鑑や小説を抱えた小学校高学年の鈴音だ。
彼女は学の影響で江戸川乱歩の世界に没頭し、
明智小五郎や怪人二十面相の知恵比べに胸を躍らせていた。
「本よ。知的な彼には、推理小説が相応しいわ。
少年探偵団シリーズのような、ワクワクする冒険を贈るの。
一番無難で、一番外さない選択肢のはずよ」
高校生の鈴音は、ようやく安堵のため息をついた。
「ええ、それも論理的ね。本なら邪魔にならないし、
彼の知的好奇心も満たせるでしょう。よし、本も決定――」
「反対!!!」
幼稚園の鈴音が「本なんてつまんない!もっと触って遊べるものがいい!」と叫ぶ。
「何よ、泥団子なんてただの土じゃない!」と中学2年生の鈴音が反論する。
「銃なんて野蛮だわ!歌を歌うべきよ!」と低学年の鈴音がダンスを始める。
脳内会議は、たちまちのうちに収拾のつかない大混乱へと陥った。
「待ちなさい!全員静かに!効率的に議論を……!」
高校生の鈴音の制止も虚しく、彼女たちの主張は激しくぶつかり合い、
10月20日の当日まで続くこととなる。
◯
綾小路清隆は、自分の部屋でいつも通りの夜を過ごしていた。
誕生日だからといって、特別な予定があるわけではない。
一応、何人かからはメッセージが届いていたが、
静かな時間を好む彼にとっては、この平穏こそが報酬だった。
しかし、その平穏は、目の前で仁王立ちする堀北に破られた。
「ハッピーバースデイ、綾小路くん」
そこに立っていたのは、いつもの制服姿ではなく、また普段着でもない。
フリルとリボンが過剰にあしらわれた、
光沢のあるピンク色のアイドル衣装を身に纏った堀北鈴音だった。
「……何をしているんだ、お前は」
堀北は顔を真っ赤に染めながら、ミニスカートを抑えている。
「誕生日おめでとうよ」
「ありがとう。それはいいんだが、その格好は……」
「黙って聞きなさい」
堀北は手に持っていた紙袋を、次々とテーブルの上に並べた。
「まず……これ。男の子なら誰もが憧れる、
.44マグナムのエアガンよ。10禁だけど、その分扱いやすいわ。
次に、これ。私が丹精込めて磨き上げた、最高傑作の泥団子。
そして、暇つぶしに最適な江戸川乱歩の推理小説。あとは……」
彼女は恭しくケーキの箱を開けた。
そこには、プロ顔負けの美しい手作りガトーショコラが鎮座していた。
「これは中学3年生の……いえ、私の渾身のケーキ。……そして、この衣装よ」
堀北は視線を逸らし、震える声で続けた。
「本来なら……歌を披露する予定だったけれど、
それは私の尊厳に関わると判断したわ。
だから、この姿を見せることで我慢してちょうだい。
これで、私の脳内の合意形成は図られたわ」
綾小路は、テーブルの上に並んだ統一感のない供え物を見つめた。
漆黒の銃、異常な光沢を放つ泥の球体、そして古風な装丁の本。
綾小路は、状況を理解しようと努めた。
彼女がどれほどこの日のために悩み、葛藤し、そしてどのような迷走を遂げたのか。
この支離滅裂なプレゼントの羅列こそが、
堀北鈴音が「自分」という存在を理解しようと必死に足掻いた形跡なのだ。
普通なら、呆れて物も言えない場面だろう。
だが、目の前で顔を火が出るほど赤くしながら、
必死に威厳を保とうとしている彼女の姿は、あまりにも――。
「……ふっ」
綾小路の口元から、自然と笑みが漏れた。
それは、彼が普段見せる「模範的な生徒」としての作り笑いではなく、
心の奥底から溢れ出した、混じり気のない感情の露呈だった。
「何がおかしいのよ」
「いや。お前らしいと思ってな。ありがとう、堀北。全部、大切にさせてもらう」
綾小路は三つのプレゼントを拾い上げた。
右手にエアガン、左手に本、そして泥団子を慎重に机の引き出しの中へ。
「どういたしまして……」
堀北は、彼の笑顔を見て、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
彼がこんな風に笑うのを、自分は他に知らない。
そして、おそらく他の誰も見ていない。
冬の足音が聞こえる季節だというのに、
彼女の胸の内は、まるで春の日差しを浴びたように、じんわりと温かくなっていた。
「……来年は、もう少しマシなものを用意しておくわ」
「ああ、期待してる。せっかくだ、ケーキを一緒に食べないか?」
「ええ。毒味くらいはしてあげるわ」
10月20日。それは、一人の少年がまた一つ年を取り、
一人の少女が少しだけ自分の「過去」と「現在」を受け入れた、
不器用で愛おしい秋の一日だった。