いつか何でもないと言えるその日まで。   作:嗚呼辺

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笑っている

 

 

影森家の台所から肉が消えた。

 

これが初めてなら誰かが夜食にでもしたのだろうと片づけられた。ところが昨夜は鶏肉、その前は焼き魚が忽然と姿を消し、一昨日に至っては煮物の入った鍋が蓋ごと持ち去られている。冷蔵庫の扉へ鍵を取り付けても効果はなかった。翌朝になると鍵だけが律儀に元の場所へ戻され、その内側には綺麗に空いた棚が寒々しい光を浴びている。鍵を壊した形跡はない。冷蔵庫を荒らした痕もない。犯行は大胆な癖に妙な所で几帳面だった。

 

犯人は明らかだった。

 

「……何をしているんですか」

 

影森ジンが声を掛けると、開け放たれた冷蔵庫の前で小さな肩がびくりと跳ねた。白い明かりに照らされながら床へ座り込んでいた柊木沙月は、頬を限界まで膨らませている。右手に握られているのは厚切りの焼き豚。左手にも同じ物があり、口元には甘辛いタレが艶めいていた。言い逃れのできる状況ではなかったが、沙月は慌てて呑み込もうとはせず、普段より念入りに咀嚼してから如何にも心外だと言わんばかりの顔でジンを見上げた。

 

「夜食です」

 

「夜食を直で両手に持つ奴が居ますか」

 

「片方は旧の分です」

 

苦し紛れに名を出された白蛇が、沙月の肩からゆっくり鎌首をもたげた。

 

『儂はいらん』

 

「……旧」

 

『その目で訴えても無駄じゃ。濡れ衣を着せるでない。そもそも儂らは、人間の食物など必要とせん』

 

「今夜だけ必要だった事にしてください。長く連れ添った仲ではありませんか」

 

『断る。己の罪は己で背負え』

 

旧は素っ気なく告げると、細い体を沙月の首へ巻き直しもう関わらぬとばかりに瞼を閉じた。対して、黒い鱗を持つ栄は沙月の背後からひょいと顔を覗かせ、焼き豚へ向かって赤い舌を動かしている。旧と同じ程の体が冷蔵庫の光を吸い込んで濡れた黒曜石のように光った。人の姿を取れば二匹とも沙月を見下ろすほど大きくなるが、平時は蛇の姿で彼女の傍らにいることを好んでいた。

 

『私は食べてみたいな。だっていい匂いがするもの』

 

「さすが栄です。半分あげます」

 

『一枚ちょうだい』

 

「半分です」

 

『けち』

 

一人と一匹が真顔で焼き豚の分配について交渉を始めたため、ジンは眉間を押さえた。

 

沙月が影森家へ来てから既に三か月が過ぎていた。当初は皮膚の下で骨が軋んでいるような有様だったが、今では頬に年相応の柔らかさが戻り、枯れ枝を思わせた手足にも僅かながら肉が付いている。体中を覆っていた傷は薄紅色の痕となり、衣服に隠れて見えなくなった。もっとも、傷が消えかけているからといって、そこへ刻まれた年月まで癒えたとは限らない。沙月は今も食卓に着く度、誰より先に料理の量を数える。食べ切れなかったパンを服の内側へ忍ばせ、部屋に戻れば誰にも見つからない場所へ隠した。腹が満ちても、その手だけは明日の飢えに備えて動き続ける。

 

「食事は一日三回、きちんと出している筈です。足りないなら言ってください。なにも盗む必要はないでしょう」

 

「……そうですね」

 

「どうしてこんな事をしたんですか」

 

その問いを向けられた途端、沙月の口から詰まる様に言葉が途切れた。

 

焼き豚を握る指が強張り、薄い肉へ爪が食い込む。先ほどまでの図太さは冷水を浴びせられた火のように跡形もなく鎮まっていた。背を丸め、顎を引き、ジンの両手と足の位置を素早く確かめる。その身構え方には叱られる子供の稚さなど欠片もない。何処から殴られるのか。最初の一撃を避けられるか。逃げるなら扉と窓のどちらが近いか。幾度となく暴力へ晒された体が本人の意思を置き去りにして答えを探している。この家では誰も殴らないと繰り返し教えても、染み付いた恐怖は言葉だけで剥がれない。古傷より深い場所へ根を張り、穏やかな時間にさえ黒い影を落としていた。

 

「……だって、明日もあるとは限らないじゃないですか」

 

沙月は焼き豚へ視線を落としたまま、静かに言った。

 

「朝になれば、食べ物が無くなっているかもしれません。昨日まで笑っていた人が、今日は機嫌を悪くしているかもしれない。私の居た所では、働けなくなった子には食事が出ませんでした。買い手の付かない子へ食わせる物はない、と院長は言っていました。だから……食べられる時に腹へ入れておくんです。腹の中に入った物までは、誰にも取り上げられないから」

 

「ここはあの孤児院とは違う」

 

「同じ言葉を、前にも聞きました」

 

声に恨みはなかった。ただ長い雨に打たれて輪郭を失った石のように、何かを信じるための角が擦り減っていた。

 

「新しく来た院長も初めの内はとても優しかったんです。子供を売るような真似はしない、もう殴られる心配もない、今夜から安心して眠っていいと約束してくれました。けれど冬になって寄付が減ると前の院長より酷くなりました。笑いながら髪を撫でてくれた手で、次の日には私の頭を床へ叩き付けたんです。それから、私は優しい人の言葉ほど疑うことにしています。信じた後で嘘だと分かるより、初めから信じない方が苦しくはありませんから」

 

13歳ほどの少女が口にするにはあまりに乾き切った言葉だった。悲しみを訴える響きさえない。沙月にとってそれは傷付いた過去ではなく、火へ触れれば熱いという事実と同じなのだろう。人は嘘を吐く。優しさは長続きしない。食物は奪われる。ならば先に備えなければならない。ただ、それだけだった。

 

ジンは黙って沙月の正面へしゃがみ込んだ。途端に彼女の肩が強張り、栄の喉から獣じみた低音が漏れる。それまで目を閉じていた旧も頭を起こした。二匹の視線は鋭く、ほんの僅かでも手出しをすれば、ここが影森家の屋敷であろうと牙を剥くつもりらしい。

 

「好きに持っていきなさい」

 

「……え」

 

「冷蔵庫の中身の事です。食べたい時に食べなさい。ただし、一度に詰め込む様な事はしないと約束はしてもらいます。腹を壊されると後始末が面倒ですので」

 

沙月は目を丸くした。薄暗い台所の中、冷蔵庫から零れる光がその瞳を白く染めている。

 

「怒らないんですか」

 

「盗みを褒める気はありません。次からは隠れず、堂々と持っていけと言っているんです」

 

沙月は幾度か瞬きを繰り返した。冗談なのか。後になって罰を与えるための餌なのか。ジンの目元や声の調子から言葉の裏側を必死に探っていた。その疑い深さだけは影森家へ来た初日から何一つ変わっていなかった。

 

 

 

あの日、沙月は焼け落ちた孤児院の地下で見つかった。

 

焦げた梁の臭いが立ち込める建物の底に、人を商品として閉じ込めるための部屋が隠されていた。窓はなく、石壁は湿気を吸って黒ずんでいる。錆びた鎖が床を這い、その先端に付いた枷には乾いた血がこびり付いていた。壁を埋める無数の線は、ここへ連れ込まれた子供の数だったのか、陽の差さない場所で数え続けた日々だったのか、今となっては誰にも分からない。

 

その部屋の中央に沙月は座っていた。

 

衣服は血に濡れ、頬には火傷の痕が浮いている。彼女を囲んでいた大人たちは未だに死んでいなかった。にも拘わらず、誰一人として立つことが出来ず、目を見開いたまま床を這い回っている。虚空へ額を擦り付け、見えない誰かへ許しを請う声が淀んだ空気を異様に震わせていた。自らが売り払った子供の名を絶叫する者がいる。とうに死んだ母親へ縋る者もいた。彼らの目には過ぎ去った筈の罪が鮮やかな輪郭を取り戻し、現実よりも近い場所から覗き込んでいたのだろう。

 

沙月の左右には、二匹の巨大な蛇が控えていた。

 

『この娘に近付くな』

 

白蛇の旧が低く告げる。石室の壁に反響した声は深い洞の底から響く風に似ていた。

 

『次は、あなたたちを食べてあげようか?』

 

黒蛇の栄は歌うように笑った。

 

旧と栄。人の内へ堆積した過去を喰らい、その空白へ幻を流し込むツガイ。旧が奪った記憶を栄が蘇らせ、栄が見せた幻を旧が再び闇へ呑み込む。忘却と回顧。失われていくものと、失われた後に美しく膨らむもの。どちらか片方だけでは成り立たず、互いの尾を追いながら永遠に巡り続ける二匹のツガイは沙月を大切に仕舞い込み、守っていた。

 

沙月は凄まじい力を持つツガイの主でありながらそれを誇る素振りなど見せなかった。血で黒ずんだ自分の両手を見つめ、地下へ踏み込んだ影森の者たちへ値札の付いていない品物のような目を向けただけだった。

 

「私を売り物にしますか」

 

助けを求める声ではない。自分にまだ売られるだけの価値が残っているのか、それを確かめているに過ぎなかった。あまりに平坦な問いに誰も言葉を返せない中、影森ジンだけが一歩進み出た。

 

「立てますか」

 

差し伸べられた手を沙月は取らなかった。血に濡れた自分の指先を見下ろし、まるで傷んだ品物の値を申告するように抑揚のない声で告げる。

 

「私は、高く売れません。体は丈夫ではありませんし、言いつけ通りに振る舞うことさえ出来ません。芸を一度で覚えられるほど器用でもなく、頭もさして良くありません。それでも連れていくつもりですか」

 

「あなたを売るつもりはありません」

 

「……では、殺しますか。院長先生や、そこにいる大人たちをこうしたのは私です」

 

沙月を囲む者たちは、誰一人として立ち上がれずにいた。床へ爪を立て、既に過ぎ去った筈の何かに怯えながら掠れた声で許しを請い続けている。

 

「そのつもりもありません。そもそも私は、彼らの仲間ではありませんから」

 

「なら、私をどうするんですか」

 

問いかける声に、初めて微かな揺らぎが混じった。売られない。殺されない。その二つを除いた先に何があるのか、沙月には想像すらできないらしい。

 

差し伸べられた手は、まだ下ろされていなかった。

 

「郁実さん――あなたのお母様に頼まれて、私はずっとあなたを探していました」

 

母親、という言葉に、沙月の瞳が僅かに見開かれる。

 

「あなたが望むなら、影森家へ来ませんか」

 

結論から言えば、差し出された手を沙月は取らなかった。

 

代わりに旧がジンの腕へ巻き付き、栄が肩へ牙を立てた。毒を注いだ訳ではない。皮膚の下へ残された記憶を舐め、言葉に偽りがないか確かめたのだろう。二匹は長い沈黙の後、何も告げずに沙月の元へ戻った。それでも彼女は、自分から手を伸ばそうとはしなかった。伸ばした手を振り払われた経験が多過ぎて、誰かに触れるという発想そのものを忘れてしまったようだった。

 

結局、ジンは沙月のボロボロの体を抱き上げた。

 

それに対し沙月は暴れなかった。ただ、ひどく驚いた顔をしていた。人に抱えられた記憶がないのか、それとも抱き上げられた後には必ず悪いことが起きていたのかもしれない。腕の中の体は羽のように軽く、熱だけが異様に高かった。屋敷へ向かう車へ乗せられても眠ろうとはせず、用意された食物の残量を確かめては、扉までの距離を目で測る。最後に同乗者の顔を順に眺め、先ほどと位置が変わっていないことへ密かに安堵していた。

 

 

 

影森家へ来て最初の一月、沙月は布団で眠らなかった。押し入れの奥へ毛布を引きずり込み、壁へ背中を押し付けて夜を明かす事もしばしば。食事の後には必ずパンを懐へ隠し、入浴を勧めれば傷を見られまいと頑なに服を脱がなかった。誰かが頭上へ手を伸ばしただけで瞳の奥に恐怖と殺意が同時に灯った。叩かれる前に噛み付く獣のようだった。

 

それが三か月経った今では夜中に台所へ忍び込み、焼き豚を盗んだ挙げ句に自身のツガイへ罪を擦り付ける程度には図太くなっている。

 

実に喜ばしい変化ではある。

あるのだが。

 

「ところで、鍋は何処へやりましたか」

 

ジンが尋ねると、沙月は露骨に目を逸らした。

 

「鍋とは、何のことでしょう」

 

「一昨日、台所から消えた煮物の鍋の事です」

 

「存じません」

 

『沙月の寝台の下にあるよ』

 

栄が愉快そうに答えた。

 

「栄」

 

『もう中身はないけれどね。沙月が夜中に全て食べちゃったから』

 

「余計なことを言わないでください」

 

『その後、お腹が痛いって泣いてたじゃない』

 

「泣いていません。少々苦しんだだけです」

 

『儂の尾を握り締めながら、二度と食べ過ぎぬと誓っておったな』

 

「旧まで私を裏切るのですか」

 

『事実を述べたまでじゃ』

 

二匹から相次いで暴露され、沙月の頬が耳まで赤く染まった。ジンは口元を手で覆い、込み上げた息を小さく吐き出す。

 

「今、笑いましたね」

 

「……何の事だか」

 

「いいえ、笑いました。目が笑っています。旧、栄、この人からたった今の記憶を食べてしまってください。なるべく恥ずかしい所だけを丁寧に」

 

『嫌じゃ。腹を壊しそうだ』

 

『眼鏡の人の中、堅苦しくて美味しくなさそう』

 

「お前たち、主人に対する敬意が足りないのではありませんか」

 

『自分の食い意地を私たちへ押し付ける主人を敬うのは、なかなか難しいよね』

 

栄の容赦ない正論を前に、沙月は焼き豚を咥えたまま沈黙した。

 

 

 

その時、廊下の奥で床板が鳴った。

 

風に押された屋敷が軋んだだけとも思える、微かな音だった。しかし、旧と栄は同時に頭をもたげた。沙月の顔から赤みが引き、先ほどまで浮かんでいた幼さが消える。手にしていた焼き豚を床へ置き、音もなく立ち上がった。冷蔵庫の明かりを背負った瞳の奥で、焼けた孤児院の地下にいた少女が目を覚ます。闇の中から差し伸べられる手が救いとは限らないことを、身を削って学んだ者の目だった。

 

「ジンさん」

 

「ええ」

 

「誰かいます。こちらの様子を窺っています」

 

旧の白い体がうねりながら膨れ、人の背丈を超える大蛇へと姿を変えていく。栄が床へ降りると鱗の擦れる乾いた音が夜気を震わせた。二匹は頭の向きを僅かに違え、それぞれ別の暗がりへ目を凝らす。

 

『三人じゃ』

 

『屋根に一人。廊下の先には二人いるよ』

 

「影森家の方ではありませんね?」

 

「違います。うちの人間ならこんな下手な忍び方はしない」

 

ジンは立ち上がり、眼鏡の位置を直した。沙月は裸足のまま一歩前へ出る。足先は震えていない。恐怖を感じていない訳ではないだろう。彼女にとって恐怖は身を竦ませる鎖ではなく、生き延びるための刃だった。胸の内側が冷えるほど視界は澄み、敵の息遣いが鮮明になる。

 

「私がやります」

 

「構いませんが、殺さないでくださいね」

 

「努力します」

 

「努力では困ります」

 

「では、できる限り善処します」

 

「悪化してるじゃないですか」

 

沙月は床へ置いた焼き豚を名残惜しそうに一瞥してから、暗い廊下へ目を戻した。左右から寄り添った白蛇と黒蛇が彼女の肩越しに侵入者の潜む闇を見据える。月明かりを弾く四つの目が、夜の中へ細い亀裂を刻んだ。

 

『食べていい?』

 

栄が弾んだ声で尋ねる。

 

『手加減せぇ。沙月は加減を忘れがちじゃからな』

 

旧が低く釘を刺した。沙月は暫く考え込み、やがて口元だけで微笑んだ。その笑みには年相応の愛らしさが残っている。だからこそ続く言葉がひどく冷たく聞こえた。

 

「命までは食べてはいけません。今日ここへ来た理由と、帰り道だけにしておきましょう。自分が何処から来たのか分からなくなれば、二度と同じ場所へ戻ることもできませんから」

 

曲がり角の向こうで男が息を呑んだ。

 

次の瞬間、二匹の大蛇が廊下を塞ぐほど巨大な顎を開き、悲鳴さえ呑み込む勢いで闇へ躍りかかった。

 

先頭にいた男が懐から短刀を引き抜いた。けれど刃を振り上げるより早く、旧の尾が手首へ巻き付く。骨が軋む寸前で力を止められ短刀が乾いた音を立てて床へ落ちた。男は空いた手を懐へ差し入れようとしたが、その頭上から白い顎が覆い被さる。

 

喰われる。

 

「……ぁ」

 

そう悟った男は喉を引き攣らせた。しかし、牙が肉を裂くことはなかった。旧の口内に満ちた冷気が頭蓋の内側へ霜のように染み込んでいく。目に見えない細い鉤が記憶へ食い込み、ここへ至るまでの道筋を端から引き摺り出した。

 

夜半に落ち合った路地。

塀の低い場所。

 

屋敷まで数えた角の数。帰りに使う車を停めた空き地。

 

男の頭から抜け落ちた記憶が、白い蛇の喉へ淡い燐光となって吸い込まれていく。その中へ覆面をした何者かの姿が混じった。金を渡した手、命令を告げる声。屋敷の奥から連れ出すよう示された、少女の似顔絵。

 

それを見た沙月の表情から、最後に残っていた温度が消えた。

 

狙われていたのは、影森家でもジンの命でもない。

 

自分だった。

 

「なるほど。私を連れ戻しに来たんですね」

 

「違う!」

 

捕らえられた男が咄嗟に叫ぶ。しかし、何が違うのかを続けることはできなかった。旧がその理由を既に喰らい始めている。誰から命じられたのか。何のために忍び込んだのか。成功すれば幾ら受け取れる筈だったのか。繋がっていた記憶が根元から齧り取られ、言葉は意味を失った音となって口元から零れた。

 

「俺は……何を、しに……」

 

男の腕から力が抜けた。床へ膝を付き、周囲を見回す。見知らぬ屋敷の廊下で短刀を握っていたという結果だけが残り、そこへ至るまでの道がない。切り落とされた橋の向こうに自分だけが取り残され、足元には深い穴が開いている。

 

「返してくれ」

 

誰へ向けたものかも分からない懇願が震えた。

 

「俺の中から、何を取った……?」

 

『取ったのではない。喰ろうたのじゃ』

 

旧が男の頭を吐き出す。皮膚には傷一つ付いていない。それでも男は両手で頭を抱え、失われたものを押し留めるように蹲った。

 

背後にいたもう一人が踵を返した。

 

廊下へ飛び出し来た道を駆け戻ろうとする。その前へ栄の黒い巨体が滑り込んだ。男は脇の障子を蹴破って庭へ逃れようとしたが、破れた紙の向こうには雨戸があった。戸を開ける手間を惜しみ、別の廊下へ駆け込む。

 

角を一つ曲がった筈だった。

 

ところが男は、再び沙月たちの前へ飛び出してきた。

 

「な……」

 

男は足を止める。自分が走ってきた背後を振り返り、今度は反対側へ逃げた。襖を押し開け、暗い座敷を横切り、縁側へ繋がる戸を潜る。幾つもの部屋を抜けた末に辿り着いたのは、やはり同じ廊下だった。

 

三度目には、男の顔から血の気が失せていた。

 

『往生際が悪いのね。帰り道を忘れたのに、帰れると思ったの?』

 

天井近くから栄の声が降ってくる。

 

男が恐る恐る顔を上げると、黒い大蛇の腹に人の顔ほどもある鱗が幾つも浮かび上がっていた。磨かれた鏡のような鱗の一枚一枚へ、つい先ほど旧が喰らった道筋が映っている。

 

塀を越えた場所。潜った窓。屋敷へ忍び込む前に通った路地。

 

男が帰るために必要とする景色だった。

 

「道だ……」

 

縋るように手を伸ばした途端、全ての鱗に映った光景が僅かに歪んだ。右へ曲がった筈の道が左へ折れ、存在しなかった門が開く。路地は途中から窓のない地下室へ変わり、記憶の中にいない筈の子供たちが壁際へ並んで男を見ていた。

 

『そんなに欲しいなら返してあげる。でも、どれが本物だったかは自分で選んでね』

 

栄が笑う。

鱗の中から子供の手が伸びた。

 

男は耳を劈くような悲鳴を上げ、頭を庇って床へ倒れ込んだ。幻だと理解する余裕などなかった。栄が見せる過去は時として夢よりも鮮明に肌へと触れる。地下室の湿気が肺を満たし、錆びた鎖の臭いが鼻腔へこびり付く。壁際にいた子供たちが一斉に立ち上がると、男は四つ這いになって逃げ始めた。

 

『こら栄、遊び過ぎるでない』

 

『沙月のお願い通り、殺してはいないよ』

 

『違う。加減の話をしておるのだ』

 

旧の呆れた声が廊下へ響く。その時、屋根の上で瓦がカツン、と鳴った。

 

三人目が逃げ出したのだろう。梁を伝う足音が門の方角へ遠ざかっていく。沙月は天井を見上げたが、追いかけようとはしなかった。

 

「旧」

 

『分かっておるよ』

 

旧の尾が床を打つ。

 

すると屋敷の外から瓦の割れる音が響いた。暫くして庭の植え込みが大きく揺れ、葉を頭から被った男が転がり落ちてくる。塀へ向かって走っていた筈が、いつの間にか母屋の屋根へ戻されていたらしい。

 

「どうなってる……ここは何処だ!」

 

男は立ち上がろうとしたが栄の尾が窓から伸び、その胴を絡め取った。細い隙間から屋敷の中へ引き摺り込まれ、二人の仲間と並べて床へ転がされる。

 

「誰に命じられましたか」

 

沙月が尋ねた。

 

最初の男は口を開いたものの声を出せなかった。記憶の中を探ろうとする度、そこには白く濁った穴が広がっている。二人目は答える代わりにさめざめと泣き始めた。三人目に至っては何故自分が屋根の上にいたのかさえ分からず、仲間へ向けて怯えた目を彷徨わせている。

 

「俺たちは……仕事を頼まれて……」

 

「おや、どのような仕事ですか」

 

「それは……」

 

「誰から?」

 

「知らない。違う、知っていた筈なんだ。顔を見た。声も聞いた。金を……金を受け取って……」

 

男は懐を探り、硬い封筒を取り出した。中には新しい紙幣が入っている。しかし、それを誰から受け取ったのかは幾ら指で額を掻き毟っても戻ってこなかった。

 

沙月は封筒だけを取り上げ、ジンへ差し出した。

 

「記憶はなくても物は残ります。ここから調べられませんか」

 

「難しいですが、やってみましょう」

 

ジンは紙幣の番号と封筒の表面を確かめた後、静かに沙月を見た。

 

「帰り道まで喰わせる必要はありましたか」

 

「二度と来られなくする為です」

 

「門の外までどうやって帰すつもりですか」

 

「そこまでは旧と栄が運びますよ」

 

『儂らがか』

 

「食後の運動です」

 

『儂らは人の記憶しか食うておらぬ』

 

「細かいことを気にするツガイですね」

 

旧は不満そうに舌を鳴らしたが、言葉には従った。三人の男を長い体で一纏めにすると、そのまま廊下を引き摺っていった。栄は逃げようとする者の目の前へ帰り道の幻をちらつかせ、男がそちらへ手を伸ばす度に楽しげに消してみせた。

 

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