いつか何でもないと言えるその日まで。 作:嗚呼辺
三人とも縄で縛られ、水溜まりの染み込んだ土の地面へ膝をつかされている。腫れた瞼の下には濃い隈が沈み唇は血の気を失っていた。門を出入りする影森の者たちがその横を通っても反応はない。ただ時折、風に揺れた木の葉が肩へ触れる度に体を跳ねさせ、何もいない背後へ怯えた眼差しを向けていた。
「……やり過ぎたかもしれません」
縁側からその姿を眺めていた沙月は、焼き豚を挟んだパンへ齧り付きながら呟いた。口では反省らしいことを言っているものの声に深刻さはない。逃げられないよう足の記憶まで食べてしまおうと提案したのは沙月であり、さすがの旧に止められたことを都合良く忘れているようだった。
『かもしれぬ、ではない。明らかにやり過ぎじゃ』
傍らで沙月の肩に顎を乗せ、白い体を丸めていた旧が片目を開く。栄は沙月の膝へ顎を載せ、パンの隙間から覗く肉を物欲しそうに見つめていた。
『でも、命までは食べていないよ』
「帰り道だけに留める予定だったんです。少し加減が難しくて」
『お主が余計な注文を加えたからじゃろう。顔を見る度に腹立たしくなる記憶を消せ、屋敷へ来る途中で食べた物の味を消せ、靴紐の結び方を忘れさせろとな。最後のものに何の意味があった』
「逃げる際、不便かと思いまして」
『陰湿じゃな』
旧から向けられた呆れを意にも介さず沙月は二口目を頬張った。影森家へ来た当初は食事中に誰かが近寄るだけで皿を胸元へ抱え込んでいたが、今では栄が物欲しそうに鼻先を寄せてもほんの少し体を捻って避けるだけである。相変わらず分け与える気はないらしい。
『沙月、それ一口ちょうだい』
「嫌」
『昨日は半分くれると言ったのに』
「あれはその時の私が交わした約束です。今の私には関係ありません」
『過去を大切にしない主人だなぁ』
「旧の前でそれを言うのはやめてください。お説教が始まってしまうではありませんか」
『既に始めておるわ』
馴染んだ声が交わされる中、廊下の向こうから硬い足音が近付いてきた。沙月は咄嗟にパンを懐へ入れようとし、途中で手を止める。ここでは隠さなくていいと昨夜ジンに言われたばかりだったのを思い出したからである。ほんの短い逡巡の末、彼女はパンを膝の上へと戻した。
姿を現したジンは、三人の男から取り上げたらしい所持品を浅い盆へ載せていた。財布、折り畳まれた紙片、刃渡りの短いナイフ。何処にでもありそうな代物ばかりだが、その中に一つだけ異質な物が混じっている。親指の爪ほどの銅板だった。表面へ刻まれた蜘蛛に似た紋様を目にした瞬間、沙月の指からパンが滑り落ちた。
栄が素早く口を開き、地面へ落ちる寸前で受け止める。
『もらっていい?』
沙月は答えなかった。
胸の奥へ冷たい針が刺さり、そこから凍り付いていく。朝の陽射しは温かい筈なのに、剥き出しの腕には粟粒が浮かんでいた。息を吸う度、湿った石壁の臭いが鼻の奥へ蘇る。鉄錆の味。幼い泣き声。重い扉が閉ざされた後に響く、幾つもの足音。
銅板の紋様は、孤児院から売られていった子供たちの手首に押されていた焼き印と同じ形をしていた。
「沙月さん?」
ジンの声が、遠い場所から聞こえた。
「……それを何処で」
「男の一人が持っていました」
「捨ててください」
沙月の声は掠れていた。ジンが僅かに眉を寄せる。
「そんな物、持っていても役に立ちません。質の悪い銅です。売っても金にはなりませんし、何処かの悪趣味な飾りかもしれない。ですから、早く捨てた方がいいです」
「沙月さん」
「燃やしてください。溶けるまで焼いて、灰も残らないようにしてください。今すぐに」
言葉を重ねるほど呼吸が浅くなる。指先が細かく震え、爪が掌へ食い込んでいた。旧が体を伸ばして沙月の腕へ巻き付き、ひやりとした鱗を肌へ押し当てる。それでも胸を締め付ける縄は緩まなかった。
ジンは盆を傾け、銅板を手に取った。朝日を受けた蜘蛛の紋様が、鈍い赤色を帯びる。
「孤児院に関係する物ですか」
問いかけというより確かめるような口調だった。それに対し沙月は返事をしない。口を閉ざせば、知らないふりを続けられると思った。あの場所は焼けた。院長たちは正気を失い、自分を閉じ込めていた石室も跡形もなく崩れ落ちた。だから過去は炎の中で死んだ筈なのだと。
しかし銅板に刻まれた蜘蛛は生きていた。燃え跡から長い脚を伸ばし影森家の門を越えて、再び沙月の足首へ糸を絡めようとしている。
「これは、売られる子につける印です」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど幼かった。
「院長は首輪と呼んでいました。買い手が決まると、手首へ焼き印を押されます。同じ紋様を持つ人間なら、何処へ逃げても商品を見分けられるから。傷を削って消そうとした子もいましたが、見つかって酷く折檻されていました。それからは、誰も逃げようとしなくなりました」
「沙月さんには、ありませんよね」
「私は売れ残りでしたから」
沙月は笑おうとした。いつもならこの程度の言葉は平然と口にできる。自分を価値のない商品として扱えば、聞いた者がどのような顔をするのかも知っていた。けれど今は頬が引き攣り、乾いた吐息が漏れただけだった。
「何度か買い手に見せられましたが、痩せ過ぎていると言われました。目付きが気に入らないとも。従順なふりが下手だったのでしょうね。院長には、お前は飯を食うだけ損だとよく叱られていました。だから最後には、臓器だけでも売ろうという話になっていて……」
「もういい」
ジンの声が遮った。
鋭くはなかった。憐れみを含んでもいない。ただ、それ以上口にすれば沙月自身が傷口を掻き毟ると見抜き、静かに刃を収めさせる響きがあった。
「男たちがここへ来たのは、沙月さんを連れ戻す為ですか」
「分かりません」
「連中から奪った記憶は戻せますか?」
その問いに、沙月の膝へ顎を載せていた栄が顔を上げた。
『戻すだけならできるよ』
黒蛇の口元が人の笑みに似た形へ歪む。
『旧が食べたものは私のお腹に流れてくるから。消した記憶を元の場所へ返してもいいし、この場へ吐き出して皆で見ることもできる。ただし同じ形では戻らないかもしれない。記憶は柔らかいからね。一度噛めば歯形が付くし、呑み込めば胃液で端が溶けちゃうの』
「支障は?」
『本人たちに戻すだけなら少し頭が痛くなるくらいかな。でも沙月は見ない方がいいと思うなぁ』
栄の声から普段の無邪気さが消えていた。
『あの人たちの記憶には、沙月の匂いがたくさん付いているからね』
縁側を抜けた風が沙月の髪を頬へ貼り付けた。
栄が言うには、男たちは彼女を知っている。名前を知り、居場所を探り当て、影森家へ忍び込んだ。昨夜、侵入者の気配を捉えた時には何も感じなかった。敵なら倒せば良いが、その背後に孤児院と同じ蜘蛛が潜んでいると知っただけで体の芯が泥へ変わったように動かない。
「見ます」
ジンが答えるより先に、沙月は言った。
「栄、その記憶をここへ出してください」
『嫌だよ』
拒絶は迷いがなかった。栄は沙月の膝から降りると、黒い体を彼女の腰へ巻き付ける。
『怖いものを見て、平気なふりをするでしょう。沙月はそれが得意だから嫌~い』
「命令です」
『契約した時、言ったよね。私たちはあなたの願いを食べる。命令には従わないって』
「……では、お願いします。私に見せてください」
『それも嫌』
幼子の我が儘にも聞こえる口調だったが、栄は頑として動かなかった。旧も沙月の腕へ巻き付いたまま目を閉じている。主人の望みへ従うだけの存在ではない。二匹は沙月に寄り添い、時にはその行く手へ立ちはだかる。彼女が自分自身を粗末に扱おうとする時だけは決して道を譲らなかった。
ジンは銅板を盆へ戻すと、縁側から門前の男たちへ目を向けた。
「沙月さんは屋敷に残ってください。記憶は俺が見ます」
「嫌です」
「これは命令です」
「私は影森家の人間ではありません。あなたの命令に従う理由はないでしょう」
噛み付くように返した声が朝の庭へ鋭く響いた。
言ってから、沙月は息を飲んだ。
叱責が来る、と。そう思った。生意気な口を利くなと殴られ、食事を取り上げられ、暗い部屋へ閉じ込められる。頭では違うと分かっているのに、体は罰を待って硬直した。栄が腹の前へ回り込み、旧の白い体が腕を締め付ける。
しかし、ジンは手を上げなかった。
「それもそうですね」
短く言うと、盆の上から銅板を拾い、懐へ収めた。
沙月は拍子抜けした顔で彼を見上げる。
「……怒らないんですか」
「私をなんだと思っているんですか。反抗した程度で殴りませんよ」
「思ってはいません、けど。……ただ、その可能性も考えておくべきかとは……」
「なら覚えておいてください。少なくとも影森家では、口答えをした子供に食事を抜く習慣はありませんし、あなたが今夜の肉を盗む理由にもなりません」
「……それとこれとは別の話です」
「同じです」
言い切られ、沙月は不満げに唇を尖らせた。その仕草があまりに年相応だったため、ジンの目元から僅かに険が抜ける。
「命令は取り消します。ただし、記憶を見るなら俺も立ち会います。途中で止めると判断したら、従ってもらいますよ」
「断ったら?」
「部屋へ連れ帰ります」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、沙月の脳裏に初めて会った日の感触が蘇った。地下の冷え切った空気。血で濡れた服。突然体を持ち上げられた時に感じた、他人の腕の熱。逃げられない恐怖より先に自分の重さを誰かへ預けて良いのか分からず、息が止まりそうになった日の事を。
あれから三か月経った今も沙月はその答えを見つけられないでいる。
「……分かりました」
渋々頷くと、ジンは門の方へ歩き出した。沙月も縁側から降りようとして不意に袖を引かれる。振り返ると、旧が襟元から頭を覗かせていた。
『沙月。忘れるでないぞ。今のお主はあの地下室にいた頃とは違う』
旧の金色の瞳に、朝日が細く差し込んでいる。
『お主には儂らがおる。影森の眼鏡も、余計なほど世話を焼くだろう。この屋敷には食物があり、鍵の掛からぬ寝床もある。過去へ引き戻されそうになった時は今ここにあるものを数えれば良い。失ったものばかり見つめておると、栄が喜んで大きくしてしまうからな』
『人聞きが悪いなぁ』
栄が不満そうに尾を揺らす。
『私は大切なものだって大きくできるよ。沙月が忘れなければの話だけれどね』
二匹の声を聞きながら沙月は屋敷を振り返った。朝餉の支度をする音が奥から聞こえ、味噌汁の匂いが庭先まで流れている。昨夜こっそり開けた冷蔵庫。押し入れではなく布団で眠れるようになった部屋。勝手に持ち出した鍋を、まだ寝台の下へ隠していることまで思い出した。
門の向こうではジンが足を止めて待っていた。
帰る場所という言葉を沙月は信じていない。家族も、善意も、いつか失われる。人間は都合が悪くなれば約束を捨てる生き物であり、その考えを変えるつもりはなかった。
それでも歩き出した足は屋敷から逃げる方向ではなく、ジンの隣へ向かっていた。
門前へ辿り着くと三人の男が一斉に顔を上げた。焦点の定まらない瞳が沙月を捉え、失われた記憶の底から恐怖だけを掬い上げる。中央の男が喉を鳴らし、擦り切れた声を漏らした。
「ひ……柊木、沙月……」
掠れた声が、床を這うように届いた。
沙月の呼吸が止まる。
「……待ってください。旧、この男の記憶はまだ喰らったままの筈ですよね」
『無論じゃ。お主へ繋がる記憶は、欠片一つ残しておらぬ』
男は自分の名すら思い出せない。誰に命じられ、何のために影森家へ忍び込んだのかも失っている。その中から沙月の名だけを拾い上げられる筈がなかった。
それなのに男は、確かに彼女を呼んだ。
旧が鋭く鎌首をもたげ、栄の鱗が刃のように逆立つ。
「見つけた」
男の唇が引き攣る。
その口元に浮かんだものは笑みと呼ぶにはあまりに歪だった。乾いた歯の隙間から呻きとも歓喜ともつかない息が漏れ出る。しかし男自身は怯えていた。目尻には涙が滲み、指は助けを求めるように床を掻いている。それでも口だけが見えない糸に吊られたように笑っていた。
「やっと、見つけたぞ」
黒いものが男の瞳を横切った。
はじめは灯りが映り込んだだけに見えた。しかし影は眼球の奥で身を捩り、節くれ立った八本の脚をゆっくりと広げていく。蜘蛛だった。瞳孔へ巣食うように腹を据え、黒い脚を血管へ絡ませながら沙月を見つめている。
もっと深い場所へ埋め込まれ、宿主の意識を失ってなお動く、別の何かだった。
男の喉が大きく膨らんだ。声を押し戻そうとする抵抗を食い破り、湿った囁きが口から這い出す。
「お前を買った御方が、ずっと待っている」