いつか何でもないと言えるその日まで。   作:嗚呼辺

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怒っている

 

「お前を買った御方が、ずっと待っている」

 

木立では鳥が鳴き、屋敷の奥から朝餉を整える音が聞こえている。昇ったばかりの陽は塀の上を淡く照らし昨夜の名残である露が草葉から転げ落ちた。穏やかな夜だったのに、男の一言はその風景から色を奪い、沙月の足元だけを陽の届かない地下室へ塗り替えていった。

 

買った。

 

その言葉が頭蓋の内側で幾度も反響する。自分は売れ残ったのだと、沙月は思っていた。痩せ過ぎていたから。従順ではなく、買い手へ愛想よく笑うこともできなかったから。院長に役立たずと罵られる度、売られずに済んだ安堵を胸の奥へ隠し、その代わりのように腹を蹴られる痛みへ耐えてきた。

 

だが、違った。

 

売れなかったのではない。

 

とっくに買われていたのだ。

 

「誰にですか」

 

沙月は男を見下ろした。自分の声とは思えないほど平静だったが、指先から感覚が失われている。爪を立てても痛みすら届かない。旧が腕へ回した体を強く締め、栄は一歩前へ出て男との間へ割り込んだ。

 

男の口角が、目に見えない糸で吊り上げられたように歪む。

 

「御方は、御方だ。俺たちは顔を知らない。名前を聞くことも許されていない。けれど声なら覚えている。暗い部屋の奥から聞こえてきた。お前が実るまで待て、と仰った」

 

「実る?」

 

「苦しませろ。飢えさせろ。誰も信じられなくなるまで、救いを見せては奪え。そうすれば、いずれ蛇が現れる」

 

沙月の肩に巻き付いた旧が、低く唸った。

 

地面へ膝をついた男は、自らの言葉が何を意味するのか理解していないらしい。焦点の定まらない瞳を宙へ向け、教え込まれた文句をなぞるように唇だけを動かしている。

 

「忘れたいと願うほどの苦しみを与えろ。忘れさせたくないと思うほどの憎しみを植え付けろ。二つの願いが同じ深さへ達した時、古き蛇と栄える蛇は目を覚ます。だからお前は、あの場所に置かれていた。売れ残ったんじゃない。誰にも売らないよう、初めから値が付けられていたんだよ」

 

腹の底で何かが裏返った。

 

朝に食べた物が喉元までせり上がり、沙月は口を押さえた。視界が大きく傾く。足元の土が柔らかな泥へ変わり、体を地下へ引きずり込もうとしていた。

 

孤児院で過ごした日々が、ばらばらの光景となって瞼の裏へ浮かぶ。腐りかけた食物を巡って殴り合わされた夜。逃げようとした子供が見せしめに折られた指。優しい院長が豹変した冬。あれらが単なる貧困や大人の悪意から生まれたのではなく、一人の人間を壊すために用意されたものだったとすれば、自分の人生は初めから誰かの掌で転がされていたことになる。

 

偶然ではなかった。

 

不運ですらなかった。

 

旧と栄を呼び出すためだけに、多くの子供が地獄へ巻き込まれた。

 

「吐きそうなら、下を向いていてください」

 

耳元でジンの声がした。いつの間にか肩を支えられている。沙月は反射的に身を引こうとしたが、膝へ力が入らず、離れればその場へ崩れ落ちると分かった。

 

「触らないでください、平気です」

 

「平気な奴は、立つことを忘れたりしない」

 

言われて初めて、沙月は自分の足が震えていることに気付いた。震えは脛から這い上がり、歯の根を細かく鳴らしている。ジンの手を振り払おうと腕を上げたものの、その手さえ途中で止まった。

 

男は笑い続けていた。

 

「お迎えに上がったんだ。さあ、帰ろう。御方は怒っていない。蛇を手に入れたお前なら、今度こそ立派な商品になれる」

 

その声に重なるように、栄の喉から軋んだ音が漏れた。怒りに膨れ上がった黒い体が地面へ濃い影を落とし、金色の瞳が縦に細まる。

 

『その口、食べてもいい?』

 

「待ってください」

 

制したのはジンだった。

 

『でも、嫌なことを言うよ』

 

「こいつ自身の言葉じゃありません。これは誰かに埋め込まれたものです」

 

ジンは沙月を支えたまま、男の顔へ目を凝らした。笑みの形が不自然だった。頬は引き攣っているのに、目には喜びがない。歯の隙間から漏れる呼吸は浅く、首筋では血管が膨れ、皮膚の下を細長い虫が這っているように脈打っていた。

 

旧が男の足元へ滑り寄り、白い頭をゆっくり持ち上げる。

 

『昨夜、こやつの記憶は確かに喰ろうた。名も命令も、屋敷へ至る道筋さえ残しておらぬ。しかるに、この言葉だけが口から出る。記憶ではない。もっと深い場所へ打ち込まれた楔じゃ』

 

「外せますか」

 

沙月が尋ねると、旧は暫く男の瞳を覗き込んだ。

 

『容易ではない。無理に抜けば、この者の心ごと裂けよう』

 

「構いません」

 

冷たい言葉が口から滑り落ちた。

 

ジンの指へ力が籠もる。

 

「沙月さん」

 

「この人たちは私を攫うために来ました。屋敷へ入り込み、誰かを傷つけたかもしれないんです。それに、この男の頭の中を調べれば、買い手が何者なのか分かる。壊れたところで困りません」

 

「なら、何故そいつを見ないんですか」

 

沙月は息を詰めた。

 

男を見下ろしているつもりだった。けれど実際には、胸元より下へ視線を落としたまま、その顔を避け続けている。目を合わせれば、男の奥から覗いている何者かと目が合う気がした。

 

「さっきはツガイに命を食べるなと言っていたでしょう」

 

「あれは、面倒な後始末を増やしたくなかっただけです」

 

「あなたは殺したくなかった」

 

「勝手に決めないでください」

 

「では、自分で見てください。彼らが壊れても構わないと、本当にそう思っているならば」

 

苛立ちが胸へ差し込み、凍り付いていた感覚を乱暴に揺さぶった。沙月は顔を上げ、男を睨みつける。相手の瞳には黒い影が揺らめき、蜘蛛の脚に似た亀裂が白目へ広がっていた。それでも、その顔自体は何処にでもいる中年の男だった。額には古い傷があり、顎には剃り残した髭が見える。怯えに濡れた瞳の奥で、本人の意識が助けを求めるように微かに瞬いていた。

 

沙月は唇を噛んだ。

 

この男が善人だとは思わない。命令されたからといって、何の罪もないわけではない。それでも、彼の心を引き裂けば、自分を地下へ閉じ込めた者たちと同じ場所へ足を踏み入れることになる。

 

何より、ジンに見抜かれたことが腹立たしかった。

 

「……では、壊さずに取り出してください」

 

『随分と難しい注文をするのう』

 

旧が溜め息をつく。

 

「できないんですか」

 

『安い挑発には乗らぬぞ』

 

「昔はもっと強いツガイだったと聞きましたが、寄る年波には勝てないようですね」

 

『誰が老いぼれじゃ。よかろう、そこまで言うならやってやるわ』

 

旧の白い体が膨れ上がった。地を擦っていた腹が離れ、男を見下ろす巨大な蛇の姿へ変わる。その口が開くと、牙の奥には喉ではなく、星のない夜を押し固めたような闇が広がっていた。

 

『栄。食らった記憶を逆に辿れ。この楔が打ち込まれた時まで戻るぞ』

 

『できるけれど、沙月も見ることになるよ』

 

栄は振り返り、案じるように沙月を見つめた。

 

『本当にいいの?』

 

「見ます」

 

『怖くても?』

 

「怖くありません」

 

『そういう嘘は嫌い』

 

「……怖くても見ます。だから、傍にいてください」

 

栄の瞳が丸くなった。

 

沙月が自分から助けを求めることは滅多にない。どれほど追い詰められても、手を伸ばせば弱みを握られると考え、一人で耐えようとする。今の言葉がよほど嬉しかったのか、栄は頭を沙月の胸元へ擦り付けた。

 

『うん。ずっといるよ』

 

旧が男の額へ牙を突き立てた。

 

血は流れなかった。代わりに、牙の触れた場所から細い光が引き出される。古びた糸のようなそれは空中で幾重にも絡まり、やがて蜘蛛の形を作った。影だけでできた蜘蛛が脚を蠢かせ、逃げるように男の頭へ戻ろうとする。

 

栄が鋭く息を吸った。

 

周囲の景色が歪んだ。

 

朝日に照らされていた門が遠ざかり、塀の輪郭が水面へ落とした墨のように溶けていく。鳥の声は途絶え、代わりに車輪が濡れた路面を踏む音が響いた。冷たい雨の匂いが鼻を刺す。

 

沙月が立っていたのは、見覚えのない屋敷の中だった。

 

窓には厚い暗幕が垂れ、昼夜の判別すらできない。壁一面を覆う棚には、人間の歯や干からびた指、瓶詰めにされた眼球が陳列されていた。部屋の中央には椅子が一脚置かれ、昨夜の侵入者たちがその前で深く頭を下げている。

 

椅子には誰も座っていない。

 

しかし、その背後に垂れた暗幕の奥から、女の声が聞こえた。

 

『柊木沙月を連れ戻しなさい』

 

老いているのか、若いのかも分からない声だった。耳へ届く度に調子が変わり、幼子の囁きから皺枯れた老婆の声へ移り変わっていく。

 

『傷を付けてはなりません。あの娘の体は私のものです。蛇にも手を出さぬように。旧は触れた者の過去を喰らい、栄は失われた過去を膨らませる。二匹が揃えば、死者の記憶さえ現世へ引き戻せるでしょう』

 

暗幕が僅かに揺れた。

 

その隙間から、白く細い指が伸びる。爪は異様に長く、節には黒い糸が幾重にも巻き付いていた。

 

『私は、もう一度あの人に会わなければならない。そのために十五年も待ったのです。あの娘へ幸福など与えてはなりません。心が満たされれば、蛇は眠ってしまう。絶望だけが、黄泉へ届く穴を開くのですから』

 

沙月の肺から息が抜けた。

 

旧と栄が自分の苦しみから生まれたことは知っていた。忘れたいと願った。自分を傷つけた者たちへ、何をしたのか永遠に思い知らせたいとも願った。その相反する願いに引かれ、二匹は暗い地下室へ現れた。

 

だが、その苦しみすら誰かに育てられたものだった。

 

ならば二匹との出会いも、契約も、自分の意思ではなかったのだろうか。

 

視界の端で、黒い影が動いた。

 

暗幕の隙間から伸びた糸が、沙月の足首へ絡み付いている。幻の筈なのに冷たい。糸は皮膚へ食い込み、彼女を椅子の方へ引き寄せた。

 

『おいで、沙月』

 

暗幕の奥から声が呼ぶ。

 

『お前は私に買われた。苦しみも、流した血も、その心に生まれた憎しみさえ私のもの。お前自身に選べることなど、初めから何一つありません』

 

足が床を滑った。

 

沙月は踏み留まろうとしたが、力が入らない。蜘蛛の糸が脛を這い、膝へ絡み付く。暗幕の奥に巨大な何かがいる。死者への執着で膨れ上がり、他人の人生を餌としか見ていない怪物が、十五年分の暗闇を開けて待っていた。

 

不意に、沙月の肩が後ろへ引かれた。

 

「沙月さん!」

 

ジンの声だった。

 

幻へ巻き込まれている筈の彼が、沙月の腕を掴んでいる。感触は確かだった。痛みすらあるほど強い。

 

「それはあなたの過去じゃない。あの男に埋め込まれた他人の記憶です!」

 

「私はあの人に買われたんです。孤児院へ置かれたのも、旧と栄に出会ったのも、全てあの人が仕組んだ。私がここにいることまで――」

 

「影森家へ来たのは、そいつの筋書きにない筈です」

 

沙月の言葉が途切れた。

 

ジンは暗幕の向こうへ冷えた眼差しを向けながら、沙月の腕を離さない。

 

「あなたが孤児院を焼け出され、俺たちに拾われたことはそいつの予定に入っていなかった。夜中に冷蔵庫を漁り、食べ過ぎて腹を壊したのも違うでしょう。少なくとも、寝台の下へ鍋を隠すよう命じられたとは思えない」

 

「今、その話を出す必要がありますか?」

 

「顔色が戻りましたね」

 

腹立たしさに頬が熱くなった。胸を塞いでいた恐怖の合間へ、無理やり風穴を開けられたようだった。

 

足へ絡み付く糸が強く引かれる。

 

『惑わされてはいけません、沙月。そこはあなたの居場所ではない』

 

声が一段低くなる。

 

『影森はお前を利用しているだけです。用が済めば捨てられる。人は変わる。優しさは腐る。お前が一番よく知っているでしょう』

 

沙月は答えなかった。

 

否定できなかった。昨日まで優しかった人間が、明日も同じとは限らない。影森家が永遠に自分を守る保証など何処にもない。ジンの手が、いつか自分を地下へ突き落とす可能性も消えた訳ではなかった。

 

それでも、三か月の間に見てきたものまで嘘になるわけではない。

 

眠れない夜、廊下の外で朝まで気配を残していた者がいた。隠した食物が腐らないよう、黙って新しい物へ取り替えられていた。風呂を拒む沙月のため、誰にも会わずに使える時間が決められた。壊した皿の代金を体で払えと言われることもなく、熱を出した日には薬と温かな粥が運ばれてきた。

 

明日も続くかは分からない。

 

けれど、昨日まで確かにあったものを、自分から無かったことにする必要はない。

 

沙月は足元へ目を落とした。黒い糸が皮膚へ食い込み、蜘蛛の巣に捕らえられた虫のように体の自由を奪っている。

 

その糸へ、白い牙が突き立った。

 

『沙月の過去を決めるのは、お主ではない』

 

旧が糸を噛み千切る。断面から黒い液体が飛び散り、床へ触れる前に煙となって消えた。

 

反対側から栄が現れ、沙月の頬へ頭を寄せる。

 

『これから増えるものは、もっとあなたのものだよ』

 

二匹の声が重なった。

 

沙月は息を吸った。湿った部屋の空気ではなく、記憶の外側にある朝の匂いが胸へ流れ込む。味噌汁の香りがした。露に濡れた土と、古い木の匂いもする。肩へ添えられたジンの手からは、確かな体温が伝わっていた。

 

暗幕の向こうで何かが蠢く。

 

『沙月』

 

「お断りします」

 

初めて、沙月は自分からその声へ顔を向けた。

 

「確かに私は、あなたに買われたのかもしれません。ですが、代金を受け取った覚えはありませんし、売買へ同意したこともない。契約書へ署名もしていなければ、捺印すらしていません。そんな杜撰な取引で、私の所有権を主張されるのは迷惑です」

 

『お前は私の――』

 

「それから、私は今の暮らしをそれなりに気に入っています。食事は一日に三回出ますし、夜中に冷蔵庫を開けても殴られません。少々口煩い人はいますが、孤児院よりは遥かにましです。ですから帰りません。どうしても私が欲しいのなら、あなた自身で迎えに来てください」

 

沙月の口元へ、薄い笑みが浮かぶ。

 

「その時は旧と栄が、あなたの大切な記憶から順番に食べます」

 

暗幕の奥から、耳を劈く絶叫が迸った。

 

部屋の輪郭が砕け、棚に並んでいた瓶が一斉に割れる。蜘蛛の影は身を捩り、最後に白い指だけを伸ばして沙月へ触れようとした。旧がその指へ噛み付き、栄が記憶の景色を大きく呑み込む。

 

世界が暗転した。

 

次に目を開けた時、沙月は影森家の門前へ立っていた。

 

朝日は先ほどより高く昇っている。足元では男が気を失い、糸の切れた人形のように項垂れていた。白目へ広がっていた蜘蛛の影は消えている。呼吸は浅いが、心は壊れていないようだった。

 

沙月の膝から力が抜けた。

 

地面へ倒れる前に、ジンが腰を支える。

 

「立てますか」

 

初めて会った日と同じ問いだった。

 

あの日の沙月は、差し出された手を取らなかった。誰かの手には必ず裏があり、縋れば最後には振り落とされると信じていた。

 

今も、その考えが全て消えた訳ではない。

 

それでも沙月は暫く迷った末、ジンの服の袖を掴んだ。

 

「……少しだけ、無理です」

 

「そうですか」

 

ジンは余計なことを言わず、沙月を抱き上げた。突然浮いた体に驚き、彼女は反射的に首元へ腕を回す。

 

「歩けないとは言いましたが、抱えてほしいとは言っていません」

 

「暴れないでください。落ちますよ」

 

「せめて背負ってください。これは恥ずかしいです」

 

「注文が多いですね……」

 

抗議しても下ろされる気配はない。旧はジンの肩へ移り、栄は沙月の腹の上で満足そうに丸くなった。門前に残された男たちの処理を影森の者へ命じ、ジンは屋敷へ向かって歩き出す。

 

沙月はその肩越しに門を見た。

 

門の向こうへ続く道は、何処かであの暗い屋敷へ繋がっている。蜘蛛の糸を操る買い手は生きており、十五年もの間、自分と旧たちを待ち続けていた。これで諦めるとは思えない。次はさらに多くの人間を送り込んでくるだろう。

 

怖くないと言えば、嘘になる。

 

けれど、その恐怖に帰る場所まで明け渡してやるつもりはなかった。

 

「ジンさん」

 

「何ですあ」

 

「昨夜、私が持ち出した焼き豚ですが、まだ残っていますか」

 

「あなたが全て食べたでしょう」

 

「予備があるかと聞いています。今朝は色々あって、少しお腹が空きました」

 

「さっきパンを食べていた筈ですが」

 

「あれは栄に奪われました」

 

『落としたから拾ってあげたんだよ』

 

「私の口へ返すという選択肢もあったでしょう」

 

『土が付くところだったから、私のお腹で預かっておいたの』

 

「それを世間では横取りと言います」

 

腹の上で言い争いを始めた一人と一匹に、ジンが呆れた息を吐く。

 

影森家の門が背後で閉じた。

 

その音は沙月を閉じ込める扉とは違っていた。外から迫るものを遮り、自分を内側へ置いてくれる音だった。

 

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