第一話 新入り
その電子掲示板は、ひどく古かった。
薄い灰色の背景に、小さな文字が窮屈そうに並んでいる。画像を一枚開くのにも妙に時間がかかるし、最近の交流サイトのように、興味のありそうな話題を勝手に拾い上げて並べてくれる親切な機能もない。
『東部山岳圏・第三期土器について』
『修復材の経年変化報告』
『南岸地方の葬送用織物』
そんなそっけない題名が、ただ黙々と縦に連なっているだけだった。
当然、利用者も多くはない。
大学の研究者、地方資料館の職員、文化財の保存修復を請け負う職人、発掘現場を渡り歩く作業員。それから、仕事でもないのに何十年も古代史を追い続けている筋金入りの物好きたち。
常連のあいだでは、正式名称の《古層文化資料交換板》よりも、単に「古層板」という呼び名で通っていた。
そこに、ある日ひょっこりと新しい名前が現れた。
《RDN》
最初の書き込みには、「はじめまして」の挨拶すらなかった。
RDN
> 第六層出土とされていますが、この把手の接合だけ第四期後半の様式に見えます。
> 写真の角度の問題でしょうか。
> 同遺跡47区画の整理報告に近いものがありました。詳しい方いらっしゃいますか?
最初に反応したのは、現場叩き上げの古参だった。
古狸@野良発掘
> 47区画まで見たのか。
> よく見つけたな。
返信はすぐに返ってきた。
RDN
> あ、やっぱり似てますよね!
> でも周りの土の色がちょっと違うので、上の層からの混入なのかなと思って。
> 私、この地方の土器はそんなに詳しくないんです。
そこへ、土器に詳しい別の常連が割り込んでくる。
別の利用者
> 接合技法だけなら第四期寄り。
> ただし第六層からも類例は二点ある。
RDN
> 二点あるんですか!
> それ、論文あります?
別の利用者
> 古い。紙媒体。
RDN
> 読みたいです。
画面の向こうでやり取りを追っていた古狸は、小さく鼻を鳴らした。
――学生だな。
大学生か、せいぜい大学院に上がったばかりの若手だろう。
細かいところへ目を留める勘はあるが、変に知ったかぶりをしない。何より反応が速かった。書名や巻号を少し教えてやれば、翌日には周辺の関連資料まで一通り読み込んで、また新しい疑問を抱えて戻ってくる。
数週間が経つころには、古層板の空気にも小さな変化が起き始めていた。
誰かが古い染織品の写真を貼って問いかける。
別の利用者
> この染め、どこだと思う?
すると、すぐに別の常連が短く継ぎ足した。
別の利用者
> RDNが好きそう。
また別のスレッドでは、用途の判然としない器の写真を前に、こんなやり取りが交わされる。
別の利用者
> 酒器っぽいけど用途不明。
別の利用者
> らでん呼んでこい。
いつの間にか、アルファベット三文字の無機質な名前は、誰からともなく「らでん」と読まれるようになっていた。呼ばれた本人も、特にそれを訂正する様子はない。
もっとも、らでんは何でも知っているわけではなかった。
摩耗した古代文字の拓本画像が上がったときなどは、誰よりも早く飛びついてこう書き込んだ。
RDN
> 全然読めません!
> これ何語ですか!?
古代言語を専門にしている常連が腰を据えて解説を始めると、らでんは待っていましたとばかりに食いついた。
RDN
> なるほど。
> じゃあ、一行目と三行目で語尾の形が違うのは、話者が違うってことですか?
別の利用者
> そこを見るか。
RDN
> 面白いですねこれ!
そこから三時間、普段は静かなスレッドが途切れずに伸び続けた。
らでんは、自分が知らないことを少しも恥じなかった。むしろ、見たこともない文字や技法に出会うと、画面越しにも分かるほど弾んだ反応を返す。誰かが自分の専門分野について熱を入れて長々と書き連ねても、決して「長い」などと茶化したりはしない。
RDN
> 続きあります?
と、催促するように次の書き込みを待つ。
そのまっすぐな食いしん坊ぶりが、偏屈者の多い古層板の古参たちには妙に気に入られた。
ある夜、雑談混じりにこんな書き込みが並んだ。
みずき堂
> 最近の若い方にしては珍しいですね。
> これだけ長い話を、よく飽きずに聞けるなあと感心してしまいます。
古狸がすぐに茶々を入れる。
古狸@野良発掘
> 案外、暇を持て余した年寄りかもしれんぞ。
さっきまで解説していた常連も、呆れたように返した。
別の利用者
> いや、文章の勢いが若い。
> やっぱり学部生くらいじゃないか。
結局、その夜の予想はどれも当たらなかった。
そのころ、画面の向こう側で、らでんは椅子の上にちょこんと膝を抱えて座っていた。
机の横には、床に置かれたままの学校の鞄。机の上には、明日の提出分がまだ半分残った宿題のノートが開かれている。
年齢は、十一歳。
本人は掲示板の誰にもそれを明かしていなかった。隠そうとしたわけではなく、ただ誰にも聞かれなかったからである。
◇ ◇ ◇
数日後、収蔵庫の整理写真を投稿したのは、地方資料館に勤めるみずき堂だった。
みずき堂
> 収蔵庫整理中。
> 登録名「木製装飾具」。詳細不明。
> 受入簿が現在の様式に切り替わるより、ずっと前から眠っていたものらしいです。
添えられていたのは、少し照明の暗い収蔵庫の写真だった。
スチール棚と保存箱、手書きの番号札。その真ん中に、年季の入った黒ずんだ木製品がぽつんと置かれている。丸みを帯びているのに先端が妙に反っていて、鳥とも魚ともつかない不思議な形をしていた。
古参たちは、思い思いに見立てを書き込んでいく。
祭祀具の一種ではないか。いや、古い船飾りだろう。梁に掛ける家屋装飾か、あるいは子供の玩具か。
みずき堂は一つひとつの意見に丁寧な礼を返していたが、どれも決定打には欠けるようで、判断を決めかねていた。
学校から帰ってきたらでんがそれを見つけたのは、投稿から数時間が経ったあとだった。
鞄を机の脇へ下ろし、画面の写真をぐっと拡大する。黒ずんだ木肌を目でなぞるうち、らでんの視線がある一点でぴたりと止まった。
RDN
> これ、装飾品じゃなくないですか?
少しして、みずき堂から返信が来る。
みずき堂
> どこでそう思われましたか?
RDN
> 下側の擦れ方です。
> 棚とかに立てて飾ってただけなら、ここだけこんなに丸く削れない気がします。
自分の指先で画面の下縁をなぞってみる。ただ置いてあった傷ではない。誰かが何度もここへ手を添えるか、何かに当てて動かしたような減り方だ。
しかも、この反り上がった先端の形には、どこかで出会った覚えがあった。
RDN
> あと、ちょっと待ってください。
そう打ち込むなり、らでんは椅子から飛び降りた。
本棚の下段に積み上げた古書や、図書館で複写してきた郷土資料の束を片っ端から引っ張り出す。どこだったか。土器の報告書ではない。もっと新しい、海沿いの町の古い記録――。
ページをめくる指がもどかしい。十分、二十分と時計の針が進み、床の上に紙の束がいくつも広がっていく。
四十分後、ようやく目当てのページを掘り当てたらでんは、資料を抱えたまま椅子へ飛び乗った。
RDN
> ありました。
古い地方誌の巻号とページ番号、祭りの記録、そして粒子の粗い白黒写真。
そこには、よく似た木製品を持った男の姿が写っていた。
RDN
> これじゃないですか?
> 北西沿岸部の「渡り灯」っていう祭具です。
> 舟を出す時に、先頭の人がこれを持つみたいです。
すぐにみずき堂から反応があった。
みずき堂
> よく見つけましたね……!
> ただ、うちの資料館とはまるで地域が違いますね。
> これが『渡り灯』だとすると、今度はうちにある理由が分からなくなりますが。
RDN
> そうなんです。
> だから、何でそっちの資料館にあるのかは私も分からなくて。
そこへ、ログを読んでいたらしい古狸が口を挟んだ。
古狸@野良発掘
> たまたま似た意匠がよそにもあった可能性は?
RDN
> あります。
> でも、写真の右側を拡大して見てください。紐を通す穴の位置まで同じです。
その一言を境に、古層板の空気が変わった。
みずき堂が古い収蔵庫の記録箱をひっくり返しに行き、古狸が過去の地方紙の記事を洗い始める。別の常連が北西沿岸の郷土誌を取り寄せ、保存修復を専門にする職人が写真の木目から樹種の見立てを書き込んだ。
大人たちがそれぞれの手を動かすあいだ、らでんも画面にかじりついていた。質問が飛んでくれば手元の資料を確認して答え、専門用語が分からなければ遠慮なく聞き返しながら、地方誌の小さな活字を一字ずつ指で追った。
そうして三日後、資料館の奥から一枚の古い受入台帳が見つかった。
今から五十七年前。
沿岸部を巡回していた民俗調査員から寄贈された品だった。当時の担当者が用途を確認できないまま、「木製装飾具」とだけ記して処理していたらしい。
ただ、それだけのことだった。
誰かに盗まれたわけでもない。裏に大がかりな陰謀があるわけでもないし、歴史を塗り替えるような大発見でもない。
ただ、預けられた場所で名前を失っていた。
その名前が、五十七年ぶりに戻ってきたのだ。
◇ ◇ ◇
それから数週間が過ぎたある日、みずき堂が新しい写真を一枚投稿した。
ガラスの展示ケースの中、きれいに照明を当てられた木製品の脇に、真新しい小さな説明板が添えられている。そこには、こう印字されていた。
『沿岸送舟祭具《渡り灯》』
らでんは、キーボードの上に指を置いたまま、しばらく動けなかった。
画面の向こうで、古狸が呼びかける。
古狸@野良発掘
> らでん?
数分遅れて、ようやく短い返信が上がった。
RDN
> すみません。
> ちょっと嬉しくて。
> 家の画面で写真を見てただけなのに、ちゃんと名前が戻ることってあるんですね。
みずき堂が、すぐに温かな返事を重ねた。
みずき堂
> あなたが気づかなければ、ずっと「木製装飾具」のままでした。
> あの擦れに目を留めたのは、あなたですよ。
RDN
> いやいやいや!
> 皆さんが台帳とか新聞とか全部調べてくれたからですよ!
慌てて否定するらでんに、古狸がぶっきらぼうな一行で締めくくった。
古狸@野良発掘
> 最初に引っ掛かったのはお前だ。
らでんは、もう一度ゆっくりと画面を見つめた。
ガラスケースの向こうに収まった、黒ずんだ木の祭具。
画面の向こうのどこかには、今この瞬間もその実物がある。
昔、誰かが木を削って作り、誰かが舟を出すときに手にし、大切にしてきた物。それが五十七年のあいだ、誰にも意味の分からない木片として暗い棚で眠っていた。
けれど、気にかける人間が集まって線を繋ぎ直せば、失われた意味はちゃんと取り戻せる。
説明板の文字が書き換わっても、木製品の下側の丸い擦れは、最初の暗い写真と少しも変わっていなかった。
それなのに、もう正体不明の木片には見えない。
もし、あのガラスケースの前に自分で立って実物を覗き込んだら、写真では気づけなかった細かな傷や木肌の凹凸が、まだいくつも見つかるのだろうか。
十一歳のらでんは、展示ケースの写真をもう一度クリックして大きく開いた。
四角い画面の中だけで見終えてしまうのが、なんだかひどく惜しくなっていた。
私のやりたいことって、なんなんだろう。