儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第十話 第三次試験 今、重くした

 はじめは二歩目を出そうとした。足元で小さな石が割れた。それだけの音が不自然なくらい耳に残った。

 前にはガロがいる。その少し先にミナ。銀色のケースを抱えたハイン。さらに先には旧採石場へ続く道がある。

 ガロの判断は正しい。らでんも行けと言った。崩落はまだ止まっていない。追手も近づいている。

 戻れば自分まで落ちる可能性がある。だから行けばいい。

 

 はじめは三歩目を出そうとした。出なかった。

 足が土へ張りついたようだった。

 

---

 

 背中の向こうでまた鉄が軋む音がした。振り返らなくても分かる。らでんが掴んでいる柵だ。古い。いつまで持つか分からない。

 でもそれだけではなかった。

 昨日の夜の飛行船。エンジンの低い振動。月明かりの窓の外の雲。

 自分が言った。

 『仲間だな』らでんは笑って『まあ、仲間ですね』と答えた。

 それだけ。重たい約束なんかしていない。――でも。

 

 はじめが呟いた。声が土煙に吸われる。

 

「……無理」

 

 ガロが振り返って聞いた。

 

「何?」

 

 はじめも振り返った。

 崩れた道の向こうで鉄柵に両手でぶら下がっているらでんがいる。顔色はよくない。

 健康な右肩を柵へ押しつけ、痛めた左肩への負担をできるだけ減らそうとしている。指は白くなっている。

 その下を小石が何度も谷底へ落ちていく。落ちる間隔が長く、底の深さを物語る。目が合った。

 らでんの表情が変わった。

 

 らでんが言った。

 

「……はじめさん?」

 

 はじめは来た道へ戻った。崩れた土の縁ぎりぎりで止まる。

 ガロがはじめの腕を取って言った。

 

「おい!」

 

 今度は、はじめは振りほどかなかった。代わりにガロを真っ直ぐ見た。

 

「戻る」

「駄目だ」

「地盤が死んでる」

 

 土の割れ目がある。はじめが答えた。

 

「分かってる」

「分かってない。そこへ一人増やせば二人落ちる」

 

 はじめが言った。

 

「でも戻る」

 

 ガロの眉間に皺が寄った。怒っているわけではない。

 むしろどうすればこの十二歳を最短で納得させられるか。その顔だった。

 ガロが呼んだ。

 

「はじめ。今のお前の仕事は何だ」

 

 はじめは答えない。土の崩れる音だけが続く。

 ガロが後ろのケースへ目を向けながら言った。

 

「証人を目的地に運ぶことだ、そしてケースを守ることだ」

 

 はじめは答えない。昨日は怪我人を助けることを認めたガロが今は進めと言っている。

 これは冷静な判断によるものだ。はじめはらでんを見た。

 

---

 

 らでんが叫んだ。

 

「行ってください!」

 

 声に焦りが混じっている。鉄柵の軋みが大きくなる。自分が落ちそうだからではない。

 はじめが戻ろうとしているから。それが分かってしまった。

 

「私なら何とかします!」

「どうやって!」

「考えます!」

「まだ考えてないじゃん!」

「これから考えるんです!」

 

 はじめが叫んだ。

 

「それ何とかするって言わねえだろ!」

 

 らでんも珍しく声を荒らげて言った。

 

「いいから行って!」

 

 声が谷へ反響する。

 柵がまた沈む。錆びた固定具の一つが岩から外れた。

 らでんの身体が数センチ落ちる。肩へ衝撃が来た。

 らでんから声が漏れた。

 

「っ……!」

 

 はじめの顔から迷いが消えた。

 

 はじめが言ってガロの手を外した。

 

「やっぱ無理」

 

 今度は力任せではない。手首を返して身体を沈め、するりと抜けた。

 ガロが一瞬だけ目を見開く。だが追いかけるより先にはじめは崩落地点の手前まで戻った。

 土の縁ぎりぎりで止まる。

 

 らでんが怒ったように叫ぶ。

 

「はじめさん!」

「うるさい!」

「は!?今それ言う!?」

「だってお前がうるさい!」

「助けなくていいって言ってるんですよ!」

 

 はじめが言った。

 

「うちはよくない!」

「なんで!」

 

 はじめは一瞬言葉に詰まった。理由なんてちゃんと考えていなかった。

 正しいかどうかも知らない。その中で考える。

 ただ昨日最初に会った時。地下へ行く入口を一緒に探した。第一次試験を一緒に走った。

 飛行船で話した時、自分が身体を動かしている時。ただ楽しそうと言ってくれた。それだけ。たった二日。でも。

 

「仲間だーって言ったろ!」

 

 らでんがぽかんとした。崩落も追手も一瞬忘れたような顔だ。

 

「……え」

「言った!」

「いや、あれ、そんな重い意味だったんですか!?」

 

 はじめも一瞬だけ止まった。最初に駅で会った時。確かにそんなつもりではなかった。

 同じ受験者を見つけて嬉しくなってノリで言っただけだ。

 はじめはしばらく黙った。認めるのはなんか負けた気がした。だから言った。

 

「今、重くした!」

「そんなことあります!?」

「ある!」

「無茶苦茶だ!」

「知るか!」

 

 この状況でミナがほんの一瞬吹き出した。緊張が一瞬緩む。ガロは額を押さえた。ハインだけが笑わなかった。

 ただ二人を見ていた。追手の方向へも目を向けている。

 

---

 

 ガロが腕時計を見て言った。

 「……三十秒」追手の足音までの距離を測っている。

 

 はじめが振り返って聞いた。

 

「え?」

 

 ガロは追手の方向を見ながら言った。木々の向こう、土煙の向こうに人影がある。もう近い。

 

「三十秒やる。救助方法を見つけろ。出なければ置いていく。お前もだ」

 

 はじめは一瞬だけガロを見た。すぐらでんへ向き直る。崩落の縁へ腹這いになる。

 はじめが聞いた。

 

「どうすればいい!」

「急に私!?」

「らでんこういうの得意だろ!」

「雑!」

 

 でもその一言でらでんの顔つきが変わった。助けてもらう側から考える側へ。

 視線が動く。首を動かさず目だけで探る。自分の掴む柵、岩肌、崩れた道、上に残ったガードレール、左の斜面、右の古い鉄柱を見た。

 錆びてはいるが太い。山側へ伸びたワイヤ。柱の根元のコンクリートも残っている。支点にできる。そう仮説を立てた。

 らでんが声に出した。

 

「……索道?」

 

 はじめには意味が分からない。だから聞いた。

 

「何?」

 

 らでんが答えた。

 

「昔の資材搬送用です!これしかない!」

 

 斜面上の錆びた柱から太いワイヤが山側へ伸びている。使われなくなった搬送索道だ。

 鉄柱そのものは柵より遥かに太い。そう仮説を立てた。

 

 らでんが叫んだ。

 

「ガロさん!左の鉄柱です!」

 

 ガロも視線の先の太さと距離を一瞬で測った。

 

「ワイヤに掛けられますか!距離は六、七メートル!」

 

 ガロは即座に腰のロープを外した。ガロが呼んだ。

 

「ミナ!」

 

 ミナがハインを岩壁側へ寄せる。ケースを自分の足元へ置き、足で挟む。そのままロープを受け取る。

 

 はじめが聞いた。

 

「どうすんの?」

 

 ガロが答えてロープの重みを確かめた。

 

「支点を作る!お前は勝手に動くな!」

「わかった!」

 

---

 

 ロープの先にはカラビナがある。ガロが腕を振って投げる。

 一度目は届かず、斜面に落ちた。

 

 ガロがロープを手繰り、もう一度腕を大きく振った。

 追手は五十メートル先で土を踏む音がする。一人、二人、三人だ。その一人がこちらへ何かを投げようとしている。

 ハインが低い声で言った。

 

「来るぞ」

 

 ガロが振り向いて言った。

 

「ミナ、証人だ!」

 

 ミナがハインを伏せさせ、身体を被せるようにした。

 金属片が飛び、地面で破裂し、今度は白い煙が上がって視界が白くなった。

 はじめが叫んだ。

 

「最悪!」

 

 らでんには上の様子が見えなくなった。白い幕の向こうでただ声だけが聞こえる。

 ガロが言った。

 

「もう一回!」

 

 ロープが煙の中を飛び、金属の当たる硬い響きがした。

 

「掛かった!」

 

 ロープを引く手応えが変わった。

 

---

 

 ガロが一度、二度と引く。ワイヤにカラビナが噛んでいる。

 完全ではない。だが支点にはできる。

 

 ガロが叫ぶ。

 

「ロープを下ろすぞ!」

 

 らでんも返す。

 

「届きます!」

 

 煙の中からロープが垂れ、風に揺れている。でも柵から片手を離す必要がある。

 

 らでんは自分の右手を見る。握りっぱなしで指の感覚が薄い。

 痛めた左肩が痛み、脈打つ。失敗したら落ちる。谷底の暗さを思い出す。

 

 上からはじめが叫んだ。

 

「取れ!」

「分かりました!」

 

 指が言うことを聞かない。

 

「らでん!」

 

 らでんが答えた。

 

「今やります!」

 

 でも身体が言うことを聞かない。

 頭では分かっている。右手を残し、左でロープを掴んで身体を寄せる。それだけ。

 たったそれだけなのに。下を見るな。そう思った時にはもう見ていた。

 谷は遠く、石が落ちていき、音が遅れて聞こえる。その距離を考えて初めて怖いと思った。

 

 らでんが声を上げた。「……っ」

 

---

 

 はじめの声がした。近い。土煙と煙の向こうだが思ったよりずっと近い。

 

「らでん!こっち見ろ!」

 

 顔を上げる。煙の隙間にはじめがいる。

 崩落の端で腹這いになり、ガロに腰を掴まれている。

 

「何やってるんですか!」

「いいから!」

「危ないですよ!」

 

 はじめが返した。

 

「うるさい!」

 

 また言われた。

 

「ロープ見んな!…うちを見ろ!」

 

 はじめが叫ぶ。

 

「左手!伸ばせ!」

 

 らでんははじめを見る。目が合う。手を伸ばす。

 何も考えずに。左の指先にロープのざらつきが触れる。

 はじめが言った。

 

「もうちょい!」

 

 らでんは伸ばして掴み、握る感覚があった。

 

「取った!」

 

 ガロが言った。

 

「巻け!」

 

 らでんは言うとおり、腕へ一周、二周させて握る。

 

「できました!」

「柵離せ!」

 

 それが一番怖い。鉄の冷たさが離れない。

 

「……」

 

 はじめが呼んだ。

 

「らでん!」

 

 はじめが言った。

 

「大丈夫!」

 

 何を根拠に言うのかとらでんは思ったが。目の前で真剣にこちらをみている顔を見ていると、信じてもいい気がした。

 右手の指を一本ずつ開く。さっきまで動かなかった指が開いた。

 

---

 

 身体が落ちる。一瞬胃が浮く。

 らでんが声を上げ、ロープが張った。肩も腰も痛い。

 でも止まった。揺れが収まる。

 ガロが叫ぶ。

 

「上げるぞ!」

 

 腕へ力が入る。ガロとミナの二人が引く。

 はじめもロープへ手をかける。

 ガロがはじめに言う

 

「お前は端から離れろ!」

「やだ!」

「落ちるぞ!」

「落ちない!」

 

 なぜかミナが叫んだ。

 

「それ禁止!」

 

 ロープを引く手は止めない。

 こんな時なのにらでんは少しだけ笑った。笑う余裕があることに驚く。

 

---

 

 一メートル、二メートルと上がる。岩肌のざらつきに靴を引っかけ、腕だけに任せず登る。

 古狸が昔掲示板で書いていた。ロープは腕で登るな。足で立て。

 足裏の感覚。あの時は山歩きの話だった。本当に何が役立つか分からない。

 はじめがらでんに言った。

 

「右足!そこ!」

「見えてます!」

「じゃ早く!」

「こっちはぶら下がってるんですよ!」

 

 はじめが返した。

 

「知ってる!」

 

 また引く。縁が近い。最後にはじめが手を伸ばした。らでんに言う。

 

「掴め!」

 

 らでんも伸ばした。今度は迷わなかった。

 手と手が掴み合い、温かさが伝わる。はじめの手は小さく、自分とそんなに変わらないが強い。

 ガロもらでんの服を掴み、一気に上へ上げた。地面の硬さを感じた。ガロは支点に掛けたロープとカラビナを手早く回収し、腰へ戻した。

 

---

 

 らでんは崩れた道の上へ転がった。背中に硬い土と小石を感じる。空は青く、煙の切れ間から見える。

 数秒動けなかった。胸の上下だけが激しい。

 助かった。その実感だけが遅れて身体へ入ってくる。横でははじめも座り込んでいる。息が荒く、顔は土だらけだ。らでんはしばらくその顔を見た。

 

「……はじめさん」

「ん?」

「馬鹿ですよね」

「助けたのに!?」

「だって危なかったでしょう!」

「助かったじゃん!」

「結果論!」

「でも助かった!」

 

 らでんは言葉を続けられなかった。

 

「そういう問題じゃ――」

 

 息が続かない。はじめも言わない。

 一瞬ただ目が合う。らでんは小さく息を吐いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 はじめが土の付いた顔で笑って答えた。

 

「おう」

 

 それで全部通じた。

 

---

 

 ガロが言った。

 

「感動してるところ悪いが、まだピンチだぞ」

 

 二人が同時に振り返る。ガロは追手を見ていた。煙が薄くなる。土煙の向こうの人影が近い。

 一瞬で現実が戻った。ミナはもうケースを持っている。ハインも立っている。そのハインがらでんを見た。

 

「歩けるか」

「はい」

「本当に?」

 

 いつもの少し嫌味な調子ではなく声が低い。

 らでんは立つ。膝が震えるが踏ん張り、立てる。

 

「歩けます」

「なら行くぞ」

 

---

 

 五人で走る。土を蹴って採石場へ向かう。後ろから追手の足音がまだ来る。

 護送任務はまだ続く。らでんは走りながら隣を見る。はじめがいて靴音はいつも通りだ。

 

 《今、重くした》

 

 無茶苦茶な理屈だと思った。でもーーー嬉しかった。

 もう諦めない。肩の痛み、荒い息、追手の足音を抱えたまま走るのだ。

 

---

 

 旧搬送路で崩落地点を離れてから五分、土の柔らかい道を第四チームは走っていた。

 ガロが先頭で、そのすぐ後ろにハイン、ミナ、らでん、最後尾にはじめがいた。

 隊列は、救出前とは少し変わっている。理由は単純で、らでんの左肩にさっき鉄柵へぶら下がった時の衝撃が残っている。

 腕を振るたびに肩の奥がずきりとする。歩けるし走れるが、腕を大きく振れば痛い。振らないように走れば速度が落ちる。

 

 ミナが走りながら何度も横を見る。らでんの肩の上がり方、顔の歪みを見ていた。

 ミナが聞いた。

 

「痛み強くなってない?」

「大丈夫です」

「十段階でどれくらい」

「六」

「全然大丈夫じゃない」

「とりあえず今走れてるので!」

「それは別!」

 

 前からガロが振り返りもせず言った。

 

「後で揉めろ。今は追われてる」

 

 土を蹴る音だけになる。正論だった。

 

---

 

 後方から足音が消えない。三人だ。

 少なくともさっき見えた受験者たちは、崩落で足を止めなかった。

 狙いは認証札だ。ただし、腕から直接奪う必要はない。ケースを押さえれば、第四チームは三十分が経つ前に取り戻さなければ失格になる。

 追手はそれを交換材料にして、札を差し出させる可能性もある。

 まず足止めして守りを分ける。道幅の狭さがそれを助ける。

 ガロが言った。

 

「距離はどうだ!」

 

 はじめが走りながら振り返り、耳を澄まして風の音と足音を分けた。

 

「……近くなってる!」

「何人だ」

「三!」

「四人目は?わかるか?!」

「分かんない!」

 

 ガロが舌打ちした。三人なら一人足りない。

 別ルート、待ち伏せ、あるいはケースを押さえて札との交換を迫るつもりか。森の地形ならそれができる。

 らでんが息を切らしながら言った。

 

「採石場まで後少し!三百メートル!」

 

 木々の切れ間にコンクリートの壁が見える。

 ガロが判断した。

 

「そこへ入る!切り立った壁で開けた視界だ」

 

---

 

 旧採石施設は山腹を大きく切り取って作られていた。最初に見えたのは巨大なコンクリート壁。

 切り立った岩肌が太陽を反射し、足音が反響する。

 次に見えたのは錆びたベルトコンベア、砕石設備、資材置場、作業小屋。そして段々に削られた岩盤。見通しが利く。

 それだけなら追撃を迎え撃つにはさっきの搬送路より遥かにいい。狭い道で背後を取られる心配がない。

 だが広いということは隠れる場所も限られる。

 

 ガロは入口を抜けるとすぐ止まった。ガロが呼んだ。

 

「ミナ!」

「何!?」

「証人とケースは奥の管理棟へ」

 

 ミナが頷いてケースを抱え直す。ハインも今回は文句を言わない。足早に動く。

 ガロが呼んだ。

 

「らでん」

「はい」

「一緒に行け」

 

 らでんが一瞬止まった。

 

「でも」

「左肩やってる。戦力に数えるなってことですか」

「今はな」

 

 言い方は相変わらず。でも自分の肩を見れば分かる。

 正しい。広場での乱戦にこの肩では耐えられない。

 ガロが呼んだ。

 

「はじめ」

「うん」

「残れるか」

 

 はじめは即答した。

 

「残る」

 

 ガロが一度だけはじめを見る。

 

「数で劣勢だ。無理になったら逃げろ」

「分かった」

「分かってない顔だな」

 

 はじめが返した。

 

「分かってるって」

 

---

 

 ミナがらでんの背中を押す。

 

「行くよ」

 

 らでんは数歩進んだ。でも振り返った。はじめがガロと二人でその場に残っている。

 さっき自分を助けるために戻った子を今度は置いていく。理屈は分かっている。

 でも胸の奥がざらりとして足が止まる。それにはじめが気づいた。

 

「らでん!」

「はい!」

「行け!」

 

 その言い方はさっき自分が言ったのと同じだった。

 崖の上で言った言葉だ。らでんがほんの少し笑う。

 

「絶対来てくださいよ!」

「もち!」

「仲間ですもんね!」

 

 はじめの顔が一瞬だけにやっとした。

 

「今さら確認すんな!」

 

 らでんが返した。

 

「重くしたのそっちですからね!」

 

 ガロが怒鳴った。

 

「いいから早く行け!!」

 

 二人とも怒られた。砕石を蹴って走る。

 

---

 

 管理棟の二階だ。窓枠は錆び、ガラスの一部が割れている。

 らでんはそこから外を見る。窓からの視界は広いが、逆光で細部が見えにくい。

 ガロとはじめの二人と追手の三人が砕石の上で向き合っている。

 先頭の男はさっき金属筒を投げた人物で細身の二十代半ば、次は体格のいい女、後ろはもう一人の年齢高めだ。

 三人が止まり、乱戦にはならず互いに距離を取った。

 

 先頭の男が言った。声が壁に反響する。

 

「さっきので一人落ちたと思ったのに」

 

 ガロが返した。

 

「残念だったな」

 

 男が肩をすくめながら聞いた。

 

「助けたの?」

「見れば分かるだろ」

「それで?ケースは?」

 

 ガロは答えない。視線を動かさない。

 男が少し笑って言った。

 

「奥か」

 

 はじめが一歩前へ出た。

 

「行かせない」

 

 男がはじめを見て見下すように聞いた。

 

「君が?」

「うちが」

「生意気なガキだね。十二くらい?」

「そうだけど」

「無理じゃない?」

「やってみれば?」

 

 男の横で体格のいい女が笑った。

 

「威勢いいねぇ」

 

 はじめが返した。

 

「そっちも」

 

---

 

 らでんは窓から見ていた。戦いは二対三で明らかに不利だ。

 でもガロは正面に出ず、採石設備、ベルトコンベア、砕石機、資材の全部使える位置で、設備の陰や支柱の位置に止まって正面からぶつからないようにしている。

 らでんが呟いた。

 

「……場所」

 

 ミナが見て聞いた。

 

「何?」

「ガロさん、戦う場所を選んでます。さっきと同じです」

 

---

 

 最初に動いたのは体格のいい女だった。はじめへ真っ正面から向かった。

 はじめが避ける。一撃、二撃はさっきの少女とは違い、技術より力のタイプ。

 受けると体格差もあり危険だ。体勢が保てない。

 はじめも分かっている。だから当たらないことだけを考えた。

 

 女が苛立って言った。

 

「ちょこまかと!」

「当たったら痛そうだし!」

「当たり前だろ!」

 

 女の拳が風を切る。はじめは横へ避ける。

 次は低い脚への攻撃で、はじめは跳んで着地し、膝へ衝撃を受けた。

 女が追う。はじめはベルトコンベアの支柱へ手をかけ、そこを支点に身体を回して女の横へ抜けた。

 また昨日の夜みたいに身体が流れる。

 

「……何だその動き」

 

 はじめ自身答えられず、息を上げながら言った。

 

「知らん!」

 

---

 

 一方でガロと先頭の男が向き合う。男の武器は短い警棒だ。

 男が正面から来て、ガロは今度はあえて腕で受けた。

 ぶつかる鈍い音がして互いに一歩下がった。

 

 男が言った。

 

「固っ」

 

 ガロが返した。

 

「お互い様」

 

 次に男が低くガロの脚を狙う。

 ガロは足を上げない。砕石の上では浮足になる。逆に踏み込む。

 距離を潰し、肩と胸をぶつけて体重を掛けた。男は後ろへ下がったがすぐ戻る。

 そこへ三人目が横から来た。ガロの死角だ。

 

 はじめには見えた。視界の端だ。

 はじめが叫んだ。

 

「ガロ!」

 

 ガロは振り向かない。代わりに足を一歩下げる。

 三人目の拳が空を切った。そのままガロは男の身体を採石用の金属柵へ押し込んだ。金属音が響く。

 男が声を上げた。

 

「ぐっ」

 

 はじめが聞いた。

 

「見えてた?」

 

 ガロが答えた。

 

「見えてない」

「え!?」

「お前を信じた!それだけだ!」

 

 ガロが言った。

 

「そっちに行ったぞ!」

 

---

 

 二対三なのに崩れない。理由は単純だ。

 第四チームの二人は勝とうとしていない。追手を管理棟へ行かせない。それだけだ。

 ガロは中央、はじめは左右に動く。

 挟まれそうになれば設備へ逃がす。広場の全部を盾、壁、足場、距離に使う。相手が正面から殴り合いたいなら正面を渡さない。

 

---

 

 管理棟でらでんは窓越しの広場を見ていた。

 自分と同じだと思った。戦い方は違う。でも設備と足場を使っている。

 

---

 

 その時に背後から音がした。階段の軋む音とは違う金属の小さな音だ。

 らでんが振り返る。階段を誰かが上がってくる。

 ミナも気づく。顔を見合わせる。ハインは銀色のケースを抱えている。らでんの背中が冷える。

 三人だけじゃない。四人目だ。別ルートで回り込んだのだ。やっぱりいた。

 

「ミナさん」

「うん」

 

 ミナがハインの前へ出て身体で壁を作る。らでんも無意識に横へ位置を取る。

 左肩が痛い。腕を上げれば響く。戦える状態ではない。

 でも何もしない選択肢もない。足音が近づく。そして扉が開いた。

 

---

 

 現れたのは少年だった。十七、八の小柄な少年で手にナイフを持つ。

 刃は潰してある訓練用で光り方は鈍いが、当たれば痛い。

 少年が少し笑って言った。

 

「見つけた」

 

「ケース狙い?それとも札?」

 

 少年がケースを見て答えた。

 

「札が本命。でもケースを押さえれば、札を渡さざるを得ないだろ」

 

 ミナが息を吐いて言った。

 

「ずいぶん回りくどいのね」

「まぁね。勝たせてもらうよ」

 

---

 

 らでんが前へ出ようとする。

 それをミナが腕で止めた。

 

「あなた怪我してる」

「でも」

「私がやる」

「ミナさん」

 

 ミナが言った。

 

「逃がすのが専門」

 

 昨日本人が言った通りだ。戦えるのは襲われたら逃げられる程度。

 でも今は逃げ道が少ない。

 二階、窓、階段、少年、ミナ、ハイン、らでん。窓からの風がある。

 

 ミナが窓の位置を示して言った。

 

「ハインさん、窓側へ」

 

 ハインが動く。床の軋まない場所を選ぶ。自然で迷わない。

 らでんはまた見た。足運びの滑らかさ。やっぱりこの人何かおかしい。

 

---

 

 少年がミナへナイフを突いた。ミナは身体を横にして腕で払った。

 次に少年は速く切り返し、ミナは避けたが完全ではなく袖が裂けた。

 

 らでんが叫んだ。

 

「ミナさん!」

「大丈夫!」

 

 少年が笑って聞いた。

 

「本当に救急救命士?」

「そうだけど」

「結構動ける」

「患者に暴れる人もいるからね」

「それでナイフ避けれるの?」

 

 ミナが答えた。

 

「それは今初めて!」

 

 らでんが思わず聞いた。

 

「初めてなんです!?」

 

 ミナが返した。

 

「今集中してるから!聞かないで!」

 

---

 

 少年はハインへ向かった。ミナが止めるが一歩遅れる。ナイフがケースへ伸びる。

 らでんは考える。机、椅子、消火器、窓。少年は右手にナイフを持ち、左は空いている。

 なら、とらでんは椅子を蹴った。少年の脚へ向かった。

 

 少年が避けて声を上げた。

 

「っ」

 

 その一瞬にミナが入り、身体をぶつけた。

 少年が壁へ当たるが倒れない。

 

 少年が言った。

 

「邪魔!」

 

 ミナが荒い息で返した。

 

「それが仕事!」

 

---

 

 少年がミナの肩を掴む。引いてバランスが崩れる。

 次に少年の手がケースを持つハインへ伸びた。

 その時にハインが床の軋まない場所へ動いた。

 

---

 

 ほんの半歩右へ動き、少年の手が空を切った。

 ハインの左肩が下がり、ケースが身体の影に入った。

 少年が続けて手を伸ばす。ハインはまた半歩避けた。

 一度も二度もどちらもぎりぎりに見えるが狙いから少しだけ外れている。

 らでんには分かった。これは偶然ではない。

 

 らでんは黙ってハインと少年を見た。

 ハインの顔はいつもと同じ少し不機嫌そうな中年男で汗をかいている。

 でも足の重心が違い、床への接地が浅い。

 

---

 

 少年も気づいた。ナイフを持つ手が止まる。

 少年が「おっさん」と言って止まった。

 

 少年が聞いた。

 

「本当に一般人?」

 

 ハインは答えない。汗も拭わない。

 少年が笑って言った。

 

「面白いじゃん」

 

 次は速く踏み込む。今度はケースではなくハインの胸へ訓練用のナイフが来た。

 それでも直撃すれば判定は重傷だ。

 

 ハインは身体を沈めた。膝の沈み方でナイフが上を通った。

 そのまま少年の手首を掴んだ。一瞬だけだ。

 らでんが見た形は綺麗で無駄がなく、指の掛け方が決まっている。

 

 次にハインは少年を投げず折らず、ただ手首の方向をずらした。

 少年の身体が自分から横へ流れ、机にぶつかって木のぶつかる音がした。

 少年が声を上げた時、ハインはもう元の姿勢でケースを抱えていた。息も乱れていない。

 

---

 

 沈黙し、階段の軋みも止んだ。ミナもらでんも少年も全員ハインを見た。

 ハインは少し嫌そうな顔をしたが、何も答えなかった。

 らでんが即答した。

 

「一般人役としては無理がありますよ」

 

---

 

 その時に外で大きな金属音、ベルトの動き出す音がした。続いて壁に反響するガロの声がした。

 

「はじめ!今だ!」

「おう!」

 

 外の戦いが動いた。少年が窓へ一瞬目を向けた。

 その隙にミナが足元の消火器を蹴った。少年の前に赤い筒が転がった。

 少年が避ける。

 

 らでんが栓を抜いた。レバーを押すと白い粉が一気に噴き出した。視界が白くなる。

 少年が叫んだ。

 

「くそっ」

 

 咳き込む声がする。

 らでんが答えた。

 

「こういう撹乱って便利なんですよ!」

 

 ミナが言った。

 

「下!」

 

 三人で階段を走った。ハインも普通に走る。

 階段を下りる足取りが軽く、妙に速い。息も切れていない。

 

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 外の戦況は終わりかけていた。ガロが採石設備の手動レバーを引いている。

 古いベルトコンベアが突然動いた。試験用に最低限整備されていたのだろう。ガタンと大きな音。追手の三人は一瞬注意が散った。

 その中に、はじめがベルト横の傾斜を駆け上がった。上へ飛び、女の肩へ手を掛けた。

 支点にして身体を回転させ、着地して相手の後ろへ回り、そのまま押した。

 女は一歩下がり、足元の砕石が滑って尻もちをついた。女が声を上げた。

 

「うわっ!」

 

 はじめは追撃しない。息を切らしている。

 ガロが言った。

 

「今だ!」

 

 全員で管理棟の裏へ抜けた。

 

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 合流し、らでんとはじめの目が合った。汗と土だらけだ。

 二人が同時に言った。

 

「大丈夫!?」

 

 一瞬止まる。はじめが言った。

 

「こっちは平気!」

「こっちも!」

 

 ミナが肩で息をしながら聞いた。

 

「平気じゃない人は?」

 

 ガロは足を止めずに言った。

 

「後だ!」

 

 追手はまだ来るが足音の反響が遠く、距離は少し開いた。

 

---

 

 採石場北側の昔ダンプが通った作業道、轍の残る土の上を五人で走る。

 十分、十五分、二十分と走り、土の硬さが変わって木々が増えた。追手の音が減り、やがて消えた。

 風と鳥だけになった。それでもガロはさらに十分止まらなかった。

 

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 午後四時九分。谷を一つ越えた。小さな林。

 そこでようやくガロが言った。

 

「止まるぞ」

 

 全員座り込む。

 はじめは地面に大の字になった。

 

 はじめが言った。

 

「逃げ切れたっ……やったぁ…」

 

 らでんは木に寄りかかり、ミナはすぐ全員の怪我を確認し、鞄を開けた。

 ガロは左腕に打撲を負い、はじめは擦りむいた膝の土を払った。らでんは左肩が悪化していないか、腕の上がり方を見た。

 ミナ自身は袖が切れ、浅い傷だが血はほとんど出ていない。

 ハインについてミナが言った。

 

「無傷」

 

 ハインは息の乱れも少ない。一瞬全員がハインを見た。

 

 ハインが言った。

 

「何だ」

 

 ガロが少し間を置き、土をいじりながら言った。

 

「お前、何者だよ」

 

---

 

 ハインは水筒を開けた。一口飲む。すぐには答えない。

 

 ミナが言った。

 

「すごい身のこなしで避けてた」

 

 らでんが答えた。

 

「見ました」

 

 ハインは少し面倒そうな顔で言った。

 

「たまたまだ。命を狙われたら、護衛対象の一般人であろうと必死で抵抗するだろう」

 

 らでんが言った。

 

「ナイフを二回避けて手首を取る人は、たまたまではないです」

 

 ハインは肩をすくめた。

 

 はじめが乾いた笑いで言った。

 

「もう諦めろって」

 

 ハインも少しだけ笑った。でもその先は何も言わなかった。

 土の上で膝を抱えたガロは追及せず、ハインを見て言った。

 

「言いたくないならいい。ただし護送に関わることなら話せ」

 

 ハインが答えた。

 

「必要になったら話す」

 

 それだけ。風だけが続く。

 

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 沈黙し、葉の擦れる音だけがする。誰も納得していない。

 でも今はそれで進める。減った水を抱えたまま進む。

 全員が全部を話すわけではない。それでも今は同じ方向へ進む。

 

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 その頃、旧採石施設から数キロ離れた監視所では、コンクリートの部屋に複数の映像があった。

 ボトバイは腕を組んで見ている。横には補助試験官がいる。

 

 補助試験官が報告した。

 

「第四チーム、救助のため約十一分遅延。その後の他チームとの追撃を突破。証人、証拠品とも確保。他チーム認証札も保持」

 

 ボトバイが答えた。

 

「そうか」

 

 補助試験官が聞いた。

 

「評価は?」

「轟はじめ、救助判断は危うい」

 

 ボトバイは続けた。

 

「感情で戻った。救助方法もないままだ」

 

 ボトバイは画面を見た。

 そこにははじめが戻り、らでんと共に索道柱へ気づき、ガロが支点を作り、チーム全体で救助した映像がある。

 

「しかし、感情で戻ったことと戻った後に考えるのをやめなかったことは別に評価する」

 

 次に補助員が聞いた。

 

「儒烏風亭らでん、自分を置いていけと判断。これは?」

 

 ボトバイは少しだけ眉を動かした。

 

「自分を切る判断が他人を切る判断より簡単な奴もいる」

 

 画面にはらでんがぶら下がりながら救助方法を探し、索道に気づいた映像がある。ボトバイが続けた。

 

「だが救助される側になっても考えるのを止めなかった。そこはいい」

 

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 補助員が続けた。

 

「次。ガロ、救助に三十秒の期限。成功後は追撃を抑制。堅実です」

 

 ボトバイが答えた。

 

「加点。視野が広く状況判断も的確。チームのリーダーに向いている」

 

 補助員が言った。

 

「ミナ、救命優先。チーム維持に寄与」

 

「減点なし。自分のできることを冷静に見極め、貢献できている」

 

 補助員が言った。

 

「最後。証人役ハイン」

 

 その瞬間ボトバイが画面を少し長く見た。補助員が言う。

 

「予定より早いですね」

 

 ボトバイが聞いた。

 

「何がだ」

 

 補助員が答えた。

 

「素が出るの」

 

 画面にはハインが少年の手首を取ったところが映っている。

 ボトバイは何も言わない。数秒置いて言った。

 

「監視を続けろ」

 

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 監視映像は切り替わり、別画面に第五チームが映る。

 荒れた河原、倉庫の影。一人の受験者が足を負傷している。

 歩けるが遅い。その横に見覚えのある男、トンパがいる。

 トンパが言った。

 

「置いていくぞ」

 

 負傷者が顔を上げて言った。

 

「待ってくれ」

「このままじゃ間に合わない」

「固定すれば歩ける」

「知らないよ」

 

 トンパは証人役と他のメンバーへ言った。

 

「行こう」

 

 一人が迷い、足が止まる。

 迷ったメンバーが言った。

 

「でも」

 

 トンパがいつもの笑顔で乾いた声で言った。

 

「ルールじゃ全員いなくてもいいんだろ?だったら、使える奴だけで行くのが正解じゃない?」

 

 ボトバイはその画面を見ていた。何も言わない。補助員がペンを構える。

 まだ判定は出ない。だけどボトバイの表情は第四チームを見ていた時よりずっと冷たかった。

 

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 午後四時半。第四チーム再出発。残り時間約三十一時間半。

 らでんは歩きながら前を見る。ガロ、ハイン、ミナ、そして少し先のはじめがいる。

 昨日までならただ同じチームだった。今は少し違う。肩の痛み、土の匂い、追手の足音。その全部を一緒に越えた。

 何が違うのかうまく言葉にはできない。

 

 前の方ではじめが逆光の中で振り返った。

 

「らでん!」

「はい?」

「荷物持とうか?」

「…そうですね。まだ少し肩が痛むのでお願いしてもいいですか」

 

 はじめが戻ってくる。らでんの荷物へ手を伸ばす。

 

「半分な」

「全部でもいいですよ」

「調子乗んなっ!」

 

 いつものやり取りで肩の痛みが少し和らいだ。それが少し嬉しかった。

 二日目はまだ終わっていない。

 

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