儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第十話 第三次試験 今、重くした

 はじめは、らでんを置いて先へ行こうとした。

 ガロの判断は正しい。らでん本人だって、来ないで先へ行けと叫んだ。

 崩れ落ちた山道の縁はまだ脆く、いつ次の土砂が抜けるか分からない。後ろからは金属筒を投げた追手が迫っているし、今ここで無理に戻れば自分まで谷底へ落ちるかもしれない。

 だから、このまま前へ走ればいい。それが試験に勝つための正解だ。

 

 けれど、一歩踏み出した背中の向こうで、ギギッ、と鉄の軋む嫌な音が鳴った。

 振り返らなくても分かる。崖の下で、らでんが必死にぶら下がっている古い鉄柵の音だ。長年雨風に晒された錆びた支柱なんか、いつ根元から抜けてもおかしくない。

 足が重くなる理由は、それだけではなかった。

 

 頭に浮かんだのは、第二次試験を終えて飛行船で過ごした夜のことだ。

 靴底から伝わるエンジンの低い振動と、月明かりに照らされた窓の外の雲海。あの展望室で、自分は確かに言った。

 

『仲間だな』

 

 それを聞いて、らでんも嬉しそうに笑ったのだ。

 

『完全に仲間ですね』

 

 たったそれだけのやり取りだった。命を懸けるような重たい約束なんて、何一つしていない。

 ――でも。

 

 はじめの靴底が、湿った土の上でぴたりと止まった。

 口から漏れた呟きが、まだ舞い上がっている白い土煙の中へ吸い込まれていく。

 

「……無理」

 

 前を歩きかけていたガロが、険しい顔で振り返った。

 

「何?」

 

 はじめはくるりと踵を返した。

 ごっそり崩れ落ちた道の向こう側、折れ曲がった古い鉄柵に両手でぶら下がっているらでんの姿がある。崩れた土塊や小石が、その小さな身体の横をかすめて何度も谷底へ落ちていく。カン、と底に当たるまでの長い間隔が、そのまま谷の深さを物語っていた。

 土煙の向こうで、ぱちりと目が合った。らでんの顔色がさっと変わる。

 

「……はじめさん?」

 

 はじめは迷わず来た道へと駆け戻り、崩れ落ちた土の縁ぎりぎりで足を止めた。

 すぐ後ろから追いついたガロが、はじめの腕を強く引っ掴む。

 

「おい!」

 

 今度は、はじめも力任せに振りほどこうとはしなかった。掴まれたまま、ガロの目を真っ直ぐに見上げ返す。

 

「戻る」

「駄目だ、危険すぎる。ここの地盤はもう死んでるぞ」

 

 足元のアスファルトには、今も黒い割れ目が走っている。そんなことは見れば分かる。

 

「分かってる」

「分かってない。今お前がそこへ踏み込めば、二人まとめて落ちるだけだ」

「でも、戻る」

 

 ガロの眉間に深い皺が寄った。頭ごなしに怒っている顔ではない。どう言えばこの十二歳の少女を最短で納得させて先へ走らせられるか、必死に言葉を探している顔だった。

 

「はじめ。今のお前の仕事は何だ」

 

 はじめは唇を噛んで答えない。パラパラと土の崩れ落ちる乾いた音だけが、二人の間に続いた。

 ガロは後ろでミナに守られているハインと銀色のケースへ一度だけ目を向け、低く言い聞かせるように続けた。

 

「証人を無事に目的地まで運ぶこと、そしてあのケースを守り抜くことだ」

 

 はじめはそれでも黙っていた。

 昨日は他チームの怪我人を助けることを認めてくれたガロが、今はらでんを置いて進めと言っている。けれど、それが冷酷だからではなく、チーム全員を生き残らせるための冷静な判断だということも、はじめには痛いほど分かっていた。

 

 そのとき、崖の下かららでんの悲鳴のような叫び声が上がった。

 

「行ってください!」

 

 張り上げた声に、隠しきれない焦りが混じっている。しがみついた鉄柵がまた大きく軋んだ。

 自分が谷底へ落ちそうだから焦っているんじゃない。一度は背を向けたはずのはじめが、また崖の縁へ戻ってきてしまったからだ。

 

「私なら自分で何とかしますから!」

「どうやってよ!」

「今から考えます!」

「まだ考えてないんじゃん!」

「これから考えるんです!」

 

 崖の下と上で、必死の怒鳴り合いになる。はじめはたまらず叫び返した。

 

「それ、全然『何とかする』って言わねえだろ!」

 

 すると、いつもは丁寧ならでんまでが、珍しく声を荒らげて吠えた。

 

「いいから、さっさと行って!!」

 

 鋭い声が深い谷間へと反響する。

 その振動に耐えかねたように、古い鉄柵がガクンと一段沈んだ。岩肌に打ち込まれていた錆びた固定具の一つが、乾いた音を立てて弾け飛ぶ。

 らでんの身体が数センチだけ宙へ落ち、昨日から痛めていた左肩へ全体重の衝撃が突き刺さった。

 

「っ……!」

 

 食いしばった歯の隙間から、押し殺した呻きが漏れる。

 それを見た瞬間、はじめの顔からすべての迷いが消えた。

 

「――やっぱ無理」

 

 短く言って、はじめは自分の腕を掴んでいたガロの手を外した。

 さっきみたいに闇雲に引っ張ったのではない。手首をくるりと返して重心を低く沈め、大人の指の隙間からするりと抜けたのだ。

 ガロが一瞬だけ目を見開く。その手がもう一度伸びるより早く、はじめは崩落地点のすぐ手前まで踏み込み、土の縁ぎりぎりで足を止めた。

 

 ぶら下がっているらでんが、今にも泣き出しそうなほど怒った顔で見上げてくる。

 

「はじめさんっ!」

「うるさい!」

「はあ!? 今それ言います!?」

「だってお前がうるさいんだもん!」

「私は、助けなくていいって言ってるんですよ!」

 

 はじめは大きく息を吸い込んで、崖の下へ向かって言い放った。

 

「うちはよくない!」

「なんでですか!」

 

 真っ直ぐに問い返されて、はじめは一瞬だけ言葉に詰まった。

 ちゃんとした理由なんて、最初から頭で考えていたわけじゃない。自分のしていることが試験として正しいかどうかも知らない。

 それでも、揺れる土の上で必死に言葉を探す。駅のホームで最初に声をかけたときのこと。暗いトンネルを一緒に走った第一次試験。そして飛行船の夜、展望室で身体を動かしていた自分を見て、本当に楽しそうだと言って笑ってくれた顔。

 出会ってから、まだ間もない。でも。

 

「『仲間だ』って言ったろ!」

 

 怒鳴り返した瞬間、鉄柵にぶら下がっていたらでんが、ぽかんと口を開けた。

 足元の崩落も、後ろから迫る追手のことも、一瞬だけ全部忘れてしまったような間抜けな顔だった。

 

「……え」

「言った!」

「い、いや、確かに言いましたけど! あれってそんな重い意味だったんですか!?」

 

 言われて、はじめも一瞬だけ言葉を失った。

 最初に駅で会ったときも、飛行船で笑ったときも、確かにここまで大袈裟なつもりで口にしたわけではなかった。同じ年頃の受験者を見つけて、ただ嬉しくなってノリで言っただけだ。

 けれど、今さらそれを認めるのは、なんだかすごく負けた気がした。

 はじめは一拍だけ黙り込んでから、胸を張って叫び返した。

 

「今、重くした!」

「そんな後出しみたいなことあります!?」

「ある!」

「無茶苦茶だ!」

「知るか!」

 

 崖の上と下で本気で言い合う二人に、後ろでケースを抱えていたミナが、この緊迫した状況にもかかわらずぷっと吹き出した。

 張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけ緩む。

 ガロは観念したように片手で額を押さえた。証人役のハインだけは笑わず、ただじっと真剣な目で二人のやり取りを見つめながら、時おり背後の山道へ鋭い視線を走らせていた。

 

 ガロが自分の腕時計へ目を落とし、低く告げた。

 

「……三十秒だ」

 

 土煙の向こうから迫ってくる追手の足音と、自分たちとの距離を正確に測っている声だった。

 はじめがぱっとガロを振り返る。

 

「え?」

 

 ガロは背後の山道を見据えたまま言った。木々の切れ間、まだ薄く漂う煙の向こうに、複数の人影が揺れている。もう目と鼻の先だ。

 

「三十秒だけやる。その間に引き上げる方法を見つけろ。見つけられなければ置いていく。らでんも、お前もだ」

 

 はじめは一瞬だけガロの顔を見つめ、すぐに崖の下のらでんへと向き直った。

 そのまま崩れかけた道の縁へ勢いよく腹這いになり、下へ顔を突き出す。

 

「らでん、どうすればいい!?」

「えっ、急に私に振るんですか!?」

「だって、らでんはこういうの考えるの得意だろ!」

「振り方が雑!」

 

 けれど、そのあんまりな一言で、らでんの瞳に強い光が戻った。

 自分を諦めてみんなを逃がすためではなく、ここから自分が生き残るための思考へと、頭の中の歯車が一気に切り替わる。助けてもらうのを待つ側から、突破口を探す側へ。

 ぶら下がったままでは首を大きく振れない。らでんは目だけを素早く動かして、周囲の地形を探った。

 自分が掴んでいる錆びた鉄柵。脆く崩れた岩肌。上の道に残ったガードレールの切れ端。左側の急斜面。――そして、右手の少し高い斜面に突き立っている、古びた鉄柱が目に留まった。

 表面は赤く錆びているが、支柱そのものは鉄柵よりずっと太い。根元のコンクリート基礎も崩れずに残っているし、その先端からは山側へ向かって太い鋼鉄のワイヤがぴんと伸びている。

 あれなら、大人の体重が乗っても支点にできる。

 

「……索道!?」

 

 らでんが思わず声を上げると、上で腹這いになっていたはじめが目を丸くした。

 

「なにそれ?」

「索道です! 昔ここで資材を運んでたワイヤの設備! 今使える支点があるとしたら、あれしかありません!」

 

 斜面の上に残された搬送索道の支柱とワイヤなら、今にも抜けそうなこの鉄柵よりはるかに頑丈だ。

 らでんは痛む喉を振り絞って、上のガロへ叫んだ。

 

「ガロさん! そこから見て左上の斜面にある、古い鉄柱です! 上のワイヤにロープを掛けられますか!? 距離は目測で六から七メートル!」

 

 言われた瞬間には、ガロもすでに行動を開始していた。

 らでんの視線の先にある鉄柱の太さと高さを一瞬で測り取り、腰に下げていた登山用のロープを迷いなく外す。

 

「ミナ!」

 

 短く呼ばれたミナが、即座にハインを安全な岩壁側へと寄せた。銀色のケースを自分の足元に置いて両足でしっかりと挟み込み、ガロからロープの端を受け取る。

 縁で腹這いになっていたはじめが、首を捻って聞き返した。

 

「ガロ、どうすんの!?」

「あのワイヤに掛けて引き上げる支点を作る! お前はそこから勝手に動くなよ!」

「わかった!」

 

 ガロはロープの先端に取り付けられた金属製のカラビナの重みを掌で確かめ、大きく腕を振りかぶって斜面上方のワイヤへと投げ上げた。

 だが、一度目はわずかに高さが足りず、カラビナが虚しく斜面を滑って落ちてくる。

 ガロは舌打ち一つせず素早くロープを手繰り寄せ、次の一投に備え、全身のバネを使って大きく腕を振りかぶった。

 

 そのとき、後方五十メートルほどの山道で、複数の靴底が荒々しく土を蹴る音が近づいてきた。

 足音は一人、二人、三人。そのうちの先頭を走る男が、こちらへ向かって再び小さな筒のようなものを投げようと腕を振り上げるのが見えた。

 岩壁際にいたハインが、低くよく通る声で警告する。

 

「追手が来るぞ」

 

 ガロはロープから目を離さずに背後へ怒鳴った。

 

「ミナ、証人だ!」

 

 ミナがハインの肩を押さえて地面に伏せさせ、その上から自分の身体を被せるようにして盾になる。

 直後、飛んできた金属片が道の真ん中で乾いた音を立てて弾け、そこから猛烈な勢いで真っ白な煙が噴き上がった。さっきの衝撃弾ではない。視界を奪うための煙幕だ。周囲の景色が一瞬で白い壁に塗り潰される。

 

「うわ、煙幕だ! 最悪!」

 

 煙に巻かれたはじめが咳き込みながら叫ぶ。

 崖の下にぶら下がるらでんからは、もう上の道の様子がまったく見えなくなった。風に乗って流れてくる白い煙の向こうから、くぐもった声だけが落ちてくる。

 

「らでん! もう一度試すぞ!」

 

 ガロの叫び声とともに、白い煙の幕を突き抜けてロープの先端が宙へ飛んだ。

 すぐ頭上で、ガチン、と金属同士がぶつかり合う硬く澄んだ音が響く。

 

「――掛かった!」

 

 上でロープを引くガロの手応えが変わったのが、声の調子だけで分かった。

 ガロが一度、二度と強く体重をかけてロープを引き、ワイヤに回ったカラビナがしっかりと噛み合ったのを確かめる。

 

「今からロープを下ろすぞ!」

 

 白い煙の塊の中から、一本のロープがするすると垂れ下がってきて、らでんのすぐ目の前で風に揺れた。

 

「届きました!」

 

 らでんは声を張り上げて返事をした。

 けれど、その揺れるロープを掴むためには、今しがみついている鉄柵から片手を離さなければならない。

 らでんは自分の右手を見上げた。落ちた瞬間から全体重を支えて握りっぱなしだった指先は、血の気が引いて感覚が薄くなっている。おまけに、左肩の奥は脈打つたびに火がついたように熱い。

 もし片手を離した瞬間に右手の指が滑ったら、そのまま終わりだ。さっき小石が吸い込まれていった、あの底の見えない暗い谷底が脳裏をよぎる。

 

 白い煙の上から、はじめの声が飛んできた。

 

「らでん、取れ!」

「わ、分かりました!」

 

 返事はしたのに、鉄柵に食い込んだ指がぴくりとも言うことを聞かない。

 

「らでん!」

「今やります!」

 

 頭の中では、やるべき手順ははっきり分かっている。右手を鉄柵に残したまま、左手を離して目の前のロープを掴み、手首に巻きつけて身体を寄せる。

 たったそれだけのことだ。それだけなのに、貼りついた指がどうしても開かない。

 ――下を見るな。

 そう思ったときには、もう視線が足元へ落ちていた。何もない空間のずっと下へ、また小さな石ころが落ちていく。カン、と音が返ってくるまでの遠さを実感した瞬間、背筋が凍りつくような恐怖が初めて喉元までせり上がってきた。

 

「……っ」

 

 息が詰まり、身体が石のように固まる。

 そのとき、すぐ真上から声が降ってきた。さっきよりもずっと近い。土煙と白い煙幕の向こうなのに、すぐ耳元で呼ばれたみたいに鮮明な声だった。

 

「らでん! こっち見ろ!」

 

 弾かれたように顔を上げる。

 風に流れた煙のわずかな隙間から、崩落の縁ギリギリまで身を乗り出して腹這いになっているはじめの顔が見えた。落ちないように後ろからガロに腰のベルトを強く掴まれながら、真っ直ぐにこちらを見下ろしている。

 

「ロープなんか見んな! ……うちを見ろ!」

 

 はじめが、目を逸らすなと言うように全力で叫んだ。

 

「そのまま左手! 伸ばせ!」

 

 らでんは、はじめの目だけを見た。

 余計なことは何一つ考えなかった。ただその声に引っ張られるまま、鉄柵から左手をパッと離して前へ伸ばす。

 宙を切った左の指先に、ざらりとしたロープの繊維が触れた。

 

「もうちょい!」

 

 らでんは痛む左肩ごと、もう数センチだけ腕を伸ばした。掌の中に、太いロープの確かな感触が収まる。

 

「……取った!」

 

 叫んだらでんへ、上からガロの指示が飛ぶ。

 

「手首に巻け!」

 

 らでんは言われたとおり、掴んだロープを左腕へ一周、二周と強く巻きつけてから、残った右手も鉄柵から離して両手でロープにすがりついた。

 

「できました!」

 

 鉄柵から手が離れた瞬間、らでんの身体がふっと下へ落ち、胃の腑が浮き上がる。

 思わず声を上げた直後、ピンと張ったロープが全体重を受け止めた。巻きつけた左腕と肩、それに腰へ激しい衝撃が走ったが、落下はそこでぴたりと止まった。振り子のような揺れが収まる。

 

「よし、一気に上げるぞ!」

 

 ガロの掛け声とともに、ロープに強い力がかかった。上でガロとミナの二人がかりで引き上げている。腹這いになっていたはじめも起き上がり、自分の前のロープへ両手を掛けて必死に引っ張り始めた。

 ぐい、ぐいと身体が宙を上がっていく。崩れた崖の縁が、見る間に目の前へ迫ってくる。

 あと少しというところで、縁に膝をついたはじめが、片手をぐっと下へ伸ばしてきた。

 

「掴め!」

 

 らでんも必死で右手を伸ばした。

 土に汚れた小さな手と手が、空中でガッと掴み合う。冷え切っていた指先に、はじめの掌の強い温かさが一気に流れ込んできた。自分とそう変わらない小さな手なのに、驚くほど力が強い。

 同時に、横から踏み込んだガロがらでんの上着の襟首を片手で引っ掴み、そのまま安全な道の上へと一気に引きずり上げた。

 ガロは息をつく間もなく、索道のワイヤに掛けていたロープを巧みに振ってカラビナごと手早く回収し、自分の腰へと戻す。

 

 らでんは崩れ残った硬い道の上へ、背中からどさりと転がり落ちた。

 背中にゴツゴツとした小石と土の感触が伝わる。見上げた頭上には、薄れ始めた白い煙の切れ間から、嘘みたいに高い青空が覗いていた。

 数秒間、指先一つ動かせなかった。ただ激しく上下する胸の苦しさだけが、自分の身体がここにあることを教えてくれる。

 

 ――助かった。

 

 その実感だけが、少し遅れてじんわりと胸の奥へ染み渡ってきた。

 すぐ横を見れば、はじめも地面にぺたんと尻もちをついて座り込んでいる。肩で荒い息をしながら、汗と土埃で真っ黒になった顔でこちらを見ていた。

 らでんはしばらくその顔をじっと見つめてから、かすれた声で言った。

 

「……はじめさんって、ほんとバカですよね」

「はあ!? せっかく助けたのにそれ!?」

「だって、今のは本当に危なかったでしょう!」

「でも助かったじゃん!」

「それはたまたま上手くいった結果論ですから!」

「結果論でも助かったもんは助かった!」

 

 むきになって言い返すはじめに、らでんは「そういう問題じゃ――」と続けかけて、ふっと言葉を途切れさせた。

 荒い息が重なり、どちらからともなく黙り込む。

 ただ真っ直ぐに目が合った。らでんは胸の奥に溜まっていた空気を、ひとつだけ長く吐き出した。

 

「……ありがとうございます」

 

 すると、はじめは土だらけの頬をくしゃっと緩めて、いつもの声で笑った。

 

「おう」

 

 その一言だけで、今言いたかったことは全部通じた気がした。

 

 そこへ、上からガロの容赦ない声が降ってくる。

 

「おい。感動してるところ悪いが、まだ全然ピンチだぞ」

 

 二人は弾かれたように同時に振り返った。

 ガロはすでに身構え、背後の山道を睨みつけている。風に流されて煙幕が薄くなり、その向こうから走ってくる追手の人影がすぐそこまで迫っていた。

 一瞬にして、試験の現実が引き戻される。

 ミナはもう銀色のケースをしっかりと抱え直しており、ハインも立ち上がっていた。そのハインが、地面に座り込むらでんを一瞥して短く言う。

 

「すぐに行くぞ」

 

 らでんとはじめは慌てて地面を蹴って立ち上がった。

 五人全員で、再び前を向いて走り出す。土を蹴り上げ、先にある旧採石場へと向かう。

 背後からは、煙を抜けてきた追手の足音がまだしつこく追いかけてきていた。護送任務は何一つ終わっていない。

 それでも、らでんは走りながらちらりと自分の隣を見た。すぐ横に、さっきまでと変わらない軽快な靴音を響かせて走るはじめがいる。

 

 今(・)、(・)重(・)く(・)し(・)た(・)

 

 なんて無茶苦茶な理屈だろう、と改めて可笑しくなる。けれど、そう言い切ってくれたことがたまらなく嬉しかった。

 もう簡単に自分を諦めたりしない。ズキズキと疼く左肩の痛みも、焼けるように荒い息も、後ろから迫る足音も全部抱えたまま、らでんは前を向いて足を動かした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 崩落地点の旧搬送路を離れてから五分ほど、第四チームの五人は湿った土の道をひた走っていた。

 先頭を行くのはガロで、そのすぐ後ろに証人役のハインとミナ、次いでらでん、そして最後尾を走るのがはじめだ。

 さっきの救出劇の前とは、隊列の順番が少しだけ入れ替わっている。理由は単純で、鉄柵に全体重でぶら下がったときの衝撃が、らでんの左肩に重く残っていたからだ。走るために腕を振るたび、肩の関節の奥がずきりと鈍く痛む。

 

 すぐ前を走るミナが、さっきから何度も後ろを振り返っては、らでんの左肩の上がり方や眉間の歪み具合を観察していた。

 

「らでん、さっきより痛み強くなってない?」

「だ、大丈夫です」

「一番痛いときを十としたら、今は十段階でどれくらい?」

「……六くらいです」

「うん、まぁまぁの怪我ね。どこかで一度ちゃんと固定して手当てしなきゃ」

「とりあえず今はまだ普通に走れてるので!」

 

 二人のやり取りを聞きながら、先頭のガロが前を向いたまま短く言った。

 

「悪いが、治療は後回しだ。今はまだ真後ろを追われてる」

 

 ぐうの音も出ない正論だった。

 背後の山道からは、複数の足音が途切れずに響き続けている。さっき崖の手前で見えた追手の受験者たちは、崩落した箇所を斜面から迂回して、足を止めずに追いかけてきているらしい。

 向こうの本命は、間違いなく第四チームが持っている認証札だ。

 ただし、そのためにこちらの腕章から直接札をむしり取る必要はない。ハインが運んでいる銀色のケースさえ奪い取ってしまえば、第四チームは三十分以内にそれを取り戻さない限りその場で失格になる。ケースを人質にして、「失格になりたくなければ認証札を差し出せ」と交換を迫るつもりなのだ。さっき崖を崩して隊列を分断しようとしたのも、すべてはそのための布石に違いない。

 

 ガロが走りながら後方へ声を飛ばした。

 

「はじめ、後ろとの距離はどうだ!」

 

 最後尾のはじめが、走りながら首だけを巡らせて、目と耳の両方で背後の気配を測る。

 

「……ちょっとずつ追いついてきてる!」

「数は何人だ」

「見えてるのは三人!」

「四人目はどうだ!? 気配は分かるか!?」

「ううん、分かんない!」

 

 一チーム四人編成のはずなのに、後ろから追ってくるのが三人なら、もう一人足りない計算になる。

 最初から一人脱落しているのか、それともこの森の別ルートを使って先回りし、どこかでケースを狙って待ち伏せているのか。

 らでんは痛む左肩を右手で押さえながら、前方の木々の隙間を睨んだ。

 

「ガロさん、旧採石場まであと少しです! 三百メートルくらい!」

 

 鬱蒼としていた森の木々が途切れ、その向こうに灰色の巨大なコンクリートの壁が見えてきた。

 ガロが即座に決断を下す。

 

「よし、あそこへ入るぞ! 開けた場所で追手を迎え撃つ!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 旧採石施設は、山の斜面を巨大な階段状に大きく削り取って作られていた。

 入り口を抜けて最初に目に入ったのは、土砂崩れを防ぐための高いコンクリートの擁壁だ。切り立った白い岩肌が午後の強い日差しを照り返し、五人の走る靴音が乾いた反響を生む。

 広い敷地のあちこちには、赤錆びた長いベルトコンベアや巨大な砕石設備、資材置場の鉄骨、それに古びた作業小屋が点在していた。周囲の山道と違って視界が広く、どこから敵が近づいてきても一目で分かる構造になっている。

 

 敷地へ駆け込むなり、ガロがぴたりと足を止めて指示を飛ばした。

 

「ミナ!」

「何!?」

「証人とケースを連れて、一番奥にある管理棟へ入れ!」

 

 ミナが短く頷き、銀色のケースを胸元へ抱え直す。ハインもこの状況では文句一つ言わず、足早に建物の奥へと向かい始めた。

 ガロが続けて名前を呼ぶ。

 

「らでん」

「はい!」

「お前もミナたちと一緒に行け」

 

 らでんの足が、その場でピタリと止まった。

 

「……でも」

「左肩を痛めてるだろう」

「私を、ここの戦力に数えるなってことですか」

「ああ、今はな」

 

 ガロの言い方は、昨日から少しも変わらない素っ気ないものだった。

 けれど、熱を持って疼いている自分の左肩を意識すれば、それが意地悪で言っているのではないことくらいすぐに分かる。こんな遮蔽物の少ない広場で正面から乱戦になったら、片腕の使えない自分では足手まといになるだけだ。

 ガロはそのまま隣のはじめへ視線を移した。

 

「はじめ、お前は俺と一緒にここへ残れ」

「うん、残る」

 

 即答したはじめの顔を、ガロが一度だけじっと見下ろす。

 

「相手は少なくとも三人、こっちは二人で数では劣勢だ。無理だと判断したら、俺に構わずすぐ奥へ逃げろ」

「分かった」

「……全然分かってない顔だな」

「分かってるってば!」

 

 口を尖らせるはじめの横で、ミナがらでんの背中を軽く押した。

 

「ほら、らでん、行くわよ」

 

 らでんは促されるまま管理棟へ向かって数歩だけ走り出し――そこで、どうしても足が止まって後ろを振り返ってしまった。

 白い砕石の広がる広場の中央に、ガロと小さなはじめの二人だけが残っている。

 さっき、崖の下にいた自分を助けるために危険を冒して戻ってきてくれた子を、今度は自分が置いて逃げるのか。頭ではガロの作戦が正しいと分かっているのに、胸の奥がざらりと毛羽立って、靴底が地面に張りついたように動かない。

 その視線に気づいたはじめが、広場から大きく手を振って叫んだ。

 

「らでん!」

「……はい!」

「早く行け!」

 

 その真っ直ぐな言い方は、さっき崖の下から自分が必死に叫んだ言葉とまったく同じだった。

 立場がすっかり逆転していることに気づいて、らでんの唇からふっと小さな笑みが漏れる。

 

「……あとで絶対来てくださいよ!」

「もち!」

「私たち、仲間ですもんね!」

 

 大きな声で念を押すと、はじめの顔が一瞬だけ照れくさそうにニヤッとした。

 

「うっさい、今さら確認すんな!」

「重くしたの、そっちですからね!」

 

 言い返した直後、横からガロの雷が落ちた。

 

「いいから早く行けェッ!!」

 

 二人まとめて怒鳴りつけられ、らでんは首をすくめて今度こそ管理棟へと駆け出した。靴底が白い砕石を強く蹴り上げる。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 数分後、採石場の開けた砕石の上で、ガロとはじめの二人は追ってきた三人の受験者と正面から向き合っていた。

 敵の先頭に立つのは、さっき山道で衝撃弾と煙幕の金属筒を投げてきた、二十代半ばくらいの細身の男だ。その左隣にはガロにも見劣りしない体格のいい女が立ち、少し後ろには年の頃四十代ほどの落ち着いた男が控えている。

 追手の三人もすぐには突っ込んではこず、こちらの戦力を測るように一定の距離を取って足を止めた。

 

 先頭の細身の男が、らでんたちの消えた奥の建物をちらりと見て口を開いた。乾いた声がコンクリートの壁に反響する。

 

「へえ。さっきの崩落で、一人は確実に谷へ落ちたと思ったんだけどな」

 

 ガロは低く構えたまま、表情一つ変えずに返した。

 

「残念だったな」

 

 男はわざとらしく肩をすくめてみせる。

 

「わざわざ戻って助けたの?」

「見れば分かるだろ」

「ふうん。それで、肝心の証人とケースはどこかな?」

 

 ガロは答えない。視線すら一ミリも動かさなかった。

 それでも、ここに二人しかいないこと自体が答えになっている。男は薄く笑って顎をしゃくった。

 

「なるほど、あの奥の管理棟か」

 

 男が建物の脇を抜けるように一歩踏み出しかけた瞬間、その正面へはじめがタッと軽く飛び出して立ち塞がった。

 

「そっちへは行かせないよ」

 

 細身の男が足を止め、目の前の小さな少女を見下ろして鼻で笑った。

 

「君が止めるの?」

「うん、うちが」

「ずいぶん生意気なガキだね。歳は、十二くらい?」

「そうだけど、何か問題ある?」

「大人三人を相手にするのは無理じゃないかな」

「無理かどうか、やってみれば?」

 

 挑発するように笑うはじめに、男の横にいた体格のいい女がバキバキと拳を鳴らして笑った。

 

「あはは、威勢がいいねえ!」

 

 はじめも負けじと、その女を真っ直ぐに見据えて言い返した。

 

「そっちもね!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 最初に仕掛けたのは、その体格のいい女だった。地面の砕石を蹴散らし、はじめへ向かって真正面から突進してくる。

 繰り出された太い右拳を、はじめは半歩横に飛んでかわした。

 ビュッ、と耳元で空気の裂ける重い音が鳴る。一撃、二撃と続くラッシュは、午前に浄水管理所で戦ったあの古風な少女の鋭い技とはまるで違う、純粋な腕力と体重を乗せたパワータイプだ。

 こんな一撃をまともに腕で受けたら、体格差のあるはじめの身体など簡単に吹き飛ばされてしまう。それが肌で分かっているから、はじめは最初から「絶対に当たらないこと」だけに神経を集中させた。

 

 空を切り続ける拳に、女が苛立たしげに吠える。

 

「っ、ちょこまかと逃げ回るんじゃないよ!」

「だって、それ当たったら絶対痛そうだし!」

「痛くするために殴ってんだ、当たり前だろ!」

 

 大振りの右フックが風を切るのを、はじめは首を傾けて紙一重でやり過ごす。

 直後、女が狙いを変えて低い回し蹴りで脚を払ってきた。はじめは咄嗟に真上へ跳び上がってそれをかわしたが、着地した瞬間に砕石の上で靴が滑り、膝へピリッとした衝撃が走る。

 その隙を逃さず女が掴みかかってきた。だが、はじめはすぐ脇にあった錆びたベルトコンベアの鉄支柱へ片手をパッと掛け、そこを支点にして自分の身体をくるりと独楽のように回転させた。そのまま女の脇の下をすり抜けて背後へと回り込む。

 まるで飛行船の夜に遊んでいたときみたいに、自分の身体が気持ちよく流れる。

 

 振り返った女が、信じられないものを見るように目を見開いた。

 

「……なんだい、今の動きは」

 

 聞かれたはじめ自身にも、今どうやって回ったのかうまく説明できない。だから、肩で息をしながら元気よく言い返した。

 

「知らん!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そのすぐ横では、ガロと先頭の細身の男が激しくぶつかり合っていた。

 男の右手に握られているのは、黒い訓練用の短い警棒だ。正面から鋭く振り下ろされた一撃を、ガロはあえて避けず、鍛えた左の前腕でガッと受け止めた。

 ゴッ、と鈍い音が響き、衝撃で互いの足が砕石の上を一歩後ろへ滑る。

 

 警棒を引いた男が、自分の手首を振って顔をしかめた。

 

「……っ、腕、固っ」

「お互い様だ」

 

 ガロが短く返すなり、男は狙いを下げてガロの膝頭を警棒で突こうとした。

 だが、ガロは足を上げて避けようとはしない。こんな足元の悪い砕石の上で片足を浮かせれば、それだけで重心が崩れる。代わりにガロは、前に向かって深く踏み込んだ。

 棒の軌道が伸びきる前に懐の間合いを潰し、自分の分厚い肩と胸を男の胴体へまともに叩きつける。体重を乗せた体当たりに、男はたまらず数歩後ろへと弾き飛ばされた。

 それでも男がすぐに体勢を立て直した、まさにその瞬間だった。

 今まで後ろで様子を窺っていた三人目の年長の男が、音もなくガロの右側の死角から回り込んできたのだ。

 

 離れた場所で女をかわしていたはじめの視界の端に、その動きが映った。

 

「ガロ! 右!」

 

 はじめの鋭い声が飛ぶ。

 ガロはそちらを振り向きもしなかった。ただ、その声を聞いた瞬間に自分の右足を半歩だけ後ろへ引いた。

 直後、ガロの鼻先を三人目の男の重い拳がかすめて空を切る。ガロはバランスを崩したその男の襟首を引っ掴み、勢いをそのまま利用して、すぐ横にあった採石用の鉄柵へと力任せに押し込んだ。ガシャアンッ、と激しい金属音が広場じゅうに響き渡る。

 

「ぐっ……!」

 

 鉄柵に背中を打ちつけた三人目の男が苦しげに呻く。

 向こうで女と距離を取ったはじめが、目を丸くして声を飛ばした。

 

「ガロ、今の見えてたの!?」

「いや、全然見えてない!」

「ええっ!?」

「お前の声を信じた、それだけだ! ――ほら、一人そっちへ行ったぞ!」

 

 ガロの言葉どおり、体勢を立て直した細身の男がはじめの方へと回り込んでいく。

 二対三という数の不利があるにもかかわらず、第四チームの防衛線は少しも崩れていなかった。理由はとても単純だ。

 ガロもはじめも、ここで敵を倒して勝とうなんて少しも思っていない。「一人たりとも奥の管理棟へ行かせない」、ただそれだけに徹しているからだ。

 ガロが中央にどっしりと構えて重い攻撃を引き受け、はじめが広い敷地の左右を縦横無尽に走り回って攪乱する。二人で挟み撃ちにされそうになれば、錆びたコンベアの支柱や砕石の山を盾にしてスルリと距離をリセットする。広場にあるすべての設備を壁にし、足場にして、相手が望む正面からの殴り合いを決して許さなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 一方、広場の奥にある二階建ての管理棟では、らでんが二階の汚れた窓ガラス越しに外の戦いを見守っていた。

 コンベアの支柱を使ってくるくると女を翻弄するはじめと、鉄柵を使って敵を押さえ込むガロ。自分とは動き方も力の強さも全然違うけれど、周りにある設備や足場をフルに使って戦っているところは今の自分と同じだ、とどこか誇らしい気持ちになる。

 

 まさにそのときだった。

 窓の反対側、部屋の背後にある廊下の方から、カチャ、と小さな金属の擦れる音が響いた。古い階段の木材が軋む音とは明らかに違う、誰かが装備品を揺らした音だ。

 らでんは弾かれたように後ろを振り返った。階段の下から、誰かが足音を忍ばせて上がってくる気配がする。

 隣にいたミナも同時に気づき、二人は無言で顔を見合わせた。奥の壁際では、ハインが銀色のケースを両腕に抱えて立っている。

 らでんの背筋に、冷たい汗がすっと伝った。

 ――外の三人だけじゃなかった。やっぱり、四人目がいたんだ!

 あの三人が正面から騒ぎを起こしてガロたちを引きつけている間に、最後の一人が別ルートからこの管理棟へ直接回り込んできたに違いない。

 

「……ミナさん」

「うん」

 

 ミナが迷いなく一歩前へ出て、ハインと銀色のケースを背後に隠すように自分の身体で壁を作った。

 らでんも無意識のうちにミナの斜め横へと位置を取る。

 左肩は今もズキズキと疼いていて、腕を肩より上に持ち上げようとするだけで痛みが響く。まともに打ち合える状態ではない。けれど、ここでただ震えて見ているだけの選択肢など最初からなかった。

 廊下の足音が入り口の前で止まり――錆びた鉄扉が、ゆっくりと押し開かれた。

 

 姿を現したのは、十七、八歳くらいの小柄な少年だった。

 その右手には、刃先を丸く潰した訓練用のナイフが逆手に握られている。殺傷力のない訓練用とはいえ、鈍く光る金属の厚みは十分で、まともに急所へ叩き込まれればただでは済まない。

 少年は部屋の中の三人を見渡し、余裕たっぷりに口元を歪めた。

 

「あー、やっぱりここにいた。見つけたよ」

 

 盾になって立つミナが、眼鏡の奥の目を細めて静かに問いかけた。

 

「あなた、そのケースが狙い? それとも私たちの認証札?」

 

 少年はミナの後ろにある銀色のケースへちらりと視線を送り、あっさりと答えた。

 

「もちろん、本命は認証札さ。でも、直接奪うよりそっちのケースを押さえた方が早いだろ? 三十分で失格になるんだから、ケースを返してほしければ大人しく札を渡さざるを得ないもんね」

 

 やっぱり、さっきガロたちが読んでいたとおりの狙いだ。ミナは小さく息を吐いた。

 

「ずいぶん回りくどいやり方をするのね」

「確実と言ってほしいな。そういうわけだから、ここは勝たせてもらうよ」

 

 少年がナイフを構え直した瞬間、らでんは反射的に半歩前へ出ようとした。

 だが、それをミナの左腕がすっと横に伸びて制する。

 

「らでんは下がってて。あなた、肩を怪我してるでしょ」

「で、でも!」

「ここは私がやるから」

「ミナさん……!」

 

 心配そうに声を上げるらでんに、ミナは前を向いたまま、落ち着いた声で言った。

 

「言ったでしょ。私、危ない現場から人を逃がすのが専門なの」

 

 チームを組んだとき、本人が語っていたとおりだ。救急救命士として、暴れる患者や危険な現場から自分の身を守って逃げるくらいの護身術なら身につけている。

 けれど、今のこの二階の部屋には逃げ道がほとんどない。背後は窓、入り口の階段は目の前の少年に塞がれている。部屋の中にあるのは古い事務机とパイプ椅子、それに壁際の消火器くらいで、開けた窓から吹き込む風が埃っぽい空気を揺らしていた。

 

 ミナは視線だけで背後の窓際を示し、短く声を飛ばした。

 

「ハインさん、もっと窓側へ下がって!」

 

 言われたハインが、ケースを抱えたまま後ろへ下がる。

 そのとき、らでんの目がふとハインの足元に吸い寄せられた。これだけ古い床板の部屋なのに、ハインが足を置く場所からはミシリとも音が鳴らない。どこを踏めば床が軋まないかを最初から知っているみたいに、迷いなく滑らかに移動している。

 ――やっぱり、この人……ただの一般人じゃない?

 

 らでんがそう思った直後、少年が弾かれたように床を蹴ってミナへ突きかかった。

 目の前へ迫った訓練ナイフの側面を、ミナは上体を半身に捻りながら自分の前腕でパッと外へ叩き払う。

 だが、少年は手首を返して驚くほど速い二撃目を横に薙いだ。ミナは咄嗟に後ろへ仰け反ったが、完全には躱しきれず、上着の袖口がスパッと裂けて浅い血が滲む。

 

「ミナさん!」

「大丈夫、かすり傷よ!」

 

 らでんの叫びに答えながら、ミナはすぐに体勢を立て直してハインの前を塞ぐ。

 ナイフを引いた少年が、感心したように目を丸くして笑った。

 

「へえ、お姉さん、本当にただの救急救命士?」

「そうだけど」

「にしては、結構ちゃんと動けるじゃん」

「搬送中にパニックになって暴れる患者さんもいるからね!」

「へえ、その対応でナイフまで避けられるわけ?」

「ナイフを避けたのは、今のが人生で初めてよ!」

 

 ミナの堂々とした答えに、後ろのらでんは思わず素っ頓狂な声を上げた。

 

「ええっ、今のが初めてなんですか!?」

「ちょっとらでん、今すごく集中してるから後ろからツッコまないで!」

 

 そんなやり取りの隙を突いて、少年はミナの横をすり抜けるように低く踏み込み、奥のハインへと真っ直ぐに突進した。

 ミナが慌てて足を伸ばすが、一歩遅い。少年の握る訓練ナイフが、ハインの抱える銀色のケースへと伸びる。

 ――止めなきゃ!

 らでんは痛む左肩の代わりに、自分の足元を見た。事務机、パイプ椅子、壁の消火器。少年は右手にナイフを握っていて、意識は完全に正面のハインへ向いている。

 なら、とらでんはすぐ横にあったパイプ椅子の脚を、右足で思いきり蹴り飛ばした。

 ガシャアン! と激しい音を立てて、鉄の椅子が少年の足元へと滑り込む。

 

「っ!」

 

 少年が咄嗟に跳んで椅子をかわし、空中で体勢が浮いた。

 その一瞬の隙を逃さず、横から飛び込んだミナが自分の肩を少年の脇腹へと強くぶつける。少年はたたらを踏んで部屋の壁へぶつかったが、それでも倒れずにすぐさま床を蹴り返した。

 

「ちっ、邪魔するな!」

「邪魔するのが私の仕事よ!」

 

 荒い息で言い返したミナの肩を、少年が空いた左手で掴んで強引に手前へと引き倒す。

 ミナのバランスが崩れて脇が空いた。少年の目が光り、今度こそ無防備になった奥のハイン――その腕の中の銀色のケースへ向かって、真っ直ぐに手が伸びた。

 

 その瞬間、ハインがまた音のしない床板の上をすっと動いた。

 ほんの半歩、右へ重心を移しただけだ。それだけで、少年の伸ばした指先が虚しく空を切る。同時にハインの左肩がわずかに下がり、抱えていたケースが自分の胴体の影へと綺麗に隠れた。

 少年が舌打ちして、すぐさま二の手を伸ばす。だが、ハインはまたしても半歩だけ後ろへ滑ってそれをかわした。

 一度目も二度目も、傍目には慌てて身をよじっただけの紙一重の回避に見える。けれど、じっと足元を見ていたらでんにははっきりと分かった。

 ――違う。これ、まぐれなんかじゃない!

 ハインの顔は、昨日からずっと見てきた「ちょっと不機嫌そうでくたびれた中年男」のままで、額にはそれらしく冷や汗まで浮かべている。それなのに、膝の柔らかさと足の重心の置き方だけが、素人とは決定的に違っていた。

 

 目の前で二度も手を空振りした少年も、さすがにその違和感に気づいたらしい。

 ナイフを握る右手がぴたりと止まる。少年はハインの足元から顔へとゆっくり視線を上げ、低く呟いた。

 

「……ねえ、おっさん。あんた、本当にただの一般人役?」

 

 ハインは何も答えない。額の汗を拭おうとすらしなかった。

 少年は一歩後ろへ引き、逆に楽しそうにニヤリと口の端を吊り上げた。

 

「へえ……面白いじゃん」

 

 次の瞬間、少年の踏み込みの速度が一段階上がった。

 狙ったのは銀色のケースではない。ハイン自身の無防備な胸元へ向かって、訓練用のナイフが一直線に突き出される。刃が潰してあるとはいえ、あの速度で胸骨に直撃すれば、試験の判定では間違いなく重傷扱いになる一撃だ。

 

 だが、ハインは後ろへ逃げなかった。

 その場で、すっと膝を折って身体を低く沈めたのだ。たったそれだけの最小限の動きで、少年の突き出したナイフがハインの肩の上を通り過ぎる。

 そのままハインの片手がケースから離れ、伸びきった少年の右手首を下からそっと掴んだ。ほんの一瞬の接触だった。

 けれど、らでんの目には、その指の掛け方と角度が、恐ろしいくらい綺麗で無駄のない「完成された形」に見えた。

 ハインは少年の腕を捻り上げることも、関節を折ることもしなかった。ただ、少年自身が踏み込んできた突進の勢いに合わせて、掴んだ手首の向きをほんの少しだけ横へとずらしてやっただけだ。

 それだけで、少年の身体は自分の勢いに引っ張られるようにして真横へと流れ、部屋の中央にあった古い事務机へと派手に突っ込んだ。ガシャアンッ、と木の天板が跳ねる凄まじい音が響く。

 

「うわあっ!?」

 

 机にぶつかって少年が声を上げたときには、ハインはもう何事もなかったかのように元の不機嫌そうな姿勢へ戻り、両腕で大人しく銀色のケースを抱え直していた。息すら少しも乱れていない。

 

 部屋の中に、奇妙な沈黙が落ちた。

 床に手をついていたミナも、壁際のらでんも、机に突っ込んだ少年までもが、目を丸くして一斉にハインを見つめる。

 三人の視線を受けたハインは、心底面倒くさそうに眉間へ皺を寄せたが、結局ひとことも弁解しなかった。

 らでんは引きつった頬で、思わず即座にツッコミを入れた。

 

「……あの、今の動きで一般人役と言い張るのは、さすがに無理がありますよ」

 

 まさにそのときだった。

 窓の外の広場から、ガコン、ゴゴゴゴッ、と重い鉄の塊が動き出すような凄まじい駆動音が響き渡った。

 続いて、コンクリートの壁にビリビリと反響するガロの怒号が届く。

 

「はじめ! 今だ!」

「おう!」

 

 外の戦況が大きく動いたのだ。机の脇で身を起こしかけていた少年が、反射的に窓の外へと目を奪われる。

 その一瞬のよそ見を、ミナは見逃さなかった。足元の壁際に置かれていた赤い消火器を、少年の目の前へと力いっぱい蹴り転がす。

 転がってきた鉄の筒に、少年が「っ!」と後ろへ飛び退いた。

 そこへらでんが駆け寄り、床の消火器の黄色い安全ピンを右手で一気に引き抜いた。そのままホースを少年の方へ向けてレバーを強く握り込むと、ブシュウウウッ! という激しい噴射音とともに、真っ白な消火剤の粉が部屋じゅうへ爆発的に噴き出した。

 さっき崖の上で食らった煙幕のお返しとばかりに、二階の部屋が一瞬で白い粉の霧に包まれる。

 

「うわっ、くそっ、げほっ、げほっ!」

 

 白い粉の向こうから、少年の激しく咳き込む声が響いた。

 らでんは消火器を放り出し、白い煙の向こうへ声を張り上げて言い返した。

 

「こういう視界の撹乱って、使うとすっごく便利なんですよ!」

 

 横からミナがらでんの右手を取る。

 

「よし、今のうちに下へ!」

 

 ミナ、らでん、ハインの三人は、白い粉が充満する部屋を飛び出して階段へと駆け下りた。

 すぐ前を下りていくハインの足取りは、やっぱりケースを抱えているとは思えないほど軽やかで、妙に速い。一番下まで駆け下りても、その背中からは荒い息ひとつ聞こえてこなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 管理棟の一階から外へ飛び出すと、広場での戦いもまさしく決着がつく瞬間だった。

 砕石設備の脇に立ったガロが、錆びついた配電盤の横にある大きな手動レバーを力いっぱい引き下ろしている。

 試験会場として最低限の通電と整備だけは残されていたのだろう。ガタン、と大きな音を立てて、広場を横切る古いベルトコンベアのゴム帯が突然ガタガタと音を立てて回り始めた。

 予想外の轟音と振動に、追手の三人の注意が一斉にコンベアの方へと向く。

 その隙に、はじめが動くベルトのすぐ横にある鉄の傾斜フレームを、タタッとリスのような速さで駆け上がった。

 そのまま上から宙へと跳び出し、下で構えていた体格のいい女の肩口へ両手をパッと突く。そこを跳び箱の支点にするようにして空中でくるりと身体を反転させ、女の真後ろの地面へと綺麗に着地した。

 女が「えっ!?」と振り返るより早く、はじめは小さな両掌で女の背中を思いきり前へと突き飛ばした。

 不意を突かれた女が大きく前へつんのめり、足元の不安定な砕石の上で靴底を滑らせて、派手に尻もちをつく。

 

「うわっ!」

 

 女が悔しそうに声を上げたときには、はじめはもう追撃などせず、くるりと背を向けて駆け出していた。肩で大きく息を切らしている。

 レバーから手を離したガロが、広場に響く声で号令をかけた。

 

「よし、今だ! 全員、管理棟の裏へ抜けろ!」

 

 ガロとはじめが駆け込み、ちょうど建物から飛び出してきたミナたち三人と裏手でピタリと合流する。

 走りながら、汗と土埃、それに消火器の白い粉にまみれたらでんとはじめの目が合った。

 二人の口から、まったく同時に同じ言葉が飛び出す。

 

「「大丈夫!?」」

 

 ハッとして一瞬だけ顔を見合わせ、それからすぐにはじめがにっと笑った。

 

「こっちは全然平気!」

「こっちも平気です!」

 

 そのすぐ横で走るミナが、肩で荒い息をしながら苦笑いして混ぜっ返した。

 

「……ねえ、じゃあ全然平気じゃない人はどうすればいいの?」

 

 先頭へ出たガロが、足を少しも緩めずに前を向いたまま答える。

 

「悪いが、それも後だ! 今はとにかく走れ!」

 

 後ろの広場からは、体勢を立て直した追手たちの怒鳴り声と足音がまだ追いかけてきていたが、コンクリートの壁に反響するその音はさっきよりずっと遠く、確かな距離が開いていた。

 

 五人は採石場の北側にある裏口を抜け、かつて大型ダンプが砂利を運ぶために使っていたらしい、深い轍の残る作業道へと飛び出した。

 そのまま十分、十五分、二十分と足を止めずに走り続ける。やがて足元の白い砕石が消えて柔らかい腐葉土に変わり、頭上を覆う木々の枝葉が深くなっていった。

 背後から聞こえていた追手の足音は少しずつ遠ざかり、ついには完全に消え失せる。

 耳に届くのが、木々を揺らす風の音と鳥のさえずりだけになっても、慎重なガロはそこからさらに十分間、一度も足を止めようとはしなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後四時九分。

 小さな谷を一つ越えて、外から見通せない木立の窪地へと入ったところで、ようやく先頭のガロが足を止めた。

 

「……よし、ここで一度止まるぞ」

 

 その一言が落ちた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように全員がその場へ座り込んだ。

 はじめに至っては、柔らかい土の上へ背中からバタリと倒れ込み、手足を広げて完全な大の字になる。

 

「あーっ、逃げ切れたっ……やったぁ……」

 

 気の抜けた声で呟くはじめの横で、らでんは近くの木の幹にそっと背中を預けた。

 ミナだけは自分の息を整えるより先にすぐさま鞄を開け、順番に全員の怪我の具合を確かめて回る。

 ガロは広場で警棒を受けた左腕に鈍い打撲を負っており、大の字になったはじめは、跳んで着地したときに擦りむいたらしい膝小僧の土を手で払っていた。

 らでんはミナの指示に従って左腕を動かし、肩の痛みがさっきより悪化していないかを確かめる。ミナの処置のおかげか、動かさなければ痛みは少しずつ落ち着いてきていた。ミナ自身の裂けた袖口の傷も、皮膚を浅くかすめただけで血はもう止まっている。

 一通りの確認を終えたミナは、最後に木の根元へ腰を下ろしている証人役のハインへと目を向けた。

 

「ハインさんは……ええと、完全に無傷ね」

 

 それどころか、これだけ山道を全力疾走してきたというのに、ハインは呼吸の乱れすら誰より少なかった。

 ミナの言葉に、その場にいた四人の視線がぴたりとハイン一人へと集まる。

 じっと見つめられたハインが、仏頂面で眉をひそめた。

 

「……何だ、その目は」

 

 ガロは地面に腰を下ろしたまま、足元の小石を指で転がして、低く切り出した。

 

「お前、一体何者だよ」

 

 ハインはすぐには答えず、腰の水筒を開けてゆっくりと一口だけ水を飲んだ。

 ミナが呆れたように言葉を継ぐ。

 

「さっき管理棟の二階で、ナイフを持った子の攻撃をすごい身のこなしで避けてたわよね」

 

 らでんも大きく首を縦に振った。

 

「はい、私もばっちり見ました」

 

 するとハインは、水筒の蓋を閉めながら心底面倒くさそうな顔をした。

 

「あんなものは、たまたまだ。目の前で命を狙われそうになったら、護衛対象の一般人だろうと必死で手足を動かして抵抗くらいするだろう」

 

 しらを切り通そうとするハインに、らでんはすかさず首を横に振った。

 

「いえ、真正面からのナイフをかわした挙げ句、そのまま相手の手首を取って机に流す一般人は、絶対に『たまたま』じゃありません」

 

 ぐうの音も出ない指摘に、ハインは「やれやれ」とでも言いたげに肩をすくめた。

 地面に寝転がっていたはじめが、顔だけをこちらへ向けて乾いた笑いを漏らす。

 

「はは、もうバレバレなんだから諦めろって」

 

 そう言われると、ハインもほんのわずかだけ苦笑するように口元を緩めた。けれど、自分が何者なのか、その先の言葉だけは決して口にしようとしなかった。

 土の上で片膝を抱えていたガロは、しばらくハインの顔を黙って見つめていたが、やがてそれ以上深く追及するのをやめて言った。

 

「……まあ、言いたくない事情があるなら今は聞かん。ただし、この先の護送任務に関わることなら隠さずに話せ」

「ああ。その必要になったら話す」

 

 ハインが短く頷き、頭上の木々の葉が風に擦れるサラサラという音だけが静かに落ちた。

 もちろん、こんな答えで心から納得した者は一人もいない。

 けれど、今の第四チームはそれで先へ進める。残り少なくなった水筒の水と、それぞれの身体の痛みを抱えたままでも、前に進むことはできる。

 同じチームだからといって、全員が自分のすべてを打ち明けているわけではない。それでも、少なくともこの試験が終わるまでは、五人で同じ目的地へ向かって走るのだ。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その頃、旧採石施設から数キロ離れた山中の監視所では、薄暗いコンクリートの部屋にいくつものモニター画面が青白く浮かび上がっていた。

 部屋の中央で太い腕を組んで画面を見つめているのは、第三次試験の試験官であるボトバイ=ギガンテだ。そのすぐ脇には、記録用のバインダーを抱えた補助試験官が控えている。

 

 補助試験官が、手元の時計とデータを照らし合わせて淡々と報告を上げた。

 

「第四チーム、旧搬送路での崩落および救助活動のため、予定より約十一分の遅延。その後、旧採石施設にて他チームの追撃を迎撃し突破。現在、護送対象の証人、証拠品ケースともに確保。他チームの認証札も一枚保持しています」

 

 ボトバイは腕を組んだまま、低く「そうか」とだけ応じた。

 補助試験官がペンを構えて尋ねる。

 

「各員の評価はいかがいたしますか?」

「まず轟はじめ。崖での救助判断は危うい」

 

 ボトバイの厳しい目が、モニターの一つへと向けられる。そこには、一度は先へ進みかけたはじめが、崩落の縁へと駆け戻っていく記録映像が映し出されていた。

 

「具体的な救助方法も持たないまま、ただの感情で危険地帯へ戻った。一歩間違えれば二次遭難だ。……しかし」

 

 画面の中では、腹這いになったはじめが崖の下のらでんへ声を飛ばし、二人で索道の鉄柱を見つけ出し、ガロが作った支点のロープをチーム全員で引き上げていた。

 

「感情で戻ったことそのものと、戻った後に思考を放棄せず最善を探したことは、切り分けて評価する」

 

 補助試験官が静かにペンを走らせ、次の名前を挙げた。

 

「続いて儒烏風亭らでん。落下直後、自分を置いて先へ行けとチームへ要求した判断については?」

 

 ボトバイはわずかに太い眉を動かした。

 

「現場ではな、他人を切り捨てる判断より、自分一人を切る判断の方がずっと簡単にできる奴もいる」

 

 モニターには、片腕の痛みに耐えて鉄柵にぶら下がりながら、首を動かさずに目だけで周囲の岩肌を探り、古い搬送索道のワイヤを見つけ出したらでんの顔が映っている。ボトバイは低く言葉を継いだ。

 

「だが、助けられる側に回った後も、他人任せにせず自分で活路を探すのを止めなかった。そこはいい」

 

 補助試験官が頷き、三番目の項目を読み上げる。

 

「次、ガロ。救助手段の検討と構築に三十秒の明確な期限を設定。救出成功後は採石場での迎撃を最小限に抑えて撤退を指揮。極めて堅実です」

「加点だ。常に全体の視野が広く、状況判断も的確でブレがない。ああいう男はチームのリーダーに向いている」

 

 ボトバイが即答すると、補助試験官は四人目の名前を口にした。

 

「ミナ。終始、救命と証人の保護を最優先に行動。チームの維持に大きく寄与しています」

「減点なし。自分の戦闘力の限界と、現場で自分にできる役割を冷静に見極めて貢献できている」

 

 そこまで記録し終えた補助試験官が、最後に少しだけ声のトーンを変えて言った。

 

「そして最後……第四チームの証人役、ハインですが」

 

 その名前が出た瞬間、ボトバイの視線が別モニターの再生画面へとぴたりと止まった。

 補助試験官が、画面を見ながら苦笑混じりに言う。

 

「少し、予定より早いですね」

「何がだ」

「素が出るのが、ですよ」

 

 画面の中では、管理棟の二階でナイフを突き出してきた少年の攻撃をハインが最小限の沈み込みでかわし、手首を綺麗に取って事務机へと受け流す一部始終が鮮明に映し出されていた。

 ボトバイはしばらく無言でその映像を見つめていたが、やがて数秒の間を置いてから、短く命じた。

 

「……そのまま監視を続けろ」

 

 補助試験官が「はっ」と頷いて操作盤のキーを叩くと、メインモニターの表示が切り替わり、別のエリアを進むチームの現在映像が映し出された。

 場所は荒れた河原の近く、崩れかけた古い倉庫の影だ。

 そこでは、受験者の男が一人生々しく足首を負傷して地面に片膝をついていた。どうにか立ち上がって歩けそうではあるが、通常のペースからは明らかに遅れている。

 その負傷者のすぐ横に立っているのは、小太りで人懐っこそうな顔をした常連受験者――トンパだった。

 トンパが負傷者を見下ろして、あっさりと言った。

 

「わりぃが、お前はここに置いていくぞ」

 

 負傷した受験者が、弾かれたように顔を上げてトンパの裾にすがりつく。

 

「ま、待ってくれ! まだ歩ける!」

「いや、その足で引きずって歩かれたら、制限時間までに裁判所へ間に合わないって」

「添え木で固定すれば、もっと速く歩けるようになる! 頼むよ!」

「そういうのは知らないよ」

 

 トンパはすげなく手を振り払うと、後ろにいた証人役と他のチームメンバーへ向かって顎をしゃくった。

 

「ほら、置いて先へ行こうぜ」

 

 メンバーの一人が、痛々しくうずくまる仲間を見て迷うように足を止める。

 

「……でも、このまま置いていくのは」

 

 するとトンパは、いつもの愛想のいい笑顔を顔に貼りつけたまま、ひどく乾いた声で言った。

 

「だってさ、この試験のルールじゃ、最初にいたメンバーが全員揃ってゴールしなくてもいいんだろ? だったら、足手まといは切って、使える奴だけで先へ行くのが一番の正解じゃないか?」

 

 監視所の暗い部屋の中で、ボトバイは腕を組んだまま黙ってその画面を見下ろしていた。

 補助試験官が次の指示を待つように記録用のペンを構える。

 この場で失格の宣告が出ることは、まだなかった。けれど、モニターを見つめるボトバイの瞳は、さっき第四チームの無茶な救出劇を見ていたときよりも、はるかに冷たく静まり返っていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後四時半。

 二十分ほどの短い休息を終えた第四チームは、再び林の窪地から出発した。第三次試験の終了期限まで、残り時間はおよそ三十一時間半。

 らでんは柔らかい土の道を歩きながら、自分の前を行く背中を順番に見つめた。

 先頭で周囲に目を配るガロ、銀色のケースを抱えて黙々と歩くハイン、いつでも手当てができるよう近くに寄り添うミナ、そして少し先を軽快な足取りで歩くはじめ。

 試験場でこのメンバーが揃ったばかりの頃なら、ただ「一緒に試験を受けるチーム」でしかなかった。

 けれど、今は少し違う。左肩の奥に居座る鈍い痛みも、服に染みついた土埃と煙の匂いも、背後から迫ってきた追手の足音も、その全部をこの五人で一緒に越えてきたのだ。

 昨日までと何がどう変わったのか、まだ自分でもうまく言葉にはできないけれど。

 

 そのとき、少し前を歩いていたはじめが、木々の隙間から差し込む夕方の逆光の中でくるりと振り返った。

 

「らでん!」

「はい?」

「そっちの荷物、うちが持とうか?」

 

 不意の申し出に、らでんは一度だけ瞬きをしてから、痛む左肩にそっと触れた。さっきの崖のこともあったし、ここで変に遠慮して意地を張るのはもうやめようと思った。

 

「……そうですね。まだ少し左肩が痛むので、お願いしてもいいですか」

 

 そう答えると、はじめがタタッと小走りで戻ってきて、らでんの背負っていた荷物へ迷いなく手を伸ばした。

 

「よし、じゃあ半分な」

「えっ、全部でもいいですよ?」

「調子乗んなっ!」

 

 間髪入れずに飛んできたツッコミに、らでんは思わず吹き出した。

 そんななんてことのないいつものやり取りだけで、ずきずきと重かった左肩の痛みが、ほんの少しだけ軽くなった気がする。それがなんだかとても嬉しかった。

 傾き始めた西日を背に受けて、五人の影が山道に長く伸びていく。長い二日目は、まだ終わっていない。

 

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