午後五時を回るころには、山の光はもう傾き始めていた。
旧採石場を離れてから一時間あまり。第四チームは、地図にも名前の載っていない小さな管理道を北西へ進んでいた。道と呼ぶには心許ない。
かつては林業用の車両が通っていたらしいが、舗装はところどころ剥がれ、路肩には背の高い草が入り込んでいる。右手には斜面、左手には谷が落ち、足を踏み外せばそのまま滑り落ちそうな細さだ。
先ほどまでのような明確な追手の気配はなく、視界も比較的開けている。
だからといって、誰も油断はしていなかった。
一度「追われている」と身体が覚えてしまうと、鳥が枝を揺らした音すら妙に耳につく。
狭い道では背後を取られやすく、疲れた足ではとっさの回避も遅れることを、全員が昼の逃走で学んでいた。
先頭を歩くガロは、ときどき歩調を落として後ろを確認した。
その後ろにハイン、ミナ、らでんと続き、最後尾にはじめがいた。
左肩を庇うため、らでんの荷物の半分ほどがはじめの背中へ移っていた。
「……重くないです?」
「全然」
「結構量ありますよ」
はじめが返した。
「らでんより軽いんじゃね?」
「それはいいすぎでしょ」
少し前を歩くミナが、肩を震わせた。ガロは振り返らずに言った。
「喋れるなら問題ないな」
「それ!最初の試験でも言われた!」
第一次試験でも聞いた言葉だ。らでんは少し笑い、笑った拍子に左肩が揺れて「痛っ」と顔をしかめた。
すぐにミナが振り返った。
「ほら」
「今のは笑ったからです」
ミナが言った。
「痛いことに変わりないでしょ」
「はい……」
このチームでは、怪我に関してだけはミナに逆らわない方がいい。
二日目にして、全員が学び始めていた。
---
日没前。五人は、谷沿いに残された古い森林監視所を見つけた。
平屋の木造で、屋根の一部は傷んでいるが、柱はまだしっかりしている。
窓は二つ、出入口は正面と裏にあり、周囲は開けていて接近する人間を見つけやすい。
水源も近く、夜をしのぐには条件がそろっていた。
狭い山道を夜間に進めば転落やはぐれる危険が増すため、ガロは建物を一周して視界と逃げ道を確かめてから「今日はここ」と決めた。
ハインが、心底ほっとしたように息を吐いた。
「ようやくか」
はじめが小声で言った。
「今日文句少なかった」
らでんも声を落として言った。
「学習したんじゃないです?」
ハインが言った。
「聞こえているぞ」
罰が悪そうに二人は黙った。
---
夕食は、昨日とほとんど変わらなかった。固い携帯食と乾燥肉、それに水だけだ。
はじめは袋を開けるなり言った。
「メンチなら絶対キレてる」
らでんも頷いて言った。
「二日連続だと、かなり怒りそう」
ミナが笑って聞いた。
「昨日も同じ話してなかった?」
「だって本当に味が問題なんですよ。食事の喜びがなにもない」
ガロは、携帯食を水で流し込むように食べている。
らでんが聞いた。
「ガロさん、美味しいです?」
ガロが答えた。
「食えるし必要な栄養がある」
はじめが言った。
「メンチと一番会話噛み合わなさそう」
食を人生の目的にしているメンチと、「食えればいい」と言い切るガロでは、五分で喧嘩になるだろう。
二人が喧嘩している姿を想像して、らでんはくすりと笑った。
---
ハインは、その会話に入らず、壁際でケースの留め具を確認していた。
ケースは今夜、ハインの寝袋の横に置くことになっていた。らでんは、何となく目で追った。
昼間、あの少年の腕を取った動きに無駄がなかった。一瞬のことで、本人はその後も答えを濁している。
普通なら、もっと聞きたい。何者なのか、何を隠しているのか。
けれどらでんは聞かなかった。
今のハインは護送対象であり、少なくともそれ以上の役割を自分から明かしてはいない。なら、こちらから無理に剥がす必要もない。
知らないことを、知らないまま置いておく。それも必要だとらでんは思った。
---
その時、腕章が鳴った。ピッという短い音に全員が同時に画面を見た。
《第三次試験 二日目残り:4時間52分》
《認証札判定は四十八時間経過時点で自動実施》
はじめが、自分の空になった固定具を見て聞いた。
「うち、これでほんとに大丈夫なんだよな?」
ガロが答えた。
「チーム判定だ。らでんが取った札がある」
「でもなんか落ち着かん」
ミナが言った。
「自分の名前書いてある札を知らない奴が持ってるからじゃない?」
はじめは即答した。
「それ」
「取り返したかった?」
「そりゃ」
らでんが続けた。
「でも手を引きましたよね」
「だって、らでん取ってくれたし」
らでんが言った。
「……そうですね」
はじめが言った。
「あの時はそれでよかった」
「今は?」
はじめは数秒考えて言った。
「やっぱちょっと悔しい」
らでんが笑った。はじめは決意を込めて言う。
「いつか絶対取り返す!」
それを聞きながら、ハインがほんの少しだけ口元を上げた。
---
午後八時。日が完全に落ち、見張りを二人ずつで回すことになった。
ガロとミナ、次にらでんとはじめ、最後にガロとはじめだ。
肩を痛めているらでんは夜中の一回だけというミナの判断だった。
ミナに「睡眠も治療だから」と言われ、らでんは反論しなかった。
---
午後十時。らでんとはじめは、監視所の外の古い木製ベンチに座って見張りを続けていた。
夜の山は、廃都市とは違う暗さだった。街では暗闇の中にも建物や窓、道路や標識といった人間の作った輪郭が残り、光の方向で距離がつかめる。
ここには木と山と空しかなく、遠くで虫の声と川の音がし、時おり風が枝を揺らすだけだ。
昼間はあれだけ言い合ったのに、今になって妙に話しづらく、二人ともしばらく何も話さなかった。
暗さと静けさが、昼の興奮との落差を大きくしていた。
先に口を開いたのは、らでんだった。
「はじめさん」
「ん」
「昼間のことなんですけど」
「うん」
らでんが言った。
「……本当に戻ると思わなかったです」
はじめは少し首を傾げて聞いた。
「なんで?」
らでんは答えに困って言った。
「なんでって。普通、行くでしょう」
はじめが言った。
「らでんも行けって言ってたし」
「はい」
「ガロも言ってた」
「そうですね」
はじめが言った。
「だから一回行こうとした。でも無理だった」
らでんが言った。
「それでもなんで助けに来てくれたんです?」
はじめは暗い森を見ながら、少し考えるように言った。
「うちも。よく分かんない」
らでんが黙ると、はじめは続けた。
「でもさ、見捨てて行ったらたぶんあとでずっと嫌だなって思った」
らでんが聞いた。
「試験受かっても?」
「うん」
「ハンターになれても?」
「うん」
「……それだけ?」
はじめが答えた。
「それだけ」
あっさりした答えに、らでんは少し驚いた。
はじめが聞いた。
「変かな?」
らでんは首を振って言った。
「いえ、むしろはじめさんらしい気がします」
「どういう意味?」
らでんが答えた。
「うまく説明できないけど」
二人は少し笑った。
「はじめさん。助けていただいて本当にありがとうございました」
「…別にいいよ」
はじめは照れくさそうに笑った。
---
深夜零時。第三次試験の開始から四十八時間が経ち、すべての受験者の腕章が一斉に鳴った。
第四チームの四人とハインは全員起きていた。
《第二判定開始》
護送対象:確保
証拠品:確保
他チーム認証札:1
第二判定――通過
はじめが「よっしゃ!」と声を上げ、ガロが一息つき、らでんも笑って少し肩の力が抜けた。
二日が終わり、あと一日だ。しかし腕章の表示にはまだ続きがあった。
《個人判定対象者あり》
全員が画面を見る。らでんが言った。
「何です?」
ガロも分からない顔をした。
数秒後、協会の音声でボトバイの声が受験者全員へ流れた。
『受験番号16番』『トンパ』
はじめが言った。
「トンパのおっちゃん?」
らでんも画面を見た。
---
別の場所では、トンパが夜道を歩いていた。
突然自分の腕章から名前が流れ、足を止めて声を上げた。
「……え?」
ボトバイの声が続く。
『第三次試験。ここで失格とする』
トンパの表情が初めて崩れ、腕章へ向かって叫んだ。
「ちょっと待てよ! 何で!?」
返事はすぐだった。
『お前のチームで負傷者が出た。その負傷者を置いていった』
トンパが叫んだ。
「ルール上問題ないだろ!それに本人が置いていけって言ったんだ!」
ボトバイの声が返った。
『聞いている。規則違反でもない』
「なら!」
監視所でボトバイはマイクを手に表情を変えずに言った。
『お前は救助可能性を確認しなかった』
トンパが黙る。ボトバイの声が続く。
『怪我の程度も固定も搬送も移動手段も残り時間も、何一つ検討していない』
トンパが叫んだ。
「でも本人が!本人が置いていけっていったんだ!」
ボトバイの声が返った。
『本人が死にたいと言ったら殺すのか』
トンパの言葉が止まった。
ボトバイの声が低くなる。
『現場では切り捨てる判断も必要になる。だが』
一拍置いて続く。
『切り捨てることと最初から勘定に入れないことは違う』
第四チームでは誰も喋らず、はじめもらでんも腕章からの声を聞いていた。
ボトバイの声が続く。
『お前は置いていく必要があったから置いたんじゃない』
一拍置いて続く。
『置いていく方が自分に都合がよかったから置いた』
トンパの顔が歪み、つぶやいた。
「……そんなの」
ボトバイの声が続く。
『それは決断じゃない…ただの保身だ』
---
長い沈黙の後、トンパは腕章を見つめたまま怒るのでも食い下がるのでもなく、やがて肩を落とした。
トンパがあまりにも軽く言った。
「……ちぇ。今年はここまでか」
トンパはその場へ座り込むと、ポケットから小さな菓子を開けて一人で呟いた。
「まぁハズレ年の割にそこそこ楽しめたし。また来年だな」
その声は誰も聞いていなかった。
---
音声が切れ、第四チームはしばらく沈黙した。はじめがぼそりと言った。
「……うちら、らでん置いていってたら」
ガロがゆっくりとはじめを見て返した。
「それだけじゃ失格にはならん。みられているのは判断だ」
「ただ、結果論にはなるが戻ってよかった」
はじめは何も言わず、ただ小さく頷いた。
---
らでんはボトバイの言葉を頭の中で反芻していた。
”切り捨てる判断も必要。でも最初から勘定に入れないこととは違う”
---
午前零時十五分。見張りを残して再び横になる。
はじめが寝袋へ入る前、らでんに言った。
「あと一日」
「ですね」
「受かろうな」
「はい、一緒に受かりましょう」
---
第三次試験。残り二十三時間四十五分。
---
三日目の朝は、拍子抜けするほど静かに始まった。
午前五時四十分。まだ日の昇りきらない森林監視所では、寝息と、古い木材が冷えて軋む音だけが残っていた。
最初に起きたのはガロで、次にミナだった。
らでんが目を覚ました時には、二人ともすでに装備の点検を始めていた。
札はらでんの腰袋に、予備ロープはミナの鞄にあることを確認していた。
はじめはまだ寝ていた。寝袋から半分だけ出て片腕を枕代わりにし、昨日らでんから預かった荷物を抱えたままだ。
「……なんでそれ抱いて寝てるんですか」
ミナが笑って言った。
「昨日そのまま寝ちゃった」
「返してもらおうかな」
「起こす?」
らでんは少し考えて言った。
「いえ。もうちょっと寝かせときます」
---
残り時間は十八時間少々。
地図上では、現在地から旧バルサ地方裁判所まで直線なら二十五キロほどだが、山と河川、崩落した旧道を含めれば実際の移動距離は三十五キロ前後になる。
普通の受験者だけなら十分な距離だが、証人とケースを連れ、怪我を抱え、妨害を受けながら、何が起こるか分からない試験の中で進まねばならない。
ガロは地図を睨みながら指でなぞって言った。
「昼までに山を越える。午後、旧北部物流線に出る」
らでんが言った。
「線路が使えるなら早そうですね」
「使えなくても、沿って行けば方角は迷わん」
ミナが聞いた。
「裁判所には何時くらい?」
ガロが答えた。
「昼に保線基地へ出たい。その先は妨害次第だ」
後ろから、はじめの声がした。
「また何か起きそう」
全員が振り返ると、寝起きで髪がくしゃくしゃになったはじめが起きていた。
「起きてたんですか」
「今起きたとこ」
「おはようございます」
「おはよ」
数秒後、はじめがらでんを見た。らでんが聞いた。
「……何です?」
「髪」
「何?」
はじめが言った。
「寝癖すごいかも」
「うそ」
らでんは慌てて髪に触った。
ガロが言った。
「そろそろいくぞ。準備しろ」
---
ハインは入口の脇で水筒の栓を締めていた。足元には銀色のケースがある。
朝食を済ませ、ガロが地図を畳むと、ハインも立ち上がった。
「ケースは俺が持つ。山道が続く」
「ああ。頼む」
ガロへ持ち手を渡し、ハインはミナの前へ入った。はじめが寝袋を鞄へ括りつけ、らでんも腰袋の札を確かめる。
午前六時十分。五人は森林監視所を出た。地図の北西へ続く管理道をたどり、旧北部保線基地を目指す。
そこまで約二十六キロ。道の状態を見ながら進むしかなかった。
山を抜ける間には、水を飲み、足を休める時間も取った。ミナがらでんの肩の布を巻き直し、ガロの腕の打撲を確認する。
はじめは昨日擦りむいた膝を見せると、立ち上がって靴の土を落とした。足取りに淀みはなかった。
らでんから預かった荷物の半分も、まだその背中にある。
旧北部保線基地へ着いたのは、十一時五十八分だった。
線路脇の整備庫へ入ると、四人の腕章が短く鳴った。
《護送継続中:三チーム》
はじめが水筒を持ったまま止まる。
「三って、うちら込み?」
「ああ」
ガロの返事のあと、誰もすぐには話さなかった。出発した時には九組いた。六組は、もうここへ来ない。
らでんは地図の端を押さえた。あと九キロ。目的地へ引いた線だけは、昨日から少しも変わっていなかった。
数分後、整備庫の外から足音がした。
赤茶色の髪を見つけ、はじめが入口へ駆け寄る。
「メンチ!」
「あんたたちか。水、残ってる?」
メンチの頬には擦り傷があった。その後ろに、短髪の青年と髪を束ねた女、それから証人役の男が続く。女がケースを持っていた。
らでんが水筒を差し出すと、メンチは一口だけ飲んで返した。
「うちは一人、途中で続行をやめた。手当てして、救護が来るところまでは見たんだけど」
それ以上は言わなかった。らでんも聞かず、水筒の栓を閉める。
さらに数分して、第六チームが現れた。
小柄な少女を先頭に、大柄な男、左腕を吊った男、額に包帯を巻いた男。
四人で証人の女を囲み、ケースは左腕を吊った男が右手に提げている。
少女とはじめの目が合った。
「あ」
「あ!」
はじめは空の札留めを指した。
「うちの札!」
「まだ持ってるでござる」
「返せ〜!」
「取ったので嫌でござる!」
少女が腰袋を軽く叩く。らでんも自分の腰袋の口を押さえた。
第四チームが確保した、他チームの認証札はここにある。昨夜の四十八時間判定も、それで通った。
それとは別に悔しいのだろう。はじめは少女の手を目で追っていた。
「仲いいじゃん」
メンチが言うと、二人の返事が重なった。
「よくない!」
笑いながら、ガロが地図を床へ広げた。
第四は四人、第五は三人、第六は四人。
十一人の受験者と、三人の証人、三つのケースが地図を囲む。
「最後の二キロへ入る手前、道路が封鎖されてる」
メンチが、先で見たものを指した。
第六チームの大柄な男も反対側へ指を置く。
「河川側の道も見張られていた。北へ回ると崖だ」
「証人を連れて、別々に抜ける場所じゃないな」
ガロの言葉に、少女が頷いた。
「一緒に向かった方がいいと思います。少なくとも、向こうの人数を見るまでは」
「そこまでは賛成」
メンチも地図から顔を上げた。
はじめが少女へ手を差し出しかける。
「じゃ、とりあえず仲間――」
「札は返さないでござるよ」
「なにも言ってない!」
らでんは笑いながら地図を畳んだ。
十二時十八分、三チームは揃って保線基地を出た。
証人とケースはそれぞれの組で守り、先を行く第六と最後尾の第五が互いに見える距離を保つ。
その間を、第四チームが進んだ。
---
十三時三十六分。裁判所まで二キロの地点で、一行は足を止めた。
旧物流幹線を、横向きの大型車と鉄柵が塞いでいる。道路の左は第三貨物積込場だった。
倉庫と資材棚の間に古い荷役ヤードが広がり、その向こうで管理道が再び道路に合流している。
灰色の腕章をつけた妨害役が、道路に四人、資材棚の間に四人。奥の足場にも二人いた。
昨日、札を狙ってきた受験者たちではない。協会が配置した最終班だった。
拡声器を持った一人が、こちらを見て腕を上げる。
『残存三チームへ告ぐ。証人と証拠品を守ったまま、五分間、我々の妨害を凌げ。五分経過時に管理下へ残っていれば、正門への進入路を開放する』
腕章にも同じ条件が表示された。その下に、赤い文字が続く。
《最終妨害中、証人または証拠品を奪われたチームは即時失格》
らでんは赤い文字を読み直した。
ここでは、ケースを三十分以内に取り返せばいいのではない。奪われた時点で終わりだ。
『協力は自由。ただし、他チームの喪失を救済することはない。開始時刻は諸君が選べ。準備ができたら申告し、開始線を越えろ』
黄色い線が、道路とヤードの入口を横切っていた。
ガロは時計を見た。締切は今夜二十四時。残り十時間以上あっても、目の前の五分だけは短くできない。
「三組で入る」
「賛成。十人全部こっちへ来られるよりまし」
メンチが返す。
少女も頷き、はじめは腰に手を当てた。
「五分でいいなら、いけるっしょ」
「五分『も』でござるよ」
「分かってるって」
その声を聞きながら、らでんはヤードの端へ寄った。
倉庫に沿う細い保守通路が、資材棚の外側を回っている。敷居も段差もなく、その先で進入路前の待避所へつながっていた。
人が二人並べるほどの幅しかないが、途中に逃げ道のない線路より、よほど使いやすそうだった。
らでんは倉庫の柱の先を見た。
門型クレーンの梁が、資材棚の間をまたいでいる。その下に、鋼材を詰めて帯で固定した大きなラックが吊られていた。
ラックの底は地面から一メートルほど。下には受け木が並び、周囲を黄黒の線が囲っている。倉庫沿いの保守通路は、その線の外側を通っていた。
「ここへ下ろせば、真ん中の道が塞がります」
らでんが指すと、少女も柱へ寄った。
手前側の柱は開始線よりこちらにあり、押しボタンの操作器が掛かっている。
表示灯がつき、巻上げと巻下げの矢印が分かれていた。
「動く?」と、はじめが覗き込む。
「確かめます。下には入らないでください」
少女は操作板の表示を読み、周囲が空なのを見てから巻下げのボタンを押した。
モーターが低く唸り、ラックがゆっくり下がる。指を離すと、その場で止まった。
ほんの少しだけ元へ上げ、操作器を柱へ戻す。
「押している間だけ動きます。下ろしきるのに、少し時間が要りますね」
「なら、そこを守らないと」
メンチはラックの向こうを見た。積荷を下ろす場所を挟んで、敵が待っている。
らでんは地図の裏に短く線を引いた。
正面で人数を引きつけ、証人たちは棚の間の荷受け場へ入れる。棚の脇を抜ければ、外側の通路へ出られる。
そこから外側の保守通路へ抜け、追ってくる敵が中央を通れないようにラックを下ろす。
人を押し潰すのではなく、迂回させる。壁沿いの道は最初から空けておく。
「下に人がいたら、動かしません。通路の方へ振るのもなしです」
「重い物を振り回すつもりはないでござる」
少女は操作位置から、荷の真下と退避路の両方が見えることを、もう一度確かめた。
ガロとメンチが立つ場所を決め、第六の二人は自分たちの証人に、止まる場所と走る合図を伝えた。ミナもハインを呼び寄せる。
「勝手に前へ出ない。私が止まったら止まる」
「分かってる」
ガロはらでんの右手へケースを渡した。
「重さは」
「これなら持てます。左は使いません」
「無理ならすぐ言え」
はじめがケースの持ち手と、らでんの肩を順に見た。
「じゃ、うちはその横ね」
十三時五十分。三チームの返事を確認して、ガロが片手を上げた。
「始めるぞ」
十一人と三人の証人が、黄色い線を越えた。
---
《最終妨害開始 4:59》
最終班は、三チームが揃うのを待ってくれなかった。
道路側の二人がメンチ組へ出る。同時に、棚の陰から伸びた腕が第四チームのケースを狙った。
らでんは半歩下がる。その前へはじめが滑り込み、相手の手首を横へ払った。
押し返そうとはせず、自分も回って、ケースへ向かう道だけを外す。
「そっちじゃないよ!」
男が向き直るより先に、ガロの肩が間へ入った。
らでんはミナの背を追う。ハインはその前を走り、振り返りかけてはミナに先を促されていた。
左では、第六の少女が証人へ伸びた警棒を鞘で受けていた。刃は抜かない。
男の足が踏み込む先へ自分の足を置き、身体ごと進路をずらす。
別の男が背後へ回った。
「そっち、もう一人!」
はじめが少女の横へ出る。少女が身を低くするのと同時に、はじめは棚の柱へ手を掛けた。
振り抜かれた警棒を避け、その勢いで相手の外へ回る。
少女の鞘が、追いかけてきた腕を止めた。
「助かったでござる!」
「札、一枚分ね!」
「それは高い!」
二人は笑ったが、追撃には移らなかった。
少女は自分の証人へ戻り、はじめもらでんの横へ駆け戻る。ガロが作った隙間を、第四チームが抜けていった。
前方でメンチが空の木箱を蹴り出した。足元を塞がれた敵が一歩止まる。その間に、第五の二人が証人とケースを棚の奥へ入れた。
「入った! こっちは見てる!」
ミナとハインが荷受け場へ入り、らでんもケースを抱えて続いた。はじめは入口で足を止め、ガロと並んで追手を押し返す。
第五、第六の証人も棚の陰へ入った。三組とも揃っている。らでんは倉庫沿いの通路を指した。
「壁沿いへ。全員、そちらへ抜けてください!」
ミナがハインを先へ促す。ハインは振り返ったが、今度は足を止めずにミナへ続いた。
らでんも走り出す。はじめがすぐ後ろにつき、ガロが最後に入口を離れた。
---
少女がクレーンの柱へ向かった。その前へ、道路側から回った敵が出る。押しボタンの操作器はすぐ後ろなのに、手が届かない。
「メンチ殿!」
「見えてる!」
メンチは自分のチームの二人へ手を振り、証人を保守通路へ先に入れさせた。自分は棚の外へ踏み出し、操作器の前にいた男の肩へ空の手袋を投げつける。
「そっちばっか見てていいわけ?」
男が手袋を払い、その隙に少女が柱の裏へ回った。
もう一人がメンチの背を狙う。メンチは最初の男の方へ踏み込んだ。二人の進路が重なり、互いの身体が邪魔になる。笑う余裕はなかったが、足だけは止めなかった。
「操作、いけます!」
少女の声に、らでんは吊荷の足元を確かめた。
ラックの真下に人はいない。けれど降下範囲の端へ、ガロを追う男の足が入っている。ガロの横を抜ければ、証人たちへ手が届く位置だった。
「まだです! 縞の中、一人!」
少女の指はボタンの上で止まった。
ガロが男の腕を巻き込み、身体を棚の角へ押し戻す。男は踏ん張ったが、ガロも退かなかった。靴底が線の外へ滑り、ようやく範囲が空く。
「下ろせ!」
低いモーター音が響いた。
鉄骨を収めたラックが、ほとんど揺れずに下がってくる。落ちるのとは違い、見ているとじれったくなるほど遅い。
その横の保守通路を、三人の証人と護衛が進んだ。
少女は柱の陰に片足を残し、操作器を握っていた。荷の下と、追ってくる者の両方を見ている。第五の二人はすでに保守通路へ入り、第六の二人も自分たちの証人を連れて続いた。
ハインはらでんのすぐ後ろにいた。ガロの隣へ戻ろうとしたが、ミナに名前を呼ばれ、足を止める。
「分かってる。ここにいる」
不機嫌な声のまま、壁側へ下がった。
はじめが走る速度を落とし、顔を少し横へ向けた。
「……上のやつ、降りてる」
らでんが見上げると、足場の端にいた一人が階段へ消えた。
「鉄の階段。右から来る」
「ガロさん、道路側の階段です!」
ガロが身体の向きを変えた。その一瞬を狙い、別の男がラックの脇へ足を踏み出す。
「止めて!」
少女がボタンを離した。ラックが止まる。
下へ潜り込もうとした男は、メンチに横から腕を引かれた。メンチも踏ん張りきれずに一緒に下がるが、二人とも降下範囲の外へ出た。
「いいよ、続けて!」
もう一度、モーターが鳴り始めた。
待つ間の数秒に、らでんの右腕が痺れてくる。ケースを腰へ寄せ直すと、左肩の奥まで引きつれた。それでも、持つ手は変えなかった。
ラックの底が受け木に触れた。
重い音が一度だけ地面を伝う。鋼材は帯の中に収まり、受け木も動かない。少女はワイヤの張りが緩むところまで下ろして、指を離した。
資材棚の間に、人の背より高い金属の壁ができた。
「下りました!」
「操作器から離れて、こっちへ!」
らでんの呼び声に、少女が倉庫沿いを走り出す。メンチは相手を追わずに引き、ガロが最後に棚の角を回った。
三人の証人も、ラックの降下範囲を一度も通らず、その先へ抜けていた。
残り二分十八秒。
追手の数人が鋼材の向こうで足を止めた。上を越えようとする者と、道路へ回る者に分かれる。その数秒で、全員が次の角へ抜けた。
---
倉庫沿いの道では、二人が並んで戦うことも難しかった。
ガロが最後尾に立ち、メンチは一つ先の角を守る。少女は自分のチームへ戻り、ケースを持つ男の呼吸を確かめてから、脇の抜け道へ目を向けた。
追手を全部止めたわけではない。中央を塞がれた者も、いずれはここへ来る。
らでんはケースを抱えたまま角の先を確かめ、ミナへ合図した。
後ろでガロが、相手の腕を壁へ押しつけている。顔が見えない位置で、靴音だけが二つ重なった。
「後ろ、もう一人。ガロの外側!」
はじめが後ろを振り向き、ガロへ声を飛ばした。
ガロは男を投げようとしていた手を離し、一歩退いた。新しく伸びてきた警棒が、壁を叩く。
「助かる。聞こえたら、そのまま言え!」
はじめは頷き、また耳を澄ませた。
狭い通路では、前へ出るより後ろの音を拾う方が役に立つ。誰かが曲がり角へ入るたび、靴底が床を擦る音が聞こえた。
「前も。右の砂利、二人いる」
はじめが言い、メンチが角の向こうを見る。道路を回った二人が、先に待避所へ着こうとしていた。
「やっぱ来るか!」
メンチは先頭の男の懐へ入り、腕を上げさせた。もう一人には少女が向かう。鞘と警棒が当たる乾いた音の間を、第五の証人が通った。短髪の青年が片腕を取り、ケースを持つ女が反対側につく。
第六の証人は、角の先で立ちすくんだ。
「戻らないで。私たちはここです」
額に包帯を巻いた男が声を掛け、左腕を吊った男もケースを見せるように身体を寄せた。証人の視線が二人へ戻り、止まっていた足が動き出した。
大柄な男も自分のチームの無事を見届け、証人の後ろについた。
残り一分二十一秒。
クレーンの方で、再びモーターが鳴った。
「上げ直してる……?」
らでんが振り返ると、倉庫の隙間からワイヤが張るのが見えた。設備を壊したのではない。向こうも操作器を使えば、塞いだ道を戻せる。
「あとで来ます。今のうちに、待避所まで!」
ミナがハインを連れて先へ進む。はじめが額の汗を拭い、らでんと目を合わせた。
「……らでん」
「はい」
「聞こえてる、ちゃんと」
礼でも、謝罪でもなかった。
らでんは少しだけ口元を緩め、すぐ次の角へ顔を向けた。
「じゃあ、後ろをお願いします」
「おう」
はじめは頷き、後方へ目を向けた。
待避所は、閉じた進入路のすぐ前にあった。背後は倉庫の壁で、正面は車両用の鉄柵。入れる場所は、保守通路と道路側の二か所だけだった。
三チームがそれぞれの証人を壁際へ寄せ、ケースをその内側へ置く。第四のケースはらでんが右腕に抱えたままだ。
大柄な男は第六の証人の前へ戻った。ミナはハインのそばに立ち、はじめは保守通路を見張った。
ガロが保守通路を塞ぐ。道路側はメンチと少女が左右を分けた。
そこへ、ラックの方から追ってきた者が増えた。
残り四十二秒。
ガロの足が半歩、後ろへ滑った。
打撲のある腕へ何度も衝撃を受け、指が開きかけている。メンチも息が荒く、少女の鞘を握る手には汗が光っていた。
ガロの脇から伸びた手を、第六の大柄な男が押し戻す。すぐに自分の証人の前へ帰る。空いた場所は作らない。
「右、走って来る!」
はじめの声に、少女が身体を返した。警棒を鞘で受けると、別の男がその外を回る。メンチは追いかけず、第五のケースとの間へ入った。
追手は、守る相手を替えさせようとしていた。
らでんはハインを見た。彼も敵ではなく、こちらの指示を待っている。
「壁の方へ。ミナさんから離れないでください」
ハインが一歩下がった。らでんもケースをその内側へ引く。
空いたように見えた隙間へ、最終班の一人が身体を差し込んだ。
残り十八秒。
狙われたのは、らでんの右手だった。
ケースの持ち手へ指が掛かる。らでんは肘を締め、相手から遠い側へ腰をひねった。左肩に痛みが走り、足が止まりそうになる。
らでんは足元を見た。
ここには何もない。下がれる。
らでんはケースを離さず、壁際へもう一歩退いた。相手の腕が伸びる。その手首へ、横から鞘が当たった。
「貸しでござる!」
少女が間へ入り、ケースから離れた手を外へ押し流す。らでんは持ち手を握り直した。
どのケースも、まだそれぞれの組の手にある。
十秒を切り、腕章が短く鳴り始めた。
メンチが第五の証人を狙った男の肩を押さえる。ガロは拳を返さず、通路へ身体を残す。第六の大柄な男が少女の横へ並び、二人で道路側の入口を塞いだ。
「後ろ、来てる!」
はじめの声にミナが振り向く。保守通路から壁沿いへ抜けた男の手と、ハインの間に鞄を入れた。らでんもケースを胸へ寄せ、身体ごと壁側へ収める。
あと三つの音を、待つ。
三。
二。
一。
腕章が長く鳴った。
《五分経過 妨害終了》
ガロの前にいた男が、拳を下ろした。メンチの肩を掴んでいた手も離れる。
らでんはすぐには動けなかった。ケースの持ち手を握る指が、固まっていた。
はじめが隣で長く息を吐いた。らでんもケースを足元へ下ろし、ようやく指を開いた。
十一人。証人は三人、ケースは三つ。
誰も欠けず、ここにいる。
正面の赤いランプが、緑へ変わった。
《進入路開放 護送継続》
鉄柵が左右へ開いていく。
らでんは裁判所へ続く道を見た。はじめが鞄を背負い直し、隣へ並んだ。
これで、先へ進める。
その先の二キロには、もう妨害はなかった。三チームは証人とケースを守ったまま、旧バルサ地方裁判所へ辿り着いた。
正門の前で、腕章が鳴る。
《最終確認:護送対象・確保、証拠品・確保、チーム構成人数:4》
《正門内へ進入せよ》
「行くぞ」
ガロに続いて正門を越えると、表示が切り替わった。
《第三次試験――終了》
《第四チーム 護送完了》
「……終わった?」
「終わりました」
らでんの返事を聞き、はじめが両腕を上げた。
「っしゃあああああ!!」
ガロが笑い、ミナがその場に座り込む。らでんもケースを置いてしゃがんだ。今度こそ、力を抜いてよかった。
第五、第六チームも正門を越えた。証人は三人、ケースは三つ。十一人全員が辿り着いた。
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裁判所内部、昔法廷だった大広間は今は簡易救護となり、椅子と水と食事、そして試験官ボトバイが中央に立っている。
十一人が集まった。はじめはらでんの隣の椅子に腰を下ろした。
ボトバイが一人ずつ見る。ガロ、ミナ、らでん、はじめ、メンチ、第六チーム、そして残りの受験者。
誰も試験が始まった時と同じ顔ではない。服の破れ、泥、包帯、怪我、疲労。それでも、ここまで来た。
ボトバイが低い声で言った。
「第三次試験、終了だ」
誰もまだ喜ばない。続きを待つ。
「今回、三十六名で開始。最終到達者、十一名」
ボトバイが続ける。
「最初に言ったはずだ。”戦って勝つことと、任務に勝つことを混同するな” この試験で見たのは強さだけじゃない。速さでも勇気でもない。判断だ」
空気が静かになる。
「誰かが怪我をした。置いていく。それ自体は間違いじゃない」
はじめの目が少し上がり、らでんも聞く。
「助ければ必ず正しいわけでもない。救助不能の人間に全員で付き合って証人も証拠も失えば、それは勇気じゃない。任務放棄だ。逆に、切り捨てれば合理的とも限らない。状況を見て確認し、何ができるか考えた上で決めろ。現場では正解が一つに決まっている方が珍しい」
視線が第四チームへ止まり、ボトバイが言った。
「崖の救助。戻った判断だけなら減点だ」
はじめが小さい声を出す。
「え」
「方法もないまま感情で戻った。一歩間違えば二人まとめて落ちた」
「……はい」
「だが、戻った後考えることをやめなかった。救助される側も助けられるのを待つだけじゃなかった」
ボトバイはらでんを見る。
「チームも救助可能性を評価した。時間を区切った。方法を作った。そして成功した。だから結果として評価する」
はじめの顔が少し緩む。らでんと横で目が合う。何も言わない。
その横、はじめが小声で聞いた。
「クレーンは?」
「今聞かないでください」
ボトバイが続けた。「そのクレーンだが」
二人がびくっとする。
全員、少し空気が変わる。ボトバイの表情はほぼ変わらない。
「降ろす場所と通る場所を分けた。人が入った時には止めた。そこはいい」
らでんは頷いた。
「はい」
「ただし、設備は相手にも使える。塞いだ道が戻されても、最後まで護送を切らさなかった。三組とも評価する」
メンチは少し笑い、少女も肩を震わせている。
ボトバイは全員へ向く。
「第三次試験、合格者」
少し間を置く。十一人が息を止める。
「ここにいる全員だ」
静寂が一秒、二秒。最初に反応したのはメンチ。「よし」と小さく、でも強く。
次にはじめが「やった!!」、らでんが「受かった……!」第六チームの少女は深く息を吐き、チームメンバーが肩を叩く。
ガロは目を閉じ、ミナは座りそうになる。
三十六から十一。第三次試験を通過した。
ボトバイが続けた。「ただし」全員がまた固まる。「試験はまだ終わってない」
「次の試験官から指示がある。今日は一時間、休め」
十一人がほぼ同時に息を吐く。
「別室の休憩室で休め。怪我をしているものは救護室に向かうように」
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合格者十一人は部屋から退出する。
同時に、ボトバイの視線は別へ向く。ハインへ。
「お前は残れ」
ハインの顔は明らかに嫌そうだ。
ボトバイが言った。
「前を向け」
「はい」
はじめが言った。
「めっちゃ怒られそう」
扉が閉まる直前、中でボトバイの声が聞こえる。
「まず、護送対象役が受験者の攻撃を捌くな」
「いや、あれはケースを――」
ハインが黙る。そして扉は閉まった
外ではじめが小さく笑った。
「怒られてる」
「ですね」
らでんは笑った。
この三日間、怖かった。痛かった。何度も落ちると思った。自分も試験も。
でも残った。十一人。ここから次だ。
らでんは廊下の先を歩いていく。メンチもガロもミナも、そしてはじめを見る。
最初百九十八人、そこから九十一、三十六、そして十一。まだ終わっていない。
でもこの十一人なら、次はどんな試験になるのだろう。少し怖い。それ以上に楽しみだった。