午後五時を回るころには、山の端に傾いた陽射しがずいぶん赤みを帯びていた。
旧採石場を離れてから一時間あまり。第四チームの五人は、地図に名前すら載っていない細い管理道を北西へ向かって歩いていた。
かつては林業用の車両が通っていたらしいが、ひび割れた舗装の隙間からは背の高い夏草がせり出し、道と呼ぶには心許ない。右手は切り立った斜面、左手はすぐ深い谷へと落ち込んでいて、一歩踏み外せばそのまま下まで滑り落ちてしまいそうな幅しかなかった。
採石場を抜けてから、あからさまな追手の気配は消えている。頭上の枝葉もまばらで、見通しは悪くない。
それでも、誰一人として歩みを緩めようとはしなかった。一度「後ろから追われている」と身体が覚えてしまうと、鳥が梢を揺らす乾いた音にさえ、つい耳がぴくりと反応してしまう。こういう逃げ場のない一本道で背後を取られればどうなるか、疲れた足では咄嗟の飛び退きも遅れることを、昼の逃走で嫌というほど味わったばかりだった。
先頭で周囲に目を配るガロの後ろに、銀色のケースを抱えたハインとミナ、次いでらでんが続き、最後尾にはじめが歩いている。
崖で痛めた左肩を庇うため、らでんの荷物の半分ほどは、今は後ろを歩くはじめの背中へと移っていた。歩を進めるたび、自分の軽くなった鞄の肩紐がどこか申し訳なくて、らでんはそっと後ろを振り返った。
「……やっぱり、重くないですか?」
「ぜんぜん」
「でも、水筒とか、けっこう嵩張るものばかり入ってますよ」
「らでん本体を引き上げるよりはずっと軽いんじゃね?」
「それは言いすぎでしょう」
むきになって言い返すと、すぐ前を歩いていたミナの肩がくすっと揺れた。
先頭のガロは前を向いたまま、低い声だけを後ろへ投げてよこす。
「それだけ減らず口が叩けるなら、まだ歩けるな」
「あっ、それ! 第一次試験のトンネルでもまったく同じこと言われました!」
あの暗い地下道で必死に息を切らしていたときのことを思い出して、らでんは思わず吹き出した。――その拍子に左肩が大きく揺れて、奥にずきんと鋭い痛みが走る。
「……っ、痛っ」
小さく顔をしかめた瞬間、前を歩いていたミナがぴたりと足を止めて振り返った。
「ほら見なさい」
「ち、違います、今のは歩いたせいじゃなくて笑ったからです」
「どっちだろうと、肩が痛むことに変わりないでしょ」
「……はい」
眼鏡の奥からじっと見据えられると、ぐうの音も出ない。
この第四チームにおいて、怪我のことに関してだけは絶対にミナへ逆らわない方がいい。試験二日目の夕方にして、らでんたちは全員その鉄則を学び始めていた。
◇ ◇ ◇
日が沈みきる少し前、五人は谷沿いの開けた土地にポツンと残された古い森林監視所を見つけた。
平屋建ての木造で、屋根の端こそ風雨で傷んでいたが、建物を支える太い柱はまだしっかりと生きている。窓は二つ、出入口は正面と裏手の二か所。周囲の雑木が刈り払われているから、夜間に誰かが近づいてきてもすぐ気づけそうだった。近くに沢の水音も聞こえる。
ガロは荷物を下ろすより先に建物の周りをぐるりと一周し、窓からの射線と裏手の逃げ道を目で確かめてから戻ってきた。
「よし。今日はここで夜を明かす」
まだ先へ進める、と口にする者は一人もいなかった。日が落ちてからあの足元の危うい山道を歩き続けることを思えば、ここ以上の場所は望めない。らでんもほっと息をつき、右肩だけで掛けていた鞄を床へ下ろした。
銀色のケースを抱えていたハインが、壁際に腰を下ろして心底やれやれといったふうに長い息を吐く。
「……ようやくか」
その声を聞いて、隣で荷物を下ろしていたはじめが、らでんの耳元へ顔を寄せてひそひそと囁いた。
「なんか今日のおっちゃん、昨日より文句少なかったね」
「昼間の採石場でいろいろありましたし、ちょっとは学習したんじゃないですか?」
らでんも声を潜めて応じたつもりだったのだが、壁際のハインから即座に低い声が飛んできた。
「おい。全部聞こえているぞ」
ぴしゃりと言われ、らでんとはじめは顔を見合わせて首をすくめた。
◇ ◇ ◇
監視所の床に車座になって広げた夕食は、昨日の夜とほとんど変わり映えがしなかった。
支給された固い携帯食のブロックと、塩気の強い乾燥肉、あとは水筒の水だけだ。
包み紙を破いたはじめが、中身の乾いた塊をしげしげと眺めてぼやく。
「これ、メンチが見たら絶対またキレてるよ」
「二日連続でこのメニューだと、昨日は我慢してた分まで爆発しそうですね」
らでんが苦笑いして頷くと、向かいで乾燥肉をかじっていたミナが可笑しそうに目を細めた。
「あなたたち、昨日の夜もまったく同じ話をしてなかった?」
「だって、本当に味が問題なんですよ。お腹には溜まりますけど、食事としての喜びが何一つないんですもん」
切実に訴えながら横を見ると、ガロは携帯食の固い塊をろくに味わいもせず、水筒の水で機械的に流し込んでいた。
らでんは少し気になって声をかけてみる。
「あの、ガロさん。それ、美味しいですか?」
「ちゃんと食えるし、動くのに必要な栄養も入ってる。現場の飯ならそれで十分だろう」
迷いのかけらもない答えに、はじめが携帯食を持ったまま吹き出した。
「うわ、メンチと一番会話が噛み合わなさそう」
料理と食文化に人生を懸けているあのメンチと、「食えればいい」で片づけるガロを同じテーブルに座らせたら、たぶん五分も経たないうちに大喧嘩が始まるに違いない。二人が眉を吊り上げて言い争う姿を頭に浮かべて、らでんはくすりと笑みをこぼした。
そのとき、ピッ、と短い電子音が部屋の中に響いた。
四人が同時に自分の左腕へ視線を落とす。腕章の小さな表示窓に、緑色の文字が浮かび上がっていた。
《第三次試験 二日目残り:4時間52分》
《認証札判定は48時間経過時点で自動実施》
文字が消えたあとも、はじめは自分の腕章の横に空いたままになっている札の固定具を指先でなぞっていた。
「ねえ。うち、自分の札がないままだけど、ほんとにこのままで大丈夫なのかな」
「ああ、判定はチーム単位だ。昼間にらでんが奪った第六チームの札が一枚ある以上、条件は満たしている」
ガロが落ち着いて請け負ったが、はじめはやっぱり釈然としない顔で自分の腕を見つめている。
「理屈はそうなんだけどさ。なんか、ここが空っぽだと落ち着かん」
「自分の番号が彫ってある札を、よその知らない子が持ってると思うとむずむずするんでしょ?」
ミナにずばりと言い当てられて、はじめは即座に頷いた。
「それ!」
「あの場で追いかけ回してでも、取り返したかった?」
「そりゃあね」
唇を尖らせるはじめに、らでんは自分の腰袋の上から、昼間に確保した金属札の硬い感触をそっと確かめた。
「……でも、昼間は深追いしないで手を引いてくれましたよね」
「だって、らでんが別の札を取ってくれたって分かったし」
「……そうですね」
「だから、あのときはそれでよかったんだよ」
そこで言葉を切り、はじめは膝の上で自分の手首をくるくると回してから、ぽつりと付け足した。
「でも、今こうして落ち着いて考えると、やっぱちょっと悔しい」
「ふふ、今ごろですか」
「いつか絶対、あの札は自分の手で取り返す!」
握り拳を作って宣言するはじめに、らでんが声を立てて笑う。少し離れた壁際で水を飲んでいたハインも、そのやり取りを聞きながら、ほんのわずかだけ口の端を上げていた。
◇ ◇ ◇
午後八時になると、外の山肌は完全に闇へ沈んだ。
深夜零時の判定時刻を挟んで、今夜も見張りは二人ずつの交代で回すことになった。最初はガロとミナ、次がらでんとはじめ、そして夜明け前の最後をガロとはじめが受け持つ。
本当なららでんも二回入るつもりだったのだが、「左肩を痛めてる人は夜中の一回だけ。睡眠も大事な治療のうちだからね」とミナに先回りして釘を刺され、結局おとなしく寝袋へ潜り込むことになった。
◇ ◇ ◇
午後十時。
ミナに肩を揺すられて目を覚ましたらでんは、はじめと一緒に監視所の外へ出て、軒下に置かれた古い木製ベンチに並んで腰を下ろした。
山の夜は、最初の夜を過ごした廃都市とはまるで暗さの質が違っていた。
崩れた街には、どれほど暗くてもビルの四角い輪郭や割れた窓枠、標識の柱といった「人間が作った形」が残っていたし、月明かりの落ちる角度でおおよその距離も測れた。けれど、ここにあるのは黒い木々の塊と山の稜線、あとは星のない暗い空だけだ。遠くで鳴く虫の声と沢のせせらぎに混じって、時おり冷たい夜風が枝葉をざわめかせる音が聞こえる。
昼間、あの崩れた崖の上と下ではあんなに大声で言い合ったというのに、いざこうして暗い軒下に二人きりで並ぶと、なんだか妙に口を開くタイミングが掴めなかった。周囲の深すぎる静けさが、昼間のむき出しのやり取りとの落差をいっそう大きくしているようで、らでんは膝の上で自分の指先を何度か組み替えた。
それでも、今夜のうちにどうしても聞いておきたいことが一つだけあった。
「……あの、はじめさん」
「ん?」
「昼間の、崖でのことなんですけど」
「うん」
隣から返ってきた声は、拍子抜けするくらい普段どおりだった。らでんは夜闇の向こうの木立を見つめたまま、少しだけ声を落として続けた。
「私、あのとき……はじめさんが本当に戻ってくるとは思ってなかったです」
すると、隣のはじめが不思議そうに首を傾げる気配がした。
「え、なんで?」
「なんでって……普通、あの状況ならそのまま先へ行くでしょう」
言いながら、自分の声に少しだけ苦笑いが混じる。
「だって、後ろからは追手が迫ってたし、足場は崩れかけてたし。私だって先に行けって言いましたよ」
「うん、らでんはすっごい怒って行けって言ってたね」
「ガロさんだって、仕事は証人とケースを守ることだって言ってたじゃないですか」
「言ってた」
はじめはベンチの縁に両手をついて、ぶらぶらと軽く足を揺らした。
「だからさ、うちも一回はちゃんと言われたとおり先へ行こうとしたんだよ。……でも、途中でどうしても無理だった」
「その『無理』が、なんでなのかを聞いてるんです。どうしてあんな危ないところへ、わざわざ助けに戻ってきてくれたんですか?」
らでんが横顔を覗き込むと、はじめはすぐには答えず、目の前に広がる真っ暗な森の奥へと目を向けた。何か立派な理由を探しているというより、自分の中の感覚に一番近い言葉を素直に手探りしているような、静かな間だった。
「……うちにも、あんまりよく分かんないんだけどさ」
ぽつりとこぼしてから、はじめは続けた。
「あそこでらでんを見捨てて自分だけ先へ行ったら、たぶんあとで、ずっと嫌な気持ちになるなって思った」
らでんは瞬きをした。
「……それは、もしそのままゴールして、三次試験に受かってもですか?」
「うん」
「念願のハンターになれたとしても?」
「うん。たぶん、ずーっと嫌なまんまだと思う」
あまりにも迷いのない返事に、らでんは思わず聞き返していた。
「……理由は、本当にそれだけですか?」
「それだけ」
あっけらかんと言い切られて、らでんは少しだけ拍子抜けし、それから胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
誰かの命を救うための立派な使命感とか、試験のルールを計算し尽くした上での勝算とか、そういう難しい言葉じゃない。「あとで自分がずっと嫌だから」という、ただそれだけの真っ直ぐな本心で、あの子は崩れかけた崖の縁まで駆け戻ってきて、自分の手を引っ張り上げてくれたのだ。
黙り込んだらでんを気にしたのか、はじめがちょっとだけ不安そうにこちらを見た。
「……なんか、変かな?」
「いえ。変っていうか、むしろすごくはじめさんらしい気がします」
「なにそれ、どういう意味よ」
「ふふ、こっちもうまく説明できません」
顔を見合わせて、どちらからともなく小さく吹き出した。夜風の冷たさが、笑った頬に心地いい。
らでんはベンチの上で背筋を伸ばし、隣のはじめへ向かってちゃんと言葉を紡いだ。
「はじめさん。昼間は助けていただいて、本当にありがとうございました」
「……べつに、いいよ」
暗がりの中でも分かるくらい照れくさそうに鼻先を掻いて、はじめは小さく笑った。
◇ ◇ ◇
深夜零時。
第三次試験の開始からきっちり四十八時間が経過した瞬間、山中に残るすべての受験者の腕章が一斉に電子音を鳴らした。
森林監視所の中では、第四チームの四人と証人役のハインが全員目を覚ましていた。らでんたち四人は、自分の左腕の画面を覗き込んでいた。
《第二判定開始》
護送対象:確保
証拠品:確保
他チーム認証札:1
第二判定――通過
「よっしゃ!」
画面の文字が切り替わるなり、はじめが小さくガッツポーズを作った。壁際のガロが深く息を吐き、らでんもほっと胸を撫で下ろして、強張っていた右肩の力を抜く。
これで魔の二日目を無事に越えた。残るはあと一日、二十四時間だけだ。
――だが、腕章の小さな画面は、そこでは消えなかった。緑色の通過表示の下に、新しい一行が浮かび上がる。
《個人判定対象者あり》
部屋の空気がぴたりと止まった。らでんは眉を寄せて画面を凝視する。
「……個人判定って、何ですか?」
隣を見ると、ガロでさえ心当たりがないように険しく眉間を寄せていた。
数秒後、ざっ、と短い通信ノイズが混じり、腕章のスピーカーから試験官ボトバイの低く重い声が、残存する受験者全員へ向けて一斉に流れ出した。
『受験番号16番、トンパ』
はじめが「えっ」と顔を上げる。
「トンパのおっちゃん?」
第一次試験の待機場所でも、飛行船の中でも見かけたあの小太りな常連受験者の名前だ。らでんも息を呑んで、音が鳴り続ける腕章を見つめた。
◇ ◇ ◇
同じ時刻、第四チームからは遠く離れた山間の夜道を、トンパが歩いていた。
前触れもなく自分の腕章から大音量で名前を呼ばれ、トンパはぎょっとして足を止める。
「……え?」
困惑して腕章を持ち上げたトンパの耳へ、ボトバイの容赦ない声が落ちてきた。
『お前は第三次試験、ここで失格とする』
その瞬間、いつも貼りついていた人懐っこい笑みがトンパの顔から剥がれ落ちた。周囲の暗闇も構わず、トンパは左腕の通信機へ向かって唾を飛ばして叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待てよ! 何でだよ!? まだ四十八時間判定の条件は――」
『お前のチームで負傷者が出た。お前は、その負傷者を現場へ置いていったな』
即座に返ってきた指摘に、トンパは我が意を得たりとばかりに声を張り上げた。
「そ、それはルール上何の問題もないだろ! 全員揃ってゴールしなくてもいいって最初に言ったじゃないか! それに、あいつ本人が自分を置いて先へ行けって言ったんだぞ!」
とっさに口から出た苦しい言い逃れだった。
数キロ離れた監視所のモニター室で、マイクを握るボトバイは眉一つ動かさずに言い返した。
『置いていくこと自体は、規則違反ではない』
「だったら何で――!」
『お前は、その負傷者の救助可能性を何一つ確認しなかった』
ぴしゃりと叩きつけられた言葉に、トンパの息が詰まる。ボトバイの低い声は、逃げる隙間を与えないまま淡々と続いた。
『怪我の正確な程度も、添え木による固定の可否も、搬送の方法も、使える移動手段も、目的地までの残り時間もだ。お前は現場で、連れていくための検討をただの一つも行わなかった』
「で、でも本人が! 本人が足手まといになるから置いていけって言ったんだよ!」
『仮に本人がそう口にしたとして――本人が死にたいと言ったら、お前はそのまま殺すのか』
トンパの口が、ぱくぱくと開いたまま止まった。
スピーカーの向こうで、ボトバイの声がいっそう低く沈む。
『プロの現場では、どうしても仲間を切り捨てる判断が必要になることもある。だがな』
そこで一拍だけ、重い静寂が挟まった。
『切り捨てることと最初から勘定に入れないことは違う』
遠く離れた森林監視所の中では、第四チームの誰も声を出さず、腕章から響くその言葉にじっと耳を澄ませていた。らでんは無意識に自分の左肩を押さえる。
ボトバイの声が、夜の山中に静かに響き渡った。
『お前は、どうしても置いていく必要があったから置いたんじゃない』
一拍の間。
『置いていく方が、自分の都合によかったから置いただけだ』
夜道の真ん中で、トンパの顔がぐしゃりと醜く歪んだ。
「……そんなの、勝手な言いがかりじゃねえか……」
『それは現場の決断じゃない。ただの保身だ。――以上、受験番号16番、失格』
プツン、と無機質な音を立てて、協会からの全体音声が切れた。
◇ ◇ ◇
暗い夜道に、虫の声だけが戻ってくる。
しばらくの間、トンパは消えた腕章の画面を睨みつけたまま立ち尽くしていたが、やがて怒鳴り散らすのでも誰かに食い下がるのでもなく、ふっと大きく肩の力を抜いた。
「……ちぇっ。今年はここまでかあ」
さっきまでの必死な剣幕が嘘だったみたいに、ひどく軽い声だった。
トンパはそのまま道端の草むらへどっかりと胡坐をかいて座り込むと、上着のポケットから小さな携帯菓子の包みを取り出し、パリッと封を開けて一人で呟いた。
「ま、今年の試験もそこそこ新人の慌てる顔が見られて楽しめたしな。また来年、ってとこか」
ぽりぽりと菓子を噛むその軽い独り言を、聞いている者はもう誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
森林監視所の中では、腕章の音声が途切れたあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
重苦しい沈黙の端を破ったのは、自分の膝を抱えて座っていたはじめの、ひどく小さな呟きだった。
「……うちらもさ、もし昼間にらでんをあのまま置いていってたら、同じになってたのかな」
壁際に立っていたガロが、ゆっくりとはじめの方へ視線を向けて首を振った。
「いや。置いていったという結果だけで失格にはならん。試験官が見ているのは、そこに至るまでの『判断』の過程だ」
ガロはそこで一度言葉を切り、らでんの吊った左肩へちらりと目をやってから、少しだけ声を和らげた。
「……ただ、結果論にはなるが。あの場で諦めずに引き上げることができて、本当によかったと思っている」
はじめは何も言い返さず、ただ小さくこくりと頷いた。
らでんは自分の膝の上で手を握りしめ、さっき腕章から流れてきたボトバイの言葉を胸の奥で何度も反芻していた。
――切り捨てる判断も必要になる。でも、最初から勘定に入れないこととは違う。
昼間の崖で、自分は「私なら何とかしますから、先に行ってください」と叫んだ。あれは一見、チームのためを思った判断のようでいて、実のところは自分一人を最初から勘定の外へ放り出す一番簡単な逃げ道だったのではないか。ボトバイのあの言葉は、トンパだけでなく、昼間の自分自身の浅さにも真っ直ぐ突き刺さっている気がした。
午前零時十五分。見張り番を残して、もう一度だけ仮眠を取ることになった。
寝袋へ潜り込む直前、隣に並んだはじめがこちらを向いて短く言った。
「あと一日だね」
「……ですね」
「絶対、全員で受かろうな」
「はい。一緒に受かりましょう」
第三次試験終了まで、残り二十三時間四十五分。
◇ ◇ ◇
三日目の朝は、拍子抜けするほど静かに明けた。
午前五時四十分。まだ外の山の端に日が昇りきらない森林監視所の中には、規則正しい寝息と、朝の冷気で古い柱がときおりミシリと軋む音だけが満ちていた。
一番に目を覚ましたのはガロで、すぐあとにミナが起きた。
らでんが瞼をこすりながら身を起こしたときには、大人二人はもう静かな手つきで出発前の装備点検を済ませているところだった。第四チームが持つ認証札はらでんの腰袋の中にあり、予備のロープはミナの鞄にちゃんと収まっている。
ふと横を見ると、はじめだけはまだ気持ちよさそうに眠っていた。
寝袋から上半身を半分だけずり出し、片腕を自分の枕代わりにして、もう片方の腕では昨日らでんから預かった荷物の袋を大事そうにぎゅっと抱きかかえている。
「……なんであの人、人の荷物を抱き枕にして寝てるんですか」
らでんが呆れて小声で呟くと、靴紐を結んでいたミナが声を殺して笑った。
「昨夜、寝袋に入るときにそのまま抱えて寝ちゃったのよ」
「そろそろ返してもらおうかな……」
「もう起こす?」
らでんは、規則正しく上下しているはじめの肩と、少しだけ開いた口元をじっと見下ろした。昨日の昼間は誰より走り回って、夜中も自分の見張り番に付き合ってくれたのだ。
「……いえ。出発ギリギリまで、もうちょっとだけ寝かせといてあげます」
◇ ◇ ◇
試験終了までの残り時間は、十八時間と少し。
床に広げた地図で見れば、この森林監視所から最終目的地である旧バルサ地方裁判所までは、直線距離なら二十五キロほどしかない。けれど、間には険しい山越えと川があり、崩落して使えない旧道まで計算に入れれば、実際に自分たちの足で歩かなければならない距離は三十五キロ前後になる。
身軽な受験者だけが走るなら十分に踏破できる距離だが、今の第四チームは証人役のハインと銀色のケースを守り、それぞれの怪我を抱え、いつどこから来るか分からない妨害を警戒しながら進まなければならない。
ガロは地図の上を指先でなぞりながら、低く方針を示した。
「まず、昼までにこの山を越える。午後には北側の麓にある『旧北部物流線』へ出るぞ」
「廃線になった鉄道ですよね。線路の上を歩けるなら、山道よりずっとペースが上がりそうです」
「ああ。もし線路そのものが荒れてて使えなくても、軌道に沿って進めば方角を見失うことはない」
らでんの言葉にガロが頷くと、横から覗き込んでいたミナが尋ねた。
「そのルートだと、裁判所には何時ごろ着けそう?」
「まずは正午までに、線路の途中にある旧北部保線基地へ出たい。そこから先の時間は、協会がどれだけ妨害を置いてくるか次第だな」
すると、三人のすぐ後ろから、ふぁあ、と大きなあくび混じりの声が割り込んできた。
「そういうのってさ、絶対また何か面倒くさいことが起きるやつじゃん」
一斉に振り返ると、寝袋から這い出したばかりのはじめが、頭頂部の髪を盛大に跳ねさせたまま目をこすっていた。
「あ、起きてたんですか」
「うん、今起きたとこ」
「おはようございます」
「おはよ」
呑気に挨拶を返したはじめは、そこでぴたりと動きを止め、らでんの頭のあたりをじーっと見つめた。
「……何ですか、急に」
「いや、らでんの髪」
「私の髪がどうかしました?」
「うん、なんかすごい方向に寝癖ついてるかも」
「えっ、うそ!」
らでんは大慌てで右手を上げ、自分の後頭部の髪を手探りで押さえつけた。前髪を揃えるのだけは毎朝気をつけているのに、後ろが跳ねているとは気づかなかった。自分の頭がもっと爆発しているはじめに限って、こういうところだけはよく見ている。
地図を折り畳んだガロが、立ち上がって号令をかけた。
「よし、そろそろ行くぞ。全員、出発の準備をしろ」
◇ ◇ ◇
午前六時十分、五人は森林監視所を出発した。地図の北西へと続く管理道をたどり、まずは約二十六キロ先の旧北部保線基地を目指す。崩れかけた路肩の状態を確かめながら、一歩ずつ着実に足を運ぶしかなかった。
山を越える途中では、無理をせず小まめに休憩を取って水を飲み、足を休めた。
そのたびにミナがらでんの左肩を固定している布をきつく巻き直し、ガロの左腕の打撲の腫れを触診する。はじめも、昨日採石場で跳んだときに擦りむいた膝小僧をミナに見せて消毒してもらうと、すぐに立ち上がって靴底の土をトントンと蹴り落とした。その足取りには少しの淀みもなく、背中ではまだらでんの荷物の半分が一緒に揺れている。
山を下りきり、目的の旧北部保線基地の敷地へ辿り着いたのは、正午目前の十一時五十八分だった。
錆びた線路の脇に建つ広い整備庫へ足を踏み入れた途端、四人の左腕で腕章が短く鳴った。
《護送継続中:3チーム》
水筒の蓋を開けかけていたはじめの手が、ぴたりと止まる。
「……三って、これ、うちらを入れて三チームってこと?」
「ああ」
ガロの短い返事のあと、整備庫の中に重たい沈黙が落ちた。
一昨日の深夜、あの廃都市から一斉に出発したときには、確かに九つのチームがいたはずだ。そのうちの六組はすでにどこかで条件を失って脱落し、もうこの先の道へは現れない。
らでんは胸ポケットから出した地図の端を、指先でぎゅっと押さえた。ここから旧バルサ地方裁判所までは、残りあと九キロ。自分が鉛筆で引いた目的地までの線だけは、最初から一ミリも変わっていないのに、同じ線を辿っていたはずの人たちがこんなにも減ってしまった。
そのとき、整備庫の外の砂利道から、複数の足音が近づいてきた。
入り口の光の中に、見覚えのある赤茶色の髪が揺れるのを見つけて、はじめがぱっと顔を輝かせて駆け寄る。
「メンチ!」
「あんたたちか。……悪い、水、ちょっと残ってる?」
入ってきたメンチの頬には、昨日まではなかった新しい擦り傷がついていた。その後ろからは、同じ第五チームの短髪の青年と髪を束ねた女、そして証人役の男が肩で息をしながら続いてくる。
らでんが自分の水筒の栓を開けて差し出すと、メンチは礼を言って一口だけ喉を潤し、すぐに水筒を返してよこした。
「……うちのチームはね、一人、途中で足首をやって続行をやめたわ。その場で手当てして、協会の救護班が回収に来るところまではちゃんと見届けたけど」
メンチはそれ以上、道中のことを詳しく話そうとはしなかった。らでんも余計なことは尋ねず、静かに水筒の栓を閉めた。
さらに数分後、整備庫の反対側の入り口から、もう一組の足音が現れた。第六チームだ。
先頭を歩くのは、昨日の午前中に浄水管理所で戦ったあの小柄な少女だった。その後ろに大柄な男と、左腕を三角巾で吊った男、額に白い包帯を巻いた男が続き、四人で証人役の女を囲むように守っている。銀色のケースは、左腕を吊った男が空いた右手でしっかりと提げていた。
入り口で足を止めた少女と、こちらを見ていたはじめの目が、ばっちりと合った。
「あ」
「あーっ!」
はじめがすかさず左腕を突き出し、自分の空っぽになった札留めをビシッと指差した。
「うちの札!」
「む。まだ拙者がちゃんと持ってるでござるよ」
「返せー!」
「正々堂々取ったものでござるから、嫌でござる!」
少女が自分の腰袋をぽんぽんと軽く叩いてみせる。
らでんも思わず自分の腰袋の口を右手で押さえた。あのとき少女と入れ替わりで奪い取った、第六チームの『164番』の認証札はここにある。昨夜の四十八時間判定を第四チームが無事に通過できたのも、この一枚があったおかげだ。
頭ではそれでチャラだと分かっていても、自分の番号が向こうの腰袋に入っているのはやっぱり悔しくてたまらないのだろう。はじめは少女の腰元をうらめしそうに目で追っていた。
そのやり取りを見ていたメンチが、呆れたように腰へ手を当てて笑う。
「あんたたち、ずいぶん仲いいじゃん」
「「よくない!」」
二人の声が綺麗に重なり、整備庫の中に乾いた笑いが広がった。
ガロが苦笑しながら、コンクリートの床の上へ大きく地図を広げる。
第四チームが四人、メンチたち第五チームが三人、少女たち第六チームが四人。生き残った十一人の受験者と三人の証人、そして三つの銀色のケースが、一枚の地図をぐるりと取り囲んだ。
「ここから裁判所へ入る手前の幹線道路だけど、大型車で完全に封鎖されてるわ」
メンチが屈み込み、少し先まで偵察して見たらしい地点を指差した。すると、第六チームの大柄な男も、地図の反対側の川沿いへ太い指を置く。
「俺たちが見た河川側の迂回路も、協会の人間が見張っていた。かといって、これ以上北へ回れば切り立った崖だ」
「つまり、どの組もあの封鎖地点を正面から抜けるしかないわけか。証人を連れたまま、一チームずつバラバラに突っ込んで抜けられる場所じゃなさそうだな」
ガロの言葉に、第六チームの少女が真剣な顔で頷いた。
「はい。ここからは三チーム一緒に向かった方がいいと思います。少なくとも、向こうにどれだけの人数が配置されているか確かめるまでは」
「そこまでは私も賛成」
メンチも異存はないとばかりに地図から顔を上げた。
隣で聞いていたはじめが、にっと笑って少女の前へ右手を差し出しかける。
「よし、じゃあここからはとりあえず仲間――」
「だからといって、札は返さないでござるよ」
「まだなにも言ってないじゃん!」
先回りして釘を刺す少女と、引っ込めた手を振って抗議するはじめを見て、らでんはくすっと笑いながら床の地図を畳んだ。
午後零時十八分、残存する三チームは揃って旧北部保線基地を出発した。
証人とケースはあくまでそれぞれのチームが責任を持って守り、先頭を行く第六チームと最後尾の第五チームが互いに姿を見失わない距離を保つ。その真ん中を、らでんたち第四チームが進んでいった。
◇ ◇ ◇
午後一時三十六分。
最終目的地の旧バルサ地方裁判所まで残り二キロの地点で、一行はぴたりと足を止めた。
前方の旧物流幹線を、横向きに止められた大型トラックと頑丈な鉄柵が完全に塞いでいる。封鎖された道路のすぐ左側は、『第三貨物積込場』と書かれた看板のある広い敷地になっていた。背の高い倉庫と鉄骨の資材棚の間に古い荷役ヤードが広がり、その敷地を抜けた向こう側で、管理道が再び裁判所へ続く本道へと合流している。
そのヤードの中に、灰色の腕章をつけた男たちが立ち並んでいた。
封鎖された道路側に四人、資材棚の並ぶ中央通路に四人、さらに奥の高い足場の上に二人。合計十人。
昨日まで森の中で札を奪い合っていた受験者たちではない。身のこなしも構えも統率された、ハンター協会差し向けの妨害役――その最終班だった。
中央に立つ拡声器を持った男が、こちらを認めて片腕を高く上げた。
『残存三チームへ告ぐ。これより最終妨害を開始する。各自、証人と証拠品を守ったまま、五分間、我々の妨害を凌ぎきれ。五分経過時点でどちらも管理下に残っていれば、裁判所正門への進入路を開放する』
アナウンスと同時に、全員の腕章に同じ条件が文字で表示された。そのすぐ下に、今までにはなかった赤い警告文が浮かび上がる。
《最終妨害中、証人または証拠品を奪われたチームは即時失格》
らでんは思わず息を呑んで、その赤い文字を二度読み直した。
昨日までの道中なら、たとえケースを奪われても三十分以内に取り返せば試験を続けられた。けれど、この最後の五分間だけは違う。敵の手に渡ったその瞬間に、ここまで歩いてきた三日間がすべて終わるのだ。
『なお、チーム間の協力は自由とする。ただし、他チームの喪失を別チームが肩代わりして救済することはできない。開始時刻は諸君らが選べ。準備ができたら申告し、足元の開始線を越えろ』
見れば、道路と荷役ヤードの入り口を横断するように、地面へ鮮やかな黄色いラインが引かれていた。
「三組同時にここへ入るぞ」
「賛成。あの十人全部を一チームずつ順番に相手するより、一度に入って敵の足を分散させた方がまだマシよ」
ガロの提案にメンチが即座に乗り、第六チームの少女も深く頷く。隣ではじめが腰に手を当てて、敵の並びを睨んだ。
「五分耐えればいいだけなら、みんなで守ればなんとかなるっしょ」
「五分『だけ』ではなく、五分『も』でござるよ」
「分かってるって!」
二人のやり取りを背中で聞きながら、らでんは一人だけ黄色い開始線の端へと歩み寄った。
正面から十人とまともにぶつかり合えば、怪我人を抱えたこちらが押し切られる。どこかに、相手の人数をそのまま通さないための「地形」があるはずだ。
目を凝らすと、左手の倉庫の壁に沿うようにして、細い保守用の通路が資材棚の外側をぐるりと回っているのが見えた。途中に段差や敷居はなく、そのまま奥の進入路手前にある待避所まで一直線に繋がっている。大人が二人並んで歩けるかどうかという狭さだが、だからこそ大勢に一度に囲まれる心配がない。
さらにらでんは、倉庫の太い鉄骨柱の上へと視線を滑らせた。
資材棚が並ぶ中央通路の頭上をまたぐように、黄色い門型クレーンの鉄梁が渡されている。
そのワイヤーの先には、長い鋼材を何本も束ねて帯で固定した巨大なラックが宙に吊り下げられていた。吊荷の底から地面までは一メートルほど。真下の地面には荷を受けるための角材が綺麗に並べられ、その周囲を立ち入り禁止を示す黄色と黒の縞模様のラインが四角く囲っている。
そして、さっき見つけた倉庫沿いの細い保守通路は、ちょうどその黄黒の危険範囲の外側をかすめるように通っていた。
「……あの吊荷を地面まで下ろせば、資材棚の真ん中の広い道が完全に塞がります」
らでんが宙の鋼材ラックを指差すと、第六チームの少女も興味を示してトタッと柱の近くへ寄ってきた。
幸い、クレーンの手前側の支柱は黄色い開始線よりもこちら側に立っており、柱の側面には黄色い押しボタン式のペンダント操作器がぶら下がっている。通電を示す緑のランプが灯り、『巻上げ』『巻下げ』の矢印ボタンがはっきり分かれていた。
後ろから覗き込んだはじめが「これ、ほんとに動くの?」と首を伸ばす。
「少しだけ確かめてみます。念のため、誰も荷の下には入らないでください」
少女は操作器を手に取り、表示板の注意書きを素早く読み取ってから、吊荷の真下に誰もいないことを確かめて『巻下げ』のボタンを親指で押した。
頭上でモーターが低く唸りを上げ、鋼材を積んだラックがゆっくりと垂直に下がり始める。少女がボタンから指を離すと、ラックは揺れることもなくその場でピタリと停止した。少女はほんの少しだけ『巻上げ』を押して元の高さへ戻し、操作器を静かに柱のフックへ掛け直す。
「ボタンを押している間だけゆっくり動く仕組みでござるね。ただ、地面まで完全に下ろしきるには、数秒間押し続ける必要があります」
「なるほど。なら、誰かがその柱の前でボタンを押し続ける間、周りで守ってやらないといけないわけね」
メンチが腕を組んで、宙に浮くラックの向こう側を睨んだ。荷を下ろす場所を挟んだすぐ先で、灰色の腕章をつけた妨害役たちがこちらを待ち構えている。
らでんは胸ポケットから出した地図の裏紙に、短い鉛筆で素早く略図の線を引いた。
まず開始と同時に、前衛が正面の敵を引きつける。その隙に、三チームの証人とケースを資材棚の間から外側の細い保守通路へと逃がす。全員が外側へ抜けたところで、少女がクレーンを操作して鋼材ラックを受け木の上へ下ろし、中央の広い通路を物理的に塞いでしまうのだ。そうすれば、中央にいた敵はラックを越えるか大回りするしかなくなり、奥の待避所へ届くまでの時間を大きく稼げる。
「ただし、もし吊荷の真下に敵の足が入っていたら、危ないので絶対に動かさないでください。荷を横へ振って人にぶつけるのもなしです」
「もちろんでござる。あんな重い鉄の塊を人に向けて振り回すつもりは毛頭ないでござるよ」
少女は凛とした声で請け負い、操作器の立つ位置から吊荷の真下の黄黒ラインと、仲間が抜ける保守通路の両方がしっかり目視できることをもう一度確かめた。
作戦が決まると、ガロとメンチが前衛として踏み込む位置を打ち合わせ、第六チームの男二人は自分たちの証人に「どこで止まり、どの合図で走るか」を短く言い含めた。
ミナもハインを自分のすぐ隣へ呼び寄せる。
「いいですか、ハインさん。さっきみたいに勝手に前へ出ないでくださいね。私が止まったらピタリと止まること」
「……分かっている」
その横で、ガロがハインの腕から銀色のケースを受け取り、らでんの右手へと差し出した。
「らでん、ケースは今からお前が持て。重さはどうだ」
「はい、右手だけならしっかり持てます。左肩は使いません」
「よし。少しでも無理だと思ったらすぐ言えよ」
らでんが金属の持ち手を強く握り込むと、隣に並んだはじめが、そのケースとらでんの吊った左肩を交互に見てからにっと笑った。
「じゃあ、うちはそのすぐ横を走るね」
午後一時五十分。
三チーム全員の配置と目配せを確認し終えたガロが、正面へ向かって大きく片手を上げた。
「――よし、始めるぞ!」
十一人の受験者と三人の証人が、一斉に黄色い開始線を踏み越えた。
◇ ◇ ◇
《最終妨害開始 4:59》
腕章のカウントダウンが動き出すなり、協会の最終班は三チームの隊列が整うのなど一秒も待ってくれなかった。
道路側にいた二人が猛然とメンチの組へ襲いかかる。それとほぼ同時に、資材棚の陰から飛び出した男の長い腕が、らでんの右手に提げた銀色のケースを真っ直ぐに狙った。
らでんが反射的に半歩後ろへ引く。そのすぐ前の空間へ、はじめが滑り込むように割り込み、伸びてきた敵の手首を横からパシッと叩き払った。力任せに押し返そうとはせず、自分の身体ごとくるりと回って、ケースへ伸びる最短のコースだけを外す。
「おっと、そっちじゃないよ!」
体勢を崩した男が向き直るより早く、その真正面へガロの分厚い肩が割って入った。
らでんはケースを右脇に抱え込み、前を走るミナの背中を必死で追う。そのすぐ前を行くハインは、後ろの乱戦が気になるのか一度だけ振り返りかけたが、ミナに「前を見て!」と鋭く背中を押されて保守通路へと駆け込んだ。
左手では、第六チームの少女が証人の女へ振り下ろされた訓練用の警棒を、抜かない刀の鞘でガッと受け止めていた。
そのまま相手が踏み込もうとする足の先へ自分の靴を滑り込ませ、体捌き一つで男の突進の向きを横へとずらす。だが、その背後へもう一人の妨害役が回り込んだ。
「そっち、後ろにもう一人!」
声を飛ばしたのははじめだった。少女が咄嗟に身を低く沈めるのと同時に、横から駆けつけたはじめが資材棚の鉄柱へ片手をパッと掛けた。空を切った警棒の上を軽やかに飛び越え、柱を支点にした回転の勢いで二人目の男の外側へと回り込む。
驚いてそちらへ伸びた男の腕を、立ち上がった少女の鞘がピシリと下から打ち据えて止めた。
「助かったでござる!」
「これで昨日の札、一枚分の貸しね!」
二人は走りながら視線を交わして笑ったが、深追いはしなかった。少女はすぐさま自分のチームの証人の脇へ戻り、はじめもケースを抱えるらでんの右側へと駆け戻る。ガロが身体を張ってこじ開けた隙間を縫うようにして、第四チームの全員が資材棚の脇を抜けた。
前方では、メンチが通路に積まれていた空の木箱を敵の足元へ蹴り転がしていた。木箱に脛を阻まれて妨害役の足が一歩止まる。その隙に、第五チームの残り二人が証人とケースを抱えて奥の通路へと滑り込んだ。
「よし、うちの証人は入ったわ! こっちへ来た分は私たちが止める!」
「倉庫の壁沿いへ! 全員、そのまま外側の保守通路へ抜けてください!」
メンチの声に重ねてらでんが叫び、自らも通路へと駆け込む。すぐ後ろにはじめがぴたりと続き、しんがりのガロが入り口の角を離れた。
◇ ◇ ◇
証人たちを通路へ逃がしたのを見届けて、第六チームの少女がクレーンの操作器が掛かる鉄柱へと走った。
だが、その行く手を塞ぐように、道路側から回り込んできた妨害役の男が立ちはだかる。黄色い押しボタンの操作器はすぐ目の前の柱にあるのに、あと一歩の手が届かない。
「メンチ殿!」
「見えてるわよ!」
呼ばれたメンチは、自分のチームの二人へ手で合図を送って証人を先へ走らせると、一人だけ資材棚の外側へと踏み出した。そのまま、操作器の前に立つ男の顔面へ向かって、腰に挟んでいた作業用の革手袋を力いっぱい投げつける。
「あんた、そっちのチビばっかり見てていいわけ?」
男が咄嗟に片腕で手袋を振り払った。その一瞬の死角を突いて、少女が風のように男の脇をすり抜け、鉄柱の裏側へと回り込む。
そこへ別の妨害役がメンチの背後から迫ったが、メンチは後ろへ逃げるどころか、逆に最初の男の懐へと深く踏み込んだ。敵二人の進路が狭い柱の脇で重なり合い、互いの肩がぶつかって動きが詰まる。軽口を叩いたメンチの額にも汗が滲んでいたが、その足運びだけは少しも止まらなかった。
「操作器、いけます!」
柱の裏でボタンに指を掛けた少女の声に、保守通路の入り口で振り返ったらでんは、宙に吊られた鋼材ラックの真下へと視線を走らせた。
受け木の真上に人はいない。――けれど、地面に引かれた黄黒の危険ラインのすぐ端へ、ガロを追いかけてきた妨害役の男の片足が踏み込んでいるのが見えた。あそこからガロの横を抜けられれば、こちらの証人たちに手が届いてしまう距離だが、このまま荷を下ろせば男の肩か足を直撃しかねない。
「まだ駄目です! 黄黒の縞の中に、一人足が入ってます!」
らでんの叫びに、少女の親指がボタンの上でピタリと止まった。
それを聞いたガロが、目の前の男の腕を自分の太い左腕で強引に巻き込み、体重を乗せて資材棚の角へと力任せに押し戻す。男も必死に靴底を踏ん張ったが、ガロは一歩も退かなかった。
ズルッ、と男の靴底が砂利の上を滑り、黄色と黒のラインの外側へと完全に押し出される。危険範囲が綺麗に空いた。
「今だ、下ろせ!」
ガロの怒号と同時に、少女が『巻下げ』のボタンを強く押し込んだ。
頭上で低いモーター音が唸りを上げる。ワイヤーに吊られた鋼材ラックが、ほとんど横揺れもせずにゆっくりと降りてくる。ワイヤーを切って落とすのとは違う、見守っているこちらの背中がじりじりと焦れるような一定の速度だ。
少女は鉄柱の陰に片足を残したまま、両手で操作器を握りしめていた。降りていく荷の真下に誰かが飛び込まないか、そして自分の方へ追手が迫っていないか、その両方を鋭い目で見張っている。
やがて、ラックの底が地面の受け木へと触れた。
ズシン、と重く鈍い振動が一度だけ靴底から伝わってくる。少女がボタンから指を離すと、資材棚と資材棚の間の広い通路に、大人の背丈を超える鋼材の分厚い壁が出来上がっていた。
「下りました!」
「よし、操作器から離れて早くこっちの通路へ!」
らでんの呼びかけに、少女が操作器を手放して倉庫沿いの保守通路へと飛び込んでくる。前衛で敵を引っ掻き回していたメンチも深追いせずにサッと引き、最後にガロが棚の角を回って通路へと合流した。
腕章の表示は、残り二分十八秒。
中央通路を追ってきていた妨害役の数人が、目の前に立ち塞がった鋼材の壁の前で一斉に足を止めたのが見えた。よじ登って上を越えようとする者と、諦めて外側の道路へ大きく迂回しようとする者に敵の動きが割れる。
その数秒の遅れを使って、一行は保守通路の次の曲がり角へと一気に駆け抜けた。
「――後ろ、もう一人来る! ガロの外側!」
最後尾のすぐ前を走っていたはじめが、首だけを後ろへ巡らせて鋭く声を飛ばした。
言われたガロは、ちょうど掴みかかろうとしていた目の前の敵からパッと手を離し、迷わず一歩後ろへ退く。直後、ガロがいたはずの空間を、角から飛び出してきた新しい妨害役の警棒が激しく薙ぎ払い、倉庫のトタン壁をガアンと叩いた。
「フォロー助かる! はじめ、足音が聞こえたらそのまま全部言え!」
「わかった!」
ガロに声をかけられ、はじめは走りながらさらに耳を澄ませた。こういう視界の利かない細い通路では、自分が前へ出て殴り合うより、壁に反響する靴音を拾って仲間に知らせる方がずっと役に立つ。誰かが角へ踏み込むたび、砂利やコンクリートを擦る靴底の硬い音が、はじめの耳には手に取るように届いていた。
「前も来てる! 右の砂利道から二人!」
はじめの警告に、先頭近くを走っていたメンチがすぐさま次の角の向こうを睨んだ。
「ちっ、やっぱり道路側から回り込んできたか!」
角から飛び出してきた先頭の男の懐へ、メンチが自分から低く踏み込んで両腕を跳ね上げさせる。続く二人目の男には、横から抜けた第六チームの少女が鞘を構えて立ち向かった。
残り一分二十一秒。
そのとき、背後へ置いてきたはずの門型クレーンの方から、再びブウウンという低いモーターの駆動音が響いてきた。
「えっ……荷を上げ直してる……?」
らでんが走りながら思わず後ろを振り返ると、倉庫の柱の隙間から、さっき下ろしたはずのワイヤーがピンと張って少しずつ巻き上げられていくのが見えた。
そうだ、クレーンを壊したわけじゃない。手前の柱にある押しボタンは、こちらが離れたあとなら妨害役の側だって同じように操作できる。塞いだはずの中央通路が、今まさに敵の手で開け直されているのだ。
「真ん中の敵もあとから追ってきます! 今のうちに、全員奥の待避所まで!」
らでんの声に、ミナがハインの腕を引いて先へ駆け込む。
隣を走るはじめが、額に滲んだ汗を袖口で乱暴に拭い、らでんとぱちりと目を合わせた。
「……らでん」
「はい!」
「後ろの足音、うちにちゃんと聞こえてるから」
さっきの礼でもなければ、何かを心配する言葉でもなかった。ただ「自分の役割はやれる」という真っ直ぐな目だった。
らでんはほんの少しだけ口元を緩め、すぐに前方の待避所へと視線を戻した。
「はい。じゃあ、後ろの警戒はお願いします!」
「おう!」
力強く頷いたはじめが、再び背後へと耳を向ける。
辿り着いた待避所は、固く閉ざされた裁判所への進入路ゲートのすぐ手前にあった。
背後は高い倉庫の壁、正面は車両用の頑丈な鉄柵で、外からここへ入り込める場所は、今抜けてきた細い保守通路の出口と、横の道路側に開いた入り口の二か所だけだ。
三チームはまず三人の証人を一番奥の倉庫の壁際へと寄せ、その足元の内側に銀色のケースを置いた。第四チームのケースだけは、いざというときすぐ動けるよう、らでんが右腕にしっかり抱えたまま壁際に立つ。
第六チームの大柄な男が自分たちの証人の前を固め、ミナがハインのすぐ横に立ち、はじめは保守通路の出口に近い位置で耳を澄ませた。
狭い保守通路の出口はガロが一人で塞ぎ、広い道路側の入り口はメンチと第六チームの少女が左右に分かれて受け持つ。
そこへ、巻き上げられたクレーンの下をくぐり抜けてきた妨害役たちが、次々と合流して数を増やしてきた。
残り四十二秒。
保守通路の出口で、敵二人の押し込みを受けたガロの靴底が、ズッと半歩だけ後ろへ滑った。
昨日の採石場で打撲を負っていた左腕に何度も重い衝撃を受け、握りしめた拳の指がわずかに開きかけている。道路側を守るメンチの肩も激しく上下し、少女が鞘を握る小さな手にはびっしょりと汗が光っていた。
ガロの脇をすり抜けようと伸びてきた敵の腕を、後ろに控えていた第六チームの大柄な男が横から強く押し戻す。男は深追いせず、すぐに自分の証人の前へと戻った。誰一人として、自分の持ち場に穴は空けない。
「右、もう一人走ってくる!」
はじめの声が飛び、道路側の少女が素早く半身を返した。
振り下ろされた警棒を鞘で受け流した瞬間、別の妨害役がそのすぐ外側を回って奥へ突っ込もうとする。だが、隣にいたメンチは外へ逃げた敵を追わず、逆に後ろへ下がって第五チームのケースとの間へ立ち塞がった。敵がわざと揺さぶりをかけて、守り手の位置をずらそうとしているのを見抜いていたのだ。
残り十八秒。
混戦の隙間を縫って踏み込んできた男の一人が狙ったのは、壁際に立つらでんの右手――そこに抱えられた銀色のケースだった。
金属の持ち手へ、敵の指先が伸びる。
らでんは咄嗟に右肘を脇腹へ強く締め、相手からケースを遠ざけるように腰をひねった。その反動で、吊っていた左肩に火花が散るような痛みが走り、一瞬だけ足が止まりそうになる。
らでんは歯を食いしばって自分の足元を見た。
昨日の崩れた崖とは違う。今の後ろには、まだ半歩分のコンクリートの床が残っている。――下がれる!
らでんはケースの持ち手を絶対に離さず、背後の壁ギリギリまで自分の足でもう一歩退いた。
それでも足りずに追いすがってきた男の腕が、ケースへ届きかける。その手首を、真横から飛んできた白い鞘がパシッと鋭く叩き落とした。
「さっきの貸し、ここで返すでござる!」
第六チームの少女が間へ割り込み、ケースから離れた男の腕をそのまま外側へと押し流す。
らでんは汗の滲んだ右手で、銀色のケースの持ち手をぎゅっと握り直した。足元を見渡せば、三つのケースはどれもまだ、それぞれのチームの管理下にちゃんと残っている。
残り十秒を切り、全員の腕章がピッ、ピッ、と小刻みなカウント音を鳴らし始めた。
メンチが第五チームの証人へ手を伸ばしかけた男の肩を上から押さえ込む。
ガロはもう拳を打ち返そうともせず、ただ自分の分厚い身体そのものを保守通路の出口へ楔のように残して踏みとどまった。道路側の入り口では、第六チームの大柄な男が少女の横へ並び立ち、二人の身体で隙間を完全に塞ぎきる。
「後ろ、壁沿いから一人抜けてきてる!」
はじめの最後の警告に、ミナが弾かれたように振り向いた。
保守通路の脇から壁伝いにすり抜けてきた男の手と、背後のハインとの間に、ミナは自分の救急鞄を盾にしてぐっと差し込む。らでんも銀色のケースを胸元へ深く抱き寄せ、身体ごと壁の窪みへと収めた。
3。
2。
1。
ピイイイイッ、と腕章から長い電子音が鳴り響いた。
《5分経過 妨害終了》
その音が落ちた瞬間、ガロの目の前で拳を振り上げていた男が、ぴたりと腕を下ろした。メンチの肩を掴んでいた別の男の手も、すっと力が抜けて離れる。
けれど、らでんはすぐには身動きができなかった。銀色のケースの持ち手を握りしめた右手の指が、その形のまま白く固まってしまっていたからだ。
すぐ隣で、はじめが「ふうーっ……」と肺の中の空気を全部吐き出すような長い息をついた。
その声を聞いて、らでんもようやくケースを足元の地面へそっと下ろし、痺れた右手の指を一本ずつゆっくりと開いた。
顔を上げて周りを見る。
受験者は十一人。証人は三人、銀色のケースは三つ。
誰一人として欠けることなく、全員がこの待避所の内側に立っていた。
正面のゲートの上で、赤く点滅していたランプがパッと鮮やかな緑色へ切り替わる。
《進入路開放 護送継続》
重いモーター音とともに、道を塞いでいた車両用の鉄柵が左右へとゆっくり開いていく。
らでんは、その向こうに真っ直ぐ伸びる裁判所への舗装路を見つめた。隣ではじめが背中の鞄をよいしょと背負い直し、らでんのすぐ横へ並んで立つ。
――これで、最後までみんなを連れていける。
開かれたゲートから先の二キロの道には、もう一人の妨害役も現れなかった。三チームはそれぞれの証人とケースを守り抜いたまま、午後の陽射しの中、旧バルサ地方裁判所の敷地へと辿り着いた。
高くそびえる正門の前で、ふたたび腕章が鳴る。
《最終確認:護送対象・確保、証拠品・確保、チーム構成人数:4》
《正門内へ進入せよ》
「行くぞ」
先頭のガロの短い一言に続いて、五人で並んで石造りの正門をくぐり抜けた。
一歩中へ入った瞬間、腕章の表示が切り替わる。
《第三次試験――終了》
《第四チーム 護送完了》
「……えっと、これでほんとに終わった?」
「はい、終わりましたよ」
らでんが画面を確かめて頷くと、隣のはじめが両腕を空へ突き上げて、敷地じゅうに響く大声で吠えた。
「っしゃあああああ!!」
ガロが肩を揺らして笑い、ミナはその場の石畳へへたり込むように座り込んだ。らでんも右手のケースを地面に置いて、その横へしゃがみ込む。今度こそ、本当に全身の力を抜いてよかったのだ。
すぐ後ろから、メンチたち第五チームと、少女たち第六チームも揃って正門を越えてきた。証人は三人、ケースは三つ。ここまで助け合って抜けてきた十一人全員が、制限時間内にゴールへと辿り着いていた。
◇ ◇ ◇
裁判所の建物内部、かつては大法廷として使われていたらしい天井の高い広間は、今は協会の簡易救護所兼待機所になっていた。
並べられたパイプ椅子と、水や軽食の置かれた長机。そして広間の中央には、太い腕を組んだ試験官ボトバイ=ギガンテが仁王立ちになって待っていた。
ゴールした十一人の受験者がその前に集まり、はじめはらでんのすぐ隣の椅子へどさりと腰を下ろした。
ボトバイの鋭い目が、端から順番に一人ずつの顔を舐めるように見渡していく。ガロ、ミナ、らでん、はじめ、メンチ、第六チームの少女たち、そして残りの受験者。
誰一人として、一昨日の深夜に試験が始まったときと同じ綺麗な顔をしている者はいなかった。裂けた服、こびりついた泥、白い包帯、滲む血と打撲、そして隠せない疲労の色。それでも、この十一人は自分の足でここまで歩いてきた。
ボトバイが、広間の空気を震わせる低い声で口を開いた。
「第三次試験は、これをもって終了だ」
まだ、誰も歓声は上げない。固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「今回の試験は三十六名で開始し、ここまでの最終到達者は十一名」
そこでボトバイは一拍置き、全員の目を真っ直ぐに見据えた。
「開始前に言ったはずだ。『戦って勝つことと、任務に勝つことを混同するな』とな。この三日間の試験で我々が見ていたのは、腕っぷしの強さだけじゃない。足の速さでも、無鉄砲な勇気でもない。現場での『判断』だ」
広間の中が、水を打ったように静まり返る。
「道中で誰かが怪我をした。だから置いていく。――それ自体は、現場の判断として間違いじゃない」
隣の椅子で、はじめがはっと顔を上げた。らでんも膝の上に置いていた自分の手に力を込める。
「逆に、仲間を助ければ必ず正しいというわけでもない。到底救助不能な人間にチーム全員で付き合って、結果として護送対象の証人も証拠品も失えば、それは勇気ではなくただの任務放棄だ。かといって、冷酷に切り捨てさえすれば合理的だとも限らん。まず周囲の状況を正確に見て、可能性を確認し、今の自分たちに何ができるかを考え抜いた上で決めろ。プロの現場では、最初から正解が一つに決まっていることの方が珍しい」
語っていたボトバイの視線が、ぴたりと第四チームの四人へと止まった。
「その点――昨日の旧搬送路、崖での救助。あそこで後先考えずに引き返した判断だけを見れば、明確な減点だ」
「……えっ」
思わず小さな声を漏らしたはじめを、ボトバイが容赦なく見下ろす。
「具体的な引き上げの方法も持たないまま、ただの感情で危険な崩落地点へ戻った。一歩間違えれば、お前まで巻き込まれて二人まとめて谷底へ落ちていたぞ」
「……はい」
はじめが肩をすぼめて神妙に頷くと、ボトバイはわずかに視線をずらし、隣のらでんを見た。
「だが、戻ったあとに思考を放棄しなかった。助けられる側に回った者も、ただ上から縄が下りてくるのを待つだけではなかったな」
そのままボトバイは、ガロとミナの顔も順番に見渡した。
「チーム全体で即座に救助可能性を評価し、三十秒という時間を区切り、現場の索道を使って方法を作り上げ、実際に引き上げてみせた。だから、トータルの結果としてあれは評価する」
張り詰めていたはじめの頬が、ふっと緩んだ。横を向いてらでんと目が合う。声には出さなかったが、それだけで十分だった。
すると、少し調子を取り戻したらしいはじめが、らでんの耳元へ顔を寄せてこそっと囁いた。
「……ねえ、じゃあさっきのクレーンはどうなんだろ」
「ちょっと、今そういうこと聞かないでください」
らでんが慌てて肘でつついた、まさにその瞬間だった。
「それから、最後の荷役ヤードで使ったあのクレーンだが」
ボトバイの低い声が飛んできて、らでんとはじめの肩が同時にビクッと跳ねた。
広間の中の空気が少しだけ変わる。だが、ボトバイの厳つい表情はピクリとも動かない。
「吊荷を下ろす危険範囲と、自分たちが通る退避路を最初から明確に分けた。下に人間の足が入ったときには、合図を出して降下を止めた。そこまではいい」
らでんは背筋を伸ばして「はい」と頷いた。
「ただし、現場の設備というのは敵も同じように使える。せっかく塞いだ道を相手の手で巻き上げ直されても、そこで慌てずに待避所まで走りきり、最後の五分間、一度も護送の陣形を切らさなかった。あの突破は、協力した三組とも高く評価する」
向こうの椅子で聞いていたメンチが「ふっ」と小さく口の端を上げ、第六チームの少女もほっとしたように肩の力を抜いた。
ボトバイは再び腕を組み直し、広間の十一人全員へ向き直った。
「以上をもって、第三次試験の合格者を発表する」
短い間が落ちる。十一人が一斉に息を止めた。
「――今ここにいる、十一名全員だ」
一秒、二秒の静寂。
最初に反応したのはメンチだった。握り拳を作って「よし」と短く、けれど力のこもった声を漏らす。
直後、隣のはじめが椅子から跳び上がらんばかりに「やったあ!!」と叫び、らでんの口からも「受かった……!」と熱い息がこぼれた。第六チームの少女は深く目を閉じて息を吐き、周りの男たちがその小さな肩をバンバンと叩いて讃えている。ガロは静かに目を閉じ、ミナは今にも椅子から滑り落ちそうなほど全身の力を抜いていた。
開始時の三十六人から、十一人へ。長く苦しかった第三次試験を、ついに全員で越えたのだ。
だが、ボトバイが「ただし」と低く続けた途端、緩みかけた十一人の背筋が再びピンと固まった。
「これでハンター試験がすべて終わったわけじゃない。このあと、次の最終試験官から直接指示がある。それまでの間、一時間だけ休息を取れ」
それを聞いて、十一人から今度こそ安堵の吐息が漏れた。
「隣の休憩室へ移動して休め。怪我をしている者は、その前に救護室へ寄って手当てを受けておくように。以上だ、解散」
◇ ◇ ◇
合格した十一人が椅子から立ち上がり、ぞろぞろと広間の出口へ向かって歩き出す。
その後ろへしれっと混じって部屋を出ようとしていた証人役のハインへ、ボトバイの鋭い視線がピタリと飛んだ。
「おい、ハイン。お前はそこへ残れ」
足を止めたハインが、これ以上ないほどあからさまに嫌そうな顔をする。
「……前を向け、ハイン」
「……はい」
扉の前で振り返ったはじめが、その様子を見てくすくすと笑った。
「うわ、おっちゃん、あれ絶対あとでめちゃくちゃ怒られるやつじゃん」
十一人が廊下へ出て、広間の重い扉がゆっくりと閉まりかける。その最後の隙間から、ボトバイの低い雷のような声が廊下まで漏れて聞こえてきた。
「いいか、まず第一に、一般人の護送対象役が受験者のナイフ攻撃を素手で綺麗に捌くな!」
「いや、あれはケースを守ろうとして咄嗟に――」
ハインの苦しい弁解が途中でぴたりと止まり、ゴトン、と重い音を立てて扉が閉まった。
廊下に残されたはじめが、肩を揺らして声を殺して笑う。
「やっぱり怒られてる」
「ですね。昨日のあれ、監視カメラでぜんぶ見られてたんですよ、きっと」
らでんもつられて声を立てて笑った。
笑うとまだ左肩の奥が少しだけ痛んだけれど、不思議と嫌な痛みではなかった。
この三日間、本当に怖かったし、痛かったし、自分はもうここで落ちてしまうんじゃないかと何度も思った。崖の下で鉄柵にぶら下がっていたときも、試験そのものからも。
けれど、こうして最後まで残った。十一人全員で、ここまで連れてくることができたのだ。
らでんは明るい廊下の先をゆっくりと歩きながら、前を行く背中を見渡した。
頬に傷をつけたメンチも、頼もしいガロも、優しいミナも、あの古風な少女もいる。そして自分のすぐ隣には、預けた荷物を背負ったまま軽快に歩くはじめがいる。
最初のトンネルを歩き出したときには百九十八人いた受験者が、九十一人になり、三十六人になり、そして今は十一人になった。
試験はまだ終わっていない。一時間後には、最後の試験が待っている。
けれど、この十一人と一緒なら、次は一体どんな試験が待っているのだろう。ほんの少しの怖さの向こうで、らでんの胸はそれ以上に強く、次の扉が開くのを楽しみにしていた。