列車を降りて、バスと車を乗り継いでも、目指す集落まではまだ山道が残っていた。
山あいというより、もう山の中そのものだ。急な斜面に張り付くようにして、古い木造の家々が段々に並んでいる。
現在の人口は八十六人。ほとんどが高齢者ばかりの限界集落だという。手元の資料によれば、五十年前にはもっとずっと大勢の人が暮らしていたらしかった。
「……いいねぇ」
「え、何が? 坂ばっかりだよ」
「この、いよいよ現場に来たなあって感じ! ほら、画面の地図じゃ分からなかった匂いとか、道の細さとかさ」
「うーん、うちにはまだ全然分からん」
首をひねるはじめの隣で、らでんはきょろきょろと周囲を見回しながら坂道を登った。
斜面に沿って家が並び、細い道のすぐ脇を澄んだ水が流れている。その水路に沿った石垣へ目を向けたところで、らでんの足がぴたりと止まった。
しゃがみ込んで石の面に顔を近づけると、数歩先を歩いていたはじめが「ん?」と戻ってくる。
「はじめ、これ見て。ここの石垣、途中から積み方が変わってるよ」
「……ほんとだ。って、ただの石じゃん」
「ただの石だけど、ただの石じゃないの! ほら、下の方は丸っこい石を噛み合わせてるのに、この線から上だけ角ばった石で積み直してあるでしょ」
「崩れたとこだけ後から直したってこと?」
「たぶんね。でも、いつ誰が直したのかまでは書いてないから」
そのまま視線を上げると、脇の水路もずっと上の社の方へ続いているように見えた。
昔のお祭りに使った水なのか、それとも畑へ引くためのものなのか、今の段階ではまだ分からない。石を積み直した人が誰だったのかも、きっと記録には残っていないだろう。
けれど、違う時代の積み方がここで繋がっていることだけは、目の前にちゃんと残っている。もし調べる前に「古いから」と全部きれいに積み直してしまったら、こんなふうに途中で手が加わった跡に気づく機会まで消えてしまうのだろうか。
らでんはもう一度、石垣の継ぎ目を指先でなぞるように目でたどった。
そんな話をしながら坂を登りきると、杉林の手前にある社殿と、白壁の剥げた土蔵が見えてきた。
「君らが、今回来てくれた新人か」
社殿の前から、作業着姿の男が近づいてきた。現地調査の受け入れを手伝う職員、カルド=ネーマンだ。
二人が足を揃えて名乗ると、カルドは手元の書類と目の前の二人を交互に見比べた。
「……聞いてはいたが、本当に若いな」
「二人とも十二歳です。やっぱり、小さいとちょっと不安ですか?」
「いや、プロハンターなんだろう。こっちは期待して呼んでいるから、仕事はきっちり頼む」
「あ、はい! もちろんです!」
「らでん、今ちょっと構えたでしょ」
「構えてないってば」
小さく肘でつついてくるはじめに言い返しながら、カルドの後に続いて土蔵の方へ歩いた。
カルドは歩きながら、社殿の屋根を直すだけなら大工を呼べば済む話なのだ、と説明してくれた。今回ハンターまで募集して手を借りたかった理由は、雨漏りの始まった土蔵の中身にあるらしい。
この村には昔、“渡火祭”という祭りがあった。
けれど少子高齢化と人口減少が進み、三十四年前に取りやめになって以来、一度も行われないまま途絶えている。この土蔵には、その途絶えた渡火祭の道具だと伝わる品々や古文書がそのまま残されていた。ただ、今となっては何をどう使ったのか答えられる人が村にもほとんどいないのだという。
カルドから渡された最新の目録は、二十九年前の日付になっていた。祭りが途絶えた五年後に、一度だけ整理が入った記録だ。担当者欄には、地元の役場職員の名前が“文化教育課”という部署名付きで記されている。
「あの、この目録を作った職員さんにお話を聞くことはできますか?」
「いや、その人はもう亡くなっている。もともと地元の歴史好きだったそうだが、文化財の専門教育を受けた人ではなかったらしい」
「そうですか……わかりました」
直接聞けないのは残念だけれど、専門外の人なら、当時の村で聞いた呼び名をそのまま書き留めた可能性もある。
重い引き戸をカルドが開けると、奥から古い木と紙、それに湿った布の混じった匂いが流れ出してきた。
薄暗い内部の棚には木箱が幾重にも積み上がり、貼られた札の墨字はすっかり薄れている。
「祭具一式」「古文書」。その並びに、『雑品』とだけ書かれた札があった。
らでんは最後の札の前で足を止め、思わず眉を寄せた。
「……『雑品』って、ずいぶん思い切った分け方ですね」
「三十四年前、祭りが終わった時点ですでにその状態だったそうだ。以来、誰も動かせないまま手つかずになっている」
「となると、二十九年前の整理よりさらに昔に仕舞われた時から、もう何に使うか分からない道具として一括りにされていたってことですか」
「当時の人間が『よく分からないから』で廃棄しなかっただけ奇跡だな。おかげで、現代の我々に整理が丸ごと回ってきたわけだが」
「ふふ、そうですね。でも残っていてよかったです。じゃあ、さっそく今の配置から記録を始めてもいいですか?」
「ああ、頼む」
中身を一つでも動かす前に、まずは今の棚の位置をノートに書き取り、いろんな角度から写真を撮っていく。
すぐ横ではじめが「よし」と一番上の箱へ手を伸ばしかけたので、らでんは慌てて声をかけた。
「あ、はじめ、待って! その箱もまだ動かさないで!」
箱の角を掴みかけていたはじめの手が、ぴたりと宙で止まる。
「え、これも先に撮るの? ただの木の箱だよ?」
「それも! どの棚のどの順番で積んであったか分からなくなったら、元の状態に戻せないし、後から『どの箱の隣にあったか』が大事になることもあるから」
「へえー……こういう古いものって、触る前にやることがめちゃくちゃ多いんだな」
感心したように言いながらも、はじめは言われた通りに一歩下がって、照明の角度を合わせるのを手伝ってくれた。
午後になって、ようやく下ろした箱の一つ――「B-14」と番号が振られた木箱の蓋を開けた。
添えられた木札には、《渡り灯》とある。
その三文字を見たらでんの目が、わずかに見開かれた。ハンター試験を受ける前、古層板の常連たちと一緒に名前を探した北部西岸の古い灯具と、まったく同じ呼び名だったからだ。
もっとも、名前が同じだからといって同じ物だとは限らない。気持ちばかりが先走らないよう一度息を吐いてから、箱の中身を覗き込んだ。
収まっていたのは、持ち手の長い角形の灯籠だった。
古い木枠には何度も修理を重ねたらしい継ぎ跡があり、側面の板には、角張った折れ線と直線が連なる文様が細かく彫り込まれている。
横から覗き込んだカルドによれば、二十九年前の目録ではこれも「渡火祭の祭具」として登録されているという。
「……目録の分類では、ですね」
「真偽の判定については、俺は専門外だ。そこから先は君たちで調べてくれ」
頷いて、らでんは机の端に広げてあった昔の渡火祭の写真を取り上げた。
白黒の写真の中で村の行列が手に提げているのは、どれも紙張りの丸い提灯ばかりだ。目の前にあるB-14とは、角張った形も、長い持ち手の作りもまるで違っている。
らでんは写真の中の丸い灯と、箱から出した角形の灯籠を何度も交互に見比べた。
「ねえはじめ、やっぱり変だよ。お祭りの写真には、この角ばった灯籠が一つも写ってない」
「ほんとだ、写真のは全部丸っこいね。じゃあさ、その箱のやつはまた別のお祭りで使ってたってこと?」
「うーん、それもまだ分からない。写真にたまたま写らなかっただけかもしれないし、そもそもお祭りの道具じゃないのかもしれないし」
土蔵の奥からは、二十九年前のものとは別に、七十年前の目録と、さらに年代の古い帳面も出てきた。
一番古い帳面には、「ワタリノヒ」と読める記載があった。「ヒ」に当たる字は《火》とも《灯》とも読めそうな曖昧な形をしている。今の名称表記を、そのまま最初の記録へ当てはめることはできそうになかった。
その日の夕方、カルドに案内してもらって集落で一番年上の女性を訪ねた。
集落最高齢、九十一歳のハナさんだ。
若い頃に渡火祭へ参加した経験があり、写真に写っていた紙張りの丸い灯については「ああ、みんなで提げて歩いたよ」と懐かしそうに覚えていた。けれど、B-14の写真を見せると、しばらく目を細めてから首を横に振った。
「お祭りでこんな角張ったのは見たことがないねえ。……ああ、でも、蔵の奥の方に置いてあった気はするよ」
いつ頃からそこにあって、村で何と呼ばれていたのかまでは、ハナさんにも分からないという。
お祭りに絶対使われなかったと決まったわけではない。けれど、目録に書いてある名前だけを頼りに「渡火祭の祭具」と確定させることもできなくなった。
宿舎へ戻る前に、らでんは調査ノートの《渡火祭祭具》という文字を二重線で消すことはせず、そのすぐ脇に小さく疑問符だけを書き添えた。
宿舎の広間に戻って、机の上にB-14の写真を並べていた時のことだった。
窓の外から、カルドの怒ったような、それでいて心底困り果てたような声が響いてきた。
「おい、また連絡もなしに勝手に奥へ行ったのか!」
「あっちの方が近道だ」
開け放した廊下の向こうを、裾まで泥だらけの男がのっそりと通りかかった。片手には、どこかで拾ってきたらしい土のついた石片を無造作に握っている。
男は通りすがりに広間の机を一瞥し、らでんの前に広がっていたB-14の拡大写真に目を留めて、ふっと足を止めた。
「あん? それ、この村の祭りの道具じゃねえぞ」
丸一日かけて土蔵の帳面をめくり、お年寄りに話を聞いてようやく「違うかもしれない」と疑い始めたことを、通りすがりの一瞥であっさり言われた。
らでんは思わず椅子から腰を浮かせて振り返った。
「な、何で見ただけで分かるんですか?」
「見りゃ分かる」
「分からないから朝から順番に調べてるんですけど!」
むきになって言い返すと、男は鼻先で少しだけ笑い、「じゃ、調べろ」とだけ置いてそのまま廊下の奥へ歩いていった。
遠ざかる泥だらけの背中を、らでんはしばらく睨みつけた。
乱暴に突き放されたことよりも、自分が丸一日かけてやっと入り口に立った疑問の先に、あの男がもうとっくに辿り着いていそうな気配だったのが、たまらなく悔しかった。
◇ ◇ ◇
二日目も、らでんは朝からB-14の来歴を追い続けた。
午前中の聞き取りで訪ねたのは、八十四歳の男性、タツさんだった。
タツさんも子供の頃からあの角形の灯籠が土蔵の奥にあったことは覚えていた。ただ、幼い頃に蔵へ入って覗き込んだ時、祖父からきつく叱られたのだという。
「『あれはうちのもんじゃねえから、勝手に触るな』ってな。そればっかり言われたよ」
「うちのものじゃないって……じゃあ、どこから来たものかまでは聞いていませんか?」
「さあて、そこまでは知らん。ただ、山の向こうから来たもんだ、とは聞いた気がするなあ」
「山の向こう、ですか。それはどなたが仰ってたんです?」
「わしのじいさんからだ」
そう言ってタツさんが節くれ立った指で示したのは、集落のさらに奥へ連なる高い尾根の方角だった。昔は、あの尾根を越える細い道が延びていたらしい。
らでんはノートを開き、「村のものではなかった可能性(祖父からの伝聞・山の向こう?)」とだけ丁寧に書き留めて、まだ断定はしないでおいた。
午後からは、タツさんの話に出てきた旧道の痕跡を確かめるため、はじめとカルドと一緒に山へ入った。
何十年も人が通っていない道は、深い落ち葉と下草にすっかり隠れている。けれど、先頭を歩くはじめは、靴底から伝わるわずかな感触だけで昔の踏み跡を見つけていった。
地盤の緩んでいそうな場所へ差しかかると、後ろの二人を振り返ってさっと片手で止める。カルドが持っていた確認用の棒でそこを突くと、ずぶりと音がするほど深く土が沈んだ。
「うわ、ほんとに抜けた。ねえはじめ、どうして今ここが危ないって分かったの? 見た目は周りの落ち葉と全然変わらないよ」
「んー、なんて言えばいいんだろ。踏んだ時の返り方がさ、ここだけちょっとスカスカしてて、ちがうなーって足裏でわかるんだよね」
「足裏でわかるって……すごっ。私だったらそのまま踏み抜いてたよ」
「へへ、山道歩くなら役に立つって言ったっしょ」
得意そうに鼻を鳴らすはじめに助けられながら、さらに旧道の奥へと進む。
やがて道の脇に、苔むした古い石積みと、その上に据えられた小さな石の祠が見つかった。
近づいて向きを確かめると、祠の正面は今歩いてきた集落の方ではなく、尾根の向こう側を向いている。しかも、台座の石の側面には、あのB-14の板に彫られていたのによく似た、角と直線の文様が刻まれていた。
ただ、本当に同じ系統の文様なのかどうか、ここで撮った写真と記憶だけで決めてしまうわけにはいかない。
「……祠が向こうを向いてるってことは、この道を、山の向こうの人たちが行き来に使っていたのかな」
ノートを片手に呟いた、その時だった。
「逆だ。その道を連中が使ってたんじゃねぇ」
頭上の斜面から、ざっと土を滑らせる音がして昨日の男が降りてきた。
らでんが今考えた順番とは、そもそも前後が逆なのだという。
男が無造作に顎でしゃくった先を見ると、小さな祠の下は平らに土が整えられていたが、脇にある古い石積みの下部はその整地された土の中に埋もれていた。つまり、石積みがあった場所へ、ずっと後から土を盛って祠を置いたのかもしれない。
「先に道と石積みがあったから、後から連中がそこへ来たんだ」
「……! な、何でそこまですぐ分かるんですか?」
「見りゃ――」
「その『見りゃ分かる』は禁止です! 今どこを見てそう言ったのかを聞いてるんです!」
先回りして指を突きつけると、男は半分開いた口を止め、やれやれという顔で祠の根元の地面を指差した。
らでんはしゃがみ込んで、盛られた土の下へ潜り込んでいる石の縁をじっと見つめる。土の重なり方と石の角の摩耗を見比べて、ようやく時間の前後関係に気がついた。
「……あ。下の石積みの方が、祠の土よりずっと古い……?」
「多分な」
そこだけは「絶対そうだ」と断定しない言い方だったのが、らでんにはかえって信用できた。
男は立ち上がると、この旧道のさらに奥にも似た文様の石があると言った。ただ、自分についてこいとは言わない。代わりに足元の折れ枝を拾うと、土の上にざっざっと線を引いて、分岐、倒木、沢、そして目印になる三つの石を順番に描いてみせた。
横からその地面の図を覗き込んだはじめが、ぱっと顔を上げる。
「あ、これ分かりやすい。この順番なら、うち案内できると思う」
「おう、そっちのチビの方が山歩きには向いてるな」
「ちょっと、私だってちゃんと歩けます! 置いていかないでください!」
言い返す間にも、男は枝を放り出してさっさと別の斜面へ歩き去ってしまった。
夕暮れ前、宿舎へ戻る山道を歩きながら、らでんはあの男の低い声と手つきを頭の中で何度も思い返していた。
カルドは最初からあいつが山へ入り込むのを止められない様子だったし、出発前に古層板で話した古狸も、この山のことを「昔ちょっとな」と知っていた。
宿舎の部屋へ戻るなり、らでんは鞄から端末を取り出して古層板の過去ログを検索した。
地名と年代を絞って遡っていくと、十年以上前に書き込まれた古いスレッドがいくつか引っかかる。
そこには、当時の若い調査仲間が、道なき斜面を勝手に「近道」と呼んで踏み分け、行く先々で石をひっくり返してばかりいるという古狸の愚痴が残っていた。さらに別のログでは、みずき堂が「展示品の説明書きより、台座の裏や継ぎ目ばかりを長く見ていた《G.F.》という人物」の記録を書き留めている。
――もしかして、全部同じ人だ。
現場で聞いたぶっきらぼうな声、泥のついた指で石の縁を確かめていた手つき、そして正規の調査道具も持たずに山から降りてきた姿。ばらばらだった手がかりが、頭の中で一本の線に繋がった。らでんはぱたんと端末を閉じて立ち上がる。
夕方、山の奥から宿舎の前へ戻ってきた男を見つけて、らでんは正面から呼び止めた。
「あの! あなた、ジン=フリークスですか!」
男の足が止まった。
肩越しにこちらを振り返り、らでんの顔をまっすぐに見下ろして、ほんの少しだけ間を置く。
「……遅え」
何年もネットの断片を追いかけ、ずっと会って話を聞きたいと思っていた相手の第一声が、それだった。
後から走って追いついてきたはじめが、立ち止まった男とらでんを見比べて、耳元で小声で尋ねてくる。
「え、なに、らでんの知り合い?」
「……ううん。私がハンターになるずっと前から、ネットで探してた人」
「えっ、この泥だらけのおっさんが?」
「……うん、そうみたい」
二人がひそひそ話している間に、ジンは肩に掛けた布袋を雑に揺すり直すと、もう宿舎の裏手へ歩き出していた。
◇ ◇ ◇
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、本当にずっとあなたを探してたんですけど!」
「そうか」
「『そうか』だけですか!?」
小走りで追いすがるらでんの横で、はじめが吹き出して笑う。
らでんは食い下がりながら、古層板で世話になっている古狸やみずき堂の名前を出した。ジンは足を止めないまま、二人とも昔から知っていると当たり前のように答える。
画面の向こうの文字でしか知らなかった過去の断片が、ようやく目の前を歩く生身の男に重なった。
「やっぱり! あの人たちと一緒に、昔あちこちの遺跡の仕事をしたんですよね?」
「したな」
「王墓の保存整備も、ジンさんが中心になってやったって――」
「あいつら、新人にそこまで喋ったのかよ」
そこでようやく、ジンの足が止まった。
古狸がいつか掲示板で話してくれた昔話では、ジンは金を集め、専門の人間を集め、目当ての墓を見つけた後もずっと現場に残って保存の仕組みを作ったという。
けれど、目の前で面倒くさそうに眉を掻いている男は、その立派な話の続きを尋ねても、きっとまともに教えてはくれないだろう。それでも、袋から覗く石片の縁を泥のついた指で無意識に確かめている手つきだけは、らでんがずっと想像してきた本物の調査者のものだった。
「……正直、もっとこう、近寄りがたいくらいすごそうな人だと思ってました」
「勝手に期待して勝手にがっかりすんな。お前が悪い」
「やっぱりそういう言い方するんですね!」
隣ではじめがまた声を上げて笑う。
何年も憧れて探していた相手とようやく話せているというのに、らでんは感動するより先に、むきになって言い返していた。
◇ ◇ ◇
三日目の朝、らでんたちが起きた時には、ジンはもう五時には山へ出た後だった。
朝食の席でカルドに尋ねても、「あいつが行き先を言って出た試しがない」と頭を抱えるばかりだ。
らでんは古狸の昔の書き込みを思い出して苦笑した。画面の向こうで読んでいた通り、いや、それ以上に勝手な人だ。それなのに、実際に会って言葉を交わせば交わすほど、聞いてみたいことは増えるばかりだった。
この日の午前の仕事は、昨日見つけた旧道のさらに奥を追加で確認することだった。昨日ジンが地面に描いた略図をノートに写したものを頼りに、三人で山へ入る。
はじめは分岐と倒木と沢の順番をすっかり頭に入れて前を歩き、らでんは後ろからノートの地図と周囲の地形を見比べた。
古い踏み跡は、少し進むたびに深い落ち葉の下へ消えてしまう。そのたびにはじめが足裏で土の硬さを確かめ、カルドが後から棒を突いて安全を確認した。湿った黒土へ棒がずぶりと深く沈んだ場所では、地図を見ながらそのまま進もうとしたらでんの肩を、はじめがさっと掴んで止めてくれた。
「あれ、ノートの地図だと、ここからもう少し左へ回るはずだけど」
「ううん、左は木の枝を払った切り口がまだ新しいよ。昔から人が歩いてた古い道は、こっちの右」
はじめが指差した枝の断面を見て、らでんははっと息を呑んだ。切り口の木肌がまだ白っぽく、最近の山仕事で作られた踏み跡だと分かる。地図に描かれた線が、今の山で一番歩きやすい道とそのまま一致するとは限らないのだ。
感心して頷いた瞬間、右手の高い斜面から「合ってる」と低い声が落ちてきた。
見上げると、道ですらない急な岩場にジンがしゃがみ込んでいた。
そこから立ち上がり、露出した岩角と木の根だけを足場にして、ひょいひょいと斜面を降りてくる。落ちるように速いのに、靴底を置く瞬間だけは音も立てずに足場を確かめているように見えた。
はじめが目を輝かせて、その足運びをじっと目で追う。
「うわ、今の降り方めっちゃ楽しそう」
「こっちは朝から場所を探して歩いてきたのに、あっちは近所の散歩みたいな顔してるよ……」
合流してから、四人で旧道のさらに奥を調べた。
はじめが踏み跡を選び、カルドが足元の安全を確かめ、らでんが遺構の位置と状態を一つずつ記録していく。その横で、ジンは勝手に崩れた石積みの裏手へ回り込み、腐葉土の下に隠れていた浅い刻線を見つけて土を払った。
らでんはカメラを構えて近づき、ファインダー越しにその線を覗き込む。
「これ、蔵にあった《渡り灯》の文様とすごく似てます! ……でも、ここにあるからって、まだ同じ時代の同じものとは言い切れませんよね」
「ほう。ならどうする」
「彫り方の深さとか道具の跡を記録して、他にも似た石がないかもっと探します」
ジンは「そうだな」とだけ短く返した。
褒めてくれたのかどうかは分からない。けれど、らでんが巻き尺を当てて別の石の写真を撮っている間、ジン自身も隣の地面から顔を上げずに黙々と土を掘り始めていた。
はじめには足裏から伝わる地面の柔らかさが分かり、らでんには古い記録と実物の食い違いが見える。同じ山の同じ場所に立っていても、一人ずつ見つけられるものが違うのだ。
そのことがなんだか心強くて、らでんはノートの図面に刻線の向きと石積みの位置を細かく書き込んでいった。
昼になって沢の近くで腰を下ろすと、ジンが横からひょいとらでんの記録用紙を覗き込んできた。
「……その欄外のまとめ方、みずき堂の書き方だな。脇の略図は古狸の癖も混じってる」
「えっ、文字と図だけで分かるんですか?」
「あいつら、そういう整理の仕方は俺よりずっと詳しいからな」
らでんは少し意外な気がして顔を上げた。
ジンだって、あちこちの大きな遺跡を調べ、保存してきた張本人のはずだ。
手元の記録用紙の欄外には、今日だけでまだ答えの出ない問いがいくつも増えている。物の名前だけではなく、見つかった時の位置や、いつ誰に動かされたか分からない部分まで、消さずにそのまま残してあった。
「見つけて終わりじゃ、つまんねえだろ」
ジンは膝の上に肘を置き、少し離れた古い石積みへ目を向けた。
「その中に何が入ってるか知りたい。昔、誰が何のために作って、どう使ったのかも知りたい。もしその場所ごと残せるなら、俺たちの後に来る奴もまた自分の目で調べられる」
「それって……自分が調べてて面白いから、ですか?」
「他に何の理由がいる」
あんまりあっさり言われて、らでんは手元のノートを見下ろしたまま、土蔵にあったB-14のことを思った。
もし箱の札に書かれた「祭具」という名前をそのまま書き写せば、今回の目録作りはずっと早く、きれいに完成する。けれど、そうしてしまったら、写真との形の違いも、ハナさんやタツさんが話してくれた「祭りで見たことがない」「うちのものじゃない」という声も、全部なかったことになって消えてしまう。
自分が今ここで迷った跡を残しておけば、いつか次にこの箱を開ける誰かが、同じ疑問から続きを調べられるかもしれない。らでんがしたかったのは、きっとそういうことだった。
考え込んで黙っているらでんを横目に、ジンは石積みから視線を外さないまま言葉を継いだ。
「土の中から出した物だけ綺麗に持って帰って、値段つけて並べて終わりなら、やってることは盗掘屋と大して変わんねえよ」
古狸が掲示板で語っていた王墓の保存の仕事は、この人にとっては立派な使命や理想を語るような話ではなかったのだ。ただ自分が知りたくて、見つけた場所で手を動かし続けた、その当たり前の結果だったのだろう。
らでんはノートの端をきゅっと握って、横顔を見上げた。
「あの、ジンさん。私、文化財のハンターになりたくて試験を受けたんです」
「へえ。で、お前に聞くが、蔵のあの灯は文化財か?」
すぐには答えが出なかった。
作られた年代が古いこと、形が珍しいこと、昔の祭りの札がついていること。そのどれも、ここへ来てからの調査で「決め手にはならない」と分かったばかりだ。そもそも札に書かれた《渡り灯》という名前が何を指しているのかさえ、まだ調べている途中なのだ。
らでんは一度唇を結んでから、正直に答えた。
「……今はまだ、分かりません」
「じゃ、調べる理由ができたな」
◇ ◇ ◇
その日の午後、さらに沢を詰めた岩壁の下で、もう一本、半分ほど土に埋まった石柱が見つかった。
ジンが覆いかぶさっていた枯れ枝を払うと、苔が不自然に途切れた根元のあたりに、黒ずんだ変色が現れる。
火を焚いた煤なら熱で石の表面が爆ぜたり割れたりしていそうなものだが、ひび一つ入っていない。それなのに、その石柱の周りだけ土が妙に乾いていて、ジメジメした日陰なのに小さな虫一匹寄っていなかった。
どれか一つだけなら、山の環境で説明がつくかもしれない。けれど、その不自然さがこの石柱の周りだけに重なっている。
「……何か変です。でも、さっきまでの石と何が違うのかはまだ……」
らでんが眉を寄せて呟くと、隣に立ったジンは何も言い返さずにじっと石柱を見つめていた。
いつもの「見りゃ分かる」という雑な一言が、この時ばかりは出てこない。その静かさに、らでんはかえって胸のあたりがざわついて落ち着かなくなった。
それでも、やるべき手順は変えない。まずは一歩下がって石柱の全景を撮り、背後の岩壁との距離を測る。黒い変色の境目、土に埋まった深さ、周囲の乾いた土の状態を順番にノートへ書き留めていった。
どんな来歴の物か分からないからこそ、触れる前にまず「触れる前の姿」を残しておく。ジンは急かすことも手出しすることもなく、腕を組んで黙って待っていた。
「一通り終わったか。なら、触ってみろ」
「え? あ、はい、今手袋を――」
「いや、素手だ。その上からじゃ分かんねえもんがある」
さらりと言われて、らでんは作業用の手袋を外しかけたまま、目の前の黒い石柱と自分の指先を見比べた。
虫さえ寄らない妙な石に、素手で直接触れる。ためらうらでんの横から、はじめが一歩前へ出てジンを見上げた。
「ちょっとジン、それ本当に大丈夫なの? らでんが触って変なことになったりしない?」
「何かあったら、俺がすぐ止める」
ジンの声には、ふざけた響きがまるでなかった。
らでんははじめと一度目を合わせて頷き合い、右手の手袋を抜いて、石柱の黒ずんだ表面へそっと指先を当てた。
ひやりと冷たい。ただの、山の日陰にある普通の石だ。
そう思った次の瞬間、胸の奥をいきなり内側へ引っ張られたような感覚が走った。
――――――
暗い中に、白い煙のようなものが揺れているのが見えた気がした。
その向こうに、いくつもの人影が並んでいる。
どこの誰なのかも、いつの時代の光景なのかも分からない。ただ、湿った土を踏む足音が一定の拍子で幾つも重なり、暗い山の斜面で小さな灯が頼りなく揺れていた。
風の音に混じって、歌にも似た低い声が聞こえる。何と言っているのか聞き取ろうと耳を澄ませても、言葉の形になる前に霧の中へ薄れていく。
自分の目は、すぐ目の前の石柱から外していないはずだった。
それなのに、夜の山の暗さと、指先に触れている冷たい石の感触が同時にそこにあるようで、自分が今どちらの時間に立っているのか分からなくなった。
――――――
はっと息を呑んで指先を離すと、目の前にはただの古い石柱が戻っていた。
すぐ隣で、はじめが「らでん! おい、らでん!」と何度も名前を呼んでいる。
らでんは返事をするより先に、もう一度だけ石柱の黒い変色を見つめた。今見えたばかりの暗い山と揺れる灯を、あの《渡り灯》の話にすぐ結びつけたくなる。けれど、あれが本当にこの石に残っていた記録なのか、それとも自分が勝手に見た想像なのかすら、今の自分には確かめようがなかった。
「……何があった」
「分かりません。煙みたいなものと、人が何人も……暗い山を、歩いていた、かもしれません。小さな灯と、足音と、歌みたいな声が聞こえて……」
頭に浮かんだ順番のまま口にしてみても、やっぱりそれが何を意味するのかまでは分からない。だから、「この石も昔のお祭りで使われたものです」とはどうしても言えなかった。
ジンはその曖昧な答えを最後まで聞いてから、らでんの開いた右手へ目を落とした。隣のはじめも、らでんの背中を軽く支えたまま黙って待っている。らでんの呼吸が落ち着くまで、二人とも先回りして勝手に話をまとめようとはしなかった。
「お前ら、この前のハンター試験、受かったばっかりだよな」
「え……? はい、受かりましたけど」
「そうか。なら、まだ半分だな」
思わぬ言葉に、らでんは隣のはじめと顔を見合わせた。
二人とも、あの試験会場を最後まで勝ち残って、ライセンスを受け取ったばかりのはずだ。らでんが自分の手のひらを開いて見下ろすと、まだ指先にさっきの石の冷たさが貼りついているような気がした。
「さっきお前が触って感じたもんが何なのか、知りたいか」
「……知りたいです。すごく」
「じゃあ、教えてやるから付いてこい」
ジンはそれだけ言って、踵を返して歩き出した。
「“念”についてだ」
念。どこかで耳にしたことがない言葉ではなかった。
けれど、その言葉が目の前の古い石柱や、さっき胸の奥を引かれた感覚とどう繋がるのかがまるで見えない。問い返そうとするより先に、ジンはもう落ち葉を踏みしめて斜面を下り始めていた。
はじめが「あ、待ってよ!」と先に追いかけ、らでんももう一度だけ黒い石柱を振り返ってから、慌ててその後ろへ続いた。
「お前ら、ハンター試験はあれで全部終わったと思ってるだろ。まだ終わってねえぞ」
「ええっ!?」
「まじで!? うちらもうライセンス貰ったのに!?」
驚くはじめの横から、らでんは前を歩く背中へ声を投げた。
「あの、ジンさん! その“念”って、さっきの石柱と関係があるんですか?」
「関係あるかもしれねえな。だが、今ここで一言聞いて答えが出ると思うなよ」
らでんは唇を噛んで、もう一度だけ背後の木立を振り返った。
ノートに「分からない」と書き残すだけでは、さっき自分の指先で確かに感じたあの揺れる灯や足音を、どう扱えばいいのかも分からないままだ。追いつけない悔しさのすぐ下に、どうしても正体を知りたいという強い熱が湧き上がってくる。
急な下り道だというのに、ジンの歩幅は少しも変わらなかった。二人は湿った落ち葉に靴底を滑らせそうになりながら、必死でその背中を追う。
「いいか、ハンターになりゃ、普通の奴が一生入れねえような場所に入る。訳の分からねえ古い物にも触るし、常識じゃ説明のつかねえ現象にも出くわす」
「さっきの石みたいなやつ? それが念なの?」
「そういう場合もある、って話だ」
「じゃあさ、もしうちらがそれを知らないまま現場に入ってたらどうなんの?」
「運が悪きゃ、そのまま死ぬ」
「っ、そんな大事なこと、歩きながらさらっと言わないでください!」
らでんは思わず声を張り上げたが、冗談めかして笑うことはできなかった。
実際、さっき石柱に指を当てた瞬間、自分の身に何が起きたのかさえ分からず、指を離すことすら遅れたのだから。
前を歩いていたジンが、ふいに足を止めた。
半分だけ振り返り、追いついたらでんたちの呼吸が整うのを待つように目を細める。
「だから、最低限『今自分に何をされたか』が分かるところまでだ。そこまで行って、お前らはやっとハンターのスタートラインに立てる」
「表の試験の続き、ってことですか?」
「ああ。裏ハンター試験だ」
「そんなの試験会場で一言も聞いてないんだけど!」
「当たり前だろ、だから“裏”なんだよ」
「そんな理屈あります!?」
「裏の試験まで教えるのは、見込みのある奴だけって決まりが一応ある。だがまあ、お前らみたいに自分から首突っ込む奴は、さっさと教えてやんねえと知らないうちに死んじまうかもしれねえからな」
ぶっきらぼうに言い捨てて、ジンはまた前を向いた。
どれだけ文句を言われても、山道を降りる足の運びだけは最初から最後まで少しも乱れなかった。
「……じゃあ、ちゃんと教えてください!」
「全部は教えねえよ。裏試験が終わるとこまでは見てやる」
「もう、またそういう言い方する!」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、仕事を終えた三人は、社の脇にある使われなくなった古い社務所に集まった。
山から戻ったばかりのはじめの袖口にはまだ乾いた土がつき、らでんの指先には記録用紙と鉛筆の跡がうっすら残っている。
擦り切れた畳を挟んで向かい合うと、あぐらをかいたジンがしばらく何も言わずに二人を見比べた。
「あの……念って、そもそも何なんですか?」
「最初はざっくりしたイメージでいい。お前らは『念』って聞いて何を思い浮かべる」
「えっと、人の強い意志とか、魂みたいなもの、ですか……?」
「うちはあれだな、なんか変な超能力! おばけとか、勝手に物が飛ぶポルターガイストみたいなやつ!」
「ずいぶん範囲が広いな。まあ、今は知らねえならそれでいい」
どんな専門的な説明が来るのかと膝の上でノートを開いたらでんの前で、ジンは畳の目を指先でとんとんと叩いた。
らでんの右手には、まだ昼間の石柱に触れた時の冷たさが残っている気がする。けれど、その正体を教えるより先に、ジンはまったく別の話を切り出した。
「本物を教える前に、まず『方便』だ。これは念を覚えた後も、毎日欠かさずやれ」
点、舌、錬、発。ジンはそう言いながら、片手の四本の指を順番に立ててみせた。
「まず『点』、自分をよく見て、今何がしたいか一つ決める。次に『舌』、決めたことをちゃんと言葉にして口に出す。『錬』、その気持ちを自分の中で強く持つ。最後に『発』、実際に行動に移す」
らでんは慌ててノートへペンを走らせた。
特別な修行の技名かと思って身構えていたのに、書き留めてみれば、どれも拍子抜けするほど当たり前の言葉ばかりだ。
「……あの、これって、すごく普通のことじゃないですか?」
「ああ、普通のことだ」
「これがその、“念”なんですか?」
「違う。今言ったろ、これは方便だ」
「ええっ、最初に嘘から教えるんですか!?」
「ただの嘘じゃねえ、使える嘘だ」
「あはは、『使える嘘』って一番怪しいやつじゃん!」
ケラケラと笑うはじめに取り合わず、ジンはらでんが開いているノートの方へちらりと目をやった。
「笑うなよ。後で本物の念を覚えた後も、こいつは絶対にやめんな。力がつきゃ、人間に出来ることは一気に増える。だがな、自分が『何をしたいか』までは、力がついたからって勝手に決まるわけじゃねえ」
「……嘘の念なのに、毎日やるんですか?」
「だから毎日やるんだよ。なまじ力がある奴ほど、あれもこれも出来るようになって、自分が最初に何をしたかったのか途中で分からなくなる」
「……」
「この方便を疎かにしてるハンターは、大体ろくなもんじゃねぇ」
ノートの上で、らでんのペン先がぴたりと止まった。
さっき石柱に触れてからずっと、念という力を知れば、あの不思議な現象についても分かることが一気に増えるはずだと、そればかり考えていた。
けれど、もし新しい力で見えるようになったものを片っ端から面白がって追いかけていたら、自分たちが何のためにこの村へ来て、なぜあの《渡り灯》を調べていたのかまで、いつの間にか忘れてしまうかもしれない。
らでんはノートの余白に、すっと一本の線を引いた。
これから何が出来るようになるかを聞く前に、自分が今ここで何を知りたかったのか、自分の言葉でいつでも言えるようにしておきたかった。
ジンが顎をしゃくって、隣のはじめを指した。
「ほら、やってみろ。『点』。今、お前は何がしたい」
急に振られて、はじめは膝の上で自分の指先をぱちぱちと動かした。
試験のあと、宿の部屋で音楽を流していた時に、身体が勝手に反応してリズムを取っていたのと同じ拍子だった。
はじめは一度だけ目を伏せ、それからすぐに顔を上げてまっすぐ言った。
「うちは、もっと体を動かしたい」
「何でだ」
「んー、動かしてる時が一番楽しいから!」
「そうか。ならそれでいい」
迷いなく言い切ったはじめの顔を見て、ジンはあっさり頷いた。
ほっとしたようにはじめの肩が少し下がり、ジンの視線がそのまま隣のらでんへ移る。
――私は、B-14の本当の来歴を知りたい。
喉の先まで出かかったその言葉の手前で、ここまでに聞いたハナさんやタツさんの証言と、昼間の石柱で見えた意味の分からない暗い山の光景が浮かんだ。
目録に書いてある今の名前が正しいとは、まだ言い切れない。けれど、自分が代わりに新しい名前や立派な答えを勝手につけてしまえば、それで解決するわけでもなかった。
「……私は、知りたいです。あの《渡り灯》が、本当は何だったのか」
「それ、お前が勝手に知りたいだけの都合だぞ。昔の人間が、後の奴にそうやって暴いてほしかったって証拠はあるのか?」
「……ありません。でも、今の目録の名前をただそのまま残しておくのも、やっぱり今の私たちの都合です。だから、調べて分からないなら『ここまでは分かって、ここからは分からない』ってそのまま残したいんです。都合よく勝手に答えをつけて終わらせるより」
「ならそれでいい」
言い終えてから初めて、らでんは自分が息を詰めていたことに気づいて深く息を吸った。
ジンは別に褒めもしなかったけれど、ノートの上へ戻した手先がさっきより少しだけ軽くなっていた。
「次、『舌』。今決めたことを、そのまま声に出して言え」
ジンに促され、はじめは「もっと体を自由に動かす!」、らでんは「《渡り灯》の本当の来歴を調べる」と、それぞれ口に出した。
「『錬』。今口にしたことを、絶対にやると自分の中で強く思え」
言われて、二人は同時に口を閉じた。はじめは膝の上でぐっと拳を握りしめ、らでんは書きかけのノートを閉じて胸の前で押さえる。次の説明を急いで聞くより、今自分で決めた言葉をもうしばらく胸の奥に置いておきたかった。
静かになった室内で、ジンは座ったまま、二人の目を順番に見た。
「じゃあ、今からお前らを殺すつもりで、俺が『錬』をする」
「……え、それ、冗談だよね?」
ジンは答えない。向かい合う三人の間には、擦り切れた畳が五枚ほどの距離しかなかった。
はじめが苦笑いしかけて、「いやいや、何も手を出さないなら――」と言い終えるより先に、社務所の中の空気が凍りついた。
ジンは、指一本動かしていない。
ただ、そこにある気迫だけで部屋の温度が変わったようだった。
――本気の殺意。
そう頭が理解するより早く、らでんの背中に冷たい汗がどっとにじんだ。畳の縁に置いていた足が勝手に後ろへずれ、息を吸おうとした喉がひゅうっと狭まる。
怖いのに、ジンの目から視線を逸らせない。身体が自分の言うことを聞かなかった。
すぐ隣で、はじめが左足を半歩引き、右手を前へ構えるのが気配で分かった。
後ろへ跳んで逃げるにも、前へ飛び込むにも使える、いつもの軽い姿勢だ。普段のはじめならそこから一瞬でどちらかを選ぶはずなのに、目の前のジンがピクリとも動かないからこそ、どちらへ動けば生き残れるのかが決まらない。
らでんは反対に、膝から下に鉛が詰まったみたいに重く、指先一つ動かせなかった。
頭では、相手はまだ座ったままで何も起きていないのだと分かっている。けれど身体の方が、この目から視線を外した瞬間にすべてが終わると信じ込んでいた。
一秒、二秒。窓の外で鳴っていた杉林の風の音が、ひどく遠くへ退いていく。
ジンが何か特別な力を使っている証拠はどこにもない。なのに、自分たちの身体だけが、もう逃げ場のない危険の真ん中に放り込まれていた。
ふっと、ジンが視線を外した。
その途端、足の裏にざらついた畳の冷たさが戻ってくる。
構えていたはじめがその場にぺたりと尻をつき、らでんはようやく肺の奥まで大きく息を吸い込んだ。死ぬほど怖かったのは確かだ。けれど、どこかを殴られたわけでも、目に見えない手で押さえつけられたわけでもなかった。
「……っ、な、何、今の……」
はじめが荒い息を吐きながら、まだ後ろへ引いたままになっていた自分の左足を呆然と見下ろしている。
「こ、怖っ……」
らでんが自分の胸元を押さえると、心臓がまだ耳の奥まで響くほど速く跳ねていた。
「じ、ジンさん、今のが……本物の念ですか?」
「いいや、違う。今のはオーラなんざこれっぽっちも使ってねえ。ただ、俺が『今ここでお前らを殺す』って本気で決めただけだ。方便の“錬”ってのは、つまりそういうことだ」
「うそだ……絶対なんかやったって……」
「嘘じゃねえよ。指一本動かしてねえだろ」
「だって、うち今、本気で後ろに逃げようとしたもん……」
「わ、私は固まって動けなかった……」
「そういう反応は人による。危険を前にして逃げる奴もいりゃ、その場で固まる奴も、考えなしに先に手が出る奴もいる」
はじめは畳についた自分の手と引き足を交互に見てから、「……まあ、逃げながら殴るのもちょっと考えたけど」と悔しそうに呟いた。
それを聞いて、ジンが「だろうな」と低く笑う。
らでんはようやく張り詰めていた肩の力を抜いて、深く息を吐き出した。ただの意志、気持ちの向きだけでこれほど身体が縛られるなら、ここに本物の力が重なった時は一体どうなってしまうのだろう。
「言っとくが、本物の念は今よりずっとたちが悪いぞ」
「……じゃあ、その本物はいつ教えてくれるんですか?」
「明日だ」
「え、今からじゃないんですか!?」
「もう腹減った。飯食って寝る」
あっさり立ち上がったジンにつられて、はじめまで「あ、言われたらうちも腹減ったかも」と膝の埃を払って立ち上がる。
「ちょっと、あんな怖い思いさせておいてそこで終わるの!?」とらでんは声を上げたが、二人はもう社務所の出口へ向かって歩き出していた。らでんは膝に残る畳の冷たさを振り払うようにして立ち上がり、慌てて二人の背中を追いかける。
◇ ◇ ◇
翌朝、まだ外が暗い五時前に、宿舎の部屋の扉が遠慮なく叩かれた。
廊下に立っていたジンが、今から山へ行くぞとだけ告げる。
隣を見れば、はじめはもうすっかり上着まで着て支度を済ませているのに、らでんだけが布団の中から寝ぼけた顔を出していた。昨夜の社務所の冷たい空気とあの目がとっさに蘇り、思わず掛け布団の端をぎゅっと握りしめる。
「……き、昨日の『明日』って、こんな真っ暗な早朝のことですか!?」
「いいから早く起きろ。置いてくぞ」
飛び起きて顔を洗い、十五分後には、白い朝霧の立ち込める山道をジン、はじめ、らでんの順番で歩いていた。
夜露に濡れた落ち葉が、歩くたびに靴底へ重たく張りつく。
昨日見つけたあの黒い石柱よりさらに奥の斜面で足を止めると、ジンが振り返って、昨夜と同じように四本の指を立てた。
らでんは鞄から調査ノートを取り出しかける。まだ半分眠い頭でも、昨夜書き留めた四つの音ならすぐ言えるはずだった。
「昨日の『点、舌、錬、発』ですよね。はい、ちゃんと覚えてます」
「そいつは一旦忘れろ」
「は!? 毎日やれって言ったじゃないですか!」
「方便は方便で毎日やれ。だが、今から教える四つは名前が同じだけで中身が別だ」
同じ音で呼ばれる、まったく別の技術。
ジンは「人間、生きてりゃ誰でも身体から勝手に出てるもんがある」と言って、自分の胸元を親指で指した。生命エネルギー、いわゆるオーラ。本物の“念”とは、そのオーラを自分の意志で扱う技術なのだという。
らでんはペンを握ったまま、ふいに昨日触れた石柱の感触を思い出した。あの時、指先の冷たさより先に胸の奥がぐっと引かれたのは、一体何だったのか。紙に文字を書くより先に自分の身体で確かめたくなり、開いたノートをそっと閉じた。
「本物の四大行。『纏』、『絶』、『練』、『発』だ」
「その『練』って……昨日の夜にやった、あの怖いやつ?」
「昨日のはただの意思だけだと言ったろ。今から見せるのは、それとは違う」
ジンが、朝の冷たい空気の中へ静かに息を吐いた。
白い息が霧にほどけた直後、らでんは自分の皮膚ごと前から目に見えない壁に押されたように感じた。
隣ではじめが、反射的に半歩後ろへ下がる。喉の奥がぐっと詰まり、踏ん張った靴底の下で山の地面が押し返してくるような錯覚に襲われた。
昨夜の社務所では、「目の前にいるジンという人間が恐ろしい」とはっきり分かった。けれど今は、一体どこから何が自分たちを押してきているのかさえ目に見えない。
らでんが息を呑んで隣を見ると、はじめもちょうどこちらを見たところだった。どちらが先に逃げるかではなく、今自分たちが何に取り囲まれているのかを知りたがっている目だった。
目の前のジンは、殺すとも言っていなければ、逃げるなとも言っていない。
それどころか、こちらを睨んですらいなかった。ただ普段通りに立っているだけなのに、周囲の霧ごと空気が鉛のように重く、らでんは自分の浅い呼吸の音だけを意識した。
隣のはじめは膝の力をわずかに抜き、いつでも跳べる低い姿勢へ身体を戻している。昨夜の殺意と違って、この重みはジンの気分一つだけでは終わらない実際の「力」なのだと、二人とも肌で感じ取っていた。
ほんの数秒で、周囲にのしかかっていた重みがふっと消え、遠くの梢から朝の鳥の声が戻ってきた。
はじめは後ろへ引いていた足を戻したが、まだジンから目を離さない。らでんは声を出す前に、震える息を一つだけ長く吐き出した。
「……い、今のは、何ですか……?」
「これがオーラだ。昨日見せたのは俺の意思だけ。今のと違いは分かったか」
問いかけに、はじめが先にこくりと頷いた。
「うん。昨日の夜はさ、目の前のジンがめちゃくちゃ怖かった。でも今のは……なんか、この辺の空気ごと全部に押されてるみたいだった」
「……私も、同じです」
らでんも自分の腕をさすりながら続けた。
「どこから押されたのか探そうとしたのに、ぶつかってくる場所がどこにもないんです」
ジンは二人の顔つきを順番に確かめてから、ようやく立てていた指を下ろした。
昨夜の恐怖には、まだ逃げるか固まるかを自分の身体で選ぶ余地があった。けれど今の見えない圧には、何からどう身を守ればいいのかさえ、知識のない自分たちには分からなかった。
「まずは、そいつを知るところから教えてやる」
白い朝霧の向こうで、ジンがもう一度上げた指先だけが、やけにはっきりと近くに見えた。