列車を降り、バスと車を乗り継いでも、集落まではまだ山道が残っていた。
山というより山の中。山の斜面に沿って木造建築が並ぶ。
人口は八十六人。高齢者ばかりの限界集落だ。
五十年前はもっと人がいたようだ。
「いいねぇ」
「何が?」
「いよいよ来たなあって感じ」
はじめは「全然分からん」と首を振った。
斜面に沿って家が並び、細い道の脇を水が流れている。
らでんには、石垣の途中で積み方が変わるのが見えた。しゃがみ込むと、先を歩いていたはじめが戻ってくる。
「見て。ここ、何度か積み直してる」
「……石だね」
「石だけど!」
水路も、社へ続いているように見えた。
祭りに使ったのか、畑のためなのかはまだ分からない。
そんな話をしているうちに、杉林の手前の社殿と土蔵へ着いた。
「君らが新人か」
作業着の男が近づいてきた。現地調査を手伝う職員、カルド=ネーマンだ。
二人が名乗ると、彼は書類と本人たちを見比べた。
「……聞いていたが本当に若いな」
「十二です。小さくて不安ですか?」
「プロハンターだろう。期待しているから仕事は頼む」
「言い方」
カルドは歩きながら、屋根を直すだけなら大工を呼べば済む、と言った。
問題は雨漏りの始まった土蔵の中身だった。
この村では”渡火祭”というものがあった。
それは少子高齢化と人口減少に伴い、三十四年前に取りやめとなりそこから途絶えている。
この土蔵には、途絶えた渡火祭の道具だと伝わる品や、古文書が残されている。
けれど、何をどう使ったのか答えられる人は少ない。
最新の目録は二十九年前のものだ。祭りが途絶えたあと一度整理されている。
担当者には地元の役場職員の名が”文化教育課”の部署名付きで記載されていた。
「この職員さんって…」
「もう亡くなっている。歴史好きだったそうだが文化財の専門ではない」
「わかりました」
扉を開けると、木と紙と古い布の匂いがした。
棚には箱が積み上がり、札の文字は薄い。
「祭具一式」「古文書」。そして、”「雑品」”
らでんは最後の札を見て眉を寄せた。
「……分類が雑ですね」
「三十四年前の時点ですでにその状態だったそうだ。それを誰も動かせないし触れない」
「となると、それよりさらに昔に保管された際、その時点で既に用途不明の祭事道具として扱われていたと』
「当時の人間が廃棄しなかっただけ奇跡だな。おかげで現代の我々に整理を押し付けられたわけだが」
「ですね。ではその整理をはじめても?」
「ああ」
中身を動かす前に位置を残し、写真を撮る。
らでんが止めるたび、箱を運ぼうとしたはじめの手が宙で止まった。
「これも撮る?」
「それも。元の場所が分からなくなったら、戻せないから」
「こういうものって、触る前にやること多いんだな」
午後、B-14と書かれた箱を開けた。
札には《渡り灯》。
ハンター試験前に掲示板にて、らでんが名前を返した一基と同じ呼び名だった。北部西岸のものだ。
ただし、同じ名だから同じ物だとは限らない。
中には持ち手の長い、角形の灯籠が収まっていた。
木枠には修理を重ねた跡があり、板には角と線が続く文様が彫られている。
カルドによれば、目録では渡火祭の祭具とされていた。
「目録では、ですね」
「真偽の判定について俺は専門外だ。そこからは調べてくれ」
古い祭りの写真を開くと、行列が持っているのは紙張りの丸い灯だった。
B-14は形も持ち手も違う。
らでんは写真と実物を交互に見た。
「祭りの写真には、これが写ってない」
「じゃあ別の祭り?」とはじめ。
「それもまだ分からない」
土蔵には七十年前の目録と、さらに古い目録があった。
古い方の「ワタリノヒ」は《火》とも《灯》とも読めそうに見える。
今の名称を最初の記録へそのまま戻すことはできなかった。
その日の夕方聞き取りを行った。
集落最高齢 九十一歳 女性 ハナ
祭りに参加経験があり、写真の丸い灯は覚えていたが、B-14を祭りで見た記憶はなかった。
「蔵の奥にはあった」と言う。
いつからあったのか、何と呼んだのかは分からない。
祭りに使われなかったと決まったわけではない。
けれど、目録の名前だけで使い道を確定させることもできない。
らでんはノートの《渡火祭祭具》に線を引かず、脇へ小さく疑問符を書いた。
宿舎に戻って写真を並べていると、外からカルドの怒ったような困ったような声が聞こえた。
「また勝手に奥へ行ったのか!」
「近道だ」
泥のついた男が通りかかった。手には石片。
らでんの前に広がるB-14の写真を一瞥して、足を止める。
「それ、祭りの道具じゃねえぞ」
一日かけて疑い始めたことを、見た途端に言われた。
「何で分かるんです?」
「見りゃ分かる」
「分からないから調べてるんですけど!」
男は少し笑い、「じゃ、調べろ」と歩いていった。
らでんは背中を睨む。
突き放されたことより、自分が丸一日かかって調べたことなのに、既に答えに辿り着いていそうな。
そんなところが悔しかった。
---
翌日も、らでんはB-14の来歴を追った。聞き取り調査も行う。
八十四歳 男性 タツ
子供の頃から土蔵にあったと覚えていた。
ただ、祖父に「あれはうちのものじゃないから触るな」と言われたという。
「どこから来たかは?」
「知らん。山の向こうから、とは聞いた気がする」
「誰がそう言ってたんです?」
「わしのじいさんから」
そういってタツが指したのは集落の奥の尾根だった。
昔はそこへ道が延びていたらしい。
らでんは「村のものではなかった可能性」とだけ記し、断定を避けた。
午後、はじめとカルドと旧道へ入る。聞き取りの痕跡を調べるためだ。
落ち葉に隠れた踏み跡を、はじめが足裏の感触で見つけた。
緩い場所では先に二人を止める。
カルドが棒で突くと、そこだけ土が深く沈んだ。
「どうして分かったの?」
「踏んだ感じで、ちがうなーってわかる」
「すごっ」
道の脇に古い石積みと小さな祠があった。
祠の向きは村ではなく、山の向こう側。石にはB-14と似た角と線が刻まれている。
ただ、同じ系統のものかどうか、写真だけでは決められない。
「この道を、山の向こうの人たちが使っていた?」
「逆だ。その道を連中が使ってたんじゃねぇ」
昨日の男が、斜面の上から降りてきた。
らでんが考えた順とは違うという。
祠の下の土は整えられていたが、石積みの一部はその土に埋まっている。
祠は後から置かれたのかもしれない。
「道があったから連中がきたんだ」
「何で分かるんです?」
「見りゃ――」
「それは禁止です!」
男は言葉を止め、今度は地面を指した。
らでんは埋まった石の縁を見て、ようやく時間の前後に気づく。
「石積みの方が古い……?」
「多分な」
断定しないところだけ、らでんには信用できた。
男はさらに奥にも似た文様があると言ったが、案内はしない。
地面に枝で分岐、倒木、沢、三つの石を描くとはじめが覗き込んだ。
「うちなら行けると思う」
「そっちの方が山に向いてるな」
「私も行けます!」
宿舎へ戻る道で、らでんは男の声を何度も思い返した。
カルドは昔から知っている様子だったし、古狸もこの山を知っていた。
古層板の過去ログを開くと、十年以上前の投稿が見つかった。
若い調査仲間が道なき道を「近道」と呼び、石をひっくり返してばかりいるという愚痴。
みずき堂の投稿には、展示の説明より物の裏を長く見ていた《G.F.》の記録があった。
同じ人かもしれない。
らでんは現場で聞いた声、石を見る手つき、泥だらけの姿を思い返し、端末を閉じた。
夕方、帰ってきた男を呼び止める。
「あなた、ジン=フリークスですか」
男が足を止めた。
らでんを見ると、少し間を置く。
「遅え」
何年も探していた相手の第一声が、それだった。
追いついたはじめが男を見て、らでんに小声で言う。
「知り合い?」
「……ハンターになる前から探してた人」
「この人?」
「そうみたい」
ジンは袋を肩に掛け直し、もう歩き出していた。
---
「待ってください。私、ずっとあなたを探してたんですけど!」
「そうか」
「そうか!?」
はじめが横で笑う。
らでんは古狸やみずき堂の名を出した。
ジンは二人とも知っていると、当たり前のように答えた。
掲示板の断片が、ようやく目の前の男につながる。
「あの人たちと、遺跡の仕事をしたんですよね」
「したな」
「王墓の保存も?」
「あいつら、そこまで喋ったのか」
ようやく足が止まった。
古狸の昔話では、ジンは金を集め、人を集め、墓を見つけた後も現場に残ったという。
目の前の男は、その話の続きを尋ねても教えてくれそうにない。
それでも、泥のついた指で石片の縁を確かめる手つきは、らでんが想像してきた調査者のものだった。
「もっと、すごそうな人だと思ってました」
「勝手に期待したお前が悪い」
「やっぱりそれ言うんですね」
はじめがまた笑う。
何年も探した相手と話しているのに、らでんは感動より先に言い返していた。
---
翌朝、ジンは五時には山へ出ていた。
カルドも行き先を知らないという。
らでんは古狸の昔の書き込みを思い出した。
実際に会えば会うほど、聞きたいことが増えた。
今日の仕事は旧道の追加確認だった。昨日の地図を頼りに山へ入る。
はじめは分岐と倒木と沢の順番を覚えて前を歩き、らでんは後ろから地図と周囲を見比べた。
踏み跡は何度も落ち葉に消える。
そのたびにはじめが足場の硬さを確かめ、カルドが棒で安全を確認する。
湿った土へ棒が深く沈んだところでは、先に進もうとしたらでんの足を止めた。
「地図だと、もう少し左だけど」
「左は枝を切った跡が新しい。昔からの道は右」
はじめが指した切り口を見て、らでんはようやく気づく。
地図に描かれた道が、そのまま今も古い道とは限らない。
右手の斜面から「合ってる」と声が落ちてきた。
ジンは道のない所に座っていた。
岩と木の根を足場にして降りてくる。
速いのに、足を置く瞬間だけは確かめているように見えた。
はじめがその足運びを目で追う。
「楽しそう」
「朝から探したのに、あっちは散歩みたいな顔してる」
らでんたちは旧道の奥を調べる。
はじめが踏み跡を選び、カルドが安全を確かめ、らでんが位置と状態を記録した。
ジンは石積みの裏へ回り、土に隠れた刻線を見つける。
「《渡り灯》と似てます。でも、同じものとはまだ言えません」
「ならどうする」
「他にもないか探します」
ジンは「そうだな」とだけ返した。
褒めたつもりかどうか分からない。
けれど、らでんが別の石の写真を撮る間に、ジン自身も地面を掘り始めている。
はじめには地面の柔らかさが、らでんには記録の食い違いが見える。
同じ場所でも、見つけられるものが違う。
そのことを考えながら、らでんは刻線と石積みの位置を記録した。
昼に腰を下ろすと、ジンがらでんの記録用紙を覗いた。
「みずき堂の書き方だな。地図は古狸も混じってる」
「分かるんですか」
「あいつら、その辺は俺より詳しい」
らでんは意外だった。
ジンも遺跡を調べ、保存してきた人だ。
記録用紙の欄外には、その場で答えの出なかった問いが増えている。
物の名だけではなく、見つかった場所や、移された時期の分からなさまで残していた。
「見つけて終わりじゃつまんねえだろ」
ジンは石積みを見た。
「何が入ってるか知りたい。誰が作って、どう使ったかも。その場所ごと残せるなら、次に来る奴も調べられる」
「面白いから、ですか」
「他に理由いるか」
らでんはB-14の名前を思う。
札に書かれた「祭具」をそのまま採用すれば、目録は早く完成する。
だが、形の違いも聞き取りした老人たちの「見たことがない」「うちのものじゃない」も消えてしまう。
次に箱を開ける人が、同じ疑いにたどり着けるようにしたかった。
ジンはらでんが黙ったのを見て、石から目を離さずに続けた。
「出した物だけ持って帰って値段つけて終わりなら、盗掘屋と大して変わんねえ」
古狸が話してくれた保存の仕事は、この男には理想を語る話ではなかったのだろう。
見つけた場所で手を動かし続けた、その結果だった。
「私、文化財のハンターなんです」
「へえ。で、あの灯は文化財か」
すぐには答えられなかった。
古い、珍しい、祭りの札がついている。
そのどれも、決め手にはならない。そもそも札に書かれた名前が正しいかさえ、調べている途中だ。
「今は、分かりません」
「じゃ、調べる理由ができたな」
午後、岩壁の下にもう一本、半分埋まった石柱が見つかった。
ジンが枝を払うと、苔の切れたところに黒い変色が現れる。
煤なら熱の跡があるはずだが、石は割れていない。
近くの土は乾き、日陰なのに虫が寄っていなかった。
どれか一つなら珍しくない。それがここだけで重なっている。
「変です。でも、何が違うのかはまだ」
らでんがそう言うと、ジンは答えずに石を見た。
いつもの「見りゃ分かる」も出ない。
その沈黙に、らでんはかえって落ち着かなくなる。
まず全景を撮り、岩壁との位置を測る。
変色の境目、土に埋まった深さ、周囲の状態を書き留めた。
来歴の分からない物へ触れる前に、触れる前の姿を残しておく。
ジンは手を出さずに待っていた。
「触ってみろ」
「記録が先です」
「終わるまで待つ」
記録を済ませると、ジンが素手で触れと言った。
手袋越しでは分からないものがあるらしい。
らでんはすぐには外せず、石と自分の手を見比べる。
はじめが先に危険を尋ねた。
「何かあったら俺が止める」
らでんは手袋を外し、指先を石へ当てた。
冷たい。普通の石だ。
そう思った次に、胸の奥が引かれた。
煙のようなものが見えた気がした。
人影はいくつもある。
誰なのかも、いつなのかも分からない。
ただ、足音が一定の拍子で重なり、暗い山の中で灯が揺れていた。
歌にも似た声が混じる。聞き取ろうとしても、言葉になる前に薄れていく。
目の前の石柱から視線は外していない。
それなのに、山の暗さと手元の石が同時にあるようで、どちらに立っているのか分からなくなった。
手を離すと、ただの石に戻っていた。
はじめが名前を呼んでいる。
らでんは返事をする前に、石柱の黒い跡をもう一度見た。
今の光景と結びつけたくなるが、見えたものが石の記録なのか、自分の想像なのかすら分からない。
「何があった」
「分かりません。煙みたいなものと、人……歩いていた、かもしれない。灯と、足音と、歌」
順に口にしても、見たものの意味までは分からない。
だから「この石は祭りで使われた」とは言わなかった。
ジンはその答えを聞いてから、らでんの手を見た。
はじめも横で待っている。らでんが声を取り戻すまで、誰も先回りして説明しなかった。
「お前ら、ハンター試験、受かったんだよな」
「受かりましたけど」
「そうか…なら、まだ半分だ」
はじめと顔を見合わせる。
二人とも、試験を終えてライセンスを受け取ったばかりだ。
らでんが手のひらを開くと、まだ石の冷たさが残っているような気がした。
「さっきのが何なのか、知りたいか」
「知りたいです」
「じゃあ、教えてやるから付いてこい」
ジンは歩き出した。
「”念”についてだ」
念?聞き慣れない言葉ではなかった。
それでも、目の前の石とどう繋がるのか分からない。
問い返す前にジンは背を向け、落ち葉を踏んで歩き出した。
はじめが先に追い、らでんはもう一度石を見てからその後につく。
「お前ら、ハンター試験まだ終わってねえぞ」
「ええっ?」
「まじ?」
らでんは聞いた。
「念って、今の石と関係あるんですか?」
「関係あるかもしれねえ。今ここで答えが出ると思うな」
らでんはもう一度石柱を振り返った。
分からないと記録するだけでは、さっき感じたものを扱えない。
その悔しさの中に、知りたいという気持ちもあった。
下り道でもジンの歩幅は変わらない。
二人は足元の落ち葉を滑らせながら追う。
「ハンターになりゃ、普通の奴が入れねえ場所に入る。触れねえ物に触る。よくわからねぇ現象にも会う」
「それが念?」とはじめ。
「そういう場合もある」
「知らないままだったら?」
「運悪きゃ死ぬ」
「さらっと言わないでください!」
とらでんは声を上げたが、笑えなかった。
石に触れた時は、何が起きたのかさえ分からなかったのだから。
ジンは足を止める。
振り向いて、らでんが返事をするのを待った。
「最低限、何をされたか分かるところまでだ。そこまで行って、やっとスタートになる」
「表の試験の続き?」
「裏ハンター試験」
「聞いてない!」とはじめが言った。
「だから裏なんだろ」
「そんな理屈あります?」
「裏まで教えるのは見込みのあるやつだけって決まりがある。でもさっさと教えてやんねぇと死んじまうかもしれねぇだろ」
ジンは振り向かない。
足の運びだけは、山道でも変わらなかった。
「じゃあ教えてください」
「全部は教えねえ。裏試験が終わるとこまでは見る」
「また言い方が!」
---
その夕方、三人は使われなくなった社務所に座った。
仕事から戻ったはじめの袖には土がつき、らでんの指にはまだ記録用紙の跡が残っている。
畳を挟んで向かい合うと、ジンが何も言わずに二人を見た。
「念って、そもそも何ですか?」
「イメージでいい。お前らはどう思う」
「人の意志とか、魂とか……」
「変な力。おばけ、ポルターガイスト」とはじめ。
「広いな。まあ、知らねえならそれでいい」
答えを待ってノートを開いたらでんの前で、ジンは畳を指で叩いた。
昨日の石の感触がまだ指に残っている。
そこへ答えを重ねるより先に、ジンは別の話を始めた。
「まず方便だ。念を覚えた後も、毎日やれ」
点、舌、錬、発 ジンは四本の指を順に立てた。
「点、自分を見て、何がしたいか一つ決める。舌、決めたことを言葉にする。錬、その気持ちを強く持つ。発、動く」
らでんは慌てて書き留めた。
技の名前かと思っていたのに、書き上げてみれば見慣れた言葉ばかりだった。
「……普通のことでは?」
「普通だ」
「これが "念" ?」
「違う。方便だ」
「嘘を先に教えるんですか?」
「使える嘘だ」
「一番怪しいやつ」とはじめが笑う。
ジンは取り合わず、開いたノートへ目をやった。
「本物を覚えた後もやめんな。力があれば出来ることは増える。何をしたいかまで、勝手に決まるわけじゃねえ」
「嘘の念なのに、毎日?」
「だから毎日だ。力ある奴ほどやりたいことが増えて、最初に何がしたかったわからなくなる」
「……」
「これを疎かにしてるハンターは、ろくなもんじゃねぇ」
らでんのペンが止まった。
調査を始めた理由を、自分でもいつか手順の中に埋めてしまうかもしれない。余白に一本、線を引いた。
ジンははじめを指した。
「点、今、お前は何がしたい」
はじめは膝の上で指を動かした。
宿で流れた音楽に、身体が先に反応した時と同じ拍子だった。
目を伏せ、しばらくして顔を上げる。
「体動かしたい」
「何でだ」
「楽しいから」
「それでいい」
言い切ったはじめの顔を見て、ジンは「ならそれでいい」と返した。
はじめの肩が少し下がった。次はらでんの番だった。
B-14の本当の来歴を知りたい。
喉まで出た言葉の前に、老人たちの証言と、石柱に触れた時の分からない光景が浮かぶ。
今の名前が違うかもしれない。けれど、新しい名前をつければ解決するわけでもなかった。
「知りたい。《渡り灯》が、何だったのか」
「それ、お前の都合だぞ。昔の奴がそうしてほしかった証拠は?」
「ありません。でも、今の名前をそのまま残すのも、私たちの都合です。分からないなら分からないって残したい。勝手に答えをつけるより」
「ならそれでいい」
言い終えて初めて、らでんは息を吸った。
ジンは褒めなかったが、ノートへ戻る手が少し軽くなった。
「舌、決めたことを口にしろ」
ジンに促され、はじめは「もっと体を自由に動かす」、らでんは「渡り灯の来歴を調べる」と口にした。
「錬、今行ったことを、絶対やると思え」
言われて二人は黙る。はじめは膝の上で拳を握り、らでんはノートを閉じた。
次を問うより、自分で決めたことをしばらく抱えていたかった。
ジンは座ったまま、二人の目を順に見た。
「今からお前らを殺すつもりで、錬をする」
「それ、冗談?」
ジンは答えない。三人の間には畳五枚ほどの距離がある。
はじめが笑いかけて「何もしないなら――」と言い終えるより先に、空気が変わった。
ジンは指一本動かしていない。
ただ、すごい気迫だった。
"本気の殺意"
それだけで、らでんの背に汗がにじむ。
畳の縁を踏む足が後ろへずれ、喉が狭まった。
目を逸らせない。身体がいうことをきかない。
はじめは左足を引き、右手を前へ出した。
逃げるにも飛び込むにも使える姿勢。
ふだんなら一瞬で選ぶはずなのに、ジンが動かないからこそ行き先が決まらない。
らでんは反対に、膝から下が重く、動けなかった。
頭では、まだ何も起きていないと分かる。
けれど身体は、目を逸らした瞬間に終わると信じていた。
一秒、二秒。杉林の音が遠くなる。
ジンが何かしている証拠はない。
なのに、身体だけがもう危険の中にいる。
ジンが視線を外した途端、畳の冷たさが戻った。
はじめは尻をつき、らでんはようやく息を吸う。
怖かったのは確かだ。けれど、どこを殴られたわけでも、押さえつけられたわけでもなかった。
「……何、今の」とはじめ。自分の左足がまだ後ろにあるのを見ていた。
「怖……」
らでんが胸に手を当てると、鼓動はまだ速かった。
「今の、念ですか?」
「違う。オーラは使ってねえ。ただ本気でそうすると決めた。"錬" ってのはそういうことだ」
「嘘」とはじめが言う。
「嘘じゃねえ。何もしてねえ」
「うち、逃げようとした」とはじめが言う。
「私は固まった……」
「反応は人による。逃げる奴も、固まる奴も、先に手が出る奴もいる」
はじめは自分の足を見てから、「殴るのも考えた」と呟いた。
「だろうな」とジンが笑う。
らでんはようやく肩の力を抜いた。
意志だけでこれほど伝わるなら、実際に力を伴った時はどうなるのだろう。
「本物はもっとたちが悪い」とジンは言った。
「じゃあ、本物はいつ?」
「明日」
「今じゃないんです?」
「腹減った」
はじめまで「うちも」と立ち上がる。
「そこで終わるの!?」とらでんは抗議したが、二人はもう出口へ向かっていた。
膝に残る畳の冷たさを振り払って、慌てて後を追った。
---
翌朝、五時前に宿舎の扉が鳴った。
ジンが山へ行くと言う。
はじめはもう支度を済ませているのに、らでんだけが布団から顔を出した。
昨夜の畳の冷たさが蘇り、思わず掛け布団を握る。
「昨日の『明日』って、こんな早朝!?」
「早く起きろ」
十五分後、朝霧の中を、ジン、はじめ、らでんの順に歩いた。
濡れた落ち葉が靴裏に張りつく。
昨日見つけた石柱より奥で足を止めると、ジンは四本の指を立てた。
らでんは昨夜のノートを取り出しかける。まだ眠い頭でも、四つの音なら言えるはずだった。
「昨日の点、舌、錬、発」
「はい。覚えてます」
「忘れろ」
「は!?」
「方便は毎日やれ。今から教えるものとは別だ」
同じ音の、別の技術。
ジンが「生きてりゃ身体から出てるものがある」と自分の胸を指す。
生命エネルギー、オーラ。念は、それを扱う技術だという。
らでんはペンを握ったまま、ふいに昨日の石を思い出した。
あの時、指先より胸の奥が引かれたのは何だったのか。書く前に確かめたくなり、ノートを閉じる。
「纏、絶、練、発」
「昨日の、あれ?」
「あれは意思だけだ。今から見せるのは違う」
ジンは静かに息を吐いた。
白い息がほどけた直後、らでんは皮膚ごと押されたように感じた。
はじめが半歩下がる。喉が詰まり、地面が足裏を押し返してくる。
昨日は恐ろしい人間が目の前にいると分かった。今は何が押してくるのかも見えない。
らでんがはじめを見ると、はじめもこちらを見た。
どちらが先に逃げるかではなく、何から逃げるのかを知りたい顔だった。
ジンは殺すとも、逃げるなとも言っていない。
こちらを睨んですらいなかった。それでも周囲の空気が重く、らでんは呼吸の速さだけを意識した。
はじめは膝を緩め、いつでも動ける形へ戻している。
昨夜と違い、危険がジンの気分だけでは終わらないと、二人とも肌で感じていた。
数秒で重みが消え、鳥の声が戻る。
はじめは下げた足を戻したが、まだ目を離さない。
らでんは声を出す前に、震えた息を一つ吐いた。
「……今のは?」
「オーラだ。昨日のは意思だけ。違いは分かったか」
はじめが先に頷いた。
「昨日は、ジンが怖かった。今のは……周りごと」
「そう」とらでんも言った。
「押された場所を探したのに、どこにもない」
ジンは二人の顔を確かめて、ようやく指を下ろした。
昨夜の恐怖には、逃げるか固まるかを選ぶ余地があった。
今の圧には、何からどうすればいいのかさえ分からなかった。
「まずは、知るところから教えてやる」
霧の向こうで、ジンが立てた指だけが近かった。