儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

17 / 19
第十七話 纏と絶

「まず纏」

 

 朝霧の向こうで、ジンが片手を上げた。らでんはその指先を見つめる。

 

「昨日のすごいやつ?」とはじめが聞いた。

 ジンは顔を横に振り、自分の胸を指して言った。

 

「違う。人間は生きてるだけでオーラを外に漏らしてる。身体にはオーラが出入りする穴がある」

 

 昨夜、ハンター専用サイトで調べた言葉が、思わず口をついた。

 

「精孔ですか?」

「知ってんのか?」

 

「昨日の夜、ハンター専用サイトで調べました」

「……そういうとこだけ早えな」

「うち知らない」

 

 らでんは得意げに言いかけた。

「人間の身体にあるオーラの出口で――」

 

 続きを披露する前に、ジンが手を上げた。

 

「邪魔すんな。今説明してんの俺だ」

「すいません」

 

 口を閉じて、視線をジンの手に戻した。

 ジンは続けた。

 

「普通の奴はそこから出てるオーラを垂れ流してる。纏は出したオーラを――」

 

 ジンは自分の身体の輪郭をなぞった。

 

「身体の周りに留める技術だ」

「服みたいな?」

「悪くねえ」

「膜?」

「それでもいい。ただ、固めると思うな」

 

 片手で水を掬うように動かした。

 

「流れてる。でも離れねえ」

 

 二人はジンの手のあたりを見た。何も見えない。

 はじめは手を伸ばしかけて止め、らでんは目を細めた。

「本来ならオーラを見るための眼の使い方も覚える。でも」

 

 ジンはそこで一拍置いた。

 

「見る前に自分のを感じろ」

 

「どうやって感じるんです?」

「勝手に探せ」

「そこ教えて欲しいです!」

 

 らでんが食い下がると、はじめは横で笑った。

 ジンが少し考えてから二人の前に立つ。

 

「手だせ。両手」

 

 二人は手を出した。

 朝の冷気が掌を撫で、指先がじんとした。

 

「目閉じろ」

 

 二人は目を閉じた。

 瞼の裏が暗くなり、風の音だけが近くなった。

 

「今から俺が左右どちらかの手の近く、その左右に自分の手を置く」

 

「触るってこと?」

 

 はじめが聞いた。

 

「触らねえ、近いと思った方言え」

「それだけですか?」

「それだけ」

 

 あたりが静かになった。風に葉が擦れる音だけがした。

 集中しなければ。

 そう思い神経を研ぎ澄ます。感じろ。なにかを、感じなければ。

 でも、らでんには右か左か分からなかった。

 掌に当たる風と自分の脈ばかりが大きく感じられ、外から来るものを拾えない。

 らでんは何も掴めないままだった。

 ひょっとしてこっちかな? 勘を信じて言った。

 

「右手の右側?」

「外れ」

 

 はじめも答える。

 

「左手の右」

「当たり」

 

 らでんは目を開けて言った。

 

「え!?」

 

 光が戻り、ほっとしたような表情のはじめの顔が先に見えた。

 

「何かちょっと熱かった」

 ジンは指を立てた。

「もう一回」

 

 はじめは三回やって二回当て、らでんは三回やって全部外した。

 らでんは身を乗り出した。

 

「なんでですか!?」

 

 ジンが鼻で笑った。

 

「そっちは考えすぎだ。今答え作ってから感じてるだろ」

 

 図星だった。

 知っている言葉を先に置けば、分かった形にはなる。

 けれど精孔と書かれた頁を読んでも、今、掌のどちらに何があるのかは分からなかった。

 右だろうと決めてから、右にあるはずの感覚を探していたのかもしれない。

 

「感じた後に考えろ」

 

 らでんは頷き、肩の力を抜いた。

 

 もう一度目を閉じる。右か左かを決めず、風の冷たさと皮膚に伝わる温度をそのまま受け取った。

 息をゆっくりにして、掌の真ん中へ意識を置いた。

 その時、左手の掌がほんの少し押されるように感じた。

 風とは違う、留まる暖かさだった。

 らでんの閉じた瞼が動いた。

 

「……左手の左側」

「当たり」

 

 らでんは目を開けた。

 

「…なんか感じた」

「やったじゃん」

 

 はじめが嬉しそうに微笑んでいる。

 らでんも自分の手を見て嬉しくなった。

 掌を見つめ、もう一度握り直した。

 

 ジンはもう次へ進んでいた。

 

「じゃ、次は自分のオーラを感じろ」

 

 言葉にすれば簡単でも、自分のオーラを感じるのは難しかった。

 ジンが木の根元に座り、二人は地面に座った。

 土の冷たさが尻に伝わり、根の凹凸が背に当たった。

 ジンは木の根に肘を預けた。

 

「呼吸、普通でいい。身体の中を探すな」

「中じゃないんです?」

「精孔の外だ。自分の皮膚からすこし上」

 

 ジンが服の上から指で一本分の距離を作って言った。

 

「そこに何かあると思え」

 

 はじめが聞く。

 

「思うだけでいいの?」

「最初はな」

 

 はじめは指と自分の腕を見比べ、らでんは皮膚のすぐ外へ視線を置いた。

 

 十分、二十分、三十分。霧が薄れ、朝の日差しが足元へ届く頃になっても、皮膚の外には何も見つからない。

 はじめはじっとできずに肩を回した。

 らでんは目を閉じたまま言った。

 

「動くなよ」

「足痺れた」

「私も」

 

 痺れを逃そうと足先だけ動かし、また止めた。

 ジンは木に寄りかかって寝ているように見えた。

 らでんは目を開けた。

 

「ジンさん寝てますよね!」

「…起きてる」

「絶対寝てた!」

「うるせえ」

 

 ジンは目を細めたままで、視線だけ二人を追っていた。

 

「これ、今日中にできる?」

「知らねえ。一日でできる奴もいれば、一週間、一か月、もっとかかる奴もいる」

「期限は? これも試験なんですよね?」

「念覚えりゃ終わりだ。決まってねえ」

 

 ジンは欠伸をした。

 

「急ぐ理由あんのか?」

 

 二人は黙った。

 顔を見合わせ、すぐ視線を戻す。

 

「なら近道する必要もねえ」

 

 欠伸の後の声で、急かさないと分かった。

 らでんはジンを見た。

 

「近道があるんですか?」

「あぁ一応な。念能力者が外からオーラぶつけて無理矢理精孔開く方法もある」

「その方が早そうですけど。じゃあそれで」

「嫌だ。急いでねえから」

「危ないんです?」

「やる奴次第だ」

「じゃ、ジンさんなら――」

「出来る。でもやらねえ」

 

 ジンは目を逸らさず言った。迷いのない目だ。

 

「自分で開けられるならそっちの方がいいだろ。あと今の見た感じーー」

「ーーお前らの念習得、案外早そうだ」

 

 らでんは頷き、手元の土を握った。

 

---

 

 それから二人の生活に新しい日課が増えた。

 朝は方便。布団から出たばかりの声で、まだ身体は重かった。

 はじめが切り出した。

 

「点、今日やること」

「渡り灯の古い記録を二件照合する」

「うち、西側の旧道全部歩く」

 

 昼は仕事で、らでんは蔵で資料と聞き取り、はじめは山で測量と運搬と安全確認をした。

 紙の埃と土の匂いの間で一日が過ぎた。

 夕方に戻って本物の纏に取り組んだ。

 座ると昼の疲れが足に残り、呼吸を整えるのに時間がかかった。

 

 初日は二人とも掴めなかった。

 目を閉じても昼の音が残り、皮膚の外まで意識が届かなかった。

 二日目にはじめが言った。

 

「何か、腕の周りもわってする」

 

 座ったまま腕を見つめ、視線は外さなかった。

 らでんは驚いた。自分は何にも感じてない。

 

「ほんと?」

「多分」

 

 ジンがはじめに答える。

 

「多分でいい」

 

 らでんは悲しくなった。

 はじめに先を越されたのが嫌なのではない。

 隣で同じことをしているのに、自分だけ糸口さえ掴めないのがつらかった。

 

「私何もないんですけど」

「なら何もない」

「ちょっとでいいから励ましてくださいよ!」

 

 ジンは励ましの言葉をくれない。

 らでんは腕を撫でた。指先には布の感触だけが残った。

 

 三日目、らでんは聞き取りに行った。

 相手は山間の家に住む 八十九歳 男性 ウロ

 部屋は昼でも薄暗く、声はゆっくりしていた。

 山の向こうから昔、季節ごとに人がやってきていたという話だった。

 

「何の人だったんですか?」

「知らん」

「どこから?」

「向こう」

 

 また向こうという言葉だった。

 名前はなかった。老人の視線は窓の外へ向いたままだ。

 でも一つ言葉が出た。

 

 《灯渡り》

 

 らでんのペンが止まった。紙の上で先が滑らなかった。

 

「渡火じゃなくて?」

「火じゃない。灯を渡すんだ」

 

 声だけがはっきりした。

 らでんは顔を上げて聞いた。

 

「誰に灯を渡すんです?」

 

 老人は長く考えて言った。

 

「次の村」

 

 言ってから老人は目を細め、らでんは追って聞かなかった。

 

---

 

 その夜、らでんは座布団に座るより先に資料を広げた。

 

「はじめ!」

「何」

「“渡火祭”じゃないかもしれない!」

 

 古い文字を指で押さえる。

 昼間、ウロがはっきり言った言葉を思い返した。

 

「ワタリノヒ、“火”だと思われてた。でもこれ、灯の崩し字だった可能性」

「じゃ、渡り灯って火を運ぶ祭具じゃなくて」

「灯そのものを誰かから誰かへ渡してた?」

 

 二人の視線が、紙の上の同じ文字に止まった。

 

「進んだな」

 

 いつの間にか、ジンが入口の柱に寄りかかっていた。

 

「聞いてたんですか?」

「聞こえた」

「なら、何か知ってるなら――」

「知らねえ」

「ほんとです?」

「知ってたら俺が調べてる」

 

 ジンは資料へ一瞥をくれただけだった。

 知っていて隠している顔には見えない。

 

「まぁ方向は良さそうだな」

 

 らでんは紙を押さえる手に力を込めた。

 ジンにそう言われると、試してみたいことがまた増える。

 

「ねえ」

 

 はじめが右手を差し出した。らでんが振り向くより先に、ジンが「何」と答える。

 

「うち、分かったかも」

「何が」

「これ」

 

 はじめは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。肩が下がる。

 らでんには何も見えないが、ジンの顔つきがほんの少し変わった。

 

「………ああ」

「え?」

「皮膚のちょい外、なんかある」

「ほんとに!?」

 

 ジンははじめの後ろへ回り、肩に触れる手前で指を止めた。

 

「動くな」

「何する?」

「今のまま散らすな。これを自分の周り全部に回せ」

「腕だけじゃなく?」

「頭、背中、腹、脚、全部」

 

 はじめは自分の身体を見下ろした。

 肩で掴んだ感覚を胸や背中へ広げようとすると、途端に息が乱れる。

 

「あ」

「追うな」

「消えた」

「また出せ」

「どうやって?」

「さっき何してた」

「何も」

「じゃ何もしない」

 

 はじめはもう一度目を閉じた。

 一分、二分。肩の力が抜け、頬が緩む。

 

「それ」

「これ?」

「そう」

 

 らでんには相変わらず見えない。

 はじめの呼吸が落ち着いていくのだけが分かる。

 悔しさを抱えたまま、隣に座った。

 

「私もやる」

「勝手にやれ」

 

 ジンは答えながらも、はじめの肩から視線を離さなかった。

 

---

 

 その夜、はじめは先に寝た。布団の膨らみが静かに上下していた。

 らでんは一人で縁側にいた。夜気が頬へ触れ、板の冷たさが足裏にあった。

 らでんは目を閉じた。考えず、感じてから考えることにした。

 

 昼に聞いた灯渡りと、名前を失ったことと、誰かから次へ繋いだ痕跡を今追っていることが頭にあった。

 方便で決めた知りたいことを胸に、呼吸をした。

 吸って吐いて、肩を下げた。すると頬に風がないのに、何か触れているのを感じた。

 

 薄くて暖かく、皮膚の外にあるものだった。

 らでんは目を開けそうになったが、開けなかった。

 逃げそうな気持ちを抑え、そのまま首と肩と腕と胸と背中へ意識を向けた。

 これがはじめの言っていたもの?思い込み?思いが巡る。でもそれを追いかけてはならない。

 探しすぎないようにして、なにかがそこにあると思うようにした。

 

 何かが自分の身体を薄く包んでいると感じた。

 らでんが小さく言った。

 

「……これ?」

 

 声は小さかった。

 後ろからジンの声がした。

 

「そうだ」

 

 らでんはびくっとして振り返った。

 ジンが柱に寄りかかっていた。暗がりで影だけ先に見えた。

 

「いつからいたんですか!」

「さっき」

「怖っ!」

 

 心臓が跳ね、暖かさが一瞬逃げた。

 

「今の逃がすな」

 

 らでんは慌てて目を閉じた。

 

「もう消えました!」

 

 焦って息が浅くなった。

 

「じゃ、もう一回」

「簡単に言う!」

 

 それでも目を閉じる。

 一度掴んだ感覚は今度少し早かった。薄い暖かさが身体の周りにある。

 

「力むな」

 

 らでんは肩の力を抜いた。奥歯の噛みしめをやめた。

 

「呼吸止めるな」

 

 吸って吐いて、途切らせない。

 

「押さえ込むな、留める」

 

 らでんは少し顔をしかめた。

 押さえると逃げると分かって手を緩めた。

 

「そう」

 

 ほんの数秒だったが、確かにそこにあった。らでんが目を開ける。

 

「……できた?」

 

「一瞬」

「一瞬かぁ……」

「最初はそんなもんだ」

 

 珍しく普通の言い方だった。ジンは柱から離れた。

 らでんは少し笑った。目元の力が抜けた。

 

 知らないものを探しに山まで来たのに、自分の皮膚のすぐ外にも、まだ知らないものがあった。

 名前を調べた時には、もう少し分かった気になっていた。

 それでも今、説明を覚えた時よりずっと嬉しい。

 もう一度あの暖かさを探そうと、肩の力を抜いた。

 

---

 

 翌朝、山道で二人は並び、ジンが前に立った。

 朝日がまだ低く、影が長かった。

 ジンは二人を見渡した。

 

「一応二人とも入口には立った」

「纏?」

 

 はじめが聞いた。

 

「ああ。最終的にはずっと維持する。慣れりゃ寝てる時もな」

「無理そう」

「そのうちできるようになる」

 

 ジンは山道を示した。

 

「今日から仕事中もなるべく纏を切らすな」

「調査しながら!?」

 

 資料を読み、足場を探し、その間ずっと。らでんは昨日ようやく掴んだ暖かさを思い出した。

 

「出来るようになるためにやるんだろ」

「踊りながらでも?」

「出来るようになりゃな」

 

 はじめは顔を明るくし、足元を確かめるように立った。

 

「じゃやる」

 

「方便も忘れんな」

「「はい」」

 

 二人の声が山に吸われた。

 

「次は絶。見とけ」

 

 目の前のジンから、すっと気配が抜けた。

 姿は見えている。木の根の横に腕を組んで立っているのに、それまで感じていた圧がなくなり、風の音が先に立った。

 

「……変」

 

 はじめが目を細める横で、らでんは自分の腕をさすった。

 

「見えてるのに、いないみたい」

「身体から出るオーラを止める。精孔を閉じて、外に出さねえ」

「纏は出したオーラを身体の周りに留める。絶は、そもそも出さない?」

「そう」

 

 ジンが纏に戻すと、そこに一人いるという感覚も戻った。

 はじめが肩をすくめ、息を吐く。

 

「分かりやす」

「気配を消す時に使える。自分のオーラが邪魔しなくなる分、外のオーラも感じやすくなる」

 

 向けられた視線に、らでんは顔を上げた。石柱の黒い根元と、触れた時の胸のざわつきが浮かぶ。

 

「じゃあ、あの石も?」

「試すのは勝手だ。ただし、一人ではやるな」

「……何で」

 

 ジンは自分の胸を指した。

 

「纏してる間は、薄くてもオーラで身体を守ってる。絶はそれも消す」

「丸裸?」

 

 はじめが自分の胸元を見下ろした。

 

「だいたいな。念で殴られたら、普段よりずっと痛え」

「痛いで済みます?」

「相手による」

「その言い方嫌いです」

 

 らでんは腕を組み直した。さっきまで試したかった石柱が、少し遠く感じる。

 

「わざとその危険を取る使い方もある。念には、取ったリスクに応じて力を上げるものもあるからな。今は覚えなくていい」

「また物騒なの来た」

「念なんてだいたいそんなもんだ」

 

 声だけは、気配を消す前と少しも変わらなかった。

 

 ジンは道脇の大きな石を指した。

 

「じゃ、やれ」

 

 はじめが石の前へ歩きながら首を傾げた。

 

「どうやって?」

「閉じろ」

 

 らでんも隣へ並ぶ。

 

「何を」

「精孔」

「それが分からないから聞いてるんです!」

 

 ジンは少し考えた。

 

「纏できるようになっただろ」

 

 二人は頷いた。

 

「今身体の周りに留めてるもん、元がどこから来てるか感じろ」

 

 らでんは目を閉じた。

 肩や腕や胸や背中に薄い暖かい膜があり、そこへ内側からずっと流れ込んでいるのを感じることにした。

 確信はない。思い込みでもない。ただあると考える。

 呼吸に合わせて出入りがあり、留めているのに流れていた。

 今まで留めることしか考えていなかった。でも確かに外へ出ていると感じた。

 

「それを止める」

 

 はじめは眉を寄せた。

 

「蛇口みたいに?」

 

 言いながら自分の肩へ手を当てた。

 

「それでやれるならそれでいい」

 

 二人は集中した。葉擦れの音が遠くなり、自分の息だけが残った。

 はじめが先に変わった。

 オーラはまだ見えなかったが、らでんにも分かるほど存在感が少し薄くなった。

 隣にいるのに一人分だけ空気が薄い感じだった。

 

「あ」

 

 はじめが目を開けた。

 

「今、できた?」

 

 ジンは、はじめの肩を指した。

 

「半分。肩だけ漏れてる」

 

 はじめが自分の肩を見る。

 

「見えん」

「そりゃまだな」

 

 はじめは肩を回して確かめたが、違いは分からなかった。

 

 次はらでんの番で、目を閉じて出口を止めようと思った瞬間だった。

 ぷつ。世界が変わった。寒いと最初は思った。でも気温は変わっていなかった。

 自分を包んでいたものがなくなり、皮膚そのものが外気に触れた。

 風はさっきより細かく感じ、木や葉や鳥の音は近くに感じた。

 

 瞼の裏が暗い分、音と肌だけが前に出た。

 それからジンを感じた。目は閉じているのにそこにいるのが分かるほど大きかった。

 らでんは思わず目を開けた。

 

「……うわ」

 

 開けた光が眩しかった。

 

「切れた」

 

 らでんは纏に戻った。戻した途端、世界の近さが一段引いた。

 

「今、ジンさんめちゃくちゃ分かりました」

「だろ」

「自分のが消えたから?」

「ああ」

 

 はじめも目を丸くしてジンを見た。

 

「便利じゃん」

 

 ジンがはじめを見た。

 次の瞬間、はじめの目の前にジンの拳があった。

 寸前で止まった。風が鼻先を撫でただけで、触れてはいなかった。

 はじめは反射で身体が固まった。

 拳は鼻先数センチにあった。引いた左足が土に食い込んだ。

 

「……何」

 

 ジンは拳を下ろした。

 

「今、絶だったら、お前、これまともに食らってた」

「避けるし」

「俺が本気なら?」

 

 はじめは黙った。

 拳があった場所を見つめたまま、瞬きしなかった。

 

「便利なもんは大体便利な理由と同じくらい危ねえ」

 

 らでんは、ようやく拳から目を離した。

 

「それを先に言ってください」

「今言った」

「殴る前に!」

 

 らでんの声が山に響き、はじめはやっと息を吐いた。

 

 それから妙な訓練が始まった。

 

「昼までに俺見つけろ。沢から昨日の石柱までだ」

 

「範囲広すぎ!」

 

 らでんが抗議する間に、ジンはもういなくなっていた。

 声の方向へ振り向いた時には姿がなかった。

 

「……消えた」とはじめが言った。

「逃げた。半分遊んでると思う」

 

 二人は山を見た。木と斜面だけが広がっていた。

 念を使うことにした。

 

 はじめは絶を試して気配を薄くしたが、数秒で切れてまた纏に戻した。

 肩で息をして、眉を寄せた。

 らでんがきいた。

 

「続けるの難しい?」

「難しい」

「私も。これ少しでも気が散ったらダメなやつだ」

 らでんも閉じかけたが、すぐ暖かさが戻った。

 

 しばらく歩いた。

 落ち葉が靴裏で沈み、枝が頬をかすめた。

 はじめが立ち止まった。

 

「こっち」

「分かるの?」

「足跡」

 

 らでんは地面を見たが、土はほとんど乱れていなかった。

 同じ色の土に見えた。

「どれ?」

 

「これ」

 

 はじめが指さした場所だけ、土の縁が潰れていた。

 

「ジンさん?」

「多分」

 らでんもしゃがみ込んだ。

 

「靴底、昨日と同じかも」

 

 土の湿りが膝に伝わった。

 

「そういうの分かる?」

「写真があるから」

 

 端末で昨日の現場写真を拡大すると、端に偶然ジンの靴が写っていた。

 画面を寄せると底の溝が潰れて見えた。はじめがスマホを覗き込んでくる。

 

「ネット強い人ってこういう使い方するんだ」

「調査だからね」

 

 痕跡を追った。途中で消えた。

 土が岩に変わり、沈みがなくなった。

 上? はじめが木を見上げた。

 

「登った?」

 

 木の枝を見上げ、目を細めた。

 

「また?」

 

 上の枝が一枚折れ、樹皮に新しい擦れがあった。

 折れた面が白く、新しい。

 

「念がなくても、手がかりからやれることあるね」

「むしろ念あってもこっちは消えないんじゃない? 気配は消せても足跡までは消えてない」

 

 らでんは靴裏の沈みを見直した。

 

「あ」

 

 はじめは木の根元を撫でて確かめた。

 

 さらに先に進むと古い炭焼き小屋の跡があった。

 誰もいなかった。土だけが黒く、風が抜けた。

 でも地面に一本の木の枝で作った矢印があった。

 置いたばかりで、土がまだ寄っていた。

 

「……煽られてる?」

「絶対そう」

 

 らでんは矢印を写真に収めてから先を見た。

 矢印の先にある沢を渡ると、向こうに道が二つあった。

 水が足首に触れ、冷たさが靴下に残った。

 今度は足跡がなかった。

 

「どっち」とはじめが言った。

 

 らでんは周囲を見た。

 右は木が密で、左は少し開けていた。

 

 両方とも人は通れそうだった。

 どちらも風が通り、決め手はなかった。

 らでんは目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。

 これがいろいろ感じやすい。なにか手がかりがわかるかもとおもった。

 自分を閉じると身体が冷たくなり、世界が近くなった。

 木や水や虫を感じ、それからごく薄い何かを右に感じた。

 

 右奥の木陰だけ空気が違った。

 

「……右になにかある?」

 

「ジン?」

「分かんない。でもなんか」

 

 二人は右に行った。枝を避けて進み、落ち葉を踏まないようにした。

 五分歩いても何もなかった。十分歩いても何もなかった。

 息が上がった。

 

「外した?」

「かも」

 

 その時、頭上から声がした。

 

「遅え」

 

 二人は同時に上を見た。首が痛いほど反らした。

 ジンが太い枝に寝転がっていた。

 枝がしなり、葉が揺れる。

 

「いた!」

「何で木の上ばっかり!」

 

 ジンが枝から降りると、土が舞った。

 

「らでん。今、なんで分かった?」

 

「何となく。何で絶にしたら右側に何かいる感じが」

「俺も、絶してたぞ」

 

 らでんは動きを止めた。

 

「……じゃ違う?」

 

 外したと思って顔が熱くなった。

 

「違う」

「何感じたの」

 

 ジンが顎を右奥に向けた。

 そこは木陰で、小さい獣がこちらを見ていた。

 目が合い、獣は動かなかった。

 

「あ」

「お前、俺の気配じゃなくそっちを拾った」

 

 らでんは少し恥ずかしくなった。

 耳まで熱くなった。

 

「でもそれでいい」

 

 らでんは顔を上げた。

 

「最初から都合よく欲しいもんだけ感じられると思うな。自分のオーラ消したら今まで気づかなかったもんが入ってくる」

 

 はじめは疑問に思って聞いた。

 

「いっぱい?」

「ああ。そっから何が何か覚える」

 

 ジンはもう歩き出していた。

 背を向けたまま手を振る。

 

「今日の修行はここで終わる」

「まだ昼前ですけど」

「仕事しろ」

「切り替え早っ」

 

 らでんは獣がいた方向をもう一度見てから追った。

 

---

 

 午後は調査だった。今日は旧道のさらに山向こう側だった。

 古い地図はあるが、ただ道は途中で切れていた。

 紙の端が擦り切れ、折り目が白んでいた。

 三十年前に作られた地形図にはすでに載っておらず、百年前の村の手書きの山林図に一本の細い線があった。

 

 線はかすれ、指でなぞると途切れた。

 現在の《渡り灯》が見つかった集落から尾根を越え、さらにもう一つの谷へ続く線だった。

 らでんの指が止まった。

 

「これ」

 

 紙の冷たさが指に残った。

 カルドが覗き、線の先に小さな文字があった。

 

 《灯守屋敷跡》

 

「灯守……」

「人?」

「役目かも」

 

 ジンが資料を一瞬見た。

 何も言わなかった。

 目だけ動かして紙から離した。

 

「知ってます?」

 

 ジンは地図の線を指した。

 

「知らん。場所も分からないしな」

 

 初めてジンが分からないと言い、らでんは少し嬉しくなった。

 分からないと言い切る声だったからだった。

 らでんは地図を引き寄せた。

 

「じゃ、一緒に探しましょう」

「何で」

「何でって知りたいんでしょ?」

「ああ」

「私もです」

 

 ジンは肩をすくめた。

 

「じゃ、先に見つけた方が勝ちな」

「競争なんですか!?」

「いいじゃん」

「はじめまで!」

 

 はじめは笑い、らでんは地図を押さえた。

 

 古地図と現地を照合した。

 川は今流れが変わっていて、崩落が一回大きく起きた記録が四十七年前にあった。

 道が消えた理由はそれかもしれない。

 紙の線と目の前の谷を見比べると、ずれていた。

 はじめは谷へ目を向けた。

 

「この谷、昔もっと浅かった?」

 

 斜面を見下ろし、足で土を確かめた。

 らでんは古地図を回した。

 

「そうなると、灯守屋敷跡の場所、今の道基準で探したらずれる」

 

 回した紙の端が風ではためいた。

 ジンが少し笑って言った。

 

「やっと面白くなってきたな」

「最初から面白いです!」

 

 らでんは笑いながらも視線は紙に戻っていた。

 

---

 

 日が傾き、調査を切り上げた。

 帰りに昨日の石柱の近くを通ると、らでんの足が止まった。

 空気が一段冷たく感じる。

 ジンがらでんに言った。

 

「やるか?」

「絶で、ですか」

 

 昼間、獣の気配をジンだと思い込んだばかりだ。

 石から何かを感じても、欲しい答えが来たと思ってしまうかもしれない。

 それに、絶になれば身を守る纏もなくなる。

 知りたい気持ちは変わらないが、そのために何を外すのかは、朝より分かっていた。

 すぐ戻せるよう、身体を包む感覚を確かめてから「……はい」と答えた。

 

 ジンがすぐ横に立ち、はじめも戻った。

 足音が二つ近づき、止まった。

 らでんは呼吸を整え、纏を消して精孔を閉じた。

 そして『絶』になった。どんどん感覚が研ぎ澄まされていく。鋭敏になる。

 まるで世界が近づいたような逆に自分が溶け込んでいく感覚がする。

 そして石柱が昨日よりはっきりし、そこだけ何か残っているのを感じた。

 冷たいが冷気ではなく、細い糸みたいで山の奥を向いているようだった。

 瞼の裏に暗い山と小さな灯が浮かんだ。

 

「……あ」

「何」

「こっち」

 

 石柱ではなく、石柱からさらに山向こうに何か続いていると感じた。

 目を閉じたまま、そちらへ顔を向けた。

 

「何か続いてる」

「道?」

「分かんない」

 

 らでんは目は閉じたまま、もう少し感じた。

 灯は暗く、人々は昨日より輪郭がなかった。

 でも今度は一つだけ前と違う感じがした。

 人々が村へ来ているというより、通り過ぎていく感じがした。

 

 灯を手渡して次へ、また次へと運ぶようで、一つの場所に留まる感じがない。

 らでんは絶を切り、纏に戻した。

 山向こうの暗さを見ながら「この村の祭りだけじゃ、説明できないかもしれない」と言う。

 見たものと考えたことを、混ぜないための言い方だった。

 

---

 

 その夜は資料が並んだ。机の上で紙が重なり、端がはみ出した。

 古地図の《灯守屋敷跡》、古老の《次の村へ渡した》、石柱の文様、《渡り灯》、そして山を越える一本の古い道

 紙の匂いと夜気の中で、らでんはノートに書いた。

 

【仮説】

 

《渡り灯》は渡火祭固有の祭具ではない。

 より古い時代、複数集落間を移動する「灯渡り」に用いられた可能性。

 次に大きく書いた。

 

 ”誰が運んだ? 何のため? なぜ最後の一基だけ、この村に残った?”

 

 らでんはペンを止めた。手が痺れ、肩が凝っていた。

 

 謎は増えていた。でも顔は笑っていた。

 はじめが横からノートを覗き込んだ。

 

「楽しそう」

 

「うん」

「分かんないこと増えたのに?」

「増えたから」

「変なの」

 

 入口にジンが立っていた。

 ジンがそれを聞いて少し口元を上げた。何も言わなかった。

 

 視線だけノートへ落ちた。

 ただ翌朝、らでんのノートの横に一枚の古い地図の写しが置かれていた。

 紙の端が丸まり、朝日で白く見えた。

 見たことのない地図で、山向こうにもう一つの集落があり、その横に小さな書き込みがあった。

 

 《灯の宿》

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。