儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

17 / 55
第十七話 纏と絶

「まずは『纏』だ」

 

 白い朝霧の向こうで、ジンが無造作に片手を上げた。さっきまで周囲の空気ごと押し潰してくるようだった重みは消えているのに、らでんはその指先からまだ目を離せない。

 隣に立つはじめが、少し警戒を残した声で尋ねた。

 

「それって、さっき見せたみたいに周りの空気ごと押してくるすごいやつ?」

 

 ジンはあっさり首を横に振り、親指で自分の胸元を指した。

 

「違う。人間はただ生きてるだけで、身体から少しずつオーラを外に漏らしてる。全身に、オーラが出入りする穴があるからだ」

 

 その説明を聞いた瞬間、昨夜布団の中でハンター専用サイトを必死にめくっていた時に見つけた言葉が、思わず口をついて出た。

 

「あ、それって『精孔』ですか?」

「なんだ、言葉は知ってんのか」

「はい! 昨日の夜、部屋に戻ってからハンター専用サイトで調べました」

「……そういう余計なとこだけ手際が早えな」

「えっ、なにそれ。うちは全然知らないんだけど」

 

 首をかしげるはじめの方へ、らでんはつい得意げに身を乗り出した。せっかく夜更かしして覚えたばかりの知識だ。

 

「あのね、人間の身体にあるオーラの出口のことで、普段は少しずつしか開いてないんだけど――」

 

 覚えたての説明を最後まで披露しきる前に、目の前のジンがひらりと片手を上げて遮った。

 

「おい、邪魔すんな。今ここで説明してんのは俺だ」

「あ……す、すみません」

 

 出かかった言葉を慌てて飲み込み、きゅっと口を閉じて視線をジンの手元へ戻す。

 ジンは小さく鼻を鳴らしてから、言葉を継いだ。

 

「普通の奴は、その穴から出てるオーラをただ外へ垂れ流してるだけだ。『纏』ってのは、自分の身体から出たオーラを――」

 

 ジンは上げた手で、自分の肩から腕の輪郭をゆっくりなぞってみせた。

 

「散らさずに、身体の周りに留めておく技術だ」

「留めるって、目に見えない服を着るみたいな感じ?」

「悪くねえな」

「じゃあ、薄い膜で包むみたいなイメージですか?」

「それでもいい。ただ、カチカチに固めるもんだと思うなよ」

 

 ジンは片手を差し出し、そこにある水をそっと掬い上げるように指先を動かした。

 

「ずっと流れてる。でも、身体からは離れねえ」

 

 二人は同時にジンの手のひらから前腕のあたりへ目を凝らした。けれど、朝の白い霧が漂っているだけで、そこには何も見えない。

 はじめが確かめるように手を伸ばしかけて途中で止め、らでんも眉を寄せて目を細めた。

 

「目の精孔が開けば、他人のオーラも自分のオーラも目で見えるようになる。だが、今はまだいい」

 

 ジンはそこで一拍置き、二人の顔をまっすぐに見た。

 

「目で見るより先に、まず自分の肌で感じろ」

 

「肌で感じるって……具体的にどうやってやるんですか?」

「そんなもん、自分で勝手に探せ」

「そこを教えてほしいから聞いてるんです!」

 

 たまらず食い下がると、隣ではじめがぷっと吹き出して笑った。

 ジンは面倒くさそうに眉間を掻いて少し考えてから、のっそりと二人のすぐ前へ歩み寄ってきた。

 

「ほら、手を出せ。両手だ」

 

 言われるまま、二人は前に両手を差し出した。掌を上に向けると、山の朝の冷気がじかに皮膚を撫でて、指先がじんと冷たくなる。

 

「そのまま目を閉じろ。開けんなよ」

 

 瞼を下ろすと、視界がすっと暗くなり、代わりに木々の葉が擦れる音や自分の呼吸ばかりが耳のすぐ近くで聞こえ始めた。

 

「今から俺が、お前らの左右どっちかの手の近く――さらにその手の右か左に、自分の手を近づける」

「え、うちらの手に触るってこと?」

 

 目を閉じたままのはじめが聞き返す。

 

「触らねえよ。ギリギリまで近づけるだけだ。どっちの手の、どっち側に俺の手が来たか当ててみろ」

「それだけですか? 風とかで分かっちゃうんじゃ……」

「いいから黙ってやれ。それだけだ」

 

 ジンの声が止むと、あたりが急に静まり返った。風に杉の葉が揺れる乾いた音だけが、頭の上を通り過ぎていく。

 ――集中しなきゃ。

 らでんは奥歯を軽く噛みしめ、差し出した両手の先へ必死に神経を研ぎ澄ませた。何かを感じなければ。オーラって、さっきみたいに重たい圧があるはずだ。右か、それとも左か。

 けれど、意識を強く向ければ向けるほど、掌に当たる朝風の冷たさと、ドクドクと打つ自分の脈の感覚ばかりが大きくなって、外から近づいてくるはずのものがまるで拾えない。

 何も掴めないまま時間ばかりが過ぎる気がして、焦りが募る。ひょっとして、今ちょっと空気が動いたこっちかな。らでんは半ば勘に頼って口を開いた。

 

「……右手の、右側ですか?」

「外れ」

 

 即答だった。すぐ隣で、はじめが落ち着いた声で答える。

 

「うちは、左手の右側」

「そっちは当たりだ」

 

 らでんは思わずぱっと目を開けた。

 

「ええっ!? なんで!?」

 

 瞼の奥に朝の光が戻り、すぐ隣でほっとしたように息を吐いているはじめの横顔が先に入った。

 

「んー、なんかね、左手の横だけちょっとお湯みたいに熱かった」

「よし、もう一回だ」

 

 ジンが短く指を立てる。

 そこから三回続けて試してみたけれど、はじめが三回のうち二回きっちり言い当てたのに対して、らでんは三回とも綺麗に外した。

 悔しさで耳の奥が熱くなり、らでんは思わず一歩前へ身を乗り出した。

 

「な、なんでですか!? 私、はじめよりずっと集中して探してるのに!」

 

 ジンの口元が、鼻で笑うようにわずかに歪んだ。

 

「その集中してるってのが、そもそも考えすぎなんだよ。お前、先に頭の中で『たぶん右だ』って答えを作ってから、そこにあるはずの感覚を探しにいってるだろ」

 

 言葉にされた瞬間、ぐっと言葉に詰まった。図星だったからだ。

 昨夜サイトで『精孔』という言葉を覚えた時もそうだった。先に名前や理屈を知っておけば、なんだかもう分かったような形にはなる。けれど、いくら説明文を頭に入れても、今この場で自分の掌のどちら側にジンの手があるのかは、頭で考えたって絶対に分からない。

 右にあるはずだ、と自分で勝手に予想を立てて、それに合う感覚ばかりを掌の上で探していたのだ。

 

「頭で先回りすんな。何かを感じた後に考えろ」

 

 らでんは小さく頷き、ぎゅっと上がっていた両肩の力を抜いた。

 もう一度、ゆっくりと瞼を閉じる。今度は『右か左か』を先に決めるのをやめた。ただ山の風の冷たさと、自分の皮膚の表面にある温度をそのまま受け取るようにして、長く息を吐く。

 余計な予想を追い出し、掌の真ん中あたりにぼんやりと意識を置いた。

 その時だった。左手の外側の空気だけが、ほんのわずか、目に見えない綿か何かでそっと押されたように感じた。

 通り抜けていく朝風とは違う。そこにじっと留まっている、生き物の暖かさだ。

 らでんの閉じた瞼がぴくりと揺れた。

 

「……左手の、左側」

「当たり」

 

 ぱっと目を開けると、自分のすぐ前にジンの大きな手がまだ残っていた。

 

「……あ、今、なんか分かりました! 本当にちょっと暖かかったです!」

「お、やったじゃんらでん!」

 

 隣ではじめが、自分のことみたいに顔をほころばせて笑ってくれる。らでんも自分の左の掌を見下ろして、胸の奥がぱっと明るくなるのを感じた。逃がしたくなくて、その掌をもう一度ぎゅっと握り直す。

 けれど、ジンは余韻に浸る間もくれず、もう次の段階へ話を進めていた。

 

「よし、今の感覚を忘れるなよ。じゃあ次は、他人のじゃなく自分のオーラを感じろ」

 

 言葉にすればたったそれだけなのに、自分のオーラを捕まえるのはさっきの何倍も難しかった。

 ジンが太い杉の根元にどっかりと腰を下ろし、らでんとはじめもその前の地面に並んで座った。湿った土の冷たさがズボン越しに尻へ伝わり、張り出した木の根の硬い凹凸が背中に当たる。

 ジンは木の根に片肘を預けたまま、気だるそうに言った。

 

「いいか、呼吸は普通のままでいい。自分の身体の中を探しにいくなよ」

「え、オーラって身体の中から出るんですよね? 中じゃないんですか?」

「もう精孔の外へ出てるもんを感じるんだ。自分の皮膚から、ほんの少しだけ上」

 

 ジンは自分の長袖の上から、親指と人差し指で指一本分ほどの隙間を作って見せた。

 

「そのくらいの場所に、薄い何かがもうあると思え」

「思うだけでいいの? 力を入れたりしなくて?」

「最初はそれでいい。力むと余計に分からなくなる」

 

 はじめはジンの指先と自分の腕を交互に見比べ、らでんは自分の腕の皮膚からほんの少し浮いたあたりの空間へじっと視線を落とした。

 それから目を閉じ、言われた通りに呼吸を繰り返す。

 十分、二十分、三十分。白かった朝霧が少しずつ薄れ、木々の隙間から差し込んだ朝日のぬくもりが足元に届く頃になっても、皮膚の外側にはやっぱり何も見つからなかった。

 やがて、じっと座り続けるのに飽きてきたらしいはじめが、むずむずと肩を回す気配がした。

 らでんは目を閉じたまま、小声で注意する。

 

「ちょっと、動かないでよ。こっちの集中まで切れちゃう」

「だって、ずっと同じ格好だから足が痺れてきたんだもん」

「……それは私もだけど」

 

 ごまかすように靴の中で足先だけをもぞもぞと動かし、またぴたりと止める。

 前の方から少しも声がしないのが気になって、らでんはそっと片目を開けた。見れば、木の根元に寄りかかったジンは、腕を組んで完全に舟を漕いでいるように見えた。

 らでんは両目を見開いて声を上げた。

 

「ちょっとジンさん! 今、寝てますよね!?」

「……起きてる」

「うそ、絶対寝てました! 人にずっと目閉じさせておいて!」

「うるせえな、ちゃんと見てるっつってんだろ」

 

 ジンは眠そうに目を細めたままだったが、その奥の視線だけは確かに二人の姿を追っていた。

 はじめが痺れた足を伸ばしながら、首を傾げて尋ねる。

 

「ねえジン、これって今日中にできるようになるかな?」

「さあな、知らねえよ。勘のいい奴なら一日で掴むこともあれば、一週間、一か月、下手すりゃもっとかかる奴だっている」

「ええっ、そんなに? あの、これって裏ハンター試験なんですよね? いつまでっていう期限はないんですか?」

「お前らが念を覚えりゃそこで試験終了だ。いつまでなんて決まってねえよ」

 

 ジンは大口を開けてひとつ欠伸をした。

 

「なんだ、お前ら、どっかへ急ぐ理由でもあんのか?」

 

 問い返されて、らでんとはじめは同時に口をつぐんだ。

 お互いの顔を見合わせ、それから目の前の土蔵や山の仕事のことを思い出して、すぐに視線を戻す。今ここで急いでどこかへ行かなければならない理由なんて、二人とも持ってはいなかった。

 

「別に急ぐ理由がねえなら、わざわざ近道する必要もねえだろ」

 

 欠伸混じりの暢気な声で、ジンが無理に急かすつもりはないのだと分かった。けれど、らでんはその言葉の端が気になって顔を上げた。

 

「……近道なんてあるんですか?」

「ああ、一応な。すでに念を使える奴が外からオーラをぶつけて、無理やり全身の精孔をこじ開けるやり方がある」

「えっ、その方がずっと早そうじゃないですか! じゃあ、それでやってくれたら――」

「嫌だね。だから急いでねえって言ったろ」

「な、なんでですか? それって危ないから?」

「そりゃ、やる奴の腕次第だ」

「じゃあ、ジンさんがやってくれれば安全なんじゃ――」

「俺なら出来る。でも、お前らにはやらねえ」

 

 ジンは目を逸らさず、きっぱりと言い切った。からかうような調子のない、迷いのない目だった。

 

「自分の力で開けられるなら、どう考えたってそっちの方がいいに決まってる。それに、さっきの手の感覚を見た感じ――」

 

 ジンはそこでほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「――お前らの念習得、案外早そうだぜ」

 

 思いがけない一言に、らでんはぱちくりと瞬きをしてから、小さく頷いた。膝の横の湿った土を、指先でぎゅっと握りしめる。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日から、二人の山の生活に新しい日課が組み込まれた。

 朝起きたら、まずは宿舎の部屋で『方便』の念から始める。布団から抜け出したばかりのまだ重たい身体で向かい合い、はじめが眠そうな声を張って切り出す。

 

「よし、『点』。今日やること!」

「私は、蔵で見つかった《渡り灯》に関する古い記録を二件、今の目録と照合する」

「うちは、西側の旧道を端から端まで全部歩いて確かめる!」

 

 言葉にして『舌』で出し、腹の底で『錬』を固めてから、昼間の『発』――それぞれの仕事へと出ていく。

 昼の間、らでんは土蔵にこもって古い帳面の整理とお年寄りへの聞き取りに回り、はじめはカルドたちと一緒に山へ入って、旧道の測量と荷物の運搬、それに足場の安全確認をこなした。古い紙の埃と山の湿った土の匂いを行き来するうちに、あっという間に一日が過ぎていく。

 そして夕方、宿舎へ戻ってからが本物の『纏』の時間だった。

 もっとも、一日中歩き回った後で地面に座り込むと、昼間の疲れが足腰にずっしり残っていて、ただ呼吸を落ち着けるだけでもずいぶん時間がかかった。

 

 初日の夕方は、結局二人とも何の手がかりも掴めなかった。目を閉じても昼間に聞いた風の音や話し声が耳の奥に残っていて、自分の皮膚のすぐ外まで意識が届かない。

 変化があったのは、二日目の夕方だった。

 並んで目を閉じていたはじめが、ふいにぽつりと呟いたのだ。

 

「……あれ。なんか、腕の周りがちょっともわってする」

 

 はじめはあぐらをかいたまま自分の両腕を見つめ、そこから視線を外さない。

 らでんはびっくりして目を開けた。すぐ隣で同じように座っていたのに、自分の腕の周りには冷たい夕方の空気しか感じられない。

 

「えっ、ほんとに!? もう何か分かったの?」

「んー、たぶん、だけど。なんかお風呂上がりに近いような……」

 

 自信なさげに首を傾げるはじめに、後ろで見ていたジンが短く応じた。

 

「今はその『たぶん』でいい。その感じを覚えとけ」

 

 それを聞いて、らでんの胸の奥がぎゅっと心細くなった。

 仲良くなったはじめに先を越されたのが嫌だ、というのとは違う。同じ朝から始めて、すぐ隣に並んで同じように息をしているのに、自分ひとりだけがまだ何の糸口さえ掴めていないことが、ひどく取り残されたようでつらかった。

 

「あの、ジンさん……私、まだ腕の周りに何にも感じないんですけど」

「そうか。ならまだ何もないんだろ」

「ええっ、そこは嘘でもちょっとくらい励ましてくださいよ!」

 

 思わず声を尖らせたけれど、ジンは肩をすくめるだけで、都合のいい慰めは一言もくれない。

 らでんは唇を尖らせて、自分の両腕を上から撫でてみた。指先には、ただ作業着の乾いた布の感触だけが残った。

 

 三日目の午後、らでんはカルドに教えてもらった山間の家へ聞き取りに向かった。

 相手は、八十九歳になる男性のウロさんだ。

 山の斜面に建つ古い家は昼間でも室内が薄暗く、ウロさんの話す声もひどくゆっくりしていた。昔、まだ村に人が多かった頃、季節の変わり目になると山の向こうから決まってやってくる人たちがいた、という話だった。

 

「その人たちは、何をする人たちだったんですか?」

「さあて、そこまでは知らん」

「じゃあ、山の向こうの、どのあたりの村から来ていたんでしょう?」

「向こうは、向こうじゃ」

 

 また『山の向こう』という言葉だった。タツさんから聞いた話と同じで、具体的な地名も、その人たちの呼び名も出てこない。ウロさんの白く濁った視線は、らでんの手元のノートではなく、ずっと暗い窓の外の山並みへ向いたままだ。

 やっぱりこれ以上は難しいかな、とペンを引こうとした時、ウロさんの口からぽつりと一つの言葉が落ちた。

 

「――《灯渡り》じゃ」

 

 ノートの上で、らでんのペン先がぴたりと止まった。紙の上を滑っていた芯が、その場で動かなくなる。

 

「……今、なんと仰いました? この村の『渡火祭』じゃなくて、ですか?」

「火じゃない。灯(ひ)を渡すんじゃ」

 

 その一言だけ、先ほどまでとは別人のように声の輪郭がはっきりしていた。

 らでんは思わず顔を上げ、座卓越しに身を乗り出して尋ねた。

 

「誰が、誰にその灯を渡すんですか?」

 

 ウロさんはすぐには答えず、皺の深い瞼をゆっくりと動かして、長い時間何かを辿るように黙り込んだ。それから、ぽつりと答える。

 

「……次の村じゃ」

 

 それだけ言うと、ウロさんは疲れたように目を細めてしまった。らでんは喉まで出かかった次の質問を飲み込み、それ以上無理に問い詰めるのはやめて丁寧に礼を言った。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その夜、宿舎の部屋へ駆け戻ったらでんは、座布団に腰を下ろすより先に机の上へ土蔵の資料を広げた。

 

「はじめ! ちょっとこれ見て、すごいこと分かったかも!」

「うわ、びっくりした。なに、どうしたの?」

「あの箱の灯籠、やっぱりこの村の“渡火祭”の道具じゃないかもしれない!」

 

 らでんは一番古い帳面の写しを引き寄せ、そこに書かれた崩し字を人差し指で強く押さえた。昼間、薄暗い部屋でウロさんがはっきり口にした言葉が、耳の奥で何度も蘇る。

 

「ほら、この一番古い帳面の『ワタリノヒ』って読める部分、“火”とも“灯”とも読めて、まだ決められなかったでしょ。でもね、今日お話を聞いたウロさんが『火じゃない、灯を渡す《灯渡り》だ』って教えてくれたの! そう思って見直すと、この崩し字、“火”じゃなくて“灯”を崩した字だった可能性があるんだよ!」

「えーっと……ってことはさ、あの《渡り灯》って、村のお祭りで火を運ぶための道具じゃなくて」

「うん! 『灯』そのものを、山のこっちから次の村へ、誰かから誰かへ順番に渡していくために使ってたのかもしれない!」

 

 言い終えた二人の視線が、古い紙の上に並んだ墨の文字にぴたりと重なった。バラバラだった証言と文字が、初めて一つの形を結んだ瞬間だった。

 

「ほう。ずいぶん話が進んだな」

 

 低い声が落ちてきて振り返ると、いつの間にか部屋の入口の柱にジンが背中を預けて立っていた。

 

「わっ、ジンさん! いつからそこで聞いてたんですか?」

「別に盗み聞きしたわけじゃねえよ、声がでけえから勝手に聞こえただけだ」

「も、もう……! なら、もし《灯渡り》のことで何か知ってるなら教えてください!」

「知らねえよ」

「ええっ、ほんとに知らないんですか? 実は答えを知ってて試してるとかじゃなくて?」

「俺が最初から知ってんなら、わざわざお前らに任せず自分で調べてるっつーの」

 

 ジンは机の上の帳面へちらりと一瞥をくれただけだった。本当に知っていて意地悪で隠している時の顔には見えない。

 

「まあ、お前らの調べ方の方向としちゃ、悪くなさそうだな」

 

 ぶっきらぼうな一言だったけれど、らでんは帳面の端を押さえる指先にぐっと力を込めた。ジンにそう言われると、明日また土蔵の記録で確かめてみたいことが次々に湧いてくる。

 その横で、黙って自分の右手を見つめていたはじめが、ふいに「あ、ねえ」と声を上げた。

 すっと前に差し出されたその腕を見て、らでんが聞き返すより先に、柱のジンが「なんだ」と目を留める。

 

「うち、なんか今、分かったかも」

「何がだ」

「これ。昨日もわってしたやつ」

 

 はじめはその場に座り直すと、ゆっくり目を閉じて長く息を吐いた。すっと両肩の力が抜けて下がる。

 隣で見ているらでんの目には、まだ何の変化も映らない。けれど、入口に立っていたジンの目つきがほんのわずかに変わったのが分かった。

 

「………ああ、やっぱり」

「えっ、なに? はじめ、何かあるの?」

「うん。皮膚のちょい外に、なんか薄いのがずっとある」

「ほんとに!? もうはっきり分かるの!?」

 

 驚くらでんの横をすり抜けて、ジンが音もなくはじめの背後へ回り込んだ。はじめの肩先に触れるほんの手前で、自分の指を止める。

 

「おい、そのまま動くなよ」

「え、ジン、何すんの?」

「何もしねえ。今お前が腕で掴んでるそいつを、外へ散らすな。そのまま自分の身体の周り全部にぐるっと回してみろ」

「腕だけじゃなくて、全部?」

「ああ。頭、背中、腹、脚、全身だ」

 

 言われたはじめは、目を細めて自分の身体を見下ろした。差し出した腕の周りをじっと見つめ、それから信じられないものを見るように何度も瞬きを繰り返す。

 

「……うわ、なんか白い湯気みたいなのが出てる。ジン、これがオーラ?」

「そうだ。なんだ、目の精孔も一緒に開いたな。ほら、珍しいからって腕ばっかり見るなよ、意識が偏る」

 

 はじめは慌てて頷き、腕や肩で掴んだ感覚をそのまま胸や背中の方へ広げようとした。けれど、全身へ回そうと意識を動かした途端、ふっと呼吸のリズムが乱れる。

 

「あ、やば」

「逃げたもんを無理に追うな」

「だって、全身に広げようとすると全然まとまんない!」

「広がらなくていいから、もう一回、肌の上に留めろ」

「留めろって言われても、どうやって!?」

「お前、さっき腕で分かった時は何をしてた」

「え……別に、何もしてないけど」

「なら、今と同じように何もしない感覚に戻せ」

 

 矢継ぎ早に言われて、はじめはもう一度ぎゅっと目を閉じた。

 一分、二分。室内に静かな呼吸の音だけが続き、やがてはじめの肩から余計な力みが抜けて、頬のあたりがふっと緩む。

 

「よし、それだ」

「……これ? 今のでできてる?」

「ああ、できてる」

 

 目の前で二人が頷き合っているのに、らでんの目には相変わらず何の輪郭も見えなかった。

 目を開けたはじめの視線が、自分の腕から背後のジンへと移り、そこで息を呑んだようにぴたりと止まる。はじめが今どんなすごいものを見ているのか、すぐ隣にいるらでんにはその表情から想像することしかできない。

 胸の奥にじりじりとした悔しさを抱えたまま、らでんもはじめの隣へぺたりと座り込んだ。

 

「……私も、今からもう一回やります!」

「おう、勝手にやれ」

 

 ジンは雑に返事をしながらも、やっと感覚を掴みかけたはじめの肩口からまだ視線を離していなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その夜遅く、一日中歩き回って疲れていたはじめは、布団に入るとすぐに寝息を立て始めた。部屋の隅で、掛け布団の膨らみが規則正しく静かに上下している。

 らでんは一人だけ部屋を抜け出して、宿舎の縁側に座っていた。山の夜気が火照った頬にひんやりと触れ、素足の裏に古い縁側の板の冷たさがじかに伝わってくる。

 膝の上に両手を置き、らでんはそっと目を閉じた。昼間ジンに言われた通り、頭で先に答えを作るのをやめて、何かを感じてから考えることにした。

 

 瞼の裏の暗がりの中に、今日ウロさんから聞いた《灯渡り》という言葉と、名前も残らないまま山を渡っていった人たちのこと、そして誰かから次の村へと繋いだ痕跡を自分たちが今まさに追いかけているのだという事実が浮かんでくる。

 毎朝の『方便』で自分の口から言っている「知りたい」という気持ちだけを胸の真ん中に置いて、ゆっくりと息を吸った。

 吸って、吐いて、強張っていた肩を落とす。

 すると、風なんか少しも吹いていないはずなのに、自分の頬のすぐ外側に、何かがふわりと触れているのに気がついた。

 

 薄くて、ほんのり暖かくて、確かに自分の皮膚の外側にある何かだ。

 らでんは反射的に目を開けそうになって、ぐっと堪えた。今ここで慌てて確かめにいったら、さっきのはじめみたいにすぐ散ってしまう気がする。

 見たい、捕まえたいと逸る気持ちを必死でなだめながら、頬に触れているその薄いぬくもりへ、首、肩、腕、胸、背中へと順番に意識を広げていった。

 ――これが、さっきはじめが言っていたもの? それとも、私がそう思いたいだけの勘違い?

 頭の中でいくつもの疑問がぐるぐる巡りかける。けれど、その考えを追いかけないようにした。無理に探しにいくのではなく、「そこに薄い何かがある」とただ受け入れるように呼吸を続ける。

 やがて、お湯の膜よりもずっと軽くて暖かいものが、自分の身体をぐるりと薄く包んでいる感触が繋がった。

 らでんは目を閉じたまま、夜の空気へ確かめるように小さく呟いた。

 

「……これ、ですか?」

 

 自分でも聞こえないくらい小さな声だった。

 それなのに、すぐ後ろの廊下からジンの低い声が返ってきた。

 

「そうだ」

 

 らでんはびくっと肩を跳ねさせて、思わず目を開けた。

 月の光が落ちる縁側で、自分の膝の上に置いた両手の輪郭が、ゆらゆらと陽炎のように揺れている。試しに指と指を少し離してみると、その隙間にも白く透き通った薄い光のようなものが、糸を引いて静かに流れていた。

 さっき頬で感じたあの暖かさが、今ははっきりと目に見える形を持って自分の手元にある。

 

「……っ、見える。ほんとに見えました!」

「おう、お前も目の精孔が一緒に開いたな」

 

 嬉しくて声の方へ勢いよく振り返り――そのまま、らでんの息がひゅっと止まった。

 縁側の奥の柱に、ジンがいつものように寄りかかって立っている。昼間と変わらないくたびれた服に、どこからでも動けそうでいて気の抜けた立ち方だ。

 けれど、そのジンの身体を、自分の手元の薄い膜とは比べものにならないほど深く、みっちりと密度のあるオーラが幾重にも包んでいた。自分の指先では今にも頼りなくほどけていきそうな流れが、ジンの周りでは少しも外へ散ることなく、深い水のように静かに、途切れなく巡り続けている。

 

「じ、ジンさん、それ、いつから……」

「あん? 俺は最初から何も変えてねえぞ」

 

 ずっと、こんなにすぐ近くにあったのだ。

 あの朝、白い霧の山道で皮膚ごと押し潰されそうになったあの見えない圧にも、今ならはっきりとした輪郭が見える。昨日も今日も、そんなとてつもないものを纏った人のすぐ隣へ、何も知らずに平気で近づいていたのは自分たちの方だった。

 もちろん、オーラが見えるようになったからといって、目の前のジンが一体どこまで何ができる人なのかまで分かったわけではない。それでも、もう昨日までと同じ「ちょっと乱暴で山歩きが得意なおっさん」として見ることは到底できなかった。

 

「……こんなの、もしこっちが何も知らないまま念能力者と戦ったりしたら」

「運が悪きゃ、訳も分からねえうちに死ぬ。だから最初に言ったろ」

「……はい」

 

 小さく頷いて返事をした、その時だった。自分の両腕を包んでいたはずの白い揺らぎが、端の方からふっと霧散していくのが見えた。

 ジンのオーラの凄さに気を取られて見惚れている間に、せっかく掴みかけていた自分の暖かさがほどけてしまったのだ。

 

「おい、よそ見すんな。今の感覚を逃がすなよ」

 

 言われて、らでんは慌てて両目を閉じた。

 

「あ、だめです、もう全部散っちゃいました!」

 

 焦れば焦るほど呼吸が浅くなり、指先の感覚が遠のいていく。

 

「散ったら、もう一回最初からやれ」

「そんな簡単に言わないでください!」

 

 半泣きで言い返しながらも、瞼は開けずに必死で息を整える。

 けれど不思議なことに、一度自分の肌で掴んだ感覚は、二度目はさっきよりずっと早く戻ってきた。皮膚のすぐ外に、薄い暖かさがふわりと浮かび上がる。

 

「ほら、すぐ肩に力が入る。力むな」

 

 ジンの声に、らでんははっとして肩の力を抜き、無意識に噛みしめていた奥歯を緩めた。

 

「息も止めるなよ。普通に吸って吐け」

 

 言われた通り、吸って、吐いて、呼吸の糸を途切らせないようにする。

 

「オーラを上から押さえ込むな。ただそこに留めとけ」

 

 らでんは目を閉じたまま、少しだけ眉をしかめた。逃がすまいとしてギュッと力を込めると、かえって指の間からすり抜けていくのが分かる。掌の力をほんの少しだけ緩めた。

 

「――そう。そこだ」

 

 ほんの数秒間だったけれど、確かに自分の身体の周りに暖かい膜がぴたりと留まった。

 そっと目を開けると、膝の上の掌を薄い光の覆いが包んでいる。嬉しさで息が弾んだ拍子にまた端からほどけていったけれど、今度は空へ流れて消えていくオーラの行方まで、自分の目でしっかり見届けることができた。

 

「……今、できました?」

「ああ、ほんの一瞬な」

「一瞬かぁ……」

「気落とすなよ、最初は誰だってそんなもんだ」

 

 からかうでも突き放すでもない、珍しく普通の声色だった。ジンは柱から背中を離すと、軽く手を振って部屋の奥へ戻りかける。

 一人残った縁側で、らでんは自分の手のひらを見つめたまま、ふっと小さく笑った。張り詰めていた目元の力が、ようやく柔らかく抜けていく。

 古い資料の謎を探しにこの山までやって来たのに、自分の皮膚のすぐ外側にも、まだ見たことのない世界がちゃんとあった。最初にサイトで『精孔』という名前を調べた時には、それだけで半分くらい分かったような気になっていたのに。

 やっぱり、文字で説明を覚えた時より、自分の手で少しだけ触れられた今の方が何倍も嬉しい。

 らでんは夜の縁側でもう一度だけあの暖かさを呼び戻そうと、静かに肩の力を抜いた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌朝、いつもの山道で二人が並ぶ前に、ジンが腕を組んで立った。

 昇り始めたばかりの朝日はまだ木々の間に低く、三人の足元から長い影が斜面に伸びている。

 ジンは二人の顔と、その身体の周りを順番に見渡した。

 

「よし。ひとまず二人とも、念の入口には立ったな」

「この『纏』ってやつ?」

 

 はじめが自分の腕を軽く動かしながら尋ねる。

 

「ああ。そいつは最終的に、意識しなくても四六時中ずっと維持できるようにする。慣れりゃ、夜寝てる間も勝手に保てるようになるぞ」

「ええー、寝てる時も? 今ちょっと気を抜いただけで消えるのに、無理そうなんだけど」

「最初から出来る奴はいねえよ。続けてりゃそのうち勝手に身につく」

 

 ジンは顎をしゃくって、これから自分たちが登っていく調査現場の山道を示した。

 

「だから、今日からは昼間の仕事中も、なるべくその『纏』を切らすな」

「えっ、蔵で資料を読んだり、山道を調査したりしながらずっとですか!?」

 

 らでんは思わず声を上げた。細かい崩し字を読み解き、崩れやすい足場を確かめ、メモを取る。その間ずっと、昨夜やっと数秒だけ留められたばかりの薄い暖かさを保ち続けるなんて、想像しただけで頭がパンクしそうだ。

 

「仕事しながらでも出来るようになるために、今からやるんだろ」

「じゃあさ、うちが踊りながらでもできるようになる?」

「おう、お前がそこまで慣れりゃな」

 

 ジンの返事を聞いて、はじめはぱっと顔を明るくし、靴底で地面の硬さを確かめるように軽く足踏みをした。

 

「よし、じゃあうち今日一日やってみる!」

「おい、本物の念ばっかり気を取られて、朝の『方便』も忘れんなよ」

「「はい!」」

 

 二人の揃った返事が、朝の澄んだ山の空気へ吸い込まれていった。

 するとジンは、そのまま足を止めずに言った。

 

「で、今日の朝の分は次へ進むぞ。二つ目、『絶』だ。よく見とけ」

 

 言葉が終わるより早く、すぐ目の前に立っていたジンから、ふっとすべての気配が抜け落ちた。

 姿が消えたわけではない。太い木の根のすぐ横に、さっきと同じように腕を組んで立っているのがはっきりと目に見えている。それなのに、昨夜から肌で感じていたあの分厚いオーラの圧が嘘みたいに消え失せ、後ろの杉林を揺らす風の音ばかりが急に耳元へ迫ってきた。

 

「……うわ、なんか変」

 

 はじめが気味の悪そうに目を細める隣で、らでんは思わず自分の両腕をさすった。

 

「目ではちゃんと見えてるのに、そこに誰もいないみたいです……」

「これが『絶』だ。身体から出るオーラを元から止める。全身の精孔を閉じて、外へこれっぽっちも出さねえ技術だ」

「ええと……『纏』が出したオーラを身体の周りに留める技術なら、『絶』はそもそも最初から外へ出さないってことですか?」

「そういうことだ」

 

 ジンがふっと息を吐いて元の『纏』に戻すと、同時に「目の前に手強い人間が一人立っている」という当たり前の感覚が、空気の重みと一緒に戻ってきた。

 はじめがほっとしたように肩をすくめ、大きく息を吐き出す。

 

「うわ、今のめっちゃ分かりやすいね。いきなり空っぽになったみたいだった」

「自分の気配を消して隠れる時や、疲労を早く抜きたい時に使える。それに、自分のオーラが周りで邪魔しなくなる分、外にある別のオーラにもずっと気づきやすくなる」

 

 言いながらジンがちらりとこちらへ向けた視線に、らでんははっとして顔を上げた。先日、沢の奥で見つけたあの黒い石柱と、素手で触れた時に胸の奥を引っ張られた感覚がとっさに蘇る。

 

「……! じゃあ、この『絶』を使えば、あの黒い石柱にあったのももっと分かりますか?」

「試してみるのはお前の勝手だ。ただし、絶対に一人ではやるなよ」

「え……どうしてですか?」

 

 ジンはもう一度、自分の胸元を指でトントンと叩いた。

 

「『纏』をしてる間は、いくら薄くてもオーラの膜で自分の身体を守ってる状態になる。だが『絶』は、その守りを自分から全部消すってことだ」

「えっ、じゃあ無防備の丸裸ってこと?」

 

 はじめがぎょっとしたように自分の胸元を見下ろす。

 

「だいたいそんなもんだ。もし『絶』の状態で念能力者から殴られたり悪意のある念をぶつけられたりすりゃ、普段より何倍もまともに食らって痛えぞ」

「……あの、それって『痛い』くらいで済むんですか?」

「相手によるな」

「もう、ジンさんのその濁す言い方ほんと嫌いです!」

 

 らでんはぷっと頬を膨らませて腕を組み直した。さっきまで今すぐ飛んでいって試したかったあの黒い石柱が、急に少しだけ遠くの怖いもののように感じられる。

 

「まあ、あえてその危ねえ状態を作る使い方もあるにはある。念ってのは、自分が背負ったリスクや縛りに応じて力を跳ね上げる性質があるからな。……もっとも、そんな応用は今はまだ覚えなくていい」

「うわ、またなんか物騒な話が出てきたよ」

「念なんてのは、だいたい最初からそういう物騒なもんだ」

 

 言い捨てるジンの声だけは、さっき気配を完全に消していた時と少しも変わらなかった。

 ジンは山道の脇に転がっている大きな岩を顎で指した。

 

「理屈は終わりだ。ほら、お前らもそこでやってみろ」

 

 はじめが岩の前へてくてくと歩きながら、不思議そうに首を傾げる。

 

「やってみろって言われても、どうやってやんの?」

「決まってんだろ、閉じるんだよ」

 

 らでんもはじめの隣へ並びながら、思わず声を張り上げた。

 

「だから、何をどう閉じるんですか!」

「全身の精孔に決まってんだろ」

「その閉じ方が分からないから聞いてるんです!」

 

 二人して睨みつけると、ジンは「ちっ」と頭を掻いてほんの少しだけ考えた。

 

「お前ら、昨日で一応『纏』はできるようになったよな」

 

 らでんとはじめは、顔を見合わせてから頷いた。

 

「なら、今自分の身体の周りに留めてるそのオーラが、元は身体のどこから湧いてきてるかを感じろ」

 

 言われて、らでんはゆっくりと目を閉じた。

 まずは昨夜掴んだ通りに、肩や腕や胸や背中のすぐ外にある、薄い暖かい膜へ意識を向ける。そして今度は、その膜の中へ自分の内側からずっと少しずつ流れ込んできている元の流れを探ることにした。

 絶対にここだ、という確信があるわけではない。かといってただの思い込みとも違う。自分の呼吸に合わせて、皮膚の表面から外へわずかな出入りがあり、留めているはずの膜が絶えず入れ替わって流れている。

 昨夜は外へ逃げないように留めることばかり考えていたけれど、こうして辿ってみると、確かに自分の内側から外へ向かって湧き出している箇所があると感じられた。

 

「出どころが分かったら、そいつを止めろ」

 

 らでんが様子を確かめようと薄く目を開けると、隣で目を閉じていたはじめが、ぎゅっと眉を寄せた。

 

「止めるって……水道の蛇口をキュッと閉めるみたいに?」

 

 言いながら、はじめが自分の右肩のあたりへ左手をぺたりと当てる。

 

「おう、お前がそれでやれるならそのイメージでいい」

 

 二人は並んで呼吸を潜め、自分の内側へと集中した。頭上の木々の葉擦れの音が少しずつ遠くなり、自分の鼻先を出入りする息の音だけが残る。

 先に変化が起きたのは、やっぱりはじめの方だった。

 すぐ隣に立っていたはじめの身体から、ふわりと包んでいた薄いオーラが内側へ引き、それと同時に「そこに人が立っている」という存在感まで急に薄くなった。すぐ横に肩が並ぶ距離にいるのに、そこだけ一人分ぽっかりと空気が軽くなったような感覚だ。

 

「……あ」

 

 はじめがぱっと目を開けた。

 

「ねえジン、今、ちょっとできた?」

 

 前に立つジンは、はじめの左肩のあたりを人差し指で差した。

 

「半分ってとこだな。肩の後ろからまだ漏れてるぞ」

「えっ、どこどこ? もう全部止まってない?」

「左肩の後ろだ。細い煙みたいにまだ残ってる」

 

 はじめは自分の背中側を見ようとして、ぐいっと首と肩を捻った。けれど、気になってそちらへ意識を向けた拍子に、せっかく閉じていた腕の方からもふわりとオーラが漏れ出してしまう。

 

 次は自分だ、とらでんは再び目を閉じ、もう一度深く息を吐いて、見つけたばかりの出口を内側からそっと塞ぐように意識を向けた。

 その瞬間だった。

 ――ぷつ、と何かが途切れて、周りの世界が一変した。

 最初に思ったのは「寒い」ということだった。けれど、山の朝の気温が急に下がったわけではない。今まで自分の全身を薄く守っていた暖かい毛布のような膜が消えて、素の皮膚がいきなり山の外気へじかに晒されたのだ。

 頬を撫でる風の粒がさっきよりずっと細かく感じられ、遠くの枝が揺れる音や鳥の羽ばたきまでが、すぐ耳元で鳴っているように鮮やかに飛び込んでくる。

 瞼を閉じて視界が暗い分、音と肌の感覚だけがむき出しになって前へ出ていた。

 そして何より――すぐ前に立つジンの存在を、痛いほどはっきりと感じた。目は閉じているのに、そこに巨大な熱の塊が立っているのが分かるほど、ジンのオーラが大きく迫ってくる。

 らでんはびっくりして、思わずぱっと目を開けた。

 

「……っ、うわあ!」

 

 差し込む朝日の光が、いつもよりずっと眩しく目を射た。

 

「ほら、驚いて切れたぞ」

 

 ジンの声に、らでんは慌てて全身の力を緩め、元の『纏』の膜を呼び戻した。薄い暖かさが皮膚の上へ戻った途端、むき出しだった世界の近さがすっと一段後ろへ退いていく。

 

「じ、ジンさん、今、目閉じてたのにジンさんのいる場所がめちゃくちゃはっきり分かりました!」

「だろ。言った通りだ」

「自分のオーラが消えたから、外のがそのまま入ってきたんですか?」

「ああ」

 

 隣で見ていたはじめも、目を丸くしてジンを見上げた。

 

「へえー、気配も消せて周りもよく分かるなんて、めちゃくちゃ便利じゃん!」

 

 その呑気な声を聞いたジンが、すっとはじめの方へ目を向けた。

 次の瞬間には、はじめの鼻先のすぐ前に、ジンの握り拳が突き出されていた。

 ほんの数センチ手前でピタリと止まっている。拳が切った風がはじめの鼻先と前髪を揺らしただけで、指先はどこにも触れてはいなかった。

 けれど、はじめの身体は反射的にカチンと凍りついていた。後ろへ引いた左足の靴底が、湿った山の土へ深く食い込んでいる。

 

「……っ、な、なに」

 

 ジンは表情一つ変えず、突き出していた拳をゆっくりと下ろした。

 

「もし今、お前が『絶』のままで、俺がここにオーラを乗せてたら、お前は今の拳を丸腰でまともに食らってたぞ」

「……っ、ほんとに殴ってくるなら、うちだって避けるし!」

「俺が本気で殴りかかってても、同じ口が利けるか?」

 

 静かに問い返されて、はじめはぐっと唇を噛んで黙り込んだ。

 さっきまでジンの拳があった何もない空間を見つめたまま、一度も瞬きをしない。

 

「いいか、便利なもんってのはな、大体そいつが便利な理由と同じくらい危ねえんだよ」

 

 横で息を呑んで固まっていたらでんは、ようやくジンの拳から視線を剥がして声を張り上げた。

 

「そ、そういう大事なことは先に言ってください!」

「だから今言っただろ」

「殴るフリをする前に言ってくださいってば!」

 

 らでんの抗議の声が山の木々に響き渡り、その声でようやく、はじめも張り詰めていた息をふうっと吐き出した。

 

 そこから、ジンの気まぐれで妙な実地訓練が始まった。

 

「よし、今から昼までの間に、この山の中で俺を見つけ出せ。範囲は下の沢から、先日見つけたあの石柱のあたりまでだ」

「ええっ、沢から石柱って、山の範囲が広すぎます!」

 

 らでんが慌てて抗議したけれど、言い終えるより先に、目の前のジンがふっと掻き消えていた。

 声の残っていた方角へ振り向いた時には、もう草木が揺れているだけで影も形もない。

 

「……うわ、ほんとに消えた」

「消えたっていうか、逃げたんだよ。あの人、絶対半分遊んでると思う」

 

 二人は並んで、朝の深い山林を見渡した。どこまでも杉の木立と落ち葉の斜面ばかりが広がっている。

 ひとまず、習ったばかりの念を動かしながら探してみることにした。

 歩き出しながら、はじめがさっそく『絶』を試して気配を薄くしてみたものの、足元の木の根をまたいだ拍子に数秒で切れてしまい、すぐに元の『纏』へと戻ってしまう。

 はじめは少し肩で息をして、悔しそうに眉を寄せた。

 

「どう、歩きながら続けるのってやっぱり難しい?」

「うん、めちゃくちゃ難しい。足元に気をつけるとすぐ漏れちゃう」

「だよね、私も。これ、ほんの少しでも別のことに気が散ったら駄目なやつだ」

 

 らでんも立ち止まって何度か精孔を閉じかけたが、枝が頬をかすめるだけですぐに暖かい『纏』へ戻ってしまった。

 それでも諦めずに斜面をしばらく歩いていくと、湿った落ち葉が靴底の下で沈み、低い枝が肩を撫でる。

 前を歩いていたはじめが、ふいにぴたりと足を止めた。

 

「あ、らでん、こっちだ」

「えっ、もう気配が分かったの?」

「ううん、気配じゃなくて足跡!」

 

 言われてらでんも足元の地面を見下ろしたけれど、落ち葉の隙間から見える黒土はほとんど乱れておらず、どこも同じ色の地面にしか見えない。

 

「え、どこ? 全然分からないけど」

「ほら、ここ。この木の根っこの横だけ、土の端っこが新しく潰れてるでしょ」

 

 はじめがしゃがみ込んで指差した場所をよく見ると、確かにそこだけ湿った土の縁が靴の重みでわずかに沈んでいた。

 

「これ、ジンさんの足跡かな?」

「たぶんね。うちらが今歩いてきたのとは別の向きだし」

 

 らでんも隣にしゃがみ込み、鞄から自分の端末を取り出した。

 

「ちょっと待って、靴底の跡なら、前に撮った写真と比べられるかも」

 

 湿った土の冷たさが膝頭に伝わるのも構わず、端末の画面で石柱の現場で撮った記録写真を呼び出す。何気なく撮った全景写真の端の方に、近くで立っていたジンの靴元が偶然写り込んでいたはずだ。

 画面を二本指でぐっと拡大すると、泥のついた靴底の溝の形がはっきりと見えた。横から画面を覗き込んできたはじめが、感心したように目を丸くする。

 

「うわ、ほんとだ、端っこの溝の潰れ方がそっくり! ネットに強い人って、写真もこういう使い方するんだね」

「ふふ、これも大事な現地調査の基本だからね!」

 

 少し鼻を高くして端末をしまい、二人はそのわずかな踏み跡を辿って斜面を登った。

 けれど、しばらく追ったところで、頼りの足跡がぷっつりと途切れた。柔らかい腐葉土の地面がゴツゴツした岩場に変わり、靴底の沈み込みが残らなくなったのだ。

 どこへ行ったんだろう、とらでんが周囲を見回した時、隣のはじめがすっと真上の木を見上げた。

 

「……これ、上から行ったんじゃない? 木に登ったとか」

「ええっ、また上から?」

 

 つられて頭上の枝を見上げ、目を細める。すると、手の届かない高さにある横枝の小枝が一本ぽきりと折れ、近くの樹皮に靴底で擦ったような新しい跡がついていた。折れた枝の断面がまだ白くて新しい。

 

「……ほんとだ。ねえ、まだ念がうまく使えなくても、こういう現場の手がかりからやれることって結構あるね」

「うん! むしろさ、いくら『絶』でオーラの気配は消せても、歩いた足跡や折れた枝までは消せないんじゃない?」

 

 はじめの言葉に、らでんはもう一度岩の脇に残っていた靴底の沈みを見直した。見えない力ばかりがすごい気がしていたけれど、生身の人間が山を動けば、ちゃんとこうして物の跡が残るのだ。

 

「よし、この枝の向きなら、あっちの奥だよ」

 

 はじめが木の根元の擦れ具合を手で撫でて確かめ、迷いなく先頭を切る。

 そのまま枝の跡を追ってさらに奥へ進むと、やがて昔使われていたらしい古い炭焼き小屋の跡に出た。

 崩れかけた石組みがあるだけで、周囲には誰もいない。炭で黒くなった土の上を、山の風が静かに通り抜けていく。

 けれど、その黒い地面のど真ん中に、折れた木の枝を何本か並べて作った『矢印』がわざとらしく置かれていた。枝を置いたばかりのようで、周りの土がまだ新しく寄っている。

 

「……ねえ、これ、私たち完全に煽られてない?」

「うん、絶対煽られてるね」

 

 呆れを通り越してむっとしながらも、らでんは念のためその枝の矢印もパシャリと写真に収めてから、矢印の指す方角を睨んだ。

 矢印の先にある浅い沢をじゃぶじゃぶと渡ると、向こう岸で細い山道が左右の二つに分かれていた。沢の冷たい水が靴の隙間から足首に触れ、靴下の先にひんやりとした湿り気が残る。

 見回してみたけれど、石ころだらけの岸辺には、もう足跡も折れた枝も見当たらなかった。

 

「うーん、ここからどっちに行ったんだろ」

 

 立ち止まったはじめの声に、らでんも左右の道を交互に見比べた。

 右の道は杉の木立が密に茂って薄暗く、左の道は少しだけ空が開けて明るい。どちらも人が一人通れるくらいの幅はあって、風も同じように吹き抜けており、目に見える手がかりだけでは決め手がなかった。

 らでんは一度息を吐き、その場でそっと目を閉じた。

 さっき習ったばかりの『絶』なら、自分のオーラが邪魔をしない分、周りのわずかな違いが拾えると言っていた。もしかしたら、どちらかを選べる手がかりが分かるかもしれない。

 全身の精孔をキュッと閉じるイメージを持つと、すっと身体の表面が冷たくなり、代わりに山の音と空気が一歩近くへ寄ってきた。

 風に揺れる木々のざわめき、後ろで流れる沢の水音、草むらの小さな虫の気配。それらを順番にやり過ごすうちに、右側の暗い木陰の奥にだけ、ごく薄い「何か」が留まっているのを感じた。

 そこだけ、ただの草木とは違う生き物の空気が混じっている。

 

「……はじめ、右の方になにかいるかも」

「えっ、ジンがいた?」

「ジンさんかどうかまでは分かんない。でも、右の奥になんか気配がある」

 

 二人は顔を見合わせて頷き、右側の薄暗い小道へと踏み込んだ。低い枝に服を引っかけないよう身をかがめ、なるべく乾いた落ち葉を避け、音を立てないように慎重に進む。

 けれど、五分歩いても、十分歩いても、道には誰の姿も見えなかった。

 だんだん登り坂で息が上がり、らでんは足を止めて肩を落とした。

 

「……あれ、もしかして外したかな」

「うーん、さっきの矢印からして逆だったかも……」

 

 二人が顔を見合わせてため息をつきかけた、ちょうどその時だった。

 真上の梢から、退屈そうな低い声が降ってきた。

 

「遅えよ」

 

 二人は弾かれたように同時に真上を向いた。首の後ろが痛くなるほど反らして見上げると、頭上の太い横枝の上に、ジンが片膝を立てて寝転がるように乗っていた。

 ジンが身を起こすと、太い枝がぐっとしなり、周囲の葉がざわざわと揺れる。

 

「い、いたーっ!」

「もう、なんであの人、いっつも木の上ばっかりにいるの!?」

 

 二人が声を揃えて叫ぶ間に、ジンは枝からひょいと飛び降りてきた。靴底が地面を踏み、乾いた土埃がふわりと舞う。

 ジンは膝の土を払いながら、真っ先にらでんの顔を見た。

 

「おい、らでん。お前、さっきの分かれ道でなんでこっちの右が分かった?」

「え? あ、なんとなくですけど……あそこで『絶』にしてみたら、こっちの右側に何かいる感じがしたんです」

「ほう。だがな、俺は木の上でずっと『絶』をしてたぞ」

 

 さらりと言われて、らでんはぴたりと動きを止めた。

 

「……え? じゃあ、さっき私が感じたのって、ジンさんじゃなかったってことですか?」

 

 てっきり自分の『絶』でジンの気配を捉えたのだとばかり思っていたのに、一気に顔から耳の先までがカッと熱くなった。

 

「ああ、俺じゃねえよ」

「えっ、じゃあ、らでんはあそこで何を感じたの?」

 

 不思議そうに尋ねるはじめに、ジンは無言で顎をしゃくって右奥の深い木陰を示した。

 二人がそちらへ目を凝らすと、シダの葉の陰から、茶色い毛並みをした小さな山の獣がひょっこり顔を出してこちらを見つめていた。ぱっちりと目が合い、獣は警戒したように耳だけをピクリと動かして固まっている。

 

「……あ」

「お前がさっき拾ったのは、俺の気配じゃなくてあっちのチビの気配だ」

 

 指摘されて、らでんは自分の頬がりんごみたいに赤くなるのを感じた。せっかく格好よく『絶』で当てたつもりだったのに、見つけたのが小さな動物だったなんて、恥ずかしくてその場にしゃがみ込みたいくらいだ。

 けれど、ジンは笑わずに言葉を続けた。

 

「だが、今はそれでいい」

 

 思わぬ言葉に、らでんは熱い頬のまま顔を上げた。

 

「最初から、自分の都合よく欲しいもんの気配だけ綺麗に拾えると思うな。自分のオーラを消したら、今まで見落としてた周りのもんが何でも一気に入ってくるようになる」

 

 隣で小動物を眺めていたはじめが、ジンを振り返って尋ねる。

 

「何でもって、山の中のいろんなものがいっぱい入ってきちゃうってこと?」

「ああ。まずは全部入ってくる。そっから先は、どれが何の気配なのかを自分の身体で一個ずつ覚えていくしかねえんだ」

 

 それだけ言うと、ジンはもう二人に背を向けて、来た道の方へさっさと歩き出していた。

 振り返りもせずに、肩越しにひらひらと片手を振る。

 

「よし、今日の朝の修行はここまでだ。終わり!」

「えっ、まだお昼前ですけど!?」

「昼からは本来の仕事があるだろ。さっさと戻って仕事しろ」

「うわ、切り替え早っ!」

 

 呆れるはじめの横で、らでんはもう一度だけシダの陰の小さな獣を振り返ってから、慌ててジンの背中を追いかけた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 昼食を挟んで、午後からは本来の現地調査に戻った。今日の調査範囲は、昨日まで歩いていた旧道のさらに尾根を越えた山向こう側だ。

 役場や蔵から出てきた古い地図を何枚か持参していたけれど、肝心の道はどれも途中でぷっつりと途切れていた。長い年月で紙の端が擦り切れ、何度も折り畳まれた折り目が白く毛羽立っている。

 三十年前に測量して作られた比較的新しい地形図には、そもそもこの尾根道の存在自体が載っていなかった。ただ一枚だけ、百年前に村で手書きされたという古い山林図の上に、か細い墨の線が一本だけ引かれていた。

 その線はひどくかすれていて、指先でそっとなぞると途中で見えなくなりそうなほど薄い。

 それでも目を凝らして辿っていくと、現在《渡り灯》が見つかったこの集落から高い尾根を一つ越え、さらにもう一つ向こう側の深い谷へと線が続いていた。

 山林図の端で、らでんの指先がぴたりと止まった。

 

「……あ、これ」

 

 古い和紙の乾いた冷たさが指の腹に残る。

 横から一緒に地図を覗き込んでいたカルドも目を細め、かすれた線の行き着く先に書き込まれた米粒ほどの小さな文字を見つけた。

 

 ――《灯守屋敷跡》。

 

「……『灯守(ひもり)』、ですか」

「ねえ、それって人の名前?」

「ううん、たぶん名前じゃなくて、何かを守る『役目』の名前じゃないかな」

 

 らでんが胸を躍らせて顔を上げると、後ろからひょいと肩越しに地図を覗いたジンが、その文字を一瞬だけ見た。

 何も言わない。ただ視線だけをすっと動かして、すぐに古い紙の上から目を離した。

 らでんはすかさずジンを見上げて尋ねた。

 

「ジンさん、この《灯守屋敷跡》って知ってますか?」

 

 ジンは山林図のかすれた線を指先で軽く弾いた。

 

「いや、知らん。今の地図とまるで合ってねえから、どこにあるのか場所も分からねえしな」

 

 ジンが「知らん」「分からない」とはっきり口にするのを聞いて、らでんは思わず胸の奥が弾んで嬉しくなった。いつもみたいに「見りゃ分かる」とはぐらかすのではなく、本当にまだ知らない場所を前にした声だったからだ。

 らでんは両手で古い山林図をぐっと自分の前へ引き寄せた。

 

「じゃあ、今からみんなで一緒に探しましょう!」

「あん? なんで俺が一緒なんだよ」

「なんでって、ジンさんだってこの屋敷跡が何なのか知りたいんでしょ?」

「まあ、そりゃ知りてえが」

「私もすごく知りたいです! なら一緒の方がいいじゃないですか」

 

 真っ直ぐ見上げて言い切ると、ジンは「やれやれ」というように肩をすくめ、それからにやりと口の端を上げた。

 

「なら、誰が一番先にあの屋敷跡を見つけるか、競争な。先に見つけた奴の勝ちだ」

「ええっ、共同調査なのに競争なんですか!?」

「あ、それいいじゃん! うち負けないよ!」

「ちょっと、はじめまで乗らないでよ!」

 

 けらけらと笑うはじめの横で、らでんは風に煽られそうになった山林図の端を慌てて両手で押さえた。

 そこから、百年前の手書き山林図と、今目の前に広がっている実際の山の地形を一つずつ照合していく作業が始まった。

 カルドが持っていた村の災害記録によれば、今から四十七年前に一度、この山域で大きな斜面崩落が起きたという記録が残っている。そのせいか、谷底を流れる川の位置が、昔の山林図と現在の地形とでは大きく変わっていた。旧道が途中で消えてしまった理由も、きっとその崩落のせいだろう。

 紙の上の細い線と、目の前に落ち込む深い谷の斜面を何度も交互に見比べると、どうやっても位置が噛み合わずにずれてしまう。

 谷の縁に立って下を覗き込んでいたはじめが、足元の土を靴底でトントンと確かめながら振り返った。

 

「ねえらでん、この谷さ、昔は今よりずっと浅かったんじゃない?」

 

 その一言に、らでんは手元の古い山林図をくるりと斜めに回して見直した。

 

「……あっ、そっか! 四十七年前の崩落で谷が深く削れたんだとしたら、この《灯守屋敷跡》の場所も、今の道や谷の深さを基準にして探したら全部ずれて見えちゃうんだ!」

 

 回した山林図の古い紙の端が、谷から吹き上げてきた風を受けてぱたぱたと鳴った。

 すぐ隣でそのやり取りを聞いていたジンが、楽しそうに喉の奥で少し笑った。

 

「へえ、やっと調査が面白くなってきたじゃねえか」

「もう、この調査は最初からずっと面白いです!」

 

 言い返しながら笑ったものの、らでんの視線はもう次の瞬間には山林図の等高線へと戻っていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 山の端に日が傾き始めたところで、その日の現地調査は一旦切り上げになった。

 宿舎へ戻る帰り道、先日見つけたあの黒い石柱のすぐ近くを通りかかると、らでんの足が自然と止まった。

 傾いた西日の届かない岩壁の下だけ、空気が一段ひんやりと冷たく感じられる。

 前を歩いていたジンが足を止め、らでんを振り返って言った。

 

「なんだ、やってみるか?」

「……『絶』で、ですか」

 

 らでんは石柱の黒ずんだ根元を見つめたまま、すぐには頷けなかった。

 つい今日の昼前、自分は『絶』で拾った小さな獣の気配を、てっきりジンの気配だと思い込んで大恥をかいたばかりだ。もし今ここで石柱から何かを感じ取ったとしても、自分が今まさに知りたがっている《灯渡り》の答えに、勝手に都合よく結びつけてしまうかもしれない。

 それに、朝ジンから散々脅かされた通り、『絶』になれば自分の身を守る薄い『纏』の膜もすべて消えてしまう。

 あの石に何が残っているのか知りたい気持ちは少しも変わらない。けれど、それを知るために自分が今何を外そうとしているのかは、最初に触れた時や今朝よりもずっと具体的に分かっていた。

 らでんはまず、自分の皮膚のすぐ外に薄い『纏』の暖かさがあることを確かめた。何かあってもすぐこの膜へ戻せるように一度深く息を吸い、それから「……はい、やってみます」と答えた。

 

 ジンがいつでも手を出せるすぐ真横に立ち、先を歩いていたはじめも「うちも見てるよ」と反対側へ戻ってきた。二人の頼もしい足音がすぐ隣で揃って止まる。

 らでんは黒い石柱の前に立ち、ゆっくりと呼吸を整えてから、身体を包んでいた『纏』をほどき、全身の精孔を内側から閉じた。

 ――『絶』に入る。

 途端に皮膚の上の守りが消え、周囲の山の気配がじかに肌へと迫ってきた。どんどん感覚が研ぎ澄まされ、耳も肌も鋭敏になっていく。世界の方がこちらへ一歩近づいてきたような、あるいは自分自身が暗い山の空気の中へ溶け込んでいくような感覚だった。

 その静けさの中で、目の前の古い石柱の輪郭が、最初に素手で触れた時よりもずっとはっきりと浮かび上がってきた。周りの岩や木々とは違う。その石柱の根元にだけ、やはり何かが残っている。

 ひやりと冷たいのに、ただの山の冷気ではない。まるでピンと張った細い糸のような感触が、石柱に留まるのではなく、さらにその先の深い山の奥へと向かって伸びているようだった。

 

――――――

 

 閉じた瞼の裏の暗がりに、夜の暗い山と、いくつもの小さな灯がぼんやりと浮かび上がった。

 

――――――

 

「……あっ」

「おい、何が見えた」

「……こっち、です」

 

 目の前の石柱で終わりではなかった。この石柱を通り過ぎて、さらに山の向こう側へと何かがずっと続いていると感じた。らでんは目を閉じたまま、無意識に尾根の向こう側へと顔を向けていた。

 

「ここから、山の向こうへ何かが続いてます」

「続いてるって、さっきの古い道が?」

「道かどうかは、分かんない。でも……」

 

 らでんは瞼を閉じたまま、逃げそうになる細い感覚をもう少しだけ追った。

 

――――――

 

 揺れる灯は前に見た時より暗く、その周りを歩く人影には前に見た時以上に顔も輪郭もなかった。けれど、たった一つだけ、最初に手で触れた時とは決定的に違って感じられることがあった。

 あの人影は、山の向こうからこの村を目指してやって来ているのではない。この村の脇を、ただ通り過ぎていっている感じがしたのだ。

 小さな灯を誰かから手渡され、また次の場所へ、さらにその次の場所へと運んでいく。どこか一つの村に留まってお祭りをするような空気ではなかった。

 

――――――

 

 らでんはそこで意識を切り、閉じていた精孔を開いてすぐに暖かい『纏』の膜を身体の周りへ戻した。

 目を開け、夕闇の迫る山向こうの尾根を見上げながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 

「……やっぱり、この村のお祭りだけじゃ、全部は説明できないかもしれません」

 

 今自分が感じたばかりの曖昧な光景と、昼間の資料から考えた推測とを、頭の中でごちゃ混ぜにしないための慎重な言い方だった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その夜の宿舎の机の上には、ここ数日で集まった資料がずらりと並んだ。広げた紙と紙が重なり合い、机の端からはみ出している。

 百年前の山林図にあった《灯守屋敷跡》の文字。昨日ウロさんが話してくれた《次の村へ渡した》という証言。山中の石積みに刻まれた文様、土蔵のB-14《渡り灯》、そして尾根を越えて山向こうへと続く一本の古い道。

 古い和紙の匂いと窓から入る夜気の中で、らでんは調査ノートの新しい頁を開き、丁寧な字で書き留めた。

 

【仮説】

《渡り灯》は渡火祭固有の祭具ではない。

より古い時代、複数集落間を移動する「灯渡り」に用いられた可能性。

 

 そこまで書いてから、そのすぐ下に少し大きな文字で続けた。

 

”誰が運んだ? 何のため? なぜ最後の一基だけ、この村に残った?”

 

 書き終えて、らでんはようやくペンを止めた。ずっと力を込めて書いていたせいで右手がじんじんと痺れ、肩のあたりがすっかり凝り固まっている。

 朝よりも、分からない謎は確実に増えていた。それなのに、ノートを見下ろすらでんの顔は自然とほころんで笑っていた。

 布団の上でストレッチをしていたはじめが、ひょいと横からノートを覗き込んでくる。

 

「なんか、らでんめっちゃ楽しそうだね」

「うん、すごく楽しい!」

「えー、だって最初より分かんないことばっかり増えたのに?」

「うん、分かんないことが増えたからだよ」

「あはは、なにそれ、変なの」

 

 二人が顔を見合わせて笑っている後ろで、部屋の入口にジンが静かに立っていた。

 ジンは二人のやり取りを聞いて、ほんの少しだけ口元の端を上げた。結局、言葉は何もかけないまま、開かれたノートの上へ一度だけ視線を落とす。

 

 ただ、翌朝らでんが目を覚ますと、机の上に広げっぱなしだったノートのすぐ横に、一枚の古い地図の写しが無造作に置かれていた。

 古い紙の端がくるりと丸まり、窓から差し込む朝日の光を受けて白く浮き上がって見える。

 昨日まで土蔵でも見かけた覚えのない地図だった。そこには、今調べている尾根のさらに山向こうにもう一つの集落が描かれていて、そのすぐ脇に、小さな文字でこう書き添えられていた。

 

 ――《灯の宿》。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。