儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第十八話 身体に残る

 翌朝、らでんはノートの横に置かれていた《灯の宿》の写しを握って外へ出た。

 紙の端が指に食い込む。早くジンに見せたかった。

 

「ジンさん!」

 

 返事はない。

 宿舎の裏まで回ってもう一度呼ぶ。

 

「ジンさん!!」

「うるせえ!」

 

 井戸の横で、ジンは顔を洗っていた。

 水を跳ね上げる手つきが普段通りなのに、らでんの胸だけが落ち着かない。

 

 らでんは写しを突きつけた。

 

「これ!」

 

 ジンは手を止める。

 

「何」

「《灯の宿》!」

「ああ」

 

 顔を拭きながら、受け流した。

 

「どこで見つけたんですか!」

「役場の倉庫」

 

 らでんは、手の写しを見て動きを止めた。

 

「……役場?」

「昨日、行った」

「いつ!?」

「お前らが絶やってる間」

 

 絶の練習をしている間に、ジンは別の手がかりを探していたのだ。

 はじめが寝癖のついた髪のまま現れ、写しを覗いた。

 

 ジンが紙の端を指した。

 

「でも、これだけじゃ場所は特定できねえぞ」

「分かってます」

「じゃ、行くか」

「え」

「探すんだろ?」

「はい」

「なら、朝飯食って七時に出る」

 

 置いていかれたと思った焦りがほどけ、山へ向かう足が落ち着かなくなった。

 

 はじめが言った。

 

「今日は普通の時間だ」

「朝5時みたいな早朝じゃないんですね」

「昨日は夜遅かっただろ」

「そこはちゃんと寝るんですね」

 

 ジンが肩をすくめる。

 

「寝るだろ」

 

 無茶を言うくせに、休む時刻は決めているらしい。

 

 地図は古い紙で、端が破れていた。

 広げるときに指先でそっと押さえないと千切れそうで、らでんは無意識に息を止めた。

 山や川や道や建物が描かれているが、ただ縮尺が怪しい。

 《灯の宿》を現代地図に合わせるのは難しく、重ねても線がずれて目が定まらない。

 

 ジンが地図の川筋に指を置いた。

 

「ここみろ。川の場所が違う」

「ですよね。今の本流はここで、昔の地図だとこっちになってます」

「川って動くことあるの?」

「動く。土砂崩れ、洪水が本命。時間の経過で、人や獣が流路を変えることもある」

 

 はじめは二本の線を見比べた。

 らでんも、どちらを起点に探せばいいのか、迷う。

 

 らでんは古地図を回し、川から山の稜線へ指を移した。

 

「じゃ、山の形を基準にするしかない?」

「山も崩れるぞ」

「全部動くじゃないですか!」

「だから、現地行くんだろ」

 

 ジンは地図を畳んだ。

 紙の上で合わない線を、今度は足で確かめる。

 

---

 

 七時、ジン、らでん、はじめの三人で旧道へ入った。

 先頭のはじめは足場を迷わず選ぶ。

 らでんが追い、その背中にジンの声が飛んだ。

 

「飛ばしすぎんなよ」

「分かってる」

「ならいい」

 

 はじめの歩幅を確かめたジンは、追い立てずに後ろへ戻った。

 

 しばらく登ると、分岐でジンが足を止めた。

 

「ここだな」

「何です?」

「今?」

 

 足を止め、二人がジンを見た。

 

「今だ。昨日は絶やっただろ」

「ああ」

「はい」

「今日は逆。出せ」

 

 ジンは自分の胸を指す。

 らでんもつられて胸に手を当てた。

 

「何を」

「オーラ」

「あ」

 

 はじめには先に意味が分かったらしい。

 らでんは分岐の向こうを見た。

 

「調査の途中なんですけど」

「だからだろ」

 

 ジンは道脇の空き地へ入った。

 二人も続く。

 

「練。精孔から普段よりずっと多くオーラを出す」

「纏と何が違う?」

「纏は出てるもんを身体の周りに留める。練はもっと出す」

「いっぱい?」

「ああ。ただし、出しただけじゃ散る。纏も同時にやれ」

「急に二つ!」

「だから、練習なんだろ」

 

 ジンは二人を見渡し、閉じていた手を開いた。

 

「昨日、絶で閉じる感覚を覚えた。なら、逆に全部開く」

 

 昨日の感覚が身体に残るうちに、逆を試させるつもりなのだ。

 

 はじめは目を閉じ、らでんは真似をした。

 自分の身体を薄く包む纏を意識し、その内側を巡るオーラと、全身の精孔へ意識を向けた。

 昨日は閉じた。今日は開く。

 オーラが穴に吸い込まれるイメージを、そして、穴がどんどん広がるイメージを、強く、もっと強く。

 もっと、と念じるほど意識が内側へ沈んでいった。

 

 はじめが先に変わった。

 

 らでんは目を開けた。

 オーラはまだ見えないのに、はじめの周りの空気が厚くなったようで、圧だけが増していた。

 らでんは目を疑った。

 

 はじめは自分の腕を見下ろした。

 

「……出てる?」

「出てる。もっと」

 

 はじめが眉を寄せると、周りの圧が増した。

 ジンが片手を上げる。

 

「力むな」

「力入れないと出ない」

「そのうち出る」

 

 はじめは半信半疑の顔で、もう一度呼吸を整えた。

 

 次はらでんの番だった。

 出す、と意識を向けても身体がついてこない。

 

「出ない」

 

 ジンが肩のあたりを覗き込む。

 

「出てる。え? 少なっ」

「言い方!」

 

 はじめが笑う。

 らでんは実感がないまま、出せているらしいものの少なさに焦った。

 

「もっと、出すって決めろ」

 

 らでんは腹の底へ意識を落とした。

 

 方便の念を思い出す。

 

 点、知りたい。舌、灯渡りの由来。錬、絶対見つける。発、今動いてる。

 

 言葉にしていたことが支えになった。

 ここで基本から。

 

 らでんは息を吸って出した。

 暖かさが肌から少し離れて広がった。

 らでんの声が弾む。

 

「あ」

 

 ジンがうなずいた。

 

「それ」

 

 要領をつかんだ。嬉しかった。

 一気に出そうとして軸がぶれ、はじめが支えた。

 はじめの腕を借りて立ち直る。

 

「危な」

「やりすぎ」

 

 らでんは肩のあたりを確かめた。

 

「今、増えた?」

「増えた」

「じゃ、成功?」

「ざっと三秒間」

「短っ!」

 

 増えた手応えに三秒の短さで力が抜けた。

 

 ジンはらでんの足元を見ていた。

 

「最初から長くやるな」

「何で」

「疲れる」

 

 はじめも自分の呼吸を確かめる。

 

「どれくらい?」

 

 ジンは肩をすくめた。

 

「人による」

「またそれ!」

 

 答えになっていないようでいて、身体で確かめるしかなかった。

 

 練は五秒やって休み、また五秒と、短い瞬間瞬間を繰り返した。

 出しては戻すうちに呼吸が荒くなる。

 はじめのように出したくて、気づけば肩まで力んでいた。

 同じ説明を聞いたのに、身体の返事はこんなに違う。

 さっき増えた時、自分はどうしたのだったか。

 次は隣を見ず、肌から少し離れた暖かさを思い返した。

 掴むまでには時間がかかる。それでも、その厚みをなぞると、もう一度出せた。

 

 ジンは二人を見比べ、はじめを指した。

 

「お前は出すの早い」

 

 次にらでんを見る。

 

「お前は出した後、形崩れにくい」

 

 さっきからはじめの練の方が優れてるのかと思っていた。自分のオーラより明らかに大きかったから。

 らでんは身体の周りを見下ろした。

 

「それ、いいんですか?」

「悪くない」

 

 短い返事だったが嬉しかった。

 量では負けても保てることが自分の得意な部分なんだと分かった。

 

 はじめが自分を指す。

 

「うちは?」

「雑」

「え!」

「量は出る。でも、漏れてる」

「どこ」

「背中」

 

 はじめは背中を振り返った。

 

「見えん」

 

 ジンは笑う。

 

「そのうち見える」

 

 見えない背中を言い当てられて、自分の身体を探った。

 

 何度か練を繰り返して三十分、

 ジンは手を叩いた。

 

「終わり」

「もう?」

「仕事すっぞ」

 

 はじめはまだ息を整えている。

 

「ほんとに同時にやるんだ」

「念だけ覚えて何すんだ」

 

 息がまだ荒いまま調査に戻ることに、身体が切り替わらない感じがした。

 

 調査に戻って古地図と現在地を照合した。

 《灯の宿》の候補は三つあった。

 一つ目は旧道の平場で何もなく、二つ目は沢の近くで炭焼き跡と違った。

 三つ目は尾根の少し下で石が積まれ、人工の気配に三人の足がそろって止まった。

 

 はじめが先に見つけた。

 

「これ」

 

 らでんは近づいた。基礎があり、建物があったのだ。

 小さく、民家より小さいが、小屋より大きかった。

 中途半端な大きさが何のためか分からず、らでんは周りを見回した。

 

 カルドは石積みに目を落とした。

 

「建物跡だな」

 

 らでんは周りを見た。

 入口はどっちか。水は近い。

 旧道はすぐだった。頭の中で条件を一つずつ確かめた。

 らでんは旧道の方を振り向いた。

 

「宿?」

「まだ分からん」

「珍しく慎重」

「いつも慎重だ」

 

 三人が声を上げた。

 

「え?」

「何だよ」

 

 調査を始めて石の基礎を測り、柱の跡を探し、灰の土を見た。

 手を動かすほど建物の輪郭が少しずつ戻ってきた。

 はじめは周囲を歩いて急に止まった。

 はじめがしゃがみ、らでんを手招きした。

 

「らでん」

「何?」

 

 はじめが地面を指した。

 

「これ」

 

 細い溝があり、円になっていた。

 踏まれた土の色が周りとだけ違って見えた。

 

 らでんはしゃがんだ。

 

「何だろ」

「人がここで回ってたのかな?」

 

 らでんは溝を指で追った。

 

「何で?」

「地面、ここだけ踏まれてる感じ」

 

 踏まれた感じという身体の言い方に納得しかけた。

 ジンが近づいてしゃがんで見た。

 

「古いな」

 

 らでんが口を挟んだ。

 

「儀礼?儀式でつかった場所ですかね」

 

 ジンは円の縁を見たまま首を振った。

 

「決めつけんな」

 

 らでんは決めつけたい気持ちを止めた。

 

「はい」

 

 さらに建物跡の端に小さな石が一個、二個、三個と並んでいた。

 数えるほど意図がある気がした。

 角の線と中央の小さな円がはっきりし、渡り灯と同じだった。

 写真を撮る。資料として残しておく。

 

「同じ」

 

 はじめは石と渡り灯の写真を見比べた。

 

「じゃ、ここ、灯の宿?」

 

 言い切りたい気持ちを抑えて、らでんが答えた。

 

「そういう可能性があります」

 

 ジンが一瞬笑った。

 

「ちゃんと可能性って留めておけるようになったな」

「誰のせいですか」

 

 注意され続けた成果を感じた。

 

---

 

 昼、古い建物跡の横で食事をした。

 石の冷たさが背中に残る場所で、身体を休めながら話した。

 はじめはパンをかじりながら言った。

 

「灯の宿って何したとこなんだろ」

 

 らでんはノートを見て確認した。

 聞き取りメモ、文献、地図。

 そして実際確認した場所。

 

「休憩? 宿って泊まるところじゃない?」

 

 名前だけでは用が読めない。

 その時、ジンがパンを置いて言った。

 

「後になって言われだした呼び方かもな。灯を渡す場所だった可能性もある」

 

 らでんは顔を上げた。

 ジンが続けた。

 

「ここ、村と村のちょうど中間くらいだろ」

 

 ジンが古地図を置いた。確かに山を越える途中だった。

 ジンの指が二つの村の中間で止まった。

 

「運ぶ奴、ここで交代した?」

 

 はじめは道を目でたどった。

 

「リレー?」

 

 らでんも続いた。

 

「……リレー」

 

 灯を持って歩き、渡し、次が歩く動きが見える気がした。

 らでんは地図から顔を上げた。

 

「でも、何のため?」

 

 動きが見えても理由は分からなかった。

 ジンが止めた。

 

「そこだな」

 

---

 

 午後、崖下で地面の下を流れる水音が聞こえた。

 ジンが土を払うと、平たい石の下に細い水路が残っていた。

 カルドは上の湧水を確かめる。

 宿跡の候補に水があることだけを記録し、用途は決めなかった。

 

 建物跡へ戻る途中、はじめが地面の金具を見つけた。

 

「触る前に!」とらでんが止め、位置を撮影する。

 

 小さな吊り金具の裏には、文字にも見える印があった。

 

「何の印ですか」

「知らん」とジン。

「ジンさんでも?」

「知らねえから来てんだろ」

 

 知らないことを恥じない返事に、らでんは笑った。

 金具の寸法と出土位置を記録してから、持ち帰る。

 

---

 

 夕方まで山を探索して戻った。

 山道をはじめが前、らでんが後ろ、ジンが最後に歩いた。

 来た道を戻るだけなのに、身体に残った疲れで足が重かった。

 途中、ジンが言った。

 

「練」

 

 二人が返した。

 

「今?」

 

 ジンが返した。

 

「歩きながら」

 

 らでんは言った。

 

「鬼!」

 

 それでもやった。歩きながら纏と練をした。

 歩く呼吸と出す呼吸がぶつかって、すぐに息が乱れた。

 

 はじめが先にコツをつかんだ。

 はじめのオーラが増した。

 後ろにいても分かるほど圧が変わった。

 らでんも少し遅れてオーラを出し、暖かさが戻ってきた。

 十秒、十五秒で息が上がり、止まっていた時より早く苦しくなった。

 

 ジンはらでんの呼吸を聞いていた。

 

「切るな」

「きつい!」

「だからやる」

 

 きついからやるのだと頭では分かっても身体がついていかない。

 前を歩くはじめは振り返らない。

 

「うち、まだいける」

「何でそんな元気なの!」

 

 同じことの差が悔しかった。

 

 二十秒でらでんが切れて纏に戻すと、ジンが言った。

 

「二十」

 

 らでんは後ろを振り向いた。

 

「数えてたんです?」

「まあな」

 

 はじめはまだ続け、三十、四十、四十五で切れた。

 はじめは息を吐いた。

 ジンはまだ歩き続けているはじめを見た。

 

「四十五。勝ったな」

「勝った」

「競技じゃないのに!」

「競争にした方がこいつは伸びる」

「もう一回」

「はじめ、のるなっ!」

 

 止めながらも競争で伸びる分かりやすさがおかしかった。

 小学生の遊びみたいだな。そう思った。

 

---

 

 夜、宿舎に帰ってきた。

 らでんは今日見つけた金具の写真を拡大した。

 拡大した昼の印には見覚えがあり、目が離せなかった。

 古い石柱でも渡り灯でもない。古層板で見た気がした。

 

 らでんは検索した。

 昔のみずき堂の投稿で、各地の古い民具や祭具や旅人の印が出た。

 画面を繰る指に力が入った。

 写真が一枚あり、細部まで一致し、線の曲がりまで重なって見えた。

 

 これだ。

 

 らでんは息を止めた。記事を読んだ。

 「漂泊民系集団に見られる所有・通行標識の一例」とあって、意味が取れた途端に胸が騒いだ。

 らでんの声は小さくなった。

 

「……漂泊民?」

 

 指を震わせて画面を見せた。

 

「これ」

 

 はじめがベッドから顔を上げて聞いた。

 

「何?」

「村の人じゃない」

 

 言い切る前に気持ちが先に伝わった。

 

---

 

 翌朝、ジンが画面を見た。

 昨夜の興奮が残ったまま朝を迎えていた。

 らでんが言った。

 

「この印、移動する集団が使ってた可能性があります」

 

 ジンが相づちを打った。

 

「へえ」

 

 らでんが返した。

 

「驚かないんですか?」

 

 ジンが返した。

 

「面白い」

 

 驚くかと思ったのに、面白がられて拍子抜けした。

 ジンが画面を見ながら少し笑っていた。

 ジンが言った。

 

「なら、話変わってくるな」

 

 はじめが聞いた。

 

「何が?」

 

 何が変わるのか分からないまま視線がジンに集まった。

 

 ジンが古地図を広げ、村と村と旧道と灯の宿を指で一つ、また一つと示して言った。

 

「こいつら、灯を渡してたんじゃなく」

 

 一拍あって続けた。

 

「灯と一緒に移動してた可能性もある」

 

 指の動きを追うほど、点だった場所が線になっていった。

 

 らでんは顔を上げた。

 

「……移動?」

 

 ジンが返した。

 

「定住してねえならな」

 

 はじめが言った。

 

「じゃ、村から村に祭りやってたんじゃなくて、この人たち自身が山を渡ってた?」

 

 ジンが答えた。

 

「かもな」

 

 祭りを渡すのではなく人が渡っていた可能性に、見ていた景色が組み替わった。

 

 村の祭具だと聞いたから、村の中に答えがあると思っていた。

 けれど、灯を持って歩く人たちの物なら、同じ傷も違って見えるのかもしれない。

 名前を知ると安心する。その安心で、見る範囲まで狭めていたのだろうか。

 らでんは地図の村境を越え、旧道の先へ目を移した。

 

 らでんはノートにメモした。

 

 『仮説②《渡り灯》は定住集落の祭具ではなく、山間を移動する集団の携行具・儀礼具だった可能性』

 

 と書き、その下に

 

 『では、なぜ一基だけこの村に残った?』

 

 と書いた。

 その問いが今の到達点だった。

 

 ジンがその文を見て少し笑った。

 

「それ分かったら面白そうだな」

 

 らでんは意地になった。

 

「絶対見つけます」

 

 ジンが切り替えた。

 

「じゃ、練」

 

 らでんは返した。

 

「今!?」

 

 はじめはもう立っていた。

 

「やろ」

「全然乗り気だ」

 

 二人の切り替えの速さについていけずらでんは頭を抱えた。

 

 どちらも終わらないのに昨日より少し先に進んでいたことが確かに感じられた。

 

---

 

 急にできるようになったわけではなく、できないまま続ける日が重なった。

 

 毎朝、起きて方便の念が始まる。

 

 点 今日は何をするか。

 らでんが言った。

 

「昨日の金具と古層板の資料、もう一回照合」

 

 はじめが続けた。

 

「西の尾根、最後まで歩く」

 

 舌は言葉にすること。錬は絶対やりたいこと。

 発はその日のうちに実際に動かすことだった。

 口に出すほど今日の動きがはっきりした。

 

 ジンが最初の数日、毎朝だけ聞いた。

 

「今日何すんだ」

 

 答えが曖昧だと容赦無く切り返す。

 意図がわからない。優先順位をつけろ。それは今やりたいことなのか等々。

 

「じゃ、もう一回な」

 

 説教はしないが通さず、二人は言い直すしかなかった。

 

 ある朝、はじめは山の方を指した。

 

「山歩く」

「どこ」

「上」

「やり直し」

「えー」

「何を見る」

 

 場所だけでは通らず、見るものまで言わされて、はじめは少し考えて答えた。

 

「昔の道、どこまで続いてるか」

「何で」

「灯の宿、一個じゃないかもしれないから」

 

 理由まで言い切ると、ジンが通した。

 

「じゃ行け」

 

 らでんははじめに顔を寄せた。

 

「面接みたい」

「毎朝試験」

 

 ジンに届いていた。

 

「聞こえてるぞ」

 

 小声が届いていて二人は肩をすくめた。

 

 方便が終わると次は纏だった。

 最初の頃は目を閉じて呼吸を整え、感覚を探すだけで数分かかった。

 身体の周りの薄い膜に気づくまで待つ感じだった。

 

 一週間でらでんは座れば十数秒で入り、はじめはもっと早く、二週間で立ったまま、三週間で歩きながらも続くが一瞬途切れた。

 歩く振動で膜が揺らぐ感じがした。後ろからジンが指摘した。

 

「切れた」

「分かってます!」

 

 ジンが続けた。

 

「なら戻せ」

 

 切れたと分かったら戻すしかなかった。

 

 はじめは坂道を登りながら纏を維持した。

 足に意識が行っている間は続いたが、途中、鳥が飛んで意識が逸れて切れた。

 視線が動いた途端に暖かさがほどけた。

 ジンが指摘した。

 

「切れた」

 

 はじめは苛立ちで返した。

 

「うるさいなー」

「戦ってる時だったら、相手にうるさいって言えばなんとかなんのか?」

 

 はじめはむっとして呼吸を整え直し、もう一回やった。

 

 絶はもっと難しかった。

 閉じるだけならすぐに戻れたが、維持しながら動くとすぐ漏れた。

 自然と一体になる。無になる。自分から自我をひたすら落とす、落とす、落として至る『絶』

 その状態で動くのは本当に難しく感じる。 

 らでんは一歩で漏れて止め、二歩でまた漏れた。

 らでんは足を止めた。

 

「むず……」

「当たり前」

 

 少し気が楽になった。

 はじめは自分の歩幅を数えた。

 

「うち、五歩いけた」

「今競わないで!」

 

 数は伸びていても、絶に関しては競う余裕はなかった。

 

 練はさらに荒かった。

 はじめは量が出た。

 出そうとするとすぐ圧が増すが、右肩が多く、背中が薄いなど出る場所が偏った。

 ジンが見て指摘した。

 

「お前、身体の使い方、そのまま出るな」

「どういうこと」

「得意なとこ、オーラが勝手に厚くなる」

 

 はじめは自分の脚を見て聞いた。

 

「それって悪いの?」

「別に。ただ、自覚しろ」

 

 偏りを知れということだった。

 

 らでんは逆で、量が少なく、出すのが遅かった。

 意識を落としても広がるまで時間がかかったが、一度纏えると十秒、二十秒、三十秒と保てる時間が伸びた。

 ジンがらでんを指した。

 

「お前」

「はい」

「地味だな」

「…褒めてます?」

「褒めてる」

「絶対違う!」

 

 はじめは笑った。

 

---

 仕事は毎日続いた。

 山に登り、蔵を開け、記録を照合し、老人の話を聞き、地図を重ねた。

 一日に一つ分かり、二つ分からないことが増えたが、足は止まらなかった。

 

 《灯渡り》の手掛かりは山間の移動を指していた。

 同じ印、文様、細い旧道、いくつかの村が重なり、輪郭が見えそうだが名前は残っておらず、それが移動の感じを強めた。

 

 らでんは古い税記録を見た。村人の数が書いてある。

 数字を追う目が季節の変わり目で止まった。

 人数が少し増えていた。

 らでんの指が季節の境で止まった。

 

「これ」

 

 ジンが覗いて読み上げた。

 

「春と秋だけ十五人くらい増えてる」

「引っ越してきた?」

「違う」

 

 引っ越しなら季節で戻らないはずだと思った。

 らでんは次の別年を見た。

 春に増え、秋に増え、冬にいない同じ増え方だった。

 らでんは別の年の数字も指した。

 

「定住してない」

 

 ジンが相づちを打った。

 

「かもな」

 

 らでんがうなずいた。

 

「ですよね」

 

 ジンは断定せず、可能性にとどめた。

 

---

 

 別の日、は聞き取りを行った。

 対象者は 八十八歳 女性 ミヨ

 畳の匂いが残る部屋で、ミヨはゆっくり座っていた。

 ミヨがぽつりと言った。

 

「山から来る人がなぁ」

 

 らでんはペンを止めた。

 

「昔、いました?」

 

 ミヨは長く考えて返した。

 

「わしのばあさんが言っとった」

 

 祖母の言葉として残っているのだと分かり、らでんのペンが止まった。

 

「何て?」

 

 ミヨが答えた。

 

「春に来る、秋にも」

 

 税記録の春と秋がよぎった。

 

「何する人たちでした?」

 

 ミヨは指を折って答えた。

 

「鍋」

「鍋?」

 

 ミヨが続けた。

 

「鍋を直しとった。ほかに刃物も、桶も、傘も、何でも」

 

 はじめが膝を乗り出す。

 

「修理屋?」らでんも続いた。

「職人集団……?」

 

 ミヨは天井の方へ目を向けた。

 

「歌も上手かった」

 

 直す話から歌に飛んで顔が上がった。

 

「歌?」

「夜、灯持って踊っとった」

 

 静かになった。

 灯と踊りがつながった途端、部屋の空気が変わった。

 はじめは自分の手を見た。

 

「……踊り?」

「踊りじゃ」

 

 そこから聞き取りが変わった。

 

「どんな動き?」

 

 ミヨは笑って答えた。

 

「知らん。よう覚えとらん」

 

 はじめが食い下がった。

 

「お願いばーちゃん!ちょっとでも」

 

 ミヨが答えた。

 

「ばあさんの真似しか見たことない」

「それでいい」

 

 前に出て頼んだ。

 

「やって」

 

 普段はらでんが聞くところを今日ははじめが聞き、身体のことは身体で聞くしかないようだった。

 ミヨは少し照れて言った。

 

「もう身体動かんで」

 

 はじめはミヨの手元を見ていた。

 

「座ったままでも!手でだけでもいいから」

 

 ミヨは考えてゆっくり右手を上げた。

 何かを持つようにし、左手を胸の前に置き、身体を少し捻った。

 それから右へ左へと肩を落とし、そして手を前に出して止まった。声は小さかった。

 

「……こんな」

 

 思い出しているようだった。

 はじめは黙って見ていた。

 

「もう一回」

 

 ミヨがやるとはじめが立って真似をした。

 

 右手を上にし、左手を胸にし、腰を捻って足を一歩出した。

 形は似たが、何かが違った。ミヨが言った。

 

「違う」

 

 はじめは止まった。

 

「どこ?」

 

 ミヨが答えた。

 

「足」

「右?」

「違う」

 

 自分の腰を触って言った。

 

「ここ」

 

 腰だと言われて落とすと身体が安定し、ミヨの顔が変わった。

 

「……そう」と言う声で当たったと分かった。

 

 はじめはもう一回やり、今度腕を動かす途中でミヨが止めた。

 

「そこ」

「肩?」

 

 ミヨが頷いて答えた。

 

「肩」

 

 はじめは力を抜き、腕が自然に落ちて右手が前に来て止まった。

 ミヨは長く見て言った。

 

「……そうじゃ」

 

 はじめの顔が明るくなった。

 

「これで合ってる?」

「そう」

 

 らでんは写真や動画で記録したが、途中で気づいた。

 はじめはもう画面を見ていない。

 記録より腰と肩で覚えようとしていた。

 

「もう一回」と頼む声が止まらない。

 

 ミヨは笑ってもう一回やった。

「おまえさんら、本当にしつこいのう」

 

---

 

 その日、宿舎に戻るとはじめは廊下の狭い場所でまたやっていた。

 右手を灯を持つ形にし、左を胸にし、腰を落として一歩捻って止まった。

 はじめは独り言をこぼした。

 

「違う」

 

 らでんは廊下へ出た。

 

「何が?」

「動いた感じが違う。さっき、もっと楽だった」

 

 楽だった感覚だけが身体に残っていた。

 らでんは首を傾げた。

 

「楽?」

「うん。スッと動ける感じ」

 

 はじめはもう一度やった。

 今度は足を少し斜めにすると身体が自然に前へ進み、詰まりが取れた。

 はじめは止まって言った。

 

「……こっち」

「何で?」

「こっちの方が次の足が出やすい」

 

 次の一歩が出やすいかで選んでいた。

 その時、入口にジンがいて見ていた。

 はじめが入口の人影に気づく。

 

「何」

「もう一回」

 

 はじめがやった。

 

 右手を上にし、左を胸にし、腰を落として一歩捻り、腕を前に出した。

 さっきより迷いがなかった。

 ジンが途中で止めた。

 

「止まれ」

 

 近づいて右手の位置を少し下げて言った。

 

「これ」

「何」

「その高さだと灯持って風受ける」

 

 持ち方と風の関係にらでんの顔が上がった。

 はじめは少し下げて聞いた。

 

「じゃ、こう?」

 

 ジンが促した。

 

「もう一回」

 

 やった。

 今度身体をひねると、腕と身体の間で灯を守る形になった。

 らでんが声を上げた。

 

「……これ」

 

 ジンが言った。

 

「踊りじゃねえな」

 

 静かになった。

 はじめが返した。

 

「え?」

 

 ジンが続けた。

 

「少なくとも見せるために作った動きじゃねえ」

 

 らでんはジンの手の高さを見た。

 

「何で?」

 

 ジンがはじめを見て答えた。

 

「無駄少なすぎる」

 

 一歩で言った。

 

「重心、足、肩、全部、移動するための動きになってる」

 

 はじめはもう一回やり、一歩捻って腕で守った。

 ジンが言った。

 

「山、歩くための動きかもな」

「じゃあ」

 

 渡り灯の長い持ち手、角型、頑丈さが運ぶための形に見えてきた。

 らでんが聞いた。

 

「灯を持って歩くため?」

 

 ジンが答えた。

 

「かもな」

 

 らでんは端末を出して渡り灯の写真を見た。

 持ち手の摩耗がいつも気になっていた場所で、中央ではなく少し偏っていた。

 偏りがずっと引っかかっていた。

 らでんが呼んだ。

 

「はじめ」

「何」

「今の持ち方、もう一回」

 

 はじめが右手を構えると、らでんが写真を重ねた。

 画面の持ち手と今の手の位置が重なった。

 らでんの声は小さくなった。

 

「……同じ」

「何が」

 

 らでんは画面を見せて答えた。

 

「擦れてる場所」

 

 擦れた場所と手の位置が重なったことに声が小さくなった。

 らでんが言った。

 

「この持ち方ならここに手が来る」

「確かに」

「祭りで見せるために持ってたんじゃなくて、本当に移動するための持ち方だった?」

 

 ジンは何も言わず少し笑い、それが肯定より強く感じられた。

 

 そこから村人への聞き取りが変わった。

 踊りや歌や身体の動きのことを聞くようになった。

 資料や物から人の身体の中を見るようになった。別の老人は手を上げて覚えていた。

 

「こう」

 

 ある人は足を示して言った。

 

「足はこうだった」

 

 ある人はこうも言った。

 

「二人で向かい合った」

「いや、列だった」

 

 矛盾している証言もあるが、全部記録し、決めつけず残した。

 はじめは全部やって身体の断片を集めた。

 

「これ?」

 

 ミヨたちとは別の老人が返した。

 

「違う」

「こう?」

「近くなった」

 

 はじめが少し考える。

 いままでの聞き取りの積み重ねと、自分の経験から考えた。

 次の一歩が一番楽になる体制と足だとすると…

 

「これは?」

「それ」

 

 一方、念は朝に方便、仕事中に纏、夕方に短い練を何本も繰り返し、夜に絶を練習した。

 一日の流れに念が入り込んでいた。一か月が近づいたが、まだまだ先にはいかない。

 はじめは歩いている時に纏が十分持つが、話しかけると切れた。

 

 らでんは資料を読んでいる時に纏が長いが、山道で転びそうになると切れた。

 絶は二人とも一分持たなかった。

 練ははじめが一分近く出るが、ムラが大きい。

 らでんは四十秒だが、形がかなり安定していた。

 ジンがある朝切り出した。

 

「まあ」

 

 二人が見た。ジンが続けた。

 

「最初よりマシ」

 

 らでんは声を上げた。

 

「一か月やってそれ!?」

 

 はじめが聞いた。

 

「褒められてる?」

「多分」

 

 ジンはさっさと外に出ていた。

 

---

 

 その日の午後、古い写真が一枚見つかった。

 役場の倉庫にあり、百年以上前で、ぼやけた集団が山道にいた。

 前が灯で、後ろに十数人がいた。

 らでんが拡大すると一人の足が開き、腕の位置があり、身体を捻っていた。

 止まった姿が廊下で見た形に似ていた。

 

 はじめが横で見て言った。

 

「……これ」

 

 立つと写真を見ながら同じ形を作った。

 右手を少し低くし、左を胸にし、腰を落として足を斜めにした。

 写真と身体を見比べながら直した。完全ではなかったが、百年以上前の姿勢と今が重なり、百年が縮んだ気がして声が出なかった。

 

 ジンが後ろから来て見て言った。

 

「一個、繋がったな」

 

 繋がったという言葉に、らでんは写真を見て小さく笑った。

 

「これ、踊り、残ってる」とこぼした。

 

 紙ではなく人の身体の中に残っていたのかもしれないと思った。

 

---

 

 その夜、らでんはノートの新しい頁に大きく書いた。

 

 『《灯渡り》に伴う身体技法。その下に祭礼舞ではなく、移動技術が舞として残された可能性』

 

 と書いた。さらに

 

 『なぜ“舞”として残した?』

 

 と書いた。ペンが止まった。問いだけが残った。

 

 横ではじめがまた踊っていた。

 一歩捻って灯を守り、次へ行く動きを繰り返していた。

 先がなく悔しそうだった。

 はじめがこぼした。

 

「続き、ないかな」

 

 らでんは笑って返した。

 

「探そう」

 

 はじめが見る。

 らでんはノートを閉じた。

 

「あるよ、きっと、どこかに」

 

 探すことが次の一歩だった。

 

 そして部屋の外でジンが聞いていた。

 何も言わず、右足を少し前に出し、はじめの姿勢を試した。

 一瞬顔が変わり、つぶやいた。

 

「……へえ」

 

---

 

 翌朝、ジンが二人を見て言った。

 

「今日は纏、一時間」

 らでんは声を上げた。

 

「急に増えた!」

「うし。やろ」

「…気づいたんだけど、はじめって修行、結構楽しんでるよね?!」

 

 どれもまだ完成しないから面白く、前に進む理由に見えた。

 

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