その朝、らでんは机の上のノートの横に置かれていた《灯の宿》の写しを掴むと、そのまま部屋を飛び出した。
急いで握りしめた古い紙の端が、指の腹にかりっと食い込む。昨夜、自分がノートに書きつけたばかりの疑問のすぐ隣に、こんな手がかりが黙って置かれていたのだ。居ても立ってもいられなくて、とにかく早くジンに確かめたかった。
「ジンさん!」
宿舎の廊下から外へ出て呼んでみたけれど、返事はない。
まだ朝の冷たい空気が残る庭先を抜け、建物の裏手まで小走りに回り込んで、もう一度お腹から声を張り上げた。
「ジンさんっ!!」
「うるせえ! 朝からでけえ声出すな!」
裏の井戸のすぐ横で、ジンが屈み込んで顔を洗っていた。
汲み上げたばかりの水をバシャバシャと跳ね上げる手つきがあまりに普段通りで、なんだか拍子抜けしてしまう。自分の胸ばかりがこんなに早鐘を打っているのが悔しくて、らでんは息を切らしたまま手の中の写しをぐっと前へ突きつけた。
「これ! ノートの横に置いてあったこれ、何ですか!」
ジンは濡れた手を止め、雫の垂れる顔を横へ向けて薄く目を開けた。
「あ? なんだそれ」
「とぼけないでください、《灯の宿》って書いてあるこの地図の写しです!」
「ああ、そいつか」
ジンは首にかけた手拭いで雑に顔をゴシゴシと拭きながら、あっさり受け流した。その素っ気ない態度に、らでんは思わず一歩詰め寄る。
「こんなの、土蔵の資料にはありませんでしたよ! 一体どこで見つけたんですか!」
「役場の倉庫だ」
思わぬ場所の名前が出て、らでんは手元の写しへ視線を落としたまま動きを止めた。
「……え、役場?」
「おう。昨日、ちょっとな」
「いつの間に行ったんですか!? 全然気づきませんでした!」
さらりと言われて、らでんは目を丸くした。こちらが気づかないところで、ジンは役場の倉庫まで足を延ばして、別の手がかりを引っ張り出していたらしい。
そこへ、宿舎の勝手口から欠伸を噛み殺しながらはじめが顔を出した。寝癖でぴょんと跳ねた髪もそのままに、らでんの手元を横から覗き込んでくる。
「ふわぁ……なに、朝からどうしたの? あ、なにその古い地図」
ジンが手拭いを肩にかけ直し、らでんが広げた紙の端を太い指先でトントンと突いた。
「見つけたはいいがな、その写し一枚だけじゃ、実際の山の中のどこなのかまでは特定できねえぞ」
「それは……見れば分かりますけど」
「なら、行くか」
「えっ?」
「どこにあるのか、山に入って探すんだろ?」
「はい! 探します!」
「よし、ならさっさと朝飯食って、七時に出るぞ」
一人で勝手に先回りされたのかと焦っていた気持ちがすっとほどけて、代わりにこれから山へ向かう足元の方がそわそわと落ち着かなくなる。
隣で目をこすっていたはじめが、ぽつりと言った。
「あれ、今日は七時なんだ。普通の時間だね」
「ほんとだ。最初の時みたいに、朝五時とか言い出さないんですね」
「当たり前だろ、昨日は夜遅くまでかかったんだからよ」
「へえ、ジンさんでもそういうところはちゃんと寝るんですね」
らでんがジンの顔をまじまじと見上げると、ジンは心外そうに肩をすくめた。
「俺だって寝る時は寝るだろ」
普段はめちゃくちゃな無茶ばかり言うくせに、休む時間だけは案外きっちり決めているらしい。
朝食を済ませてから、出発前にあらためて机の上へその古い地図の写しを広げた。
ずいぶん昔に書き写されたものらしく、紙の端は毛羽立って今にも破れそうに傷んでいる。折り目を伸ばす時にも指先でそっと押さえないと千切れてしまいそうで、らでんは無意識に息を止めて四隅を撫でた。
紙の上には山の稜線や川、細い道に建物の印まで描き込まれているけれど、肝心の縮尺がどうにも怪しい。《灯の宿》と記された場所を現代の地形図に重ねてみても、あちこちの線が少しずつずれてしまって、どこを基準に目を定めればいいのか分からなくなる。
後ろから覗き込んだジンが、地図の真ん中を横切る川筋に指を置いた。
「おい、ここを見ろ。川の流れてる場所が今と違うぞ」
「あ、本当ですね。今の本流はこっちの谷の底なのに、この古い写しだとずっと西側を通ってます」
「ねえ、川ってそんな勝手に場所が動くことあるの?」
不思議そうに首を傾げるはじめに、ジンが顎をしゃくって答える。
「いくらでも動くさ。一番多いのは土砂崩れや洪水だな。あとは長い時間が経つうちに、人間が水路を引いたり、獣道から水の流れが変わったりすることもある」
はじめは「へえー」と目を瞬かせながら、現代の地図と古い写しの二本の川筋を交互に見比べた。らでんも紙の上で指先を迷わせる。川が動いてしまっているなら、水辺からの距離を頼りに探すわけにはいかない。
らでんは古い写しを少し斜めに回し、川の線から上の山の稜線へと指を移した。
「じゃあ、川じゃなくて、こっちの山の形を基準にして合わせるしかなさそうですね」
「いや、山だって崩れるぞ」
「ええっ、川も山もじゃ、全部動くじゃないですか!」
「だから、こうして現地へ歩いて確かめに行くんだろ」
ジンは笑って、机の上の地図をぱたんと折り畳んだ。
紙の上でいくら睨んでいても合わない線の続きを、今日は自分たちの足で確かめに行くのだ。
◇ ◇ ◇
七時ちょうどに宿舎を出て、途中で案内役のカルドと合流する手筈を確かめてから、まずはジンとらでん、はじめの三人で山の旧道へと入った。
先頭を歩くはじめは、朝露で湿った木の根や浮き石を迷いなく見分けて、軽快に足場を選んでいく。遅れないようにその背中を追いかけていると、一番後ろからジンの声が飛んだ。
「おい、はじめ。朝から飛ばしすぎんなよ」
「うん、分かってるって!」
「ならいい」
はじめの歩幅と呼吸が乱れていないのを確かめたジンは、それ以上は追い立てずにまたゆったりと後ろへ下がった。
そのまましばらく斜面を登り、道が二手に分かれる小さな分岐まで出たところで、ふいにジンが足を止めた。
「よし、ここだな」
「え、ここがですか? 地図の候補地はもっと上のはずですけど」
「あ、もしかして、今?」
立ち止まって振り返った二人のうち、はじめの方が先にピンときたらしい。
ジンはにやりと口の端を上げた。
「おう、今だ。お前ら、昨日は『絶』をやっただろ」
「うん、やった」
「はい、やりましたけど……」
「なら、今日はその逆だ。出せ」
ジンが自分の胸元を親指でトントンと指す。らでんもつられて、自分の作業着の胸に手を当てた。
「出すって、何をですか?」
「オーラに決まってんだろ」
「あっ、そっか!」
はじめがぽんと手を打つ横で、らでんは分岐の先へ続く山道とジンの顔を交互に見た。
「あの、今って《灯の宿》を探す調査の途中なんですけど!」
「だから、その途中でやるんだろ」
言いながら、ジンはさっさと山道の脇にある少し開けた平場へと踏み込んでいく。らでんとはじめも、慌ててその後ろに続いた。
杉の木立に囲まれた狭い空き地の真ん中で、ジンが振り返る。
「いいか、三つ目の基本、『練』だ。全身の精孔から、普段よりずっと多くのオーラを一気に出す」
「ねえ、それって『纏』とは何が違うの?」
「『纏』は勝手に出てる分のオーラを身体の周りに留める技術だ。『練』は、自分の意志でもっとたくさん外へ押し出す」
「普段よりいっぱい出すってこと?」
「ああ。ただしな、ただ闇雲に出しただけじゃ外へ散って終わりだ。押し出しながら、『纏』も同時にやって身体の周りに留めろ」
「ええっ、急に二つ同時ですか!?」
「だから、こうして練習すんだろ」
抗議するらでんを軽くあしらって、ジンは二人を順番に見渡し、軽く握っていた自分の片手をぱっと開いてみせた。
「お前らは昨日、『絶』で精孔を閉じる感覚を身体で覚えたばっかりだ。なら、それが抜けないうちに、今度は逆に全部開く」
昨日のあの、皮膚の上が急に寒くなるくらいぴたりと出口を塞いだ感覚。あれがまだ身体に残っているうちに、正反対の動かし方を叩き込むつもりなのだと分かった。
隣ではじめがさっそくすっと目を閉じ、らでんも慌ててその真似をして瞼を下ろした。
まずは自分の身体を薄く包んでいる『纏』の暖かさを確かめ、そこから内側を巡るオーラの流れと、全身の精孔へと意識を向ける。昨日はきゅっと閉じた出口を、今日は逆に押し広げる。
内側からオーラが穴へ吸い寄せられて、その出口がどんどん大きく開いていくイメージを、強く、もっと強く思い描いた。もっと出ろ、と念じれば念じるほど、自分の意識が身体の奥へ深く沈み込んでいく。
その時、すぐ隣で空気が動いた。
はじめの方が先に変わったのだ。
らでんは思わず目を開けた。
隣に立つはじめの身体を包む白いオーラが、ぶわっと一回り以上も分厚く膨れ上がっていた。目に見える光の厚みだけではない。さっきまでそこになかったはずの熱っぽい圧力が、少し離れて立っているらでんの肌までじかに押し寄せてくる。
らでんは自分の目を疑った。たった今やり方を聞いたばかりなのに、もうこんなにはっきりと量が増えている。
当のはじめは、薄く目を開けて自分の両腕を不思議そうに見下ろしていた。
「……ねえジン、これ、出てる?」
「おう、出てるぞ。そのままもっと出してみろ」
言われてはじめがぎゅっと眉を寄せると、周囲の空気を押す圧力がさらに一段強まった。
すると、見ていたジンがかるく片手を上げて止める。
「おい、変に力むな。肩と首に力が入ってるぞ」
「だって、ぐっと力を入れないと出てこないんだもん」
「最初はそう思うだけだ。慣れりゃ力まなくてもそのうち出る」
はじめは半信半疑といった顔で首をかしげながらも、一度肩を落としてもう一度深く呼吸を整えた。
次は自分の番だ。らでんは両手に意識を込め、外へ押し出すイメージを強く持った。
けれど、いくら「出ろ」と頭で念じても、自分の身体がまるでついてこない。さっきのはじめみたいに空気が膨らむような手応えが、どこにもないのだ。
「……うう、全然出ないです」
眉を下げて呟くと、ジンがのっそり歩み寄ってきて、らでんの肩のあたりを横から覗き込んだ。
「いや、一応出てはいるぞ。……ん? 少なっ」
「ちょっと、その言い方なんですか!」
あんまりな感想に噛みつくと、横で見ていたはじめがぷっと吹き出して笑った。
らでんは自分では増えた実感さえろくにないまま、ジンの目から見てもそんなにちょびっとしか出ていないのだと知って、急に顔が熱くなった。
「頭で迷ってんじゃねえよ。もっと出すって、自分で腹を決めろ」
ジンの短い言葉に、らでんは一度息を吐き、胸の上で空回りしていた意識をぐっとお腹の底へ落とした。
毎朝唱えている『方便』の念を、頭の中で一つずつ呼び起こす。
――『点』、私が知りたいこと。『舌』、灯渡りの本当の由来。『錬』、絶対にこの手で見つける。『発』、そのために今、ここで動いてる。
自分の口で毎朝言葉にしてきた約束が、揺れそうになる気持ちの支えになった。難しいことを考えなくていい、まずは基本からもう一度だ。
らでんは山の冷たい空気を深く吸い込み、お腹の底から一気に外へ押し出した。
その瞬間、いつも皮膚のすぐ上に張りついていた薄い暖かさが、ふわりと肌から少し離れた場所まで厚みを増して広がった。
「あっ!」
思わず声が弾む。前のジンが、短く頷いた。
「おう、それだ」
やっと要領が掴めた。嬉しくなって、「もっと!」と欲張って一気に押し出そうとした途端、自分の重心の軸がぐらりと揺らいで足元がもつれた。
「わっ、危な!」
「ちょ、やりすぎだってば!」
隣にいたはじめが咄嗟に手を伸ばして、らでんの腕をぐっと掴んで支えてくれた。はじめのしっかりした腕を借りてどうにか体勢を立て直し、らでんは慌てて自分の肩のあたりを見回した。
「い、今の、ちゃんと増えてましたよね!?」
「ああ、増えたぞ」
「じゃあ、私の『練』も成功ですか?」
「ざっと三秒間だけな」
「み、三秒!? 短っ!」
せっかく掴んだ手応えだったのに、たった三秒と聞いて肩から力が抜けた。
けれどジンは、らでんのふらついた足元を見ながら真面目な声で言った。
「最初から無理に長くやろうとすんな」
「え、なんでですか?」
「今のまま続けりゃ、あっという間にバテて動けなくなるからだ」
言われてみれば、たった三秒押し出しただけでも、軽く坂道を走った後みたいに胸の奥がどきどきしている。隣のはじめも、自分の胸に手を当てて呼吸を確かめながら尋ねた。
「ねえ、これって普通はどれくらい続けられるもんなの?」
ジンはあっさり肩をすくめた。
「そんなもん、人による」
「でた、またそれ!」
らでんが思わず突っ込んだけれど、結局のところ、今の自分たちがどこまで保てるかは自分の身体で試して確かめるしかなかった。
そこから、五秒だけ『練』を出しては切り、少し息を整えてまた五秒出す、という短い反復が始まった。
出しては『纏』に戻すのを繰り返すうちに、だんだんと呼吸が荒くなってくる。すぐ隣ではじめが勢いよくオーラを膨らませるのを感じるたび、「私もあれくらい出さなきゃ」と焦って、気づけば肩や奥歯までガチガチに力んでいた。
同じジンの説明を聞いて、同じ場所でやっているのに、身体から返ってくる反応はこんなにも違う。
らでんは一度目を閉じ、横のはじめを見るのをやめた。さっき三秒だけうまく増やせた時、自分はどうやったのだったか。
無理に大きく広げようとするのではなく、肌からほんの少し離れた場所にあった、あの柔らかい暖かさの厚みを思い返す。掴むまでにはやっぱり少し時間がかかったけれど、その輪郭を丁寧になぞるように息を吐くと、もう一度だけ同じ厚みがふわりと戻ってきた。
二人の様子を黙って見比べていたジンが、まず先にはじめを指差した。
「はじめ。お前は出すのが早えな」
それから、視線をらでんの方へと移す。
「で、らでん。お前は一度出した後、オーラの形が崩れにくい」
思いがけない言葉に、らでんはぱちくりと瞬きをした。てっきり、見た目にも大きくて迫力のあるはじめの『練』の方がずっと優れているのだとばかり思っていたのだ。
らでんは自分の腕を包む控えめなオーラを見下ろして、おずおずと聞き返した。
「……あの、それって、いいことなんですか?」
「おう、悪くねえぞ」
ぶっきらぼうな短い返事だったけれど、胸の奥がじんわりと温かくなった。一気に出せる量でははじめに敵わなくても、出したものを綺麗に保つことは、自分の得意な部分としてちゃんと武器になるのだと分かったからだ。
すると、隣のはじめが自分の胸を指して身を乗り出した。
「ねえジン、じゃあうちは? 早くてすごいでしょ!」
「お前は雑だ」
「ええっ!?」
「量は勢いよく出る。だが、その分あちこちから外へ漏れてるぞ」
「うそ、どこから漏れてるの?」
「背中だ」
言われたはじめは、「えっ」と自分の背中を見ようとして、犬が尻尾を追いかけるみたいにぐるっと首を捻った。
「……全然見えないんだけど!」
「見たけりゃ鏡でも使え」
けらけらと笑うジンに言われて、はじめは悔しそうに自分の背中に手を回し、見えないオーラの漏れを手のひらで探るようにさすっていた。
そうして五秒ずつの『練』を何度も繰り返して、ちょうど三十分ほどが経った頃、ジンがパンと乾いた音を立てて手を叩いた。
「よし、朝の分は終わりだ」
「え、もう終わりなの?」
「これから本来の仕事すっぞ。カルドの奴も上で待ってる頃だ」
まだ肩で息を整えていたはじめが、膝に手をついたまま目を丸くする。
「ほんとに山登りの途中で、仕事と修行を同時にやるんだね……」
「当たり前だ。山の中で念だけ覚えて、それで何すんだよ」
ジンの言う通りなのだけれど、『練』で熱くなった息がまだ荒いまま調査の頭へ切り替えるのは、なんだか自分の身体が二つに分かれたみたいで不思議な感じがした。
◇ ◇ ◇
山道の先で待っていたカルドと合流し、そこからは古い地図の写しと実際の地形を突き合わせる本来の調査に戻った。
写しの川筋や尾根の形から割り出した《灯の宿》の候補地は、全部で三か所あった。
けれど、一つ目の旧道沿いの平場にはただ草木が茂っているだけで何の痕跡もなく、二つ目の沢に近い斜面で見つかった石組みは、昔の炭焼き窯の跡で建物の形とはまるで違っていた。
そうして昼前、三つ目の候補地である尾根のすぐ下の斜面へ回り込んだ時だった。雑木林の奥に不自然な石の重なりが見えて、四人の足が揃って止まった。
先頭を歩いていたはじめが、真っ先にそこを指差す。
「あっ、これ見て!」
らでんも小走りに駆け寄った。落ち葉の下に、平たい石を四角く並べた基礎がはっきりと残っている。自然の岩場ではない、人の手で建てられた建物の跡だ。
ただ、ぐるりと見渡してみると、普通の民家にしてはずいぶん小さいし、かといって山仕事の道具を入れるだけの作業小屋にしてはしっかりしすぎていて大きい。何に使われたのかすぐには見当のつかない中途半端な広さに、らでんは首を傾げながら周囲を見回した。
一緒に基礎の角を確かめていたカルドが、苔むした石積みに目を落とす。
「……確かに、古い建物跡だな」
らでんは手帳を片手に、建物の周りの地形を順番に確かめた。入口はどちら向きだったのか。すぐ下の斜面からは沢の水音が聞こえるから、水場は近い。それに、さっきまで歩いてきた旧道からもすぐの距離だ。頭の中で人が立ち寄るための条件を一つずつ数えてから、らでんは旧道の方を振り返った。
「ここが、地図にあった《灯の宿》でしょうか?」
「さあな、まだ分からん」
「ええっ、ジンさんが珍しく慎重なこと言ってますね」
「おい、人聞きの悪ぃこと言うな。俺はいつだって慎重だ」
その一言には、らでんとカルドだけでなく、はじめまでが同時に声を上げた。
「「「えっ?」」」
「なんだよその顔は、文句あんのか」
ジンの不服そうな顔がおかしくて笑い合いながら、四人は手分けして本格的な調査を始めた。
巻尺を伸ばして石の基礎の寸法を測り、腐葉土を払って柱の礎石を探し、建物の隅に残っていた灰混じりの黒い土を確かめる。そうやって自分の手を動かして数字や位置を拾っていくほど、ただの石ころの並びだった場所に、少しずつ昔の建物の輪郭が立ち上がってくるようだった。
その時、建物のすぐ外側の地面を歩いて見て回っていたはじめが、ふいにぴたりと足を止めた。
その場にしゃがみ込み、らでんの方を振り返って手招きする。
「ねえ、らでん、ちょっとこっち来て!」
「なに? 何かあった?」
駆け寄ってみると、はじめが落ち葉を払った地面を指差していた。
「ほら、これ」
石の基礎から少し離れた土の上に、浅く細い溝がぐるりと円を描くように残っていた。よく見ると、その円の内側と縁のあたりだけ、周りの柔らかい腐葉土と違って土の色が黒っぽく締まって見える。
らでんもはじめの隣にしゃがみ込んだ。
「なんだろう、この丸い跡……」
「なんかさ、昔の人がここでぐるぐる回ってたのかな?」
思わぬ言葉に、らでんは丸い溝の縁を指先でそっと追いながら聞き返した。
「えっ、どうしてそう思うの?」
「だって、地面のここだけ、何度も足で踏まれて固まってる感じがするもん」
『踏まれてる感じ』という、いつも足場を見て歩いているはじめならではの言い方に、らでんは思わず大きく頷きかけた。
そこへジンものっそり近づいてきて、二人の後ろから地面を覗き込む。
「ほう、こりゃまたずいぶん古い跡だな」
「あの、これってやっぱり、お祭りの儀礼か何かで踊った場所なんでしょうか?」
らでんがワクワクしながら口を挟むと、ジンは円の縁を見つめたまま、あっさり首を横に振った。
「まだ材料が足りねえ。今から勝手に決めつけんな」
ぴしゃりと言われて、らでんは先走りかけた言葉をぐっと飲み込んだ。
「……はい、すみません」
気を取り直してさらに建物の周りを調べていくと、基礎の端の方に、拳くらいの大きさの石が一個、二個、三個と規則正しく並んでいるのが見つかった。
ただ転がっているだけではない、明らかに誰かの意図で置かれた並び方だ。しかも、一番端の石の表面に残っていた浅い彫り跡をブラシで払ってみると、四角い角の線と、真ん中の小さな円の文様がくっきりと浮かび上がった。
土蔵の箱で見た、あの《渡り灯》に入っていた文様とまったく同じだ。
らでんは慌てて端末を構え、角度を変えながら何枚も写真に収めた。
「……見て、これ、あの《渡り灯》の文様とまったく同じだよ!」
横から覗き込んだはじめも、石の彫り跡と端末の中の《渡り灯》の写真を交互に見比べて目を輝かせた。
「ほんとだ! じゃあさ、やっぱりここが地図の《灯の宿》だったってこと?」
すぐに「そうだよ!」と言い切りたい気持ちが喉までせり上がってきたけれど、らでんはさっきジンに言われた言葉を思い出して、一度息を吸ってから答えた。
「……うん、ここが《灯の宿》だった『可能性』が、すごく高いと思います」
すると、後ろで見ていたジンが鼻先でふっと笑った。
「へえ、お前もちゃんと『可能性』で留めておけるようになったじゃねえか」
「だ、誰に散々注意されたせいだと思ってるんですか!」
むきになって言い返しながらも、自分の調べ方が少しだけ前に進んだ気がして、らでんは誇らしい気持ちで手帳に石の位置を書き留めた。
◇ ◇ ◇
昼になり、四人はその古い建物跡のすぐ横で昼食をとることにした。
苔むした基礎の石に背中を預けると、ひんやりとした石の冷たさが作業着越しに伝わってくる。歩き回った足を伸ばして休めながら、はじめが持参したパンを大きくかじって言った。
「ねえ、もしここがほんとに《灯の宿》だったとしてさ、昔ここで何をしてたんだろ」
らでんはパンを片手に、膝の上で開いた調査ノートへ目を落とした。これまでに村のお年寄りから集めた聞き取りのメモ、土蔵の文献、今朝の古い地図、そして今まさに自分たちが座っているこの石の基礎。
「うーん、『宿』って名前がついてるくらいだから、山を越える人が泊まったり休憩したりする場所だったのかな……でも、何人も泊まるにはちょっと狭いよね」
『宿』という名前だけでは、この中途半端な広さの建物の使い道がどうにも読めない。
すると、少し離れた切り株に座っていたジンが、食べかけのパンを包み紙に置いて口を開いた。
「その《灯の宿》って呼び名自体、ずっと後になってから村の連中が勝手につけた名前かもな。本来は人が泊まる宿じゃなくて、『灯を渡す場所』だった可能性もある」
らでんはぱっと顔を上げた。ジンは包み紙の横へ今朝の古地図の写しを広げ、太い指先でその真ん中を押さえる。
「ほら、位置を見ろ。ここ、今の村と山向こうの集落の、ちょうど中間くらいにあるだろ」
確かに、長い尾根道を越えていくちょうど真ん中あたりだ。ジンの指が、二つの集落を結ぶ細い線の真ん中でぴたりと止まる。
「灯を運ぶ奴らが、ここで次の組と交代したんじゃねえか?」
隣のはじめが、地図の上の道を指で辿りながら目を丸くした。
「交代って……バトンをつなぐリレーみたいなこと?」
「……リレー」
はじめの口から出た言葉を、らでんも小さく繰り返した。
暗い山道を誰かが《渡り灯》を提げて登ってきて、この石積みの建物の前で待っていた次の人へと手渡し、受け取った人がまた山向こうへ歩いていく。頭の中でその人の動きが鮮やかに繋がった気がして、らでんは地図から顔を上げた。
「あっ、それならこの建物の大きさもすごくしっくりきます! でも……そもそも、何のためにそんなリレーみたいに灯を運んでたんでしょう?」
受け渡す動きまでは思い描けても、肝心の理由がまだ見えない。
ジンはもう一度パンを手に取りながら、短く言った。
「そこだな。そいつがまだ分からねえ」
◇ ◇ ◇
昼食を終えた午後は、建物跡のさらに周りの斜面を手分けして調べた。
少し下った崖の下あたりで、地面の奥をちょろちょろと流れるかすかな水音が聞こえてきた。ジンが足元の腐葉土を靴先で払うと、平たい石を並べた下に、細く組まれた古い水路の跡が顔を出した。カルドがさらにその上の斜面へ登って、岩の間から湧き出ている元の水源を確かめてくれる。
らでんは、この《灯の宿》の候補地に人の手で引かれた水路がある、という事実だけを正確にノートへ記録し、それが炊事用だったのか儀礼用だったのかという用途までは決めつけずに空けておいた。
そうして水路の測量を終え、上の建物跡へ戻る途中の斜面だった。
前を歩いていたはじめが、「あれ?」と足元の土の中へ手を伸ばしかけた。
「あっ、待ってはじめ! 触る前にそのまま!」
らでんは慌てて声をかけ、鞄から端末を取り出してしゃがみ込んだ。出土したものは、動かす前にまずどの位置にどう埋まっていたかを撮っておくのが鉄則だ。
写真を撮り終えてからそっと土を払って拾い上げると、それは手のひらに収まるほどの小さな古い吊り金具だった。錆びついた金具を裏返してみると、平らな面に、文字のようにも記号のようにも見える細い印が刻まれている。
「なんでしょう、この裏の印……」
「さあな、知らん」
「ええっ、ジンさんでも見たことないんですか?」
「最初から何でも知ってんなら、わざわざこんな山奥まで来てねえだろ」
知らないことを少しも格好つけずに言い切る返事がおかしくて、らでんは思わずくすっと笑った。
その場で巻尺を当てて金具の寸法と見つかった位置をきっちり記録してから、小さな袋に入れて宿舎へ持ち帰ることにした。
◇ ◇ ◇
夕方近くまで山の尾根を歩き回って調査を続け、日が傾き始めたところで宿舎への帰路についた。
カルドと麓への分岐で別れた後は、行きと同じように、はじめが先頭、らでんが真ん中、ジンが一番後ろになって細い山道を下っていく。
朝に通ったばかりの道を戻っているだけなのに、一日中斜面を登り降りした疲れがふくらはぎや腰に重たく溜まっていて、足を前に出すたびに靴が鉛みたいに重く感じられた。
その時、後ろを歩いていたジンが何気ない声で言った。
「よし、『練』だ」
らでんとはじめは、同時に首だけを後ろへ捻った。
「「えっ、今ですか!?」」
「おう。足は止めんなよ、歩きながらやれ」
「お、鬼ーっ!」
らでんの悲鳴が夕方の山道に響いたけれど、ジンは「ほら、止まんな」と顎をしゃくるばかりだ。
仕方なく、二人は足を動かしたまま『纏』の膜を意識し、そこからさらに『練』でオーラを押し出そうとした。
けれど、いざ歩きながらやってみると、坂道を下るために吸って吐く呼吸と、オーラを強く押し出すための呼吸が胸の中でまともにぶつかって、たった数歩で息が苦しく乱れてしまった。
そんな中でも、やっぱりはじめの方が先に身体のコツを掴んだらしい。
すぐ前を歩くはじめの背中から、ぶわっと分厚いオーラが膨らむのが分かった。後ろを歩いているらでんの肌にも、空気の密度が変わったのがはっきりと伝わってくる。
負けていられない、とらでんも少し遅れてお腹の底に力を込め、皮膚の外へ暖かい厚みを押し出した。
けれど、足を動かしながらだと、立ち止まってやった朝よりもずっと消耗が激しい。十秒、十五秒と数えるうちにみるみる息が上がり、膝のあたりが頼りなく震え始める。
後ろから、ジンの容赦ない声が飛んできた。
「おいらでん、まだ切るなよ」
「だ、だって、歩きながらはきついです!」
「きついから今やってんだろ」
頭ではそういう訓練だと分かっていても、荒くなる呼吸に身体がどうしてもついていかない。
それなのに、すぐ前を歩くはじめは一度も振り返らないまま、弾んだ声で言った。
「あ、うち、まだ結構いけるかも!」
「な、なんで一日山を歩いた後でそんなに元気なのよ!」
同じだけ歩いて、同じように疲れているはずなのに、この基礎体力の差が心底悔しかった。
結局、らでんの方がちょうど二十秒あたりで限界を迎えて、ふっと薄い『纏』へと戻してしまった。すると、すぐ後ろからジンの声が落ちる。
「らでん、二十秒」
らでんは肩でぜえぜえと息をしながら振り返った。
「えっ……後ろで秒数、数えてたんですか?」
「まあな」
その間も前のはじめはずっと『練』の厚みを保ったまま歩き続け、三十秒、四十秒と過ぎて、四十五秒を数えたところでようやくふうっと大きく息を吐いて『纏』へ戻した。
ジンは足を止めないままのはじめの背中を見て、面白そうに言った。
「よし、四十五秒。今回ははじめの勝ちだな」
「やった、勝った!」
「ちょっと、これ別に競技じゃないのに!」
「いや、こいつはこういう競争にした方が手っ取り早く伸びるタイプだろ」
「ジン、もう一回やろ! 次は一分いく!」
「だからはじめ、すぐその気に乗らないでっ!」
慌てて止めに入りながらも、ジンに煽られてすぐに目を輝かせるはじめの分かりやすさがおかしくて、らでんは苦しい息のまま笑ってしまった。まるで小学生の駆けっこみたいだな、と思うと、重たかった足取りが少しだけ軽くなった。
◇ ◇ ◇
夜、宿舎へ戻って夕食と風呂を済ませると、らでんはさっそく机の上に端末を広げ、今日見つけたばかりの吊り金具の写真を画面いっぱいに拡大した。
昼間、山の斜面で見た時からずっと引っかかっていたのだ。金具の裏に刻まれた、あの文字とも記号ともつかない独特の印。この村の古い石柱の文様とも、《渡り灯》の円とも違うけれど、らでんは確かにどこかでこれとよく似た形を見た覚えがあった。
――そうだ、ネットの『古層板』だ。
らでんは記憶を辿りながら、自分がいつも出入りしている歴史・民俗資料の専門掲示板を開き、検索窓にいくつもの言葉を打ち込んだ。
掘り起こしたのは、以前やり取りした『みずき堂』さんが昔に上げていた古いまとめ投稿だ。そこには、各地の山間部で見つかった古い民具や祭具、それに旅人たちが残したという珍しい印の写真がいくつも並んでいた。
画面をスクロールする人差し指に、自然とぐっと力が入る。
そして、その中の一枚の写真で、らでんの指先がぴたりと止まった。
金具の裏の印と、細部の線の跳ね方から曲がり具合まで、嘘みたいにぴったり重なる写真があったのだ。
――これだ。間違いない。
らでんは息を止めて、その写真の横に添えられた解説文を食い入るように読んだ。
そこには『漂泊民系集団に見られる所有・通行標識の一例』と記されていた。言葉の意味が頭に入ってきた途端、胸の奥がどくんどくんと大きく波打ち始める。
「……ひょうはくみん?」
自分の声が、夜の静かな部屋に小さく落ちた。
らでんは少し震える指先で端末を持ち上げ、隣のベッドで足を伸ばしていたはじめの方へ画面を向けた。
「は、はじめ、これ見て……!」
はじめがベッドの上からひょいと顔を上げて、画面を覗き込む。
「ん? なにこれ、昼間の金具と同じ印じゃん。どうしたの?」
「この印を使ってたの、この村の人じゃない……!」
詳しい説明を言葉にして並べるより先に、らでんの弾んだ声だけで、とんでもないものを見つけたのだという熱が部屋の中に伝わった。
◇ ◇ ◇
翌朝、らでんは昨夜の興奮がまだ胸の奥に残ったまま、朝食の席でジンに端末の画面を見せた。
「ジンさん、これ見てください! 昨日《灯の宿》の近くで見つかった金具の印、特定の村に定住しない、移動する集団が使ってた標識だった可能性があるんです!」
身の乗り出しすぎで机がガタッと鳴ったけれど、画面を見たジンは「へえ」と短く相槌を打っただけだった。
らでんは思わず肩透かしを食って食い下がる。
「えっ、『へえ』だけですか!? もっと驚かないんですか?」
「いや、面白えなと思ってよ」
てっきり「よく見つけたな」と驚くかと思ったのに、ジンは画面の印を見ながら、どこか楽しそうに口元を緩めていた。
それから、ジンは顔を上げて二人を見る。
「だが、もしそいつが本当なら、今までの話がガラッと変わってくるな」
隣で味噌汁のお椀を持っていたはじめが、きょとんとして聞き返した。
「話が変わるって、何が?」
らでんもすぐには意味が掴めず、二人の視線がジンの手元へと集まった。
ジンは机の端に置いてあった古い地図の写しを広げ、今の村、山向こうの集落、それをつなぐ旧道と《灯の宿》の位置を、指先で一つ、また一つと順番に辿ってみせた。
「いいか。今まで俺たちは、村から村へ灯を順番に手渡してたと思ってただろ。だがな、そいつらは誰かに灯を渡してたんじゃなく――」
ジンはそこで一拍置き、旧道の線をすっと指でなぞった。
「――その集団自身が、灯と一緒に山を移動してた可能性もある」
ジンの指の動きを目で追ううちに、今までバラバラの『点』として見ていた石柱や建物跡が、一本の生きた『線』になって繋がっていくのが分かった。
らでんははっとして顔を上げた。
「……あっ、灯を渡すんじゃなくて、灯を持って移動してた?」
「ああ。そもそも一つの村に定住してねえ連中なら、そっちの方が自然だろ」
横で聞いていたはじめも、お椀を置いて地図の上へ身を乗り出した。
「じゃあさ、村から次の村へお祭りのバトンを渡してたんじゃなくて、その人たち自身が灯を持って、山から山へ渡り歩いてたってこと?」
「かもな」
『祭りを渡す』のではなく、『人そのものが山を渡っていた』という新しい見方に、らでんの頭の中で今まで見ていた景色がくるりと裏返って組み替わった。
最初に土蔵で「村の古い祭具だ」と聞いたから、自分はずっとこの村の中や、隣の村とのやり取りの中にばかり答えがあると思い込んでいたのだ。けれど、もし最初から山を渡り歩く人たちの持ち物だったとしたら、あの《渡り灯》の擦り傷一つとっても、まるで違う意味に見えてくる。
物の名前や分類を一つ知ると、なんだか分かった気になって安心してしまう。その安心のせいで、自分が見ようとする範囲まで勝手に狭めてしまっていたのかもしれない。
らでんは古地図に描かれた村境の線を越え、さらにその先の山並みへと目を移してから、手元の調査ノートを開いてペンを走らせた。
『仮説 《渡り灯》は定住集落の祭具ではなく、山間を移動する集団の携行具・儀礼具だった可能性』
そこまで一気に書いてから、すぐ下の行に、今一番引っかかっている疑問を書き足す。
『では、なぜ一基だけこの村に残った?』
移動する人たちの大事な道具だったなら、どうして最後の一基だけが、今もこの村の土蔵にしまわれていたのだろう。それが、今の自分たちが辿り着いた新しい問いだった。
横からノートを覗き込んだジンが、その一行を見て少し笑った。
「おう、その理由まで分かったら、いよいよ面白そうだな」
その言い方に、らでんの胸の奥でむくむくと意地が湧いてきた。
「見つけますよ、絶対に私の手で見つけてみせます!」
「よし、言ったな。――じゃあ、まずは朝の『練』だ」
「ええっ、今この流れでですか!?」
らでんが椅子からずり落ちそうになった時には、隣のはじめはもうぱっと立ち上がって腕を回していた。
「よし、やろっか!」
「ちょっと、はじめはなんでいつもそんなに乗り気なのよ!」
二人の切り替えの早さにまるでついていけず、らでんはノートを抱えて頭を抱えた。
それでも、調査も念の修行もまだ何一つ終わっていないのに、昨日より確実に一歩先へ進んでいるのだと分かって、立ち上がる足には自然と力が入っていた。
◇ ◇ ◇
もちろん、新しい仮説が立ったからといって急に何でもうまくいくわけではなく、念の方も、うまくできないまま毎日同じことを繰り返す日々が幾重にも重なっていった。
朝、布団から起き上がると、まずは部屋の真ん中で『方便』の念から一日が始まる。
『点』、今日自分たちが何をするか。らでんがノートを開いてはっきり口に出す。
「私は、昨日の吊り金具と古層板の資料をもう一回細かく照合して、役場の古い記録も探す!」
向かいに座ったはじめも、背筋を伸ばして続けた。
「うちは、西側の尾根道のまだ入ってない先を、端っこまで歩いて確かめる!」
『舌』はこうして自分の声で言葉にすること。『錬』はそれを絶対にやり遂げると腹の底で決めること。そして『発』は、その日のうちに実際の行動として身体を動かすことだ。
最初は言わされているだけだった四つの段階も、毎朝欠かさず声に出しているうちに、自分が今日一日どこを見てどう動くのかが、朝の空気の中でくっきりと輪郭を持つようになってきた。
最初の数日間だけは、ジンも毎朝部屋の前まで顔を出して、同じことだけを聞いた。
「おい、今日は何すんだ」
その問いに少しでも曖昧な答えを返すと、ジンは容赦なく切り捨てた。それをやって何を知りたいのか意図が見えない、どっちが先か優先順位をつけろ、そもそもそれはお前が今日本当にやりたいことなのか――。
「はい、今のじゃ駄目だ。もう一回最初から言え」
くどくどと長い説教はしないくせに、納得するまでは絶対に「よし」と通してくれないから、二人は自分の頭で考えて何度でも言葉を組み立て直すしかなかった。
ある朝など、寝ぼけ眼のはじめが窓の外の山を適当に指差して、こんなやり取りになったことがある。
「えーっと、今日は山を歩く!」
「山のどこをだ」
「ん、あっちの上の方」
「はい、やり直し」
「ええーっ、なんでよ!」
「ただ上を歩いて、お前は何を見るんだ」
場所を言うだけでは通してもらえず、そこで何を見つけたいのかまで問い詰められて、はじめは腕を組んでうーんと唸ってから顔を上げた。
「……昔の古い道が、あの尾根のどこまで続いてるかを見る!」
「なんでそれを見るんだ」
「だって、もし灯を持って山を渡ってたなら、あの《灯の宿》みたいな場所が一個だけじゃないかもしれないから!」
自分の言葉で理由まで言い切ると、ジンはようやく満足そうに頷いて道を開けた。
「よし、なら行ってこい」
ジンが廊下の向こうへ歩き去るのを見送ってから、らでんははじめの肩へそっと顔を寄せた。
「……なんか今の、厳しい面接みたいだったね」
「ほんとだよ、毎朝テスト受けてるみたい」
「おい、丸聞こえだぞ」
廊下の角から低い声が飛んできて、二人は同時に首をすくめて顔を見合わせた。
朝の『方便』が終わると、次はすぐそのまま『纏』に入る。
やり始めたばかりの頃は、床に座って目を閉じ、呼吸を落ち着けて皮膚の上の薄い感覚を探し当てるだけでも、優に数分はかかっていた。自分の身体の周りに暖かい膜が浮かび上がってくるまで、じっと動かずに待っているような感覚だったのだ。
それが、毎日欠かさず一週間も続けると、らでんも座って目を閉じれば十数秒で入れるようになり、感覚の早いはじめはもっと短い時間でパッと纏えるようになった。二週間目には立ったままの姿勢でも入れるようになり、三週間が過ぎる頃には、山道を歩きながらでもずっと維持できるようになってきた。
もっとも、歩きながらだと、足元から伝わる振動でオーラの膜がたぷんと揺らぐ感じがして、油断するとすぐに一瞬だけ途切れてしまう。
そんな時は、決まって後ろを歩くジンから容赦ない指摘が飛んだ。
「ほら、らでん、今切れたぞ」
「うっ、今自分で分かって直そうとしてたところです!」
「分かってんなら、口を動かす前にすぐ戻せ」
言い訳しても仕方がないので、切れたと気づいた瞬間に、歩きながら呼吸を整えてもう一度薄い暖かさを呼び戻す。
前を歩くはじめも、急な坂道を登りながら懸命に『纏』を維持していた。足元の石や木の根に意識が向いている間は綺麗に続いていたのに、途中で横の茂みから野鳥がバサッと飛び立った瞬間、つられて視線が動いた拍子に、はじめの周りのオーラがふっとほどけた。
「はじめ、今切れた」
後ろからのジンの声に、はじめは思わず唇を尖らせて振り返った。
「もう、うるさいなー! 今ちょっと鳥が飛んだだけじゃん!」
「お前、実際に誰かと戦ってる最中だったら、敵に『うるさい』って文句言やあ待ってくれんのか?」
当たり前のことを冷たく返されて、はじめは「むっ……」と頬を膨らませたまま前を向き直し、荒くなった呼吸を整えてもう一度最初から『纏』を張り直した。
歩きながらの『絶』は、『纏』よりもさらに何倍も難しかった。
その場に立ち止まって精孔を閉じるだけなら、二人ともすぐにあの静かな状態へ入れるようになっていた。けれど、気配を消したまま一歩でも足を動かそうとすると、途端に肩や足首からオーラがぷつぷつと漏れ出してしまうのだ。
山の木々や空気と一体になるように、自分を無にする。前に出ようとする自分の意識や力みを、ひたすら奥へ落とす、落とす、落としていってようやく辿り着くのが『絶』なのに、そこから「歩こう」と足を動かした瞬間、どうしても自分の意識が前へ出てしまう。
らでんは慎重に右足を踏み出して一歩目で漏れ、立ち止まって閉じ直しては、二歩目でまた漏れた。
たまらず山道の真ん中で足を止め、深いため息をこぼす。
「……これ、歩きながらなんて難しすぎます……」
「当たり前だ。最初から歩けたら苦労しねえよ」
ジンにそう言われると、ほんの少しだけ肩の荷が下りた気がした。
すると、少し前で同じように抜き足差し足を試していたはじめが、自分の歩いた跡を振り返って指で数えた。
「あ、でも見て! うち、今五歩までいけたよ!」
「ちょっと、この『絶』でまで私と競わないでよ!」
少しずつ歩数は伸びてきていても、今のらでんには、この繊細な『絶』でまで駆けっこをする余裕はとてもなかった。
そして、夕方に取り組む『練』は、さらに粗が目立った。
はじめはとにかく勢いよく量が出る。出そうと決めた瞬間に周囲の空気を押す圧力が跳ね上がるのだけれど、よく見ると、いつも決まって右肩のあたりばかりが分厚く膨らんで、逆に背中側が薄くなるなど、出る場所に強い偏りがあった。
腕を組んでそれを見ていたジンが、はじめの肩口を指差して言う。
「お前、普段の身体の使い方の癖が、そのままオーラに出るタイプだな」
「え、どういうこと?」
「自分が動かしやすい得意な場所だけ、意識しなくてもオーラが勝手に分厚くなるんだよ」
はじめは自分の右肩から、よく動く脚の方へと視線を落として首を傾げた。
「それって、やっぱり駄目なの? 悪いこと?」
「別にいいも悪いもねえよ。ただ、自分がどこに偏りやすいかだけは、自分でちゃんと自覚しとけ」
無理に今すぐ真っ平らに直すよりも、まず自分の身体の癖を知っておけ、ということらしい。
一方のらでんは、はじめとは正反対だった。一度に押し出せるオーラの量はまだ少ないし、お腹の底に意識を落としてから全身へ広がるまでにもどうしても一拍時間がかかる。けれど、ひとたびその厚みを身体の周りに纏ってしまえば、最初の三秒から、十秒、二十秒、三十秒と、形を崩さずに保てる時間が少しずつ確実に伸びてきていた。
ある日の夕方、らでんの安定したオーラの輪郭を眺めていたジンが、ひょいと顎でらでんを指した。
「おい、らでん」
「はい!」
「お前の念、つくづく地味だな」
「……あの、それって一応、褒めてくれてるんですか?」
「おう、褒めてるぞ」
「絶対嘘だ、褒めてる言い方じゃないです!」
むきになって言い返すらでんの横で、息を整えていたはじめがけらけらと声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
そんなふうに朝晩の修行を重ねる間も、昼間の調査の仕事は毎日休まずに続いた。
山に登って旧道の続きを探し、土蔵の奥の箱を開け、役場の古い記録を照合し、村のお年寄りの家を回って話を聞き、何枚もの地図を重ね合わせる。一日に一つ新しいことが分かれば、その倍くらい「まだ分からないこと」が増えていったけれど、二人の足が止まることは一度もなかった。
集まってくる《灯渡り》の手がかりは、どれもやっぱり「山から山への移動」を指し示していた。
吊り金具と同じ標識、石積みに残された円の文様、尾根を越えていく細い旧道、そしてその道筋に点在するいくつかの集落。そこまで輪郭が見えかけているのに、その人たちが何と呼ばれていたのかという『名前』だけがどの記録にも残っておらず、かえってその空白が、一つの場所に留まらなかった人たちの気配を強く感じさせた。
ある日の午後、らでんは役場の倉庫から借り出してきた、百年以上前の古い税記録の帳面をめくっていた。当時の村の人口や、納められた年貢の数字が細かい墨字で並んでいる。
ページの上から順番に人数の数字を追っていたらでんの目が、ある年の季節の変わり目の記録でぴたりと止まった。
冬の終わりから春先にかけての欄だけ、村に滞在している人間の数が、ふっと増えているのだ。
らでんは帳面のその行を人差し指で押さえたまま、隣のジンを呼んだ。
「ジンさん、ちょっとこれ見てください」
横から帳面を覗き込んだジンが、かすれた数字をそのまま読み上げる。
「ん? なんだ、春と秋の時期だけ、村の人数が十五人くらい増えてるな」
「これ、よそから新しい人が引っ越してきたんでしょうか?」
「いや、違うだろ」
らでんもジンの言葉に頷きながら、急いでその翌年と、さらに次の年の帳面をめくって並べた。もし普通に村へ移り住んできた人たちなら、そのまま冬になっても人数は減らないはずだ。
けれど、別の年の記録を見ても、やっぱり春と秋には十五人ほど増え、雪の降る冬場には綺麗にいなくなっている。何年分もの帳面に、まるで判で押したように同じ増え方と減り方が繰り返されていた。
らでんは並べた二つの帳面の数字を、両方の人差し指で同時に示した。
「……やっぱり、この村に定住してない人たちです」
「かもな」
「きっと、季節ごとに山を回ってきてたんですよ!」
鼻息を荒くして頷くらでんに、ジンはやっぱり「かもな」とだけ返して、それ以上は断定せずに可能性のままで留めておいた。
◇ ◇ ◇
また別の日の午後、らでんとはじめは村の奥にある古い民家へ聞き取りに向かった。
今日お話を伺う相手は、八十八歳になる女性のミヨさんだ。
日差しの入る縁側の奥、懐かしい畳の匂いが残る座敷で、ミヨさんは小さな座布団の上にちょこんと座っていた。挨拶をして昔の村の暮らしについて尋ねているうちに、ミヨさんがお茶を一口飲んでから、ふと思い出したようにぽつりと言った。
「そういえば……昔は、山から来る人らがいたなぁ」
ノートの上で走らせていたらでんのペンが、ぴたりと止まった。
「山から来る人、ですか? ミヨさんが小さい頃に、そういう人たちがいたんですか?」
ミヨさんは皺の寄った目元を細めて、長い時間昔を辿るように考えてから、ゆっくりと首を振った。
「いや、わしが生まれるもっと前の話じゃ。わしのばあさんが、昔よくそう言っとったんよ」
ミヨさん自身の記憶ではなく、祖母から伝わった言葉として残っていた話なのだと分かって、らでんはペンを握り直した。
「おばあさまは、その人たちのことをなんて仰ってたんですか?」
「決まって春に来る、んで、秋にもまた来るってな」
その瞬間、らでんの頭の中で、先日見たばかりの古い税記録の数字がパッと重なった。春と秋だけ、十五人ほど村の人数が増えていた、あの帳面の記録だ。
「その春と秋に来る人たちは、村で何をする人たちだったんでしょう?」
尋ねると、ミヨさんは膝の上で細い指を一つずつ折りながら答えた。
「まずは、鍋じゃな」
「えっ、お鍋ですか?」
「そうよ。底に穴の開いた鍋を綺麗に直しとった。ほかにもな、欠けた刃物も研いで直すし、箍(たが)の緩んだ桶も、破れた傘も、家の壊れたもんなら何でも直してくれたそうじゃ」
隣で大人しく聞いていたはじめが、ぱっと膝を乗り出した。
「なんでも直すって、町の修理屋さんみたいなこと?」
「そっか……ただの旅人じゃなくて、そういう技術を持った職人さんの集団だったのかもしれない……!」
らでんが興奮してノートに書き留めていると、ミヨさんは懐かしそうに天井の梁の方へ目を向けた。
「それにな、その人らは歌もたいそう上手かったそうじゃよ」
鍋や刃物の修理の話から急に『歌』という言葉が飛び出して、らでんとはじめは同時に顔を上げた。
「歌、ですか?」
「ああ。仕事が終わった夜にな、あのおっきな灯を持って、みんなで歌いながら踊っとったって」
座敷の中が、ふっと静かになった。
『灯』と『踊り』。その二つの言葉が目の前で繋がった途端、部屋の空気まで変わったような気がした。
隣に座っていたはじめが、自分の両手をぱっと見下ろして声を上げる。
「……今、踊りって言った? ねえ、おばあちゃん、それってどんな踊りだったの!?」
「どんなと言われても、踊りじゃよ」
そこから、聞き取りの主役がらでんからはじめへとすっかり入れ替わった。
「どんな動きをする踊りだったの? 手は? 足のステップは?」
身を乗り出して矢継ぎ早に聞くはじめに、ミヨさんは可笑しそうに目尻の皺を深くして笑った。
「さあて、わしは知らんよ。もうよう覚えとらん」
「ええーっ、そんなこと言わないで! お願いばあちゃん、ほんのちょっとだけでもいいから思い出して!」
「だってお前さん、わしだって本物を見たわけじゃないんじゃよ。子供の頃に、ばあさんが見様見真似でやってみせてくれたのを見たことがあるだけじゃから」
「それでいい! そのおばあちゃんの真似でいいから!」
はじめは座布団から膝を滑らせて、ミヨさんのすぐ前までずり寄って両手を合わせた。
「ね、ちょっとだけやってみて!」
普段の聞き取りなら、らでんが言葉や年代を順番に整理して尋ねるところだ。けれど、今日ばかりは横から口を挟む隙間もない。身体で覚えた動きのことは、同じように身体を動かすはじめがじかに聞くしかないのだと分かった。
あんまり真剣な目で頼み込まれて、ミヨさんは少し照れたように自分の膝をさすった。
「やってみろと言われてもな、もうこんな年じゃから、昔みたいに立って身体は動かんでよ」
すると、はじめはミヨさんの手元をじっと見つめたまま言った。
「立たなくていいよ、座ったままで大丈夫! 手だけでもいいから、どんな感じだったか見せて!」
そこまで言われて、ミヨさんは「しょうがないのう」と小さく笑い、少し考えてからゆっくりと自分の右手を胸の上へ持ち上げた。
見えない何かを上から掴むように右手の指を丸め、左手を胸の前にそっと添えて、座ったまま上体をほんの少しだけ横へ捻る。それから、右へ、左へと小さく肩を揺らすように落とし、最後に右手をすっと前へ押し出して止まった。
「……確か、こんなじゃったかな」
ミヨさんの声は小さかった。自分の身体の奥に残っている遠い記憶を、指先で手繰り寄せているような動きだった。
はじめは瞬きもせずにその手元と肩の動きを食い入るように見つめていたが、すぐに「ばあちゃん、もう一回だけ見せて!」と頼んだ。
ミヨさんがもう一度同じように手を動かすと、はじめはその場でぱっと立ち上がり、畳の上で見様見真似で同じ形を作ってみせた。
右手を高く上げ、左手を胸の前に置き、腰をキュッと捻りながら右足を一歩前へ踏み出す。
横で見ているらでんの目には、今ミヨさんがやった通りの形に見えた。けれど、座布団の上からそれを見ていたミヨさんが、すぐに首を振った。
「いや、違うな」
はじめがぴたりと動きを止める。
「えっ、どこが違う?」
「足じゃ」
「足? 前に出すの、右足じゃなかった?」
「右でいいんじゃが、そうじゃない」
ミヨさんは座ったまま、自分の腰の横あたりをトントンと手で叩いた。
「足先ばっかりじゃなくて、ここじゃよ。ここをもっと落とすんじゃ」
『腰』だと言われて、はじめは上げた右手の形はそのままに、ふっと息を吐いて自分の腰の位置を一段低く落とした。途端に、畳の上を踏んでいた両足の裏がどっしりと落ち着いて、上体の揺れがぴたりと収まる。
それを見たミヨさんの目の色が、わずかに変わった。
「……ああ、そうじゃ」
その静かな声で、今の一手が当たったのだと分かった。
はじめは目を輝かせて「じゃあ、続きも!」ともう一度最初から動きをなぞり、腰を落としてから右腕を前へ動かしかけた。
その途中で、またミヨさんの声が飛ぶ。
「あ、そこ。止まりんさい」
「えっ、ここ? もしかして肩?」
ミヨさんがこくりと頷いた。
「そう、肩じゃ。そんなに突っ張っとらんかった」
言われて、はじめはぐっと入っていた両肩の力をすっと抜いた。すると、高く構えていた右腕が自然な重みで少し下がり、胸の前を通って無理なく前へと出て止まる。
ミヨさんはその立ち姿を、目を細めて長いこと眺めてから、深く頷いた。
「……うん、そうじゃ。ばあさんがやっとったのは、そういう形じゃった」
はじめの顔が、ぱあっと音を立てるように明るくなった。
「ほんと!? 今の感じで合ってる!?」
「ああ、そうじゃよ」
らでんは慌てて横から端末を構え、はじめの立ち姿とミヨさんの手の動きを写真や動画で記録し続けていたけれど、その途中でふと気がついた。
いつもなら「今の撮れた?」と画面を覗き込んでくるはずのはじめが、今日は一度も端末の画面を見ようとしない。写真や文字の記録ではなく、今まさに自分の腰の深さと肩の力の抜き具合で、百年前の動きをそのまま身体へ刻み込もうとしているのだ。
「ねえ、忘れないうちにもう一回やるから見てて!」
汗をうっすら浮かべながら何度も同じ一歩を繰り返すはじめに、ミヨさんは呆れたように、けれどとても嬉しそうに声を上げて笑った。
「あはは、お前さんら、ほんとにしつこいのう」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ミヨさんの家から宿舎へ戻ってきても、はじめは部屋へ入らずに廊下の狭い板の間でまた同じ動きを繰り返していた。
右手を《渡り灯》を提げる形に構え、左手を胸の前に添え、ぐっと腰を落として一歩踏み出しながら身体を捻って止まる。
けれど、何度か繰り返したところで、はじめは足を止めて小さく首を傾げた。
「……うーん、なんか違う」
部屋に荷物を置いて廊下へ出てきたらでんが、その後ろ姿に声をかけた。
「え、何が違うの? 昼間ミヨさんに『合ってる』って言ってもらえた形と同じに見えるけど」
「見た目の形は同じなんだけどさ、動いた時の感じがなんか違うんだよ。昼間あのお家でうまくいった時、もっと身体が楽だったもん」
ミヨさんの前で一度だけぴたりと噛み合った時の『楽だった感覚』だけが、はじめの身体の中にまだ鮮やかに残っているらしい。
らでんは廊下の壁に寄りかかって首を傾げた。
「楽って、どういうこと?」
「んー、なんていうか、変に引っかからないで、スッと前に動ける感じ」
言いながら、はじめはもう一度最初から構え直した。
今度は、前に踏み出す右足の爪先を真っ直ぐではなく、ほんの少しだけ内側へ斜めに向けて床を踏む。すると、落とした腰から上体が引っかかることなく自然に前へと運ばれて、さっきまであった窮屈な詰まりがすっと消えた。
はじめはそこでピタリと止まり、自分の足元を見下ろして呟いた。
「……あっ、こっちだ」
「今の、どこを変えたの?」
「出す足の向きをちょっとだけ斜めにしたの。こうした方がさ、この一歩だけで終わらないで、次の足がずっと出やすいんだよ」
ポーズとして綺麗に止まるかどうかではなく、「次の一歩が出やすいかどうか」で自分の身体の角度を選んでいた。
その時、宿舎の玄関の戸口に、外から戻ってきたらしいジンが黙って立ってこちらを見ているのに気がついた。
はじめも入口の人影に気づいて顔を上げる。
「あっ、ジン。なに、いつから見てたの?」
「いいから、今のもう一回やってみろ」
言われて、はじめは廊下の真ん中でもう一度構えた。
右手を上げ、左手を胸に添え、腰を深く落としてから斜めに一歩踏み込んで身体を捻り、右腕を前へ出す。さっき一人で試行錯誤した分だけ、足運びから迷いが消えていた。
すると、その動きの途中でジンが低く声をかけた。
「おい、そこで止まれ」
ジンは無造作に板の間を歩み寄ってくると、はじめが前に出していた右手の位置を、上から指先で押してほんの少しだけ下へ下げさせた。
「この高さだ」
「えっ、なにこれ?」
「お前のさっきの高さだと、手に灯を提げた時、真正面からまともに風を受けるだろ」
『灯を持って風を受ける』という一言に、壁際で見ていたらでんはハッとして顔を上げた。
はじめは下げられた自分の右手の高さを確かめながら、ジンを見上げる。
「風……そっか、じゃあこのくらいの高さ?」
「おう。その高さのまま、もう一回最初っから動いてみろ」
促されて、はじめはもう一度腰を落として一歩踏み出し、身体を斜めに捻った。
すると今度は、少し低く構えた右腕と、捻った上体と、胸の前に添えた左腕のちょうど真ん中の懐に、提げた《渡り灯》を風や木の枝からすっぽりと抱え込んで守るような空間が出来上がったのだ。
らでんは思わず一歩前へ出て声を上げた。
「……っ、これ、灯を風から守る形になってます!」
すると、横からその姿勢を眺めていたジンが、ぽつりと言った。
「こりゃ、ただの踊りじゃねえな」
夕方の廊下が、ふっと静かになった。
構えたままのはじめが、目を丸くしてジンを見返す。
「え? 踊りじゃないって、だって昼間のおばあちゃんは夜に踊ってたって……」
「ああ。だが、少なくとも誰かに見せるために作った動きじゃねえよ」
らでんは、ジンが直したばかりのはじめの右手の高さと、低く落ちた腰を交互に見つめた。
「どうしてそう思うんですか?」
ジンははじめの足元から肩のラインまでを顎で示して答えた。
「動きに無駄が少なすぎる」
それから、自分が一歩だけ前へ足を出す真似をしてみせた。
「落とした重心の位置も、次が出やすい足の角度も、力まない肩も、全部『ものを持って長く移動するため』の動きになってる」
言われたはじめは、自分の身体でもう一度その一歩を踏み出し、上体を捻って懐の空間を確かめた。
ジンが腕を組んで頷く。
「そいつは多分、荷物を抱えて暗い山道を歩くための身体の使い方だ」
「山を歩くための、動き……」
その言葉を聞いた瞬間、らでんの頭の中で、土蔵にあったあの《渡り灯》の形が鮮やかに蘇った。普通の提灯よりずっと長い持ち手、ぶつけても壊れにくい頑丈な角型の木枠。あれも全部、飾りではなく、実際に山道を運ぶための形だったのだとしたら。
らでんは思わずジンを見上げて尋ねた。
「じゃあ、この踊りの動きって、本当は《渡り灯》を持って山を歩くための技術だったってことですか?」
「かもな」
らでんは慌てて鞄から自分の端末を取り出し、最初に土蔵で撮ったB-14《渡り灯》の細部写真を呼び出した。
一番最初に実物を見た時から、ずっと気になっていた場所がある。長い持ち手の木が、長年の使用で白っぽく擦り減っていた場所だ。普通に真ん中を握って提げるなら中央が一番擦れるはずなのに、あの摩耗の跡は、なぜか真ん中から少しだけ偏ったところについていた。
どうしてこんな変な場所が擦れているんだろう、とずっと引っかかっていたのだ。
らでんは画面を開いたまま、廊下の真ん中に立つはじめを呼んだ。
「はじめ!」
「ん、なに?」
「ごめん、今のジンさんに直してもらった持ち方、もう一回だけそのままやってみて!」
はじめが言われた通りに腰を落とし、右手を少し低く、左手を胸の前に構える。らでんは端末の画面を持ち上げ、今のはじめの右手の位置と、《渡り灯》の長い持ち手の写真を見比べた。
画面の中の白く擦り減った場所に、今目の前にあるはじめの右手がちょうど来る。
らでんの口から出た声は、自分でも驚くほど小さくなっていた。
「……同じだ」
「え、何が同じなの?」
不思議そうに首を傾げるはじめに、らでんは端末の画面をぐっと向けて見せた。
「ほら、この《渡り灯》の持ち手の、木が擦れて白くなってる場所! 今はじめがやったみたいに、風から灯を守る角度で斜めに構えると、ちょうどこの擦れてる場所に右手が来るんだよ!」
「……うわ、ほんとだ。こう持つと、ちょうどそこに来るんだ」
「お祭りで見せるために真っ直ぐ提げてたんじゃないんだ。本当に、山道を風から守りながら移動するために、毎日こうやって握ってた跡だったんだ……!」
興奮で声を震わせるらでんの横で、ジンは何も言わずにほんの少しだけ口元を緩めて笑った。その無言の笑みが、どんな言葉の肯定よりも力強く感じられた。
◇ ◇ ◇
その翌日から、村のお年寄りたちを訪ねる聞き取りのやり方が大きく変わった。
古い文書や道具の名前だけでなく、昔見たという踊りや歌、ちょっとした身体の動きの記憶を重点的に尋ねるようになったのだ。紙の資料や物の傷跡からだけでなく、今生きている人たちの身体の中に残っているものを探す調査だった。
ある家のお年寄りは、座椅子に座ったまま両手を上げて見せてくれた。
「わしが見た時は、確かこう、腕を前で交差させとったな」
また別の家のお年寄りは、自分の足元を杖で示しながら言った。
「いやいや、足の運びはこう、すり足みたいに低く出しとったぞ」
さらには、人によってこんな食い違いが出ることもあった。
「あれは二人一組で向かい合って踊るもんじゃった」
「いや、違う違う、何人もで縦に一列になって歩いとったよ」
記憶が曖昧で矛盾している証言もたくさんあったけれど、らでんはどれ一つとして「間違いだ」と切り捨てず、言葉も動きもすべてそのままノートと動画に記録して残した。
そして、集まったバラバラの身体の断片を、はじめが自分の身体で片っ端から試していく。
「ねえ、おじいちゃん、さっき言ってた足の出し方って、これ?」
ミヨさんとはまた別の家のお年寄りの前で、はじめが実際に一歩踏み出してみせる。
「うーん、なんか違うな」
「じゃあ、腰を落としてこう出したら?」
「おお、さっきよりだいぶ近くなったぞ」
はじめはその場で首を傾げ、もう一度足元を確かめた。これまでに何人ものお年寄りから集めた動きの断片と、毎日実際の山道を歩いてきた感覚を、身体の中で重ね合わせているらしい。
もしこれが、重い灯を持って長い山道を歩くための技術なら、次の一歩が一番楽に出せる体勢と足の角度があるはずだ。
「……じゃあ、こうやってちょっと斜めに重心を残すのは?」
「あっ、それじゃ! その形じゃった!」
お年寄りがポンと膝を叩くたび、らでんはノートに大きく丸をつけた。
一方で、念の修行の方も、朝起きたら『方便』、昼間の調査や移動の最中は『纏』、夕方には短い『練』を何本も繰り返し、夜寝る前に『絶』を練習するリズムが、二人の一日の生活の中にすっかり溶け込んでいた。
あの白い朝霧の山道でジンから最初に『纏』を教わってから、もうすぐ一か月が経とうとしていた。
最初の頃は、ただ皮膚の上にオーラを留めようとするだけで、肩や首筋がガチガチに凝り固まっていたのに、今では歩きながら少し膜が乱れても、ジンに言われる前に自分で気づいて、呼吸から静かに整え直せるようになっている。まだ次の新しい段階へは進めなくても、毎日同じ基礎を繰り返す手応えは、一か月前とは比べものにならないほど確かに変わっていた。
今では、はじめは山道を歩いている最中なら十分間は安定して『纏』が持つようになったけれど、途中でらでんやカルドから急に話しかけられると、そちらへ意識が向いてぷつりと切れてしまう。
逆にらでんは、机に向かって古い資料を読んでいる間ならかなり長く『纏』を保てるようになったものの、山道で小石に足を取られて転びそうになると、あっさり切れてしまった。
夜の『絶』は、二人ともまだ一分間は持たない。
夕方の『練』は、はじめが一分近くまで押し出し続けられるようになった代わりに、まだ日によって厚みのムラが大きく、らでんは四十秒ほどで息が上がるものの、最初から最後までほとんど形が崩れないくらい安定してきていた。
そんなある朝、二人の朝の練習を黙って見ていたジンが、ふいに「まあ」と口を開いた。
らでんとはじめが揃って顔を上げると、ジンは腕を組んだまま続けた。
「一番最初の頃よりは、だいぶマシになったな」
らでんは思わず声を張り上げた。
「い、一か月毎日欠かさずやって、やっと『最初よりマシ』ですか!?」
隣のはじめが、目をパチパチさせながららでんの袖を引く。
「ねえ、今のって一応、褒められてるのかな?」
「……たぶん、ジンさんにしては褒めてるんだと思う」
二人が顔を見合わせている間に、当のジンはもうさっさと外へ出ていってしまっていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、役場の倉庫の奥を整理していた時に、決定的な古い写真が一枚見つかった。
今から百年以上も前に撮影されたらしい、セピア色に褪せたガラス乾板の焼き付け写真だ。ピントが少しぼやけた画面の中に、険しい山道を歩く十数人の集団が写り込んでいる。
先頭を行く一人が長い棒の先に《渡り灯》を提げ、その後ろに荷物を背負った人たちが一列になって続いていた。お年寄りの証言にあった『一列になって歩く』という話とぴったり重なる。
らでんが震える指でその写真を端末で撮り、先頭の人物のあたりをぐっと拡大してみた。
すると、灯を提げて歩くその人物は、両足を斜めに開き、右手を少し低く、左手を胸の前に添えて、上体をきゅっと内側へ捻っていた。写真の中で止まったその一瞬の姿勢が、先日宿舎の廊下ではじめが辿り着いたあの形と、そっくりそのまま重なったのだ。
横から画面を覗き込んでいたはじめが、息を呑んで呟いた。
「……これ、うちのやつと同じだ」
はじめはその場でぱっと立ち上がると、画面の中の写真を見つめながら、自分の身体でまったく同じ形を作ってみせた。
右手を少し低く構えて風を避け、左手を胸の前に置き、腰を深く落として踏み出す足を斜めにする。画面の中の百年以上前の人物と自分の手足を何度も見比べながら、ミリ単位で角度を合わせていく。
もちろん、ぼやけた写真一枚ですべての動きが完全に分かるわけではない。それでも、百年以上前にこの山を歩いていた名もなき誰かの姿勢と、今目の前に立っているはじめの身体がぴたりと重なった瞬間、百年という途方もない時間が一気に目の前まで縮まった気がして、らでんは胸がいっぱいで声が出なかった。
そこへ、後ろから足音もなく近づいてきたジンが、写真とはじめの姿を交互に見て言った。
「ほう。ようやく一個、はっきり繋がったな」
『繋がった』というジンの言葉に、らでんは拡大した写真を見つめたまま、ふっと小さく笑った。
「……ほんとに、この踊り、ちゃんと残ってたんですね」
土蔵の帳面や古い紙の上ではなく、それを見て真似したおばあさんから孫へと、生きた人間の身体の中にちゃんと残されていたのだと思うと、鼻の奥がツンと熱くなった。
◇ ◇ ◇
その夜、宿舎の机に向かったらでんは、調査ノートの新しいページを開き、今までより少し大きな文字で書き記した。
『《灯渡り》に伴う身体技法。祭礼舞ではなく、移動技術が舞として残された可能性』
そこまで書いてから、一呼吸置いて、さらにその下へ書き足す。
『なぜ“舞”として残した?』
そこで、らでんのペン先が止まった。
ただの山歩きの技術なら、普通に歩き方として教えればいいはずだ。それをどうして、わざわざ歌や夜の『踊り』という形に変えてまで残そうとしたのだろう。一つ繋がった先には、また新しい問いが待っていた。
ノートのすぐ横では、はじめが今夜も飽きずにあの一歩を繰り返していた。
腰を落として一歩踏み出し、身体を捻って懐の灯を守り、次の足を出そうとするところでピタリと止まる。そこから先の二歩目、三歩目がまだ分からなくて、いかにも悔しそうに眉を寄せていた。
はじめが足を止め、らでんの方を振り返ってぽつりとこぼす。
「ねえ、らでん。この踊りの続き、どっかに残ってないかなあ」
らでんはペンを置き、はじめの顔を見上げて笑った。
「うん、明日からまた一緒に探そう」
はじめの目がぱっと明るくなる。らでんは書き終えたノートをぱたんと閉じて、その表紙を両手で軽く叩いた。
「ここまで残ってたんだもん。続きだって、きっとどこかにちゃんとあるよ」
まだ分からない続きを探しに行くこと、それ自体が明日への一番の楽しみだった。
◇ ◇ ◇
そして、二人がそんな話をしている部屋のすぐ外の廊下に、ジンが一人で立って耳を傾けていた。
ジンは二人に声をかけることもなく、誰もいない暗い廊下で、自分の右足をほんの少しだけ斜め前へと踏み出し、昼間見たはじめの姿勢をそのまま真似て試してみた。
腰を落とし、懐を作った瞬間、ジンの顔つきがわずかに変わり、夜の廊下に小さな呟きが落ちた。
「……へえ」
◇ ◇ ◇
翌朝、いつものように宿舎の前に並んだ二人を見て、ジンが開口一番に言い放った。
「よし、今日からは朝の『纏』、一時間な」
らでんは思わず目を剥いて声を張り上げた。
「い、一時間!? 昨日までより急に増えすぎじゃないですか!」
「うし、一時間ね! やろ!」
「……ちょっと、前から薄々気づいてたんだけどさ、はじめってこの念の修行、実は結構楽しんでるよね!?」
腕まくりをして笑うはじめと、さっさと木の根元へ座り込むジンを見比べながら、らでんも苦笑いして肩の力を抜いた。
念の修行も、《灯渡り》の調査も、まだどれ一つとして完成していない。だからこそ毎日がこんなに面白くて、自分たちが今日また一歩前へ進むための、何よりの理由に見えていた。