季節が少しずつ進んで、朝の空気がひんやりと肌を刺すようになってきた。
布団から抜け出すと、まずはその冷えた空気の中で背筋を伸ばし、毎朝の『方便』を唱えてから仕事へと出る。
『点』・『舌』・『錬』・『発』。四つの段階を声に出して確かめ終える頃には、縮こまっていた身体も内側からじんわりと温まった。
そこから山の斜面を登っていく間も、身体の周りに薄い『纏』を保ち続ける。もし足元の小石に気を取られて膜が途切れても、今ではわざわざ立ち止まらずに、足を動かしたまま呼吸を整えて呼び戻せるようになっていた。最初は山道の真ん中でいちいち足を止めなければ直せなかったことを思えば、我ながらずいぶん慣れたものだ。
けれど、机に向かって古い資料をめくっている間ならかなり長く保てるのに、横から急に誰かに話しかけられると、どうしてもそこでふっと膜がほどけてしまう。
切れたあとにすぐ張り直すことはできるようになった。でも、自分のオーラがどこからどんなふうに崩れ始めるのか、その肝心な瞬間がいまだに掴めないのだ。
あっ、と自分で気づくのは、いつも決まって完全に切れてしまったあとだった。
それなのに、後ろを歩いているジンは、いつもらでん自身より先にそれに気づいて声を飛ばしてくる。いったいどこを見て、何を手掛かりにしているのだろう。
もし完全に切れてしまう前の予兆を自分の目でも確かめられるようになったら、崩れる前に踏みとどまるやり方だってきっと見つかるはずなのに。
「……うーん、なんで誰かと喋ろうとすると、すぐ『纏』が切れちゃうんだろう」
自分の肩のあたりを包む薄い暖かさを確かめながらぼやくと、すぐ前を歩いていたはじめが、歩調を緩めないままひょいと首だけを振り返った。
「え、そう? うちはむしろ逆だけどな」
「逆って、なにが?」
「じっと机に座ってる時より、こうして山道を歩いてる時の方がずっと楽に保てるもん」
事もなげに言うはじめの背中を見ながら、らでんは毎日何時間も古い帳面と睨めっこしている時の、首から肩にかけての重たいこわばりを思い出した。
「ええー、私は絶対、椅子に座って資料を見てる時の方が断然楽だよ。歩きながらだと、足元の段差を気にした拍子にすぐ揺らいじゃうんだもん」
すると、二人の少し後ろから、低い声で短い言葉が落ちてきた。
「そんなもん、人による」
らでんが振り返ると、数歩離れたところでジンがポケットに手を突っ込んだまま歩いていた。
「ちょっとジンさん、その『人による』って、何でも片づけられる便利な言葉として使ってません?」
「実際、人によって得意なもんが違うんだからしょうがねえだろ」
あっさり躱されて唇を尖らせたけれど、確かにこの一か月で、自分とはじめの身体の癖がまったく違うことはいやというほど分かってきている。
たとえば気配を消す『絶』も、最初の数秒しか持たなかった頃から比べれば、二十秒、三十秒と伸びて、調子のいい時には一分間近くまで閉じ続けられるようになった。
ただ、静かに息を潜めている最中に、頭上の枝で野鳥が鋭く鳴いたりすると、びっくりして肩が跳ねた拍子にすぐオーラが漏れてしまう。
先日など、はじめが鼻をむずむずさせて盛大なくしゃみをして『絶』を失敗した時には、らでんはお腹を抱えて笑ったのだけれど、その直後に今度は自分の首筋に小さな虫の脚先が触れているのに気づいて、思わず変な悲鳴を上げて飛び上がってしまった。
「うわあっ! な、なにこれ虫っ!?」
あの時は、すぐ横で見ていたはじめが涙を浮かべて笑い転げたものだ。そうやって二人でひとしきり笑い終える頃には、せっかく消していた気配などすっかり吹き飛んで、いつの間にか普段通りの『纏』に戻ってしまっていた。
一方で、オーラを強く押し出す『練』では、はじめの勢いが一か月前よりも目に見えて安定してきている。
以前は力任せに出そうとして肩や背中ばかりが上下していたのに、今では息を吐く長さが綺麗に揃って、周りの空気を押す厚みもむやみに暴れなくなった。
らでんの方は、一度に出せる量こそまだ控えめだけれど、五十秒、一分と、同じ厚みのまま保っていられる時間がじわじわと伸びている。「あと何秒持たせなきゃ」と頭の中で数を数えて焦ることが減った分、余計な肩の力も抜けるようになったのだ。
ジンはたまに二人の練習を横目で見て、「ま、前よりマシになったな」とだけ言う。
そんなぶっきらぼうな一言でも、今のらでんにはちゃんとした褒め言葉に聞こえた。毎日少しずつ変わっているところを、ジンが見落とさずに見てくれているのだと分かるからだ。
もっとも、「今の、具体的にどこがマシになったんですか!」と詳しく聞き返そうとする頃には、当のジンはもう欠伸をしながら全然別の方を向いていたりするのだけれど。
◇ ◇ ◇
この村へ入って調査を始めてから、もう一か月あまりが過ぎていた。
底の抜けた鍋や欠けた刃物、箍の緩んだ桶に破れた傘といった日用品を修理して回った聞き取りの記録に、春と秋だけ決まって村の滞在人数が増えていた古い税帳面。さらに、山の尾根を繋ぐ旧道沿いにあの独特の標識と《渡り灯》の痕跡が点々と残っていることから考えても、《灯渡り》に関わっていた人たちが、季節ごとに山から山へと移り住む職人たちの集団だった可能性はいよいよ高まっていた。
けれど、紙の上で繋がる手がかりがどれだけ増えても、はじめが探している『三歩目』だけは、あれからまだ見つかっていなかった。
あの一歩目で深く腰を落とし、提げた灯を風から守るように身体の内側へ抱え込む。そこからさらに、この数日間の聞き取りと反復で探り当てた二歩目――足を無理に交差させず、足の裏全体で斜面の角度を確かめながら、すっと前へ重心を送り出す動き。
その二歩目までは、毎日宿舎の廊下や山道で繰り返してすっかり身体に馴染んでいるのに、そこから次の三歩目の足をどう出せばいいのかだけが、どうしても途中で詰まって止まってしまうのだ。
「ねえ、らでんー。あの踊りの続き、早く欲しいんだけど」
宿舎の机の上で帳面の数字を書き写していたらでんの横へ、廊下で足を動かしていたはじめがひょっこり顔を出した。
らでんはノートから目を上げないまま、ペン先を動かして答える。
「今、一生懸命探してるところだよ」
「えー、もっと早く見つけてよー。二歩目で止まるの、なんか気持ち悪いんだもん」
背中越しにぐずるように言われて、らでんはようやくペンを止め、くるりと椅子ごと振り返った。
「あのね、文化財の調査に『早く』なんて都合のいい近道はないの!」
◇ ◇ ◇
そんなふうに言い合ったその日の午後、役場の倉庫の整理で見つかったのは、お祭りの記録ではなく、昔の山の道普請――工事の様子を写した一枚の古い集合写真だった。
乾いた布で表面の埃をそっと払うと、ツルハシやスコップを手にした十数人の村人たちの姿と、その列の一番端の方に、少し距離を置いて立つ見知らぬ三人組の姿が浮かび上がった。
日差しの加減で顔立ちまでははっきり分からない。ただ、そのうちの一人が自分の背丈ほどもある長い棒のようなものを手に提げていて、そのままでは先端の形までは判然としなかった。
らでんはすぐに端末でその写真を接写し、画面の上で男の持つ棒の先をぐっと拡大してみた。
粗い粒子の中から現れたのは、長い持ち手の先に組まれた、見覚えのある四角い木枠の角だった。土蔵の箱の中で見た、あの《渡り灯》とまったく同じ形だ。
後ろから肩越しに画面を覗き込んでいたはじめが、小さく息を呑んだ。
「……あっ、これ」
「うん、間違いなく《渡り灯》を持ってるね」
「ううん、それだけじゃなくて、こっち!」
はじめが画面の上で指差したのは、灯そのものではなく、それを提げて立っている男の足元と体勢だった。
写真の男は、工事の記録写真だというのに気を付けの姿勢ではなく、右足を半歩前に出し、低く落とした腰の上へ左肩をすっと入れるような独特の立ち方をしていたのだ。
はじめはその場で端末から離れると、写真の男を真似て同じように腰を落とし、左肩を内側へ入れてみせた。途端に、はじめの腰がすとんと無理のない位置に落ち着く。
「……これだ」
「え、今の、この前までの形と同じ?」
らでんが目を丸くして尋ねると、はじめはそのままの姿勢で、自分の左足が引っかからずに前へ出ようとする感覚を確かめた。
「今までの二歩目のあと、こうやって肩を入れると、次の三歩目の足がすごく出やすい!」
そこへ、別の棚を見ていたジンがのっそり歩いてきて画面を覗き込んだ。はじめは「ジン、見てて!」と、もう一度最初から一歩、二歩と足を運び、写真の男の姿勢へ繋げてみせる。
画面の中の古い写真と、目の前のはじめの足運びを交互に見比べていたジンは、太い腕を組んで低く呟いた。
「……呼吸だな」
はじめの足が、ぴたりと止まった。
「え? なに?」
「お前、今の動きの中で、息をどこで吸った」
急に聞かれて、はじめは自分の胸に手を当てて少し考えた。
「えーっと、最初のここ?」
はじめが指したのは、最初の一歩目を踏み出す瞬間だった。新しい足の出し方に意識が向いていて、息を吸うタイミングはただの後回しになっていたらしい。
ジンはすぐにそれを見抜いて、あっさり首を振った。
「いや、そこじゃねえ」
言われたはじめは、眉を寄せて最初からもう一度やり直した。一歩目を踏み出し、腰を落として上体をぐっと捻る――まさにその途中で、自然と鼻から深く息を吸い込んでいた。
「おう、そこだ」
ジンが短く頷く。身体を捻る動きに合わせて胸郭が自然に開き、そこしか深く息が入る場所がなかったからだ。
横でメモを取っていたらでんは、思わずペンを止めてジンを見上げた。
「あの、写真の立ち方ひとつで、どこで呼吸するかなんてことまで分かるんですか?」
「当たり前だろ、生きた人間が身体を動かすんなら、必ずそこに呼吸も入る。ほら、これよく見ろ」
ジンは端末の画面に写る男の胸元を、太い指先でトントンと示した。
「こいつのこの姿勢、これだけ前に屈んでんのに、胸を少しも潰してねえだろ」
それから、指先を男の低い腰と足の角度へと滑らせる。
「腰を深く落として、重いもんを持って長く歩く形になってんのに、ちゃんと胸に呼吸が残るように出来てる」
その説明を聞いた瞬間、はじめの目がきらりと輝いた。
はじめはもう一度その場で構えると、捻りに合わせて大きく息を吸い、すっと吐きながら一歩、二歩、そして次の動作へと身体を繋げた。
「……うわ、なにこれ、めちゃくちゃ動きやすい! 息を合わせると、次の動作に入るのがすごく早いし、全然苦しくないよ!」
「だろうな」
吸い込む息と踏み出す足のタイミングがぴたりと噛み合うと、床を踏むたびに、はじめの身体がまるで後ろから押されたみたいに軽く前へと送られていく。
らでんは慌てて手元の調査ノートを開き、新しいページの一番上に三つの言葉を並べて書き込んだ。
『《歩法》 《灯の保持》 《呼吸》』
足の運びと、灯の持ち方と、息の吸い方。その三つは別々にあったのではなく、最初から一つの生きた動きの中でしっかりと繋がっていたのだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、宿舎へ戻って一息ついたところで、ジンが珍しく自分から口を開いた。
「おい、お前ら。明日からは念の次のやつ進めるぞ」
いつもなら「早く次の練習やりましょうよ」とこちらから促すことばかりだったので、らでんとはじめは同時に顔を上げた。
「えっ、次のやつってなに?」
「『凝』だ」
「……ぎょう?」
聞き慣れない言葉に首を傾げるらでんたちに、ジンは壁に背中を預けたまま言った。
「四大行で覚えた基本の次、一応は『応用技』ってことになってるやつだ」
『応用』と聞いた途端、らでんの頬がひきつった。自分たちの足元は、まだ応用なんて言葉には程遠い気がしたからだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私たち、まだ基本の『纏』も『絶』も『練』も、全然完璧にはできてないんですけど!」
「だから、今やるんだよ」
「えっ?」
ジンは呆れたように二人を見比べた。
「お前らな、基本が百点満点で完成してから、やっと次の段階へ行くもんだと思ってんのか」
「ち、違うんですか? 基礎を固めてから応用へ進むものじゃ……」
「そんな悠長なことやってたら日が暮れる。全部、同時並行でちょっとずつ伸ばすんだよ。――ただし、新しく教わったからって、絶対に『出来た気』にはなるなよ」
強い釘の刺し方に、らでんは思わず口をつぐんだ。
ひとつ新しいやり方を見せてもらうと、なんだか自分が急に上達したような気になって浮かれてしまう癖には、痛いほど覚えがある。
ジンは指を一本ずつ折りながら、容赦なく現状を並べ立てた。
「いいか、お前らの『纏』はまだ雑で話しかけりゃ切れる。『絶』はちょっと驚けばすぐ漏れる。『練』なんか、せいぜい一分程度で息が上がってへばるだろ」
隣で聞いていたはじめが、あんまりな言われようにぐっと顔をしかめた。
「うわ、めちゃくちゃ言うじゃん……」
「事実だろが。『凝』だって同じだ。たまたま一回や二回うまく出来たからって、実戦で使えるようになったなんて口が裂けても言うなよ」
らでんとはじめは、顔を見合わせてから神妙に頷いた。
これから新しいものを見せてやるが、一度の成功でいい気になるなという、ジンなりの大事な前置きなのだと分かった。
◇ ◇ ◇
翌朝、ジンは宿舎の裏手にある土蔵の前の空き地へ二人を連れ出すと、朝露で湿った地面の上に、拳ほどの石ころを三つ無造作に並べた。
何の変哲もないただの石を見下ろして、らでんは首を傾げる。
「あの、その石で何をするんですか?」
ジンは答える代わりに、自分の両目を人差し指と中指でトントンと指した。
「まずは自分の『目』を意識しろ。んで、その状態のまま『練』をやれ」
言われた通りに、らでんとはじめは普段の『纏』から息を深く吐き出し、『練』へと移って全身のオーラを膨らませた。
身体の周りの空気が一回り分厚くなる感覚は、もうちゃんと掴める。手のひらの皮膚がじんじんと痺れるような、温かい圧力だ。
それを見てから、ジンが短く命じた。
「よし。今全身に出てるそのオーラを、自分の『目』に集めろ」
「えっ、目に?」
はじめがぱちぱちと目を瞬かせると、ジンが少しだけ言葉を足す。
「正確に言やあ、目玉そのもんじゃなくて、目の周りだな」
目玉そのものではない、という言い方が、かえってどこへ意識を置けばいいのか掴みにくい。
らでんは自分の顔の前に片手をかざして、おずおずと尋ねた。
「そんな目の周りみたいな細かい場所へ、オーラをピンポイントで動かせるものなんですか?」
「出来る」
あまりに即答されたので、らでんは隣のはじめと思わず顔を見合わせた。
「えーっと……それって、今の私たちにも出来るってことですか?」
「おう、そのうちな」
『今すぐ』ではなく『そのうち』というのがいかにもジンらしかったけれど、ちゃんと続ければ自分たちにも届く技術なのだという意味には聞こえた。
「いいか、身体の一か所にオーラを強く集める技術、そいつが『凝』だ。その中でも一番最初に覚える基本として、今日は『目』でやる」
「でもジンさん、相手のオーラなら、もう今のままでも普通に見えてますけど」
先日、目の精孔が開いてからというもの、ジンの身体を包む静かなオーラも、隣のはじめの元気なオーラも、特別なことをしなくてもちゃんと目に映るようになっている。
けれどジンは、らでんの言葉を鼻で笑って切り捨てた。
「そりゃ『ただ見えてるだけ』で、全部が見えてるわけじゃねえよ」
らでんは思わずジンの腕のあたりへ視線を戻した。そこには確かに、普段通りのオーラがうっすらと揺れているのが分かる。いったいどこをどう見れば、これ以上のものが見えるというのだろう。
「……『凝』を使うと、もっと細かいところまで見えるようになるんですか?」
「ああ。普通に見てたんじゃ分からないくらい薄いオーラや、相手がわざと隠してあるもんを見落とさねえためにも使う」
『隠してある』という言葉に、隣のはじめがガバッと身を乗り出した。
「えっ、ちょっと待って! 出したオーラって、見せないように隠せるの!?」
「おう、『隠』って別の応用技がある」
「ええーっ、そんなズルい技があるならもっと早く言ってよ!」
「だから今言っただろ」
「そういう問題じゃないってば!」
はじめが地団駄を踏む横で、らでんも目を丸くしていた。自分の目が開いてオーラが見えるようになった時には、これでもう何でも分かるようになった気でいたのに、隠す側にもちゃんとその上の技術があるらしい。
ジンは騒ぐ二人を気にする様子もなく、もう一度自分の目元を指差した。
「ほら、お喋りは終わりだ。さっさとやれ」
二人は慌てて口を閉じ、もう一度『練』で膨らませたオーラを自分の目元へ集めようと試みた。
けれど、やり始めて数秒もしないうちに、らでんの眉根がぎゅっと寄った。なんだこれは、と声に出したくなるくらい感覚が掴めない。
もし「右腕に集めろ」とか「握った拳に集めろ」と言われたのなら、まだ動かしていくイメージが湧く。けれど、自分の顔の上にある『目の周り』となると、場所があまりにも小さすぎた。
そんな狭い場所へ無理やりオーラを押し込もうと意識すればするほど、かえって首筋から肩、こめかみのあたりにばかり変な力が入ってしまう。
たまらず、らでんは片手で自分の眉間をぐっと押さえた。
「……うう、なんか目の奥じゃなくて、頭が痛くなってきました」
「そりゃお前が力みすぎだからだ」
言われて横を見ると、隣のはじめは、今にも目玉がこぼれ落ちそうなくらいカッと両目を見開いて固まっていた。
「ちょ、はじめ、顔がすっごく怖いよ!」
「しーっ、今すっごく集中してるんだから話しかけないで!」
まばたき一つせずに唸っているはじめの顔を、ジンが横からひょいと覗き込んだ。
「おい、お前、自分の目玉に力入れてどうすんだよ」
「えっ、だって目に集めろって言ったじゃん! 違うの!?」
「筋肉に力を入れるんじゃねえよ。全身のオーラを、そこへ『集める』んだ」
そう言われても、目の力を抜きながら目の周りだけを強く意識するなんて、まるで別々の知恵の輪を同時に解いているみたいだ。
十分が経っても、目元へ寄せようとしたオーラは途中でふわふわと散ってしまって少しもまとまらない。二十分が過ぎる頃には、らでんは目の奥がズキズキと痛み出し、はじめも「うーっ」と唸って眉間を押さえ込んだ。
そして三十分を過ぎたところで、見ていたジンが片手を上げた。
「よし、一回やめろ」
「ええーっ、まだぜんぜん集まってないのに!」
「当たり前だ、今日が初日だぞ」
あんまりあっさり言われて、らでんは目の奥の痛みも忘れてジンへ食ってかかった。
「初日は無理って分かってるなら、なんで朝一番に『今日にも出来そう』みたいな雰囲気で始めたんですか!」
「お前な、最初から『今日は出来っこねえ』ってつもりでやって、出来るようになる奴がどこにいるんだよ」
出来るつもりで挑まなければ、いつまで経っても出来るようにはならない。
言っている理屈はまったくその通りなのだけれど、ズキズキする目頭を押さえながらだと、どうにも納得がいかなかった。
◇ ◇ ◇
その翌日も、さらにその次の日も、朝の『凝』の練習は失敗続きだった。
『練』から目の周りへ意識を運ぼうとする途中でオーラが散ってしまったり、せっかく少し寄ってきたと思っても、瞬きをした拍子にすぐほどけてしまったりする。
それでも四日目の朝、目を閉じて集中していたはじめが、ふいに自分の目元へそっと両手を当てた。
「……あ。ねえ、なんか今、目の周りがすごく熱いんだけど」
隣で息を整えていたらでんが、ぱっと身を乗り出す。
「ほんと!? 見え方、なんか変わった!?」
期待して覗き込むと、はじめはゆっくりと瞼を開けて、目の前の地面や木々を見回した。
「……うーん、見え方はいつもと普通におんなじ」
「まだ集まってる量が足りねえんだよ」
ジンの短い言葉に、はじめは「ぬうー」と悔しそうに頬を膨らませた。目の周りが温かくなるところまでは来ても、それで何かが新しく見分けられるまでにはまだ届かないらしい。
◇ ◇ ◇
それからさらに二日後の六日目には、らでんの目の周りにも、まるでお湯で温めた薄い布が一枚そっと触れたような、柔らかな温かさが集まってきた。
あっ、来た! と胸の奥で喜んだ、まさにその瞬間だった。ふっと目元の熱が逃げて、元の薄い『纏』へと戻ってしまう。
「あっ、今、目の周りに来たのに!」
「んで、喜んだ瞬間に切れたな」
「うっ……それは今、自分でも分かってます!」
「出来たかも」と気持ちが少し揺れただけで、せっかく集めた細かいオーラはすぐ霧みたいに散ってしまうのだ。
そうして練習を始めてから十日が経つ頃にも、まだ細かいものを見分ける前に『凝』がほどけてしまうことは多かったけれど、目の奥が痛くなる一歩手前で力みを止め、目元にじんわりとした温かさだけを残す加減は、二人とも少しずつ身体で分かってきていた。
そんな十日目の朝、ジンが初日の時と同じように、空き地の地面へ石ころを三つ並べて置いた。
「よし、今日はこれを使うぞ」
「あれ、またその石ですか?」
「おう。今からこの三つのうち一個にだけ、俺がごく薄くオーラをつける」
らでんは地面に並んだ三つの石ころを順番に見比べた。
「その中から、オーラがついてる石を『凝』で見つけ出すってことですか?」
「ああ、そういうことだ」
ジンは無造作にしゃがみ込むと、並んだ三つの石の頭を、右手の指先で順番にチョン、チョン、チョンと突いた。
らでんとはじめはすぐ前から目を皿のようにしてその手元を見ていたのだけれど、三つとも触り方や指を離す速さがまったく同じで、どれにオーラを移したのか、手つきからは少しも判別がつかなかった。
ジンが立ち上がって顎をしゃくる。
「よし、始めろ」
まずはじめが一歩前へ出て、深く息を吐きながら『練』を起こし、そこから目の周りへとオーラを集めて『凝』を保った。
さっきまでみたいに目玉をむき出しにはせず、少し細めた目元をじっと三つの石へ向ける。十秒、十五秒と静かな時間が過ぎたところで、はじめがふいに「えっ……?」と小さく眉をひそめた。
横で見ていたらでんは、息を詰めて固まったはじめの横顔を見つめた。集中しすぎて指先ひとつ動いていない。
たまらず「ねえ、はじめ?」と小声で呼ぶと、はじめは石から視線を外さないまま、すっと右手を伸ばして真ん中の石を指差した。
「……これ。この真ん中のやつ」
その指先には、当てずっぽうの迷いが少しもなかった。
見ていたジンが、口の端を上げて少し笑う。
「おう、当たりだ」
「ええっ、すごい! ねえはじめ、今それ、どんなふうに見えてるの!?」
らでんが身を乗り出して尋ねると、はじめは真ん中の石から目を離さないまま、ぴったりの言葉を探すように空いた方の指先を動かした。
「えっとね……石の全体じゃなくて、この上の縁のところに、ほんのちょっとだけ」
はじめは自分の人差し指で、空中に小さな石の輪郭をなぞってみせた。
「すっごく薄い膜みたいなのが、ここの縁にだけぺたってくっついて見える!」
「うわあ、なにそれ、先に見るなんてずるい!」
「ずるいって言われても知らんよ、見えたんだもん!」
言い合う二人を見て、ジンが面白そうに鼻を鳴らした。
はじめがふうっと息を吐いて目元の『凝』を解くと、もう真ん中の石の縁にあったという薄いオーラは見分けられなくなったらしい。隣に立つらでんやジンの身体を包んでいる普段のオーラはそのまま見えているのに、石の上の薄い痕跡だけは、普通の目ではただの乾いた石ころにしか見えないのだ。
はじめは何度か瞬きをして、足元の石を不思議そうに見下ろしていた。
「……なんか変なの。さっきまで、こんな薄いのがついてるなんて全然分からなかったのに」
その言葉を聞いたら、もうじっとしていられなかった。らでんはすぐに三つの石の真ん前へぺたんと座り込んだ。
「よし、次は私の番です!」
「おい、そうガッツくな、焦んなよ」
「こんなの目の前で見せられたら焦ります!」
らでんは一度目を閉じて呼吸を整え、『練』で押し出したオーラを目の周りへと集め始めた。
最初の数日は、ただ集めようとするだけで目の奥がズキズキと痛くなった。けれど、自分だってこの十日間、毎朝欠かさずに続けてきたのだ。痛みが走る一歩手前で、首や眉間の余計な力みをすっと抜く加減なら、もう身体が知っている。
全身を包むオーラを、一気にかき集めるのではなく、少しずつ、少しずつ目の周りへと手繰り寄せる。
やがて目元の皮膚がじんわりと温かくなったのを確かめてから、らでんはそっと目を開けた。
目の前には、朝露に濡れた三つの石ころが並んでいる。――けれど、真ん中の石をいくら見つめても、左右の石と同じただの灰色の石にしか見えなかった。
「…………あれ?」
まだ目に集めている量が足りないのだろうか。もっとはっきり見ようと焦って眉間に力を込めた途端、頭の奥にズキッと鋭い痛みが走った。
その時、上かららでんを見下ろしていたジンが、短く言った。
「おい、らでん。腹だ」
「えっ?」
「お前、今、腹のあたりのオーラがすっぽり切れてるぞ」
ハッとして自分の胴体へ意識を戻すと、言われた通り、お腹の周りを包んでいたはずの『纏』がすっかり消えて無防備な状態になっていた。
らでんは慌てて目元の集中を切った。
「『凝』で目に集める分、他の場所がいつもより薄くなる程度ならまだいい。だがな、目元ばっかり気にして、他の場所を全部空っぽにすんじゃねえ」
「うう……目にも集めて、お腹にも残すなんて、急に難しすぎません?」
「だから、最初から『応用技』だって言っただろ」
見たい場所へ意識とオーラを強く寄せれば寄せるほど、その分だけ、他の場所の守りが薄くなって消えてしまう。
昔から、気になる石の傷や文字の細部に夢中になると、自分の足元の段差を見落としてつまずきそうになる癖があったけれど、その悪い癖が、今は自分の身体を守るオーラの覆いにまでそっくりそのまま出ていたのだ。
『凝』で細かく見る力さえ身につけばもっと安心だと思っていたのに、使い方ひとつ間違えれば、かえって自分の身を危険に晒すことになる。
らでんは小さく頭を振って、まず自分のお腹の周りにしっかりと『纏』を残す感覚を確かめ直した。
もう一回だ。急いで目へかき集めるのではなく、まず全身の『纏』の膜を絶対に切らさないように保ち、その上で、余った分のオーラだけをゆっくりと目の周りへ増やしていく。
二つの意識を同時に保とうとすると、額にじわりと汗がにじみ、呼吸が浅く速くなった。それでもお腹の暖かさを手放さないまま、十秒、二十秒とじっと耐えて目元の厚みを保つ。
頭の中で秒数を数える余裕すらなくなったけれど、今、自分の身体が両方ともなんとか持ちこたえているという手応えだけはあった。
――その時だった。目の前にある真ん中の石の縁が、ぼうっとかすかに揺れた。
「……あっ」
石ころそのものが動いたのではない。石の表面のすぐ上に、透明な水とも光とも違う、ごく薄い何かが張りついている。
さっきはじめの言葉で聞いただけではどうしても思い描けなかったものが、今、自分の目にもはっきりと映っていた。
真夏のアスファルトの上で揺れる陽炎によく似ているのに、熱気ではない静かな何かが、石の縁に沿ってうっすらと揺らめいている。
「……見えました、ジンさん、ほんとに見えた!」
「でしょ!? ね、真ん中の石の縁んとこに、薄ーくくっついてたでしょ!」
隣からはじめが自分のことみたいに嬉しそうに顔を寄せてきたけれど、今のらでんは、目の前の石の縁からどうしても目を離せなかった。
目の精孔が開いてオーラが見えるようになってから、自分はもう見落としが減ったつもりでいた。それなのに、たったさっきまで、すぐ目の前の石にこんな薄い痕跡があることすら気づけなかったのだ。
美術館で大きな絵を見る時だって、遠くから全体を一度眺めただけでは、筆の細かいタッチや塗り重ねた跡まで見たことにはならない。この『凝』も、きっとそれと同じなのだと思った。
◇ ◇ ◇
一度その見え方を知ってしまったせいで、その日の午前中、二人はまるで仕事にならなかった。
移動の途中で野鳥が木の枝に止まれば立ち止まって目を凝らし、村の飼い犬が前を通りかかれば、その毛並みの周りのオーラがどうなっているのか確かめたくてたまらなくなる。
今まで「普通に見えている」と思っていた生き物のオーラにも、もっと細かく見ればまだ気づいていない違いがたくさんあるかもしれないのだ。
「ねえはじめ、今の鳥の羽のところ、なんか見えた?」
「ちょっと待って、今目元に集めてるから動かないで!」
「あっ、わんちゃん待って、ちょっとだけ止まっててー!」
逃げていく犬の後ろ姿にまで必死に声をかけていると、後ろから歩いてきたジンに、二人まとめてコツンと軽く頭を小突かれた。
「おい、往来でオーラの無駄遣いすんな」
「いたっ! だって、いろんなものがどう見えるのか確かめたいじゃないですか!」
「そんなもん、面白がって片っ端から見てたら、昼前に目が疲れて動けなくなるぞ」
「でも見たいんです!」
目頭を押さえながら食い下がるらでんの横で、はじめも大きく首を縦に振った。
「そうだよ、せっかく見えるようになったんだもん、うちもいろんなもの見たいー!」
「ったく、お前らはつくづく子供だな」
「「子供だもん!」」
二人の声がぴったり重なって、朝の山道に響いた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、一行はまた土蔵へ入って、B-14《渡り灯》の実物調査を続けた。
ひんやりとした土蔵の空気の中で木箱の前に立ちながら、らでんはふと、あの山の黒い石柱に触れた時のことを思い出していた。あの日、指先から煙の匂いや揺れる灯、大勢の足音みたいなものを感じ取ったけれど、あの不思議な感触は、今朝見た石の上の薄い揺らめきとどこか似てはいなかっただろうか。
らでんは作業台の上に置かれた《渡り灯》の前でぴたりと足を止め、長い持ち手のあたりをじっと見つめた。
以前から調べていた、木が白っぽく擦り減っている場所。そのすぐ上に、ごく薄い「にじみ」のようなものがある。木の元の色ムラとも、照明の光の反射とも違う、ほんのわずかな違和感だ。
一番最初にこの土蔵で見た時――まだ目の精孔が開く前には、まったく気づかなかったものだ。けれど、普通の目でオーラが見えるようになった今でも、そこに「なんだか分からない薄いものがある」としか見分けられない。
「……あの、ジンさん」
「あん? なんだ」
「この《渡り灯》に、今朝の『凝』、使ってみてもいいですか」
壁際で腕を組んでいたジンの目が、すっと台の上の《渡り灯》へと向いた。
「好きにしろ」
「えっと……もしかして、これ、何か見えますか?」
「さあな」
「ジンさんはもう『凝』で見たんですか?」
「おう、とっくに見たぞ」
「ええっ、じゃあ何があるか知ってるんじゃないですか! なんで教えてくれないんですか!」
「お前が自分の目で見たいっつったんだろうが。ほら、見ろ」
顎で促されて、らでんはぐっと唇を結び、台の前で一つ深く深呼吸をした。
今朝の失敗を繰り返さないように、まずはお腹の周りの『纏』が抜けないようしっかり意識を留める。その上で『練』を起こし、目の周りへと少しずつオーラを集めていった。
古い木の傷や黒ずみの間で、さっきの薄いにじみの正体を探そうとする。けれど、「はっきり見なきゃ」と目元に力を込めれば込めるほど、かえって視界のピントが合わなくなって見分けがつかなくなった。
無理やりそのまま保とうとすると、すぐに目の奥がズキズキと痛み出し、じわりと涙がにじんでくる。
――駄目だ、焦るな。
らでんは心の中で自分に言い聞かせ、一度眉間の力をふっと抜いてから、もう一度丁寧にオーラを目元へ集め直した。
ゆっくりと息を吐き出した拍子に、涙でぼやけていた視界がすっと澄み渡り、曖昧だったにじみの縁がくっきりと定まった。周囲の木の地肌から、そこだけがうっすらと浮かび上がって見える。
「……あ、ある」
「えっ、なに? らでん、何が見えるの?」
横から覗き込むはじめの声が聞こえたけれど、らでんは持ち手の上から一ミリも視線を動かせなかった。
長い持ち手の、木が摩耗して白くなっている場所。ちょうどその上に重なるようにして、今朝の石ころで見たのによく似た薄い層が張りついていた。さらにそのまま目を走らせると、上の四角い木枠の角の一か所にも、そこだけ同じような薄いものが残っている。
ただ、今朝ジンが石につけたばかりの新しいオーラや、隣にいるはじめの生きているオーラとは、様子がまるで違っていた。もっとずっと弱くて、古くて、少しも動いていないのだ。
陽炎みたいに揺らめくこともなく、ただ古い木の表面にじっと張りついている。
らでんの口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……ジンさん。これって、オーラ、ですか?」
「多分な」
「昔の、人の?」
「多分」
「いったい、誰のオーラなんですか……?」
「そこまで知るかよ」
ジンが肩をすくめたところで、らでんの限界が来てふっと目元の『凝』が切れた。
途端に、くっきり見えていた持ち手の痕跡は、また元のぼんやりした薄いにじみへと戻ってしまう。それが持ち手のどこからどこまで続いていたのか、普通の目ではもう見分けられない。
もっと確かめたくて、らでんはすぐにもう一度目元へオーラを集め直そうとした。そこへ、鋭い声が飛ぶ。
「おい、やめろ」
「で、でも、あともう少しで見えそうだったんです!」
「今のまま続けたら、お前の目が持たねえぞ」
言われてみれば、さっきより強く目の奥がジンジンと脈打つように痛んでいる。それでも諦めきれなくて、らでんは食い下がった。
「ほんの一瞬、もう一回だけです!」
「駄目だ。続きは明日やれ」
ぴしゃりと言い渡されて、らでんは悔しさで奥歯を噛みしめながらも、ゆっくりと全身の力を抜いた。
ここで無理をして目を傷めてしまったら、明日からの調査ができなくなる。明日もちゃんと自分の目で見るために、今日はここで目を残しておくのだと自分に言い聞かせた。
『凝』ではっきり見分けられるようになれば、これを握っていたのがどんな人で、どんな気持ちで持っていたのかまで、すぐ分かるような気がしていた。けれど、今日実際に見てみて分かったのは、「そこに古い何かが張りついている」という事実だけだ。
知りたいことが増えた勢いのまま、まだ分かってもいないことまで勝手に膨らませてはいけない。
らでんは痛む目頭を指先でそっと押さえて休めてから、もう一度普通の目で《渡り灯》の持ち手を見直した。擦り減った木の上には、やっぱりまだ、輪郭の掴めないぼんやりとしたにじみがある。
そこに「何かがある」と気づくことと、それが何なのかを最後まで見極めることは、こんなにも違うのだ。
すると、横で黙って見ていたはじめが、作業台の《渡り灯》の前へすっと歩み寄った。
「ねえ、うちもちょっと見てみる」
はじめは深く息を吸って目元に『凝』を保ち、数秒間、長い持ち手の上へじっと顔を近づけた。
「……うわ、ほんとだ。らでんが言ってたの、この擦れてる場所でしょ?」
「うん、そう! そこに薄く張りついてるよね!」
「うん。――でもさ、らでん」
「え、なに?」
「これ、こっちの下の方にもあるよ」
はじめが『凝』を保ったまま指差したのは、白く摩耗している場所よりも、さらに少し下の部分だった。
らでんは思わず身を乗り出してその場所を覗き込んだ。
「えっ、でもそこ、木が全然擦れてないよ?」
「擦れてないけど、さっきの上のやつとおんなじ薄いのが、ここにもちゃんとあるもん」
後ろからジンものっそり近づいてきて持ち手を見下ろしたけれど、何も言わずに黙って見守っている。
はじめはふっと息を吐いて『凝』を切ると、大切な文化財にじかに指が触れないよう、台の上の《渡り灯》からほんの少しだけ手を浮かせて自分の身体を動かしてみた。
長く伸びた持ち手の、擦れている上の痕跡の場所に右手を合わせ、そして今新しく見つけた、擦れていない下の痕跡の場所に左手を添える。そのままぐっと腰を落として、一歩前へ踏み出した。
実物には触れずに、空中で形だけをぴったり当てはめてみると――二つの古いオーラが残っている場所に、はじめの右手と左手が、まるで最初から測ってあったみたいに綺麗に収まったのだ。
らでんは、はっと息を呑んだ。
先日までは、擦り減っている一か所と片手の位置が重なることしか分かっていなかった。けれど今、『凝』で見つけたもう一つの痕跡を合わせると、あの山歩きの歩法の形で、ちょうど両手で持ち手を支える位置になる。
はじめはそのままゆっくりと上体を捻り、見えない灯を自分の胸の内側へと抱え込んだ。山道の強い風から、灯をすっぽり守る形だ。
「……これ、両手でこうやって持ってたんだ」
らでんは震える手で鞄から端末を取り出し、先日見つけた、あの山の工事の集合写真を画面に呼び出した。
百年以上前の写真の中で、列の端に立っている男の手元と、今目の前で両手を構えているはじめの姿勢を交互に見比べる。片手だけで提げていたのではなく、下の手を添えて身体の近くで支える持ち方が、驚くほどぴったりと重なって見えた。
「……合ってる。この写真の男の人の持ち方と、まったく同じだよ」
「じゃあ、これで合ってたんだ!」
「うん、多分ね」
きょとんとするはじめに、らでんは端末の画面から顔を上げて、少し照れくさそうに胸を張った。
「だって、まだちゃんとした『可能性』だもん」
すぐ横で、ジンが「ふっ」と小さく鼻を鳴らして笑った。
◇ ◇ ◇
その翌日、三人は村のさらに奥にある古い農家を訪ねて聞き取りを行った。
今日お話を伺うのは、村で一番の長寿だという八十九歳の男性、ヨウさんだ。
昼の柔らかな日差しが障子越しに差し込む座敷には、乾いた古い畳の匂いが満ちていた。
らでんがまずあの工事の古写真を見せ、それから隣のはじめが畳の上で立ち上がって、昨日『凝』の痕跡から確かめた両手の持ち方で一歩、二歩と腰を落とし、捻りに合わせて呼吸を整える動きを実演してみせた。
座布団の上に座ったヨウさんは、節くれだった両手を膝の上に置いたまま、微動だにせずじっとその動きを見つめていた。深く刻まれた皺の奥で目を細め、長いこと黙り込んでいる。
やがて、座敷の静けさを破って、かすれた低い声が落ちた。
「……それじゃ」
構えていたはじめが、ぴたりと動きを止めて振り返る。
「えっ、おじいちゃん、今の動き知ってるの!?」
「ああ。わしがまだほんの子供の頃、村の祭りの前になると、昔の爺さんらが集まってよくやっとった」
らでんも膝を進めて、手元の写真をもう一度そっと差し出した。
「やっぱり、昔のお祭りで踊っていた踊りなんですか?」
すると、ヨウさんはゆっくりと、けれどはっきりと首を横に振った。
「後の祭りでも踊っとったが、違う。そいつは元々、ただの踊りじゃない」
はじめが思わず壁際のジンの方を見たけれど、ジンは黙って顎を引くだけで何も口を挟まない。
らでんはノートを握りしめて身を乗り出した。
「元々は踊りじゃないって……じゃあ、本当は何の動きなんですか?」
ヨウさんはしばらく遠い目をして考えてから、自分の痩せた膝頭をぽんと手で叩いた。
「……稽古じゃ」
「稽古? 何の稽古ですか?」
「歩く稽古よ」
「歩く……?」
「ああ、この険しい山をな」
言いながら、ヨウさんは脇に置いてあった木の杖を引き寄せ、自分の力で立ち上がろうと腰を浮かせた。
らでんは慌てて手を伸ばしかける。
「あっ、ヨウさん、無理に立たないで座ったままで大丈夫ですよ!」
「いや、これくらい、まだ立てるわい」
ヨウさんは杖を頼りに、時間をかけてゆっくりと畳の上に立ち上がった。細い膝がわずかに震え、体重のかかった杖の先が古い畳をぎしりと軋ませる。
それでも、ヨウさんが一度深く息を吸って右足を前へ踏み出した瞬間、その立ち姿から老いの頼りなさがふっと消えた。
一歩目で腰を落とし、そこから足を交差させずに重心を送り出す二歩目へと進む。ここまでは、はじめたちがこの数日間でなんとか探り当てていた動きだ。
――けれど、ヨウさんの足はそこで止まらなかった。
目の前で、ずっと先が見えずに止まっていた二歩目の続きが、生きている人間の身体として動いたのだ。
ヨウさんは低い腰をゆっくりと捻り、杖で身体を支えたまま、空いている手を右から左へと受け流すように動かしながら、その流れのまま、すっと自然に『三歩目』の足を前へと送り出した。
今まで誰も教えてくれなかった、幻の三歩目だった。しかも、今のヨウさんの空いている方の手には何も握られていないはずなのに、らでんの目には、その手の先にずっしりとした《渡り灯》の重さがあるのがはっきり見えるようだった。
すぐ横で息を呑んで見つめていたはじめが、たまらずヨウさんの隣へ並び立ち、見様見真似で一、二、三と足を運んでみた。
すると、ヨウさんがすぐに首を振る。
「いや、違う」
「えっ、どこ!? 足の出し方、今とおんなじだったでしょ?」
「足じゃない、息じゃ」
ぴしゃりと言われて、はじめは足を止め、ヨウさんの着物の胸元の動きへと目を向けた。
「……やっぱり、呼吸?」
「足の運びだけ形を真似ても、そんなもん長くは続かん」
ヨウさんはその場で、自分の胸をゆっくり膨らませて見せた。
一歩目で深く吸い、二歩目で静かに吐き出し、そして三歩目へ踏み替えるところで、短く鋭く息を継ぎ足す。
「いいか、山は長いぞ。途中で息が上がって疲れたら、大事な灯を、次の場所まで持っていけんだろうが」
ノートの上を走っていたらでんのペンが、ぴたりと止まった。
『灯を次まで持っていく』。やっぱりこの歩法は、ただその場で綺麗に舞うためではなく、火を絶やさずに山を越え、次の誰かへと渡すための歩き方だったのだ。
はじめは大きく頷くと、もう一度最初の構えに戻り、一歩目で深く息を吸い、二歩目で吐きながら身体を捻り、三歩目で短く息を継いで足を踏み出した。
今度は、隣で見ているヨウさんは何も言わなかった。
「違う」と止められないその沈黙そのものが、今の動きと呼吸がぴったり合っている何よりの証だった。
そのまま四歩目を出そうとして、足が分からずにぴたりと止まると、厳しかったヨウさんの目元がふっと柔らかくほころんだ。
「わしが知っとるのは、そこまでじゃ」
「えっ、この次の四歩目の続きは?」
「さあて、その先はもう忘れたわい」
言われて、はじめは前へ出しかけていた自分の足をゆっくりと引き戻した。
それでも、悔しがるどころか、はじめの口元はみるみる嬉しそうに緩んでいく。
「……やった、一歩目と二歩目から、三つに増えた!」
らでんは座布団の上から、その横顔を微笑ましく見上げていた。
前にはじめが飛行船のロビーや宿の部屋で、大好きな音楽をイヤホンで聴きながらリズムを取っていた時と、まったく同じ顔だ。頭で理屈を並べるより先に、自分の身体で新しい動きを見つけたことが嬉しくてたまらない、そんな顔をしていた。
◇ ◇ ◇
ヨウさんの家を辞して宿舎へ戻る帰りの山道でも、はじめはずっと機嫌よく、足元の小石や木の根を避けながら「いち、に、さん」と新しく覚えた三歩の呼吸を合わせて歩いていた。
そのすぐ横を並んで歩いていたジンが、はじめの軽快な足元へ目を落とす。
「おい、はじめ。『纏』だ」
「えっ?」
「その三歩の歩き方のまんま、身体に『纏』をやってみろ」
言われて、はじめは足を止めないまま、自分の身体の周りに薄いオーラを巡らせた。
そのまま「いち、に、さん」と三歩目まで踏み出したところで、足元の石を避けようとして意識が爪先へ向き、ふっと周りの『纏』がほどけて消える。
「あっ、切れちゃった」
「ほら、もう一回だ」
はじめは唇を引き結んで、もう一度最初から踏み出した。
一歩目の吸い込む息と一緒に『纏』を張り、二歩目の吐く息で重心を送り、三歩目の短い息継ぎで体勢を保つ。
――今度は、三歩目を踏み終えてもオーラの膜が少しも揺らがずに残っていた。
すぐ後ろからそれを見ていたらでんまで、なんだか自分の足取りが軽くなったみたいに嬉しくなる。
「すごいよはじめ! 今の歩き方、『纏』を保つ呼吸とすごく相性がいいみたいだね!」
「うん! なんかね、普通に歩くよりずっとオーラが散りにくい感じがする!」
はじめはすっかり気に入ったらしく、また「いち、に、さん」とリズムを刻みながら斜面を先へ進んでいく。
らでんは、少し歩調を落として後ろへ下がったジンの隣に並んだ。前を行くはじめの背中を見つめながら、胸の奥に浮かんだ言葉をぽつりと口にする。
「……ジンさん。百年以上も昔の人たちでも、こうやって、人間の身体の中に大事な技術を残しておけるものなんですね」
「そりゃそうさ。紙に書いた文字だけが記録じゃねえからな」
前を歩くはじめの背中が、一歩、二歩、三歩と規則正しく揺れている。その肩の揺れ方は、さっき座敷で八十九歳のヨウさんが見せてくれた三歩と、驚くほどそっくりだった。
らでんは山の土を踏みしめながら歩いた。今ジンが言った『文字だけが記録じゃねえ』という言葉は、これまでの自分の調査ノートには一行も書いていなかったことだ。
でも、もう忘れないと思った。
ペンで紙の上に書き留めるより先に、自分の足の裏からじかに身体へ残っていくような気がした。
◇ ◇ ◇
その夜、宿舎の机に向かったらでんは、調査ノートの新しい一ページを開いた。ランプの温かい光の下で、使い込んだ紙の端が少しだけ丸く反っている。
らでんはペンを握り、ページの最初に一行、はっきりと書き記した。
『身体も、記録になる』
そこまで書いて一度手を止め、窓の外の庭先から聞こえてくる、はじめの規則正しい足音に耳を澄ませながら次の言葉を確かめた。
『《灯渡り》の動きは、祭礼舞ではなく、山間移動の歩法・呼吸法を後世に残したもの?』
文の最後の疑問符は、まだ消さずにそのまま残しておいた。それからさらに、その下へペンを走らせる。
もしこれが山を越えるための実用的な技術だったのなら、どうしてわざわざお祭りの踊りの形に変えられたのだろう。そして――。
『なぜ最後まで残そうとした?』
窓の外では、はじめが今夜も飽きずに「いち、に、さん」と何度も同じ三歩の動きを繰り返していた。
夜の土を踏む靴音が、気持ちのいい一定のリズムを刻んでいる。ガラス越しに目を向けると、そのはじめの身体を、うっすらと白い『纏』のオーラが包んでいるのが見えた。
もちろん、まだ途中でふっと途切れたり、厚みが雑に揺らいだりもするけれど、それでも昨日までと比べれば、一度張った『纏』が切れるまでの歩数が確実に長く延びている。
らでんは椅子に座ったまま、まず自分のお腹の周りにしっかりと『纏』が残っているのを確かめ、それから目の周りへと静かにオーラを集めた。
目を痛めないよう、ほんの数秒間だけだ。『凝』を保った目で、窓の外で動くはじめの身体を包むオーラの縁を、細かく追いかけてみる。
すると、はじめの三歩の足運びと呼吸がぴたりと合った瞬間、いつもなら膜が途切れる直前に出ていた表面の細かい揺らぎが、すっと静かに収まるのが見えた。
完全に切れてしまうよりもっと前の、ほんの小さなオーラの変化だった。
――見えた。ジンがいつも見ていたのは、きっとこれだ。
らでんはぱっと目元の『凝』を解き、窓を開けて外のはじめへ声をかけた。
「ねえ、はじめ!」
「んー? なに?」
「今ね、見えたよ!」
「えっ、見えたって、なにが?」
庭先で足を止めてきょとんとするはじめに、らでんは少し熱を持った自分の目頭を指先でそっと押さえながら、いたずらっぽく笑ってみせた。もう目の『凝』はとっくに切れている。
「……ふふ、まだ内緒!」
「ええーっ、なにそれ! 気になるじゃん、教えてよー!」
窓越しにブーイングするはじめの声に笑っていると、部屋の奥で布団の上に寝転がっていたジンが、大きな欠伸をひとつして声をかけてきた。
「おい、らでん。夜になってまで『凝』を使いすぎんなよ」
「わっ、ジンさん、寝てたんじゃなくて起きてたんですか!」
「当たり前だ。言っとくがな、面白がって無茶やって目ぇ潰しても、俺は知らねえぞ」
「うっ、急にそんな怖い言い方しないでください! ちゃんと数秒で止めましたもん!」
「ふん。どうせ明日も、朝から続きをやるんだろ」
ジンの言葉に、らでんは机の上の開いた調査ノートへと視線を戻した。
持ち手に二つの痕跡が残る《渡り灯》、山の中腹の《灯の宿》、季節ごとに山を渡って消えた人たち、そしてお年寄りの身体に残っていた三歩の歩法。
今日またひとつ繋がった線の先には、まだ誰も知らない四歩目からの続きが待っている。
らでんはランプの明かりの下でノートをそっと撫で、小さく頷いた。
「……はい、そうですね」