儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第二十話 舞にして残す

 目の周りにオーラを集める『凝』は、なんとか自分の意思で出せるようになった。ただし、保っていられるのはまだほんの短い時間だけだ。

 少し気を抜けば、目元へ手繰り寄せた温かさはすぐにふわっと散ってしまう。

 それでも、昨日は薄い痕跡の縁を前の日よりずっと長く見分けられたという確かな手応えが、らでんの胸の中には残っていた。

 

 ひんやりと冷え込んだ宿舎の朝、らでんは顔を合わせるなり、少し得意げにジンへ報告した。

 

「ジンさん、聞いてください。昨日、三十秒くらい続けて見えましたよ」

「で?」

「え、でって……三十秒ですよ? 前より長く保てたんですけど」

「だから、それがどうしたって聞いてんだよ」

 

 ジンは秒数が延びたことなど少しも褒めてくれない。

 むっとしてらでんが言い返そうとしたその横から、腕を回しながら歩いてきたはじめがひょいと口を挟んだ。

 

「あ、ちなみにうちは昨日、四十秒いけたよ」

「ちょっとはじめ、そこで秒数を競わないでよ!」

「ふん。三十だろうが四十だろうが、実戦ならその間、他の場所の守りがガタガタになってるだけだろ」

 

 ジンの冷めた一言に、二人は揃ってぴたりと口をつぐんだ。言い返せないくらい図星だったからだ。

 目元へオーラをかき集めようと集中すると、今でもすぐにお腹のあたりが心もとなく薄くなり、背中の覆いまでもが散って全身が手薄になってしまう。

 

「ちょっとばかし見えたからって、もう実戦で使えるようになったなんて思うなよ」

「……はい」

「はい……」

 

 しゅんとして頷いてから、らでんは沈んだ空気を振り払うみたいにパンッと両手を打ち合わせた。

 

「よし、気を取り直して、今日も朝の『方便』からやろう!」

 

 『点』・『舌』・『錬』・『発』。この村へ来て一か月が過ぎても、毎朝欠かさずに続けている習慣だ。

 四つの段階を順番に整えながら、まずらでんが今日一番に確かめたい聞き取りの予定を声に出すと、隣のはじめもその場で軽く足首を動かしながら、自分の今日の目標を口にした。

 

「私は今日、昨日ヨウさんから聞いたお話を、別の聞き取りの記録と照合してみる」

「じゃあうちはね、昨日教えてもらった三歩目までを、途中で詰まらないでちゃんと続けて歩けるようにする」

「お前、今日の目標はそれだけか?」

 

 壁際からジンに問われて、はじめは少し考えるように首を傾げ、動かしていた足を止めた。

 

「……ううん。歩いている間、呼吸も絶対に崩さないようにする」

「おう、じゃあ行ってこい」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 この村で調査を始めてから、もう六週間が過ぎていた。

 毎日少しずつ集めた記録や聞き取りのおかげで、《灯渡り》と呼ばれていた人たちの輪郭は、初めの頃よりずっとはっきりと浮かび上がってきている。

 季節ごとの山間の移動、鍋や桶の修理に細工、村との交易、特有の角型をした灯、中腹の宿、山を歩くための歩法と呼吸。――けれど、それだけ手がかりが揃ってきたからこそ、らでんにはどうしても一つだけ腑に落ちない不思議なことが残っていた。

 

 《なぜ、その歩き方が、この村のお祭りに残ったのか》

 

 《もともと山を渡り歩く別の集団で、この村の人ではなかったはずなのに、どうして村の人たちが自分たちのお祭りの踊りとして取り込んだのだろう》

 

 どれだけ帳面をめくっても、その一番肝心な理由だけがまだ見つかっていなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の昼、三人は村外れにある古い一軒の家を訪ねた。

 開け放たれた縁側から昼の細い日差しが差し込み、綺麗に掃き清められた畳の上には、客用の座布団が三つ並べて敷かれている。

 香ばしい番茶の匂いの向こうで、今年七十六歳になるというサエさんが、穏やかな笑顔でらでんたちを迎えてくれた。

 

 挨拶を済ませてから、らでんは鞄からあの山の工事の古写真を取り出し、畳の上へそっと開いて見せた。

 

「あの、サエさん。この写真の端にいる人の立ち方や動きに、なにか見覚えはありませんか?」

 

 サエさんは指先で眼鏡の位置を少し直し、写真の上へ顔を近づけて長いことじっと見つめた。

 

「……ああ、これなら、昔のお祭りの踊りじゃな」

 

 その言葉に、隣に座っていたはじめがぱっと身を乗り出した。

 

「えっ、おばあちゃん、この動き知ってるの!?」

「知っとると言ってもなあ、わしらが子供の頃には、もうすっかり子供がやらされる踊りになっとったよ」

「子供の踊り、ですか?」

「そうよ。毎年お祭りの前になると、学校の帰りに広場へ集められて、みんなで一緒にやらされたもんじゃ」

 

 昨日ヨウさんから聞いた「昔の爺さんらがやっていた歩く稽古」という話から、少し時代が下った頃の記憶らしい。らでんがペンを構えて尋ねると、サエさんは懐かしそうに目を細めた。

 

「どんなふうに踊っていたか、覚えていらっしゃいますか?」

「そりゃあもう、子供心には嫌でたまらんかったなあ。とにかく長いし、似たような同じことを何回も何回も繰り返させられるしで」

「何回もっていうのは、全部でいくつくらい動きがあったんですか?」

「さあて、全部で何回やったかまでは覚えとらんが……でも、一区切りになるまとまりが、いくつかあったはずじゃよ」

「まとまりって、武術とかの『型』みたいなものですか?」

「かた?」

「ええと、ここからここまでで一つ、みたいな動きのまとまりのことです」

 

 はじめが両手を動かして補足すると、サエさんは「ああ、そういうことか」と頷いて、自分の膝の上で指を一本ずつ折り始めた。

 一、二、三……。数えながら記憶を辿っていたその指が、途中でふと止まる。

 

「……たしか、十二、じゃったかな」

 

 ノートへ向かっていたらでんのペンが、ぴたりと止まった。

 

「じゅ、十二、ですか?」

「たぶん、十二じゃったと思う。……いや、待てよ。その十二の最後に、もう一つだけ、なにかあったような気もするなあ」

 

 横ではじめがバッとらでんの方を見た。

 らでんも同じように目を丸くして見返す。三歩目までしか分かっていなかった動きに、いきなり十二もの続きがあるかもしれないのだ。二人の顔には、今すぐその先を知りたくてたまらない気持ちがそのまま張りついていた。

 

「あの、サエさん! その踊り、覚えているところだけでも見せてもらえませんか!?」

「なんだい、七十六にもなる婆さんに、今からここで立って踊れって言うのかい?」

「あ、ううん、無理に立たなくても座ったままで全然大丈夫です!」

「そう、手の動きだけでもいいから教えて!」

 

 らでんとはじめが座布団から膝を乗り出さんばかりにして頼み込むと、サエさんは二人のあんまりな剣幕におかしそうに声を上げて笑った。

 

「はは、ずいぶん必死じゃな。まあ、座ったままの手ぶりくらいならやってみせようかい」

 

 サエさんは座布団の上に座り直すと、まず右手を少し前に出し、左手を自分の胸元に添えて、一の動きで掌をくるりと返し、二の動きで上体をわずかに斜めへ傾けた。

 重心が動いた拍子に、下の古い畳がぎしりと小さく軋む。そこから三つ目の動きまでは、昨日ヨウさんが杖をつきながら見せてくれた三歩とまったく同じ形だった。

 隣で見つめていたはじめの目の色が、すっと変わる。

 続く四つ目は、今日初めて見る動きだった。サエさんは前に出していた右手を一度低く下へ回し、そこへ左手をそっと添える。

 そして五つ目で、左右の両手の位置がすっと滑らかに入れ替わった。

 

 両手が入れ替わるその瞬間、サエさんの両肘の向きが、少しも無理のない自然な角度へと変わっていた。それを見たはじめは、もう我慢できずにその場で立ち上がる。

 

「おばあちゃん、今のところ、もう一回だけ見せて!」

 

 サエさんがもう一度ゆっくりと動かす両手を必死に目で追いながら、はじめはその場で一、二、三、四、五と身体を動かした。畳の表面を靴下が擦り、昨日覚えた三歩目までの呼吸が、新しい四つ目と五つ目の動きになんとか追いつこうとする。

 けれど、五つ目まで終えたところで、サエさんが首を横に振った。

 

「少し違うなあ」

「えっ、どこ?」

「四つ目のところじゃ」

「手の回しかたが違ったかな?」

「手じゃない。足じゃよ」

 

 はじめが自分の足元を見下ろすと、座布団の上のサエさんは、座ったまま自分の踵をほんの少しだけ畳から浮かせた。

 

「その四つ目のところで、足をこうやって踏み替えるんじゃ」

 

 サエさんが座ったままの膝と腰で、右から左へと重心を移してみせると、さっきまで少し窮屈そうに見えた腕の回し方が、嘘みたいに自然な流れで五つ目へと繋がった。

 

「……あっ、そこか!」

「そうそう、そこで足の裏を入れ替えるんよ」

 

 横で見ていたはじめは、すぐさま四つ目のところで右足から左足へと素早く重心を踏み替え、そのまま五つ目の両手の入れ替えへと動きを繋げた。

 今度は、途中で少しも引っかからなかった。五つ目を終えても、はじめは立ち止まらない。もう一度最初から足を一歩踏み出し、余計な肩の力を抜いて、深い呼吸を整えながら一から五までを繰り返す。身体の方が、もっと先の動きを探して勝手に動いているみたいだった。

 すると、部屋の隅の壁に寄りかかって黙って見ていたジンが、ふいに低い声を飛ばした。

 

「おい、はじめ。そのまま『纏』をやれ」

「えっ、今ここで!?」

「おう、今すぐだ」

 

 言われたはじめは、足を止めないまま一の動きで全身に『纏』を張り、二で深く呼吸を入れ、三で薄いオーラの膜に身体を包んだまま重心を送った。

 新しく覚えたばかりの四の踏み替えで、ほんの一瞬だけ周りのオーラが揺らいだけれど、五の両手を入れ替えるところではもう元の静かな厚みに戻っていた。

 

「よし、もう一回だ」

「……うん、分かった!」

 

 何度も繰り返して少し息は上がっていたけれど、はじめの目はまっすぐ前を見て輝いていた。

 

 畳の上で足を踏み替えるたび、はじめの身体を包むオーラが生き物みたいに一緒に動いている。いったいどのタイミングで、どこからどこへオーラが移っているのか自分の目でも確かめてみたくて、らでんはそっと目元へ『凝』を集めた。

 今朝ジンに言われた通り、お腹や背中の『纏』が薄くなりすぎないよう必死に気をつけながら、目の周りへと少しずつオーラを寄せていく。

 澄み渡った視界の中で、はじめの身体を包むオーラが、一、二、三と呼吸に合わせて滑らかに進み――四で足を踏み替えたまさにその瞬間、体重の乗った右脚の周りがぐっと厚くなり、そこから腰、次に肩へと、身体の動きにぴったり合わせてオーラの厚みが移り変わり、そして五の終わりですっと全身へ均等に戻っていくのが見えた。

 

「……っ、すご……」

「え、なにが?」

「だって今、はじめのオーラ、身体の動きにぴったりついていってたよ!」

「えー、だって自分の身体を動かしてんだから、一緒についてくるの当たり前じゃん」

「いや、そうなんだけど、そういう意味じゃなくて……」

 

 言いかけたところで、はじめが五つ目の動きを終えて足を止め、それとほぼ同時にらでんの目元の『凝』もぷつりと切れた。

 らでんは思わず片手で自分の目頭をぐっと押さえる。

 目の奥がじんじんと熱を持って痛んでいた。自分はこうして座ってじっと止まっている時でさえ、全身の『纏』を保つことと、目元へオーラを集めることを、頭の中でいちいち別々の作業として考えてしまう。

 それなのに、目の前のはじめは、全身の『纏』を少しも切らさないまま、息も足も止めずに五つ目まで踊り続けていたのだ。

 楽しいと思って夢中で身体を動かしてきたことが、そのまま念を覚えるための確かな足場にもなるのだろうか。

 自分には逆立ちしても真似できないその感覚が、ちょっぴり羨ましくて、でもそれ以上に、自分の友達のすごいところを見つけたのが素直に誇らしかった。

 今自分が見ていたはっきりとした違いを、どうしても本人にそのまま伝えたくて、らでんは目頭から手を離して顔を上げた。

 

「ねえ、はじめ」

「ん? なに?」

「はじめの『纏』さ、ただじっと立ってる時より、今の踊りをやってる時の方がずっと綺麗に安定してるよ」

 

 言われたはじめは、きょとんとして自分の両手と足元を見下ろした。

 壁際のジンも、腕を組んだまま小さく頷く。

 

「ああ、違えねえな」

「えっ、ほんとに? なんで踊ってる方が安定するの?」

「決まってんだろ。動いてる間は、お前が頭で余計なことをごちゃごちゃ考えてねえからだよ」

 

 あんまり身も蓋もないジンの解説に、らでんはつい吹き出して笑ってしまった。

 

「あはは、なにそれ、すっごくはじめに合ってる!」

「ちょっとらでん、それどういう意味よ!」

 

 頬を膨らませて抗議するはじめと、笑い合うらでん。その様子を、座布団の上のサエさんがきょとんと目を瞬かせて見回した。

 

「お前さんたち、さっきからいったい何の話をしとるんじゃ?」

「「あっ、いえ、こっちの話で何でもないです!」」

 

 オーラのことなど説明できるはずもなくて、らでんとはじめが慌てて声を揃えて誤魔化すと、サエさんは「おかしな子らじゃねえ」と苦笑してから、ふと思い出したように昔のお祭りの歌を口ずさみ始めた。

 低く落ち着いた、とても単純な節回しが座敷の畳の上にゆっくりと響く。

 

「ヒトツ、灯を抱け。フタツ、風を背に。ミッツ、石を避け。ヨッツ、息を継げ」

 

 その歌声を聞いた瞬間、立っていたはじめは動きを止め、座っていたらでんはノートの上のペンをぴたりと止めた。

 

「「……あっ、これ!」」

 

 二人の声が、寸分違わず重なった。

 サエさんが目を丸くして瞬きをする。

 

「なんだい、急に大声を出して」

「サエさん、今のその歌! 歌詞がそのまま、さっきの動きの説明になってます!」

 

 らでんが弾かれたように顔を上げると、壁際にいたジンもいつの間にか背中を壁から離し、サエさんの歌声へじっと耳を寄せていた。

 らでんは手元のノートと、立っているはじめの姿を交互に指差しながら、早口で言葉を続けた。

 一番最初の『灯を抱け』は、灯を胸の内側へ寄せる一の動き。次の『風を背に』は、風を避けるために上体を斜めに捻る二の動き。三つ目の『石を避け』は、足元の悪い場所で重心を移す踏み替えで、そして四つ目の『息を継げ』は、まさにヨウさんが言っていた呼吸そのものだ。

 隣ではじめが、今のサエさんの歌の節に合わせて、一から四までの動きをもう一度続けて踏んでみせた。歌詞の言葉と、手足の動きと、息を吸うタイミングが、気持ちがいいくらいぴたりと一つに重なる。

 

「……おお、ほんまじゃ。言われてみれば、歌の通りに動いとるわい」

 

 子どもの頃に何気なく歌わされていた言葉の意味に今初めて気づいたらしく、サエさんが本当に驚いたように目を丸くした。

 

 らでんは、自分の胸の奥で心拍がトクトクと速くなっているのを感じていた。熱い鼓動が耳の奥まで響いて、ペンを握る指先がほんの少しだけ震える。

 これは、ただお祭りの踊りが残っていただけじゃない。ただ古い歌が残っていただけでもないのだ。

 口で歌う歌詞と、手足の動きと、息の継ぎ方と、そしてあの《渡り灯》という道具の形――その全部が、最初からバラバラではなく一つに繋がっていたのだ。

 

「……これ、情報の『冗長化』だ……」

「じょうちょうか? なにそれ、らでん」

「えっとね、一つの大事な情報を消えないようにするために、わざといくつもの違う形に分けて残しておくことだよ!」

 

 興奮して身を乗り出すらでんを見て、壁際のジンが面白そうに口元を緩めた。

 

「へえ、お前、そういう小難しい言い方すんのな」

「だ、だって、本当にそうとしか思えないじゃないですか! もし長い年月の間に歌の節を忘れちゃっても、踊りの動きとして身体に残る。もし身体の動きを忘れちゃっても、歌詞の言葉に残る。それに、もし《渡り灯》っていう道具の実物が残っていれば持ち方が分かるし、一枚でも写真が残っていれば立ち方の姿勢が分かるんです! どれか一つが欠けても、残った別のものがお互いに補い合って、もう一度元の形を復元できるようになってるんですよ!」

 

 一息にまくしたてるらでんの横で、はじめは自分の両方の手のひらと、らでんの開いた調査ノートを交互に見比べた。

 

「……うわあ、なんかすごいねそれ。昔の人が、絶対になくならないように何重にも隠した宝箱みたいじゃん」

 

 すると、二人のやり取りを黙って聞いていたサエさんが、自分の丸くなった膝の上へそっと両手を置いた。

 

「……そういやあ、わしの死んだばあさんが、昔こんなことを言っとったなあ。『紙に書いた字はいつか消える。紙そのものも火が出りゃ燃える。山に作った道だって、崩れりゃなくなる。――でもな、自分の身体の中に入れたもんだけは、人間が生きとる間、どこへでも持って歩けるんじゃ』って」

 

 その言葉が、もともとはどこの誰が言い出した言葉だったのか、そこまではサエさんも覚えていないという。

 けれど、らでんはノートの上でペンを走らせていた手を、ふっと止めた。

 手元のページには、今日サエさんから教えてもらった四つ目と五つ目の足の運びも、手の回しかたも、もう細かい言葉と図でびっしり書き込んである。

 でも、何年もあとにこのノートの文字だけを読み返す自分は、たった今、隣ではじめが畳の上で掴み取った「重心が自然に繋がる感じ」まで、ちゃんと思い出すことができるだろうか。

 紙の上に綺麗に書き取れたところで安心してしまったら、文字にはどうしても書ききれなかった一番大事な部分を、そのままこぼして忘れてしまいそうな気がした。

 らでんは一度顔を上げ、隣に立つはじめの足元にしっかりと残っている三歩と五歩の立ち姿を焼き付けるように見つめてから、もう一度、ノートの上でペンを動かした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の夕方、宿舎へ戻った三人はすぐ裏手の土蔵へ入り、作業台の上の《渡り灯》の前に立った。昼間の熱気が届かない土間にはひんやりとした冷気が溜まっていて、古い木と土の匂いが静かに満ちている。

 今回、実際に身体を動かして確かめるにあたって、大切な文化財である実物の《渡り灯》をそのまま振り回すわけにはいかない。その代わりに、今日はカルドさんに頼んで作ってもらった、実物とほぼ同じ長さと重さの木の枠――『模擬灯』を用意してあった。

 壁際で腕を組んだジンが、はじめの持つその模擬灯を顎でしゃくって笑う。

 

「おう、そいつでやれよ。万が一にもそっちの本物をぶつけて壊したら、横にいるお前が大泣きするからな」

「な、泣きません! 大切な文化財だから、調査で傷つけないようにするのは当然のルールです!」

 

 むきになって言い返すらでんの隣で、はじめがずっしりとした木の模擬灯を両手で構え直した。それを見てから、らでんは昼間にサエさんの家で録音させてもらったばかりの歌声のデータを、手元の端末から再生した。

 静かな土蔵の中に、少し音の割れたサエさんの低い歌声と、座敷の畳がぎしりと軋むかすかな生活音が流れ出す。

 

 『ヒトツ、灯を抱け』――その声に合わせて、はじめは模擬灯をぐっと自分の胸の内側へ引き寄せた。

 続く『フタツ、風を背に』で上体を斜めにして半身になり、『ミッツ、石を避け』で足を滑らかに踏み替え、『ヨッツ、息を継げ』で深く鼻から息を吸い込む。

 そして五つ目の動きへ入ろうとしたところで、サエさんの記憶が途切れた録音のデータが、ぷつりと音を立てて止まった。

 土蔵の中から歌声が消えると、五つ目の途中で模擬灯を構えたはじめの身体だけが、静けさの中にぽつんと残された。

 

「……うん、ここから先だね」

 

 はじめは模擬灯を構えたまま、すぐにも次の六つ目の動きへ出られそうな目でらでんを振り返った。

 らでんは再生の止まった端末の画面を見下ろし、それからぐっと顔を上げて頷いた。

 

「よし。五つ目から先の歌と動きを覚えている人を、村の別の人たちから探そう!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そこからの数日間、三人は村の中を端から端まで歩いて聞き取りを続けた。

 まだ夏の名残でじりじりと日差しが照りつける日も、急に空が暗くなって通り雨で山の土がぬかるむ日も、古い地図とノートを抱えて一軒ずつお年寄りの家を訪ねて回った。

 そうして、まずは八十二歳になる男性から五つ目から七つ目までの動きを聞き出し、また別の通りに住む高齢の女性から八つ目と九つ目の手ぶりを教わり、役場の倉庫に残っていた古いお祭りの記録から十番目を補い、さらに別のお年寄りの記憶を少しずつ照らし合わせて、十一番目と十二番目までをパズルみたいに一つずつ繋ぎ合わせていった。

 新しく一つ動きを教えてもらうたびに、はじめの身体が覚える手数はどんどん増えていく。けれど、新しい動きを無理に繋げようとすると、今度はそれまで合っていたはずの呼吸が途中で苦しくなってズレてしまい、そのたびに土蔵へ戻っては、息を吸う場所と吐く場所を最初から何度も何度もやり直した。

 

 そしてようやく、繋ぎ合わせた十二の型を、はじめが最初から最後まで一度も止まらずに通せる日がやってきた。

 夕方の土蔵の土間の上で、はじめが模擬灯を構えて一歩目を踏み出す。

 一、二、三と胸元で灯を守りながら進み、四で深く呼吸を継ぎ、五で坂を下るように重心を低く送り、六で頭上を避けるようにぐっと身体を屈め、七で素早く向きを変えて方向転換し、八で足場の狭い場所を渡るように足を運び、九で左右の荷重を移し、十で両手の模擬灯をすっと持ち替え、十一で乱れた呼吸をもう一度深く整え――そして最後の十二で、抱えていた模擬灯をまっすぐ前へと差し出して、ぴたりと動きを止めた。

 

 十二番目を通し終えた途端、夕暮れの土蔵の中が、しん、と水を打ったように静まり返った。

 土間の上で肩で息を整えているはじめに、見ていたらでんは「やった!」と喜んで拍手をしかけた。

 ――けれど、当のはじめは、まっすぐ前へ差し出した両腕を少しも下ろそうとしなかった。じっと自分の手の先を見つめたまま、低く呟く。

 

「…………ううん、なんか違う」

「えっ、なにが違うの? 今、最初から十二番目まで、一回も止まらないで綺麗に繋がったじゃない!」

「うん、十二番目まではちゃんとあるよ? でも、そうじゃなくてさ」

 

 はじめは一度下ろしかけた模擬灯を持ち直し、もう一度だけ、最後の十二番目の姿勢をその場で取り直してみせた。

 両手で支えた模擬灯を、自分の身体から離してぐっと前へ差し出し、腕を伸ばす。その足元の重心は後ろではなくしっかりと前へ乗っていて、後ろの足も、まだいつでも次の一歩へ踏み出せる角度のまま残っていた。

 

「ほら、この最後の姿勢。これって、ここで踊りが『終わる形』じゃないもん」

 

 その言葉に、壁際で見ていたジンがすっと目を細めた。

 

「終わる形じゃねえってんなら、まだそのまま『続ける形』か?」

「ううん、自分がこのまま歩き続ける形とも、ちょっと違う……」

 

 はじめは模擬灯を前へ差し出した姿勢のまま、自分の腕の角度と重心を確かめるように少し考え込み――それからふっと顔を上げて、すぐ前に立っていたらでんの胸元へ向かって、その模擬灯をぐっと差し出した。

 

「……これ、誰かに『渡す形』だ」

 

 目の前に差し出された木の枠を見て、らでんの両手が、考えるより先に自然と前へ上がった。

 それは、すべての動きがそこで完結して閉じる終わりではなく、次の何かへと繋げるための『継ぎ目』の形だったのだ。

 

「……あっ。だから、『灯渡り』……!」

 

 らでんがはっと息を呑んだその横から、ジンがひょいと歩み出て、はじめの差し出していた模擬灯を無造作に両手で受け取った。

 そのままジンが灯を自分の胸元へと引き寄せた瞬間――その立ち姿は、もう最初から測ったみたいに、あの一番目の型『灯を抱け』の形にすっぽりと収まっていた。

 

「……へえ、確かにな。こりゃ渡す形だ」

「でしょ! やっぱりそうだ!」

 

 ぱっと顔を輝かせるはじめの声にも構わず、模擬灯を抱えたジンはそのまま土間の上で、一歩、二歩と足を踏み出した。はじめたちが何十回もやり直してやっと繋げた三、四、五と続く足運びにも、息の入れ方にも、驚くほど少しの迷いも引っかかりもない。

 それを見ていたはじめが、あんぐり口を開けてからジンの背中へ声を上げた。

 

「……っ、ちょっとジン、なにそれずるい!」

「あん? なにがだよ」

「だって、うちが何日もかけて覚えたのに、なんで横で見てただけで一発で綺麗にできちゃうのさ!」

「こんなもん、お前らが散々やってんのを横で見りゃ大体分かるだろ」

「そういうの、この場では禁止です!!」

 

 らでんの抗議の声が、高い土蔵の天井にわんわんと響いた。

 けれど、ジンから模擬灯を返してもらって落ち着いて考えてみても、やっぱり『十三番目』の動きというものはどこにも見当たらなかった。最初から何回通してみても、数えてみても、身体を動かす型としては間違いなく十二番目で終わっているのだ。

 それなのに、先日サエさんが指を折りながら言った『最後に、もう一つあった気もする』という言葉だけが、どうしてもらでんの耳の奥に引っかかって消えなかった。

 

「ねえはじめ、もしかしてさ、サエさんが言ってた『十三番目』って、誰かに灯を渡すことそのものなのかな?」

「え、一から十二みたいな決まった『型』じゃなくて?」

 

 らでんとはじめが揃って問いかけるように見上げても、ジンはただ面倒くさそうに肩をすくめるだけだった。

 

「さあな、そこまで俺が知るかよ。今のまんまじゃ分からん」

「……むう。じゃあ、また資料の方から徹底的に調べます!」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 それから数日後、土蔵の一番奥に積まれていた古い木箱の底から、一冊の傷んだ『祭礼帳』が見つかった。

 他の帳面の下に伏せるようにして収められていて、そっと表紙を開くと、鼻の奥がむず痒くなるような古い黴と埃の匂いが立ち上った。

 ページの中ほどからは紙の破れと虫食いがひどく、一番後ろの数ページに至っては、書かれた墨の文字が紙の色と同化するくらい薄く掠れてしまっている。

 うっかり強く触れれば、そのまま紙の端がぽろぽろと欠けて落ちてしまいそうで、ページをめくる指先にも少しの力も入れられない。

 

 らでんは、ここではあえて目の『凝』を使わなかった。念に頼る前に、まずは普段通りの調査の手順として、手元の小型照明の当てる角度を少しずつ変えながら何枚も接写の写真を撮り、端末の画面上で画像の濃淡やコントラストを細かく調整して、浮かび上がった文字を一文字、また一文字と慎重に拾い読みしていった。

 照明の光を真上からではなく、紙の表面を撫でるようにごく浅い斜めから当てると、繊維の奥に沈んでいた古い墨の跡が、うっすらと黒く浮かび上がる。

 

 《十二の歩みを終え》

 

 まずそう読めた。さらに画面を拡大すると、そのすぐ下の行に文字が続いている。

 

 《灯を次へ》

 

 そして、さらにその下だ。

 

 《受くる者は》

 

 ――けれど、そこから先の文字は、無残な虫食いの穴に呑み込まれて綺麗になくなっていた。

 画面の中には、紙が食い破られた穴の向こうに覗く、敷き布の白さだけが残っている。

 それでも、そこまでの三行を読んだ瞬間、らでんは椅子から飛び上がらんばかりにして土蔵の戸口へ叫んだ。

 

「はじめーっ! ちょっとこっち来て、早く!」

「わっ、なに!? どうしたの!」

 

 表で足を動かしていたはじめが、パタパタと足音を立てて駆け込んでくる。らでんは端末の画面をぐっと突き出し、今浮かび上がったばかりの三行を震える指先で示した。

 画面の文字を上から順番に目で追ったはじめの顔に、みるみるうちに大きな笑みが広がっていく。

 

「……『十二の歩みを終え、灯を次へ』。ほら、らでん、やっぱりうちが思った通りに合ってたよ!」

「うん! 十二番目は終わりじゃなくて、やっぱり次の人へ渡すための形だったんだ!」

 

 手を取り合って喜ぶ二人のすぐ後ろから、ジンものっそり顔を寄せて画面の行を覗き込んだ。

 

「――で?」

「え? で、ってなんですか?」

「それで、結局なんで村の奴らはこんな山歩きの引き継ぎみたいなもんを、わざわざ村の祭りにしたんだよ」

 

 ジンの低い一言に、らでんははっと息を呑んで動きを止めた。

 十二番目の型の意味が記録とぴたりと合った嬉しさのすぐ先に、一番最初から解けていなかった一番大きな問いが、まだそのまま手つかずで残っていたのだ。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の夜、宿舎の机に向かったらでんは、先日サエさんが話してくれたあのおばあさんの言葉を、調査ノートの余白にもう一度丁寧に書き直した。

 『字は消える、紙も燃える、道もなくなる。でも身体に入れたもんは、生きとる間、持って歩ける』。

 もしかしたら昔の誰かは、紙の記録だけではいつか消えてしまう大事なものを守るために、わざと歌と身体の動きに分けて、この村のお祭りの中へ預けたのかもしれない。

 けれど、いったいどこの誰が、何のためにそこまでして残そうとしたのかは、虫食いの先の文字と同じでまだ少しも分からないままだ。

 らでんは、部屋の外の廊下からはじめが「いち、に、さん」と三歩の足踏みをする規則正しい音を聞きながら、ノートの文の最後に、まだ消せない疑問符をそっと書き残した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 しばらくすると、廊下にいたはずのはじめが宿舎の外の庭先へ出て、また一から十二までの型を最初から通してやり始めた。

 夜露が降りてしっとりと湿った土の上で、地面を踏むはじめの足音だけが夜の空気に静かに響いている。

 らでんが窓際から見ていると、はじめは一の動きで全身に『纏』を張り、二で深く呼吸を入れ、そして三で重心を送り出すところで、自分のオーラを強く押し出す『練』をほんの少しだけ混ぜて膨らませた。

 その瞬間、軒下の暗がりからジンの鋭い声が飛んだ。

 

「おい、はじめ。そこに『練』は入れんな」

 

 ぴしゃりと言われて、庭先のはじめがぴたりと足を止めて振り返った。

 

「えっ、なんで? 三のところでちょっと『練』を入れると、もっと強く前に出られる感じがするのに」

「お前な、今はまず、昔の連中が残したその踊りを正確に覚えてる最中だろ。そこに自分の念を勝手に混ぜて、元の動きの形を変えんじゃねえ」

「……んー……」

「踊りの型と、お前の念の修行は、今は別々に分けて覚えろ。二つを混ぜるのは、その両方が考えなくても出来るくらい完全に身体に入ってからだ」

 

 少し唇を尖らせていたはじめも、ジンの言葉の意味が分かったのか、すぐにこくりと頷いた。そしてもう一度最初の構えに戻り、今度は『練』も『纏』も混ぜずに、純粋な身体の動きだけで一、二、三と地面を踏んでみせる。

 すると、さっきまで少しだけ力んでいた土を踏む足音が、夜の庭に驚くほどすっきりと澄んで響いた。

 

 窓の内側からそれを見つめていたらでんは、なんだかとても不思議な気持ちになっていた。部屋のランプから縁側へと漏れる温かい光に照らされたはじめの背中が、昼間に見ていた時よりも少しだけ大きく、頼もしく見える。

 今ジンが言ったことは、自分たちが毎朝やっている念の修行とまったく同じだ。

 一番最初は、頭で「ここへ意識を置いて、ここで息を吸って」と一生懸命考えながら、何度も何度も繰り返し身体に入れていく。そうして、いちいち頭で考えなくても自然に動けるようになった時、初めてその技術がほんとうに自分のものになるのだ。

 古い文化財の技術を後世に残すことと、自分たちが新しく念の使い方を覚えることは、ぜんぜん別のことのはずなのに――「生きた人間の身体を通る」という一点で、こんなにもよく似ているのだと、らでんは初めて気づきかけていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そうして、この村での調査と修行は、いよいよ二か月目へと入った。

 朝晩に吹く風の匂いが少しずつ秋めいて変わり、雨上がりの山の土の匂いが前よりも濃く感じられるようになっている。

 二か月目に入っても、はじめの十二の型はまだ百点満点の完璧というわけではなかった。一から十二までの足の運びはすっかり綺麗に揃ったけれど、後半の九や十あたりになると、どうしてもまだ呼吸が一拍だけ遅れてしまうところが残っていた。

 らでんの方も、目元の『凝』を保てる時間はまだ三十秒程度で、気配を消す『絶』は一分を越えるかどうかが怪しく、『練』を続ければすぐに肩で息をして疲れ、普段の『纏』だって、誰かと夢中で会話をし始めるとたまにふっと切れてしまう。

 

 一度に保っていられる時間は最初の頃より確かに延びたけれど、集中が崩れるきっかけは一か月前とあまり変わっていなかった。

 それでも、一か月前にはどれだけ頑張っても出来なかったことが、今では毎朝毎晩の積み重ねで、ほんの少しずつ自分たちの身体の奥に消えないまま残るようになっている。

 うまく出来る日と、どうしても出来ない日を行ったり来たりしながらも、「失敗して戻る場所」が少しずつ前より高いところへと移っていく。そして、それとまるで同じようにして、百年以上前に消えかけていた名もなき誰かたちの歩みも少しずつこの世界に呼び戻され、次へと渡す手が確実に増えていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その頃になると、毎朝の『方便』もすっかり二人の当たり前の一日の始まりになっていた。

 『点』・『舌』・『錬』・『発』。もう最初の頃みたいにジンが横からいちいち「次は何だ」と聞かなくても、朝起きて顔を合わせれば、らでんとはじめの二人だけで自然にその日の段取りを始められるくらいには身体に馴染んでいる。

 

 ある朝のことだった。方便を終えて朝ご飯の卓に着いたところで、はじめがぱっと顔を上げて切り出した。

 

「ねえ、うち、今日はあの十二の型を、実際の山の旧道で全部通して試してみたい!」

「あ、それなら私は、その十二の型と旧道の実際の地形がどう対応してるか、横で照合するよ」

 

 らでんもすぐに我が意を得たりと頷いて、脇に置いてあった調査ノートを開いた。

 すると、向かいで黙々と朝ご飯を食べていたジンが、茶碗の上でぴたりと箸を止めた。

 

「おい。なんでだ」

「え? なんでって、なにがですか?」

「なんでわざわざ山へ行ってやるんだって聞いてんだよ」

 

 急に問い返されて、はじめは箸を持ったまま少し考えるように目を瞬かせた。

 

「……だって、あの踊りって、もともとはこの山を歩くための動きだったから」

「ほう。なら、山へ行って具体的に『何』を見るんだ」

 

 さらに突っ込まれてはじめが言葉を探していると、今度はらでんが先に口を開いた。

 

「一つずつの型の動きが、実際の山のどんな地形に対応して作られたのかを確かめるんです」

「……ふうん、そうか」

 

 ジンはそれだけ言うと、また何事もなかったように箸を動かして飯を口へ運んだ。

 はじめがテーブルの上からぐっと身を乗り出して、ジンの顔を覗き込む。

 

「ねえジン、今日、ジンも一緒に山へ来る?」

「ああ? 気が向いたらな」

「うわ、それ絶対に来ないやつの返事じゃん!」

 

 ぶうぶう言うはじめの横で、らでんは苦笑しながら手元の調査ノートへと視線を戻した。

 

 ――実はその前夜、らでんにはどうしても一つだけ、胸の奥に引っかかっていることがあったのだ。

 やっぱり、あの『十二の型』の数のことだった。

 最初に踊りを教えてくれた七十六歳のサエさんは、指を折りながら確かにこう言っていた。

 

 『十二……いや、最後にもう一つあった気もする』

 

 けれど、村中のお年寄りや記録から復元できた身体の動きは、どう探しても十二番目までしかなかった。

 サエさんの言葉だけが耳に残り、自分たちの身体や理解がまだそこへ追いついていないようなもどかしさが、どうしても消えなかったのだ。

 

 だから昨夜、らでんは役場で借りてきたさらに古い時代のお祭りの集合写真を端末の画面で大きく拡大し、そこに写っている人たちの数を端から順番に数え直してみたのだった。

 

「……いち、にい、さん、しい……」

 

 ランプの下で画面を指差しながら小声で数えていると、布団の上でストレッチをしていたはじめが「なにやってんのー?」と横から顔を覗き込んできた。

 

「ん、このお祭りの写真の人数を数えてるの」

「へえ、踊ってる人たち? そんなの、型と同じで十二人なんじゃないの?」

「それがね……ほら、ここ。……十三人いるんだよ」

 

 らでんの言葉に、はじめも目を丸くして画面へ顔を近づけた。二人で息を詰めて、もう一度古い白黒の写真を見直す。

 画面の中には、あの角型の《渡り灯》を手に持って一列に並んでいる人たちが、確かに十二人写っていた。――けれど、その十二人の列の少し奥に、もう一人だけ別の人物が立っていたのだ。

 その十三人目の人物は、手には灯も何も持っておらず、十二人の列の中にも入っていなかった。それどころか、灯を持って並ぶ十二人の正面で、彼らとまっすぐ向かい合うようにして一人で立っていたのだ。

 

「えーっと……この端っこの人、ただのお祭りの見物人ってことはない?」

「もし見物人なら、なんでこんな列の真ん前に立ってるんだと思う?」

 

 らでんが指差した通り、その人物が立っているのは写真の端の観客席ではなく、灯を持った十二人がこれから進んでいく先の、まさに真正面の位置だった。そこでじっと十二人を待ち受けるように立っている以上、たまたま写り込んだ見物人ではどうにも説明がつかない。

 らでんは昨夜、その写真の横で調査ノートを開き、ペンで強くこう書き留めたのだ。

 

 『十二の型』『灯持ち十二名』

 

 そして、写真には十三人が写っていることを確認して、そのすぐ下に、

 

 『十三人目は何をしている?』

 

 と書き続けたのだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そうして迎えた今日の朝、らでんとはじめの二人は、朝の光を浴びながら山の旧道へと足を踏み入れた。

 もちろん、山道を歩きながらの念の稽古も、調査と並行して毎日休まず続いている。

 全身を包む『纏』は、はじめがこうして山道を動いている時にはもうかなり安定しているし、らでんの方も、立ち止まって静かに記録や観察をしている時にはずいぶん長く保てるようになった。ただ、今でもふいに別のものへ注意が移ると、そこからすぐに膜が崩れてしまう。

 オーラを閉じる『絶』は、一分を越えて保てる日が確実に増えた。けれど、急に足元の枝が折れたりして緊張が走ると、やっぱりそこから少し漏れてしまう。

 『練』は、はじめが一度に押し出す量を、らでんが同じ厚みで保つ安定感をそれぞれ伸ばしている最中だ。

 そして一番新しい『凝』は、まだ保てる時間が短い。最初に挑戦した頃と比べれば力みを抜くコツは掴めてきたものの、長く続けようとするとすぐに目の奥がズキズキと痛み出し、目元へオーラを寄せた分だけ、お腹や背中の覆いがどうしても薄くなってしまう。

 らでんのこの悪い癖だけは、いつまで経ってもジンにはあっさりと見抜かれてしまうのだ。先日も、山道の途中で気になる木の傷を『凝』で覗き込んでいたら、後ろから歩いてきたジンにすぐさま声を飛ばされたばかりだった。

 

「おい、らでん。『凝』を切れ」

「えっ、まだちゃんと保ててますよ!」

「保ててるつもりで背中がガラ空きなんだよ。だから今すぐ切れ」

 

 そんなふうに叱られてばかりで、決して派手な上達ではなかったけれど、「あまり伸びない日でも絶対に毎日切らさず続ける」ということだけが、二か月目の二人の身体に少しずつ積み重なっていた。

 

 今日の山道では、前を歩くはじめが背中にあの『模擬灯』をしっかりと背負っている。もちろん、土蔵にある本物の《渡り灯》は山へは持ち出さない。

 肩や背中にのしかかる四角い木枠の重量や、長く伸びた持ち手の太さを、カルドさんが本物の《渡り灯》にできるだけ近づけて作ってくれたものだ。単なる軽い棒ではなく、こうして本物と同じだけの重さがあるからこそ、山道でそれを支える身体の動きや重心の位置がはっきりと変わってくる。これなら、険しい山の中で実際に踊りの型を試してみても、大切な本物を傷めずに済むのだ。

 

 旧道の入り口からしばらく登り、左右から木の枝が低く張り出した狭い道へ入ったところで、はじめが背中の模擬灯を下ろして構えた。

 まずは型の一、『灯を抱け』だ。

 はじめは長い持ち手を握り直し、四角い灯の枠をぐっと自分の胸のすぐ近くへと引き寄せた。左右から細かい枝がたくさん突き出しているこの場所では、そうやって身体の内側へ深く抱え込まないと、角張った灯の枠がすぐに枝へ引っかかってぶつかってしまうのだ。

 抱え方が少しでも浅いと前に進めないことが、実際にこの道を歩いてみると理屈ではなく身体ですぐに分かった。

 後ろからついていくらでんは、歩きながら手元の調査ノートに素早くペンを走らせる。

 

 『ここなら意味ある』

 

 そこからさらに斜面を登って木々の切れ間を抜けると、視界がぱっと開けた細い尾根道に出た。途端に、谷の下から吹き上げてくる強い風が二人の身体を叩く。

 続く型の二は、『風を背に』だ。

 はじめはすぐさま足を踏み替えて自分の身体を斜めの半身にし、抱えた模擬灯を自分の胴体の風下へと隠した。

 もし正面を向いたままだったら、強い風をまともに受けて灯の火が消えてしまうだろうし、大きな木枠が風にあおられて足元までふらついてしまう。こうして自分の背中を風除けにする向きに変えると、驚くほど足元の重心がどっしりと安定した。

 

「ほら、らでん、これで二個目もぴったり!」

「うん、でもまだ二つだけなら偶然かもしれないよ」

 

 慎重に答えるらでんに、はじめは「もうー」と笑いながら次の斜面へと足を進めた。

 尾根の先は、大小の角張った岩がごろごろと崩れ落ちている足場の悪い岩場になっていた。

 型の三、『石を避け』だ。

 はじめはサエさんの家の畳の上で何度も練習した通り、岩の上で足をまっすぐ前に出すのではなく、斜め外側へと素早く踏み替えた。

 浮いた石の上を進行方向へまっすぐ踏み抜こうとすると、石が転がって足首がぐらついてしまう。けれど、こうして斜めに重心を逃がすように足を置くと、不安定な岩場でも足の裏がしっかりと地面に残るのだ。

 岩場をひょいひょいと抜けきったところで、はじめが得意げに笑って振り返った。

 

「はい、これで三個目! ね、これもぴったりでしょ!」

「うっ……私がまだちょっと頑固でした、これは偶然じゃないかも!」

 

 らでんが降参してノートに丸をつけると、道はそこから一気に息の詰まるような急な登り坂へと変わった。

 模擬灯を抱えてその急坂を登りきったすぐ先に、ぽっかりと小さな平場が開けていて、岩の隙間から冷たい湧き水がちょろちょろと音を立てて流れ出しているのが見えた。

 型の四、『息を継げ』だ。

 一番きつい急坂を登りきってちょうど息が上がる場所に、こうして足を止めて水を飲める小さな平場がある。ここまでの一、二、三の動きと呼吸の流れが、まるで最初からこの湧き水の場所で一息つくために作られていたみたいに自然だった。

 

「……ここ、昔の人の休憩場所だったのかな?」

 

 らでんが平場の石の上で古い地図を広げる横で、はじめも模擬灯を少し下ろし、大きく胸を膨らませて呼吸を整えた。

 

「ねえらでん、これさ、先にあった踊りの型を、この山道に合わせて使ってるってこと?」

「ううん、たぶんそれ、順番が逆かも」

「え、逆ってなにが?」

「先に踊りがあってそれを道に合わせたんじゃなくて、最初から『この険しい山道を安全に歩くため』に、あの十二の型が出来たんだよ」

「――へえ、そんなもん当たり前だろ」

 

 ふいにすぐ後ろの茂みから低い声が落ちてきて、らでんとはじめは同時にびくっと肩を揺らして振り返った。

 いつの間にか、すぐ後ろの木の根元にジンがポケットに手を突っ込んで立っていたのだ。

 

「わっ、ジンさん! いつの間に来てたんですか、結局気が向いたんですね!」

「ふん、宿舎にいても暇だっただけだ」

 

 そっぽを向くジンに二人で顔を見合わせて笑ってから、一行はさらにその先の山道へと進んだ。

 平場の湧き水を過ぎると、型の五では緩やかな下り坂に合わせて前後の荷重を移し、続く型の六では、頭上を避けるようにぐっと身体を低く屈める――はずだった。

 けれど、その六番目の場所に差し掛かったところで、前を歩いていたはじめがぴたりと足を止めて首を傾げた。

 

「…………あれ? ねえらでん、六番目ってほんとにここ?」

 

 後ろから追いついたらでんも、周囲を見回して眉を寄せた。

 今二人が立っているのは、見通しのいいごく普通の山道だった。頭上の木々の枝もずっと高いところにあるし、わざわざ腰を折って身体を低く屈めなければならないような障害物は、どこにも見当たらない。

 らでんは手元の古い地図と、これまでに写し取った型の一覧へと目を落とした。

 

「おかしいなあ……一から五まではあんなに順番通りだったのに、この六番目の動きだけ、今の道の地形と全然合わないよ」

「おい、合わないんなら、なんで合わないんだ」

 

 後ろから歩いてきたジンに問われて、らでんは地図の上から顔を上げ、目の前の山道を見つめ直した。

 

「型の方が間違っていないとしたら……この道の地形の方が、昔から今までのある時点で後から変わった、とかですか?」

「ほう。例えばどんなふうにだ」

 

 ジンが腕を組んで促すと、隣で模擬灯を担ぎ直していたはじめが、ふと道の横の斜面をぐっと見上げた。

 

「……ねえ、ここさ、昔より地面の土が増えてたりしない?」

「おい、はじめ。お前、今どこを見てそう言った」

「え? だってほら、あそこに生えてる木の太さ!」

 

 はじめが空いた方の指先で、斜面のずっと上の方に生えている幹の太い古木と、今自分たちが歩いている道のすぐ脇に生えている、まだ幹の細い若木を順番に指差した。

 上の方は何十年、百年と経っていそうな大木ばかりなのに、この道の一帯だけ、生えている木の年齢が明らかに新しく揃っているのだ。

 

「ここだけ若い木ばっかりってことはさ、昔、上の斜面が一回ドサーッて崩れたんじゃないの?」

「……あっ!」

 

 はじめのその一言で、らでんの頭の中に、先日役場の倉庫で読んだ古い災害記録の一行がぱっと蘇った。

 確か、今から四十七年前の大雨の年に、この山の中腹で大きな斜面崩落があり、村の人たちがその後で現在の山道を新しく作り直した、という記録があったはずだ。

 もし今歩いているこの道が、四十七年前に崩れた土砂の上へ新しく付け替えられた道なのだとしたら、百年以上前の『六番目の型』の意味がこの場所で見つからないのも、完全に説明がつく。

 

「よし、じゃあ四十七年前に埋まる前の『元の道』が、この近くのどこかに残ってないか探せ」

 

 ジンの短い号令で、二人はすぐに道の脇の斜面へと分け入った。

 それから十五分後のことだ。現在の道から少し下へ降りた斜面の茂みの中から、はじめの弾んだ声が響いた。

 

「らでんーっ! こっちこっち、なんかあったよ!」

 

 らでんが枝をかき分けて斜面を下りていくと、そこには、崩れてきた土砂に半分ほど埋まりながらも、明らかに人間の手で運んで並べられた平たい石が、森の奥へと一直線に続いていた。

 らでんはすぐにその場へしゃがみ込み、腐葉土の下から覗いている石の角の並びを指先で確かめた。

 

「……間違いない、昔の道端の石積みだ! ここが崩落する前の旧道だよ!」

 

 二人はその石積みの線に沿って、さらに数メートルほど奥へと進んだ。

 するとその先では、元の道の地面が現在の道よりも一メートル近く低い位置を通っており、そのすぐ頭上に、巨大な岩盤が庇のように大きくせり出して張り出していたのだ。

 先頭を歩いていたはじめが、普段通りの姿勢でそのまま下を通ろうとして、ゴツッと頭を岩の天井にぶつけた。

 

「うわっと! ……あっ、ここが『六』だ!」

 

 はじめはすぐに目を輝かせ、さっきの六番目の型の通りにぐっと腰を落として身体を低く屈め、その張り出した大岩の下を通り直してみた。

 すると、背負った模擬灯の角も頭も岩に少しも当たらず、まるでその岩の高さに合わせて測ったみたいに、ぴったりと下をくぐり抜けることができたのだ。

 後ろからそれを見ていたらでんは、自分の両腕にぶわっと細かい鳥肌が立つのを感じた。

 

「……すごい……四十七年前に道が崩れてなくなっちゃったのに、人間の身体に残った『型』の方が、昔の道の形をちゃんと覚えてたんだ……!」

「へえ、こいつはなかなか面白えな」

 

 ふいにすぐ頭上から声が降ってきて、らでんがぎょっとして見上げると、なんとジンがいつの間にか、その大きく張り出した岩盤のてっぺんにしゃがみ込んで下を覗き込んでいた。

 

「ちょっとジンさん、なんでいつもそういう美味しい時だけ急に出てくるんですか!」

 

 言い返すらでんを見下ろしてジンがにやりと笑う。

 元の旧道を見つけたそこからは、もう面白いようにすべてが繋がった。

 続く型の七は、崖っぷちの急な曲がり角で身体ごと素早く方向転換する動き。八は、片側が切れ落ちた細い岩棚を踏み外さないように渡る足運び。九は、飛び石の並ぶ浅い沢を渡る時の重心移動で、十は、山肌の向きが変わる場所で模擬灯を左右の手で持ち替える動作、そして十一は、峠のすぐ手前の長く続く上り坂で、もう一度深く呼吸を整え直す動きだった。

 

 そうして十一までのすべての地形を抜け、最後の十二番目を踏み終えたところで、三人はぽっかりと空の開けた山の峠へと出た。

 そこは、山を越える古い道が二つ交わっている、風通しのいい小さな平場になっていた。

 平場の真ん中まで進んだはじめは、そこで最後の十二番目の型を踏み、抱えていた模擬灯をまっすぐ前へと差し出して、ぴたりと足を止めた。

 

 峠の平場に、風の音だけの静けさが落ちた。

 差し出した模擬灯のすぐ先には、山の向こうへと続く道が広く開けているのに、やっぱりそこには「灯を渡す相手」が誰もいない、どこか宙ぶらりんの止め方だった。

 

 らでんは足を止め、はじめの立つ平場の周囲をぐるりと見回した。――すると、雑草に半ば埋もれるようにして、地面の上にいくつもの石が並んでいるのが目に入った。

 近づいてしゃがみ込み、一、二、三と順番に指を差して数えてみる。人間が一人ちょうど足を乗せられそうなくらいの小さな平石が、きれいな円の形に沿って並べて据えられていた。

 

「……じゅう、じゅういち、じゅうに。……ここも十二個だ」

「えっ、また十二?」

 

 模擬灯を下ろしたはじめが隣へ寄ってくる。

 十二個の平石を数え終えたらでんは、そこでふと顔を上げ、その石の輪のすぐ外側へと視線を移した。

 円を描くように並んだ十二個の平石の輪から外れて、ちょうどその輪と正面から向かい合う少し離れた位置に、もう一つだけ、他より一回り大きな石がぽつんと据えられていたのだ。

 

 全部で、十三個だった。

 らでんは思わず言葉を失って、その大きな石を見つめた。

 

「おい、どうした」

 

 後ろから歩いてきたジンの声に、らでんは立ち上がり、足元の十二の石の輪と、少し離れた一つの大石を交互に指差した。

 

「ジンさん、見てください。この石の並び、『十二と、一』です」

「あっ……それって、昨日の夜の、あの写真の『十二人と、一人』とおんなじじゃん!」

 

 隣のはじめも、昨夜画面で見たあのお祭りの集合写真の構図をすぐに思い出したらしい。

 らでんはもう一度地面へしゃがみ込むと、『凝』ではなく普通の目で、それぞれの石の表面の削れ具合をじっくりと見比べた。

 円になって並んでいる十二個の平石は、どれも誰かが何度もその上で足を踏んだ足場のように、表面が同じくらい滑らかに摩耗して擦り減っている。そして、輪から離れた大きな一個の石だけは、置かれている位置も向きも、最初からその十二個とは区別されていた。

 らでんは慌てて調査ノートを開き、昨夜書いたページの続きへ、今見つけたばかりの事実を並べて書き込んだ。

 

 『十二の型』『十二の灯持ち』『十二の平石』『+一人』『+一石』

 

「……やっぱり、十三なんだ」

 

 ノートを覗き込んだはじめが、小さく呟いて口をつぐんだ。

 その十三という数が具体的に何を意味しているのかは、まだはっきりとは分からない。

 でも、お年寄りの記憶と、古い写真と、この峠の石の並びまでがすべて同じ形で揃っている以上、もう「たまたまの偶然」の一言で片づけるには数が重なりすぎていた。

 

 さらにらでんが地面の土や石の周りを詳しく観察してみると、十二個の平石が作る円の踏み跡は、輪の中心ではなく、外側の石の上で何度も繰り返されていた。

 そして、輪から離れたあの大きな一つの石のすぐ前には、十二個の石とまっすぐ向かい合うようにして、誰かがそこでじっと立ち続けていたような深い足場の跡がくっきりと残っていたのだ。

 はじめがトコトコと歩いていって、その大きな石の前の足跡の上に自分の両足を乗せて立ってみた。

 

「ねえ、この石の前ってさ、やっぱり誰かが一人でじっと待ってる場所なんじゃない?」

「かもな」

「ここが、あの『十三人目』の場所……」

 

 その言葉が、峠の風の中で初めてはっきりとした形を持って二人の口から出た。

 けれど、その十三人目の人がここで具体的に何をする役目だったのか――山の宿の管理人なのか、峠の見張りなのか、お祭りの儀礼役なのか、それともみんなに動きを教える指導者なのか。今はまだ『十三人目』という仮の名前がついただけで、その肝心の中身は空っぽのままだった。

 

 そこで、はじめがもう一度十二の石の輪の端へと戻り、最後の十二番目の型を踏んで、大きな石の方へ向かって模擬灯をぐっと前へ差し出して止まった。

 らでんは、手元の端末に保存してあるあの百年以上前の集合写真と、目の前の峠の風景を交互に見比べた。

 写真の中では、十二人の人たちが灯を持ち、その正面で一人が何も持たずに待っていた。

 そして今、目の前ではじめが十二番目の型で灯を前へ差し出し、その正面に、大きな石が一つだけ据えられている。

 百年以上前の写真の構図と、今自分たちが立っているこの峠の石の配置が、パズルのピースみたいに寸分違わずぴたりと重なった。

 らでんは吸い寄せられるように歩いていき、その大きな石の前の足場へと立って、はじめと正面から向かい合った。

 

「……私が立つ場所、ここ?」

「うん、たぶんそこ!」

 

 らでんは、目の前に差し出されている模擬灯を見つめた。

 そして、自然な動きで両手を伸ばし、はじめから差し出されたその模擬灯の持ち手を、自分の手へと受け取った。

 ――その瞬間だった。すぐ前で手を離したはじめが、「あっ」と小さく息を呑んだ。

 

「え、なに?」

「らでん、今そのまま! ちょっと動かないで!」

 

 言われて、らでんは模擬灯を受け取ったそのままの体勢でぴたりと固まった。

 自分の下ろした視線の先で――長い持ち手を右手で上から受け取り、重みを支えるために左足が自然と半歩後ろへ下がり、上体が斜めの半身になって、四角い模擬灯の枠が自分の胸元へと深く引き寄せられている。

 頭で「型をやろう」なんて少しも意識していなかったのに、正面から差し出された灯をそのまま受け取っただけで、自分の足と身体が、最初からあの『灯を抱える向き』へとすっぽり入っていたのだ。

 

 それは、一番最初の型――一の型、『灯を抱け』そのものだった。

 

 ただ受け取っただけで、次の人の『始まりの姿勢』になっていた。そのことに気づいた瞬間、峠の平場がもう一度、しん、と静まり返った。

 

「……はっ、そういうことかよ」

 

 後ろで見ていたジンの低い声に、面白がるような小さな笑いが混じった。

 目の前のはじめは、自分が灯を手渡した『十二番目の終わり』の両手を見つめ、らでんは、自分が灯を受け取った『一番目の始まり』の胸元を見下ろしている。

 前の人の終わりと、次の人の始まりが、こうして生きた人間の手から手へと灯を渡すことで、最初から切れ目なく一つに繋がっていたのだ。

 

「……十三番目って……」

 

 らでんは、自分の胸の前で抱えた模擬灯をぎゅっと握りしめた。

 向かい合うはじめも、さっきまで灯を差し出していた自分の両手へと目を落とす。

 

「やっぱり、新しい『型』の名前じゃないんだ」

「ああ、たぶんな」

 

 ジンの短い相槌に、らでんはぱっと顔を上げた。

 

「十三番目は、動きじゃなくて、『人』だ!」

 

 十二の型のあとにあった『十三番目』。それは、十三個目の新しい踊りの動きなんかではなく、十二番目の歩みを終えた人からその灯を受け取って歩き出す、『次の人』のことだったのだ。

 

 はじめが、端末の画面に写る十二人の灯持ちと、その正面で向かい合って待つ一人の姿をビシッと指差した。

 

「だから、あの写真の人は列の正面で待ってたんだ!」

「うん、だからこの峠の石も、十二個の輪と、向かい合う一個なの!」

「だから、あの場所で正面から向かい合って立ってたんだね!」

 

 らでんも、足元に並ぶ十二個の平石と、今自分が立っている一つの大石を興奮して見渡した。

 

「それに、サエさんが言ってた言葉もそうだよ! 『十二のあとに、最後にもう一つあった気がする』って!」

 

 子どもの頃にお祭りで並ばされたサエさんがうっすらと覚えていたのは、十三個目の踊りの振り付けではなく、最後に誰かへ灯を手渡すという『受け渡しそのもの』――お祭りの儀礼の最後のひと区切りだったのだ。

 サエさんのあの曖昧だった記憶が、動きの数ではなく「人の数と受け渡し」のことだったと気づいたからこそ、古い写真と、峠の石と、踊りの型という三つのバラバラな手がかりが、今この場所で完全に一つに合った。

 

 すると、横で見ていたジンが「ちょっと貸せ」とらでんから模擬灯を取り上げて、もう一度はじめへ渡し、自分はらでんのいた大石の前へと立った。

 はじめが最後の十二番目の姿勢を作って模擬灯を前へ差し出し、それを正面のジンが両手で受け取ると――やっぱりジンの大きな身体も、そのまま少しの無駄もなく、すっと一番目の型へと収まった。

 

「ほら、やっぱりそれだ!」

 

 ぱっと目を輝かせるはじめの前で、ジンはそのまま模擬灯を抱えて一歩前へ踏み出し、二、三と流れるように続きの足運びを踏んでみせた。たった一回受け渡しの仕組みを見ただけなのに、もう何年もその山道を歩いてきたみたいに自然だ。

 それを見たはじめがまた「もう、ジンがすぐ出来るのはずるい!」と声を上げ、ジンが「見りゃ分かるっつったろ」といつもの調子で返し、らでんが「はいはい、山の上で揉めないでください!」と一言でたしなめる。

 けれど、どれだけ身体の感覚としてぴたりと合っていても、これだけではまだ自分たちの『仮説』にすぎない。文化財の調査である以上、「身体でやってみたらそんな感じがした」というだけで結論を決めてしまうわけにはいかなかった。

 

 らでんが何か裏付けになるものはないかと平場の周囲を探してみると、峠の端の草むらの中に、風雨に晒された古い石柱が一つだけひっそりと立っているのが見つかった。

 表面には、ごく薄い彫り込みの跡が残っている。

 らでんはすぐに端末を取り出し、先日の祭礼帳の時と同じように、石柱の表面に当てる光の角度を少しずつ変えながら何枚も接写の写真を撮った。すると、画面の中に浮かび上がったのは、片方が何かを差し出し、もう片方がそれを受け取っている『二つの手』の図柄だった。

 さらに、その二つの手の図のすぐ下に、摩耗して潰れかけた古い文字が三つ並んでいる。

 山を下りて宿舎へ戻ったその日の夜、らでんが端末の画面でその文字の写真を大きく拡大し、役場から借りてきた古い書体の資料と一文字ずつ照らし合わせていくと、ようやくその三文字がなんと彫られているのかが読めた。

 

 一番上が『継』。真ん中が『灯』。そして一番下が『人』。――『継灯人』だ。

 

「……『灯を、継ぐ人』……!」

 

 横から画面を覗き込んでいたはじめの声に、らでんは大きく頷いた。後ろから肩越しに写真を見ていたジンも、低く呟く。

 

「そいつが、あの『十三人目』の役目か」

「『継灯人』っていう役割の名前があったんですね……?」

「かもな。その石の図柄からすりゃ、筋は通る」

 

 その言葉に背中を押されて、らでんはその夜のうちに、先日土蔵で見つけたあの虫食いだらけの『祭礼帳』や他の古記録をもう一度端から引っ張り出して調べ直した。

 すると、祭礼帳のページの端、今まで汚れだと思って見落としていた欄外のところに、ごく薄い墨の書き込みがあるのが見つかった。

 そこには『舞手十二』と書かれており、そのすぐ下の文字は虫食いに削られて、最初の頭の一文字だけがかろうじて残っていた。

 

 『受――』

 

 そこから下の文字は、紙ごと消えてなくなっている。

 意地悪な虫食いの穴が、ちょうど灯を受け取る側の呼び名をすっぽりと隠していたのだ。

 らでんは、その欠けた穴の縁をそっと指先でなぞった。

 

「……『舞手十二』の次に、『受ける』……」

「それってやっぱり、『受ける人』って書いてあったのかな?」

「うん、この並びなら、その可能性はすごく高いと思う」

 

 さらに、別の箱から出てきた村の古い『家系帳』の束を、今から百六十二年前のページまで遡ってめくっていた時だった。当時の出来事をメモしたらしいページの欄外に、こんな一行が小さく書き込まれているのが目に飛び込んできた。

 

 『「秋、灯ノ者十三名滞在」』

 

「あっ、らでん、ここ! 『十三名』って、この人たちのこと!?」

 

 はじめが指差したその一行のすぐ下に、もう一つ、短い言葉が添えられていた。

 そこには、はっきりと『「継灯 シウ」』と書かれていたのだ。

 

「……『継灯、シウ』。ねえ、この『シウ』って、人の名前かな?」

「うん、たぶん。『継灯人』のシウさん、ってことかもしれない……!」

 

 らでんは胸をドキドキさせながら、その家系帳のページをさらに先へとめくった。

 すると、同じ帳面の数ページ先――その翌年の『春』の欄外に、また短い記録が残っていた。

 けれど、そこに書かれていたのは、『「灯ノ者十二名」』という文字だった。

 

 画面と帳面を覗き込んでいたらでんとはじめは、同時にぴたりと口をつぐんだ。

 百六十二年前の秋に、この村へやって来た『灯ノ者』は十三人。それなのに、年が明けた翌年の春には、その人数が十二人に減っている。そして、秋の記録にあった『継灯 シウ』という名前は、春のページにはどこにも書かれていなかった。

 

「……ねえ、減った一人って、あの『十三人目』だよね」

「うん。この『シウ』っていう人が、その十三人目だったのかもしれない」

 

 古い紙の上には、秋にやって来た十三人と、春に記録された十二人という『一人の差』だけが残っていて、どうして一人減ったのかという理由まではどこにも書かれていなかった。

 

 らでんは手元の調査ノートを開き、新しい真っ白なページの一番上に、まず『十三番目は「受け取る人」』と大きく書き記し、そのすぐ下に『継灯人シウ』と書き続けた。

 さらに、その下へペンを走らせる。

 

 『なぜ、シウだけ戻らなかった?』

 

 そしてページの最後に、一番最初から追いかけていた問いへと繋がる一行を書き加えた。

 

 『《渡り灯》がこの村に残ったことと関係する?』

 

 部屋の少し離れたところから、ジンが黙って机の上の二人を見ていたけれど、今夜は何も口を挟まなかった。

 らでんは書き終えた調査ノートのページをパタンと閉じ、隣のはじめとまっすぐ目を合わせた。

 

「――よし。明日はこの『シウ』さんのこと、徹底的に調べるよ!」

「うん!」

 

 身体に残された十二の型と、灯を受け取る十三番目の人、そしてこの村の土蔵に一基だけ残されていた《渡り灯》。

 バラバラだった三つの謎が、百六十二年前の『シウ』という一つの名前を通して、ようやく同じ一本の線の上に乗り始めていた。

 けれど、それはまだ一本の線が見えたというだけで、それらを一つに繋ぐ本当の結び目は、まだこの先の調査の中に残っていた。

 

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