儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第二十一話 戻ってきた十二人

 朝一番に調査ノートを開くと、昨夜最後に書き留めたページがそのまま目に飛び込んできた。

 

 『秋、十三人。翌春、十二人。継灯、シウ』

 

 百六十二年前の秋にこの村へやって来た十三人のうち、翌年の春には名前が消えていた一人の記録だ。名前と役目まではようやく突き止めたのに、どうしてその『シウ』という人だけが春に減っていたのか、肝心の理由はまだ真っ白なまま残っている。

 

 机の上へ広げた古い祭礼写真とノートを交互に見比べていると、後ろから歩いてきたはじめがひょいと肩越しに顔を覗き込み、写真の中で列の正面に立つ十三人目の人物を指差した。

 

「ねえ、やっぱりどう見てもこの人、この村でなにかあったってことだよね」

「うん、普通に考えればそうなるんだけど……」

「途中で病気とか怪我をして死んじゃったのかな。それとも、なんかの理由でこの村に残ることになったとか? あ、もしかして村の人と結婚したって線もある?」

「うん、死んじゃった可能性もあるし、村に残ったのも、結婚したっていうのも、今の段階じゃ全部あり得るんだよ」

「えー、なにそれ、じゃあ全部あるじゃん」

「そう、だからこれから一つずつ調べて確かめるの!」

 

 はじめが思いつくままに挙げた三つの可能性を、らでんは忘れないうちにノートの余白へ箇条書きにして並べた。

 今の時点ではどれもあり得て、どれ一つとして勝手に消すわけにはいかない。残っている記録を端から当たって、一つずつ確かめていくしかなかった。

 

 すると、すぐ後ろの卓で朝ご飯を食べていたジンが、茶碗を持ったままひょいと口を挟んだ。

 

「おい、一個抜けてるぞ」

「え? なにがですか?」

「そもそも、その元の記録が間違ってるって線だ」

 

 ペンを走らせていたらでんの手が、ぴたりと止まった。

 隣ではじめが「あっ」と小さく声を上げる。

 

「そこに書いてある『シウ』って名前が、本名かどうかも限らねえだろ」

「……た、確かに、通称とか屋号かもしれません」

「それに、秋の『十三人』って数字が、ただの数え間違いだったかもしれねえ。もっと言えば、秋に来た『灯ノ者』と春の『灯ノ者』が、ほんとにまったく同じ集団だったかどうかも、その一行だけじゃ分からねえはずだ」

 

 立て続けに指摘されて、らでんは思わず手元のノートを見下ろした。

 たった一つ『シウ』という名前を見つけた嬉しさで、まだ裏付けも取れていない仮説を、いつの間にか動かない事実みたいに扱いかけていたのだ。

 

 ジンは湯呑みの番茶を一口すすり、机の上の二人をちらりと見た。

 

「だから、思い込みで突っ走る前に一個ずつ潰してけ」

「……はい!」

 

 らでんは背筋を伸ばし、そのまま今朝の『方便』へと意識を切り替えた。

 まず『点』で、今日一番に確かめる標的を「シウがどんな人物だったのかを確かめること」に絞る。続く『舌』では、「百六十二年前の家系帳の記録を、同じ時期の別の資料と照合する」と、今日やるべき具体的な手順をはっきりと声に出して言葉にした。

 自分で決めた手順をノートへ書き留めている隣で、はじめがくるりとジンの方を振り返った。

 

「ねえジン、じゃあ今日のうちはなにをやればいい?」

「ああん? んなもん自分で決めろ」

 

 素っ気なく返されたはじめは、少し考えるように首を傾げてから、机の上の古写真に残る十三人目の立ち姿をそっと指先でなぞった。

 

「……じゃあ、うちはこの十三人目の人が具体的に何をしてた人なのか、身体の動きの方から探してみる」

「おう、じゃあ行ってこい」

 

 らでんは残された紙の記録から、はじめは身体に覚えた動きの方から、同じ一人の影を追いかける。

 それぞれのやり方で手がかりを探すことにして、二人は宿舎から朝の村へと飛び出した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午前中、らでんは役場の古い倉庫へこもり、昨日とは別の棚に積まれていた『家別帳』の束を引っ張り出した。

 今の戸籍の元になったような古い台帳で、当時の年貢や税の記録と一緒に、村の中の婚姻や死亡、出生といった家の出入りが細かく書き留められている。

 もちろん百六十年以上も前の紙だから、全部の年度が綺麗に揃っているわけではない。端が擦り切れて向こうが透けるほど薄くなっていたり、麻糸の綴じが緩んで年代の順番がバラバラに乱れている帳面も混じっていた。

 らでんはマスクの上から乾いた埃の匂いを吸い込みながら、一冊、また次の一冊と慎重にページをめくり続けた。静かな倉庫の中で、紙を返す自分の指先だけが前へ前へと進んでいく。

 

 やがて、百六十二年前の秋の記録がまとまった一冊に行き当たった。

 そこには確かに、村の外から来た滞在者が『十三人』と記されている。――けれど、同じ年の秋のことを書いた別の帳面を開いてみると、そちらには『十二人』と書かれていたのだ。

 数え間違いだろうか。一瞬そう思って眉を寄せたが、二冊の帳面を机の上に並べて、記載された日付の月をじっくり見比べてみると、理由が分かった。

 『十三人』と書かれているのは九月の帳面で、『十二人』になっているのは、そのすぐ翌月の十月の帳面だったのだ。

 

「……翌年の春まで待たないで、秋のうちの一か月でもう一人減ってる?」

 

 同じ「百六十二年前の秋」の記録でも、書かれた時期がほんの一か月違ったのだ。

 それに気づいてすぐ、らでんは同じ秋の『宿泊と配給』を記した別の帳面も引き寄せてみた。すると、滞在者に分け与えた米や塩、炭の量が、やっぱり九月から十月へ変わる境目で、きっちり十三人分から十二人分へと減っている。

 さらにその十月の配給記録のすぐ下に、食料や炭とは別の品目が一行だけ書き足されているのが目に入った。

 

 『薬 一人分』

 

「……薬……!」

 

 らでんは息を呑み、すぐさま倉庫の隅にあった当時の『村医の記録』の束を探し出した。

 年代を合わせてページを繰っていくと、ちょうどその十月の箇所に、短い診察の記録が残っていた。そこには患者の個人の名前は書かれていなかった。

 ただ、こう記されていたのだ。

 

 『山客 一名。右脚 裂傷』

 

 どこの誰という名前はなく、外から山を越えて来た客の一人が、右脚に裂傷を負ったという部位と傷の事実だけが、乾いた墨の文字で残っていた。

 

「――はじめっ!」

 

 らでんはその帳面を抱えたまま椅子から立ち上がり、倉庫の外へと飛び出した。

 表の広場では、ちょうどはじめが木の模擬灯を両手に持って、一から十二までの型を最初から通して踏んでいるところだった。十二番目の差し出しを終えて大きく息を整えたその横へ、らでんはパタパタと駆け寄った。

 

「はじめ、大変! 右脚だよ!」

「えっ、なにが? うちの右脚がどうかした?」

「ううん、はじめの脚じゃなくて記録の方! 百六十二年前の十月にね、『山客一名、右脚に裂傷』って書いてあったの!」

 

 言われたはじめは、目を丸くして自分の右脚をすとんと見下ろした。

 

「山客って、あの十三人のこと? じゃあ怪我したのって、シウさん?」

「名前までは書いてないから、まだシウさん本人だとは断定できない。でも、これ見て!」

 

 らでんは抱えてきた帳面のページを開き、手元のノートに写した日付の並びと一緒に指差して見せた。

 九月の時点では十三人いた滞在者が、十月には十二人に減っていること。同じ時期に『薬 一人分』が出ていること。そして村医の帳面に残っていた、山客一名の右脚の裂傷。

 バラバラの帳面にあった四つの記録をこうして横一列に並べると、今すぐ全部を一本の線で結びつけたくなってしまう。けれど、まだ飛びつくには証拠が足りなかった。

 

「……そっか。もし右脚を怪我しちゃったんなら、その人だけみんなと一緒に冬の山を越えられなかった、ってことなのかな?」

「うん、その可能性はかなりあると思う」

 

 二人が額を突き合わせて帳面を覗き込んでいると、すぐ近くの木陰で見ていたジンものっそりと歩いてきて、開かれた記録へ目を向けた。

 

「おい。その右脚の怪我の程度は、どこまで書いてある」

「え? ええと……『裂傷』とだけで、どのくらいの深さかまでは書いてありません」

「なら、その記録だけじゃまだ何も分かんねえだろ」

「……はい」

 

 ジンに言われて、らでんはもう一度唇を引き締めた。

 ただ『裂傷』とあるだけでは、少し縫えば歩けるくらいの傷だったのか、それとも本当に山道を歩けなくなるほどの大怪我だったのかまでは、まだ決められない。

 すると、隣で自分の右脚を見つめていたはじめが、手の中の模擬灯をぐっと持ち直した。

 

「よし。じゃあさ、右脚を怪我した人がこの十二の型をできるかどうか、今ここで試してみようよ!」

「えっ、試すってどうやって?」

 

 らでんが聞き返すより早く、はじめは首にかけていた汗拭き用の長いタオルを外すと、自分の右脚の膝から足首にかけてぐるぐるときつく巻きつけ、関節が曲がりにくいように縛り上げた。本物の怪我をするわけにはいかないから、タオルで可動域を減らして、右脚に体重を乗せられない状態を作ったのだ。

 そのままはじめは模擬灯を構え、右脚をかばいながら一の型へと踏み出した。

 けれど、最初の踏み込みの時点でぐらりと上体が崩れ、二の半身へ移ろうとしても軸足が踏ん張れず、三の『石を避け』で足を踏み替えようとしたところで、完全にバランスを失って止まってしまった。

 

「……うわ、全然ダメだこれ。一歩目からもう無理!」

「片脚使えなきゃ、山歩きの型なんざ出来なくて当たり前だろ」

「うーん、でもさあ……」

 

 ジンに呆れられても、はじめはタオルを巻いたまま諦めずに模擬灯を構え直した。

 そして今度は、最初から歩くのをやめて、十二番目の型の一番最後の動き――抱えていた灯を前へ差し出すところだけを、その場でやってみせたのだ。

 両足で立ったまま、腕をまっすぐ前に伸ばして模擬灯を差し出す。その動きと、逆に正面から灯を受け取って胸に抱える『十三番目』の動きだけなら、タオルで固めた右脚をほとんど動かさなくても、ぐらつかずに立つことができた。

 

「……あ。ねえらでん、ここだけなら、脚を怪我しててもできるよ!」

 

 らでんは、タオルを巻いた右脚のまま模擬灯を差し出しているはじめの立ち姿を、はっと息を呑んで見つめた。

 険しい山道を登り下りする一から十二までの型とは違って、峠の平場でじっと待って灯を受け渡しする役目だけなら、脚に怪我を抱えたままでも出来るかもしれない。

 

「……もしかして、あの写真の『十三番目』って、最初から山道を歩かない役だったのかな?」

「うん、ずっと同じ場所で待ってる側の人とか!」

「――へえ、そいつはちょっと面白えな」

 

 今まで後ろで腕を組んでいたジンが、興味を惹かれたように二人のすぐ前へと歩み寄ってきた。

 

「『継灯人』っつうのが、最初から最後までずっと先頭で灯を運ぶ奴とは限らねえ。約束の場所で灯を受け取って、また次の奴に渡す中継の役目なら――」

「山を歩き回らないで、一つの地点に残ってる人でも成立する、ってことですか?」

「かもな」

 

 ジンの言葉に、らでんは思わずノートを握りしめた。

 怪我をしたから山を越えられずに残ったのか、それとも、もともと一か所で待って灯を継ぐ役目だったのか。確かめるつもりが、またしても新しい仮説が一つ増えてしまった。今はまだ、どちらとも決めつけずにノートへ並べておくしかなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の午後、二人は村の中で一番古い墓地と、そこを管理している古い過去帳を調べに行った。

 墓地の端にある小さな管理小屋で、今から百六十年ほど前の記録がまとめられたページをめくっていた時だ。村の生まれではなく、外からこの村へ入って亡くなった人を記した欄に、ぽつんと一人分の記録が見つかった。

 そこに書かれていた名前は――『シウ』。

 

「……っ、いた!」

 

 らでんが指を止めたそのすぐ隣へ、横から覗き込んでいたはじめの指がぴたりと並んだ。

 ただ、そこには『シウ』という名前があるだけで、村の人のような名字は書かれていなかった。それに、帳面の年号は「百六十年前」となっていて、昨日見た家系帳の「百六十二年前」という記録とは二年のズレがある。だから、まだ百パーセント同じ『シウ』本人だと確定することはできない。

 それでも、その名前のすぐ下には、これまでどの帳面にもなかった細かい経歴が書き添えられていた。

 

 出身は『山向』。職は『細工』。そして没年は――『来村の三十七年後』とあったのだ。

 

 らでんとはじめは管理小屋を出て、教えられた区画にある小さな古い墓石の前へと立ち、思わず声を低くした。

 

「……ねえ、あの秋に怪我して、すぐ死んじゃったわけじゃなかったんだね」

「うん。村に来てから三十七年後ってことは、三十年以上もこの村で生きて、暮らしてたってことになるよ」

 

 もう百六十年も前に終わってしまった昔の話なのに、あの右脚の裂傷をこじらせてそのまま亡くなったのではないと分かった途端、らでんの胸の奥から不思議とほっとした吐息が漏れた。

 目の前にある『シウ』の墓石は、他の墓より少し小ぶりで、代々続く村人たちの墓の列からはほんの少しだけ外れた場所に建っていた。けれど、列から外れてはいても、決して冷たく背を向けられているような感じはしない。

 その証拠に、シウの墓のすぐ隣にはもう一つ別の墓石が寄り添うように建っていて、そちらの石には、この村に今もある家の名字が刻まれていたのだ。

 

「……この隣の墓、村の人のだよね。ってことは、シウさん、この村の人と結婚してるんだ」

 

 さらに墓石の側面の文字と過去帳を照らし合わせてみると、二人の間には子どもが二人生まれていたことまで記されていた。

 

「ほんとに、この村に残って家族を作ったんだね」

「うん……」

 

 あの一行の『継灯 シウ』という名前の向こう側に、この村に残って生きた三十七年分の確かな暮らしが、石の文字として静かに刻まれていた。

 ――けれど、やっぱり一番知りたい「なぜ」だけは分からないままだ。

 どうしてシウはこの村に残ったのだろう。やっぱりあの右脚の怪我のせいだったのか。それとも、この隣の墓の人と恋に落ちたからなのか。細工師としての仕事がこの村にあったからなのか、あるいは『灯ノ者』の集団そのものが解散してしまったからなのか。

 その肝心の理由だけは、目の前の冷たい石にも、管理小屋の古い紙の上にも、どこにも書かれていなかった。

 

 ただ、一つだけ新しい手がかりがあった。シウの隣に建っている墓の家は、今もこの村の中に残っているというのだ。二人はその繋がりを追いかけてみることにした。

 

 その墓を今守っている現在の当主は、村の端にある古い屋敷に暮らしていた。

 今年で七十九歳になる男性、ハクさんだ。

 突然訪ねたにも関わらず縁側へ通してくれたハクさんに、らでんはこれまでの調査の事情を丁寧に説明し、写し取ってきた過去帳の記録を見せた。

 

「あの、ハクさんのご先祖様に、百六十年くらい前に外から見えた『シウ』さんという方がいらっしゃると思うのですが、なにかお話を聞いたことはありませんか?」

 

 ハクさんはしばらく自分の顎を撫でながら、ううんと首をひねった。

 

「シウ? いやあ、そんな名前は聞いたことがねえなあ」

 

 なんだ、名前は残っていないのか。らでんががっかりして肩を落としかけた、そのすぐあとに続きの言葉が来た。

 

「ただ、『山の婆さん』の話なら、子供の頃に少し聞いたことがあるぞ」

「えっ、山の婆さん、ですか?」

「おう。うちのずっと昔の先祖で、山の向こうの外から嫁に来た人がおったって話だ」

「……っ、嫁に来たってことは、そのシウさんって、女性だったんですか!?」

「ああ、わしは昔からそう聞いとるよ」

 

 らでんは思わず目を丸くして、手元の『シウ』という二文字を見下ろした。

 そういえば、『シウ』という音の並びだけでは、男の人か女の人かなんてどこにも書いていなかったのだ。それなのに自分は、「山を越えて歩く職人集団の十三人目」という響きだけで、頭の中で勝手に男の人の姿を想像してくっつけていた。

 ――また、思い込みだ。

 今この場にジンがついてきていなくて本当によかったと、らでんは心の中でこっそり胸を撫で下ろした。もしすぐ隣にジンがいたら、絶対にニヤニヤして「ほら見ろ、また勝手に決めつけただろ」と笑われていたに違いない。

 

 するとハクさんは「ちょっと待っとれ」と奥の部屋へ立ち、ほどなくして、黒光りするくらい古びた一つの木箱を両手で抱えて戻ってきた。

 ハクさんの家で代々捨てずに残してきた箱だそうで、蓋を開けると、中には錆びた太い針や小さな小刀、真鍮の金具、それに木や金属を削るための細かい細工道具がいくつも収められていた。

 その箱の中身を覗き込んだ瞬間、らでんの目の色がすっと変わった。

 細工道具の一つの底に、ごく小さな印が刻まれている。――土蔵にあるあの《渡り灯》の吊り金具に刻まれていたのと、まったく同じ形の印だったのだ。

 

「……っ、はじめ、これ見て!」

「え、なに?」

「この道具の底の印、あの《渡り灯》の金具にあった印とまったく同じだよ!」

 

 らでんは鞄から、あらかじめ撮っておいた《渡り灯》の古い吊り金具の拡大写真を取り出し、細工道具の底のすぐ隣へ並べて置いた。

 写真の中の古い金具の印と、目の前の小刀の柄の底に刻まれた印が、寸分違わずぴたりと一致する。

 

「へえー……ほんとだ。こんなところに同じ模様が入っとったのか」

 

 当主のハクさん自身も、今初めてその印の意味に気づいたように目を細めた。

 百年以上もこの家の中にずっとあり続けた道具なのに、それが村の蔵にある《渡り灯》と繋がっていることまでは、言葉として伝わっていなかったのだ。

 

 さらにハクさんが箱の底を探ると、古い麻布で小さく包まれたものがもう一つ出てきた。

 そっと布を開くと、中から現れたのは、手のひらに収まるくらいの小さな『木札』だった。

 その木札を見た途端、らでんは思わず息を止めた。

 四角い木札の角に彫られた飾り線は、まさにあの《渡り灯》の枠に入っていた文様と同じもので――その木札を裏返すと、古いけれどはっきりと読める文字で、こう彫られていたのだ。

 

 『シウ』

 

「……らでん、これ、シウさん本人の木札かな?」

「うん、細工道具と一緒に出てきたんだし、その可能性はすごく高いと思う」

 

 それでも、この木札の持ち主がそのまま《渡り灯》の持ち主だったとまでは、まだ一足飛びには言えない。

 ハクさんも、二人の真剣な顔つきにつられたように木札を覗き込んだ。

 

「なんだい、その木の札、そんなに大層な大事なもんだったのか?」

 

 聞かれて、らでんは「はい、すごく大事なものです!」と言いかけて、寸前でぐっと言葉を飲み込んだ。

 まだ全部の調査が終わってもいないうちに、自分が勝手に物の値打ちを決めて言い切ってしまうところだった。

 

「えっと……これがどういう意味で大事なものなのか、今まさに私たちが調べているところです」

「はは、そうかい」

 

 慎重に言い直したらでんの言葉に、ハクさんの深い皺の刻まれた顔がふっと優しげにほころんだ。

 

 らでんはその大切な木札を借りて持ち帰ることはせず、ハクさんの目の前で、今ある場所のまま寸法や木の材質、表面の傷の跡を細かくノートと写真に記録した。現地にあるものをむやみに持ち出さず、あった場所で見たままの状態を残すのが調査の鉄則だ。

 そうしてルーペで木札の表面を観察していた時、木札の片方の端だけに、なにか淡いにじみのようなものが引っかかっているのに気づいた。

 ただの汚れや影だろうか。けれど、顔の角度を少し変えて見ても、その薄い揺らぎのようなものは同じ場所にじっと残っている。

 らでんは周囲の『纏』が抜けないようにお腹に力を込め、ほんの短い時間だけ、目元へそっと『凝』を集めた。

 すると、木札の端に残っていたごく薄いオーラの縁が、視界の中でくっきりと浮かび上がった。先日、土蔵で《渡り灯》の持ち手の部分を『凝』で見た時に残っていたあの痕跡と、よく似た感触だ。ただし、こちらの方がずっと淡くて弱い。

 らでんはすぐに木札のどの位置に残留があるかだけをノートへ書き込み、目が痛くなる前にパッと『凝』を切った。もちろん、こんな弱い痕跡が残っているというだけでは、それがいったい誰のオーラなのかも、どんな気持ちで触れていたのかも分かりはしない。

 頭の中に、以前ジンに言われた言葉が蘇る。

 ――何でもかんでも念で見るな。

 そうだ、まずは普通の目と手でちゃんと観察しなきゃ。らでんはもう一度普通の視界で木札を見つめ、ハクさんに断ってから、手袋越しに側面の減り具合をそっと指先で確かめた。

 すると、木札の側面の削れ方は左右均等ではなく、決まった片側だけがやけに丸く擦り減っていることが分かった。そして上の方には、紐を通していたらしい小さな穴が一つ開いている。

 

「……あっ、ねえらでん、これさ!」

 

 横で見ていたはじめが、自分の胸の前に片手を当てて、その木札を首から下げた時の位置を確かめるように身体を動かした。

 そのままはじめは、座敷の端で十二の型の一番目――『灯を抱け』の形に両腕を組み、続く二番目で上体を斜めに捻ってみせる。

 首から下げたとすれば、木札はちょうど抱えた腕の下の隙間にすっぽりと収まり、動いても灯の枠とぶつからずに済みそうだった。片側だけが擦り減っていたのも、いつも同じ向きで胸元と灯の間に挟まれていたからだとすれば、ぴたりと辻褄が合う。

 

「これ、首から下げてたんだね。お祭りの時の身分札かな?」

「うーん、個人の名前と一緒にあの灯の文様が入ってるから、身分札っていうより『役割札』なのかもしれない」

 

 らでんには、どこの誰かを示す名札というより、「この人が灯を継ぐ役目の人間だ」と示す札だった方が、今の腕の動きにしっくり合うような気がした。

 すると、二人のやり取りを縁側で見ていたハクさんが、ふと思い出したように古い木箱へと目を落とした。

 

「……そういやあ、その山の婆さんのことで、もう一つだけ妙な話があったな」

「妙な話、ですか?」

「ああ。わしの婆さんの、そのまた婆さんがよく言っとったらしいんだが――『うちの家では、絶対に火を消しちゃならん』ってな」

「えっ、火、ですか?」

「台所の竈の火だよ。昔はどこの家もそうだったかもしれんが、とりわけうちの家はうるさくてな、夜寝る時も灰の奥に必ず『種火』を残しとけって、口酸っぱく言われとったそうだ」

 

 その言葉に、隣のはじめもぐっとハクさんの方へ身を寄せた。

 

「ねえおじいちゃん、なんでそのお家だけ、そんなに火を消しちゃダメだったの?」

 

 聞かれたハクさんは、困ったように肩をすくめて笑った。

 

「さあて、なんでかのう。わしの代にはもう、その理由までは誰も知らんかったよ」

 

 火を消してはいけないという大切な理由の方は長い年月の間に消えてしまって、『種火を残す』という習慣の形だけが、この家にずっと残っていたのだ。

 らでんの目が、もう一度手元の木札の写真へと吸い寄せられた。

 家の種火と、《渡り灯》の火と、そして『継灯』という役目。頭の中で三つの言葉がチカチカと繋がりかけたけれど――まだ、それを証明する確かな証拠はどこにもなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の夕方、宿舎の土蔵へ戻ったらでんは、作業台の上の《渡り灯》のすぐ前に、昼間ハクさんの家で撮ってきた細工道具と木札の写真をずらりと並べて置いた。

 金具に刻まれた同じ印、角の同じ細工文様、そして持ち手と木札の端に残っていた、同じようなごく弱いオーラの残留。村の土蔵とハクさんの家という離れた場所にあった二つのものが、どうしても同じ一人の手をくぐってきたもののように見える。

 

「……ねえ、やっぱりあのシウさんって人が、この《渡り灯》を持ってた人なのかな」

「うん、かなり近いところまでは来てると思う。……でも、もしそうなら、なんでシウさんはこの灯を自分の家じゃなくて、村の蔵なんかに置いていったんだろう」

 

 隣から写真を覗き込んでいるはじめも、同じところで首を傾げていた。

 シウがこの灯を持っていたことと、それを村へ置いていった理由とは、まだ別の問題だった。

 二人が作業台の上の写真にすっかり顔を近づけて考え込んでいると――いつの間にか後ろから土蔵へ入ってきていたジンが、ひょいと声を飛ばした。

 

「おい、お前ら。今日一日で『纏』が何回切れた」

 

 不意打ちの声に、らでんはびくっとして振り返った。

 

「えっ、い、今それを聞きますか!?」

「おう、今聞く。何回だ」

 

 ジンの目が真っ直ぐに見下ろしてくる。らでんは思わず言葉に詰まり、今日一日の自分の背中やお腹の感覚を頭の中で必死に巻き戻した。

 まず午前中、役場の倉庫で『薬 一人分』と『右脚 裂傷』の帳面を見つけた時に、興奮して二回切れた。それから午後、墓地の過去帳で『シウ』の名前を見つけた時に一回。

 そして極めつけは、ハクさんの家で古い木箱の底からあの『シウ』の木札が出てきた瞬間だ。あの時はもう嬉しすぎて、全身の『纏』が綺麗さっぱり吹き飛んでいた。

 

「…………よ、四回です……」

「あ、うちは三回!」

「よし、じゃあ明日は二人とも二回以下な」

「ええっ、ちょっと待ってください! こっちは今、百年以上前の文化財の大発見をしてる真っ最中なんですよ!?」

「だから言ってるんだろ」

 

 むきになって食い下がるらでんの前で、ジンの視線が作業台の上の《渡り灯》へとすっと移った。

 

「お前みたいに、目の前で面白いもん見つけたり、上手くいって油断した時ほど、人間は他の注意が全部すっぽ抜けるんだよ」

 

 低い声でそう言われて、らでんはぐっと言葉を詰まらせた。さっきの自分の状態そのままで、少しも言い返せなかったからだ。

 

「もし相手がタチの悪い念能力者だったら、お前が『見つけた!』って喜んだその瞬間に後ろからやられて終わりだぞ」

「……っ、はい」

 

 らでんは小さく頷き、すぐに自分の肩から背中、お腹の周りへと散っていたオーラの意識を静かに手繰り寄せ直した。

 

 翌朝、らでんは宿舎の卓の前で、いつも以上に意識を張り詰めて朝の『方便』を行った。

 『点』は、シウ。『舌』は、なぜシウがこの村に残ったのかを確かめること。『錬』でその手順を頭の中で強く追い、そして『発』で今日も調査へ動き出す。

 追いかける問いが一つに絞られた分だけ、らでんの足は迷いなく役場の古記録へと向かった。

 もちろん、昨日の反省があるから、今日は古い帳面をめくっている間も全身の『纏』を絶対に切らさないよう必死に意識を保ち続けた。

 夜になれば宿舎で『絶』を一分、『練』を五十秒、そして目の『凝』を二十秒。派手な進歩はなくても、毎日一日たりとも切らさずに基礎を積み重ねていく。

 

 そうして数日が経ったある日の昼下がり、らでんはついに、あの『村医の古記録』の別のページで決定的な箇所を見つけた。

 先日読んだ『山客 右脚裂傷』と書かれた十月のページ。そのすぐ次の紙が、長い年月の湿気でのり付けされたみたいにぴったりと貼りついて、一行分だけめくれなくなっていたのだ。

 らでんは纏を保ったまま息を止め、竹の薄いヘラを使って、繊維を傷めないようほんのミリ単位で貼りついた紙の端を剥がしていった。

 すると、隠れていた隙間の奥から、当時の村医が書き残した続きの墨文字が現れたのだ。

 

 そこにはまず、『歩行困難』とあった。

 さらにそのすぐ横に、『同行十二名、冬前につき出立』と書かれている。

 

 横でヘラの先を見守っていたはじめが、はっと息を止めた。

 らでんが震える指先で最後の一行を辿ると、そこにははっきりと、こう記されていた。

 

 『患者、当地ニ残ス』

 

 右脚の裂傷と、歩けなくなったこと、冬が来る前に同行の十二人が出発したこと、そして怪我をした患者一人をこの村に残したこと――これまで別々の帳面に散らばっていた事実が、この一枚の紙の上でついに一本の線に揃ったのだ。

 

 倉庫の中に、しんとした静けさが落ちた。

 秋に十三人いたはずの集団が、どうして翌春に十二人になっていたのか。その一番大きな理由が、ようやく確かな記録として目の前に繋がった。

 

「……『当地ニ残ス』って……ねえらでん、シウさん、仲間に置いていかれちゃったのかな?」

 

 少し曇ったはじめの声に、らでんは帳面を見つめたままゆっくりと首を横に振った。

 

「ううん、この一行だけじゃ、まだ冷たく見捨てて置いていかれたとは言えないよ。本当に仕方なく残されたのか、それともシウさんの方から自分で残ると言ったのか、あるいは……何か大事な役目を託されて残ったのかまでは、まだ分からないもん」

 

 すると、後ろから黙ってページを覗き込んでいたジンが、その行のさらに先へと無造作に指を進めた。

 

「おい、次だ」

「え? 次って、なにがですか?」

「冬前に出たその十二人が、その後この村へ戻ってきたかどうかだよ」

 

 ジンの一言に、らでんとはじめは揃ってぴたりと動きを止めた。

 そうだ。秋にシウ一人が村へ残った理由が分かっただけでは、まだ話は終わらない。

 先に確認した家系帳には、その『翌春』に、また『灯ノ者十二名』という記録があったではないか。あの春に記録された十二人は、秋に山を出ていった十二人と本当に同じ人たちなのだろうか。もし同じだとしたら、冬を越えた春に、わざわざ残してきたシウを迎えにこの村へ戻ってきた、という可能性だってあるのだ。

 

 らでんはすぐに調査ノートを開き、まず今日確かめられた事実として『シウは負傷し、冬前に村へ残った』と強く書き込んだ。これはもう、複数の記録が揃ったかなり強い事実だ。

 そして、そこから先を勝手に決めつけないよう、すぐ下に新しい疑問符を並べていく。

 

 『しかし、なぜ《渡り灯》も一緒にこの村へ残った?』

 『シウは本当に「継灯人」だったのか?』

 『あの灯は、村に「預けられた」のか?』

 

 記録の上で確かに言えることと、まだ推測でしかない分からないことを、ノートの紙の上できっちりと分けて書き留めた。

 

「……ねえ、最初よりずいぶん真相に近づいてきたね」

「うん、かなり近づいたよ。……でもね、はじめ」

 

 らでんは書き終えたばかりのノートのページを見つめ直した。

 

「私が一番知りたい肝心のところだけが、まだこの村の記録だけじゃ分かんないんだよね」

 

 百六十二年前の冬の前、記録の上では十二人が山を越えて去り、怪我をした一人が村に残り、そして一基の《渡り灯》もこの村に残った。

 人が一人残ったことと、灯が一基残ったこと。その二つはただの偶然だったのか、それとも最初から深い意味があったのか。

 その答えはきっと、十二人が越えていった『山の向こう側』にしか残っていない。実際に自分たちの足であの峠の向こうへ越えていかないと届かない問いになっていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その頃には、山の旧道で試したあの『十二の型』を、はじめはもう最初から最後まで一度も途切れずに全部繋げて踏めるようになっていた。

 もちろん、まだ百点満点の完璧というわけではない。それでも、途中で「えっと次は何だっけ」と足が止まることがなくなった。頭で考えるより先に足と呼吸が次の順番を覚えていることこそが、その動きが本当にはじめの身体の中へ入った何よりの証しだった。

 一番目の『灯を抱け』から、十二番目の前への差し出しまで。そして、峠の石の前で見つけた『十三番目』にあたる、次の人へ灯を渡すところまで含めて、今の二人なら一度も止まらずに通すことができる。

 

 だから今日、三人はその旧道の十二の型を、本当に『山の向こう側』の集落まで通して歩いてみることにした。

 ただ型が合っているか試すだけの日ではない。百六十二年前に十二人が歩いたその道を、自分たちの足で最後まで通り抜けて確かめる日だ。

 出発の前に、支所長のカルドさんが山の向こうの集落や通過する土地の必要な許可をすべて取ってくれて、ジンが三人の山歩きの装備を細かく確認した。

 はじめはあの重たい『模擬灯』をしっかりと背中に背負い、らでんは調査ノートと記録用の端末を鞄に収める。身体で背負って歩く役目と、見つけたものを書き残す役目とが、自然と二人の間で分かれていた。

 もちろん、先日タオルを巻いて検証しただけのはじめの右脚には、なんの問題もない。

 らでんの方も、山道を歩きながら全身の『纏』を保つことを忘れないようにしつつ、気はどうしても峠の向こうの調査へと引っ張られていた。

 

 宿舎の前を出発する直前、ジンが二人を振り返って釘を刺す。

 

「いいか、らでん。山ん中で『凝』を無駄に使うなよ」

「わ、分かってます、必要な時しか使いません!」

「それから『絶』も、絶対に一人で勝手にやるな」

「はい!」

 

 頷くらでんから、ジンの鋭い目が隣のはじめへと移った。

 

「はじめ、お前も山道を歩いてる最中に『練』で遊ぶなよ」

「うん、はい!」

 

 間髪入れずに返ったはじめの素直な返事に、らでんは思わず片眉を釣り上げて隣を見た。

 

「……ちょっと、なんだか私よりはじめの方が素直な生徒みたいじゃないですか」

「当たり前だろ、お前がいちいち余計な口答えで聞き返すからだよ」

「く、口答えじゃなくて大事な確認です!」

 

 そんな軽口を交わしながら、三人は朝の七時ちょうどに村を出発した。

 山の旧道へ入ると、途中の斜面が崩落して付け替えられた場所では、先日二人で見つけ出したあの元の旧道へ降りて、復元した『六の型』を実際に使って通り抜けた。

 ぐっと腰を落として身体を低く屈め、せり出した大岩の庇の下をくぐる。背中の模擬灯も頭も一度も岩にぶつけずに抜けられたことが、自分たちの復元の正しさをそのまま証明してくれていた。

 狭い旧道では、模擬灯を構えたはじめが先頭を歩き、らでんがそのすぐ後ろを続く。

 

「……ねえらでん、こうしてまた歩いてみるとさ、ほんとにこの踊り、山の道そのものだね」

「うん、紙に描いた地図じゃなくて、『身体の地図』だよね」

「あっ、なにその『身体の地図』って言い方、すっごくいいじゃん!」

「え、なにが?」

「なんか格好いいから、あとでうちのノートにもそれ書いておいてよ!」

 

 前を歩くはじめが明るく笑って振り返る。らでんは思わずその場でノートを開きかけた足を止め、「うん、あとで絶対書く!」と頷いて、今はまず山道を歩くことと自分の『纏』の方へと意識を引き戻した。

 

 さらに急な斜面を登って視界の開けた尾根へ出ると、今日も谷底から強い風が吹き上げてきた。

 先頭のはじめは迷わず『二の型』に入り、上体を斜めの半身にして、抱えた模擬灯を自分の身体の風下へと逃がす。今は火のついた本物の灯を持っているわけではないけれど、こうして風に合わせて半身になるとどれだけ足元が安定するか、その意味をもう一度身体で確かめることができた。

 その後ろ姿を見ながら歩いていたジンの声が、風に乗って届く。

 

「ただ踊りの型を覚えるだけなら、別にわざわざこんな山ん中まで来る必要はねえんだけどな」

「うん。でも、この動きが『何のための動きか』が分かると、足の力の入り方が全然違うよ!」

「ふっ、まあ、技術ってのはそういうもんだ」

 

 そうして一から十二までの地形をすべて通り抜け、先日平石の輪を見つけたあの峠の『十三番目の場所』を越えると――そこから先は、らでんたちにとってもまだ一度も足を踏み入れたことのない未知の下り道だった。

 はじめの足が型として覚えていた道がそこで終わり、役場の古い紙の記録も、この峠を境にぷつりと途切れている。

 

「……ここから向こう側の記録は、私たちのいた村にはほとんど残ってないんだよね」

 

 らでんは足を止め、手元の古い地図を広げて行く先の谷間を確かめた。

 出発前にカルドさんから聞いた話では、山の向こう側にある昔の集落には、今ではもう住んでいる家がたった三軒しか残っていないという。

 ただ、その集落には昔から続く古いお寺が一つあって、そこには代々の資料が保管されているらしい。そこまでカルドさんが事前に連絡を通してくれていた。

 らでんが地図の上のお寺の印を食い入るように見つめていると、横を通り過ぎたジンが鼻で笑った。

 

「おい、『早く資料が見たい』ってのが顔に全部出てるぞ。ほんと分かりやすい奴だな、お前は」

 

 からかわれて少し頬が熱くなったけれど、それでもらでんは、まだ見ぬお寺の古記録のことを考えると地図から顔を上げずにはいられなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 峠から東側の山道を下り続け、昼過ぎになってようやく、三人は山の向こうの小さな集落へと辿り着いた。

 谷間の斜面に張りつくようにして残っていたのは、カルドさんに聞いた通り、本当にたった三軒の家と、石段の上にある古いお寺が一つだけだった。長い山道を歩いてきたその先に、わずかな人の暮らしがひっそりと息づいている。

 お寺の住職さんは、今年で八十歳になるという静かな老僧だった。

 すでにカルドさんから連絡が入っていたおかげで話は早く、本堂の脇の部屋へ通されたらでんは、さっそく自分たちが西側の村で調べてきた《灯渡り》のことや、《渡り灯》、そして百六十二年前の『シウ』という名前と、十三人から十二人に減った記録のことを順番に説明した。

 

 黙って耳を傾けていた住職さんは、らでんの話が終わると、本堂の奥の収蔵庫の方へゆっくりと目を向けた。

 

「……ああ、なるほどな」

「あの、なにかご存じですか!?」

「いや、『シウ』という個人の名前までは知らんよ。ただな、昔、山越えの衆が毎年この寺へ立ち寄っとった記録なら、うちの古い帳面に残っとる」

 

 個人の名前ではなく、「山を越えてきた人たちがここへ来た」という記録が残っているというのだ。

 住職さんが奥から出してきてくれた古い帳面は、山奥のお寺で代々大切に保管されてきたおかげか、驚くほど保存状態がよかった。

 西側の村の蔵にあった帳面のように紙がパリパリに割れておらず、書かれた墨の文字も紙の奥へ沈んでいない。それでも百六十年以上前の古文書だから、らでんは手袋をはめた指先で、手を離せば勝手に閉じてしまいそうなページの端をそっと支えながら、慎重に開いていった。

 

 そして、今から百六十二年前の『秋』のページを開いた瞬間だ。

 そこには、はっきりとした墨の字で『山越衆 十三』と記されていた。

 

「……っ、らでん、ここ! 『十三』だよ!」

 

 横から覗き込んだはじめが指差した行に、らでんも大きく頷いた。

 西側の村の家系帳にあった『灯ノ者十三名』とまったく同じ数が、山の向こうのこのお寺にも『山越衆 十三』として残っていたのだ。

 さらにそのすぐ下の行には『灯 一』とあり、続いて『西里へ』と書かれていた。十三人という人数と、一基の灯、そして彼らがこれから向かう行き先であるらでんたちの村――『西里』の名前が、一行ずつ綺麗に並んで記録されていた。

 

 らでんは胸の鼓動を速めながら、その次のページへと目を移した。

 続く冬の間のページには、山越衆に関する記録は一行もなかった。雪で峠が閉ざされる季節には、やっぱり誰もこの山を越えてはいない。

 そして、年が明けたその『翌春』のページへ入ったところで――らでんの指先が、ぴたりと止まった。

 そこには、『山越衆 十二』という文字があったのだ。

 

「……あった、ここだ!」

 

 隣ではじめが息を詰める。

 らでんがその『山越衆 十二』のすぐ下に書かれた文字を目で追うと、そこには――『西里へ向かう』と記されていた。

 部屋の中に、静けさが落ちた。

 

「……西里へ向かう、って……戻ってる」

 

 らでんは帳面から顔を上げた。

 秋に西里へ行って、冬前に十二人で山を越えて東へ帰ってきたはずの人たちが、雪が解けた翌年の春に、もう一度このお寺を通って『西里』へと向かっているのだ。

 つまり記録の上では、あの十二人は次の春、もう一度険しい山を越えて、怪我をしたシウが残ったあの村へと戻っていったように読める。向かった先の名前は、シウが残った『西里』と一致していた。

 それに気づいたはじめの声が、ぱっと明るく弾んだ。

 

「じゃあさ、やっぱりあの十二人、春になってシウさんを迎えに戻ってきたんだよ!」

「うん、その可能性はかなり高い……!」

 

 慎重に「可能性」と言い添えながらも、らでん自身、胸の奥からじんわりと込み上げてくる嬉しさをどうにも抑えられなかった。あの秋、十二人は決して冷たく仲間を捨てて去ったわけではなかったのかもしれない。

 

 ――けれど、そのページをさらに数枚先へとめくったところで、一週間後の日付にまた別の記録が見つかった。

 それを読んだ瞬間、らでんの手がもう一度止まった。

 一週間後の記録にも、やっぱり『山越衆 十二』と書かれていたのだ。

 

「……え? また『十二』?」

 

 きょとんとするはじめに、らでんは小さく頷いた。

 そこには『東へ発つ』と記されており、さらにその行のすぐ下に、他より小さくて薄い字の書き込みがあった。

 らでんが窓からの光の角度を少し変えて覗き込むと、その薄い文字はこう読めた。

 

 『一名、戻らず』

 

 隣にいたはじめの声が、すっと小さくなる。

 

「……『一名、戻らず』って……シウさんのことだ」

 

 そこにも個人の名前は書かれていなかった。けれど、十三人から一人減ったその数のズレを見て、らでんはシウのことを思い浮かべずにはいられなかった。

 雪が解けた春に、十二人がわざわざ山を越えて迎えに来たように見えたのに――記録の上では、結局シウはその一週間後にも一緒には戻らなかったことになっている。

 紙の上には、西里を往復した十二という数と、最後まで戻らなかった一人という差だけが残っていた。

 それでも、らでんは自分の胸の奥がほんの少しだけ熱くなっているのを感じた。

 たとえ結果としてシウが村に残ったのだとしても、「春に十二人がもう一度西里へ向かった」という事実がここにある以上、少なくともあの秋に冷たく置き去りにされたわけではなかったように見えたからだ。

 帳面を見つめて立ち止まっているらでんの横から、一緒に覗き込んでいたジンが短く促した。

 

「おい、次だ」

「……はい、分かってます」

 

 感傷に浸っている場合ではない。十二人が迎えに来たのだとしたら、どうしてシウは戻らなかったのか。戻ってきた仲間がいたのに、それでもあの村に残った理由だけが、まだこの先にあるはずだ。

 

 らでんは気を引き締めて、その年からさらに後の年代のページを順番にめくって調べた。

 すると、その翌年の記録には『山越衆 十一』とあり、その次の年も『十一』、さらに数年が経つと『九』、『七』と――お寺へ立ち寄る人数が、年を追うごとに少しずつ減っていっているのが分かった。

 ページを押さえるらでんの指が止まる。

 

「……人数が、どんどん減ってる」

「えっ、山越衆の集団そのものが?」

「うん、たぶん……」

 

 何年も何年もかけて、春と秋に山を越えてくる人数が少しずつ減っていき、ある年の記録に、最後の『山越衆 三』という文字があった。

 そして、その次の年からは――もうどこをめくっても、山越衆に関する記録は一行も出てこなくなった。

 古い帳面の紙の上では、「もうここへ来なくなった」ということが、そのまま彼らが歴史から「消えた」ということだった。

 

 すると、横で静かに帳面を見下ろしていた住職さんが、ぽつりと口を開いた。

 

「……昔、わしの死んだばあさんから聞いたことがあるよ。その山越えの人らはな、最後の方の時代には、もう山を渡る仕事そのものがなくなっとったらしい」

「仕事が、ですか?」

「ああ。昔はあの人らが直しとった鍋や刃物も、だんだん村の中の鍛冶屋で直せるようになった。それに、険しい峠を通らんでもいい新しい広い道が下に出来て、町から馬車でなんでも運んでくる行商が来るようになったからのう」

 

 人々の暮らしが少しずつ変わり、山越衆の持っていた細工や修理の技術が要らなくなり、命がけで越えていた古い山道が使われなくなり、仕事が消えて、やがて集団そのものが散り散りにほどけていった。

 誰かに追い詰められたわけでも、大きな事件があったわけでもない。ただ時代が移り変わって、必要とされなくなって、自然にほどけて消えていったのだ。

 

「…………そっかあ……」

 

 はじめが、なんとも言えない寂しそうな顔をして肩を落とした。

 その横で、同じように消えた記録の空白を見ていたジンが、低く静かな声で呟いた。

 

「まあ、だいたいいつもこういうもんだ」

「え? なにがですか?」

「文化の滅び方ってやつだよ」

 

 ジンは一拍だけ間を置き、文字のなくなったページのさらに先へと目をやった。

 

「誰かに殺されるとか、戦争で焼かれるとか、そういう派手な終わり方よりもな――ただ誰も使わなくなって、次の世代で覚える奴がいなくなって、そのまま音もなく消える。そういう消え方の方がずっと多い」

 

 らでんは、何も言い返すことができなかった。

 文化財を追いかける自分にとって、ジンの言ったその消え方が、この世で一番怖かったからだ。

 誰かが悪意を持って壊したのなら、怒ることも、犯人を止めることもできる。けれど、ただ時代が変わって誰も悪くないまま忘れられていくのだとしたら、それを止める相手がどこにもいない。その事実が、何より重く胸にのしかかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 重苦しい沈黙を振り払うようにして、らでんはもう一度、あの秋から翌春にかけてのページへと戻って関連する記録を探した。

 すると、あの春に十二人が西里へ戻ったのと同じ日付で、お寺の『別帳』――物品の出入りを記した帳面の方に、一つだけ奇妙な寄進の記録が残っているのを見つけた。

 そこには、『灯油 一樽』。そして寄進者の欄には、『山越衆』と書かれていたのだ。

 

「……灯油、ですか?」

「ああ、この時代の記録に『灯油』とありゃ、仏前や夜道に使う灯明用の油のことじゃな」

 

 住職さんの説明を聞きながら、らでんはもう一度その『灯油 一樽』の行を食い入るように見つめた。

 すると、その行のすぐ下に、もう一行だけ小さな添え書きがあるのに気づいた。

 

 『西里ノ継灯へ』

 

 その六文字を読んだ瞬間、らでんの呼吸がぴたりと止まった。

 それはお寺への寄進ではなく、このお寺を経由して、西里にいる『特定の誰か』へ届けるために預けられた油の記録だったのだ。

 横から画面と帳面を覗き込んだはじめも、目を大きく見開いた。

 

「……『西里ノ継灯』って……!」

 

 あの西里の村に残った、シウさんのことかもしれない。

 もちろん、文字の上で『継灯』と書いてあるだけで、それが百パーセント『シウ』本人だとまではまだ言えない。

 けれど、記録を並べてみればこうだ。その翌春、十二人は山を越えて西里へ戻り、シウは記録の上では東へ戻らなかった。それなのに、その同じ春に、山越衆から『西里の継灯へ』と宛てて、灯りをともすための油が一樽、確かに送られていたのだ。

 一緒には山を戻らなかったはずの仲間のところへ、灯りの元になる油だけがちゃんと言づてられて向かっていた。

 

「……ねえ、らでん。やっぱりあの十二人、シウさんを冷たく置いていったんじゃないよ」

 

 震えるようなはじめの声に、らでんは何度も頷いた。乾いた紙の上の文字を指先で追いながら、胸の奥から湧き上がってくる考えを必死に言葉にする。

 

「うん……置いていったどころか、むしろ『続けてる』んだよ!」

 

 右脚を怪我して山を歩けなくなったシウは、山越衆と一緒に移動することこそやめたように見えた。けれど、あの村に一人残ったあとも、決して『継灯人』ではなくなってはいなかったのだ。少なくともこの記録の上では、山の向こうの仲間たちと、まだ『灯を継ぐ役目』で繋がっていたように読める。

 らでんはたまらずその場で立ち上がった。このお寺の記録と、西里の村に残っている記録や伝承を、今すぐもう一度突き合わせて確かめたい。

 

「ジンさん、私、今すぐ村に戻って確かめたいです!」

「おい、外を見ろ。もうすぐ日が落ちて暗くなるぞ」

 

 立ち上がったばかりの足が、ジンの低い一言でぴたりと止まった。

 窓の外を見れば、谷間の空はすでに夕暮れの茜色に染まりかけている。いくら先が知りたくてたまらなくても、これから夜の暗い山道を急いで越えるわけにはいかない。

 

「…………っ、明日の朝にします」

「おう、そうしろ」

 

 悔しそうに唇を噛んで座り直すらでんを見て、住職さんが「今夜はうちの本堂の脇に泊まっていきなさい」と温かく声をかけてくれた。

 

 その日の夜、お寺の客間に敷いてもらった布団の上で、らでんはどうしてもすぐには眠れず、小さなランプの光の下で調査ノートを開いていた。

 秋に十三人、春に十二人。その数字の隙間にあった『シウ』というたった一つの名前。

 最初はただ「どうして一人減ったんだろう」という人数の違いを追いかけていただけだったはずなのに、今ではもう、そのシウという人がどんな気持ちであの村に残ったのかを知りたくてたまらない。

 春に十二人の仲間が山を越えて迎えに来てくれたのだとしたら、シウはきっとすごく嬉しかっただろうな――そこまで考えて、らでんははっと自分で自分の思考にブレーキをかけた。

 だめだ。それはまだ、自分が「そうであってほしい」と願っているだけの想像かもしれない。

 気持ちを落ち着けるように今日写した『灯油 一樽』の記録へ視線を戻すと、すぐ隣の布団に入っていたはじめが、ごそりと寝返りを打ってこちらを向いた。

 

「……ねえ、らでん、まだ起きてる?」

「うん、起きてるよ。どうしたの?」

「ううん。なんかさ、シウさんって、秋に右脚を怪我して山を歩けなくなって……でも春になったらみんなが迎えに来てくれて、それでもやっぱり自分であの村に残ったんだよね」

「うん。今の記録を繋げると、そう見えるね」

「なんで一緒に帰らないで、一人であの村に残ったんだろ」

「……そこなんだよね。そこだけが、まだどうしても分かんない」

 

 暗い部屋の天井を見つめたまま、しばらくの間、二人とも黙り込んだ。ノートをめくる紙の音さえしない静かな時間が流れる。

 やがて、布団の中からぽつりとはじめの声が響いた。

 

「……でもさ、あの村に一人で残っても、『継灯』の役目はやめてなかったんだよね」

 

 らでんは暗がりの中で、大きくこくりと頷いた。

 たとえ残った本当の理由がまだ分からなくても、「仲間との繋がりも役目も途切れていなかった」というその読み取りだけが、今の二人には何よりの救いだった。

 

 翌朝、早くに目を覚ました二人は、お寺の庭先で朝の『方便』を行った。

 らでんは『点』と『舌』で、「シウがあの村に残って何を継いだのかを確かめる」と今日の目標を一つ立て、隣のはじめも「あの村に残った灯の続きを探す」と自分の言葉で立てた。昨日のお寺で残った一番大きな問いを、二人で半分ずつ分けて背負う。

 

「よし、じゃあ村へ帰るぞ。行け」

 

 荷物を背負ったジンに背中を押され、二人は住職さんに深くお礼を言ってから、朝の光の中へと歩き出した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 お寺から西里の村へと戻る帰り道、山の中腹の峠――あの十二個の平石と一つの大石が並ぶ『十三番目の場所』まで登ってきたところで、先頭を歩いていたはじめがふっと足を止めた。

 はじめは背負っていた模擬灯を両手に持ち直すと、平石の輪の端に立ち、最後の十二番目の型を踏んで、大石の前のらでんへ向かって灯をまっすぐ差し出した。

 らでんも自然と大石の前に立ち、差し出された模擬灯を両手で受け取って、一番目の『灯を抱け』の形に胸元へと抱き寄せる。

 ――けれど、今日はその『一』の姿勢に入ったところで、らでんの足がぴたりと止まった。そのまま山を下りて歩き出すことができず、胸に抱えた木の枠をじっと見下ろす。

 

「……ねえ、はじめ。もしここで灯を受け取った『十三番目』の人がさ、次の誰かへ灯を渡さなかったら、どうなるんだろう」

 

 問いかけられて、手を下ろしたはじめが少し考えるように目を瞬かせた。

 

「渡さなかったらって……そりゃあ、今らでんが持ってるみたいに、その人がずっと自分の手で持ってるんじゃない?」

「うん。じゃあ、いつまで持ってるの?」

「えっと……次に灯を受け取ってくれる人が、ここへ来るまで?」

「――じゃあ、もしその『次の奴』が、いつまで待っても二度と来なかったらどうなる」

 

 すぐ後ろから落ちてきたジンの低い声に、らでんとはじめは同時に息を呑んで黙り込んだ。

 山を越える仕事がなくなり、年々仲間の人数が減っていき、そしてある年から、もう誰もこの峠を越えて来なくなった。

 それでも――山を越える道が消えてしまっても、ここで灯を受け取って抱えている最後の一人が手放しさえしなければ、その灯だけは消えずにそこへ残る。

 らでんは、自分の両腕の中に抱えている重たい模擬灯を見つめた。

 

「……だから、シウさんはあの村に残った……?」

 

 まだ声にならない震えを胸に抱えたまま、三人はその日のうちに山の斜面を下りきり、西里の村へと戻った。

 村へ入るなり、らでんとはじめは宿舎へ荷物も置かずに、そのまま村の端にあるハクさんの古い屋敷へと走った。

 どうしても今日のうちに、もう一つだけ確かめたい伝承が残っていたからだ。先日ハクさんが木箱を見ながら言っていた、「うちの家では、昔から絶対に台所の火を消しちゃいけなかった」というあの言葉だ。

 

 突然駆け込んできた二人を驚いたように迎えたハクさんに、らでんは息を弾ませながら尋ねた。

 

「あの、ハクさん! 先日お話ししてくださった『家の火を消してはいけない』という言い伝えのことで、他にどんな小さなことでもいいので、なにか残っているお話はありませんか!?」

 

 ハクさんは縁側で腕を組み、ううんと困ったように首をひねった。

 

「さあて、他にと言われてものう……わしが聞いとるのはそれくらいで……」

「――ああ、火の話じゃなくて『歌』なら、少し残っとるよ」

 

 ふいに座敷の奥の襖が開いて、お茶を運んできたハクさんの奥さんが、穏やかな声でそう口を挟んだ。

 らでんとはじめは、弾かれたように奥さんの方へ振り返った。

 

「えっ、歌、ですか!?」

「ええ。うちへ嫁に来たばかりの頃、まだ生きとったこの人の婆さんが、赤ん坊を寝かしつける時にいつも小声で歌っとった子守歌があってね」

 

 お祭りの踊りの歌のように何かを覚えるための歌ではなく、夜、子どもを寝かしつけるための『子守歌』として、その家の女の人たちの間にだけひっそりと残っていたというのだ。

 らでんが震える手で鞄から端末を取り出し、録音の準備をして頷くと、ハクさんの奥さんは少し照れくさそうに目を細めてから、ゆっくりと静かな節回しでその歌を口ずさみ始めた。

 

 ごく短い子守歌だった。古い言葉が混じっていて、前半の歌詞の意味はほとんど分からなかったけれど――一番最後のひと節だけが、あまりにもはっきりとした言葉で二人の耳に飛び込んできた。

 

 『灯を抱いて、道を待つ。道が絶えても、灯を消すな』

 

 その歌声を聞いた瞬間、らでんはその場に縫い止められたように動けなくなり、隣のはじめははっと息を止めた。

 胸に灯を抱いて、誰かが来る道をじっと待つこと。そして、たとえその山道が途絶えて誰も来なくなっても、抱いた灯を決して消さないこと――それがそのまま、子どもへ聞かせる子守歌になって、百六十年の時間を越えて残っていたのだ。

 

 らでんは掠れた声で奥さんにもう一度だけ歌ってもらい、その静かな歌声を端末にしっかりと録音した。

 

 『道が絶えても、灯を消すな』

 

 録音を止めたあとも、その最後の一行だけが、らでんの胸の奥でいつまでも強く響き続けていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ハクさんの屋敷を出た二人は、夕暮れの迫る宿舎の裏手へと戻り、土蔵の作業台の上に置かれた《渡り灯》の前に立った。

 百六十二年の間、壊されもせず、捨てられもせずに、この村の蔵の奥でじっと残っていた一基の古い灯だ。

 峠の『十三番目』として灯を受け取ったシウは、ほんとうなら次の春か、その次の年にやって来るはずの仲間へ、この灯をもう一度渡すはずだったのかもしれない。

 けれど、時代の流れの中で山越衆の仲間は少しずつ減っていき、とうとう誰もこの山を越えて来なくなってしまった。

 だから――次に渡す相手がいなくなってしまったからこそ、シウはこの灯を消さずに、この村の暮らしや祭りの中へ形を変えて残したのではないだろうか。

 

「……ねえ、らでん。この《渡り灯》ってさ、シウさんが置いていっただけじゃなくて、この村に『預けた』のかもしれないね」

 

 隣に立つはじめの静かな言葉を継ぐように、らでんは作業台の上の《渡り灯》をじっと見つめた。

 ただ不要になって蔵へ置いていったのではない。道が絶えても絶対に灯を消さないために、歌と踊りと道具に分けて、この村へ預けて残したのだと思えた。

 

 もちろん、百年以上も前の人の心の中を完全に証明する証拠なんて、どこにもない。

 けれど今、この調査で集めてきたすべての欠片が、生まれて初めて同じ一つの方向を向いたように見えた。

 百六十二年前の右脚の怪我と、冬前の村への残留。翌春にもう一度西里へ向かった十二人と、それでも東へは戻らなかったシウ。『西里ノ継灯へ』と宛てられた一樽の灯油と、ハクさんの家に伝わっていた絶やさない種火、そして今録音してきたばかりの子守歌――『道が絶えても、灯を消すな』。

 バラバラだった紙の記録と、石と、身体の動きと、歌のすべてが、「どんなことがあってもこの灯を消さずに残す」というただ一点へ向かって、綺麗にぴたりと揃っていた。

 

 ふと気配を感じて振り返ると、夕闇の落ちかけた土蔵の入り口に、ジンが肩を預けて立っていた。

 

「……ジンさん」

「おう、なんだ」

「これ……この《渡り灯》は、ただのお祭りの道具なんかじゃありません」

「うん」

「それに、山道を安全に歩くための移動道具っていうだけでもないです」

「うん」

 

 短く頷くジンを前にして、らでんは一度だけ深く息を吸い込み、一拍置いてから言葉を継いだ。

 

「これ、たぶん……あの人たちの『約束』です」

 

 たとえ山道が途絶えて、次に受け取る人が二度と来なくなっても、自分たちの灯だけは決して消さない。

 その約束を守るために、シウと仲間たちがこの村へ残したものに違いなかった。

 

 すると、入り口に立っていたジンが、らでんの目の前にある《渡り灯》へとゆっくり視線を向けた。

 

「――よし。じゃあ、いよいよお前らの最後の仕事だな」

「えっ、最後の仕事、ですか?」

「ああ。百六十年残ったその『約束』を、今からいったい誰に返すんだ」

 

 ジンの静かな問いかけに、らでんははっと息を呑んで立ち止まった。

 この《渡り灯》と、そこに込められた約束を、誰に返すのか。

 百六十年の間それを守り続けてきたこの西里の村か。それとも、シウの血を引く子孫であるハクさんの家か。あるいは、どこかに散らばっているかもしれない山越衆の子孫たちか。

 そもそも、百六十年前に預けられたこの灯は、今はいったい『誰の物』だと言えばいいのだろう。

 

「古い物を見つけて、昔のいい話が分かって、はいおしまい――ってわけじゃねえだろ、ハンターの仕事は」

 

 ジンに言われて、らでんはもう一度、作業台の上で静かに佇む《渡り灯》を見つめ直した。

 謎が解けたところがゴールじゃない。文化財ハンターの本当の仕事は、まさにここから始まるのだ。

 




最高峰の念使いであるジンを登場させているにもかかわらず。民俗文化財の保存というマニアックな題材で申し訳ありません。
ここまで読みすすめていただきありがとうございます。
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