儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第二十二話 プロのハンター

 翌朝、らでんは新しい調査ノートのページを広げ、真ん中に三つの丸を描いた。

 『山越衆』『シウ家』『村』。

 昨夜、土蔵の入り口でジンさんに「その約束。誰に返す」と問われてから、頭の中はずっとこの三つの間を行き来している。

 百六十二年前の秋にこの村へ残った一基の灯と、それを消さずに繋いできた人たちの記録。見つけた物と、残した人。その来歴がようやく一本の線に繋がったというのに、それだけでは《渡り灯》を誰の手へ返すべきなのか、どうしても一つに決めることができなかった。

 

 ペン先を止めて丸の並びを見つめていると、後ろから歩いてきたはじめがひょいと肩越しにノートを覗き込んだ。

 

「なにそれ、答えは三つってこと?」

「ううん、もっとあるんだよ」

 

 らでんは三つの丸の外側に、さらに『自治体』と『保存機関』の二つを書き足した。

 それを見た途端、はじめがあからさまに顔をしかめる。

 

「うわ、なんか急に難しそうなのが増えたんだけど」

「だって、もし古い文化財としてちゃんと守るなら、場所とかお金のことも考えなきゃいけないでしょ」

 

 すぐ後ろの卓で朝ご飯を食べていたジンさんが、茶碗を持ったまま顔を上げた。

 

「で、お前はどうすんだ」

「……相談します」

「誰とだ」

「ここにある、全員とです!」

 

 らでんがノートの上の丸を順番に指差して言うと、ジンさんは少しおかしそうに鼻で笑った。

 

「へえ。それが一番手間も時間もかかって面倒だぞ」

「知ってますよ! でも、私が勝手に一人で決めちゃう方がずっと嫌ですから」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の午前中、村の公民館の会議室に七人の大人が集まった。支所長のカルドさん、シウの子孫であるハクさん、踊りを教えてくれたサエさんと三歩の歩法を教えてくれたヨウさん、それに村の古いことを知る三人の古老たちだ。

 らでんは長机の上にこれまで撮り溜めた写真を順番に広げ、自分たちが調べてきた結果を一つずつ報告した。

 蔵にあった《渡り灯》が最初からこの村の祭具だったとは限らないこと。山の向こうの寺に残っていた『山越衆』の帳面と、秋に右脚を怪我してこの村へ残った『シウ』という人の記録。お祭りの踊りとして受け継がれていた十二の型が実は山歩きの技術だったことと、峠の平石にあった『十三番目』の受け渡し場所。

 さらに隣のはじめと一緒に型の動きを再現して見せ、最後にハクさんの家で録音させてもらった子守歌――『道が絶えても、灯を消すな』というあの一節まで、隠さずにすべて話し終えた。

 

 話し終えたあと、会議室にはすぐには返事がなかった。

 七人の視線が、机の上に並んだ《渡り灯》の拡大写真と、古い帳面の写しとの間を静かに行き来している。

 やがてハクさんが手を伸ばし、《渡り灯》の写真を自分の手元へと引き寄せた。

 

「……つまり、その灯は、うちの先祖の『山の婆さん』が仲間から預かったもんかもしれん、というわけか」

「はい、その可能性はかなり高いと思います。ただ、仲間から一時的に“預かった”のか、それとも最初から“譲られた”のか、あるいは役目ごと“託された”のか……その気持ちのところまでは、紙の記録だけではまだ断定できません」

 

 らでんが言葉を選んで答えると、ハクさんは写真を見つめたままゆっくりと頷いた。

 すると、隣で聞いていたサエさんが写真からすっと目を上げた。

 

「じゃあさ、らでんちゃん。結局これ、うちらの村のもんじゃなかったってことかい?」

 

 らでんはすぐには答えられず、息を呑んだ。今日ここへ来る前から、一番聞かれるのが怖くて、一番答えるのが難しいと思っていた問いだ。

 

「……私は、“最初からこの村の物だった”とは言えないと思います」

 

 はっきりそう口にした瞬間、会議室の空気が少しだけ硬くなったのが分かった。らでんは机の下で、自分の膝の上に置いた指をぎゅっと組み直した。

 けれど、ここで言葉を止めるわけにはいかない。百六十年の間、この村の人たちが土蔵で灯を保管し、お祭りの行事に取り込み、子どもたちが十二の踊りを覚え、家の中に子守歌が残った。そして何より、シウさん自身もこの村の人と結婚して子どもを持ち、三十七年間ここで暮らして、あの小さな墓に眠っているのだ。

 

「ただ、だからといってこの村と関係がないなんてことも、絶対に言えません。シウさんが残ってから百年以上、ここでは村のお祭りや暮らしとして別の歴史がちゃんと積み重なってきました。だから、『一番最初に誰が持っていたか』という入り口の理由だけで、今の扱いを決めてしまうのも違う気がするんです」

 

 サエさんは机の上の写真を見下ろしたまま、長いこと黙り込んだ。

 

「……そうかい。こりゃあ、扱いが難しいな」

「はい……」

 

 重たい沈黙が落ちかけたところで、隣に座っていたヨウさんが「あははっ」と明るい声を上げて笑い、張りつめていた部屋の空気をあっさり破った。

 

「いやあ、しかし驚いたなあ! わしゃまた、ハンターってのはもっと金銀のお宝でも掘り当ててな、『わしゃやったぞ、見つけたぞ!』って大喜びするもんかと思っとったわ」

「あ、それうちも最初そう思ってた!」

「ちょっと、はじめまで!?」

 

 真面目に頷きながら乗っかってくるはじめの横顔に、らでんは思わず裏返った声を上げた。

 そのやり取りに、硬くなっていたサエさんの口元もふっと柔らかく緩む。

 

 そこへ、カルドさんが手元のファイルから『土蔵の管理資料』を取り出して机の上へ広げた。

 写真つきの点検表には、土蔵の屋根の補修が必要なことや、梅雨から夏にかけて湿気が強くこもることが数字で記されている。鍵や防犯の設備も弱く、日常的に管理している村の人たちもみんな高齢になっていた。お祭りそのものも三十四年前に途絶え、今の村には踊りを覚える子どももほとんどいない。

 

「ここで少し、現実の話もしておくぞ。この灯をこのまま村の蔵に残すこと自体はできる。だが、ただそこに『残すこと』と、傷まないように『守れること』とは同じじゃない」

 

 カルドさんの静かな声に、らでんは何一つ反論することができなかった。最初に土蔵へ入った時、屋根の隙間や湿気の匂いに一番最初に気づいたのは自分自身だったからだ。

 ハクさんが写真から顔を上げ、周りの古老たちを見回した。

 

「まあ、わしらが元気でおる間はまだええ。だが、そのあとはどうする?」

 

 サエさんは自分の膝の上に置いた手をじっと見つめたまま、小さく首を横に振った。

 

「お祭りももうやらんしなあ。今からあの踊りを覚える子も、村にはおらん」

「それに、あの古い山道だって、もう誰も歩かんしな」

 

 ぽつりと落ちたヨウさんの声に、言葉を返せる人は誰もいなかった。

 らでんは机の上にある《渡り灯》の写真を見つめた。せっかくこれだけの来歴が分かったのに、またあの暗い土蔵の奥へ戻して、いつか『なんとなく昔からあるよく分からない物』に戻ってしまうのだけは絶対に嫌だ。

 けれど、ただ温度や湿度の整った安全な施設へ運んでしまえば、それだけで本当にこの灯を『守った』と言えるのだろうか。

 自分が後から調べやすくて、いろんな人にも見せやすい場所へ移すことを、勝手に「この灯にとって一番いい場所だ」と思い込もうとしていないだろうか。

 写真から顔を上げ、自分の言葉を待っている村の人たちの顔を見た。十二歳の今の自分一人の頭で、今日この場で白黒つけられるようなことにはとても思えなかった。

 

「……あの、今日はまだ決めなくていいと思います。ここで急いで答えを出してしまう方が、なんだか怖いですから」

 

 正直にそう言うと、部屋の後ろの壁際で腕を組んでいたジンさんが、ほんの少しだけ口元を緩めて笑った。

 らでんはもう一度姿勢を正し、正面のハクさんへと向き直った。どうしても一人だけ、先に気持ちを聞いておきたい人がいた。

 

「ハクさん。もし、この《渡り灯》が本当にご先祖のシウさんが使っていた灯だったとして……ハクさんは、これをご自分の家に戻したいと思いますか?」

 

 ハクさんは手元の写真をじっと見つめた。

 長い沈黙のあと、ゆっくりと首を横に振る。

 

「いや。うちには戻さんでええ」

「え……どうしてですか?」

「わしが知らんかったからじゃ」

「え?」

「わしはこの村で七十九年生きとる。それでも、あの蔵の灯がうちの先祖のもんだったなんて、お前さんらに聞くまでこれっぽっちも知らんかった。そんなもんを今さらわしの家に置いたところで、わしがいなくなれば、またすぐ何のもんか分からんようになるだけじゃろ」

 

 予想もしていなかった答えだった。けれど、ハクさんの言葉にはあまりにも真っ直ぐな筋が通っていて、らでんはすぐに次の言葉を返すことができなかった。

 

「……ただな、らでんちゃん。もし頼めるんなら、うちの先祖の『シウ』って人が昔この村におったことだけは、どこかに消えずに残してほしい」

 

 らでんは強く頷き、手元の調査ノートを開いて『ハクさん:個人の所有ではなく、記憶の継承を希望』と丁寧に書き留めた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 会議のあと、らでんたちはもう一度山の向こうのお寺を訪ね、住職さんのもとでさらに古い年代の記録を調べさせてもらった。

 すると、西里へ来ていた山越衆の記録とは別の地域の古い書き付けの中に、あの《渡り灯》の金具やシウの木札にあったのとまったく同じ『印』が描かれているのが見つかったのだ。

 手がかりはもう、この一つの山と村の中だけでは収まらない。

 カルドさんが周辺の自治体へ公的な照会をかけてくれる一方で、らでんは現在の村の場所や詳細が特定されないよう慎重に伏せた上で、ハンター協会の専用サイトにある『古層板』へと調査の呼びかけを投稿した。

 

RDN

> 山間を季節移動した職能集団に関する資料を探しています。添付の印章・文様に類例があれば情報をください。

 

みずき堂

> その印、東側の旧商路資料で見た記憶があります。確認します。

 

古狸@野良発掘

> どこ掘った。

 

RDN

> 掘ってません。

 

古狸@野良発掘

> 珍しい。

 

RDN

> 失礼ですね!?

 

     ◇ ◇ ◇

 

 投稿してから三日、五日と経つうちに、古層板の向こう側から次々と新しい情報が届き始めた。

 あの同じ印が、ここからずっと離れた遠い町の古い民具や、小さな木箱、それに木工や金工の道具にも刻まれているという報告がいくつも上がったのだ。送られてきた一枚の古い白黒写真には、山装束を着た三人の人物が写っていて、その胸元に下げた木札には、シウの札とよく似た同じ文様がはっきりと刻まれていた。自分たちが想像していたよりも、ずっと広い範囲に彼らの足跡が残っていたのだ。

 

「――っ、はじめ、来て! いたよ!」

 

 端末の画面を見たまま声を上げると、部屋の向こうでストレッチをしていたはじめがパタパタと走ってきて、横から画面を覗き込んだ。

 

「えっ、いたってどれのこと? この写真の三人が?」

「うん、これ、山越衆の人たちだよ! ほら、真ん中の人の胸のところ、ハクさんの家で見たシウさんの木札とそっくりな文様が入ってるでしょ!」

 

 もちろん、まだこの一枚の写真だけでは、西里へ来ていたのとまったく同じ集団だと断定することはできない。ただ、少なくとも同じ印と木札を使う山渡りの文化が、ここ以外の別の土地にも確かに残っていたことだけは、これでさらにはっきりした。

 さらに数日かけて送られてきた類例を地図の上に並べていくと、同じ印は一つの道筋だけでなく、複数の離れた土地へと散らばっていることが分かった。

 もしかすると『山越衆』というのは、一つの家系だけで固まった血縁集団ではなく、季節や仕事に合わせて各地の細工師や家族、旅人たちが合流したり離れたりを繰り返す、もっと柔らかくて大きな共同体だったのかもしれない。

 

「……ってことはさ、らでん。『山越衆の子孫』って言っても、誰か一人を探し出せばいいって話じゃなくなっちゃったね」

「うん……」

「へえ、じゃあその灯を返す相手、余計に誰だか分かんなくなったな」

 

 後ろから画面を覗き込んだジンさんの声に、らでんはくるりと振り返ってその口元へ目を向けた。

 

「……ジンさん、今ちょっと嬉しそうですね」

「おう、そりゃ面白いからな。簡単に答えが出る話よりずっといいだろ」

 

 それから一か月近くの間、二人は全国から届く資料の整理や追加の調査を続けながら、毎日の念の修行も欠かさず続けた。

 朝の『方便』は毎日欠かさず行い、『纏』は日中の作業をしながらでもかなり長く保てるようになってきたけれど、まだ不意に何かに驚いたりするとふっと切れてしまう。

 夜の『絶』は一分を少し越えるようになり、『練』ははじめの出力が日ごとに安定してきて、らでんの方も最初よりずっと長く一定の量を保てるようになった。目の『凝』は相変わらず短い時間しか使わなかったが、それは本当に必要な箇所だけを確かめるためで、最初みたいに面白がって何でもかんでも『凝』で覗き込むようなことはもうなくなっていた。

 

 そんなある日の朝、ジンさんが台所から、先の少し欠けた古い木べらを一本持って部屋へ入ってきた。

 

「いいか、今からいつも通り机で仕事しながら『纏』を保て。んで、この木べらが倒れたら最初からやり直しな」

 

 そう言ってジンさんは、机に向かい合って座るらでんとはじめのちょうど真ん中にある小さな棚の縁へ、その木べらを危なっかしい角度でちょこんと立てかけた。

 

「えっ、最初からって……普通にしてたら木べらなんて勝手に落ちないじゃないですか。どうして落ちるんです?」

 

 らでんが不思議そうに聞き返し終えるよりも早く、ジンさんが足のつま先で棚の柱をコツンと軽く蹴った。

 乾いた音を立てて木べらがぱたりと倒れ、らでんとはじめは「わあっ!」と同時に声を上げて飛び上がった。

 その一瞬の驚きで、らでんの全身の『纏』はぷつりと途切れ、隣のはじめの方も肩のあたりのオーラだけが薄く乱れた。

 

「――っ、ちょっとジンさん、今の絶対ずるいです! 自分で蹴ったじゃないですか!」

「バーカ、本番や試験の時に『今から驚かせますよ』なんて親切に予告してくれる奴はいねえぞ」

 

 にやりと笑うジンさんに悔しくなって、今度は仕事中のはじめがいきなりらでんの背後のすぐ近くでパンッと手を鳴らし、らでんもその仕返しに、古い新聞の束をめくる音をわざとバサッと大きく立ててやり返した。

 卓の向こうで朝ご飯を食べているジンさんは、箸を動かしながらそんな二人の肩と背中のオーラをじっと見ている。

 

「ほららでん、今右の肩が抜けたぞ」

「うっ……い、今はもう大丈夫でしょ!? ねえはじめ、今の私、切れてなかったよね?」

「うん、今の紙の音はうちも全然平気だった!」

 

 なんて二人でムキになって言い合っているうちに、らでんはいつの間にか棚の上の木べらのことをすっかり忘れていた。

 ふいにジンさんが箸の先で指差したのは、棚の木べらではなく、らでんが机の上に広げていた『本物の調査記録』の束だった。

 古い崩し字のどうしても読めない一行を見つけて、ぐっと顔を近づけて夢中になったその途端――らでんの背中の『纏』が、またしても綺麗さっぱり途切れていたのだ。

 

「……っ、あ……」

「らでん、また消えてるよ!」

「うう……ちょっと待ってください、驚いた時より仕事が楽しくなって夢中になってる時の方が危ないの、なんだかすごく反則じゃないですか!?」

「だから言ったろ。お前が面白いもんを見つけて目が釘付けになった時ほど、周りのこともちゃんと見ろってことだ」

 

 ぐうの音も出ずに頬を膨らませるらでんの横で、はじめが床に落ちていた木べらを拾い上げ、今度はジンさんに言われる前に自分の手で棚の縁へと立てかけ直した。

 らでんも深呼吸をして、机の記録から一度だけ目を上げる。

 そして二人とも、次の難しい一行を読み始める前に、まず自分の肩と背中の周りにちゃんとオーラが留まっているかを静かに確かめ直した。

 

 また別の日の朝、らでんが村の古い祭具を見比べながら、どうしても気になった薄いシミの箇所だけをほんの数秒『凝』で確かめていると、後ろを通りかかったジンさんに声をかけられた。

 

「へえ。お前、やっとガキみたいに何でもかんでも『凝』で見るのをやめたな」

「ふふっ、私だってこの一か月でちゃんと成長しましたから!」

「威張んな、最初から無駄遣いすんなって話だ」

 

 そんな日々を送っていたある日、古層板でやり取りをしていた『みずき堂』さんから、一通のメッセージが届いた。

 

《類例資料の所蔵者と連絡が取れました》

《あなた方の調査している灯の写真を見てもらえます》

 

 画面の文字を読んだ瞬間、らでんの胸がトクンと大きく跳ねた。

 ただ画像を送って返事をもらうだけでは、どうしても伝わらない空気や細かい記憶がある。数日後、らでんとはじめは、ここから列車を乗り継いで行った遠方の町に住む、八十三歳の女性に直接会いに行くことにした。

 みずき堂さんの調べでは、その女性の家は、かつての山越衆の本当に最後期にあたる一支流の家系なのだという。

 出発の朝、玄関先で張り切って荷造りをしている二人をよそに、ジンさんは居間の柱に背中を預けたまま、少しも腰を上げようとしなかった。

 

「おい、俺は行かねえぞ」

「えっ!? な、なんでですか、ジンさんも一緒に行くんでしょ!?」

「ああん? 連絡取って聞き取りに行くのは、全部お前らの仕事だろ。二人で行ってこい」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 列車を乗り継いで訪ねたその女性の名前は、ナナさんといった。

 静かな居間へ通してもらい、挨拶を済ませたらでんが鞄から端末を取り出して《渡り灯》の写真を見せると、部屋の中に長い沈黙が落ちた。

 らでんは隣のはじめとちらりと目を合わせ、こちらから言葉を急かさずにじっと待った。

 やがてナナさんは、画面の中の灯へ触れようとして伸ばしかけた自分の細い指先を、ガラスの少し手前でそっと止めた。

 

「…………まだ、残ってたんですねえ」

 

 かすかに震えるその小さな声に、らでんの胸の奥がきゅっと強く締まった。

 

「あの、ナナさん、この灯のことをご存じなんですか?」

「ええ。これとまったく同じ形のものを、私がまだほんの子どもだった頃に、家の古い倉で一つだけ見たことがあります」

「えっ、お家の倉で!? それ、今もどこかにあるんですか?」

「いいえ、もうありませんよ」

 

 ナナさんは静かに首を横に振った。戦争で焼けたのでも火事に遭ったのでもなく、ずいぶん前に古い倉そのものが朽ちて危なくなった時、中の古い道具ごと処分してしまったのだという。

 

「その灯が、何に使われていたものかはお聞きになったことがありますか?」

「いいえ、詳しい使い方までは分かりません。ただ……『次へ渡す灯だ』とだけ聞いたことがあります」

 

 自分の目で見た確かなことと、人から聞いた伝聞とを、はっきり分けて話してくれる落ち着いた答えだった。隣で聞いていたはじめが、はっとしたようにこちらを見る。

 らでんは膝の上のノートを握り直し、今日ここへ来るまでずっと気になっていた一番大切なことを尋ねた。

 

「あの……ナナさん。もしこの灯が、昔ナナさんのご先祖の仲間たちが持っていたものだとしたら、これをご自分の手元へ返してほしいと思われますか?」

「え、私にですか?」

「はい。あるいは、ナナさんたちのご家系の系統の方々にです」

 

 ナナさんはしばらくの間、目を細めて何かを考えるように黙り込み、それからふっと穏やかに笑った。

 

「いいえ、そんな古いものを今さら私に返されても困りますよ」

 

 思いがけない言葉にらでんが顔を上げると、ナナさんはもう一度、端末の画面に映る《渡り灯》の写真へと優しい視線を戻した。

 

「ご覧の通り、今の私の家にも、もうそんな大事なものを置いて守れるような場所はありませんからね。それに何より……その灯が百年以上もその村で守られて生きてきたのなら、それはもう、その村の歴史でもあるでしょう」

 

 その言葉を聞いた瞬間、らでんの張りつめていた肩の力が少しだけ抜けて、胸がふっと軽くなった。

 けれど、ナナさんの静かな言葉には、もう一つだけ続きがあった。

 

「ただ――どうしてその灯が今そこにあるのか、そこに至るまでの話だけは、どうか消さないでやってくださいね」

 

 それは先日、村の公民館でハクさんが口にしたのと、まったく同じ願いだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ナナさんの家を辞して帰りの電車に揺られながら、向かいの席に座ったはじめは、頬杖をついて窓の外を流れる町の景色をぼんやり眺めていた。

 

「……ねえ、らでん。ハクのおじいちゃんも、今のナナおばあちゃんも、みんな『物はいらない』って言うんだね」

「うん、そうだね」

「でもさ、どっちも『昔あったことだけは忘れないで、消さないで』って言うじゃん」

「うん……」

 

 二人の言葉の奥に、まだ自分の中でぴったりの名前がついていない大きな共通点があった。電車の規則正しい揺れと一緒に、夕暮れ近い景色だけが窓の向こうを流れていく。

 すると、窓の外を見ていたはじめが、ふっと顔を上げてらでんを呼んだ。

 

「ねえ、らでん」

「なに?」

「これさ、もうほとんど答え出てるんじゃない?」

「えっ、答えってなにが?」

「あの灯が『もともと誰の物だったか』じゃなくてさ――これから先、『誰が次にちゃんと覚えてるか』ってことだよ」

 

 何気ない調子で言われたその一言に、らでんは思わず窓の外から目を戻して、目の前のはじめの顔をまっすぐに見つめた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 西里の村へ戻ると、すぐにもう一度公民館に集まってもらい、二度目の会議を開いた。

 らでんは今回の旅で調べてきた結果を、何一つ隠さずに全員の前で話した。

 ハクさんの気持ちと、遠方の町で会ってきたナナさんの言葉、それに山向こうのお寺や古層板で集まった新しい記録のこと。山越衆という人たちが複数の広い地域に分かれていて、今さら「この人一人が元の所有者だ」とは誰にも決められないことも正直に伝えた。

 

「……ですから私は、この《渡り灯》をこのままこの村に残すことも、大切な選択肢の一つなんだと思います」

 

 らでんがそう切り出すと、聞いていた村人の一人が、机の上に置かれたままの『土蔵の管理資料』を自分の手元へと引き寄せた。

 隣に座るカルドさんが、落ち着いた声で言葉を継ぐ。

 

「ただ、もし村の中に現物を残すとなれば、今とは違うちゃんとした保存環境を作らなければならない。蔵の屋根の修繕に、定期的な点検、記録の管理や防犯対策……どうしても、まとまったお金も、それを続ける『人』も必要になります」

「……『人』かのう」

 

 サエさんは小さく笑って言ったけれど、その短い一言は部屋の空気を沈ませるほど重かった。

 らでんは、そこから先の言葉をすぐには続けることができなかった。

 

 正面に座っていたハクさんは、今日のために土蔵から慎重に運んできて長机の真ん中の台に置かれた本物の《渡り灯》を、長いことじっと見つめていた。

 やがてハクさんが、ゆっくりと口を開いた。

 

「なあ、らでんちゃん」

「はい!」

「お前さん、この灯のこと、好きか?」

「えっ……? あ、はい、それはもう、かなり好きですけど……」

「かなりどころか、もうめちゃくちゃ好きだよ!」

「ちょっ、はじめ!」

 

 すぐ横から元気よく口を挟まれて、らでんは耳まで熱くなって思わず声を上げた。緊張していた会議室の中に、ふっと小さな笑いが起きる。

 ハクさんは少しだけ目を細め、それでも視線は台の上の《渡り灯》へ向けたまま静かに続けた。

 

「わしらはもう、昔みたいにお祭りはやれん。村には子どももおらんし、あの山道も誰も歩かん。あの古い蔵だって、あと何年そのまま持つか分からんのだ。……そんな場所にただ鍵をかけて置いとけば、それで本当にこの灯を『残した』ことになるんか?」

 

 誰にもすぐには答えが出せない問いだった。サエさんも、台の上の黒ずんだ木の枠へと目を向けた。

 

「このまま蔵にしまっといたら、また百年くらい経った頃に、誰かが開けて『こりゃいったい何の道具じゃ?』って首をひねるだけかもしれんねえ」

「はは、まったくだ。お前さんら二人がこの村へ来て調べんかったら、もう半分以上そうなっとったところじゃ」

 

 ヨウさんはいつものように笑って言ったけれど、らでんはどうしても笑うことができなかった。

 一番最初に土蔵の奥へ入った日、埃をかぶった棚の隅で、本当の名前とは違う『渡火祭祭具』という札をつけられたままぽつんと置かれていたこの灯の姿が、まぶたの裏に鮮やかに重なったからだ。

 

「――だからな、らでんちゃん。これ、お前さんが持って行ってくれんか」

「……え?」

「お前さんの手で、これを『次』に渡してくれ」

 

 思ってもみなかった言葉に、らでんは弾かれたようにハクさんへ顔を上げた。

 隣に立つはじめも、部屋の後ろの壁に肩を預けて立っているジンさんも、黙ったまま何も言わない。

 

「で、でもっ、これは私の物なんかじゃありません……!」

「ああ、そうじゃよ。お前さん個人の物にしろと言っとるんじゃない」

「お前さんに、『預ける』んじゃ」

 

 サエさんが頷き、ハクさんがまっすぐならでんの目を見て言葉を継いだ。

 

「この西里の村の名前も、うちの先祖のシウの名前も、山を越えとった人らのことも、あの子が覚えた踊りも、うちの婆さんの歌も――全部一緒に抱えて、お前さんが次の場所へ持ってってくれ」

 

 ハクさんは立ち上がると、台の上の灯を無理に持ち上げることはせず、その古い持ち手の金具へと自分の皺だらけの手をそっと添えた。そして、台の上に置かれた《渡り灯》を、机の向こうのらでんへ向かって静かに前へと押し出すように差し出したのだ。

 らでんは考えるより先に、反射的に両手を前へ出していた。

 そのまま台の上から両手で引き受けると、百六十年前の木と金具でできた《渡り灯》は、写真や外から見て思っていたよりもずっと、ずっしりと重かった。

 落とさないように右手で上の持ち手をしっかりと握り、左手で底の枠を下から支え、自然と足を一歩引いて身体を斜めの半身にしながら、自分の胸元へと深く抱え込む。

 

「……あっ、らでん」

 

 隣で見ていたはじめが、灯を抱きしめるように構えたらでんの両手と足元をそっと指差した。

 

「それ、一番最初の形だよ」

 

 はっとして自分の腕を見下ろした。

 右手で持ち手を握り、左手で支えて胸元へ寄せる――それは、これまで二人で追いかけてきた十二の型の一番最初、『灯を抱け』の一の型そのものだった。

 今から百六十年以上も前、あの峠の大石の前で、シウさんや誰かもこんなふうに重たい灯を両腕に受け取ったのだろうか。

 こみ上げてくる熱いもので視界が滲みそうになるのをこらえて、らでんはぎゅっと下唇を噛み、ただ泣くだけで終わらせないように顔を上げた。

 

「……はい。これ、私が預かります。ちゃんと、消えないように残します!」

「いや、違うぞ」

 

 ハクさんは、穏やかな顔のままゆっくりと首を横に振った。

 

「ただ『残す』だけじゃ、またどこかで止まってしまう。お前さんが、次へ『渡して』くれ」

 

 ハクさんの言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。

 そうだ。安全な博物館のガラスケースや保存施設、これからの研究や記録、そしてそれを見て知る未来の人たちへ。自分一人の手の中に大事に抱え込んで止めるために預かるんじゃない。途切れかけた道を繋いで、次の誰かへと手渡すために預かるのだ。

 

「――はい! 必ず、私が次へ渡します!」

 

 らでんが腹の底から声を張って答えると、今まで後ろの壁に寄りかかって黙って見ていたジンさんが、ふっと壁から背中を離して出口の扉へと歩き出した。ここまでのやり取りを見届ければ、もうこれ以上長居する気はないらしい。

 

「あ、ちょっとジンさん!」

「なんだよ」

「なんだよじゃなくて、こういう時になにか言うことないんですか!?」

 

 足を止めて半ば振り返ったジンさんの少し考えたような目が、らでんが胸の前に必死に抱えている《渡り灯》へと向いた。

 

「……それ、重いだろ」

「そういう物理的な意味じゃありません!」

 

 むきになって言い返すらでんの横で、はじめがぷっと吹き出して笑う。

 ジンさんは扉のノブに手をかけ、こちらを振り返らないまま片手だけをひらりと上げた。

 

「まあ、せいぜい途中で落とすなよ」

「絶対落としませんっ!」

 

 峠の『十三番目』のさらに次の人。百六十年の時間を越えて止まっていたその役目は、今日この場所で、新米の文化財ハンターであるらでんの手へと確かに渡された。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ――そして翌朝。らでんは宿舎の土蔵で、作業台の上に置かれた《渡り灯》を前にしてぴたりと固まっていた。

 昨日、村のみんなの前で「私が次へ渡します!」と格好よく約束したのは、間違いなくこの自分だ。

 

「…………で、これ、具体的に『どこ』に渡せばいいんだろう?」

「えーっ、らでん、昨日あんなに言い切ってたのにまだ場所決めてなかったんだ!?」

「だ、だって昨日は受け取るだけで胸がいっぱいだったんだもん! 具体的な渡す先は、今からちゃんと調べて決めるの!」

 

 頭を抱えかけている二人のところへ、朝から来てくれた支所長のカルドさんが、分厚い書類の束をすっと差し出した。

 

「場所を決めるのも大事だが、まずは正式な『所有者の同意』の手続きからだぞ。昨日の会議での『頼む』『預ける』っていう口約束だけじゃ、集落の外へは一歩も持ち出せないからな」

 

 カルドさんが広げて見せてくれた古い役場の台帳では、三十四年前に渡火祭が終わったあと、使われていた道具と関連する文書はすべて『西里集落の自治組織』がまとめて引き継ぐ形になっていた。

 たとえ歴史を辿ればシウさんの家に由来があるものかもしれないと分かっても、今現在の法的な所有関係や手続きは、それとは別にきっちり確かめて書類にしなければならないのだ。

 

「うわあ……昨日のあの受け渡し、あんなに感動的だったのに、一夜明けたらいきなり役所の事務手続きになるんだね」

「で、でも、本当に文化を消さないで残すって、きっとこういう地道なことも全部含めてなんだよ」

「はは、なんだお前ら、もう面倒くさくなったのか?」

 

 後ろの卓で朝ご飯を食べながらそう茶々を入れるジンさんは、なんだかんだ言ってすごく楽しそうだ。

 その証拠に、お茶碗と味噌汁を並べたジンさんのすぐ手前の席にも、カルドさんが持ってきた同意書の控えの端っこがちゃっかりはみ出していた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 さっそくカルドさんが関係各所へ連絡を取ってくれて、数日後、らでんとはじめは町の地方庁にある文化財保護課を訪ね、エルナ=ホルツさんという専門員の女性に会った。

 らでんたちが持参した《渡り灯》の記録写真とこれまでの来歴メモを隅々まで読み終えたエルナさんは、まず「これはまだ国や州の指定文化財にはなっていないこと」、けれど「だからといって誰かが勝手に別の場所へ運んだり直したりしていいわけではないこと」を、初心者にも分かるよう一つずつ分けて説明してくれた。

 

「まずは現地で今の状態を詳しく見ます。古い木や金具は傷んでいるからこそ、いきなり綺麗に磨いたり、勝手に接着して直したりは絶対にしないんですよ」

「えっ、じゃあ木にあいてる小さな虫穴とかも、埋めないんですか?」

「ええ。その虫穴がいつ頃の時代にできたものなのかも、この灯が辿ってきた大事な資料の一部ですから」

 

 自分たち子ども二人だけではとても気づけなかった細かい保存のルールまで、目を輝かせながら一つ一つ丁寧に教えてくれるエルナさんの言葉には、物を守る仕事への確かな情熱があった。

 ――この専門員さんなら、絶対に信用できる。らでんは机の下でぐっと拳を握った。

 

 その三日後、エルナさんと一緒に、木材と金属金具、それに保存環境の専門員の人たちが実際に西里の村の現地へとやって来た。

 専門員の人たちはまず土蔵の中の温度と湿気を機械で測り、作業台の上の《渡り灯》をあらゆる角度から撮影して、持ち手の木の摩耗や昔誰かが直したらしい古い補修の跡を細かく調書に記録していく。

 その横で手元をじっと見守っていたらでんは、記録用紙にペンを走らせる担当者さんの手元を見て、思わず持ち手の金具の脇を指差した。

 

「あの、すみません! そこの木が丸く削れているところは、ただぶつけてできた『傷』じゃなくて、昔の人が何年も手で握って歩いた『使った跡』なんです!」

 

 らでんがこれまでの調査と型の再現で分かったことを説明すると、担当者さんは目を丸くしてからにこりと頷き、調書の『傷・欠損』と書いていた欄を、その場で『使用痕』へと書き直してくれた。

 ただピカピカの新品みたいに元通りへ戻すことよりも、どの痕跡を歴史として残すかを先に決める。

 土蔵の入り口で腕を組んでいたジンさんも、黙ったままそのやり取りを聞いていた。

 

 協議の結果、これからの《渡り灯》の保存先には、虫害の疑いがある古い木製品を専用の部屋で隔離して詳しく調べられる『州立文化資料保存センター』を選ぶことになった。

 所有権そのものはこれからもずっと『西里地区の共同体』に残したまま、まずは五年間、その保存センターへ正式に『寄託』する――という形を、村の住民全員が加入している自治会の総会で正式に議決してもらったのだ。個人への譲渡でも、行政による没収でも、一方的な寄贈でもない。

 これから先、センターで新しい調査をしたり、一般向けに展示したり、画像を公開したり、あるいは必要な修復を行ったりする時には、その都度必ず村側と協議をすることという条件も書き込まれた。

 その契約書類の原案を確認する時、らでんはたった一行だけ、どうしても譲れないお願いをした。

 

「あの、エルナさん。解説や記録の欄には、『西里の村』と『シウ』と『山越衆』のこと、それから私たちが調べて分かったこの順番も、一緒に削らないで残してください」

「ふふ、そこがらでんさんにとって一番大事なところですか?」

「はい! そこが、一番大事です!」

 

 今回の調査では、懐にあるハンターライセンスが、専門機関や大学の先生たちに話を聞いてもらうためのすごく大きな『信用』になった。十二歳の子どもが訪ねていっても、ライセンスを提示すれば、それこそ大学教授からの正式な照会と同じくらいの重さで真面目に対応してもらえたのだ。

 けれど、いくらライセンスがあっても、村の人たち一人一人の合意を取り付けたり、資料を傷めない保存の手順を踏んだり、役所の各種申請の手続きを魔法みたいにすっ飛ばしてくれるわけでは決してない。

 宿舎の机の上で、山のように積み上がった申請書や同意書の控えの束をぱらぱらとめくりながら、はじめが遠い目をして呟いた。

 

「……ねえ、らでん。ハンターになってからの書類ってさ、絶対ハンター試験の時より多くない?」

「うん、絶対多い……! 私、もう自分の名前を何回書いたか分かんないよ」

 

 手首をぶらぶらと振りながら、らでんも思わず吹き出して笑った。

 

 そしていよいよ搬出の日。

 専門員の人たちと一緒に事前の状態写真と一つずつ照らし合わせながら《渡り灯》を専用の緩衝箱へと納め、送り出す集落側、運ぶ輸送側、そして迎える受入側の三者で、新たな傷がないかの引き継ぎ記録に署名をした。

 蓋を閉じて封をした白い箱に向かって、見送りに来たハクさんが「よし、しっかり行ってこいよ」と優しく声をかける。

 らでんも輸送車に同乗して州立文化資料保存センターまで随伴し、到着するとまず一番に専用の隔離室で箱を開けて、村を出発する前とまったく同じ状態かどうかを自分の目で確認した。

 

 受入の手続きの最後、センターの職員さんから「台帳へ登録する正式名称はどうしますか」と尋ねられ、らでんはペンを持ったまま少しだけ立ち止まった。

 

「……主名称は、『《渡り灯》(仮称)』にしてください。それから、今まで村の札に書かれていた『《渡火祭祭具》』という名前も、消さずに『旧称』として並べて残してください」

「え、後から付けられた誤った名前でも、そのまま残すんですか?」

「はい。この村でそう呼ばれてお祭りに使われていたことも、この灯の大事な来歴ですから。でも、山を越えていた人たちが本当に何と呼んでいたのか、本当の正しい名前はまだ分かっていないので、『仮称』のままにしておきたいんです」

 

 センターへ入った《渡り灯》は、すぐに薬品や道具で修復を始めるのではなく、まずは今の状態のまましばらく観察を続けることになった。

 後日届いた最初の検査報告では、今すぐ木を食い荒らすような進行中の虫害は確認されず、持ち手の金具の腐食だけをこれ以上進まないよう最小限に安定化する処置を検討する、とのことだった。もちろん、手で握った摩耗の跡も、昔の人が直した古い補修の跡も、何一つ消さずにそのまま残される。

 隣からその報告書を覗き込んだはじめが、ほっとしたように目を細めた。

 

「そっかあ、ピカピカに綺麗になりすぎないんだね」

「うん。そこにいた人たちの手の跡を、上から消したくないもん」

 

 一方、西里の村の方には、今回の調査報告書の控えと、あらゆる角度から撮った大きな写真、それにハクさんの奥さんが歌ってくれた子守歌の録音データを揃えて残した。

 はじめが身体で復元したあの『十二の型』も、はじめ本人と、動きを教えてくれたサエさんたち聞き取り相手の正式な同意を得た上で最初から最後まで映像に撮影し、その記録の題名には《灯継ぎの舞 復元案》と名前をつけた。

 

「ねえ、これ、最後に『案』ってつけるんだ?」

「うん。もしこれから先、また別の土地から違う資料や踊りが出てきた時に、いつでも正しく直せるようにね」

「そっか、じゃあ絶対そっちの方がいいや!」

 

 この《渡り灯》と関連資料を正式な『地域文化財』として登録するかどうかは、これからさらに周辺地域の調査を続けてから検討されることになった。

 ハンターライセンスを出すたびに仕事の扉は開いて前へ進んだけれど、その物を守ってきた人たちの代わりにハンターが勝手に決めていいことは、最初から最後まで一度もなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そうして、最初にこの村へやって来てから三か月と少しが経った頃――ついに第一期の現地調査がすべて終了し、一冊にまとまった『報告書』が完成した。

 表紙に印字された正式な題名は、《西里地区旧渡火祭資料「渡り灯」及び山間移動文化に関する第一次調査報告》。

 らでんは刷り上がったばかりの白い表紙をめくり、一番最初のページにある著者と協力者の欄をじっと見つめた。

 

 調査担当 ハンター協会 儒烏風亭らでん

 現地調査補助・身体技法復元協力 ハンター協会 轟はじめ

 現地調査協力・地元連絡 西里支所長 カルド=ネーマン

 

 そのすぐ下には、エルナさんたち行政と保存センターの担当者や、ハクさん、サエさん、ヨウさん、山向こうの住職さん、ナナさん、それに古層板で力を貸してくれた協力者たちの名前がずらりと並んでいる。

 本当はそこへ『ジン=フリークス』の名前も協力者として入れようとしたのだけれど、本人に「足で調べて、自分の目で確かめて、その紙を書いたのは全部お前ら二人だ」とあっさり断られてしまったのだ。

 

「……こうして並べてみると、ほんとに私一人だけの仕事なんかじゃ全然なかったんだなあ」

 

 しみじみ呟くらでんの横で、はじめは自分の名前の横にある肩書きを指先でちょんとつつき、「『身体技法復元協力』だって、なんかすっごく格好いい!」と嬉しそうに声を弾ませた。

 村の人たちには、今後の修復の方針と五年間の寄託の条件を改めて報告し、撮影した復元映像も「これが絶対の正解として確定した型ではなく、後から新しいことが分かれば直せる記録」として公民館に残した。

 

 すべての引き継ぎを終えて公民館の外へ出ると、山の空はもうすっかり夕方の茜色に染まっていた。

 少し離れた石垣のところで待っていたジンさんを見つけ、らでんは小走りに駆け寄って、完成したばかりの報告書を両手で差し出した。

 

「ジンさん、終わりました!」

「おう」

「私の、文化財ハンターとしての初仕事が全部終わりました!」

「ああ、そうだな」

「……えっと、それだけですか? 他に何かないんですか!?」

「なんだよ、何かって」

「感想とか、よくやったとかです!」

 

 ぐっと一歩詰め寄るらでんを見下ろし、ジンさんは自分の顎を軽く撫でて、ほんの少しだけ考えた。

 

「――お前、今回の仕事、楽しかったか?」

 

 思いがけない問いかけに、らでんはぴたりと足を止めた。

 自分の両手の中には、この三か月と少しの時間を全部注ぎ込んで作った、まだインクの匂いのする一冊の報告書がある。

 うまくいかなくて焦った日も、思い込みを指摘されて悔しかった日も、古い紙の隙間から『シウ』の名前を見つけて手が震えた日も、全部この中に詰まっていた。

 

「……はい、めちゃくちゃ楽しかったです!」

「なら、それでいいだろ」

「……はい!」

 

 胸の奥がじんわりと温かくなって頷いたところへ、後ろからパタパタとはじめが追いついてきた。

 

「ねえ、ジン!」

「あん?」

「らでんの初仕事が終わったってことはさ、うちらの『裏試験』はいつ終わるの?」

 

 はじめの真っ直ぐな質問に、ジンさんはらでんとはじめの顔を順番に見た。

 この三か月間、毎朝欠かさず『方便』を続け、『纏』も『絶』も『練』も『凝』も、山の調査や書類仕事をしながら何十回も失敗してはやり直してきた。

 

「まあ、お前らの念の基礎は、正直まだ雑だ」

「ええっ、まだですか!?」

「当たり前だろ、たかが三か月ちょっとで完璧になるわけねえ」

 

 思わず声を上げたらでんのすぐ横から、はじめがぐっと身を乗り出した。

 

「でもさ、雑でも一応ここまでやったんだから、次があるんでしょ?」

「ああ」

 

 ジンさんは短く頷き、自分の右手の指を四本、すっと目の前に立てて見せた。

 一つ目の『纏』、二つ目の『絶』、三つ目の『練』。――そして、まだ手をつけていなかった最後の一本。

 

「じゃあ、いよいよやるか。『発』を」

 

 その言葉に、らでんははっと息を呑んで顔を上げた。

 

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