儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第二十三話 またね

 宿舎の机の上に、透明なグラスが一つ置かれていた。

 水は縁のぎりぎりまで満たされて、表面が丸くかすかに張っている。その真ん中に小さな葉が一枚、ぴたりと動かずに浮いていた。

 

 さっきまで調査報告書の紙束が並んでいた机の上の、見慣れない組み合わせに、隣のはじめがぐっと身を乗り出した。

 

「ねえジン、このコップと葉っぱでなにが分かるの?」

「お前らの『系統』だ」

「系統?」

 

 ジンさんは木の椅子に後ろ向きに座り、背もたれへ腕を乗せたまま、机の端の白い紙へさらさらと六角形を描いた。

 一番上の頂点に《強化》、その左右の隣に《変化》と《放出》。

 さらにその下へ《具現化》と《操作》と書き、一番下の頂点に《特質》と書き添える。らでんとはじめは、ジンさんのペン先が動く順番を並んで目で追った。

 

 書き上がった図を覗き込んだはじめが、目を丸くして声を上げる。

 

「うわ、なんか名前がいっぱいある!」

 

 らでんも自分の指先で、紙の上の六角形をそっとなぞってみた。

 

「この六つって、それぞれなにが違うんですか?」

「オーラを使う時の、生まれつきの得意なことだ」

 

 ジンさんは一番上の頂点をペン尻でとんと指した。

 

「まず《強化》は、物とか自分の身体とか、もともとあるもんの働きを強くする」

 

 そこからペン先が左右の頂点へと移る。

 

「隣の《変化》は、オーラそのものの性質を変える。《放出》は、オーラを自分の身体から離して飛ばしたり保ったりする」

 

 さらに下の段の二つへと指を進めた。

 

「《操作》は物や生き物を動かす、操る。《具現化》は、オーラを実際の物として形にする」

 

 そして最後に、一番下の頂点を指差した。

 

「んで、最後の《特質》は、それ以外全部だ」

「ちょっと、最後だけ説明が雑すぎませんか!?」

「しょうがねえだろ、実際そういう分類なんだから」

 

 むきになって突っ込むらでんに、ジンさんは肩をすくめた。

 隣のはじめは、六角形が描かれた紙を自分の方へとくるりと呼び寄せる。

 

「じゃあさ、もし強化の系統だったら、強化のことしかできないの?」

「いや、そういうわけじゃねえ。自分の系統が一番覚えやすくて、図で隣り合ってるところも比較的やりやすい。逆に、自分の位置から遠い系統になるほど覚えるのも使うのも大変になる」

 

 ジンさんの指が、六角形の辺を上から横へと滑った。

 らでんは自分のノートの端を見る時みたいに、その線の繋がりをじっと見つめた。

 

「ってことは、これから自分の能力を作る時は、先に自分がどの系統なのか知っておいた方がいいんですね?」

 

 尋ねると、ジンさんは頷いて、誰かの顔でも思い出したみたいに鼻で笑った。

 

「おう。自分の向き不向きも知らねえまま、合わねえことを無理してやって何年も時間を潰す奴だっているからな」

「うわ、それはすっごくもったいないね」

「ああ、まったくだ」

 

 らでんは紙の上から、机の真ん中に置かれたグラスへと視線を戻した。縁まで張った水の上で、小さな葉がまだ静かに止まっている。

 

「それで、この『水見式』っていうのは、どうやればいいんですか?」

「グラスの横に手をかざして、『練』をやる。そんだけだ」

「え、本当にそれだけですか? なにか言葉を唱えたりとかは……」

「いらねえよ、ただの『練』だ。それでグラスにどういう変化が出るかを見る」

 

 ジンさんは片手の指を一本ずつ折りながら、順番に並べてみせた。

 

「《強化》なら水の量が変わる。《変化》なら水の味が変わる。《放出》は水の色が変わって、《操作》は浮いてる葉っぱが動く。《具現化》なら、水の中に何か別の不純物みたいなもんが出てくる」

 

 折られた五本の指が、そのままさっきの六角形の上から五つの系統と重なった。

 

「……あの、最後の《特質》は?」

「だから、それ以外の変化が出たら全部《特質》だ」

「やっぱりそこだけ雑じゃないですか!」

 

 もう一度声を上げたらでんと、その横で笑うはじめを、ジンさんがまっすぐに見た。

 

「――ただし、やる前に一つだけ言っとくぞ。これで自分らの系統が分かったからって、今日いきなり『自分の発を作ろう』なんて考えるなよ」

「えっ、なんで? せっかく系統が分かるのに?」

「早すぎるからだ」

 

 きっぱりとしたジンさんの返事に、らでんは少しだけ目を瞬かせた。

 今までのジンさんなら、「やりたきゃ勝手に作ってみろ」くらい放り出して言いそうなのに、今日はやる前から先に釘を刺してきた。

 

「いいか、お前らまだ子供だろ」

「あ、はい」

「これから先、何十年自分の手足にして使うか分かんねえ能力を、たかが三か月念の基礎を触ったくらいの思いつきで決めんじゃねえ」

 

 はじめが、手元の六角形の紙をぱちくりと見下ろした。

 

「でもさ、さっきジン、裏試験の最後で『発』をやるって言ったじゃん」

「おう。『発』の入り口はやる。だが、自分だけの能力が最終的にどういう形になるかは、これから先お前らが自分で探すもんだ」

 

 ジンさんは自分の胸元を親指でどん、と指した。

 

「オーラをどう使うかっていう形にはな、そいつのこれまでの考え方や経験、得意不得意、好きなもん、性格――そういう生きてきた中身が全部勝手に出てくる」

 

 らでんも六角形の紙へ目を落とした。一番上の《強化》から、一番下の《特質》まで、まだ自分の名前がどこに入るのかも分からない。

 

「じゃあ、能力って、師匠に『こうしろ』って教えてもらうものじゃないんですね」

「当たり前だろ。もし俺が『お前はこういう能力にしろ』って決めたら、それはもうお前の能力じゃなくて俺の能力じゃねえか」

「……あ、確かにそうですね」

 

 納得して頷いた横から、はじめがぐっとジンさんの方へ身を乗り出した。

 

「じゃあさ、うちはいつ自分で決めればいいの?」

「お前の中で、これだって決まった時だ」

「だから、それがいつの話なのさ?」

「知らん。お前次第だろ」

「うわ、急にぜんぜん役に立たない!」

 

 はじめの遠慮のない言い草に、ジンさんが声を上げて笑った。

 

「ははっ、だから今はまず、自分がどっちの方向を向いてるかだけ確かめとけって話だ」

 

 机の上のグラスは一つしかない。ジンさんがはじめの方へ軽く顎をしゃくった。

 

「ほら、はじめ。お前から先やれ」

「え、うちから?」

「おう」

 

 はじめは椅子を引き寄せて座ると、グラスのガラスに触れないぎりぎりのところまで両手のひらを近づけた。

 静かに息を吸って、いつもの『纏』から『練』へとオーラを高めていく。この三か月の間、山を歩きながらも宿舎に帰ってからも、毎日何十回と繰り返してきた基本の動きだ。

 一番最初にやった時はたった五秒で息が上がっていたけれど、今のはじめなら、もうずっと長くそのまま保っていられる。

 

「おい、あんまり気合入れて出しすぎんなよ」

「えっ、なんで? 危ないから?」

「いや、机が水浸しになって濡れる」

「心配するのそこですか!?」

 

 緊張して見守っていたらでんは、思わず後ろから声を上げた。

 それでも、はじめがもう一度すっと呼吸を整えると、両手の周りのオーラがふわりと力強く膨らんだ。らでんはすぐに目へ短く『凝』を集め、オーラが増える瞬間の流れの乱れを確かめる。三か月前に見た時よりも、無駄な揺らぎがずっと少ない。

 もちろん、隣のジンさんの底知れないオーラと比べればまだ薄いけれど、それでも輪郭が崩れないまま真っ直ぐにグラスを包んでいる。

 

 一秒、二秒。グラスの水面は動かなかった。

 次の瞬間、浮かんでいた葉が、ぴく、と小さく揺れた。

 

「……あっ、今、葉っぱが動いた?」

「いや、葉っぱじゃねえ。水の方を見ろ」

 

 ジンさんに促されて、らでんはグラスの縁へと視線を下げた。

 さっきまで縁ぎりぎりで張っていたはずの水面が、ぷくりとさらに高く盛り上がって、ついに耐えきれなくなった一滴が外へこぼれ落ちたのだ。

 葉が揺れたのは、ひとりでに動いたのではなく、下から溢れ出した水の動きに押されたからだった。

 

「わっ、水が増えた!」

 

 はじめがぱっと目を開く。

 透明な水がグラスの側面を伝って次々と机へ流れ落ちたところで、ジンさんの声がかかった。

 

「よし、もういいぞ」

 

 はじめが『練』を止めて手を引いても、こぼれた水滴はじわじわと木の天板へと広がっていった。

 はじめは濡れた机の上と、ジンさんの顔とを交互に見比べる。

 

「ねえ、今のってなに? うち、何系だったの?」

「お前、今のを見りゃすぐ分かるだろ」

「いいからちゃんと言ってよ!」

「水の量が増えたんだから、《強化》だ」

 

 その一言を聞いた途端、はじめは自分の右手をぎゅっと握りしめて見せた。

 

「強化系! なんか一番強そう!」

「ふふっ、感想がそのままはじめすぎるよ」

 

 らでんが思わず吹き出すと、椅子に座ったジンさんも「まったくだ」という顔で頷いた。

 

「まあ、お前にはいかにも合ってるんじゃねえか」

「え、なんで?」

「頭で理屈をこねて覚えるより、先に身体を動かして覚える方がずっと早いし、やることが一つ決まると脇目も振らずに真っ直ぐ突っ走るだろ」

 

 それはまさに、この三か月間、山道や踊りの型を覚えてきたはじめの姿そのままだった。

 

「そっかあ、うちってそんなに強化系っぽい?」

「まあ、今の理屈は俺の勝手な感想だけどな」

 

 はじめはどこか誇らしそうに鼻を鳴らすと、台布巾を取って机の上の水を拭きながら、ふと顔を上げて尋ねた。

 

「じゃあさ、ジン。将来その『発』を作るために、うちは明日からなにをすればいい?」

「今まで通り、しっかり身体を動かして鍛えろ」

「えー、ほんとにそれだけ?」

「ああ。さっきも言った通り、今ここで無理して形を作るな」

 

 なんだ、と物足りなそうに口を尖らせたはじめの手元を見て、ジンさんが少しだけ声を落とした。

 

「――お前、身体を動かして、もっと踊りたいんだろ」

 

 水を拭いていたはじめの手が、ぴたりと止まった。

 

「……うん」

「だったら、気の済むまで踊れ。自分の身体を使ってどんな動きをするのが一番楽しいのか、何が得意で何がやりたいのか、もっと山ほど分かってから能力の形を決めりゃいい」

 

 はじめは布巾を持ったまま、じっとジンさんの顔を見つめた。

 ほんの少しだけ考え込むように目を伏せ、それからぱっと花が咲いたみたいに大きく笑った。

 

「――うん、分かった!」

 

 横からそのやり取りを見ていたらでんの胸にも、これまでの三か月のはじめの姿が次々と重なっていた。

 お祭りの十二の型を誰より楽しそうに身体へ入れて、石の上で十三番目の向きに気づいたはじめ。今のジンさんの話を聞くと、はじめが《強化》の系統だというのは、なんだかこれ以上ないくらいしっくりきた。

 

 ジンさんが濡れたグラスを下げ、台所から持ってきた新しい乾いたグラスに、もう一度縁まで水と新しい葉を用意した。

 

「ほら、次はらでんだ」

 

 呼ばれて、らでんははじめと入れ替わりに机の前へ座った。

 人の番を見ている時はあんなに面白かったのに、いざ自分の目の前に静かな水面が置かれると、急に心臓の音がトクトクと速くなってくる。

 すると、すぐ横からはじめがひょいと顔を寄せてきた。

 

「ねえ、らでんは自分が何系だと思う?」

「え、うーん、全然分かんないよ」

「うちはね、らでんは《具現化》とかじゃないかなって思う!」

「えっ、どうして?」

「だってらでん、古い物とか珍しい物がすっごく好きだから!」

「なにその理由、さっきのジンさんくらい雑だよ!」

「いいからとっととやれ」

 

 後ろから飛んできたジンさんの一言に、らでんは「はいっ」と背筋を伸ばしてグラスへと向き直った。

 小さく息を吐いて、肩の力を抜く。グラスの両脇に手をかざし、静かに『纏』から『練』へとオーラを立ち上げた。三か月前はすかすかで自分でも頼りなかったオーラが、今ははじめほど大きくはなくても、一定の形を保ったまま揺れずに自分の手を包んでいる。

 今日は自分の目には『凝』を使わず、そのまま真っ直ぐにグラスの水面を見つめた。

 

 一秒、二秒、三秒。

 グラスの中は、しんとして何も起きない。横で覗き込んでいたはじめも、あれ? というように小さく首を傾げた。

 

 らでんは手のひらの『練』を、もう一段だけぐっと強めた。

 五秒が過ぎても、はじめの時みたいに水が増える気配はない。水の色も変わらず、葉っぱはぴくりとも動かず、水の中に何かが浮かび上がってくることもなかった。

 もしかして、水の味が変わる《変化》なのだろうか。それとも――。

 

「……あの、これ、もしかして失敗してますか?」

「まだ手を離すな。そのまま続けろ」

 

 ジンさんの低い声に押されて、らでんはそのまま十秒、さらにその先へとオーラを保ち続けた。

 すると、十秒を少し過ぎたところで、浮かんだ葉でも中の水でもない、まったく別の場所が不意に変わった。

 透明なグラスの内側――張った水面のすぐ下のガラスの表面に、髪の毛みたいな細い線がすっと一本浮かび上がったのだ。

 さっきジンさんが新しいグラスと水に替えたばかりだから、最初からそんな汚れや傷がついているはずもない。

 

「……え?」

 

 らでんが目を見開く間に、細い線は一本、二本、三本と音もなく増えていった。最初はただの引っ掻き傷みたいに見えたそれが、何十本も重なり合うと、まるで古い木の板に走る木目のような模様に見えてくる。

 隣のはじめが、思わずグラスへ顔を近づけた。

 

「なにこれ、コップに模様が出てきた……!」

「おい、手は触んなよ」

 

 ジンさんが短く制する間にも、木目のような線はいっそう濃くなった。

 次の瞬間、その模様がグラスの表面全体へと一気に広がり、さっきまでツルツルだったはずの新品のガラスの上に、まるで誰かが何十年も手で握りしめて使い込んだ道具のような、深くて細かい摩耗の跡がはっきりと浮かび上がった。

 らでんの息が、ひゅっと喉の奥で止まった。

 けれど、瞬きをしてもう一度見直した時には、その古い摩耗の跡は最初から何もなかったみたいにふっと消えていた。

 

「……ねえ、今のなに? らでんは何系なの?」

 

 はじめが目を丸くして尋ねたけれど、ジンさんはすぐには答えなかった。

 椅子から立ち上がると、机の上のグラスを手に取って窓の光に透かし、さっき模様が浮いていた内側を自分の指の腹でぐりぐりと擦ってみる。もちろん、そこには引っ掛かり一つ残っていない。

 

「らでん」

「は、はい」

「今の、もう一回やってみろ」

 

 グラスが机に戻され、らでんはもう一度両手をかざして精一杯の『練』を行った。

 けれど、今度はいくら目を凝らしてもガラスの表面はツルツルのままで、十秒経っても二十秒経っても、さっきの木目のような線は一本も出てこなかった。

 

「よし、やめろ」

「で、でも、さっきはあんなにはっきり出たのに……!」

「もういいって言ってるだろ」

 

 悔しそうに食い下がるらでんを止めて、ジンさんは元の椅子へ戻ると、紙に描いた六角形の一番下――《特質》の文字をとんと指差した。

 

「……私が、《特質》ですか?」

「うわあ、特質だって! なんか一番特別って感じですごそう!」

「だから感想がはじめすぎるってば!」

 

 目を輝かせるはじめへ思わず突っ込み返しながらも、らでんの視線はジンさんの指先から離れなかった。

 

「水も葉っぱも味も色も不純物も、他の五つのどれにも当てはまらねえ反応が出た。だからお前は《特質》だ」

 

 らでんは、何事もなかったみたいに透明なままのグラスを見つめた。

 新品のガラスに浮かび上がった、何十年も使われたような古い木目と摩耗の跡。それを見た瞬間、頭の中に一つの考えがぱっと駆け巡った。

 

「じゃあジンさん、もしかして私の能力って、古い物の昔のことを――」

「おい、やめろ」

「えっ、まだ最後までなんにも言ってないじゃないですか!」

「今からそのまま決めつけるようなことを言おうとしただろ」

「うっ……ちょっとくらい言わせてくれたっていいじゃないですか!」

 

 図星を指されて頬を膨らませるらでんの前で、ジンさんが紙の上の六角形を指でとんとんと叩いた。

 

「さっき言ったばかりだろうが。今日の一回こっきりの反応で、自分の能力の形を勝手に決めんな」

 

 らでんは、言いかけていた言葉をぎゅっと飲み込んで口を閉じた。

 

「お前はここ三か月の間、ずっとあの《渡り灯》の来歴を追いかけて、昔の人間が歩いた跡を探して、物に残った細かい傷や使用痕ばっかり夢中で見てきた。だから今日、たまたまお前のオーラがそっちの方向へ引っ張られて反応しただけかもしれねえだろ」

「じゃあ、さっきのはまだ私の『発』じゃないんですか?」

「違う。お前が自分の意志で動かしたんじゃなく、ただオーラが勝手に反応しただけだ」

 

 ジンさんの迷いのない即答に、らでんはなんだか少しだけホッとして、でも同じくらい少しだけ残念な気持ちにもなった。

 

「いいか、《特質》ってのは本当に変な出方をする奴が多い。だからこそ、今ここで焦って一つの形に決めつけんな。これからもっと色んな場所へ行って経験を増やせ。お前が面白いと思うもんを、もっと山ほど自分の目で見てこい。そうすりゃそのうち、他でもない『これしかねえ』って自分で分かる時が必ず来る」

 

 らでんは静かに頷いて、もう一度グラスの水を見下ろした。

 さっきあんなに古く見えたガラスは、もうどこから見てもただの新品のコップに戻っている。

 たった一回、不思議な模様みたいなものが浮かび上がっただけで、「私の能力はこれかも!」なんてすっかり浮かれてしまった自分が、なんだか急に気恥ずかしくておかしかった。

 《特質》なんていう特別な名前がつけば、自分がこれからどう進めばいいのかまで全部いっぺんに分かるような気がしていたのだ。けれど、紙の上の六角形はそんな答えまでは教えてくれない。

 自分は古い物の来歴を知りたいのか、それともまだ知らない新しいものにたくさん出会うのが好きなのか。

 今のらでんにはそのどちらも大事で捨てられなくて、それをいつかどんな『発』にしたいのかも、まだちゃんと言葉にすることはできなかった。

 

 すると、自分の手のひらをじっと見つめていたはじめが、ひょいとジンさんの方へ顔を上げた。

 

「ねえジン、じゃあこれで『発』のテストも終わり?」

「ああ、入り口の説明はこれで終わりだ」

「えっ、でも私たち、まだ自分の能力を一つも作ってないですけど……」

 

 らでんが慌てて聞き返すと、ジンさんはあっさり首を横に振った。

 

「だから、今は作んなくていいって言ったろ」

「でも、それじゃあ私たちの『裏試験』は――」

 

 ジンさんが椅子からすっと立ち上がった。

 机の前のらでんとはじめの顔を順番に見てから、自分の片手の指を一本ずつ折っていく。

 

「『纏』は仕事しながらでも最低限保てる。『絶』も最低限できる。『練』はまだ量は少ねえけど、まあ最初はあんなもんだ。『凝』は無駄遣いしないで使いどころを覚え始めた。んで最後の『発』は、自分らがどっちの方向を向いてるかが分かった」

 

 そこで一拍置いて、ジンさんは折った手をすっと下ろした。

 

「――よし、十分だ」

「……え?」

 

 隣のはじめが「じゃあさ」と何か言いかけたところで、ジンさんが口の端を上げて少しだけ笑った。

 

「お前らの裏ハンター試験、これで『合格』だ」

 

 らでんとはじめは、思わずパッと顔を見合わせた。

 ここからさらに難しい課題を出されるのだとばかり覚悟していたのに、次の宿題はどこからも出てこない。

 

「――えっ、軽っ!!」

 

 二人の裏返った声が、部屋の中でぴたりと重なった。ジンさんは心外そうに片眉を上げる。

 

「あん? なにがだよ」

「なにがって、もっとこう、なにかあるでしょ!?」

「なにかってなんだよ」

「だってこれ、ハンターの最後の試験なんですよ!? 合格の証明書とかないんですか!?」

「そんなもんねえよ」

「じゃあ合格のバッジとかは!?」

「ねえ」

「試験会場のビーンズさんみたいに、これからのハンターの心得を説明してくれるとか!」

「知りたきゃ自分で協会のサイトでも調べろ」

 

 らでんとはじめが身を乗り出して食い下がるたびに、ジンさんの返事はどんどん短く雑になっていく。

 とうとうらでんは、机の上で自分の頭を抱えた。

 

「うわああ、この人、本当に最後の最後までこれだーっ!!」

 

 その横で、はじめはおかしそうに声を上げて笑いながら、もう一度自分の右拳をぎゅっと握りしめた。

 

「そっかあ、うち、強化系で裏試験も合格かあ」

 

 らでんも頭から手を下ろし、目の前のグラスの水をそっと覗き込む。

 

「私は、特質系……」

 

 まだ少しだけ実感が湧かないまま呟いていると、部屋の隅でジンさんが自分のリュックを引き寄せ、無造作に荷物を詰め込み始めた。

 その手元を見た途端、らでんはぴたりと固まった。

 

「……あの、ジンさん、今なにやってるんですか? どこか行くんですか?」

「おう、次の仕事だ」

「えっ、今からですか!?」

「当たり前だろ、お前らの試験は今終わったじゃねえか」

 

 これっぽっちも迷いのない返事に、隣のはじめがガタッと椅子から身を乗り出した。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! じゃあジン、次はいつこっちに来るの!?」

「知らねえよ、そんなもん」

「じゃあせめて連絡先教えてよ!」

「もう知ってんだろ」

「だってあれ、古層板のメッセージ用のアカウントしか知らないじゃないですか!」

「連絡取るならそれで十分だろ」

「ぜんぜん十分じゃありませんっ!」

 

 らでんとはじめが二人がかりでわあわあ言い募る間も、荷物をまとめるジンさんの手は一度も止まらなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 リュックを片肩に引っ掛けて部屋の扉を開けたところで、ジンさんがふっと足を止めた。

 こちらを振り返らないまま、背中で声だけをよこす。

 

「おい、二人とも。毎朝の『方便』だけは、これからもやめんなよ」

 

 騒いでいた空気が静まり、らでんも少しだけ声を落として背筋を伸ばした。

 

「『点』」

「自分で決める」

「『舌』」

「言葉にする」

「『錬』」

「本気でやる」

 

 らでんとはじめが交互に言葉を継ぐと、一拍置いて、扉の前のジンさんが最後の一つを引き取った。

 

「――んで、『発』。実際に動く、だ」

 

 はじめも真剣な顔で顔を上げる。

 

「それ、明日からも毎日やるの?」

「ああ」

「念の基礎の練習の方も?」

「当たり前だろ。自分だけの能力なんか、これから先いつでも後から作れる。だが、毎日の基礎をサボったら、その上の全部が弱くなるぞ」

「「はいっ!」」

 

 らでんとはじめの返事が、もう一度まっすぐに重なった。

 

 ジンさんがそのまま廊下へ出て、宿舎の外へと歩き出す。

 らでんは反射的に床を蹴って、その背中を小走りに追いかけた。

 

「あ、待ってください、ジンさん!」

「なんだよ、まだなんかあんのか」

 

 外の空気の中で立ち止まったジンさんに、聞きたいことはまだ山ほどあった。

 けれど、いざその背中を目の前にした今、らでんの口から飛び出したのはたった一つだけだった。

 

「あの……っ、私、ちゃんと『文化財ハンター』になれますか!?」

 

 ジンさんが足を止め、肩越しにぐるりとこちらを振り返った。

 

「ああん? お前、もうなってるだろ」

「……え?」

「ここでちゃんと一個、最後まで仕事やったじゃねえか。なら、次もまた同じようにやりゃいいだけだ」

 

 それは、昨日まで自分たちが必死で追いかけた《渡り灯》の仕事のことだった。

 胸の奥がぶわっと熱くなって、らでんは次の言葉をすぐには返せないまま、歩き出したジンさんの背中を見送った。

 すぐ横へ追いついてきたはじめが、自分の肘でらでんの脇腹をこつんと軽くつつく。

 

「ねえ、今のってさ、ジンに褒められたんじゃない?」

「……うん、たぶん」

「へへ、すっごくよかったじゃん!」

「……うん、たぶんね!」

 

 照れくさくて頬を掻きながら笑ったところで、少し先を歩いていたジンさんがぐるりと振り返った。

 

「おいお前ら、遅えぞ!」

「あ、すみません、今行きますっ!!」

 

 はじめが明るく笑い、二人は並んでジンさんの背中を追いかけた。

 

 この三か月で、山の歩き方も、文化財の調べ方も、念の基礎も、《渡り灯》のことも、身体の使い方も、本当にたくさんのことを覚えた。けれど、自分たちがこれから先どんなハンターになっていくのかは、まだはっきりとは決まっていない。

 でも、今はそれでいいのだと思った。二人だけの『発』には、まだ名前すらついていない。

 それが決まるのは、きっともう少しだけ先の話だった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ――そして翌朝。目を覚まして隣の部屋を見に行くと、ジンさんの使っていた布団も荷物も、もう跡形もなく綺麗になくなっていた。

 昨夜まで確かに人がいたはずの部屋の真ん中には、低い机の上に、メモ帳を破った小さな紙切れが一枚だけぽつんと残っている。

 

 『先行く』

 

 らでんはそのあんまりな三文字の紙をつまみ上げたまま、しばらくその場から動けなかった。

 すぐ後ろから、眠そうな目をこすりながらはじめがひょいと紙を覗き込む。

 

「あれ、それジン?」

「うん……」

「もう一人で帰っちゃったの?」

「たぶん、朝のうちに」

「えー、お別れの挨拶、ほんとにこれだけ?」

「これだけみたい」

 

 はじめは紙切れの三文字をじっと見つめて、ほんの少しだけ首をひねって考えた。

 

「……うん、すっごくジンっぽいね!」

「ちょっと、そこで素直に納得したくないんだけど!」

 

 思わず声を上げて紙切れをくるりと裏返すと、その裏側の隅っこに、さらに小さな文字で『基礎サボんな』とだけ走り書きしてあった。

 

「うわあ、裏に書くスペースがあるなら、もっとちゃんとなにか書けるでしょ!?」

 

 隣ではじめが「あははっ!」とお腹を抱えて笑う。わざわざ裏返させた先まで極端に短いのが、本当に最後までジンさんらしかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 宿舎の外へ出ると、そこにはこの三か月ですっかり見慣れた西里の山の朝が広がっていた。

 一番最初にカルドさんの車でやって来た時は、ただの知らない調査地に見えていた尾根も沢も、今は十二の型の一つ一つの足運びや呼吸としっかり結びついて見える。

 あの高い峠の向こうには、平石の『十三番目』がある。けれど、この村での自分たちの最初の仕事は、もうちゃんと終わったのだ。

 

 迎えに来てくれたカルドさんの車の荷台へ二人分の大きな鞄を積み込み、らでんとはじめは忘れ物がないか最後にもう一度だけ宿舎の部屋を確かめた。

 

 車に乗る前、朝の村の道を最後に歩くと、公民館の前でハクさんとサエさんとヨウさんの三人が揃って見送りに出てきてくれていた。

 ハクさんが一歩前へ出て、らでんのすぐ前に立つ。

 

「らでんちゃん」

「はい!」

「お前さん、またこの村に来るか?」

 

 らでんは顔を上げて、少しだけ笑った。

 

「はい、来ます! 《渡り灯》の周りの調査は、これからもまだ続きますから」

「なんだ、仕事でしか来んのか?」

 

 ハクさんに目を細めて聞き返され、らでんは一瞬だけ言葉に詰まった。

 それから、少し照れくさくなって肩をすくめる。

 

「……ううん、仕事じゃなくても、また遊びに来ます!」

 

 その返事に、ハクさんの皺の深い顔がふっと嬉しそうに緩んだ。

 

「おう、そうか。なら、いつでも気軽に立ち寄ってくれたらいいでな」

 

 すると今度は、隣のサエさんの視線がはじめの方へと移った。

 

「なんだい、はじめちゃん。帰る前に、もう一回ここで踊っていかんのかい?」

 

 声をかけられたはじめは、足元に自分の手荷物を置くと、その場で最初の一歩――『灯を抱け』の構えだけを、すっと静かに踏んでみせた。曲げる膝の角度と、深く落とす呼吸とが、もう何の迷いもなく自然にぴたりと合っている。

 そのまま続きを待つサエさんに向かって、はじめはいたずらっぽくにっこり笑いかけた。

 

「続きはね、今度またここに来た時に、最初から最後まで全部やるよ!」

「ふふ、そうかい。じゃあ、それまでしっかり楽しみにしてるわ」

 

 三か月かけて山と人とから教わった動きは、もう紙の記録の上だけでなく、確かにはじめ自身の身体の中に生きている。

 らでんは隣で、その力強い一歩を誇らしい気持ちで見守った。

 今のはじめにはもう、自分がどうして踊るのか、その理由を誰かに教わる必要なんてどこにもないのだ。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 山を下りる帰りの車の中では、いつもなら一番にしゃべりだすはずのはじめが、窓の外を流れる景色をじっと見たまま珍しく黙り込んでいた。

 普段の二人なら、「次はどこを調べようか」とか「今日の夜ご飯はなにを食べようか」なんて話が、頼まなくても勝手に始まるのに。

 その明るい声がいつまで経っても聞こえないので、らでんは隣の席からそっとはじめの横顔を窺った。

 

「……ねえ、はじめ。もしかして疲れちゃった?」

「ううん、全然」

「じゃあ、どうしたの?」

「んー、今ね、ちょっと考えてる」

「ええっ、はじめが黙って考え事なんて珍しいね」

「ちょっとらでん、それすっごく失礼なんだけど!」

 

 ぷっと頬を膨らませるはじめに笑っていると、車が山のカーブで揺れ、緑の深い山並みが窓の向こうをゆっくりと流れていった。

 しばらくして、はじめが窓から顔を離し、まっすぐらでんの方を向いた。

 

「ねえ、らでん」

「なに?」

 

 はじめは一度何か言いかけて口を開き、少しだけ照れたようにまた窓の向こうへと目を戻した。

 

「うちさ、これから行ってみたい場所ができたんだよね」

「え、どこ?」

「いっぱい」

「いっぱいって、どれくらい?」

 

 はじめは窓ガラスの向こうに広がる遠い空を、自分の人差し指で大きく指し示した。

 

「世界中、いろんなところを全部まわってみたい!」

「せ、世界中!? 急にスケールがでかっ!」

 

 目を丸くするらでんを見て、はじめが「へへっ」と嬉しそうに笑った。

 

「だってさ、今回のこの村の仕事、うちすっごく面白かったんだもん」

「えっ、古い文化財を調べるのが?」

「うん、もちろんそれも面白かったけど――」

 

 はじめはそこで言葉を切ると、膝の上に置いた自分の両手をじっと見つめて、少しだけ言葉を探すように考えた。

 

「――やっぱり、一番は『踊り』かな」

 

 らでんは何も言わず、黙ってその続きを待った。

 

「らでんも知ってる通り、うちはもともと踊るのが大好きだったじゃん?」

「うん、知ってるよ」

「でもさ、ここに来るまでは、ただ『自分が体を動かすのが楽しいから、好きだから踊る』っていう、ほんとにそれだけだったんだよね」

 

 車の窓の外を、見慣れた山の木々が後ろへと流れていく。

 

「だけど今回、らでんと一緒にあの十二の型をやってみてさ、踊りってこんなに色んな昔の人のことをそのまま残せるんだって、生まれて初めて知ったんだ。昔の人の山の歩き方も、苦しい時の息の仕方も、どんな山でどんな仕事をしてたかも、大事なものを次の誰かに渡す気持ちも――紙に書いてなくても、全部あの動きの中にちゃんと入ってた」

 

 はじめは、見つめていた自分の両手をぎゅっと強く握り直した。

 

「それってさ、なんか、すっごくすげえなって思ったんだ」

 

 飾り気のないまっすぐな言葉に、らでんも自然と顔がほころんだ。

 

「うん。ほんとにすごかったよね」

「だからさ、らでん。世界中にはきっと、今回の『灯継ぎの舞』みたいなやつが、他にもいっぱいあるんでしょ?」

「こういうのって、どういう踊りのこと?」

「だから、ただ綺麗なだけじゃない、いろんな意味が入ってる踊りだよ!」

 

 はじめはさっきのジンさんみたいに、自分の指を一本ずつ折りながら夢中で並べ始めた。

 

「村のお祭りの踊りでしょ、神様に祈るやつ、誰かと戦う前のやつ、遠くへ行く誰かを送るやつ、お祝いの時とか、お葬式の時とか、仕事の動きからできたやつ、雨を呼ぶやつ、海の近くで踊るやつ、それから昔の王様の前でだけ踊るやつとか!」

「あはは、うん、あるよ! 世界中にそれこそ数えきれないくらいいっぱいある!」

 

 らでんが頷くと、はじめの目がぱあっと眩しいくらいに輝いた。

 

「うち、それ全部自分の目で見てみたい」

 

 そして一拍置いてから、はじめはもっと強い声で言い直した。

 

「――ううん、見るだけじゃなくて、自分の身体で全部踊ってみたい!」

 

 それは間違いなく、自分がこれから一番見たいものをはっきりと見つけた人の顔だった。

 隣でその横顔を見つめていたらでんの胸に、ほんの少しだけチクリと寂しい気持ちが刺さって、でも次の瞬間には、それよりもずっと大きな嬉しい気持ちがふわっと広がった。

 

「そっか。じゃあ、はじめはそこへ行けばいいんだよ」

 

 らでんが背中を押すように言うと、はじめは自分自身に言い聞かせるみたいにこくんと大きく頷いた。

 

「うん。だってうちら、もうプロのハンターなんだから、どこへだって行けるもんね」

 

 それから、ぱっとらでんの方へ向き直って、いつもの明るい笑顔を見せた。

 

「だよね、らでん!」

「うん、もちろん!」

 

 少しだけ間を置いて、今度ははじめが首を傾げてこちらを覗き込んだ。

 

「でさ、らでんの方はどうするの?」

「え、私?」

「うん、らでんの『次』の仕事!」

 

 この村での《渡り灯》の調査は、昨日で一区切りついた。

 けれど、一つ古いものの来歴を追いかけ終えてみたら、ここへ来る前よりも、世の中の「まだ知らないこと」が何倍にも増えてしまっていたのだ。

 

「私はね、次にどこへ行くかはまだ一つに決めてないんだ」

「ええっ、そうなの? でも――」

 

 らでんは肩掛け鞄から自分の調査ノートを取り出し、後ろの方のページをぱらりと開いて見せた。

 これから行ってみたい場所、自分の目で見てみたい古い物、話を聞いてみたい人たちのメモ。山へ来た時には真っ白だったはずのページが、この三か月の間に書き留めた文字でもう隙間なくびっしり埋まっている。

 

「ほら、やりたいことと調べたいことは、もうこんなにいっぱいあるから!」

「うわ、文字が多っ!」

「ふふっ、でしょ?」

 

 二人で頭をくっつけてノートを覗き込んでいる間にも、カルドさんの車は山道を抜け、麓の町の駅へと近づいていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 町の駅でカルドさんにお礼を言って別れ、二人は窓口でそれぞれの切符を買って、一度荷物を下ろしてから売店で飲み物を選んだ。

 はじめは冷たい甘いジュース、らでんは温かいお茶。

 そこまでは、この三か月の旅の間、毎日繰り返してきたのとまったく同じいつも通りの光景だった。

 

 けれど、改札の上の案内掲示板を見上げると、そこには『南方面 二番線』『東方面 四番線』という文字が並んで光っている。

 これから、はじめは南の町へ、らでんは東の町へと向かう。

 並んだ二つの数字を目にした時、ああ、本当にここから別々の列車に乗るんだ、ということが初めてはっきりと胸に落ちてきた。

 

「……じゃあさ」

 

 飲み物の缶を持ったまま、はじめが階段の先の『二番線』の看板を指差した。

 

「うち、こっちの二番線だから」

「うん。私は、あっちの四番線」

 

 らでんは反対側の『四番線』の案内を見た。

 たった二つ数字が違うだけなのに、もう同じホームに並んで立つことはできない。

 あの過酷なハンター試験も一緒で、合格した瞬間も一緒で、この村での初仕事も一緒で、ジンさんにしごかれた念の修行も全部一緒だった。

 この三か月間、朝起きて目を開ければすぐ隣にはじめがいた。それが今日、この駅の二番線と四番線で、別々の道へ分かれる。

 

「……じゃあ、もうホーム行く?」

「うん、行こっか」

 

 そう言い合ったのに、二人とも靴の裏が床に張りついたみたいに一歩も動かなかった。口先だけが勝手に先へ進む。

 

「……あれ、なに? 行かないの?」

「そっちこそ、動いてないじゃん」

「らでんの方こそ、先に四番線へ行けばいいじゃん」

「なによ、はじめが先に『じゃあ』って言い出したんでしょ」

「……じゃあさ、じゃんけんで決める?」

「なんのじゃんけんだよ!?」

 

 思わず声を揃えて吹き出すと、張りつめていた足の力がほんの少しだけ軽くなった。

 結局らでんは、自分の四番線へは向かわず、はじめの後ろについて一緒に二番線のホームまで階段を上がった。

 

「ねえ、らでんの四番線の列車、時間はちゃんと間に合うの?」

「うん、私のやつはこっちよりまだ二十分くらいあとだから平気」

「そっか、じゃあまだここにいてもいいか」

 

 二番線のホームの真ん中にある木製のベンチに、二人で並んで腰を下ろした。

 この三か月、山の中でも宿舎の布団の中でも、二人でいて話すことがなくなった瞬間なんて一度もなかったのに、いざこうしてベンチに並ぶと、今さらなにを話せばいいのか分からなくなってしまう。

 ベンチの下で、はじめの靴先がぶらぶらと前後に揺れている。らでんは膝の上に乗せた自分の鞄の持ち手を、何度もぎゅっと握り直した。

 荷物の忘れ物も、切符の時間もさっき全部確認したはずなのに、指先だけがどうしても落ち着かなかった。

 

 やがて、揺れていたはじめの足がぴたりと止まった。

 

「……ねえ、らでん。今回さ、うちをこの村の仕事に一緒に連れてきてくれて、ほんとによかったよ。最初は文化財のことなんて全然分かんなかったし、念のこともなんにも分かんなかったけど……でも、らでんと一緒にここに来て、すっごくよかった」

「……うん、私もだよ。もし今回の仕事に、はじめが一緒にいてくれなかったら――」

 

 らでんは、そこまで言って言葉を切った。

 本当は、お礼を言いたいことは胸の中に数えきれないほどいっぱいあったのだ。

 三次試験の崖で迷わず手を伸ばしてくれたこと。古い道具に残った身体の痕跡を一緒に見つけてくれたこと。バラバラだった十二の型を自分の身体で繋いでくれたこと。峠の石の上で十三番目の向きに気づいたこと。そして、この村から消えかけていた舞をもう一度取り戻してくれたこと。

 けれど、それを一つずつ言葉にして数え始めたら、きっとここで止まらなくなってしまうから、そこから先は言わなかった。

 それに、仕事を手伝ってくれたことももちろんすごかったけれど、なによりも、この三か月間はじめと毎日一緒に笑って過ごした時間そのものが、らでんにはたまらなく楽しかったのだ。

 自分がずっと欲しかったものは、試験の最初から、もうすぐ隣にいてくれた。

 

「――もしはじめがいなかったら、たぶんあの《渡り灯》のこと、半分くらいしか分かんないまま終わってたよ」

「えー、半分だけ?」

「……じゃあ、私が一人で分かったのは三割くらい」

「おっ、うちのおかげの分がさっきより増えた!」

「じゃあ、やっぱり四割にしとく」

「あれ、そしたららでんの分が増えて、うちの分が減ってるじゃん!」

 

 どっちの割合が増えたの減ったので言い合いになって、二人はベンチの上で顔を見合わせて笑った。

 笑っている間にも、駅のスピーカーから、南方面行きの列車がまもなく到着することを告げる放送が流れ始めた。

 

 ふっと笑いが止まり、はじめが自分の大きな荷物を持ってベンチから立ち上がる。らでんもすぐ隣で立ち上がった。

 

「……じゃあね、らでん」

「うん」

 

 ホームの向こうから列車のライトが近づいてくる。今度こそ、この言葉の先にいつもの「また明日」の続きはない。

 すると、列車へ向かいかけたはじめがくるりと振り返って、もう一度名前を呼んだ。

 

「らでん!」

「なに?」

「次にまた会った時さ、うち、今よりもっとすごい踊りいっぱい踊れるようになってるから!」

 

 まっすぐなその宣言に、らでんは少しだけ目を細めて笑った。

 

「そっか。じゃあ、私は――」

 

 自分も負けないようにどんな約束を返そうかと考えている間に、目の前のはじめがにやっと笑って先回りした。

 

「『今よりもっとちゃんとした文化財ハンターになってる』とか?」

「……っ、なによ、今まさにそれを言おうとしたのに!」

「あはは、だってそれ、昨日のジンに『もうなってるだろ』って言われてたじゃん!」

 

 昨日の夕方、宿舎の外でジンさんに言われた一言が蘇って、らでんは耳の奥が少し熱くなった。

 

「っ、じゃあ言い直す! 次に会う時までに、今よりもっと『すごい文化財ハンター』になってるから!」

「うん、それならすっごく分かりやすい!」

 

 到着した列車の扉がプシューと音を立てて開き、はじめが車内へ一歩乗り込んでから、すぐにもう一度こちらを振り返った。

 

「らでん」

「なに?」

「……また」

 

 はじめが最後の一言を探すみたいに少しだけ瞬きをする間、らでんはホームに立ってじっと待った。二人の目がまっすぐに合う。

 

「またね!」

「――うん、またね!」

 

 その短い言葉の他に、もう足すものはなにもなかった。

 

 列車の扉が閉まり、ガタンと車体がゆっくり動き出す。

 ガラス窓の向こうからはじめがぶんぶんと大きく手を振り、らでんも自分の腕を高く上げて振り返した。窓の向こうでは、いつもの変わらないはじめが笑っている。

 少しずつ速度を上げて列車が遠ざかっていく。ホームの端へ向かって最後まで手を振っていると、遠ざかる列車の窓がガタッと開いて、そこからひょいと顔を出したはじめがホームいっぱいに響く大声で叫んだ。

 

「らでーんっ!!」

「なにーっ!?」

「うち、らでんも知らない世界中の踊り、いっぱい持って帰るからなーっ!!」

 

 距離が遠くなった分だけ、はじめの声が風に乗って大きく響く。

 らでんも大きく笑って、周りの目も気にせずお腹の底から精一杯の声を出した。

 

「じゃあ私はーっ! はじめがまだ見たこともない昔のすごいもの、いっぱい見つけとくからねーっ!!」

「ぜったい約束だからなーっ!!」

「うん、約束ーっ!!」

 

 らでんが返した声を追いかけるように、列車が線路のカーブを大きく曲がり、開いた窓もはじめの姿も見えなくなった。ガタゴトという走行音も、少しずつ山の向こうへと遠ざかっていく。

 

 上げていた自分の右手をゆっくりと下ろすと、昼間の駅のホームが、急にがらんとしてびっくりするくらい広く感じられた。

 この三か月、歩けば必ずすぐ隣にあったはずの足音も、明るい笑い声も、「らでん」と呼ぶあの声も、もうどこにもない。

 

「……ねえ、あのさ」

 

 ふと思いついたことを口にしかけて、すぐ隣に返事をしてくれる相手がいないことに気がついた。

 今自分が言いかけたのは、きっと「さっきのお茶がまだ温かいよ」とか、そんな本当にどうでもいい何でもない話だ。それなのに、その何でもない一言を渡す相手が隣にいないことが、なによりも一番寂しかった。

 

「……そっか。もう、ここにはいないんだ」

 

 ぽつりと呟いた途端、目の奥が急にツンと熱くなって、らでんは慌てて鼻をすすった。

 

「い、いや、べつにこれで一生会えなくなるわけじゃないんだし……っ」

 

 誰に聞かせるでもなく一人で強がったその瞬間、こらえきれなかった涙の粒がぽろりと頬を伝って落ちた。らでんは自分の袖口で慌てて目元をごしごしと拭う。

 

「なんで、今になって泣くんだよ、私……」

 

 あの苦しいハンター試験が終わった時だって、昨日ジンさんに裏試験の合格を言い渡された時だって、《渡り灯》の仕事が全部終わった時だって、一度も泣いたりしなかったのに。

 ただ二番線から列車が一本出ていっただけで、こんなふうに涙が溢れてくるなんて思わなかった。

 

 自分の乗る四番線の列車が来るまでは、まだ十五分もある。

 さっきまで二人で座っていたベンチにもう一度ぽつんと腰を下ろすと、自分のすぐ隣の場所がぽっかりと空いていた。

 この三か月間、いつもそこにはじめが座っていたという当たり前の事実が、今になって急にずっしりと重たく胸にのしかかってくる。

 ふと、ハンター試験の三次試験で、崖の途中で二人が初めてちゃんとぶつかった時のことが思い出された。あの時、はじめが勝手に仲間のつもりみたいなことを言って、らでんはそれを素直に受け取れなかったのだ。

 あとになってからはじめに『今、らでんの中でうちのこと重くしたでしょ!』なんて笑われたことまで鮮やかに蘇ってきて、涙の残る目で少しだけ吹き出してしまう。

 

「……ほんと、今の私の中のはじめ、めちゃくちゃ重くなってるじゃん」

 

 はじめは、はじめが自分で行きたいと思った世界中の場所へ行く。そしてらでんも、自分が本当に行きたいと思った場所へ行く。

 別々の場所へ進んでいっても、それでも二人はずっと仲間だということだった。

 初めてできた友達。いや、もうただの友達なんかじゃない、かけがえのない『親友』だ。

 

 その時、ポケットの中で自分の端末がぶるっと震えた。

 取り出して画面を見ると、たった今列車に乗ったばかりのはじめから、短いメッセージが届いていた。

 

『四番線ちゃんと間に合ってる?』

「……なによ、そっちが先に心配するんだ」

 

 鼻をすすりながらくすっと笑って、『まだ二番線のホームにいる』と打ち返す。すると、ほんの数秒ですぐに次の返事が返ってきた。

 

『泣いてる?』

 

 画面の上で、らでんの指先がぴたりと止まった。

 慌てて『泣いてない』とだけ打って送信すると、今度は一秒も経たないうちに返事が来る。

 

『ほんと?』

 

 らでんは意地になって、もう一度『泣いてない』と打ち返した。

 

『写真送って』

『嫌』

『泣いてるじゃん』

「う、うるさいな! 絶対そっちだって今泣いてるくせに!」

 

 誰もいないベンチで画面に向かって声を上げてしまい、ホームの少し先にいた別の乗客がびっくりしたようにこちらを振り返った。らでんは耳まで赤くなって、慌てて首をすくめる。

 

「……ほんとに、かなわないなあ」

 

 画面の文字を見つめたまま、今度こそ少しだけ明るい声で笑った。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 それから数分後、今度は端末に短い動画ファイルが一つ届いた。

 開いてみると、揺れる列車の狭いデッキの通路で、なんと早くもはじめが軽くステップを踏んで踊っている映像だった。

 画面の下には『新しいやつ思いついた』という字幕がついている。カメラに向かってにっと笑っているけれど、よく見ればその目元には、やっぱりうっすらと涙を拭ったみたいな赤い跡が残っていた。

 らでんは吹き出しながら、『揺れてるんだから他の人にぶつからないでね』とメッセージを返した。

 すると、すぐに一行だけ返事が来た。

 

『もうぶつかった』

「ほんっとに……あの人は一人でなにやってんのよ」

 

 呆れて肩を落としながらも、胸の奥の冷たい寂しさは、いつの間にか温かいものへと変わっていた。

 寂しさが全部消えたわけじゃないけれど、それでも、もう一人でちゃんと歩けそうだった。

 

 らでんは膝の上の鞄から、使い込んだ調査ノートを取り出して一番最初のページを開いた。

 

 『ハンターになるために足りないもの。体力、持久力、地図、野営、応急処置、荷物、高所』

 

 試験へ行く前に自分で書き出したその項目の上には、今は何本もの達成の横線が引かれている。

 最初は、誰にも頼らずにたった一人でハンターになるために書き始めたノートだった。けれど実際のハンター試験は、決して一人きりでは終わらなかった。

 ページをぱらぱらとめくっていくと、そこには西里の《渡り灯》やシウさん、山越衆、そして『灯継ぎの舞』の記録がびっしりと続いている。

 そのページの欄外には、丸っこいはじめの字で『ここ足こうじゃない?』という乱暴なメモが書き込まれていた。

 らでんはその文字を自分の指先でそっとなぞってみたけれど、もちろん消しゴムで消す理由なんてどこにもない。

 

 さらに別のページをめくると、そこにはジンさんが説明のついでに引っ張った雑な鉛筆の線も残っている。

 いつの間にかこのノートは、自分一人だけのノートではなくなっていたのだ。

 

 らでんはまだ何も書かれていない新しい白紙のページを開き、一番上にペンを走らせた。

 

 『文化財ハンターとして、次に見たいもの』

 

 そこまで書いてから、頭に浮かぶ候補があまりにも多すぎてペン先が止まった。少し考えて、まずは一言だけ大きく書く。

 

 『知らないもの』

 

 そしてそのすぐ下に、もう一行だけ書き足した。

 

 『次にはじめに話したくなるもの』

 

 自分の手で書いてしまってから、らでんはノートを前にぴたりと固まった。

 

「…………っ、恥ず」

 

 あんまり気恥ずかしくて、無意識に「ちょっとはじめ」と隣を呼びそうになってから、いないんだった、と自分で口を押さえる。

 一度は線を引いて消してしまおうかと思ったけれど、結局そのまま、少し耳を赤くしたままでノートを閉じた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 やがて四番線にやって来た東行きの列車に乗り込むと、らでんのすぐ隣の窓際の席は、当然だけれど空いていた。

 荷物を網棚に上げて座り、また癖で隣へ声をかけそうになってやめて、ひとりでくすっと笑う。

 動き出した列車の窓の外では、三か月を過ごした西里の緑の山が少しずつ後ろへと遠ざかっていく。

 あの《渡り灯》は今、州立文化資料保存センターの静かな部屋で、エルナさんたち専門家の人たちが大切に調べているところだ。

 

 西里の村には調査報告書と写真と歌の録音が残り、山の向こうのお寺には古い帳面が残った。

 シウさんの名前も、復元案として撮影した舞の映像も、子守歌もちゃんと残る。そしてなにより、南へ向かったはじめの身体の中には、三か月かけて覚えたあの確かな動きが生きている。

 全部を無理に一つの同じ場所に閉じ込めて置かなくても、大事なものを消さずに残し、繋いでいくやり方はちゃんとあったのだ。

 

 山を渡る灯が場所を移しながら次へと繋がっていったように、自分とはじめだって、こうして別々の離れた場所にいたままちゃんと繋がっていられる。

 ポケットの中で端末が小さく震え、画面を見ると、はじめから『そっちの町に着いたら連絡して』と届いていた。

 らでんはすぐに指を動かして、『わかった。そっちもね』と打ち返す。

 

 新米の文化財ハンターとしての最初の仕事と、最初の相棒と一緒に歩いた旅は、今日ここで一区切りだ。

 三か月間ずっと一緒にいたからこそ、今の二人は、胸を張って別々の場所へと歩いていける。

 次にどこかの街でまた会う時には、お互い相手に向かって真っ先に話したくなるような面白いものが、きっと抱えきれないくらい増えているはずだ。

 列車の窓の向こうには、まだらでんが一度も見たことのない新しい景色がどこまでも広がっていた。

 




【登場人物・念能力の設定資料】
本作に登場する人物や念能力の設定をまとめた資料サイト『人物と念の蒐集帖』を公開しています。
https://sekai-shushu-cho.pages.dev/#/chapter/nen-training
※ネタバレ注意:各章の終盤までの情報が含まれます。未読の章を閲覧する際はご注意ください。
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