机の上に透明なグラスがあった。
水は縁ぎりぎりまで入り、表面がかすかに張っている。
その上に葉が一枚、動かずに浮いていた。
見慣れない組み合わせに、はじめが身を乗り出す。
「これで、何が分かるの?」
「系統」
「系統?」
ジンは椅子に後ろ向きに座ったまま、紙に六角形を描いた。
上の頂点に《強化》隣に《変化》と《放出》
さらに《具現化》と《操作》下の頂点に《特質》と書く。
二人は描かれる順に目で追った。
紙を覗き込んだはじめが声を上げた。
「いっぱいある」
らでんは六角形を指でなぞる。
「これ、何が違うんです?」
「得意なこと」
ジンは上の頂点を差し締めながら言う。
「強化は、物とか自分とか、元々あるもんを強くする」
ジンの指が隣の頂点へ移る。
「変化はオーラの性質を変える。放出は身体から離して使う」
操作と具現化にも指を進める。
「操作は動かす、操る。具現化はオーラを物として形にする」
最後に、六角形の下を指した。
「特質は、それ以外」
「最後だけ雑!」
「実際、そういう分類だ」
はじめは紙を自分の方へ回した。
「じゃ、強化の人は強化しかできない?」
「違う。自分の系統が一番覚えやすくて、近いとこも比較的やりやすい。遠いほど大変だ」
ジンの指が六角形の辺を滑った。
「じゃあ、能力作る時、自分の系統を知ってた方がいい?」
ジンは頷き、何かを思い出したように笑った。
「自分に合わねえことを無理してやって時間潰す奴もいる」
「もったいない」
「そうだ」
らでんがグラスを見る。
「水見式はどうやるんです?」
「手をかざして練」
「それだけ?」
「それだけ」
「結果は?」
ジンは指を折りながら並べた。
「強化なら水量、変化なら味、放出は色、操作は葉、具現化は水ん中に何か出る」
折る指が、そのまま系統の数だった。
「特質は?」
「それ以外」
「やっぱり雑!」
ジンが二人を見る。
「先に言っとくぞ。これで系統が分かったからって、今日、必殺技を作るとか考えるな」
「何で?」
「早すぎる」
はじめへの返事に、らでんは少し驚いた。
勝手に作ってみろ、くらい言いそうなジンが、先に止めた。
「お前ら、まだ十二だろ」
「はい」
「何十年使うか分かんねえ能力を、三か月念を触っただけで決めんな」
はじめが六角形の紙を見下ろす。
「でも、試験で発やるって」
「発が何なのかはこれから自分で探せ」
ジンは自分を指した。
「オーラをどう使うか、そこに本人の考えや経験、得意不得意、性格、そういうもんが出てくる」
らでんも紙へ目を戻した。
「じゃあ、能力って教えてもらうものじゃない?」
「俺がお前の能力を決めたら、それ、俺の能力だろ」
「……確かに」
横からはじめが身を寄せる。
「じゃ、自分で?」
「ああ」
「いつ?」
「決まった時」
「いつ決まる?」
「知らん」
「役に立たない!」
ジンは笑った。
「だから、今は自分がどっち向いてるか見とけ」
グラスは一つしかなかった。
はじめへ顎を向ける。
「先」
「うち?」
「ああ」
席に着き、グラスに触れないくらいまで両手を近づける。
纏から練へ。三か月、毎日繰り返してきたことだ。
最初は五秒しか続かなかったが、今ならもっと保てる。
「出しすぎんな」
「何で?」
「机が濡れる」
「そこ!?」
らでんは思わず声を上げた。
はじめが呼吸を整えてオーラを増やす。短く凝で確かめると、三か月前よりずっと安定していた。
ジンと比べればまだ薄い。それでも、揺れていた輪郭が崩れずに続いている。
水面は変わらなかった。一秒、二秒。ぴく、と葉が揺れる。
「動いた?」
「水」
ジンに促されて視線を下げた。縁ぎりぎりだった水面がさらに盛り上がり、一滴こぼれる。
その動きに押され、葉が揺れていた。
「増えた!」
はじめが目を開く。
水がグラスの側面を伝ったところで、ジンの声がかかった。
「もういい」
練を止めても、水滴は机へ広がった。
はじめは濡れた天板とジンの顔を見比べる。
「何、何系?」
「見りゃ分かるだろ」
「言って!」
「強化」
拳を握る。
「強そう」
「感想が、はじめすぎる」
らでんが吹き出すと、ジンも頷いた。
「まあ、お前らしいな」
「何で?」
「身体を使う方が早くて、考えて覚えるより動いて覚える。やることが決まると真っ直ぐ」
ここ三か月の覚え方、そのままだった。
「強化っぽい?」
「俺の勝手な感想」
はじめが机を拭きながら聞いた。
「じゃ、発のためにうち何すればいい?」
「身体、動かして鍛えろ」
「それだけ?」
「ああ。無理して作るな」
はじめの口が少し尖った。
「体動かして、踊りたいんだろ」
拭いていた手が止まる。
「うん」
「じゃ、踊れ。身体を使って何が楽しいか、何が得意か、もっと分かってから決めりゃいい」
はじめはジンを見た。
少し考え、それから笑った。
「分かった」
横から見ていたらでんにも、今までの姿が重なった。
今の説明だと、はじめが強化系なのは、すごく納得できる。
ジンがグラスを交換し、新しい水と葉を用意した。
「次」
らでんは席に着いた。水を見ると、急に緊張してくる。
横からはじめが顔を寄せた。
「何系だと思う?」
「分かんない」
「具現化とか?」
「何で」
「物好きだから」
「雑!」
「やれ」
ジンの一言に、らでんはグラスへ向き直った。
呼吸を整え、纏から練へ移す。三か月前は全然出なかったオーラも、大きくはないが崩れなくなっていた。
今日は凝をせず、水を見る。
一秒、二秒、三秒。何も起きない。はじめも首を傾げた。
少し練を強める。
五秒過ぎても水量も色も変わらず、葉は動かず、水中に何も出なかった。
「……失敗?」
「続けろ」
十秒過ぎたところで、葉でも水でもないところが変わった。
グラスの内側、水面のすぐ下に薄い線がある。
新しい水と葉に替えたばかりだ。汚れがつくはずもない。
「……え?」
一本、二本と線が増えた。引っ掻き傷に似ているが、集まると模様にも見える。
はじめが顔を近づけた。
「何これ」
「触んな」
線は古い木目のようだった。
一瞬、グラス全体へ広がり、新品の表面に何十年も使われたような摩耗の跡が浮く。
らでんの息が止まった。次に見た時には、消えていた。
「……何系?」
はじめの問いに、ジンは答えなかった。
グラスを取って光に透かし、指で擦る。何もない。
「らでん」
「はい」
「もう一回」
もう一度練をしたが、今度は変わらなかった。十秒、二十秒と過ぎる。
「やめろ」
「でも」
「もういい」
ジンは椅子へ戻り、六角形の下に書いた《特質》を指した。
「……特質?」
「すごそう」
「感想がはじめすぎる」
はじめへ突っ込む横で、ジンの指は紙を離れない。
「他の五つどれにも当てはまらねえから特質だ」
らでんはグラスを見た。
「じゃあ、私、物の昔を――」
「やめろ」
「まだ何も言ってない!」
「言おうとしただろ」
「ちょっと!」
ジンが紙をとんと叩いた。
「今の一回で能力を決めんな」
らでんは口を閉じた。
「お前、この三か月で物の来歴を追って、昔の人間を追って、残った痕をずっと見てた。だからそっちに反応したのかもしれねえ」
「じゃあ、それが私の発?」
「違う。まだ勝手に反応しただけ」
ジンの即答に、らでんは少し安心し、少し残念にもなった。
「特質は独特なものが多い。焦って形を決めんな。経験を増やせ。面白いもんをもっと見ろ。そのうち、これしかねえって思う時が来る」
らでんは水を見た。古びて見えたグラスは、もう新品に戻っている。
模様のようなものが浮かび上がっただけで、浮かれてしまった自分がおかしかった。
特質という名前がつけば、自分に何が向いているのかも分かると思っていた。
でも紙の六角形は、その疑問には答えてくれない。
物の来歴を知りたいのか、知らないものに出会うのが好きなのか。
今はどちらも捨てられず、それをどういう能力にしたいのかも、まだ上手く答えられなかった。
はじめが自分の手を見つめたまま、ジンへ顔を向ける。
「じゃ、これで発終わり?」
「説明はな」
「能力、作ってないですけど」
らでんの声に、ジンは首を振った。
「作んなくていい」
「でも、裏試験」
ジンが立ち上がる。
二人を順に見て、指を折った。
「纏は最低限、絶は最低限、練はまだ少ねえけどまあ最低限、凝は使いどころを覚え始めた。発は自分がどこ向いてるか分かった」
一拍置いて、指を下ろす。
「十分」
「……え」
はじめが「じゃ」と言いかけたところで、ジンが少し笑った。
「裏試験、合格」
二人は顔を見合わせた。
覚悟していた次の課題は来ない。
「軽っ!!」
声が重なった。ジンは眉を上げる。
「何が」
「もっと、何か!」
「何」
「試験なんですよ!?」
「終わっただろ」
「証明書とか!」
「ねえよ」
「バッジ」
「ねえ」
「ビーンズさんみたいな説明!」
「自分で調べろ」
求めるたびに返事が短くなる。
らでんが頭を抱えた。
「最後までこれ!!」
はじめは笑いながら拳を握った。
「強化系」
らでんもグラスの水を覗く。
「特質系……」
その横でジンが荷物をまとめ始めた。
らでんは手元を見て固まる。
「……どこ行くんです?」
「次の仕事」
「今!?」
「試験終わったろ」
はじめが身を乗り出した。
「次、いつ来るの?」
「知らね」
「連絡先!」
「知ってんだろ」
「古層板のアカウントしか!」
「十分」
「全然十分じゃない!」
言い合う間も、ジンの手は止まらなかった。
---
扉を開けたところで、ジンが足を止めた。
振り返らないまま声だけよこす。
「方便、やめんなよ」
らでんは少し声を落とした。
「点」
「自分で決める」
「舌」
「言葉にする」
「錬」
「本気でやる」
一拍置いて、ジンが最後を引き取った。
「発、動く」
はじめも顔を上げる。
「毎日?」
「ああ」
「念の方も?」
「当たり前。能力なんか後からでも作れる。基礎をサボったら全部弱くなる」
「はい」
二人の返事が重なった。
ジンが外へ出る。らでんは後を追った。
「待って」
「何」
聞きたいことは山ほどある。
けれど今、口から出たのは一つだけだった。
「私、文化財ハンターになれますか」
ジンが足を止め、肩越しに振り返る。
「もうなってるだろ」
「え」
「一個。次もやりゃいい」
渡り灯のことだ。らでんは言葉を返せず、ジンの背中を見送った。
横へ来たはじめが肘で軽くつつく。
「褒められた?」
「多分」
「よかったじゃん」
「多分ね」
少し先でジンが振り返った。
「遅え!」
「今行きます!!」
はじめが笑い、二人でジンを追った。
三か月で山も文化財も念も灯も身体もたくさん覚えたが、何者になるかはまだ決まっていない。
それでいいと思った。二人の発はまだ名前すらない。
それはもう少し先の話だった。
---
翌朝、ジンの布団も荷物もなくなっていた。
昨夜まで人がいた部屋には、机の上に紙が一枚だけ残っている。
『先行く』
らでんは紙を持ったまま動けなかった。
後ろからはじめが覗き込む。
「ジン?」
「うん」
「帰った?」
「多分」
「挨拶、これ?」
「これ」
はじめは少し考えた。
「ジンっぽい」
「納得したくない」
紙を裏返すと、小さい文字で『基礎サボんな』とあった。
「書くならもっと書けるでしょ!」
はじめが笑う。裏側まで短いのが、いかにもジンだった。
---
外には、三か月で見慣れた山の朝があった。
来た時はただの調査地だった尾根も沢も、今は型の一つ一つと結びついている。
峠の向こうには十三番目がある。けれど、ここでの仕事は終わった。
迎えに来たカルドの車へ荷物を積み、二人は忘れ物がないか部屋を確かめた。
村を最後に歩くと、ハクとサエとヨウが見送ってくれた。ハクがらでんの前に立つ。
「らでんちゃん」
「はい」
「また来るか」
らでんは少し笑った。
「来ます。調査、続きますから」
「仕事で?」
一瞬、返事に詰まる。
「……仕事じゃなくても」
ハクの顔が緩んだ。
「気軽に立ち寄ってくれたらいいでな」
サエの視線がはじめへ移る。
「もう一回踊らんのか」
はじめは荷物を置き、最初の一歩だけ踏んだ。膝と息が自然に合う。
続きを待つサエへ笑いかけた。
「今度来たら、全部やる」
「楽しみにしてるわ」
三か月かけて覚えた動きは、確かに身体の中にあった。
らでんはその短い一歩を見送った。
はじめはもう、踊る理由を誰かに教わる必要がない。
---
帰りの車では、はじめが窓の外を見たまま黙っていた。
いつもなら次の調査や今夜の食事の話が勝手に始まる。
その声が聞こえないので、らでんは横顔を窺った。
「疲れた?」
「ううん」
「じゃあ何」
「考えてる」
「珍しい」
「失礼」
車が揺れ、山並みが窓を流れていく。しばらくして、はじめがこちらを向いた。
「らでん」
「何」
はじめは一度言いかけて、また窓の向こうへ目を戻した。
「行きたいとこ、できた」
「どこ?」
「いっぱい」
「いっぱい?」
窓の向こうを指で示す。
「世界中まわってみたい」
「でかっ!」
はじめが笑った。
「今回、面白かった」
「文化財?」
「それも」
はじめは自分の手を見て、少し考えた。
「踊り」
らでんは黙って続きを待つ。
「うち、踊るの好きだったじゃん」
「うん」
「でも、好きだから踊るだけだった」
窓の外を山が流れた。
「今回、初めて踊りって昔の人のことを残せるんだって知った」
「歩き方、息、山、仕事、誰かに渡すこと、全部身体に入ってた」
はじめは見つめていた手を握り直した。
「なんか、すげえなって」
らでんも笑った。
「うん」
「他にもあるんでしょ、こういうの」
「何が?」
「こういうの」
はじめは指を折りながら並べた。
「祭りの踊り、祈るやつ、戦うやつ、誰か送るやつ、祝い、葬式、仕事、雨、海、王様の前で踊るやつとか」
「あるよ、いっぱい」
はじめの目が少し輝いた。
「見たい」
一拍置いて、はじめは言い直した。
「踊りたい」
それは見たいものを見つけた顔だった。
らでんは少しだけ寂しくて、それより嬉しかった。
「じゃあ、行けばいい」
はじめは自分に言い聞かせるように頷いた。
「ハンターなんだから」
それから、らでんにも笑ってみせた。
「だよね」
少し間を置いて、はじめがこちらを向いた。
「らでんは?」
「私?」
「次」
渡り灯の仕事は終わった。
でも、一つ知ると、前より知らないものが増えていた。
「まだ決めてない」
「え。でも」
らでんはノートを開いた。行きたい場所、見たいもの、聞きたい話。
空いていたはずの頁が、もう埋まっている。
「やること、いっぱい」
「多」
「でしょ」
二人で覗き込む間にも、車は駅へ近づいていた。
---
町の駅で切符を買い、荷物を下ろして飲み物を選んだ。
はじめは甘いもの、らでんはお茶。
そこまではいつも通りだった。
掲示板には『南方面 二番線』『東方面 四番線』とある。
はじめは南へ、らでんは東へ行く。
数字を見て初めて、別々の列車に乗ることがはっきりした。
「じゃ」
はじめが二番線を指す。
「うち、こっち」
「私は、こっち」
らでんは四番線を見た。
たった二つ違うだけなのに、同じホームには立てない。
試験も一緒で、合格も一緒で、初仕事も一緒で、念も一緒だった。
三か月、朝起きれば横にいた。それが二番線と四番線、ここで別れる。
「……行く?」
「うん」
二人とも動かなかった。口だけが先に進む。
「何」
「そっちこそ」
「らでんが先行けば?」
「はじめが先に言ったんでしょ」
「じゃんけん?」
「何の!?」
笑うと少しだけ足が軽くなった。
らでんは結局、はじめと二番線まで歩く。
「四番線、間に合うの?」
「まだ二十分ある」
「じゃ、いいか」
ホームのベンチに二人で座った。
三か月、話題が尽きたことなどなかったのに、今は何を話せばいいか分からない。
はじめの足がベンチの下で揺れる。らでんは鞄の持ち手を握り直した。
荷物も切符も確認済みなのに、指だけが落ち着かなかった。
はじめが揺らしていた足を止める。
「一緒に来てくれたのも、今回、うち文化財全然分かんなかったし、念も分かんなかった。でも、来てよかった」
「私も。はじめがいなかったら」
らでんはそこで言葉を切った。
言いたいことはいっぱいあった。
崖で手を伸ばしてくれたこと、身体の痕跡を見つけたこと、十二の型を繋いだこと、十三番目に気づいたこと、舞を取り戻したこと。
数えると止まらなくなるので先を言わなかった。
それに、それも素敵だけど、はじめと一緒に過ごしたこの時間がとても楽しかった。
欲しかったものは、最初からそこにいた。
「多分、渡り灯、半分くらい分かんないままだった」
「半分?」
「……三割」
「増えた」
「じゃ、四割」
「もっと増えた」
二人で笑った。
分からない分の数え方だけが、どんどん増える。
南方面の列車を告げる放送が流れる。
笑いが止まり、はじめが荷物を持って立つ。らでんも立った。
「じゃ」
「うん」
今度はこの先にいつもの続きがない。はじめが名前を呼ぶ。
「らでん」
「何?」
「次、会った時、うち、もっと踊れるようになってる」
らでんは少し笑った。
「じゃあ、私は」
何を約束しようか考えている間に、はじめが先回りする。
「もっとちゃんとした文化財ハンター?」
「……言おうとした」
「もうなってるじゃん」
昨日のジンの言葉が蘇り、らでんは少し照れた。
「じゃあ、もっとすごい文化財ハンター」
「それ、分かりやすい」
扉が開き、はじめが一歩乗って振り返る。
「らでん」
「何?」
「また」
はじめが言葉を探す間、らでんは待った。目が合う。
「またね」
「うん、またね」
足す言葉はなかった。
扉が閉まり列車が動いた。
はじめが窓から手を振り、らでんも振った。
いつものはじめが笑っていた。
列車が遠ざかる。最後まで手を振っていると、はじめが窓を開けた。
「らでーん!」
「何ー!」
「知らない踊り、いっぱい持って帰るからー!」
遠くなった分だけ声が大きくなる。
らでんも笑って、腹から声を出した。
「じゃあ私は! はじめが知らない昔のもの、いっぱい見つけとくー!」
「約束ー!」
「約束ー!」
返した声を追うように列車が曲がり、窓が見えなくなった。音も遠ざかる。
上げた手を下ろすと、ホームが急に広く感じた。
三か月、隣にあった足音も笑い声も、名前を呼ぶ声もない。
「あのさ」
口を開いてから、返す相手がいないことに気づく。
言いかけたのは、たぶん何でもない話だ。それが一番寂しかった。
「……そっか、いないんだ」
目の奥が熱くなり、鼻をすすった。
「いや、別に会えなくなるわけじゃないし」
強がった途端、涙が一滴落ちる。慌てて拭った。
「何で、今なんだよ」
試験が終わっても、裏試験に合格しても、仕事が終わっても泣かなかった。
なのに列車が一本行っただけで、涙が出た。
自分の列車まではまだ十五分。ベンチに座ると、隣が空いている。
そこにはじめが座っていた三か月が、急に重くなった。
三次試験でのはじめを思い出す。あの時はじめが勝手に言い、らでんは深く受け取らなかった。
後で言われた『今重くした!』まで蘇り、少し笑う。
「ほんと、私の中のはじめが重くなってるじゃん」
はじめは自分の行きたい場所へ行き、らでんも自分の行きたい場所へ行く。
それでも仲間だということだった。
友達、いやもう、親友だ。
端末が震えた。はじめからメッセージがきた。
『四番線ちゃんと間に合ってる?』
「そっちが先に心配するんだ」
吹き出しながら『まだホームにいる』と返す。すぐに返事がきた。
『泣いてる?』
指が止まった。
『泣いてない』と送ると、一秒後には
『ほんと?』
もう一度『泣いてない』と打つ。
『写真送って』
『嫌』
『泣いてるじゃん』
「うるさい!絶対そっちも泣いてるだろ!」
周りの人が振り向き、声を小さくする。
「……ほんと」
ちょっと笑った。
---
動画が届いた。
列車の狭い通路で、はじめがもう踊っている。
字幕は『新しいやつ思いついた』。笑っているけど涙の跡がある。
『人にぶつからないでね』と返した。
すぐに『もうぶつかった』
「ほんっと……何してんの」
寂しさは残ったままだ。
それでも、もう大丈夫だった。
鞄からノートを出して、最初の頁を開いた。
『ハンターになるために足りないもの。体力、持久力、地図、野営、応急処置、荷物、高所』
並んだ項目には線がいくつも引いてある。
一人でハンターになるために書き始めたノートだった。でも試験は、一人では終わらなかった。
頁をめくると、渡り灯やシウ、山越衆、灯継ぎの記録が続く。
欄外には、はじめの字で『ここ足こうじゃない?』
指で触れたが、消す理由などない。
別の頁にはジンの雑な線もある。
いつの間にか、自分だけのノートではなくなっていた。
新しい頁を開き、
『文化財ハンターとして、次に見たいもの』と書く。多すぎてペンが止まった。ようやく
『知らないもの』
その下に、もう一つ。
『次にはじめに話したくなるもの』
書いてから固まる。
「……恥ず」
無意識に「はじめ」と呼びそうになった。
消そうとしたが恥ずかしいまま残した。
---
列車に乗ると、隣の席は空いていた。
はじめを呼びかけてやめ、ひとりで笑う。
窓の外では村の山が遠ざかっていく。《渡り灯》はいま保存センターで専門家が調べている。
村には記録が、山向こうの寺には帳面が残った。
シウの名前も、舞の映像も、歌も残る。はじめの身体には、覚えた動きがある。
同じ場所に置かなくても、残せるものがあった。
灯が場所を移しても繋がるように、はじめとだって離れたまま繋がっていられる。
端末が震え、『着いたら連絡して』と届いた。
すぐに『わかった。そっちもね』と返す。
文化財ハンターとしての最初の仕事と、最初の相棒との旅は、ここで一区切りだ。
一緒にいたから、今は別々の場所へ行ける。
次に会う時には、話したいものがきっと増えている。
窓の向こうには、まだ知らない景色が広がっていた。