第二十四話 ピヨン
十五歳になった。
あの山村で《渡り灯》を預かってから、二年。
背も髪も伸びたが、旅の荷物は減った。
十二歳の頃は、必要そうなものを全部持って歩いていた。
予備の地図も工具も、念の修行に使う小物も。
今はまず、行き先と依頼書を見る。
履いていく靴、水の量、最初に話を聞く相手。
現地で何をするかを考えてから詰めると、鞄には空きができた。
纏も、資料に夢中になるたびに切れるようなものではなくなった。
ジンに『楽しい瞬間に一番油断する』と笑われた頃を思うと、少しは進んだ気がする。
絶を使う場所と時間を選び、練で出せる量を増やす。
凝に夢中で腹や背を空けない。
現場で失敗するたびに、戻ってやり直してきた。
あれから応用技も学んだ。
ただ、周も流も堅も、まだ達人には遠い。
流の遅さも、堅の続かなさも、切り替えの甘さも残っている。
それでも、二年前と同じではなかった。
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この二年間で、仕事は三十一件になった。
焼けた寺院の経典、廃鉱近くの石仏、国外へ売られかけた民具。
協会の記録には、『事故なし・資料紛失なし・途中放棄なし』と並んでいる。
やりたいことをやってきた結果だが、積み上げてみるとそこそこの仕事をこなしてきたのではないだろうか
宿へ戻ると、受付で協会からの封筒を渡された。
封筒の中には、旧修道院で発見された古文書群の調査依頼が入っていた。
真正・年代・出所の確認。
発見点数は 約八百
「……八百」
読み直しても数字は変わらない。
今度は絵の中の品ではなく、現物が八百点もある。
どんな状態で残っているのだろう。
共同調査者の欄へ目を移し、今度は封筒までひっくり返した。
『ハンター協会十二支ん、卯』
自分宛てだった。
依頼書を机へ広げ直す。
真正と年代、出所。
明日、この人と何から確かめるのか、聞きたいことがもういくつもあった。
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翌朝、待ち合わせの駅へは十分前に着いた。
定刻を五分過ぎても、まだ来ない。
らでんは端末と改札を交互に見た。
列車の発車までは余裕があるが、自分の読み違いかと依頼書も開き直す。
「十二支んって……遅刻するんだ……」
「するよ〜」
振り向くと、うさ耳があった。
その下で端末を見ている顔が、依頼書に添えられた写真と一致する。
「儒烏風亭らでん?」
「はい。ピヨンさん、ですよね」
「うん。ごめん遅れて。画像の整理してた。行こ」
返事を待たず、改札へ向かう。
追いついて隣へ並ぶと、ようやくこちらを見た。
「髪メッシュ? 染めてんの?それ」
「第一声それです?」
「さっき名前聞いたじゃん」
「そういう話ではなくてですね」
切符を通したピヨンが、ホームへの階段を指した。
らでんも鞄を掛け直し、あとを追う。
移動中くらいは話を聞けるかと思ったが、席へ着くなり、今度はノートPCが開いた。
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列車が曲がるたび、ピヨンの画面に窓の光が流れた。
古文書の画像が一枚、また一枚と入れ替わっていく。
似た字形が横に並び、その下に数字が増えた。
らでんが一つ読み終わる前に次の画像が開くので、さっきから少しずつ身体が窓側へ傾いている。
「近い」
ピヨンは画面を見たまま言った。
「すみません。でも、今のところ、もう一回だけ」
「どこ」
「同じ文字が並んでたところです。右から三つ目だけ、線の終わりが違いませんでした?」
キーボードを打っていた指が止まり、画像が戻った。
拡大された文字の下端には、細い線が一本突き出している。
「ああ、これ。隣の行が重なってる」
「……ほんとだ」
「だから、まだ分けてる途中」
ピヨンが操作すると、その一文字だけが別の欄へ移った。
先ほどまで綺麗に揃っていた一覧に、ひとつ空きができる。
「これ、全部ソフトで?」
「うん」
「ピヨンさんが作ったんですか?」
「うん」
「八百点分も?」
「画像がある分はね。読めないのまで読めたことにしたら、あとが面倒でしょ」
らでんは画面と、その横顔を見比べた。
共同調査者は、窓側の席で片膝を立てかけ、作業の邪魔になることに気づいて下ろしている。
改札へ急いでいた時も、頭の中ではこの八百点を並べていたのだろうか。
「十二支ん……怖……」
「何が?」
本人には伝わらなかった。
三両編成の列車は市街地を離れ、山あいへ入っていた。
二人がいる二号車は半分ほどの席が埋まっている。
前方では子供が窓に額を寄せ、その隣で母親が弁当の包みを開いていた。
通路を挟んだ席の老人は、膝に置いた帽子ごと眠っている。
らでんは座り直し、鞄を足の間へ収めた。
「十五で、主担当九件か」
急に言われて、ピヨンを見る。
「私の記録も入ってるんです?」
「そりゃ。一緒に仕事するんだし。補助が二十二で、三十一件」
「小さい仕事も入ってますけど」
「苦情も入ってる」
らでんは鞄を直していた手を止めた。
すこしばつの悪そうな顔をしてみる。
「そこまで載せるんですね」
「質問が多すぎるって」
「調査で質問しなかったら、何しに行ってるんですか」
「もう一件は、予定日になっても帰らない」
「……それは、先方に延長のお願いをしてます」
「何日?」
「三日です」
ピヨンが初めて画面から顔を上げた。
「面白かった?」
「すごく」
「なら、いいじゃん」
あっさり言って、また作業に戻る。
拍子抜けしているうちに、画面が文書ではないものへ変わった。
赤と黒の仮面だった。
頬に当たる部分の色が剝げ、下の地が覗いている。
額には、曲がった線を重ねた文様があった。
らでんは口を開きかけ、その文様をもう一度見た。
「それ、少し大きくできます?」
ピヨンが仮面を拡大する。
「知ってる?」
「似たものを、古写真で見たことがあります。二年前に祭礼の聞き取りをした時です。現物は、その土地にも残ってなくて」
「同じやつ?」
「そこまでは。写真の写りも悪かったので、まず比べないと」
額の線だけなら似ている。しかし頬の形までは思い出せない。
写真のどこに写っていたかは覚えているのに、肝心な部分ほど曖昧だった。
「これも修道院から?」
「ううん。別件の押収品。現物は協会側で保管してる。こっちは画像と書類の写し」
画面の端には、絵画や金工品の小さな画像も並んでいた。
品目も形もばらばらだ。
その下の一覧に、偽銘、来歴不明、という言葉が見える。
「私がこっちを調べてたら、取引書類に今から行く修道院の名前が出てきたんだよね」
「文書と一緒にあったものなんですか?」
「そう書いてはない。古くから預かってた品が、正当な持ち主に返されたんだって。その説明に、修道院の昔の役目を持ち出してる」
ピヨンは添付書類の一段落を指した。
古い由緒を説明する文章のあとに、今の取引の日付と署名が続いている。
「昔ここで預かったことがあるから、今の売り手が持ってていい、とはならないですよね」
「そう。途中がない」
らでんはその短い返事のあとも、画面を見ていた。
古い仮面に、古い場所の話が添えられている。
それだけで、目の前の二つがずっと一緒にあったように見えかける。
「今回の文書で、そこが分かるかもしれない?」
「かもしれない。まず現物を見ないと。修道院の調査は、そっちの業者を捕まえるためだけにやる仕事じゃないし」
らでんは自分のノートに、額の文様と、古写真を借りた相手の名前を書いた。
隣で画面が切り替わる。
閉じる直前、備考の欄にある「関係者逃走中」の文字が見えた。
窓の外に細い道路が近づいた。線路と並んで走っている。
林の切れ間を灰色の車が一台通り、線路の先で木々に隠れた。
ピヨンの指が、キーの上で止まった。
「文化財の方は記録見たけど、あんた、ジンに念を習ってたんだよね」
「はい。この二年、基礎はずっと――」
「最初に言っとくわ。巻き込んでごめん」
「ん?」
ノートPCの蓋が閉じた。
ピヨンが窓の先を一瞥する。灰色の車が列車に並走している。
運転席には一人。その隣の窓から、もう一人が黒い銃を構えていた。
丸い照星覆いと、下へ緩く曲がる細い弾倉が見えた。
「伏せて!」
肩を引かれ、らでんは座席の間へ沈んだ。
ほとんど同時に、窓が弾けた。
細かな破片が髪をかすめ、先ほどまで頭のあった場所を通り抜け反対側の窓を叩く。
乾いた音が続き、座席の背に穴が開いた。
らでんの頭を押さえたまま、ピヨンは窓より低い位置に身を寄せた。
並走車の窓から撃ってきた。
外には少なくとも二人いる。
弁当の包みが落ち、前方で子供が泣き出した。
足元では、閉じたPCが座席の下へ滑っていた。
らでんは床についた手を引き、膝を立てる。
全身を覆うオーラを増やし、臨戦体制を取る。
練り上げたオーラを身体の周囲に留める。
全力の『堅』に移った。
銃撃者を探すため、外を見ようと顔を上げかけたところへ、ピヨンの手が戻ってきた。
「顔、出さない。道路側の車に二人いる」
ピヨンはらでんの頭を押さえたまま、窓の下へ身を寄せた。
「一瞬短い銃身と緩く曲がった弾倉が見えた。多分MP5。9mmは凝でも無傷じゃすまないよ」
そのまま前方の乗務員へハンターライセンスを示した。
「停めて。乗客は前の車両へ。窓から離して、線路には降ろさないで」
乗務員が連絡用の受話器を取る。
乗務員の後ろの座席から、男が立ち上がった。
体格のいい大きな男だ。
らでんは即座に目にオーラを集中させる。
『凝』
肩幅が通路を塞ぎ、こちらへ出した両手には、車内の薄い光とは別の濃さがあった。
拳だけではない。前腕まで、分厚くオーラが集まっている。
「鞄、置けよ」
男はピヨンを見ていた。
「人の商売を潰しといて、まだ紙漁りに行く気か」
らでんは足元の鞄を座席の奥へ押し込み、通路へ出た。
後部の出入口にも、もう一人いる。
くすんだ上着の男が片手に幅広の荷締め帯を持ち、垂れた先の金具を床で引きずっていた。
逃げ遅れた乗客ではない。窓が割れたあとも、二人とも腰を落としていなかった。
らでんは二人を見比べる。後ろの男にも、オーラの動きがある。
「外の車は私が見る。あんたは中を」
「わかりましたよ」
ピヨンは眠っていた老人の腕を取り、低い姿勢のまま前へ動かした。
大きな男が拳を振り上げた。
オーラを練り上げ、足を踏み込み突っ込んでくる。
らでんは空いた席へ半歩ずれた。
頬の脇を拳が抜け、肘掛けが潰れる。
布の裂ける音に、逃げていた乗客が振り返った。
「こっちは見なくていいです。前へ!」
男のもう一方の腕が来る。
らでんはその外へ身体を運び、座席の背へ片手を添えた。
二度とも、振り出した拳と前腕だけが厚い。その威力で肘掛けは砕けた。
だが、狙いを決めてから肩が動くまでに一拍あり、踏み直す足へオーラを戻すのも遅い。
(念は使えるけど、未熟)
この男は、殴りたいところを先に見てからオーラが動いている。
動きの初動が分かりやすい。
(次も、拳より先に肩が動く)
列車に制動がかかる。
転がってきた水筒を跨ぎ、らでんは男の左へ入ると見せた。
前腕が追ってくるが、それも遅い。
腕をかわされ、男が引き戻そうとする。らでんはその外へ回り、肩と手首を押さえた。
腕力でねじ伏せず、男が踏み出す勢いを空いた座席へ流す。
膝を折らせ、座面へ腹ばいに伏せさせた。
「……早いな。お前もハンターか」
「動かないで。肩、痛めますよ」
男が顔を上げようとした。
らでんは押さえる位置を変えず、浮きかけた肩だけ戻した。
肘を折る必要はなかった。拳を受ける必要も。
前方から戻ったピヨンが、男の両手を手早く拘束した。
押さえていた腕を引き継いでもらって、らでんは一歩離れる。
自分の手にも服にも、傷はない。
男も息を荒らしているだけだった。
「こっちは見とく。次、後ろ」
ピヨンは拘束を確かめ、男を乗務員に触れさせず通路脇へ寄せた。
また銃声が響く。列車の速度が落ちると、灰色の車も並んだまま減速した。
乗客を前の車両へ通したところで列車が止まり、車も道路脇へ寄せて停止した。
前方のデッキで側扉の開く音がした。
外を確かめたピヨンが、乗務員に何か短く伝えて降りていく。
その姿を追う暇はなかった。
背後の座席に、金具が叩きつけられた。
らでんは振り返るのではなく、まず通路の反対側へ動いた。
さっきまで立っていた場所を帯が横切り、垂れたはずの先が空中で折れ曲がる。
くすんだ上着の男が、拘束された仲間の横を抜けて来ていた。
「連れのハンターがいたのか」
男の目が、らでんの手から足へ動いた。
それから、前方の出口を見た。
「聞いてねえぞ、こんなの」
吐き捨てた言葉ほどには、手は乱れていなかった。
男が握っているのは、荷物を固定する、ごく普通の帯に見える。
けれど金具のついた端は床へ落ちない。
持ち手を振ってもいないのに、座席の背より高く持ち上がり、こちらへ向いていた。
らでんは目へ『凝』を使い、帯に沿うオーラを追った。
男の手から金具まで続いている。今見える範囲では、別のオーラは見つからない。
次の瞬間、金具が飛んだ。
避けた側へ、帯が曲がる。
らでんは腕を戻して払い、座席の間へ身を引いた。
金具は外れたが、帯の縁が袖を擦った。
布に浅い擦れが残っただけで、腕は自由に動く。
拳の男とは違う。
こちらが避けたあとにも、先だけが追ってくる。
見えたのは、男の手から金具まで続くオーラだけ。
系統も、どこまで届くのかも、まだ分からない。
(実物の帯を操っている線が濃い。でも、具現化したものを混ぜていないとは言い切れない)
らでんは足元の水筒を座席の下へ退けた。
踏み込む場所を一つ空け、そのまま男へ近づこうとする。
帯が張り、二人の間を塞いだ。
今度は顔の高さではなく、足を出した先へ回り込んでくる。
手で払うだけでは、先端が戻る方が早い。
らでんは足を止め、空席の肘掛けを挟むように動いた。
帯が引っ掛かり、男が一度それを持ち上げて外す。
少なくとも、何にでもすり抜けて届くわけではない。
男が腕を引いたところで、らでんは距離を詰めた。
伸びきった帯の向こうへ入る。男の上着に手が届きかけた。
ところが男は、後ろへ逃げなかった。
横の席へ身体をずらし、帯を大きくたわませる。
金具がらでんを越え、前の座席に置き去りにされた旅行鞄へ回った。
鞄が跳ねた。前方の扉へ向かう乗客の背に、そのまま飛んでいく。
らでんは差し出していた手を引き、前へ回った。
投げ出された鞄を両腕で受ける。
中身が偏り、思ったより重い。
抱えたまま倒れないように足を開くと、その間に帯が男の手元へ戻っていた。
「来いよ」
男は一列、前へ進んだ。
「俺に用があんだろ」
らでんは鞄を空いた席へ置いた。
前方の扉には、まだ乗務員がいる。
足を打ったらしい乗客の肩を支え、一号車へ移そうとしていた。
通路に落ちた荷物を、別の人がどかしている。
帯の届くところへ、あの人たちを入れたくなかった。
らでんが通路へ戻ると、男は帯を自分の脇へ引いた。
先端が座席の陰へ隠れる。
引いたのではなかった。
背もたれの向こうを這った金具が、前のデッキへ走った。
足を打っていた乗客は、まだ片脚を扉の敷居へ上げられていない。
帯が、その首へ回った。
らでんは飛びつき、締まる前の隙間へ右腕を差し入れた。
金具が前腕を打つ。
痛みと同時に帯が張り、乗客の身体が後ろへ引かれた。
左手で肩を支える。
乗務員も掴んでいたが、その腕ごと二号車へ戻されかけていた。
「鞄を寄越せ。そっちの女も呼び戻せ」
帯の男は、もうこちらを追ってこない。
空いた手を座席へかけ、身体を支えている。
らでんは帯の内側へ指をかけた。普通の布なら裂ける。
だが今は、帯を覆うオーラが締めつける力を支えていた。右腕で押し返そうとしても、動かない。
力任せに引けば、乗客の首も一緒に引くことになる。
「その人を離してください。鞄なら――」
「先に寄越せって言ってんだろ!」
男が腕を引いた。
腕を挟んだ側とは反対で、帯が首へ食い込んだ。
乗客の靴が敷居から外れる。
何か言おうと開いた口から、声が出なかった。
外の銃声は止んでいる。ピヨンはまだ戻らない。
らでんから男までは、空いた通路を一歩。腕を掴みに行けば、また引かれる。
倒して帯が緩む保証もない。
それでも、ここで支え続けていては、この人の息が先に止まる。
右腕を帯に残したまま、乗客の肩を乗務員へ預けた。
「離さないで」
生かして捕らえることを諦めた。
らでんの足が、帯を避ける横向きから、男へ向かう向きへ変わる。
右腕を守る分を残し、空いた左の拳へオーラを移す。
そこへ『凝』でさらに集中させた。
男の手が、帯をもう一度引こうとした。
一度それは見ている。
もう遅い。
らでんは、その胸へ踏み込んだ。
左拳を急所へ打ち込む。
絶命に至る、殺傷を狙った攻撃。
その瞬間だった。
らでんには、男の上着が急に横へ引かれたように見えた。
違う。ピヨンの片手が帯を掴んでいた。
もう片方の掌が、男の胴を短く打つ。
大きな音はしなかった。
男の身体だけが折れ、膝が床へ落ちる。
帯が力を失った。らでんは右腕を抜くより先に輪を広げ、乗客の首から外した。
乗務員の腕の中で、激しい咳が戻る。
らでんは踏み込んだ足を止めた。
拳を下げ、男と、その横に立つピヨンを見る。
金具が床で一度跳ね、静かになった。
「外、片づいたから」
ピヨンは男の身体を通路脇へ寄せた。
「その人、前へ。首を診てもらって」
声が、列車に乗った時と同じだった。
らでんは男が動かないことを確かめ、右手の指を開いた。
帯を掴んでいた男の手も緩んでいる。
ピヨンがそれを足元から退けるのを見て、前方の乗務員へ向き直った。
「もう通れます。そちら、怪我の方は?」
自分の声が、少し大きすぎた。
耳の奥に、まだ窓の割れた音が残っていた。
---
ピヨンは帯の男も拘束し、先に押さえた男の拘束を確かめ直して、その場で応援を待った。
灰色の車は、列車が止まった直後に道路脇へ寄せていた。ピヨンは助手席の射手からMP5を取り上げ、運転手も車から降ろして拘束した。
並走中、窓から撃っていたのは助手席の男だった。
乗務員には近づかないよう伝えてあった。
運転士は無事だった。
車内にはガラスで切った人と、急停止の際に打撲した人がいる。
らでんは乗務員から渡された救急用品を前の車両へ運び、通路に残った荷物は、所有者を確かめてから移した。
さっき受け止めた旅行鞄は、留め具が一つ壊れていた。
「これ、私のです」
扉の向こうから出てきた女性へ渡すと、彼女は震える手で蓋を押さえた。
中からシャツの袖がはみ出している。
らでんが拾い上げて渡すと、女性は受け取ったまま、何か言おうとして口を閉じた。
「中身、こぼれてたら、あとで一緒に探しましょう。今は前で待っててください」
女性が戻ってから、らでんは窓際の床を見た。
弁当の中身が散っていた。
裏返った切符に、透明な破片がいくつも乗っている。
さっきまで自分たちが座っていた席にも、背から綿が出るほどの穴があった。
そこへ座り直す気にはなれなかった。
座席の下から、自分の鞄とピヨンのPCを取り出す。
鞄の外側には細かな傷が増えていたが、ノートの入った場所までは切れていない。
PCは閉じた蓋の上を慎重に払ってから、ピヨンへ渡した。
「ありがとうございます。引っ張ってくれたの」
「うん。右腕は?」
「帯の金具が当たっただけです。腕は動きます」
「あとで診てもらって。動くのと、平気なのは別だから」
らでんは袖を少し上げ、すぐ戻した。
金具が当たったところに、赤い跡が残っている。
「気づいてたんですか、あの車」
「直前ね。さっきの踏切でも見たから変だなと思って。後ろの男が立つ方も、ほぼ同時」
ピヨンは拘束された大きな男へ視線を落とした。
「確かめる前に撃ってきた。窓を撃って、こっちを伏せさせるつもりだったんだろうね。巻き込んで悪かったね」
軽い口調だったが、謝る時にはらでんを見た。
ピヨンの端末に連絡が入った。
現在地と車両番号、襲撃者の人数を、途切れず伝えていく。
らでんはその間、閉じたPCを膝に置いて待った。
警察と救護の車両に続き、協会から連絡を受けたハンターが到着した。
念を使う二人の引渡しには、らでんも立ち会った。
聞かれるまま見た動きを説明し、帯の射程については「車内で使っていた範囲しか分かりません」と添えた。
身元の照合で、帯の男は押収品の取引に関わった仲介業者の一人だと分かった。
残る三人との関係や襲撃の経緯は、これから調べるという。
帯も外の武器も回収され、四人は応援に来た者たちへ引き渡された。
ピヨンは引渡しが終わるまで見届けてから、ようやくらでんに手を差し出した。
「PC、返して」
「すごいですね。まだ仕事するんですか」
「修道院に連絡。遅れるのと、出入りの確認を厳しくしてって」
「あ」
らでんはすっかり忘れていた。
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駅まで移った頃には、昼を大きく回っていた。
破損した車両は使われず、乗客はそれぞれの行き先に合わせて案内されていた。
二人には修道院側から迎えが来ることになった。
ホームから離れた待合室で、らでんは資料を確認しながら待っていた。
右腕は軽い打撲だった。渡された保冷材を前腕に当て、湿布は鞄にしまった。
首を締められた乗客は病院で診てもらうことになった。
救護の人から、呼吸は落ち着いていると聞き、そこでようやく、肩のあたりの力が抜けた。
ピヨンは隣の椅子でPCを開いた。
起動した画面を確かめ、指先で外側の傷を撫でている。
「使えます?」
「使える。まあ、これが壊れても、資料は協会にあるけど」
さっきの仮面が、また表示された。
赤と黒の剝げた顔を見て、らでんは、あの男が車内で言ったことを思い出した。
「人の商売を潰した、って言ってましたね」
「値段をつける根拠が間違ってるって、報告したからね。困ったんでしょ」
「だから調べに行かせない?」
「そこは本人に聞いてもらう。少なくとも、引き返してほしそうではあったね」
ピヨンは事件の連絡画面を閉じ、らでんの方へ身体を向けた。
「最後さ。殺そうとしたよね」
らでんはピヨンを見た。
「帯の人ですか?」
「うん」
「あの人が乗客の首を絞めたので。帯を外そうとしても、私にはすぐには外せなかった。これ以上待てないと思いました」
「意外。あんた、そっちを飯の種にしてる連中みたいに、切り替え早いね」
「そっち?」
「人を殺すかどうかで、いちいち立ち止まってられない仕事」
らでんは少し考え、素直に答えた。
「決めてから動くまで、ですか? ジンさんに、方便の方の念も欠かさずやれって言われてるので、それのおかげかもですね」
「……皮肉で言ってんだけど?」
「え?」
「天然?」
「何がです?」
「……天然か」
ピヨンが椅子の背へ寄りかかった。
らでんは顔を覗こうとしたが、何を確かめられたのかも分からない。
今朝もやった《燃》の話をしただけである。
保冷材を押さえる位置をずらしていると、ピヨンの目がそちらへ動いた。
「腕、帯を止めた時?」
「はい。滑り込ませるので精いっぱいでした」
「止めなかったら、もっと早く締まってたね」
らでんは保冷材へ目を落とした。
救護の車へ乗る時、あの人は自分の足で歩いていた。
「最初の男は、綺麗に押さえたじゃん」
顔を上げると、ピヨンはもう腕を見ていなかった。
「強いところへ付き合わなかった。二人目も同じように済めばよかったけど、向こうは別の手を使った」
「……ピヨンさんは、両方できましたね」
「うん。私だからね」
人を助けて、相手も生かして捕らえる。
その二つを選ぶ時間さえ、あの人には要らなかったように見えた。
らでんは膝の上で左手を開いた。最初の男には、この手で殴る必要すらなかった。
二年続けてきたことは使えた。それでも、隣にはまだ遠い。
ジンなら「前よりマシ」くらいしか言わなさそうだ。
その言葉を勝手に思い浮かべると、少し悔しくて、少し嬉しかった。
「で、発は?」
急に聞かれ、握った手を開いた。
「まだです」
「決めてないの?」
「決められてない、の方です。物に触った時に、変なものが見えることはあるんですけど。自分で起こせないので」
ピヨンは、らでんの手元を見た。
「変なものって?」
「なんていうか。見えることがあるんです。知らない手とか、景色とか。でも、何も出ない時もあって」
「それじゃ、仕事には使えないね」
「はい」
保冷材が少し溶け、布の端が湿ってきた。
らでんはそれを折り返しながら、車内で帯を払った時のことを思い出した。
「ああいうのがあると、便利そうだなとは思いました。近づかなくても止められるし、手が届かないところにも届くし」
「さっきの帯?」
「ええ。あの人のと同じものが欲しい、というわけじゃないですけど。ちゃんとした技があれば、もっとできることはあったのかなって」
ピヨンは画面を少し閉じた。
「発がなかったから、今の相手を止められなかった?」
らでんはすぐには答えなかった。
最初の男は、自分で押さえられた。
帯の男にも、近づけないまま終わったわけではない。
ただ、最後はピヨンが先に倒した。
「……最初の人は、止められました」
「うん」
「もう一人も、何もできなかったわけじゃないです」
「うん」
閉じかけた画面を、ピヨンがまた開く。
「戦うためとか便利なものじゃなくて、あんたが何したいかで決めれば?」
らでんは、画面に戻った古文書を見た。
端が擦れ、文字の一部が欠けている。
いくつもの折り目が交差していて、誰かが小さく畳んだものを、別の誰かが違う形に畳み直したようにも見えた。
写真だけでは、どちらの折り目が先か分からない。
「ジンさんにも、焦って形を決めるなって言われました」
「じゃ、焦んなきゃいいじゃん」
「それで二年経ったんですよ」
「十五で二年なら、まだ先長いでしょ」
ピヨンは言い終えると、画像の向きを回した。
らでんはその動きにつられ、少し首を傾けた。
「今の、裏面あります?」
ピヨンの指が止まった。
「あるけど」
「綴じてあった穴かもしれないです。右の端の、小さいの」
裏面へ切り替わる。同じ位置に穴はあったが、写真の影で形が分からない。
らでんは身を乗り出しかけ、冷やしていた腕を浮かせてしまった。
「腕」
「あ、はい」
保冷材を戻す。ピヨンは画面をこちらへ少し傾けた。
「そこ、現物で見る方に入れといて」
らでんは鞄からノートを出した。さっき仮面の文様を書いた頁には、窓が割れた時に引っ掛けたのか、斜めに長い線が走っていた。
文字は読める。元のメモを消さないよう、その線の横を空けて新しい項目を加えた。
仮面は、まず古写真との比較。文書は、裏面と穴の形。
書きながら、もう一度画像を見る。
文字を読めたら、この穴が何のために開けられたのかも絞れるだろうか。
逆に、綴じ方が分かれば、離れてしまった文書を同じ束へ戻せるかもしれない。
現地で見たいところだけが増えていく。
「800点あるんですよね」
「そうだよ」
「番号順に確認していくんですか?」
「向こうの管理状態を見てから。先に配置も確認したいし」
「それはそうですね。あと、写真に写ってない底の方も――」
ピヨンがこちらを見た。
「もう質問、多い」
「調査の話ですから!」
待合室の入口で、迎えの人が二人を呼んだ。
らでんはノートを閉じて鞄へ戻した。
右腕に少し力を入れると、軽い痛みが返ってきた。
持ち手は左へ替えた。
PCをしまったピヨンが、先に扉を押さえている。
「歩ける?」
「腕ですって」
「じゃ、行こ」
らでんは鞄の中のノートを、もう一度上から押さえた。
今日はまだ、一点も現物を見ていなかった。