第二十四話 ピヨン
十五歳になった。
あの山村で《渡り灯》を預かってから、二年が経つ。
背も髪も伸びたけれど、旅の荷物はあの頃よりずいぶん減った。必要そうな道具を片っ端から詰め込んでいた最初の一年と違い、今は依頼書を隅まで読んでから鞄を開く。
念の修行も、毎日欠かさず続けていた。
面白い資料を見つけて夢中になったくらいでは纏は切れなくなり、練を保てる時間も目に見えて延びた。周も流も、やり方を覚えただけで満足できる技ではないと現場で嫌というほど身にしみたが、それでも二年前よりはずっと手が馴染んでいる。
ただ、自分の《発》だけはまだなかった。
古い物に触れた拍子に、妙なものが飛び込んでくることはある。
知らない誰かの手。行った覚えのない場所の空気。今の部屋にはないはずの匂い。
水見式で新品のグラスが古びて見えて以来、仕事の合間に何度か起きていた。けれど、こちらから見ようと思って出たことは一度もなく、驚いて手を離したあとで触り直しても、たいてい何の手応えも返ってこない。
ジンには、焦って形を決めるなと言われた。基礎もサボるなと言われた。
言われた通り両方守って、丸二年である。そろそろ何か、次に進むための手がかりくらい欲しかった。
そういう時に限って、あの人はどこへ連絡しても捕まらない。
◇ ◇ ◇
この二年間で関わった仕事は、全部で三十一件になった。
焼けた寺院の経典整理から廃鉱近くの石仏調査まで規模はさまざまだが、『事故なし・資料紛失なし・途中放棄なし』は、自分でも悪くない記録だと思う。
新しく届いた依頼は、旧修道院で見つかった古文書群の調査だった。
発見点数、約八百。
「……八百点」
声に出して読み直しても、ゼロの数は減らない。
そのうち、まともに文字が読める状態で残っているのは何割くらいだろう。
指先で日程の欄を辿り、その下の共同調査者の名前へ目を落として、らでんはもう一度一番上の宛名まで視線を戻した。
ハンター協会十二支ん、卯。
何度見比べても、間違いなく自分宛ての依頼書だった。
◇ ◇ ◇
翌朝、らでんは待ち合わせの十分前に駅へ着いた。
人の流れの邪魔にならない柱の脇で待っていたが、定刻を五分過ぎても相手は現れない。
改札の向こうを見て、手元の端末を見て、念のため依頼書の待ち合わせ場所も開き直す。
「十二支んって……遅刻するんだ……」
「するよ〜」
すぐ横から声がして振り向くと、うさ耳があった。
その下で端末の画面を覗き込んでいる顔が、依頼書に添付されていた写真とぴたりと重なる。
「儒烏風亭らでん?」
「はい。ピヨンさん、ですよね」
「うん。ごめん、画像の整理してた。行こ」
言いながら、もうホームの方へ歩き出している。
慌てて鞄を持ち直して追いつくと、今度はピヨンの目がこちらの頭へ向けられた。
「髪メッシュ? 染めてんの、それ」
「第一声それです?」
「さっき名前聞いたじゃん」
「そういう話ではなくてですね」
列車の座席に腰を下ろすなり、ピヨンは膝の上でノートPCを開いた。
画面の中で古文書の画像が次々に切り替わり、よく似た字形が横一列へ小気味よく並んでいく。らでんが一行目を読み終えるより、次の画像が呼び出される方がずっと速い。指先が迷いなく画面を払っていくのを横目で見ているうちに、もう少し近ければ字の崩し方まで見えるのに、と身体が勝手に隣の席へ傾いていた。
「近いって」
「あ、すみません。でも今の頁、右から三つ目の字だけ払いの先が違いませんでした?」
ピヨンの指が止まり、ひとつ前の画像が引き戻されて拡大された。
「ほんとだ。隣の行の掠れが重なってるね」
「やっぱり」
下の行から伸びた墨の掠れが、上の文字の終わりと繋がって見えていたらしい。
ピヨンがその一文字を指先で弾くように別の欄へ移すと、綺麗に揃っていた一覧にぽつんと一つ空きができた。
「これ、全部ソフトで分けてるんですか?」
「うん。私が組んだプログラムでね。画像がある分だけ先に並べてるの」
「八百点全部ですか?」
「先に弾いとかないと、読めない字まで読めたことになってあとが面倒でしょ」
なるほど、駅の改札に来る直前までこれをやっていたわけだ。
遅れてきた時の軽さと、画面の中の容赦ない細かさがどうにも釣り合わない。らでんは並んだ字形から顔を上げ、隣の共同調査者をまじまじと見直した。
「十二支ん……怖……」
「何が?」
本人は小首を傾げただけで、まったく伝わっていなかった。
◇ ◇ ◇
「十五で、主担当が九件か」
窓の外から市街地の建物が消えた頃、ピヨンが画面の隅に別ウィンドウを開いて言った。
「え、私の記録も入ってるんですか?」
「そりゃね。今日から一緒に仕事するんだし。補助が二十二件。あと、苦情も二つ」
「苦情まで載ってるんですか……」
「質問が多すぎるって」
「調査に行って質問しなかったら、何しに行ってるんですか」
「もう一件は、予定日になっても帰らない」
「それは先方にちゃんと延長をお願いしました。三日だけです」
そこで初めて、ピヨンが画面から顔を上げた。
「その現場、面白かった?」
「すごく」
「なら、いいじゃん」
拍子抜けするほどあっさりした声だった。
怒られるかと思っていた肩の力が抜けて、この人となら案外やりやすいかもしれない、と少しだけ息がつける。
「念はジンに習ったんだよね。《発》はもうあるの?」
そこだけ、返事が一拍遅れた。
「まだです。物に触った時に変なものが見えることはあるんですけど、自分からは起こせなくて」
「変なものって?」
らでんはこれまでの出来事を順番に話した。
古い道具を持った時に、自分の指先が別の誰かの手になったように感じたこと。誰もいない整理室で、耳元に短い声が落ちたこと。どちらも一瞬きりで、続きは見られなかった。
口に出して並べてみると、なんだか寝ぼけて見た夢の報告みたいになってくる。二年かけてこれだけかと思うと、我ながら少し情けない。
「その時、自分のオーラはどうしてた?」
「……資料を持っていたので、周を使っていた時もあります。ただ触れただけの時もあって」
「目に凝は?」
「それも毎回じゃないです」
「じゃあ、触る前から何か見えてた?」
らでんは言葉に詰まった。
見えた景色や音なら、今でもはっきり思い出せる。けれど、その直前に自分の目や指先がどうなっていたかとなると、途端に輪郭が怪しくなった。
「出た方にびっくりして、直前のことは全然見てませんでした」
「じゃ、次はそこも見よっか」
「都合よく次が来てくれれば、ですけどね」
車窓の向こうには、もう低い山の稜線が近づいていた。
膝の上で自分の手を開くと、指の間にも纏のオーラが静かに落ち着いている。これを一定に保つのに必死だった頃からすれば、ずいぶん遠くまで来たはずだ。それなのに、物へ手を伸ばす瞬間だけは、二年前からずっと偶然頼みのままだった。
「ジンさんにも、焦って形を決めるなって言われたんです。そのまま二年経ちました」
「十五で二年なら、まだ先長いでしょ」
「待ってる方は結構長いんですよ」
「じゃあさ、待つ以外に何がしたいの?」
らでんは一度口を閉じた。
立派な能力の仕組みを聞かれているなら、まだ答えられない。けれど、あの感覚が来た時のことなら言葉にできる。
「あれが来ると、物の見方が変わるんです。さっきまでただの傷だと思ってたところが、誰かがいつも指を置いてた場所かもしれなくなる。もっと知りたくなるのに、いつも途中で切れてしまうから」
手のひらを裏返し、自分の指先を見つめた。
「今度はこちらから、確かめにいきたいです」
「うん。そっちはもう決まってるんだね」
ピヨンはそれだけ言って、またPCの画面へ視線を戻した。
問い詰められたわけでもないのに、一人で抱えていたことの中心をあっさり抜かれたような気がする。らでんも鞄からノートを出し、次に何かが起きた時のために、まだ何も書いていない頁を一つ空けた。
◇ ◇ ◇
旧修道院の調査室には、仮置きされた木箱が十三個並んでいた。
改修工事で見つかった資料は、羊皮紙や紙の文書だけでなく、木簡や古い布片まで混じっている。管理者から保存状態と扱いの説明を受け、二人はまず仮番号と撮影済み写真の照合から手をつけた。
「あの、箱は今日どこまで開けられますか」
「先に荷物置こ。今日だけで全部は見られないんだから」
「全部なんて言ってませんよ」
「じゃあ何箱?」
「できれば、ざっと全体を」
「ほら、全部じゃん」
ぐうの音も出ず、らでんはおとなしく鞄を壁際へ下ろした。
写真を揃えて番号を確かめる作業が数時間続いた頃、仮番号A-117の羊皮紙でらでんの目が止まった。
薄く凝を乗せて見ると、掠れた文字とは別に、表面へごくわずかなオーラが張りついている。
「ピヨンさん。A-117、念が残ってます」
ピヨンが端末を置き、すぐ横から覗き込んできた。
「これ、もう触った?」
「まだです。なんだか、すごく古い感じがして」
「古い羊皮紙だからじゃなくて?」
「紙じゃなくて、残ってる念の方が……あ。でも、古い資料だからそう見えてるだけかもしれません」
最初に受けた印象まで消す必要はない。ただ、いつ付いた念なのかを教えてくれる数字が浮いているわけでもなかった。らでんは手元のメモに「古い念」と書きかけた線を消し、残っている場所だけを書き直した。
管理者に扱いを確認すると、手袋を着けたまま、支えに載った羊皮紙の端へ触れる分には問題ないという。
すぐ隣ではピヨンが見ている。いつもと違い、何か起きたらその場で言える相手がいた。
「もし何か来たら、手はそのままにしてた方がいいですか」
「変だと思ったらすぐ離して。どれだけ我慢できるかの試験じゃないんだから」
小さく頷き、手袋の指先へ薄く周を巡らせる。
乾いた羊皮紙を押さえつけないようそっと端に触れ、中央の記号へ目を向けた、その時だった。
――――――
石が擦れた。
調査室の光が遠くへ引き、暗い中に木箱の角が浮かぶ。
すぐそばで誰かが荒く息をしていた。自分は椅子に座っているはずなのに、重い荷を抱え直したような鈍い張りが両腕にかかる。
いくつもの声が重なった。言葉の形は聞き取れない。
――返す。
――――――
その感触だけが胸に残り、気づいた時には羊皮紙から指を離していた。
「来た?」
隣から落ちた声で、机の縁と自分の手の位置がはっきり戻ってくる。
部屋の奥には十三個の木箱が並んでいた。今見えた暗がりの箱と重なりかけて、らでんは慌てて視線を机の上へ戻した。
「石の擦れる音と、暗いところにある箱と……何か重いものを運んでる感じがしました。あと、『返す』って」
「言葉、聞き取れたの?」
「いえ、声は重なってて。ただ、そういう意味だって感じだけが残りました。発音は思い出せません」
引き寄せたノートを開く。
感覚が薄れないうちに書き留めようとして、箱の数まで書いてしまいそうになった。
十三。
違う。それはこの部屋へ入った時から知っていた数だ。今の暗い中で一つずつ数えたわけではない。
数の欄は空白のまま残し、見えた角の形と、腕にかかった重さだけを鉛筆で描き留める。
「さっき、目に集めてた分を少し戻したでしょ。そのあと、指先の方のオーラが動いてたよ」
ピヨンがらでんの手の甲を軽く指して言った。
「横から見えたんですか?」
「オーラの動きはね。箱の中継までは来てないよ」
「私にも録画機能が欲しいです」
「それを言うには、まだちょっと早くない?」
言われてみればその通りだった。録画どころか、再生ボタンすら自分で押せていない。
けれど、今日は見えた断片以外にも残ったものがある。らでんが羊皮紙に触れる前から、ピヨンは横でオーラの動きを見ていてくれた。
少し呼吸を整えてから、もう一度だけ同じ端に触れてみた。
目への凝を緩め、さっきと同じように指先へオーラを集める。
暗がりが来るのを待ったが、伝わってきたのは手袋越しの乾いた紙の感触だけだった。
「……出ませんね」
「今、何してた?」
「さっきと同じにしたつもりなんですけど」
「最初の時、そんなに息止めてなかったよ」
指摘されて、ようやく肺の奥の息を吐き出した。
自分の身体のことなのに、隣から言われるまでまるで気づいていなかった。ノートの余白へ、それも急いで書き足す。外れた理由は分からないままだが、次に直せることが一つできた。
「ピヨンさん。この仕事の間、また横で見てもらってもいいですか」
「いいよ。ちゃんと本業の調査もやってね」
「もちろんです。八百点ありますから」
「そっちもやりすぎないでね、って意味なんだけど」
らでんは小さく笑って頷き、空けておいた頁に最初の試行記録を書き込んだ。