翌朝、A-117は何も見せてくれなかった。
昨日と同じ椅子に座り、支えの上の同じ端へ手袋の指先を添えて、ピヨンに横からオーラの動きまで見てもらった。寝不足もなければ息も止めていない。準備だけなら昨日よりずっと丁寧なはずなのに、目を閉じれば瞼の裏が暗いまま、開けば乾いた羊皮紙と掠れた記号がそこにあるだけだった。
「……なんだか今日、機嫌が悪いんでしょうか」
「紙のせいにしない」
「だって、私の方は昨日よりちゃんと寝てますよ」
「張り合うとこ、そこ?」
しぶしぶ指を離して、手元のノートを引き寄せる。結果の欄には『何もなし』。
昨日見た暗い木箱の角なら、今でも頭の中で思い浮かべることはできた。けれど、記憶をたどって暗がりを作るのと、いきなり両腕へ鈍い重さまで入り込んできたあの感覚はまるで別物だ。『なんとなく近い気がする』で丸をつけてしまったら、その先は全部、自分が頭の中で作ったお話になってしまう。
横から覗き込んでいたピヨンが、ノートの余白を指先で軽く叩いた。
「今どうやったかも書いといて。昨日と違うなら、そっちが使えるかもしれないし」
らでんは短い『何もなし』の下に、目への凝を緩めて指先へオーラを集めたこと、最初から息を止めずに待ったことを書き足した。
昨日と何が違ったか分かったからといって、すぐ次が出るわけではないらしい。念というのはもう少し、こちらの真面目な工夫を買ってくれてもいいのにと思う。
◇ ◇ ◇
練習には、古いペン軸を一本借りることになった。
八百点の古文書とは別に保管されていた参考資料で、調査の合間に触れてもよいか管理者に扱える範囲を確かめてある。先端の金具近くに黒っぽい汚れが染みつき、指を添えるあたりの木肌がほんの少し平らにすり減っていた。
誰が、いつ、何を書くのに使った道具なのかは分からない。
今のらでんには、その分からなさがかえってありがたかった。A-117を前にすると、どうしても昨日の暗い箱や石の擦れる音をもう一度待ってしまう。
机の上に小さな受け台を置き、まずは静かに纏を整える。そこから練でオーラを膨らませ、ペン軸に触れている手袋の指先へ少しずつ集めていく。
ここまでは、この二年で手が覚えた手順だ。問題は、この先だった。
すり減った木肌と黒い染みを見つめる。インクの跡だろうか。
誰かがこの窪みに指を置いて、何かを書いた時間があったはずだ。その端っこでいいから、何かひとつ拾いたい。
しばらく待っても、指先には硬い木の感触しかなかった。
もう少し、と思って練の量を強めたところで、隣から短い声が飛んでくる。
「手」
はっとして見ると、ペン軸を押さえる指先にぐっと力が入っていた。慌てて肩と一緒に力を抜く。古い木をどれだけ強く押しつけたところで、中から過去が絞り出されてくるわけでもない。
「今の、何を変えた?」
「オーラの量を少し増やしました」
「指の力も変わったよ。あと、最後はまた目の方にも集めてた」
らでんは自分の手元へ視線を落とした。
もっと見たい、はっきり掴みたいと思うたび、身体が勝手に使い慣れた凝の方へ頼りかける。けれど、目の前のオーラの細部を見分けようとすることと、知らない景色が向こうから流れ込んでくることは、同じ通り道ではなかった。
「……変えるのは、一個ずつですか」
「違いを見たいんでしょ?」
口で言われると簡単そうだが、やっている本人の頭の中は結構忙しいのだ。
指先に集める量を気にすれば肩が上がり、肩を落とせば、今度はどんな景色が見えるだろうと先回りして考えてしまう。纏や練を覚えたばかりの頃も、確かこんなふうにあちこち散らかっていた。できるようになったことほど、いつの間にか最初から簡単だったような顔をして手に馴染んでいる。
もう一度、呼吸と一緒にオーラを落ち着かせる。
今度は途中でむやみに量を増やさず、最初に出した分だけを指先に保った。
それでも、やっぱり何も起きない。ただ、どのあたりで自分の指や目に余計な力が入りかけたかは、さっきよりずっとはっきり分かった。
「今はどうでした?」
「こっちから見たら、さっきより落ち着いてたよ」
「何も出ませんでしたけど」
「私が出せたら、あんたに聞いてないよ」
言われてみればその通りだった。
相手が十二支んなのだから、聞けばうまいコツを一つくらい持っているのではないか。そんな甘い期待が、まだ自分のどこかに残っていたらしい。
「で、そっちはどんな感じだった?」
促されて、らでんは手袋越しに残る乾いた木の感触を思い返した。
ピヨンには外からオーラの揺れが見える。自分には、中に何が来て何が来なかったかが分かる。片方ずつで足りないのなら、両方を並べてノートに残せばいい。
◇ ◇ ◇
日中は本業の古文書を調べ、作業の区切りがついたところでペン軸に触れた。
八百点の整理は少しずつ前に進んでいる。古い綴じ穴の位置や紙の折れ目が揃うものをらでんが選び出し、ピヨンが画面の上で前後の文脈と突き合わせていく。二人とも一度広げた資料を途中で片づけるのが下手で、昼食の時間になるたび、管理者に苦笑されて食堂へ追い出されることになった。
一方、《発》の練習は相変わらず空振りが続いていた。
修道院に来て五日目の夕方、ぎっしり埋まり始めたノートの頁をピヨンが横から覗き込む。
「ねえ。今日はさっきから、ずっとこっち見てたね」
「え、見てませんよ。ペンを見てました」
「私の顔見ても、出たかどうか分かんないよ」
図星を突かれて、らでんはぱたりとノートを閉じた。
何かが見えたかどうかより、今のオーラの回し方で合っていたかどうかばかりが気になっていた。手を離す前からピヨンの反応を待っている時点で、意識の半分がペン軸から離れている。
「あの、今夜、少し一人で試してみてもいいですか」
「いいけど、変なものを拾ったらすぐ呼んで。あと、ちゃんと寝てね」
「分かってます」
夕食も風呂も先に済ませてから、夜の調査室へ一人で戻った。
広い机の上に残したのは、受け台に載せたペン軸と自分のノート、それに水の入ったコップだけだ。日中まで広げていた古文書の束はすべて棚へ戻してある。
今夜は横で見てくれる人はいない。自分が何をして、どこで外したかを、自分の目と手で確かめる。
◇ ◇ ◇
一度目は、何も起こらなかった。
椅子に深く座り直し、纏を整えてから、練で増やしたオーラをゆっくり指先へ集める。受け台のペン軸へそっと触れ、心の中でひとつ問いを置いた。
――お前は、何を見た。
返ってくるものはない。
廊下の遠くで誰かが扉を閉める音がして、足音が石床を渡って消えていく。しばらくそのまま待ってから指を離し、集めていたオーラを静かに解いた。
二度目は、最初から指先のオーラを多めにしてみた。
額に生温かい汗が浮き、今度こそという期待ばかりが胸の中で膨らむ。それでも何も来ないので、さらに練を強めようとして――途中で自分から手を引いた。これ以上むきになって続けても、『今日は疲れた』という記録が一行増えるだけになりそうだった。
三度目は、A-117で感じたあの腕の重さを無意識に追いかけてしまっていた。
目の前にあるのは細いペン軸だ。暗い場所で木箱を運ぶ場面を、ここでも期待しているわけではない。そう気づいた時には、せっかく集めた集中がすっかり指先から抜けていた。
ノートの頁には、『何もなし』の文字の下に言い訳みたいな反省ばかりが並んでいく。
らでんは鉛筆を置き、椅子の背へぐったりと寄りかかって高い天井を見上げた。
「今はいいんですけどね。いつでも来てもらって」
受け台のペン軸へ小さく話しかけてから、誰もいない部屋で一人なのに少し照れた。
頼んで出てきてくれるくらいなら、初日にとっくに済んでいる。むしろ、水見式の時から今まで、自分はどうやってあんなものを拾っていたのだろう。まぐれでも先に成功した覚えがあるせいで、手元の木肌が動かないのが余計にじれったかった。
コップの水を一口飲んで、もう一度机へ向かい直る。
先端の黒い染みと、握る部分のわずかに平らになった木肌をじっと眺めた。
ここへいつも指を置いていた人は、いったいどんな紙に向かって、何を書き留めていたのだろう。難しい文字が読めなくても構わない。ただ、このペン軸が紙の上を走っていた、そのほんのわずかな時間にこちらから触れてみたかった。
四度目。背筋を戻し、呼吸と一緒にオーラを整える。
手袋の指先がペン軸に触れてからも、急いで何かを引き出そうとはしなかった。
その時、指先の奥がぴりっとわずかに痺れた。
――――――
白っぽい紙の上を、黒い線が走った。
湿ったインクが灯りを弾いて光り、そのすぐそばで誰かの指が小さく曲がる。
紙がわずかにずれ、次の線が引かれようとして――。
――――――
気がつくと、夜の調査室の机が目の前に戻っていた。
「……出た」
ぽつりと声にした途端、心臓が急に早鐘を打ち始める。
今までとは違う。作業の最中に向こうから不意打ちされたのではない。自分で見ようとして、準備して触れて、それで向こうから景色が来た。
らでんは慌ててノートを引き寄せた。
白い紙、濡れたインク、動く指先。
書かれていた文字の形まで描き留めようとしたが、そこはどうやっても思い出せない。ペンを持っていた人の顔も映っていなかった。嘘を混ぜずに書けることだけを並べると、たった数行で終わってしまった。
それでも、並んだ文字を見つめているうちに口元が勝手に緩んでくる。
今すぐピヨンを呼びに行こうかと椅子から腰を浮かしかけて、ぐっと止まった。
一回。まだ、たったの一回だ。
成功した瞬間のオーラの量を、きっちり数字で書き残せるわけではない。それでも、途中でむやみに量を増やさなかったことと、指先に余計な力を込めなかったことははっきり書けた。数行の記録の端に、鉛筆で大きな丸を一つ描く。
「……あと一回」
自分に言い聞かせるように呟いて、もう一度ペン軸へ指を戻した。
何も来なかった。
その次も、何も起きない。
期待して目を凝らした分だけ、現実の乾いた木目がやけにくっきりと見えた。さっき見たばかりの白い紙と湿ったインクの光なら、まだこんなにはっきり思い出せるのに。
そこで、らでんは自分の手を止めた。
また、すでに見えたものを頭の中で追いかけている。ペン軸が何を見せてくれるかを待つふりをしながら、自分の頭の中ではさっきの白い紙を勝手に広げていた。
書きかけのノートを少し脇へ寄せる。
見えた映像ではなく、あの痺れが来る直前に自分の身体がどうなっていたかを一つずつ確かめた。呼吸を深く戻し、纏から練へ静かに移る。一定に指先へ集めているつもりでも、意識し始めた最初だけどうしても量が多くなりやすい。さっきの二回は、そこを急いでいたのかもしれない。
四度目の時にできるだけ近い手応えへ整えて、そっとペン軸の窪みに触れた。
――――――
濡れた黒い線が、紙の上に見えた。
――――――
来た、と思った瞬間にぷつりと途切れた。
らでんは喉まで出かけた声を、慌てて口の中へ押し戻した。もう手遅れなのだが、そうせずにはいられなかった。
「……二回」
ノートの端に、二つ目の丸をつける。
今度の断片はさっきよりずっと短くて、同じ紙の上だったかどうかも確かめようがない。けれど、ペン先が線を引く手元をもう一度こちらから拾えた。そして、出たと思って嬉しくなった瞬間に、自分の注意がペン軸から外れて切れたのもはっきり分かった。
これは、思っていたよりずっと厄介だ。
うまくできた時に喜ぶなというのは、できない時に落ち込むなと言われるよりよほど難しい気がする。
すぐ次の試みは、案の定空振りだった。
らでんは椅子から立ち上がり、部屋の端の窓まで歩いていった。外の中庭は真っ暗で、冷たいガラスにはランプの灯った調査室と自分の姿が映っている。気持ちばかりが机へ戻りたくてたまらないのに、頭の奥にはじわりと鈍い重さが溜まり始めていた。
コップの残りの水を飲み干して、少しだけ目を閉じる。
最初に見えた場面へ何か書き足せることはないかと考えかけて、鉛筆を持つ手を止めた。今はもう、最初に書いた数行を見ずに思い出せる部分がだいぶ減っている。後から思い出した気になったものを足すのはやめよう。
机へ戻ったら、一回ずつ切り替える。何も来なくても、すぐ次を急がない。
そう決めてから何度か空振りを挟み、ようやく三度目に拾えたのは、黒い線を引き終える直前の、ほんの一瞬の指の動きだった。
らでんは黙ってペン軸から指を離した。
見えた断片の中で、確かに紙の上を指が動いた。けれど今、こちらの机の上には誰の手も増えていない。自分の手袋の指先を引き、ノートを開いて三つ目の丸を書き込む。
そこまで済ませてから、ようやく息が抜けて笑いがこぼれた。
「できた……」
頁を埋め尽くしているのは、圧倒的に『何もなし』の記録の方だ。
三回続けて成功したわけでもないし、古文書みたいに肝心の文字が読めたわけでもない。それでも、紙の端に並んだこの三つの丸は、まぎれもなく自分の手でつけたものだった。いつ向こうから来るか分からなかった知覚を、今夜は自分から起こそうとして、三度起こせたのだ。
これをジンに見せたら、どんな顔をして何と言うだろう。
少なくとも、今夜のこの頁を突きつけるまでは、『前よりマシになったな』の一言で片づけないでほしい。そんなことを考えると、また一人で頬が緩んでしまった。
ペン軸を丁寧に受け台へ戻す。
本当ならこのまま四回目、五回目と試したかったが、手袋の奥で指先にじんわりと痺れが残っていた。欲張って雑になる前に、今夜の最後は三つ目の丸で止めておこう。
その代わり、らでんはノートの新しい頁を一枚めくった。
《
真ん中に書いた名前を手のひらで隠し、少し隙間を作ってまた覗き見る。
いくらなんでも、ちょっと大げさすぎただろうか。今のところ、この帖に集まっているのは古い箱の角と、紙とインクと知らない誰かの指先くらいである。
でも、この先はきっともっと増える。
そう思えたから、消しゴムは使わずにそのままにしておいた。
◇ ◇ ◇
入口の扉が開く物音で目を覚ますと、細い窓から白々とした朝の光が差し込んでいた。
最後に記録を読み返すつもりで腕を組んで、そのまま机の上へ突っ伏して眠っていたらしい。顔を上げると、片方の頬にノートの端の跡がくっきり張りついている感触がした。
慌てて上半身を起こしたところで、入ってきたピヨンとばっちり目が合った。
「ちゃんと寝てね、って言ったよね」
「寝ました」
「じゃあ、寝た場所の話からしようか?」
確かに昨夜、ベッドで寝ろとまでは言われていない。
ただ、ここでそれを言い返したら肝心の報告が遠のきそうだったので、らでんは賢明に口をつぐんだ。
「ピヨンさん、できたんです」
ピヨンの視線が、らでんの顔から机の上へと移る。
「そのペン軸で?」
「はい。自分からやって、三回出ました。間には失敗もいっぱいあるんですけど、最初の時と、次の時でオーラの――」
「ちょっと待って。ちゃんと聞くから、最初から見せて」
ピヨンが隣の椅子を引き寄せ、すぐ横に腰を下ろしてくれた。
らでんは逸る手でノートを向けようとして、いきなり昨夜名前を書いた頁を開いてしまい、慌てて一枚戻すつもりが指が滑って二枚めくった。落ち着け、自分。昨夜あれだけ指先の加減を確かめた人間が、紙一枚まともにめくれていない。
ようやく開いた最初の頁には、朝の『何もなし』が並んでいる。
昨日の昼までは、こんな失敗ばかりのメモを誰かに進んで見せることになるなんて思っていなかった。
けれど今は、この一行目から順番に、全部聞いてほしかった。