儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第二十五話 物語る蒐集帖

 迎えの車が最後の坂を上ると、山肌に半分埋まったような灰色の建物が見えた。

 窓は細く、午後の光が届いているのは壁の片側だけだった。

 

 らでんは保冷材を袋へしまい、左手で鞄を持って降りた。

 駅で見た古文書の画像が、まだ頭にある。

 

 現物に触れたら、列車でピヨンに話した知らない手や景色がまた見えるだろうか。

 自分から見ようとして見えたことは、まだない。

 

 あの縁の穴は綴じ跡なのか。

 写真では影に隠れていた部分を、ようやく自分の目で確かめられる。

 石段の上で、管理者が扉を開けて待っていた。

 

「お待ちしていました。お部屋へご案内する前に、少し休まれますか」

「箱は、今どこにあります?」

 

 挨拶より先に聞いてしまった。らでんは口を押さえ、改めて頭を下げる。

 後ろから来たピヨンが、その横を通った。

 

「先に荷物置こ。今日だけで全部は見られないんだから」

「全部とは言ってませんよ」

「何箱?」

「できれば、全体をみていきたいですね」

「ほら」

 

 管理者が小さく笑い、二人を中へ通した。

 入口の机には新しい来訪者名簿があり、外では職員が門の鍵を確かめている。

 列車からの連絡は届いていた。

 

 鞄を置いて案内された先には、木箱が十三あった。

 改修中の壁から見つかった、約八百点の資料。

 羊皮紙や紙の文書に、木簡、布片、封蝋まである。

 箱の形も揃っていない。

 反った蓋の隙間から、細い紐が覗いていた。

 

「発見後は、最低限の安定化だけ行いました。大きく動かしてはいません。支えを入れたり、撮影のために開けたりした箇所は、こちらに」

 

 管理者の示した記録を開く。

 見たい穴へ手を伸ばす前に、発見後どこへ人の手が入ったかを確かめた。

 最初の一時間は資料に触れず、配置と重なりを撮る。

 隣ではピヨンが仮番号を読み上げ、目録と照合していた。

 

「そこ、もう一枚」

「撮ってますよ」

「下の紐が、蓋の陰になってる」

「あ、そっちですか」

 

 膝を折ると、さっきまで一本に見えた紐が、蓋の下で二つに分かれていた。

 結び目ではなさそうだった。

 らでんは角度を変えて撮り、どちらの端も、まだ引かなかった。

 

 開いた箱に光が差し、羊皮紙の黒い線が横へ動いた。

 裂け目ではなく、反り返った縁の影だ。

 らでんは位置をずらし、もう一枚撮った。

 画像だけでは分からなかった縁の厚みが、目の前にある。

 

 その羊皮紙の番号を控え、次へ進むところで目が止まった。

 百十七番、A-117。中央に同じ記号が並んでいる。

 薄く凝を使うと、表面に微かなオーラが見えた。

 昨日今日ついたものとは違う気がする。

 文字を読もうとしていた目が、そちらから離れなくなった。

 

「ピヨンさん。A-117、念が残ってます」

「触った? 列車で話してた景色、見えた?」

「まだです」

「えらい」

「子供扱いしてません?」

「十五は子供でしょ」

 

 言いながら、ピヨンは端末を脇へ置いていた。

 数秒、資料を見てから、らでんへ視線を戻す。

 

「どんな感じ?」

「古いです。あ、紙じゃなくて、念が」

「それ、書いた人の念だって分かる?」

 

 らでんは羊皮紙へ目を戻した。

 

「……そこまでは」

「百年前に箱へ入れた人かもしれないし、発見した後に誰かが触ったのかもしれない。紙と一緒に残ってるからって、同じ日にくっついたとは限らないよね」

 

 記録には「念的な残留を認めた」と書く。

 「古い」は消し、「自分にはそう感じられた」と添えた。

 

 ピヨンがそのペン先を見ていた。

 

「見えたからって、正しいとは限らないよ」

「……はい」

 

 A-117へ触れるのは後回しにした。

 目録へ戻り、翌朝見る文書の番号を控える。

 駅で書いた綴じ穴の項目に、印をつけた。

 

---

 

 翌朝、調査台の上に、あの穴のある文書が出された。

 

 写真では縁に沿って黒い点が並んでいたが、現物を見ると、その列の少し内側にも小さな穴があった。

 こちらは三つ。真ん中だけ、わずかに間隔が狭い。

 

 らでんは番号を付けた撮影画像を並べ、いくつかの文書の端を拡大した。

 外側の穴はだいたい同じ位置にある。

 それなのに、内側の三つが揃うものと、揃わないものが混じっていた。

 

「ピヨンさん、これ、今の並びだけで読まない方がよさそうです」

「何で?」

「綴じ穴が二組あります。同じ束にあったものでも、前の穴は合わないんです」

 

 隣から身を寄せたピヨンが、画面を二度切り替えた。

 

「綴じ直した?」

「多分。いつかはまだ分かりませんけど。この紙、前の穴が端の近くで切れてます」

「じゃ、今の束と、前の束は別に追おっか」

 

 ピヨンが目録に欄を増やした。

 今の箱番号は残し、古い穴が揃う候補同士に印をつける。

 内容の続きと、紙の使われ方は一致しない。

 誰かがこの紙を捨てず、別の束へ入れたのかもしれなかった。

 

「思ってたのと違いました」

「外れ?」

「いえ。一回分だと思ってたので」

 

 ピヨンが画面を戻し、ほかの資料にも同じような穴がないか探し始めた。

 

 昼前には、反対に二枚の文書を見せられた。

 

「同じ人が書いたと思う?」

 

 文字はよく似ている。らでんは一度、同じ、と答えかけた。

 けれど片方は紙が薄く、インクの見え方も少し違った。

 二枚を交互に見ていると、同じ形に見えた文字の終わりが、揃わなくなってくる。

 

「こっちは、押し込んで止めてますね。もう一枚は、先が抜けてる」

「ほかの字でも?」

 

 同じ記号を探した。

 二つ、三つ。

 急いで書いたらしい行でも、その違いが残っている。

 

「あります。筆圧も違いそうです」

「うん。似た形を、別の手で書いてる方がありそう」

「これ、文字だけ切り出すと、もっと似て見えますね」

「なら全体も残す」

 

 ピヨンが二枚を並べた画像へ戻す。

 らでんは次に比較する文字を探した。

 

 そうしているうちに、管理者が入口に立っていた。

 

「お昼をお持ちしましたが、どちらへ」

 

 二人で周りを見た。

 机はどこも埋まっている。

 

「食堂、使えます?」

 

 ピヨンが聞くと、管理者は少しほっとした顔で頷いた。

 らでんは最後の一文字をノートへ写し、続きの場所に紙を挟んだ。

 

「続き、食べてからね」

「分かってます」

「それ、三文字目」

 

 数えられていた。

 

 三日目には、文書群の中に、大きく二つの時代があることが見えてきた。

 

 年記と用語、字体を追うと、大半は三百年前のものだった。

 一部は百二十年前に追加されている。

 らでんが見た紙や補修の違いも、その分かれ方と重なる箇所があった。

 

 古い文書を写したらしいものもあり、同じ語だけでは時代を分けられない。

 ピヨンは年記を、らでんは綴じ直された候補を追った。

 

 四日目の午後、繰り返し現れる記号の一覧を見て、ピヨンが椅子を寄せた。

 

「これ、意味が変わってる」

「例の記号ですか」

「うん。三百年前の用例だと、道。通路、でもいい。百二十年前の方は、門」

 

 らでんは二つの文を見比べた。

 同じ形を探すところまではできるが、周りの文を続けて読めるわけではない。

 ピヨンが単語の区切りを示し、それぞれの用例を読み下していく。

 

 さらに後の時代になると、墓、の意味で使われた例があった。

 

「同じ文字なのに?」

「言葉は変わるからね~」

 

 らでんも一覧へ身体を寄せる。

 道と門は近い。

 そこへ墓が加わると、もう同じ意味のつもりでは読めない。

 

「これ、面白いですね」

「でしょ」

「でも、次に同じ字があっても、すぐ読めないんですね」

「読んでいいよ。当たってるか、あとでちゃんと調べれば」

 

 らでんはノートの記号の横へ、三つの意味を時代と一緒に書き加えた。

 書き終えると、列車で見た一覧よりも、余白がずっと狭くなっていた。

 

---

 

 四日目の夜、記録を戻しに保存庫へ入ると、台の上にA-117があった。

 ピヨンは別室で管理者と打ち合わせている。

 らでんは戸口を振り返ってから、羊皮紙へ目を戻した。

 

 昼に見比べた、あの記号。

 薄く凝を使うと、初日と同じ場所に微かなオーラが見えた。

 読める言葉は増えても、これは変わらない。

 書かれた言葉を辿るだけでは、この引っ掛かりには届かない。

 触れたら、何か来るだろうか。

 

 らでんは台の前へ椅子を寄せた。

 

 手袋は外さず、その上から指先へ、ほんの薄く周を巡らせる。

 羊皮紙を押し込まないように触れ、中央の記号を見ようとした。

 

――――――

 

 暗い。

 

 そう思った時には、石を擦る音がしていた。

 部屋のどこから響くのか探すより先に、荒い息がすぐ近くへ来る。

 重いものを運んでいる。

 手の中にあるはずのない重さが、身体の奥へかかった。

 

 箱がある。木箱が、一つ、二つ。

 

 十三。

 

 知らない言葉が重なり、誰かが叫んだ。

 聞き取れない。

 それなのに一語だけ、ほかの音とは違う形で残った。

 

 ――返す。

 

 指を離した。

 

――――――

 

 机の脚が見え、次に、自分の足元が見えた。

 椅子に座っていたはずなのに、どこから座り直せばいいのか、一瞬分からなかった。

 らでんは台へ手をつきかけ、そこに羊皮紙があることを思い出して引いた。

 

「何やってんの」

 

 肩が跳ねた。

 

 ピヨンが入口に立っている。いつからいたのか分からない。

 らでんは手袋をした指を膝へ戻した。

 

「勝手に触った?」

「……はい」

「次は呼んで。で、何がみえた?」

 

 らでんは話し始めた。

 石の音、荒い息、重さ、箱。

 口に出すと、繋がった出来事のように聞こえる。

 途中で言い直した。

 誰が運んでいたのか、どこへ向かっていたのかは見ていない。

 

「箱は十三。それから、返す、って」

 

 ピヨンはPCを開いた。

 

「じゃ、それが何だったか、確かめよっか」

「何だったか?」

「三百年前の場面なのか、この紙に起きたことなのか。“返す”が本当にそういう言葉だったのか」

 

 らでんはノートを開いた。

 聞こえた音を書こうとして、ペンが止まる。

 発音が戻ってこない。

 知らない言葉を聞いた感触と、返す、という一語だけがあった。

 

「……『返す』って、そのまま聞こえたわけじゃないです」

「じゃ、そのまま書いて」

 

 返す、と感じた。

 聞こえた言葉を正確には再現できない。

 

 書き終えると、ピヨンが箱のところを指した。

 

「十三って、見る前から知ってたよね」

「はい。でも、今、見えた時にも」

「うん。それは残しといて。三百年前にも十三だったかは、ほかで調べる」

 

 音と箱と、「返す」。

 現況の箱数とは別の頁へ、間を空けて記した。

 

---

 

 翌朝、らでんは修道院の旧図面と倉庫記録を借りた。

 

 発見時の写真には十三の木箱が写っている。

 ただ、古い記録の「箱」が同じものかは分からない。

 石を擦る音も、荷を引く音か扉の音か、確かめる手掛かりはなかった。

 

 午前の作業を区切ってから、語彙索引を開いた。

 

 まず、現代語の「返す」から候補を引く。

 それをA-117の文字と見比べ、ピヨンに語の区切り方を確認する。

 候補になった語形と同じ語根の用例が、四十七件あった。

 

 原文を開くたび別の単語で止まり、訳文の「彼」を追って一段落前へ戻る。

 

「ピヨンさん、ここ、返した相手が違いません?」

 

 夕方近く、らでんは一つの用例を指した。

 最初に物を渡した人と、後で受け取った人の名前が違う。

 途中に代わりの受取人を立てたという説明も見つからない。

 

「そこは管理が替わるところ。上の欄から読んで」

「……あ。前に預かってた人から、次に預かる人へ?」

「そう」

 

 見出しへ戻った。

 

 古語、KALET。

 

 現代語では、単に「返す」と訳されることが多い。

 けれど、今読んだ箇所は、元の持ち主に品物が戻った話ではなかった。

 預かっていた物を、次の管理者へ移している。

 

 元の位置へ戻す。

 本来属する場所へ納め直す。

 朝ひとまとめにした用例も、動かす相手と行き先が違っていた。

 

 窓の外が暗くなってから、別の宗教文書の中にも同じ語を見つけた。

 

「ピヨンさん、こっちも」

「今度は何」

「遺体を、墓所へ返す」

 

 ピヨンは画面を覗き、前後の行まで確かめた。

 

「あるね」

 

 らでんはノートを開いた。

 道、門、墓。

 時代を分けて書いた記号の横へ、今の用例の出典を加える。

 

 あの夜、何を運んでいたかはまだ分からない。

「返す」の行き先だけが、思っていたより広がった。

 

「念、当たってたね」

 

 顔を上げた。

 少し嬉しくて、そのまま頷きかけた。

 

「……昨日の声がKALETだったかは、まだ分かりません」

「じゃ、今分かったのは?」

「この言葉に、こういう使い方もあることです。あれがなかったら、調べてなかったと思います。でも、何を見たのかは、まだ分からない」

 

 らでんは索引とA-117の画像を並べた。

 声の発音は今も書けない。

 しかし、用例の出典と、前後の文章は示せる。

 

「当たった、だけで終わらせるのは、もったいないです」

 

 ピヨンはしばらく画面を見ていた。

 それから、らでんが示した用例を作業用の一覧へ加えた。

 

「うん。そっちの方がいい」

 

 あの断片がなければ開かなかった資料が、机に並んでいる。

 偶然を待つだけでなく、自分から調べる入口を探せないだろうか。

 

---

 

 その夜、らでんは古いペン軸を借りた。

 

 八百点の古文書とは別に、比較用の参考資料として保管されているものだった。

 管理者に扱える範囲を確かめ、小さな受け台ごと調査室の机へ運ぶ。

 ペン先は付いていない。

 握るあたりの木肌が少し平らになり、先端近くには黒い汚れが残っていた。

 

 今回はピヨンにも、これで試したいと伝えてある。

 客室へ戻る背中を見送り、ノートを開いた。

 A-117の頁を閉じた。

 辞書を開く前にはなかった墓所まで、頭の中にできかけている。

 今は目の前のペン軸だけを見る。

 

 この平らなところへ、誰かが指を当てたのだろうか。

 何を書いたのかまでは分からなくても、使われている時のわずかな何かを拾えたら、今見えている木肌と比べてみたい。

 

 顔も、文章も決めつけない。

 何も来なければ、それを書く。

 

 ノートを脇へ寄せた。

 机の上を空け、ペン軸が転がらないように支える。

 手袋をした指先をそっと当て、目を閉じた。

 

 纏を整え、練でオーラを増やす。

 そこから、触れている指先へ静かに集めた。

 押し出そうと力んでいることに気づき、肩を下ろす。

 

 ――お前は、何を見た。

 

 何も起こらなかった。

 

 指には木の感触がある。

 遠くで誰かが扉を閉め、廊下の足音が消えた。

 そのほかには、書けるものがない。

 

 一分待っても何も来ない。

 額に汗が滲み、オーラの流れも乱れ始めた。

 

 いったん手を離した。

 

「……何もなし」

 

 書くと、ノートにはそれだけが残った。

 

 二度目も空振りした。

 練を増やしかけ、力んだ指を離す。

 A-117に触れた時のオーラ量は記録していない。

 強くすればいいとも限らなかった。

 

 三度目が終わっても、木は木のままだった。

 

 らでんは椅子の背へ寄りかかり、天井を見た。

 物に触れた途端、知らない匂いに驚かされたことなら何度もある。

 頼んでいる時に限って、ちっとも来ない。

 

「今はいいんですけどね。来ても」

 

 ペン軸へ話しかけてから、一人なのに少し照れた。

 

 返事があるわけではない。

 机の上の木片を眺め、自分から笑ってしまう。

 その間に呼吸が落ち着いた。

 

 四度目は、先ほどよりゆっくり触れた。

 姿勢を戻し、纏から練へ、練から指先へと整える。

 道具を使う人の顔も、書かれていたかもしれない文章も、今は考えない。

 

 指先が、少し痺れた。

 

――――――

 

 黒いものが走った。

 

 インクだった。

 白っぽい紙の上で、湿った線が光る。

 すぐ近くに指があり、関節が曲がる。

 紙が僅かにずれ、もう一本、線が――。

 

――――――

 

 目を開けた。

 

 調査室へ戻った。

 開いたノートには「何もなし」が三つ。

 ペン軸も元の位置にある。

 

「……出た」

 

 声を出すと、急に心臓が速くなった。

 

 ノートを引き寄せ、いつものペンを取る。

 黒いインク。紙。動く指。線。

 順に書き、文字の形も描こうとしたが、そこは戻ってこなかった。

 顔も見えなかった。ペンを止め、覚えている線の位置だけ、小さく描いた。

 

 書けたのは、それだけ。

 それでも椅子から立ち上がりそうになった。

 

 入口を見る。

 ピヨンに言おうとして腰が浮いたところで、机のペン軸へ目が戻った。

 

 今のは、偶然だったのか。

 

 二年前、水見式の真新しいグラスにも摩耗の痕を見た。

 今の一度だけでは、あの時と変わらない。

 

 椅子へ座り直した。

 

 ジンならこういうだろう、『一回だけなら、できたと言わない』

 

「あと一回」

 

 水を飲み、手を戻した。

 

 何も来なかった。

 

 次も、何も。

 

 期待していた分だけ、机の木目がやけにはっきり見えた。

 さっきの線を忘れないようノートを見返す。

 忘れてはいない。ただ、絵として頭の中に思い浮かべることと、さっき不意に入ってきた感覚は違った。

 

 同じ線が来るのを待とうとしていたことに気づく。

 

 らでんはノートを脇へ置いた。

 見えた線を追いかける代わりに、触れた時、自分が何をしていたかを確かめる。

 呼吸。姿勢。指先へ集めたオーラ。

 きっちり同じには戻せなくても、ひとつずつ近いところへ持っていく。

 

 次に何も来なかった時も、指の位置と力んだ箇所を記録した。

 手を離して身体を伸ばす。

 窓には暗い中庭より、机の明かりが強く映っていた。

 

 オーラを整え、ペン軸に触れたまま、待つ。

 

 調査室の机とは別の、白い紙が見えた。

 

 指が動いた。

 そのそばを黒い線が伸び、濡れた部分だけが細く光る。

 

 来た、と思った途端に、途切れた。

 

 らでんは目を開けたまま、しばらく動けなかった。

 さっきとよく似ている。どの文字だったのかは、今度も読めない。

 でも、紙の上を指が動くところを、もう一度拾った。

 

 ノートへ書く手が速くなった。

 

「二回」

 

 丸をつけた。

 何も来なかった記録の間に、二つの丸がある。

 続けて成功したわけではない。それでも、一つだけだった時とは違った。

 

 次の試みでは、また何も得られなかった。

 落胆はしたが、今度は机に突っ伏さなかった。

 指を離して休み、使ったオーラを落ち着かせてから戻る。

 うまくいかなかったところを一度に全部変えるのはやめた。

 

 三度目に断片を拾った時、紙の上の指は、黒い線を引き終える前に消えた。

 

 短かった。

 線の続きは分からない。

 読みたい文字を選べたわけでもない。

 

 らでんは目を開き、ペン軸を見た。

 それから、触れていた自分の指を見た。

 

 今、見ようとして触れた。

 

 もう一度、自分から。

 

 ノートへ三つ目の丸を書いて、少し離して眺めた。

 頭の奥が重く、目も乾いている。

 何も出なかった記録の方が、ずっと多い。

 それでも、ページを閉じるのが惜しかった。

 

「できた……」

 

 今度は、はっきり声になった。

 

 黒く汚れたペン軸は、最初からずっと同じ場所にある。

 変わったのは、自分の触れ方だった。

 

 らでんは最後の記録を書き終え、空いている頁を開いた。

 

 

 《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》

 

 

 書いた名前を指で隠し、また見た。

 少し大げさだろうか。

 今のところ、中身は黒いインクと、紙と、指がほとんどである。

 

 それでも、消さなかった。

 

---

 

 入口で物音がした時、らでんは机に伏せていた。

 

 顔を上げると、細い窓から朝の光が入っている。

 開いたノートの下へ腕を入れて眠ったせいで、頬に紙の端の跡がついていた。

 ペン軸は、休む前に戻した台の上にあった。

 

「何してんの」

 

 ピヨンが、机の前で止まった。

 記録を見て、らでんの顔を見て、また記録へ戻る。

 

「まさか、ずっと?」

「少し寝ました」

「そこでね」

 

 らでんは背筋を伸ばした。

 起きたばかりなのに、喉がかすれている。

 それでも、言いたいことはすぐに出た。

 

「多分、決まりました」

「何が?」

「私の発です」

 

 ノートを向ける。

 名前を書いた頁が先に開いてしまい、慌てて試行の記録へ戻した。

 

「そのペン軸で、三回。自分からやって、同じようなものを拾えたんです。途中は出ない時もいっぱいあって、でも最後には――」

「待って。聞くから、最初から」

 

 ピヨンが椅子を引いた。

 

 らでんは最初の頁を開く。

 何もなし、としか書いていない。

 その時は、この一行を見せたいとは少しも思わなかった。

 

 今はそこから、全部聞いてほしかった。

 

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