迎えの車が最後の坂を上ると、山肌に半分埋まったような灰色の建物が見えた。
窓は細く、午後の光が届いているのは壁の片側だけだった。
らでんは保冷材を袋へしまい、左手で鞄を持って降りた。
駅で見た古文書の画像が、まだ頭にある。
現物に触れたら、列車でピヨンに話した知らない手や景色がまた見えるだろうか。
自分から見ようとして見えたことは、まだない。
あの縁の穴は綴じ跡なのか。
写真では影に隠れていた部分を、ようやく自分の目で確かめられる。
石段の上で、管理者が扉を開けて待っていた。
「お待ちしていました。お部屋へご案内する前に、少し休まれますか」
「箱は、今どこにあります?」
挨拶より先に聞いてしまった。らでんは口を押さえ、改めて頭を下げる。
後ろから来たピヨンが、その横を通った。
「先に荷物置こ。今日だけで全部は見られないんだから」
「全部とは言ってませんよ」
「何箱?」
「できれば、全体をみていきたいですね」
「ほら」
管理者が小さく笑い、二人を中へ通した。
入口の机には新しい来訪者名簿があり、外では職員が門の鍵を確かめている。
列車からの連絡は届いていた。
鞄を置いて案内された先には、木箱が十三あった。
改修中の壁から見つかった、約八百点の資料。
羊皮紙や紙の文書に、木簡、布片、封蝋まである。
箱の形も揃っていない。
反った蓋の隙間から、細い紐が覗いていた。
「発見後は、最低限の安定化だけ行いました。大きく動かしてはいません。支えを入れたり、撮影のために開けたりした箇所は、こちらに」
管理者の示した記録を開く。
見たい穴へ手を伸ばす前に、発見後どこへ人の手が入ったかを確かめた。
最初の一時間は資料に触れず、配置と重なりを撮る。
隣ではピヨンが仮番号を読み上げ、目録と照合していた。
「そこ、もう一枚」
「撮ってますよ」
「下の紐が、蓋の陰になってる」
「あ、そっちですか」
膝を折ると、さっきまで一本に見えた紐が、蓋の下で二つに分かれていた。
結び目ではなさそうだった。
らでんは角度を変えて撮り、どちらの端も、まだ引かなかった。
開いた箱に光が差し、羊皮紙の黒い線が横へ動いた。
裂け目ではなく、反り返った縁の影だ。
らでんは位置をずらし、もう一枚撮った。
画像だけでは分からなかった縁の厚みが、目の前にある。
その羊皮紙の番号を控え、次へ進むところで目が止まった。
百十七番、A-117。中央に同じ記号が並んでいる。
薄く凝を使うと、表面に微かなオーラが見えた。
昨日今日ついたものとは違う気がする。
文字を読もうとしていた目が、そちらから離れなくなった。
「ピヨンさん。A-117、念が残ってます」
「触った? 列車で話してた景色、見えた?」
「まだです」
「えらい」
「子供扱いしてません?」
「十五は子供でしょ」
言いながら、ピヨンは端末を脇へ置いていた。
数秒、資料を見てから、らでんへ視線を戻す。
「どんな感じ?」
「古いです。あ、紙じゃなくて、念が」
「それ、書いた人の念だって分かる?」
らでんは羊皮紙へ目を戻した。
「……そこまでは」
「百年前に箱へ入れた人かもしれないし、発見した後に誰かが触ったのかもしれない。紙と一緒に残ってるからって、同じ日にくっついたとは限らないよね」
記録には「念的な残留を認めた」と書く。
「古い」は消し、「自分にはそう感じられた」と添えた。
ピヨンがそのペン先を見ていた。
「見えたからって、正しいとは限らないよ」
「……はい」
A-117へ触れるのは後回しにした。
目録へ戻り、翌朝見る文書の番号を控える。
駅で書いた綴じ穴の項目に、印をつけた。
---
翌朝、調査台の上に、あの穴のある文書が出された。
写真では縁に沿って黒い点が並んでいたが、現物を見ると、その列の少し内側にも小さな穴があった。
こちらは三つ。真ん中だけ、わずかに間隔が狭い。
らでんは番号を付けた撮影画像を並べ、いくつかの文書の端を拡大した。
外側の穴はだいたい同じ位置にある。
それなのに、内側の三つが揃うものと、揃わないものが混じっていた。
「ピヨンさん、これ、今の並びだけで読まない方がよさそうです」
「何で?」
「綴じ穴が二組あります。同じ束にあったものでも、前の穴は合わないんです」
隣から身を寄せたピヨンが、画面を二度切り替えた。
「綴じ直した?」
「多分。いつかはまだ分かりませんけど。この紙、前の穴が端の近くで切れてます」
「じゃ、今の束と、前の束は別に追おっか」
ピヨンが目録に欄を増やした。
今の箱番号は残し、古い穴が揃う候補同士に印をつける。
内容の続きと、紙の使われ方は一致しない。
誰かがこの紙を捨てず、別の束へ入れたのかもしれなかった。
「思ってたのと違いました」
「外れ?」
「いえ。一回分だと思ってたので」
ピヨンが画面を戻し、ほかの資料にも同じような穴がないか探し始めた。
昼前には、反対に二枚の文書を見せられた。
「同じ人が書いたと思う?」
文字はよく似ている。らでんは一度、同じ、と答えかけた。
けれど片方は紙が薄く、インクの見え方も少し違った。
二枚を交互に見ていると、同じ形に見えた文字の終わりが、揃わなくなってくる。
「こっちは、押し込んで止めてますね。もう一枚は、先が抜けてる」
「ほかの字でも?」
同じ記号を探した。
二つ、三つ。
急いで書いたらしい行でも、その違いが残っている。
「あります。筆圧も違いそうです」
「うん。似た形を、別の手で書いてる方がありそう」
「これ、文字だけ切り出すと、もっと似て見えますね」
「なら全体も残す」
ピヨンが二枚を並べた画像へ戻す。
らでんは次に比較する文字を探した。
そうしているうちに、管理者が入口に立っていた。
「お昼をお持ちしましたが、どちらへ」
二人で周りを見た。
机はどこも埋まっている。
「食堂、使えます?」
ピヨンが聞くと、管理者は少しほっとした顔で頷いた。
らでんは最後の一文字をノートへ写し、続きの場所に紙を挟んだ。
「続き、食べてからね」
「分かってます」
「それ、三文字目」
数えられていた。
三日目には、文書群の中に、大きく二つの時代があることが見えてきた。
年記と用語、字体を追うと、大半は三百年前のものだった。
一部は百二十年前に追加されている。
らでんが見た紙や補修の違いも、その分かれ方と重なる箇所があった。
古い文書を写したらしいものもあり、同じ語だけでは時代を分けられない。
ピヨンは年記を、らでんは綴じ直された候補を追った。
四日目の午後、繰り返し現れる記号の一覧を見て、ピヨンが椅子を寄せた。
「これ、意味が変わってる」
「例の記号ですか」
「うん。三百年前の用例だと、道。通路、でもいい。百二十年前の方は、門」
らでんは二つの文を見比べた。
同じ形を探すところまではできるが、周りの文を続けて読めるわけではない。
ピヨンが単語の区切りを示し、それぞれの用例を読み下していく。
さらに後の時代になると、墓、の意味で使われた例があった。
「同じ文字なのに?」
「言葉は変わるからね~」
らでんも一覧へ身体を寄せる。
道と門は近い。
そこへ墓が加わると、もう同じ意味のつもりでは読めない。
「これ、面白いですね」
「でしょ」
「でも、次に同じ字があっても、すぐ読めないんですね」
「読んでいいよ。当たってるか、あとでちゃんと調べれば」
らでんはノートの記号の横へ、三つの意味を時代と一緒に書き加えた。
書き終えると、列車で見た一覧よりも、余白がずっと狭くなっていた。
---
四日目の夜、記録を戻しに保存庫へ入ると、台の上にA-117があった。
ピヨンは別室で管理者と打ち合わせている。
らでんは戸口を振り返ってから、羊皮紙へ目を戻した。
昼に見比べた、あの記号。
薄く凝を使うと、初日と同じ場所に微かなオーラが見えた。
読める言葉は増えても、これは変わらない。
書かれた言葉を辿るだけでは、この引っ掛かりには届かない。
触れたら、何か来るだろうか。
らでんは台の前へ椅子を寄せた。
手袋は外さず、その上から指先へ、ほんの薄く周を巡らせる。
羊皮紙を押し込まないように触れ、中央の記号を見ようとした。
――――――
暗い。
そう思った時には、石を擦る音がしていた。
部屋のどこから響くのか探すより先に、荒い息がすぐ近くへ来る。
重いものを運んでいる。
手の中にあるはずのない重さが、身体の奥へかかった。
箱がある。木箱が、一つ、二つ。
十三。
知らない言葉が重なり、誰かが叫んだ。
聞き取れない。
それなのに一語だけ、ほかの音とは違う形で残った。
――返す。
指を離した。
――――――
机の脚が見え、次に、自分の足元が見えた。
椅子に座っていたはずなのに、どこから座り直せばいいのか、一瞬分からなかった。
らでんは台へ手をつきかけ、そこに羊皮紙があることを思い出して引いた。
「何やってんの」
肩が跳ねた。
ピヨンが入口に立っている。いつからいたのか分からない。
らでんは手袋をした指を膝へ戻した。
「勝手に触った?」
「……はい」
「次は呼んで。で、何がみえた?」
らでんは話し始めた。
石の音、荒い息、重さ、箱。
口に出すと、繋がった出来事のように聞こえる。
途中で言い直した。
誰が運んでいたのか、どこへ向かっていたのかは見ていない。
「箱は十三。それから、返す、って」
ピヨンはPCを開いた。
「じゃ、それが何だったか、確かめよっか」
「何だったか?」
「三百年前の場面なのか、この紙に起きたことなのか。“返す”が本当にそういう言葉だったのか」
らでんはノートを開いた。
聞こえた音を書こうとして、ペンが止まる。
発音が戻ってこない。
知らない言葉を聞いた感触と、返す、という一語だけがあった。
「……『返す』って、そのまま聞こえたわけじゃないです」
「じゃ、そのまま書いて」
返す、と感じた。
聞こえた言葉を正確には再現できない。
書き終えると、ピヨンが箱のところを指した。
「十三って、見る前から知ってたよね」
「はい。でも、今、見えた時にも」
「うん。それは残しといて。三百年前にも十三だったかは、ほかで調べる」
音と箱と、「返す」。
現況の箱数とは別の頁へ、間を空けて記した。
---
翌朝、らでんは修道院の旧図面と倉庫記録を借りた。
発見時の写真には十三の木箱が写っている。
ただ、古い記録の「箱」が同じものかは分からない。
石を擦る音も、荷を引く音か扉の音か、確かめる手掛かりはなかった。
午前の作業を区切ってから、語彙索引を開いた。
まず、現代語の「返す」から候補を引く。
それをA-117の文字と見比べ、ピヨンに語の区切り方を確認する。
候補になった語形と同じ語根の用例が、四十七件あった。
原文を開くたび別の単語で止まり、訳文の「彼」を追って一段落前へ戻る。
「ピヨンさん、ここ、返した相手が違いません?」
夕方近く、らでんは一つの用例を指した。
最初に物を渡した人と、後で受け取った人の名前が違う。
途中に代わりの受取人を立てたという説明も見つからない。
「そこは管理が替わるところ。上の欄から読んで」
「……あ。前に預かってた人から、次に預かる人へ?」
「そう」
見出しへ戻った。
古語、KALET。
現代語では、単に「返す」と訳されることが多い。
けれど、今読んだ箇所は、元の持ち主に品物が戻った話ではなかった。
預かっていた物を、次の管理者へ移している。
元の位置へ戻す。
本来属する場所へ納め直す。
朝ひとまとめにした用例も、動かす相手と行き先が違っていた。
窓の外が暗くなってから、別の宗教文書の中にも同じ語を見つけた。
「ピヨンさん、こっちも」
「今度は何」
「遺体を、墓所へ返す」
ピヨンは画面を覗き、前後の行まで確かめた。
「あるね」
らでんはノートを開いた。
道、門、墓。
時代を分けて書いた記号の横へ、今の用例の出典を加える。
あの夜、何を運んでいたかはまだ分からない。
「返す」の行き先だけが、思っていたより広がった。
「念、当たってたね」
顔を上げた。
少し嬉しくて、そのまま頷きかけた。
「……昨日の声がKALETだったかは、まだ分かりません」
「じゃ、今分かったのは?」
「この言葉に、こういう使い方もあることです。あれがなかったら、調べてなかったと思います。でも、何を見たのかは、まだ分からない」
らでんは索引とA-117の画像を並べた。
声の発音は今も書けない。
しかし、用例の出典と、前後の文章は示せる。
「当たった、だけで終わらせるのは、もったいないです」
ピヨンはしばらく画面を見ていた。
それから、らでんが示した用例を作業用の一覧へ加えた。
「うん。そっちの方がいい」
あの断片がなければ開かなかった資料が、机に並んでいる。
偶然を待つだけでなく、自分から調べる入口を探せないだろうか。
---
その夜、らでんは古いペン軸を借りた。
八百点の古文書とは別に、比較用の参考資料として保管されているものだった。
管理者に扱える範囲を確かめ、小さな受け台ごと調査室の机へ運ぶ。
ペン先は付いていない。
握るあたりの木肌が少し平らになり、先端近くには黒い汚れが残っていた。
今回はピヨンにも、これで試したいと伝えてある。
客室へ戻る背中を見送り、ノートを開いた。
A-117の頁を閉じた。
辞書を開く前にはなかった墓所まで、頭の中にできかけている。
今は目の前のペン軸だけを見る。
この平らなところへ、誰かが指を当てたのだろうか。
何を書いたのかまでは分からなくても、使われている時のわずかな何かを拾えたら、今見えている木肌と比べてみたい。
顔も、文章も決めつけない。
何も来なければ、それを書く。
ノートを脇へ寄せた。
机の上を空け、ペン軸が転がらないように支える。
手袋をした指先をそっと当て、目を閉じた。
纏を整え、練でオーラを増やす。
そこから、触れている指先へ静かに集めた。
押し出そうと力んでいることに気づき、肩を下ろす。
――お前は、何を見た。
何も起こらなかった。
指には木の感触がある。
遠くで誰かが扉を閉め、廊下の足音が消えた。
そのほかには、書けるものがない。
一分待っても何も来ない。
額に汗が滲み、オーラの流れも乱れ始めた。
いったん手を離した。
「……何もなし」
書くと、ノートにはそれだけが残った。
二度目も空振りした。
練を増やしかけ、力んだ指を離す。
A-117に触れた時のオーラ量は記録していない。
強くすればいいとも限らなかった。
三度目が終わっても、木は木のままだった。
らでんは椅子の背へ寄りかかり、天井を見た。
物に触れた途端、知らない匂いに驚かされたことなら何度もある。
頼んでいる時に限って、ちっとも来ない。
「今はいいんですけどね。来ても」
ペン軸へ話しかけてから、一人なのに少し照れた。
返事があるわけではない。
机の上の木片を眺め、自分から笑ってしまう。
その間に呼吸が落ち着いた。
四度目は、先ほどよりゆっくり触れた。
姿勢を戻し、纏から練へ、練から指先へと整える。
道具を使う人の顔も、書かれていたかもしれない文章も、今は考えない。
指先が、少し痺れた。
――――――
黒いものが走った。
インクだった。
白っぽい紙の上で、湿った線が光る。
すぐ近くに指があり、関節が曲がる。
紙が僅かにずれ、もう一本、線が――。
――――――
目を開けた。
調査室へ戻った。
開いたノートには「何もなし」が三つ。
ペン軸も元の位置にある。
「……出た」
声を出すと、急に心臓が速くなった。
ノートを引き寄せ、いつものペンを取る。
黒いインク。紙。動く指。線。
順に書き、文字の形も描こうとしたが、そこは戻ってこなかった。
顔も見えなかった。ペンを止め、覚えている線の位置だけ、小さく描いた。
書けたのは、それだけ。
それでも椅子から立ち上がりそうになった。
入口を見る。
ピヨンに言おうとして腰が浮いたところで、机のペン軸へ目が戻った。
今のは、偶然だったのか。
二年前、水見式の真新しいグラスにも摩耗の痕を見た。
今の一度だけでは、あの時と変わらない。
椅子へ座り直した。
ジンならこういうだろう、『一回だけなら、できたと言わない』
「あと一回」
水を飲み、手を戻した。
何も来なかった。
次も、何も。
期待していた分だけ、机の木目がやけにはっきり見えた。
さっきの線を忘れないようノートを見返す。
忘れてはいない。ただ、絵として頭の中に思い浮かべることと、さっき不意に入ってきた感覚は違った。
同じ線が来るのを待とうとしていたことに気づく。
らでんはノートを脇へ置いた。
見えた線を追いかける代わりに、触れた時、自分が何をしていたかを確かめる。
呼吸。姿勢。指先へ集めたオーラ。
きっちり同じには戻せなくても、ひとつずつ近いところへ持っていく。
次に何も来なかった時も、指の位置と力んだ箇所を記録した。
手を離して身体を伸ばす。
窓には暗い中庭より、机の明かりが強く映っていた。
オーラを整え、ペン軸に触れたまま、待つ。
調査室の机とは別の、白い紙が見えた。
指が動いた。
そのそばを黒い線が伸び、濡れた部分だけが細く光る。
来た、と思った途端に、途切れた。
らでんは目を開けたまま、しばらく動けなかった。
さっきとよく似ている。どの文字だったのかは、今度も読めない。
でも、紙の上を指が動くところを、もう一度拾った。
ノートへ書く手が速くなった。
「二回」
丸をつけた。
何も来なかった記録の間に、二つの丸がある。
続けて成功したわけではない。それでも、一つだけだった時とは違った。
次の試みでは、また何も得られなかった。
落胆はしたが、今度は机に突っ伏さなかった。
指を離して休み、使ったオーラを落ち着かせてから戻る。
うまくいかなかったところを一度に全部変えるのはやめた。
三度目に断片を拾った時、紙の上の指は、黒い線を引き終える前に消えた。
短かった。
線の続きは分からない。
読みたい文字を選べたわけでもない。
らでんは目を開き、ペン軸を見た。
それから、触れていた自分の指を見た。
今、見ようとして触れた。
もう一度、自分から。
ノートへ三つ目の丸を書いて、少し離して眺めた。
頭の奥が重く、目も乾いている。
何も出なかった記録の方が、ずっと多い。
それでも、ページを閉じるのが惜しかった。
「できた……」
今度は、はっきり声になった。
黒く汚れたペン軸は、最初からずっと同じ場所にある。
変わったのは、自分の触れ方だった。
らでんは最後の記録を書き終え、空いている頁を開いた。
《
書いた名前を指で隠し、また見た。
少し大げさだろうか。
今のところ、中身は黒いインクと、紙と、指がほとんどである。
それでも、消さなかった。
---
入口で物音がした時、らでんは机に伏せていた。
顔を上げると、細い窓から朝の光が入っている。
開いたノートの下へ腕を入れて眠ったせいで、頬に紙の端の跡がついていた。
ペン軸は、休む前に戻した台の上にあった。
「何してんの」
ピヨンが、机の前で止まった。
記録を見て、らでんの顔を見て、また記録へ戻る。
「まさか、ずっと?」
「少し寝ました」
「そこでね」
らでんは背筋を伸ばした。
起きたばかりなのに、喉がかすれている。
それでも、言いたいことはすぐに出た。
「多分、決まりました」
「何が?」
「私の発です」
ノートを向ける。
名前を書いた頁が先に開いてしまい、慌てて試行の記録へ戻した。
「そのペン軸で、三回。自分からやって、同じようなものを拾えたんです。途中は出ない時もいっぱいあって、でも最後には――」
「待って。聞くから、最初から」
ピヨンが椅子を引いた。
らでんは最初の頁を開く。
何もなし、としか書いていない。
その時は、この一行を見せたいとは少しも思わなかった。
今はそこから、全部聞いてほしかった。