朝。昨夜ほとんど眠っていないらでんは古いペン軸を机の上へ置き、ピヨンに同じ説明を三度した。
一度目は興奮して順序がぐちゃぐちゃになり、二度目は見えたものをなるべく正確に説明しようとして長くなり、三度目でようやく調査報告らしい形になった。
最初は偶発。
その後同じ対象に対して意識的に念を流し、同種の断片を三度取得。
知覚したものは黒いインク、紙、筆記する指。
持続時間は数秒。対象へ接触している間のみ。
発動時には強い集中を要した。
三回ともほぼ同一の場面だった。
話し終えた時、少なからず期待していた。
『それなら発だね』とか『おめでとう』とか、少なくとも『面白い』くらい。
しかし最初に言われたのは、
「証拠は?」
だった。
「……はい?」
「昨日見たものが、本当にそのペン軸が経験した過去だって、どうやって確かめたの?」
朝一番から一番触れられたくないところだった。
「まだ確認は……」
「じゃあ、発かどうかもまだ分かんないじゃん」
「三回同じもの見えたんですよ?」
「三回同じ妄想見ただけかもしれない」
「言い方!」
ピヨンは気にせずPCを開き、指を一本立てた。
「再現性」
二本目で、
「発動条件」
三本目で、
「取得できる情報の範囲」
四本目で、
「間違える条件」
五本目で、
「使えない条件」
もう片方の親指を立てて、
「使った側への負荷」
ピヨンは両手をらでんへ向けた。
「それくらい分かって、やっと“使える能力”」
言い返しかけた。けれどやめた。
自分でも分かっている。
昨夜は嬉しかった。
二年前、水見式で特質系だと分かった。
それからずっと勝手に起こる奇妙な知覚を抱えたままだった。
それが初めて自分の意思で起こせた。
だから「完成した」と思いたかった。
でもそれは自分が文化財調査で一番嫌ってきた態度でもある。
分からないものを分かったことにする。
自分の念だけそれを許すわけにはいかなかった。
息を吐き、少しだけ背筋を伸ばした。
「じゃあ」
「じゃあ?」
「手伝ってください」
キーボードを打つ音が止まった。ピヨンが顔を上げる。
逃げずに続けた。
「この能力、ちゃんと使えるようにしたいです」
「調査に持ち込んでも、自分で自分を騙さないようにしたい」
「だから、
数秒、眺められた。
昨日までなら『自分でやれば?』くらい言われると思った。
ところが返事はあっさりしていた。
「いいよ」
正直驚いた、驚きと嬉しさが半々というところだ。認めさせたいという気持ちもある。
その直後、ピヨンの口元が少しだけ意地悪く上がった。
「ただし」
嫌な予感がした。
「甘くやんないよ」
「……はい」
「途中で自信なくしても」
「はい」
「念のこと嫌いになっても」
「はい」
「泣いても」
「泣きません」
ピヨンはPCを閉じた。
「じゃあ、壊しにいこっか」
顔が固まった。
「能力を!?」
「思い込みを」
---
三日後の午後。
古文書の調査を続けていた二人の前に、試験用の五品が並んだ。
古い木匙、小さな金属製の護符、飾りの少ない指輪、古びた人形、そして明らかに新品のガラス瓶。
それぞれにAからEまで番号札を付けた。
「由来は教えない、先入観になるから」
一枚の記録用紙が渡された。
項目が細かい。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、感情、人物、場所、時間感覚、そして確信度。
そこを見る。
「確信度?」
「自分が、その知覚をどれくらい“本物っぽい”と思ったか。あとで答え合わせする」
嫌な予感がさらに強くなった。
最初は木匙。
指先で触れ、纏と練でオーラを細く整えて対象へ向け、自分の中で問いを作る。
――お前は、何を見た。
――――――
視界が一瞬暗くなり、湯気が見えた。
鍋の縁を木が擦る。
皺のある手が匙を動かす。
女性がいて、その向こうに子供がいた。
笑い声と、すぐ近くに人がいる温かさが一緒に来る。
――――――
目の前に木匙が戻った。
らでんは、鍋、手、女性、子供、笑い声を記録した。
『家庭の炊事』は解釈欄へ。
匙の摩耗から考えた『長期間使用』は肉眼の観察欄に分けた。
確信度は八十だった。
二つ目は護符。
金属に触れた瞬間、見ていた机が遠のいた。
――――――
布がすぐ近くにある。
暗く狭いところで、鼓動が速い。
汗の匂いと恐怖が、喉の下へ詰まった。
言葉は聞こえない。
けれど、どうか、と願うような切迫感が残る。
――――――
思わず呼吸を詰まらせ、手を離した。
自分の胸も、しばらく速く動いている。
あれを『祈り』と呼んでいいのか、まだ分からなかった。
『強い感情』『恐怖』『身につけて使用』確信度は九十だった。
三つ目は指輪。ほとんど何も来ない。
十秒、二十秒と待って、ようやく何かがかすめた。
――――――
布らしいもの。
箱の内側のような暗さ。
――――――
それだけだった。
どこまで見えたのか、自分でも曖昧だ。
「情報ほぼなし」確信度は三十だった。
四つ目は古びた人形。
指先が触れた途端、子供の泣く声がした。
――――――
床が近い。
火が揺れ、怒鳴り声に身体が縮む。
落ちる。
何かが割れる音が、近すぎるところで弾けた。
――――――
反射的に手を離した。
椅子の背に身体が当たる。
机の人形を見ながら呼吸を整えたが、泣き声だけは耳から離れなかった。
子供、火、落下、破損。
「事故」と書いたところで、らでんはペンを止めた。
見たのは落ちる場面で、何が起きたかはまだ知らない。
横に小さく疑問符を足す。
それでも確信度は九十五だった。
それだけ体験が生々しかった。
最後は新品のガラス瓶で、思わず言った。
「これ、新品ですよね」
「見れば分かる」
「じゃあ、何も残ってないんじゃ」
「やって」
瓶へ指を当てて数秒、調査室がもう一度見えた。
――――――
ピヨンがいる。
手袋をした手がガラス瓶を持ち、机へ置く。
それだけで切れた。
――――――
目を開いてピヨンの顔を見る。
「……昨日、これ、触りました?」
「触った」
少し嬉しくなった。
初めて能力で取得した情報がその場で確認できた。
「じゃあ――」
「まだ」と遮られた。
そして答え合わせが始まった。
---
木匙は「百二十年前。修道院近くの共同炊事場跡から出土」
らでんは止まる。
「共同?」
「数十人規模で使ってた可能性が高い」
自分の記録を見る。
女性、子供、温かい食事、家庭。
「でも」
「家庭に見えた?」
「……はい」
「見えた場面が家庭っぽかっただけで、この匙の用途全部が家庭用になる?」
黙る。
ならない。
数秒の一場面を百年以上の用途へ拡張した。
一つ目からもう間違えていた。
護符では少し慎重になった。
資料を見せられる。
「墓から出た」
表情が変わる。
「じゃあ生前、身につけて――」
ぴたりと止められる。
「かもしれない。死者への副葬品。生前本人が使ってたって証拠はない」
恐怖、鼓動、祈り。
あれは誰だったのか。
死者か、埋葬した家族か、墓を開けた人か、発掘者か、後世に持った誰かか。
分からない。
強い感情を見たから重要な場面と思い込んだ。
でも誰の感情かすら分からない。
指輪ではさらりと言われた。
「新品」
顔を上げた。
「え?」
「古く見えるように加工した新品」
指輪を見直した。
確かに見た目は古い。
けれど能力ではほぼ何も出なかった。
「これは当たり」と少しだけ安心する。
でも安心する暇はなかった。
人形では今日一番嫌な笑顔をされ、一枚の紙を出された。
三日前、性能試験を引き受けた後に破損。動きが止まった。
「……は?」
「私が落とした」
「火は?」
「演出」
「子供は?」
「友達にやってもらった」
言葉を失った。
「そこまでやる!?」
「性能試験だから」
確信度九十五。
自分が一番自信を持ったものが一番強く仕込まれていた。
「感情が強いと古いとか重要だとか思った?」
悔しそうに、
「……思いました」
指を立てられる。
「じゃ、一個わかったね。残った感情の強さと歴史的価値は別」
すぐノートへ書いた。
強烈な残留=重要な歴史ではない。
ただ書きながら思う。
この能力は難しい。
自分が思っていたよりずっと。
---
人形を片づけるピヨンの手を、らでんは目で追った。
「絵でも、試したいです」
「次、もうあるけど」
「一枚だけ。描いてあることと、紙に起きたことを、私がちゃんと分けられるか」
あの人形の火は、仕込まれたものでも実際の出来事だった。
けれど火事を描いた紙なら、その前で火が燃えたとは限らない。
「絵を見る前と後で、一回ずつやりたいです」
「見たら、戻せないよ」
「だから、見ない方を先に」
ピヨンが端末を取った。
---
管理者が貸してくれたのは、本人が買った安い複製画一枚だった。
紙への接触と試験の許可を確かめる。
絵柄を隠すため二枚の厚紙で挟まれていて、裏の端だけ出せるようになっていた。
一緒に封筒が置かれた。
管理者が以前から残していた写真と取扱記録が入っているという。
封は閉じたままで、ピヨンも中を見ていない。
管理者は試験に立ち会わず、自分の仕事へ戻った。
らでんは水を飲み、二枚の記録用紙を並べた。
今回は一回二十秒まで、二回で終えることにする。
目で確かめたこと、能力で得た断片、自分の解釈。
それぞれ書く場所を分け、紙の裏の色と手触りを最初の欄へ記した。
指を当て、オーラを整える。
何も来ない。
指先には紙の縁がある。
部屋ではピヨンが椅子を引く音がした。
それ以外に、書き留められるものはなかった。
二十秒で手を離す。
断片を取得できず。
一枚目にそう書き、二枚目へ移った。
厚紙を外すと、赤い屋根と黒い煙が現れた。
建物の窓から炎が上がり、小さな人影が道を走っている。
火事の絵だった。
紙の右下の白い余白には、細い折れがあった。
らでんはまず、それを肉眼の観察欄へ書いた。
それから別のところに、絵柄を見て、火・熱・煙の匂いを予想した。と足す。
まだ能力は使っていない。
それでも、断片の欄にまで「火」と書きたくなる。
そちらは空けたまま、ペンを置いた。
「欄、足りる?」
「もう狭いです」
「大きく書くから」
「後から増えるんですよ!」
少し笑って、呼吸を整え直した。
同じ端へ指を戻す。
火を探すのではなく、さっきと同じように問いかけた。
――――――
紺色の布。
白い四角。
紙の縁を押さえる指が動く。
すぐ近くで、硬いものの当たる音が一つした。
――――――
手元の紙へ意識が戻る。
絵に描かれた火も、予想した熱も来なかった。
らでんは紙を置き、見えたものをそのまま書いた。
白い四角が何だったのか、もう一度思い返す。
別の紙か。
布の補修か。
決めずに形だけ描いた。
硬い音の正体も分からない。
解釈欄には『紙を何かに取り付けている?』と書く。
「書けた?」
「はい」
ピヨンが二枚の記録を撮影した。
らでんは最後の行の下に線を引き、答え合わせの追記はその下へ書くことにした。
それから封筒を開けた。
---
中の写真には、額を替えている途中の複製画が写っていた。
右下の折れが見える。
その下には紺色の布が敷かれ、端に四角い白布が縫い付けてあった。
らでんは写真を顔へ近づけた。
自分の描いた四角と見比べ、また写真へ戻る。
「これ、かもしれない」
少し声が弾んだ。
今度はピヨンの仕込みを聞かされているのではない。
自分が触るより前に残された写真を、机の上で見比べられる。
紺色の布と白い四角には、照合欄で印をつけた。
音のところではペンが止まった。
写真に金具は写っている。
でも、あの音がこれだったとまでは分からない。
取扱記録には購入と額の交換、保管先の移動が書かれていた。
火事についての記載はなかった。
「火事には遭ってない、は?」
ピヨンに聞かれ、らでんは写真から紙へ目を戻した。
「そこまでは。この記録にないだけです」
「能力の方は」
「今回、その場面は出ませんでした」
絵の窓ではまだ火が燃えている。
これは最初から肉眼で見えていたものだ。
断片の欄へは移さなかった。
一回目の用紙も引き寄せる。
取得できず、としか書いていない。
けれどその紙にも、写真に残る額の交換はあった。
最初に何も拾えなかったことと、紙に何も起きなかったことは違う。
二枚を並べ、ノートに書く。
二回試行。一回目は取得なし。
二回目は断片あり、一部を写真と照合。
二回目のみ絵柄を先に見ている。
「見せた方が読める、ってこと?」
「まだ分かりません」
らでんは二枚の記録を指した。
「順番も違うし、同じ物でも次に何が出るか分からない。一枚で一回ずつですから」
ピヨンは頷き、開いた封筒を机の脇へ寄せた。
もう一度触れば、この写真の場面がもっと見えるだろうか。
少し試したかった。
でも写真を見た後なら、紺の布と白い四角を、今度は自分から待ってしまう。
それに、今日は二回と決めた。
らでんは手を伸ばす代わりに、先入観の欄を少し広げた。
次に使う用紙にも必要だった。
それから、折れた角を押し潰さないよう厚紙を戻す。
赤い屋根も煙も隠れ、机にはまた平たい包みが残った。
二枚の記録は、何も得られなかった一枚目から順に重ねて、ノートへ挟んだ。
---
午後、今度は木杯が三つ。
形も汚れもよく似ていた。
「一番古いの、どれ」
「能力で?」
「能力でも。普通に見ても。好きに」
一つ目に触れた。
――――――
酒の匂い、歌、笑い声。
宴らしい場面が次々に変わる。
――――――
二つ目に触れる。
――――――
暗い箱の中のような景色と湿気だけ。
待っても、人の姿は来ない。
――――――
三つ目に触れる。
――――――
同じ手が杯を置き、持ち上げる。
いつも同じ場所で、同じ動きが重なるように戻ってきた。
――――――
三つを見比べた。
一つ目の方がたくさん見えた。
けれど三つ目の手つきも、妙に濃く残っている。少し考えて、
「一つ目」
「一番新しい」
黙った。
「一つ目。五十年前。二つ目。二百年前。三つ目。百年前」
二つ目を見つめる。
「何で、ほとんど何も……」
「使われてなかったから」
二百年と古い。
でも百九十年以上箱の中で誰にも触られず何も経験しない。
能力にとって年代それ自体にはほとんど意味がない。
聞かれる。
「古いほどいっぱい見える?」
「……違う」
「使った回数が多いほど?」
三つ目を見る。
同じ人物、同じ行為、何度も。
「それも、単純じゃない」
ノートに書く。
『古さと情報量は比例しない。接触頻度とも単純比例しない』
一度止まり、『反復された経験は濃く残る場合がある』と加えた。
横から声がした。
「“場合がある”」
見る。
「断定しません」
少し笑う。
「学習したね」
---
同じ日のうちに、ピヨンが布袋を出した。
中身は見せない。
「手入れて」
「何入ってるんです?」
「知らない方がいい」
少し警戒しながら袋へ手を入れる。
冷たい、小さい、丸い金属に触れて能力を使う。
――――――
風が来た。
海と船。
男の手から何かが放られ、水面へ落ちて沈む。
次は浜。
少女がそれを拾い上げて笑った。
場面が変わり、老人の手が机の上で金属を磨いている。
――――――
袋の中の丸い感触が戻る。
出してみると、知らない紋章のコインだった。
「何見えた?」
全部説明した。
「このコイン、どこの国?」
「分かりません」
「年代」
「分かりません」
「最初の所有者」
「分かりません」
「何年海に沈んでた?」
「分かりません」
「いいね」
「何がです?」
「“分からない”って言えるようになった」
悔しいが、悪くない。
ピヨンがコインを指先で転がした。
声が少し真面目になる。
「お前の能力、便利だけど
黙って聞いた。
「映像みたいに出てくるものって人間信じやすいから」
文書なら疑う。証言なら記憶違いを考える。
写真なら撮影者や切り取り方を考える。
だが、頭へ流れ込む光景や匂いは、あまりに『実際にあったこと』に感じられた。
「例えば今の男が海に投げた」
「はい」
「捨てた?」
答えかけ止まった。
「……分からない」
「儀式かもしれない」
「うん」
「遊び」
「うん」
「事故」
「うん」
「誰かに見せるためにわざと」
「あるかもね」
ピヨンがコインを置いた。
「お前の能力、現象は見せるけど意味は教えてくれない」
ゆっくりノートへ書いた。
現象は見えても、意味は保証されない。
書いてから少し手が止まる。
物語る。
ただ断片を差し出す。
それを読むのは自分である。
---
翌日、ピヨンは笑顔だった。
その時点でもう警戒した。
「今度は何です?」
「もっと嫌なやつ」
「自分で嫌なやつって言うんですね」
机には十個、全部小物で金具、木片、紙、小刀、布と雑多。
「この中に一個だけ昨日念能力者に強い悪意を込めて触ってもらった」
見る。
「それを探す?」
「うん」
「簡単じゃないですか?」
「そう思う?」
その笑顔で簡単ではないと分かる。
一つ、二つ、三つと触れ、触れるたびに記録用紙へ見えた感情と確信度を書き留め、呼吸を整えて次へ移る。
四番の小刀へ触れた。
――――――
冷たい殺意と嫌悪が胸を横切る。
すぐそばに、何かを殺したい気持ちがあるようだった。
――――――
背中が粟立った。
手を離し、指先の痺れが引くのを待ってから記録する。
「これ」と言い切りかけて止める。
「……保留」
ピヨンの口元が少し上がる。
最後まで調べ、七つ目では悲しみを拾って手を止め、九つ目ではほとんど何もなく首を傾げ、十番も何もなく目を開く。
戻って四つ目を指す。
「これだと思います」
「外れ」
一瞬意味が分からなかった。
四番は百年前、殺人事件で使われた小刀で、強烈な悪意は昨日のものではない。
正解は『九番』何も見えなかったあれ。
顔を上げる。
「でも、何も」
「そいつ、持っただけだから」
「悪意を込めて?」
「うん」
「でも物に何か起きるほど、何もしてない」
念能力者が昨日持った九番には何も拾えず、百年前に使われた四番では強く感じた。
オーラの強さだけを測っているわけではなさそうだ。
らでんは『単純な残留オーラ検出ではない』とノートに書いた。
「そこ、大事」
「私は何を見てるんでしょう」
「さあ」
あっさり言われる。
「そこ考えてくれないんです?」
「本人が考えた方がいいでしょ」
それからピヨンは言った。
「強い感情とか、使った回数とか、念とか。残り方に関わるかもしれない。でも、今の試験だけで原因を決めないで」
らでんは、読めなかった品の欄へ目を戻した。
空欄を見て、何も残っていないのだと思いかけていた。
物に何もないのか、自分が拾えなかったのか。
今の試験では、そこまでは分けられない。
念の濃さだけで説明できないのなら、次に比べるものも変わる。
結論を書き込む代わりに、見えなかった結果も残しておいた。
---
その日の夕方、最後に八百点とは別の小さな木片を持ってきた。
何の変哲もない。文字も装飾もない。
「これで最後」
「由来は?」
「言わない」
木片に触れると、今までよりずっと薄い断片が来た。
――――――
雨の感触と、土。
歌のような声が薄く重なる。
人影が一つ、二つ、三つ。
木を削る手が何かを作り、その木片を別のものの中へ嵌めるところで途切れた。
――――――
らでんは目を開いた。
歌の節は戻らず、雨と人影が同じ場面だったかも分からない。
「薄いですけど、何かあります」
見えたものを話すと、ピヨンは資料を出した。
出土地は修道院東側、百年前に埋め戻された小祠で、用途不明、文字なし、装飾なし、未整理資料、研究優先度低。
胸が少し高鳴る。
「この木片について他に調査ほぼなし。歌の記録なし。じゃ、ここから」
止まる。
「今見たもの一回忘れて」
「え?」
「普通に調べて」
少しだけ笑った。
「はい」
二日かけて、材、加工痕、穴と段を調べた。
建具にも容器にも使えそうで、用途は決められない。
古写真には、祠のそばに三人と小さな木箱らしいものが写っていた。
側面は影で見えず、木片と合うかは分からない。
二日目には老人を訪ねた。
「祖父から、雨乞いの歌があったと聞いた」
ペンが止まった。
三人で歌ったのかと聞きたくなるが、その数はまだ渡さない。
「どんなふうに歌う、と聞かれました?」
「さあ。わしが見たわけじゃないからな」
写真を見せても、三人の顔も木箱らしいものも、老人には分からなかった。
雨の中で歌ったとも、聞いていない。
修道院へ戻り、PCを開き、調査結果を机へ置いた。
「手掛かりは出ました」
「何が?」
「写真に三人と木箱らしいもの。聞き取りでは雨乞いの歌です」
「じゃ、見た場面の通りだった?」
「そこまでは。写真の人たちが歌ったとも、雨の日だったとも分かりません。木片があの箱の一部かも、まだ」
ピヨンが写真とメモを見比べた。
「じゃ、次は?」
「別の角度の写真を探します。歌も、ほかの記録がないか」
少し笑う。
「合格」
「何の!?」
「能力の使い方の試験」
「いつ始まってたんですか!?」
「最初から」
「聞いてない!」
ノートには、木匙の「家庭」、人形の九十五、二百年前の杯で何も拾えなかったこと、四番と九番の取り違えが並ぶ。
木片は二日調べても用途不明だ。らでんはペンを持ち直し、試験で分かったことと、まだ分からないことを書き分けた。
【発について分かったこと】
・対象の物に触れる必要がある。その物が経験した情報を、断片として受け取る。
・視覚、音、匂い、触覚、感情など、現れ方は一定しない。
・古い物ほど多く読めるわけではない。同じ物から、毎回同じ断片が得られるとも限らない。
・断片から、その出来事の原因や意味、真偽まで自動的に分かるわけではない。物が経験していないことや、人間の記憶を直接読むこともできない。
【まだ仮説のこと】
・使用の反復、強い感情、長期間の接触、念などが、断片の残り方に関わるかもしれない。どれがどう作用するかは未確認。
【調査での扱い】
・専門知識と外部資料で照合しなければ、見えたものの意味を取り違える。
・能力で得た情報だけでは、証拠にならない。
らでんは最後の一行に二重線を引いた。
ピヨンが口を挟んだ。
「あと」
「はい」
「使いすぎた時」
指先の痺れ、頭痛、吐き気、眠気。
どれより嫌だったのは、夜、目を閉じた時に人形の火と泣き声が自分の記憶のように蘇ったことだ。
「人形みたいなものを読むと、自分の感覚と混ざる時があります」
らでんは記録用紙の確信度を見返し、昨夜のことを話した。
ピヨンの顔から冗談が消えた。
「それ多分、一番危ない」
らでんが顔を上げると、ピヨンは続けた。
「物の経験を自分の経験だと思い始めたら、調査どころじゃない」
十五歳のらでんにも、その意味は分かった。
これより鮮明な断片を何度も拾ったら、自分の経験との境目を見失うかもしれない。
「だから記録。見た直後に何を見た、何を感じた、どこまで確信した、その時点での解釈、あとから確認できた事実。全部分ける」
らでんは頷いた。
蒐集帖。見ただけで終わらせず、記録し、分け、残して比べるための名だった。
ノートを閉じた。
---
試験品を片づける前に、らでんはもう一度ノートを開いた。
名前を書いた頁の下へ、今回の試験記録が始まる頁番号を足す。
まだ比べていない条件は、別の欄に残した。
「ピヨンさん。手伝ってくれて、ありがとうございます」
「途中、すごい嫌そうな顔してたけど」
ピヨンはケースを閉じ、それから木片を見た。
「その能力、古文書ハンターとしては、ちょっとむかつくけどね」
「何でですか」
「こっちは一文字読むのに三日かける時あるのに、触って数秒で何か出るじゃん」
「出てから二日かけて、まだ何の部品か分かってないんですよ」
「じゃ、ちょうどいいか」
らでんは文句を飲み込み、次に比べたい写真番号をメモへ加えた。
借りた複製画と写真を管理者へ返し、木片も追加の記録と一緒に預けた。
手元には自分のノートと、作業用の写しが残った。
部屋へ戻ろうと鞄を取ると、ピヨンが入口で振り返った。
「発の試験は、いったんここまで。明日は撮影。北の管理棟、部屋が使えるって」
「資料を持っていくんですか」
「木札を三枚。保存の人に梱包してもらう。移動、手伝って」
「運ぶのは得意ですよ」
「昨日、鞄から水筒落としてたけど」
「私物と一緒にしないでください!」
らでんは鞄の口を閉じ、それから水筒が入っているか確かめた。
管理者と経路を見ておくことになり、二人で旧倉庫へ向かった。
日が落ちる前に、明日使う道だけは歩いておきたかった。