箱を閉じる前に、らでんはもう一度、中を覗いた。
薄い木札が三枚。それぞれを形に合わせた支えへ収め、その上に番号を記した紙が置かれている。
重なって見えても、札同士は触れていない。
紐の下に隠れた一画を見るため、三枚とも裏と側面まで撮影する。
保存担当が蓋を載せた。
北門の外の管理棟には、光の角度を変えられる機材が用意されている。
らでんは持ち手を確かめ、箱を持ち上げた。
「軽い」
「だから振っていいわけじゃないよ」
「振りませんって」
ピヨンが移動記録を差し出した。番号を照合してから箱を持ち直す。
三枚のうち一枚には、預かり品の帳面でも見た語がある。
その途中を紐が横切っているために、読むことが出来ずにいた。
「一文字に、ずいぶん手がかかりますね」
「あんたも綴じ穴二組をずっと見てたじゃん」
「その二組で、綴じ直しが分かったんです」
「じゃ、この一文字も見ないとね」
らでんは言い返す代わりに、箱の底へ手を入れた。
気になる物を前にすると、発を試したくなる。
けれど、撮影で見えるものならまず撮る。
読める人が隣にいるなら、読んでもらえばいい。
昨日までの試験で、触れる前にも出来ることがずいぶん増えた。
列車で打った右前腕は、箱を持つ程度ならほとんど気にならない。
昨日、管理者と歩いた道を使う。
旧倉庫の荷扱い場から中庭を抜け、北門へ向かう短い経路だった。
「じゃ、行こっか」
「はい」
扉を開けた。
日差しが、箱の蓋へ細く落ちた。
◇ ◇ ◇
撮影は、思ったより時間がかかった。
札も紐も動かさず、照明の角度を変えて表、裏、側面を撮る。
影を避けた画像と、影で凹凸を浮かび上がらせた画像を比べては、また光を動かした。
一文字に何十分もかかる。
「もうちょっと下」
ピヨンの声に、保存担当が照明を動かした。
黒く沈んでいた線の一部が浮かぶ。
「あ、出ました?」
「止めて」
ピヨンが画像を拡大した。
紐の下へ消える細い線は、まだ全部見えてはいない。
それでも、昨日まで取れなかった一画が浮かんでいた。
「これなら候補減る。ちょっと待って、帳面と比べる」
「何て読めそうです?」
「まだ言わない。間違えたら悔しいから」
「学者の理由じゃないですよね、それ」
「学者だって悔しいよ」
笑いながら開いたのは、同じ時代の受け渡しの帳面だった。
似た筆跡を並べ、浮かんだ一画を加える。
別の語だと思っていた文字と、形が合った。
「“納めた”じゃなくて、“戻した”に近い。全文はまだだけど、この一字ならそっちで取れる」
「預かった物を、どこかへ戻した……」
保存担当が次の撮影位置を整えている。札は、ただ支えの上に寝ていた。
それなのに、さっきまでと少し違って見えた。
ピヨンが次に開いたのは、本棟地下の古図だった。
旧祈祷室の脇に、意味を取り切れず後へ回した書き込みがある。
「こっちも、“戻す”に関係する語かもしれない。活用は違うけど」
らでんは図を引き寄せた。
書き込みのすぐそばに短い線がある。
壁の区切りだと思っていたが、文字が動作を示すのなら、ここは何かの行き先なのだろうか。
「この線、現況図だとどこです?」
「そうだねー。図、出そっか」
撮影を終え、三枚の木札を記録と一緒に元の保管場所へ戻した。
机には写真と古図が残る。
現況図を取り寄せ、翌朝、建物のどこに当たるか確かめることにした。
◇ ◇ ◇
翌朝、調査室の扉を開けると、ピヨンはもうPCの前にいた。
「おはようございます」
「……遅い」
らでんは壁の時計を確かめた。
「五分前ですよ」
「私は一時間前にきてたし」
「早く来た方が偉い仕事でしたっけ」
「おかげで面白いの、先に見つけちゃった」
「それはずるい!」
鞄を置く前に机へ寄った。
ピヨンは古図と現況図を並べ、階段と排水路を指した。
「この二つは合う。でも、外壁で揃えるとここがずれる」
古図の写しを持ち上げ、階段と排水路の曲がりを現況図へ揃える。
今の図にはない短い線が、壁の向こうへ伸びた。
旧祈祷室の脇から奥へ進み、そこで途切れている。
「……この先、通路だったんでしょうか」
「かもねー。今は壁だけど、脇書きも動作として読めそう。何を戻す場所かまでは分かんないけど」
同じ建物を見ているはずなのに、昨日まではなかった行き先が出来た。
「見に行きましょう」
「朝御飯は?」
「食べました。ピヨンさんは?」
返事がなかった。
らでんが顔を上げる。
「一時間、何してたんですか」
「これ」
「夢中になるのもいいですけど、パフォーマンス落ちますよ」
出発は、ピヨンが食堂から戻ってからになった。
◇ ◇ ◇
本棟の地下には、窓からの光が届かない。
管理者に案内されて旧祈祷室の前を通り、図面の位置で振り返る。
灯りを低くすると、石の表面に小さな影が浮かんだ。
「この辺、目地が続いてません」
左右では揃っている石の列が、中央だけ途切れている。
細かな石を詰めたような箇所もあった。
壁には印をつけず、写真の中で境を示し、管理者の広げた図面と比べる。
「もし後から埋めたなら、古図の入口と位置が合いそうです」
「床は?」
しゃがんで床石へ斜めに光を当てる。
浅い擦れがいくつも、途切れながら壁へ向かっていた。
「擦れも壁へ向かってます。人か荷物が通った跡なら、ここが入口だった可能性はありますね」
「じゃ、図の線と現物の位置は合いそうだ。中を見られるか聞いてみよ」
管理者が構造担当を呼び、既存の隙間から細い内視鏡を入れることになった。
壁や内部の空気、湿度を確認するまでは、石を動かせない。
画面いっぱいに映る石が、管の進むにつれて遠ざかる。
その向こうへ暗がりが広がった。壁の裏に、空間がある。
らでんは思わず画面へ寄った。
「近い近い」
「だって見えないんですもん」
少し横へずれて覗く。
短い通路の先に、もう一つ空間があった。
四角い影に蓋らしい線が見える。
床にも何かあるが、暗くて形までは取れなかった。
保存された画像の位置を確かめ、古図の終端へ四角を書き加えた。
“箱状の物”。今分かるのは、そこまでだ。
「開けたい?」
「めちゃくちゃ開けたいですね」
「顔に出すぎ」
「ピヨンさんだって気になってるでしょ」
「私は仕事だしー」
「私も仕事です!」
開口は、三日後になった。
◇ ◇ ◇
開口までの三日間、何度、内視鏡の画像を開いたか分からない。
「待ってる間に反対側が見えるようになると思ってる?」
「思ってません」
「また見てたよ」
「ここ、線が二本あるんです」
らでんが画像を指す。
箱の側面。黒い傷のようなものが二本。
ピヨンが自分の画面を回した。
「私は三本に見える」
「ピヨンさんもじゃないですか」
二人で拡大しても答えは出ず、開口後に撮る位置だけ書いて閉じた。
その間に、石を外す範囲と順番、内部を急に外気へさらさない手順が決まっていく。
待つ間は古文書へ戻った。
預かり品の記録には、品名の後に二人分らしい名前が続く。
ピヨンが行の区切りを直すと、長い肩書きに見えていた部分が分かれた。
「受けた側と、出した先の人かな。まだ仮だけど」
空欄もあれば、後から違う筆で書き足されたものもある。
物をしまった時だけの記録ではないのかもしれない。
石室が開いたら見たいものが、また増えた。
◇ ◇ ◇
そうして開口の日、壁の一部が外された。
後から詰められた石を記録しながら取り除き、人が通れる幅になったところで作業が止まる。
通路の先は小さな石室だった。平たい石の上に木箱がある。
内視鏡では一つの暗がりだった場所に、今は奥の壁までの距離が見えた。
らでんは入口で立ち止まった。
「……思ったより、小さい」
「何を期待してたの。金貨? 宝石?」
「そこまで俗っぽくないです!」
少し期待していたのは否定できなかった。
隠された石室、古い箱。何か特別なものが眠っていてほしい。
立ち入れる位置が決まり、箱の側面へ灯りが当たると、ピヨンが屈み込んだ。
「あった。A-117にもあった記号」
その下には、内視鏡では本数を読み取れなかった線がある。
「三本」
先に数えると、ピヨンがちらりと見た。
「こっちの勝ち」
「数の勝負はしてません」
笑い声が石壁へ返り、二人とも少し声を落とした。
金具は腐食している。底板にも傷みがある。
そのまま持ち上げず、保存担当が支えを入れた。
蓋を少しずつ開く。らでんは息を止めた。
中にあったのは、期待していた金貨や宝石ではなかった。
針のような細い金具、紐、使い込まれた布、刃のなくなった柄。
木札と空の小袋まで入っている。
「……道具?」
包んだり、繕ったりするための物ばかりに見える。
「宝物庫じゃないですね」
「宝物庫にしては、地味だね」
ピヨンも同じことを考えていたらしい。
だが、らでんの目はすぐに箱の中へ戻った。
「でも、これ」
端を揃えた細い部材が布に巻かれ、その脇に木札が差し込まれていた。
穴から紐が下へ続く。
引けば取れそうだが、まず位置と向きを写真へ残す。
ピヨンは見えている文字を追った。
灯りを横へずらすと、一画が二重に見えた。
角度を変えると、影だった片方が消える。
「今のところ、戻して」
光を戻すと、ピヨンが端末に用例を開いた。
「何て書いてあります?」
ピヨンは用例と札を見比べ、唇を一度止めた。
「……撮影した札と同じ系統の語。こっちは前も読める。預かったものを――本来の場所へ、戻した」
石室が静かになった。
知らない文字もある札が、一文として意味を持った。
「この箱へ戻したのか、別の場所へ戻したのか。それで、この部屋の使い方も変わりますね」
「そう。札だけ残した記録かもしれないし、“本来の場所”がどこか探さないと」
らでんは箱の中を見回した。
物を包む道具は揃っているのに、大事に収められた品ばかりが出てくるわけではない。
ここにあった物は、今どこにあるのだろう。
「……物を置いておくだけの部屋じゃなかった?」
「それ調べるのが、次」
◇ ◇ ◇
石室を開けた翌日、箱の中身を一つずつ調べ始めた。
石室の箱には新しい記録番号を振った。
最初の文書群や撮影した三枚の木札、東側小祠の木片とは、近くで見つかっても記録を分ける。
最初にらでんが気になったのは、布だった。
端の古い縫い目が、今の折り方では中途半端な位置へ来る。
使われていない紐穴もある。
角の擦れを指すと、ピヨンが写真を寄せた。
「今は内側なのに、ここだけ擦れてます。前は外側になる包み方をしてたのかもしれません」
「同じ布で、違う形の物を包んでた?」
「それを確かめたいです」
寸法と縫い目、紐穴、擦れを写真へ残す。
保存担当から、その位置で手袋のまま触れる許可を得て、椅子を寄せた。
ピヨンが隣でノートを開く。
「”アレ”、使ってみる?」
「一回だけやってみます」
呼吸を整え、指先を布へ置いた。
何か出るとは限らず、出ても欲しい場面とは限らない。それはそれで記録する。
オーラを細く流した。
《
――――――
布が広げられ、長い何かが上へ置かれた。
形を見分ける前に端が折られる。紐が回り、引かれる。
今の束を包むのとは、違う方向だった。
暗くなった。
次に布の上へ載ったのは丸いもの。
別の手が端を押さえ、違う結び方で紐を留める。
持ち上がった包みが、誰かへ渡った。
また光が変わる。
小さな硬いものがいくつも重なり、その上を布が覆った。
札が添えられ、包みが持ち上げられる。
揺れる視界の先で、扉を越えた。
違う物、違う手。
続けて見えた断片の終わりでは、包まれた何かが、この場所から外へ運ばれていく。
行き先が見える前に、途切れた。
――――――
指先へ布の感触が戻った。らでんはすぐに手を離した。
ノートには断片を見えた順に記し、場面の切れ目を分けた。
どの手が同じ人のものか、間にどれだけ時間が空いたかは分からない。
「違う手で、違う物を包んでました。最後は、どれも外へ」
「ここで預かった物を、返してた?」
その言葉に飛びつきそうになって、止まる。
扉の外が返還先だったかどうかは、見ていない。
「そこまでは分かりません。運び出したところまでです」
「じゃ、その先はこっちで追おっか」
ピヨンが帳面の画像を開く間、らでんは布へ目を戻した。
使われなくなった穴、重なった折り跡、補修した縫い目。
今まで見えたものを、その一つずつと比べ直す。
「ここ、品名も数も変わってないのに、途中で入れ物を示す語が変わってる。包み替えた記録に読めるんだよね」
「布にも古い折り跡や補修があります。預かった物をそのまま置くんじゃなくて、途中で手を入れてた?」
それが目の前の布と同じ物だとは分からない。
布の縫い目と帳面の一行が、別々の方向から同じ仕事を指しているように見えた。
そう考えると、箱の針も、紐も、しまわれた品ではなく、品を守るために使った道具かもしれない。
「宝物のような派手さはないですが、調べることは多そうです」
「宝石じゃなくて残念?」
「まだそれ言うんですか!」
二人は次の資料へ移った。
◇ ◇ ◇
地名が最初に噛み合ったのは、その日の午後だった。
小さな金具に似た形はいくつもあるが、裏側の留め方まで近いものは少ない。
探しているうち、遠く離れた地域の出土報告に一つ見つけた。
「表の形より、この留め方が近いです。この地域の類例、札の地名と照合できます?」
ピヨンは地名を聞くと、自分の机から札の画像を開いた。
「昔の綴りだけど、多分これ。さっき読んでたやつ」
二つを並べる。
似た金具が一つ見つかっただけでは、ここから運ばれた物とは言えない。
それでも、文字だけ追っていた時にはなかった比較先が出来た。
次の日には、別の札を調べた。
預けた人物らしい名前の後に、別の名前と地名が続く。
周辺の名簿には見つからず、地図で探すと修道院から離れた地域だった。
地方記録を探すと、祭礼に使う道具が出てきた。
品名は完全には一致せず、年代にも幅がある。
「この地域では同じ種類の祭具を使っていた可能性があります。札では、その人へ渡してる?」
「そう読める。この記録だと、修道院からそっちへ出てるね」
らでんは石室の札の写しを引き寄せた。
“本来の場所へ、戻した”
同じ一文なのに、今度はその先に地名が見える。
棚でも別の部屋でもなく、建物の外へ戻したのかもしれない。
受け入れと包み替え、引き渡しの記録をたどる。
同じように修道院の外を示す例が増え、そのうち一件では、預かって数年後に元の地域へ返されたらしかった。
「何年も預かった理由、分かりましたか?」
「そこはまだ。でも、この頃は人が土地を離れた記録が増えてる」
ピヨンが地方史を開く。
戦や火災、疫病、洪水。
理由も年代も違うが、受け入れの記録と照合できそうな時期がいくつかあった。
「家は持って逃げられないですよね。祭りの道具も、墓のものも、大きい物なら全部は無理です」
机には日常の道具や祭礼の品の写真が並んでいる。使い方すら分からなくなった部品もある。
逃げる時に置いていくしかなかったら、残された物はどうなるのだろう。
「だから、預けた?」
「可能性はある」
「戻れるまで」
言ってから、らでんは黙った。
ピヨンも何も足さない。また資料を開いた。
◇ ◇ ◇
石室を開けてから六日目。一枚の札だけが、最後まで引っかかった。
箱の底に近い小さな包みから、青銅の鈴が出ていた。
片側が欠け、鳴らすための舌はない。
ほとんど装飾もない鈴に、受け入れた時の地名と、預けた側らしい名前が添えられている。
ピヨンが画面の欄を指した。
「ここ、引き渡し欄が空白。書き忘れかもしれないけど、帳簿にも返した記録が見つからない」
らでんは地名を追った。
古い地図にあった地域は、次の時代には小さくなり、やがて別の行政区へ吸収されている。
地方史と人口、祭礼の記録を何時間も探し、ようやく一行見つけた。
かつてその地域では、春の祭りに小さな鈴を使ったらしい。
この鈴がそうだったとは分からない。
祭りがいつ終わったのか、預けた人がどうなったのかも、記録からはたどれなかった。
「……帰ってないんでしょうか」
「少なくとも、帰した記録はないね」
支えの上にある鈴へ、手を伸ばしかけて止まった。
触れる許可は、取ってある。
「使わないの?」
ピヨンは止めなかった。
「……使えば何か見えるかもしれません。でも、今はやめます」
近づきかけた指先を戻し、空白の欄を見た。
「見えたものを、欲しい答えに合わせてしまいそうなので」
春の祭りに鈴を使ったという一行を、何度も読んでしまった。
今、音や人影を拾ったら、きっとあの祭りへ結びつけたくなる。
「今日は、これでいいです」
「そっか」
ピヨンはそれだけ言った。らでんは鈴の写真番号を記録した。
分からないものは、分からないまま残す。
待っても返す相手が来なかった物があったのかもしれない。
鈴がそうだったかは、証明できない。
だから報告書には、返却記録が見つからなかったことだけを残す。
どこへ帰るはずだったのだろう。
知りたい気持ちまで消えたわけではなかった。
らでんは小さな鈴を、しばらく見ていた。
◇ ◇ ◇
報告書の最初の文で、らでんは手を止めた。
“一時的な保管施設として機能していた可能性がある”
間違いではないが、それだけでは、使い込まれた布と包み替えの記録が抜け落ちる。
「預かっただけじゃなくて、手当てして、包み直して、元の土地へ渡してる。そこまで書きたいです」
「じゃ、保管の後に足す」
必要なことを一文へ詰め込んでみせると、ピヨンが画面を覗いた。
「長っ」
「そこですか!?」
「一文に入れすぎ」
「大事なところなんですよ!」
「だから分けないとね」
言われた通り二つに分けた。
意味まで削られたわけではない。
【調査所見】
当該修道院は、ある時期、各地から品を一時的に預かる役割を担っていた可能性がある。
保管・手当て・再包装を経て、それを用いる人々または地域へ再び引き渡したと考えられる記録が複数確認された。
らでんは画面から石室の写真へ目を移した。
集めて、しまっておけば、それで終わる仕事ではなかった。
いつか誰かの手に戻るよう、入れ物を替え、ほつれた布を縫い直す。
自分のノートの端に、一行だけ書いた。
『返すために、守った』
「それは報告書じゃなくて、そっちにね」
「分かってますよ!」
笑ってから、別の頁にA-117の知覚記録の参照番号を付けた。
あの夜に拾った“返す”という感覚。
いつ、誰が、何を返した断片なのかは、今も分からない。
この修道院の仕事と直接結びつけず、報告書では知覚記録を別項参照にした。
最初は意味の分からなかった一語が、今は少しだけ違う重さを持っていた。
ノートを閉じ、次の提出書類を開く。
協会の事件担当へ渡す書類には、列車で見た赤と黒の仮面の画像を添えた。
修道院の古い由緒から現在の売り手へ話を飛ばした取引書類も並べる。
修道院が品を預かり、外へ戻したことには根拠が出た。
しかし、それを現在の取引書類と並べると、間が大きく空いている。
「修道院の話は本当らしい。でも、この仮面がここにあったか、今の売り手が売っていいかは、また別ですね」
「そう。売り方がおかしいから昔の話も全部嘘、って逆にも飛ばさない。それぞれの根拠を付けて送ろ」
二年前に見せてもらった古写真では、額の文様は似ているが、頬は人の肩に隠れ、色も判別できない。
同じ個体とは言えないと記し、写真の残された経緯も添えた。
事件担当からは、列車襲撃の進捗が届いていた。
四人は同じ小規模な仲介業者の仕事でつながっていた。
鑑定報告への報復や調査妨害の意図については、供述と連絡記録の照合が進んでいる。
ただし、誰がどの取引まで関与していたかは、まだ捜査中。
調査成果を添付し、画像番号と古写真の取扱い注記を確認して送信した。
受領の返信を確認すると、ピヨンは取引書類を閉じた。
「ここから先は、担当の仕事」
見たものと見られなかったもの、分かったことと分からないこと。
画面の向こうの人が追える形で、渡せた。それでいい。
◇ ◇ ◇
管理者へ渡す報告書と記録一式を揃えた頃には、外は暗くなっていた。
最後の資料を戻すと、紙に埋まっていた机の面が出てきた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ」
PCを閉じる前に、ピヨンは布の写真をもう一度開いた。
「……あんた、結構面白いね。能力使ったあと、ちゃんと布に戻ったし」
「今ですか?」
「今も。前なら“包み直してたんだ!”って走ってたんじゃない?」
らでんは言い返そうとして、口を閉じた。
あの断片だけでも、自分には十分本当らしく感じられた。
「ピヨンさんが人形で性格悪いことしてくれたおかげです」
「まだ言う?」
「一生言いますよ」
ピヨンが笑う。
机の図にはピヨンが読んだ文字と、自分の見た痕跡が並んでいる。
外部の資料番号もあり、発の断片は端に分けて記していた。
どれか一つで答えが出たわけではない。違う見方を持ち寄って、ようやく昔の仕事へ近づけた。
らでんは鞄へノートをしまいかけ、隣を見る。
「仕事が終わっても、相談していいですか。読めない古文書とか、発で変なものを見た時とか。正式な依頼が必要なら、そうしますけど」
「いいよ」
即答に肩から力が抜けたところで、ピヨンが続けた。
「ただし、タダじゃない」
「何を要求するんです?」
「面白い資料見つけたら送って」
何を要求されるのかと身構えた分だけ、笑ってしまった。
「それなら、いくらでも」
「文字のところだけじゃなくて、周りもね」
「裏も撮ります」
「助かる」
ピヨンは端末を鞄へしまった。
「こっちで物の見方に困ったら、あんたにも送るから」
しまいかけたノートの上で、手が止まる。
相談させてもらうだけのつもりだった。
これからピヨンが出会う資料を、自分も一緒に考えることになるのかもしれない。
駆け出しハンターの私でも、少しは良い仕事ができたのだろうか。
信頼されたのならば、嬉しい。
「……はい。送ってください」
「じゃ、また頼むね」
今回の依頼は終わった。
そのあとに届く物を、もう楽しみにしていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、管理者へ鍵を返し、記録一式を渡した。
資料はすべて修道院に残り、保存と調査が続く。
鞄に収めたのは自分の道具とノート、許可された写しだけだった。
車が坂を下る。
本棟が斜面の向こうへ隠れるまで、らでんは窓を見ていた。
昨日まで机に並んでいた物は、また誰かが調べるのを待っている。
鈴も、その中にある。
駅からは、途中の乗換駅までピヨンと一緒だった。
鞄を足元へ置き、端末を出す。
仕事の連絡先を通り過ぎ、はじめとのやり取りを開く。
数日前に送られてきた動画には、知らない町の広場で踊る姿があった。
夕方の光の中、見覚えのない足運びで人の輪に交じっている。
片耳へイヤホンを入れると、拍を刻む音と笑い声が聞こえた。
はじめが一か所だけ足をもつれさせ、隣の人を見て笑う。
次の拍には、もう戻っていた。動画の下に短い文字。
『これむずい』
そこだけもう一度再生して、笑った。
間違えても戻るのが速い。
難しいと言いながら、ずっと楽しそうだった。
知らない踊りを、いっぱい持って帰る。
これも、その一つなのだろう。再生を止め、入力欄を開く。
発ができた。物に触ると、その物が経験したことが断片で――。
そこまで打って、消す。
何が見えるかより、何がまだ分からないかの方が長くなる。
石室の話まで始めたら、きっと列車を降りても終わらない。
はじめなら、聞いてくれる。ピヨンに人形で騙されたところでは大笑いするだろう。
鈴を読まなかった話では、どうして、と聞くだろうか。いや――。
全部、会った時に話せばいい。
今知らせたいのは、もっと短いことだった。
宛名から打つ。
『はじめ』
指が止まる。少しだけ笑う。
『発、できたよ』
送った。
列車が継ぎ目を越え、端末が手の中で揺れる。
昨日はあれだけ長い報告書を書いたのに、二行送っただけで妙に落ち着かない。
今も踊っているかもしれないし、返事はあとでいい。
そう思った瞬間、既読がついた。
「早っ」
声が漏れた。すぐに返事。
『まじ?』
『おめでと!』
『すげーじゃん!』
らでんは口元を押さえた。
笑いが声になりかける。隣からピヨンが見る。
「何?」
「いえ、ちょっと」
三つ並んだ文字をもう一度見る。
詳しいことは一つも説明していない。それでも、はじめは先に喜んでくれた。
「さっきから顔に出てるけど。誰?」
らでんは端末を少し下げた。
「友達です」
「ふーん」
ピヨンはそれ以上覗かなかった。
もう一つ届く。
『どんなやつ?』
今度は長文を書き始めなかった。
『今度会った時に見せる』
送ると、再会が急に待ち遠しくなった。
何に触れて見せよう。
はじめは、どんなことを面白がるだろう。
一緒に答え合わせをするのもいい。
少し間が空いた。
『じゃあうちも』
『今度会った時すげーの見せる』
動画の中で、次の拍へ戻った足を思い出す。
あそこから、また知らない踊りへ進んでいくのだろう。
『楽しみにしてる』
送る。もう少しだけ書きたくなった。
『私も、見せるの楽しみ』
すぐに返ってきた。
『うん!』
座席へ背を預けた。
次に会った時、はじめはどんな顔でノートを覗くのだろう。
まだ何も見せていないのに、また笑ってしまった。