性能試験を終えた翌朝、らでんは調査室の机で一枚の古い布を前にしていた。
修道院の石室から追加で出てきた資料で、見つかった時には細長い木の部材を包んでいたという。今は傷めないよう支えの上へ平らに広げられ、すぐ隣には発見時の状態を撮った写真が置かれていた。
布の端には後から補修したらしい縫い目があり、紐を通したような小さな穴が二つ並んでいる。けれど、布の表面に残された折り跡はそれよりずっと多かった。
「この穴、使ってないんですよね」
らでんは手元の発見時の写真を、隣のピヨンへ向けた。
見つかった時の細長い包み方では、せっかくの穴が二つとも布の内側へ隠れてしまう。留め紐も布の上からぐるりと掛けられていて、穴には通っていなかった。
「前は別の物を包んでたってこと?」
「だと思うんですけど、折り跡が何重にも重なってて。ここにある線を全部使おうとすると、どう折っても変な形になっちゃうんです」
「全部使わなきゃいいじゃん」
「それが、どの線を使わなかったのかが決められないんです」
さっきから手元のメモ用紙にいくつも包み方の図を描いてみたものの、どれも布の端が妙に余ったり、肝心の紐穴が裏へ隠れたりした。
たぶん、一度の包み方でついた跡ではないのだろう。そう見当をつけるところまでは出来ても、今見えている無数の折り目を何組に分ければいいのか、写真と睨み合っているだけでは糸口がつかめなかった。
昨日までなら、ここからまた同じ写真を何十分も眺め直していたところだ。
けれど今日は、もう一つ試せることがある。
「《発》を使ってみます。何か少しでも拾えたら、現物と見比べる場所が絞れるかもしれません」
「うん。記録の準備は?」
「ここに出してあります」
ペンを添えたまま開いたノートを示すと、ピヨンは邪魔にならないよう自分のPCを少し脇へ遠ざけた。
「じゃ、横で見てる。少しでも調子悪くなったら言ってね」
「大丈夫です、昨日はちゃんと寝ましたよ」
「机じゃなくて?」
「部屋のベッドです!」
あれはもう二度としません、と言いかけて口をつぐんだ。ペン軸の夜だって、最初から机に突っ伏して寝るつもりだったわけではないのだ。
らでんは椅子を正し、保存担当の人に確かめておいた布の端へ手袋の指先をそっと置いた。
古い布は目で見ていたよりずっと薄く、乾いた繊維の感触が手袋越しにかすかに伝わる。余計な力をかけないよう指の腹を落ち着かせてから、呼吸と一緒に纏を整え、練で増やしたオーラを触れている一点へと集めていく。
この折り跡の答えが欲しい。そう思った途端、さっき自分でメモ用紙に描いた不格好な包み方の図が頭の中に浮かんできた。
らでんはすぐにその図を追うのをやめ、指先が布に触れている感覚だけへ意識を戻す。先に答えを作らない。何が来るかは、向こうから来てから見るのだ。
《
――――――
長いものが、広げた布の上に置かれた。
二本の指が布の端を細く折り込み、さらにその上へ重ねていく。
外から紐が掛かると布がぎゅっと沈み、細い束の形になった。
硬いものを台に置く音。
今度は、丸い輪郭がすぐ近くにある。
手が布の一角を斜めに持ち上げた。
さっきは内側へ隠れていた端が表へと回り、小さな穴を紐がすっと抜けていく。
引き締められる感触と一緒に、支えていた指が消えた。
――――――
調査室の机の明かりが戻った。
らでんは布からそっと手を離すと、息つく間もなくノートへ向かった。頭の中で勝手にお話の続きが出来てしまう前に、今見えた二つの場面を頁の上で離して描き留める。二つの場面のあいだに聞こえた硬い音も、忘れないよう図の脇へ書き添えた。
ピヨンは横から覗き込んだり急かしたりせず、らでんのペンが止まるのを静かに待っていた。
「どう?」
「試してみたい折り方が出来ました。あの、布の画像、もう一枚だけ印刷できます?」
「紙で試すんだ」
「ええ。本物の布を何度も折ったり広げたりするわけにはいかないので」
プリンタから出てきたばかりの紙を受け取り、まずは細長く端から折ってみる。石室で見つかった時の写真によく似た細い束になった。
次にその紙をいったん広げ、今見た断片の通りに一角を斜めへ起こしてみると、さっきは裏側へ回り込んでいた二つの穴の位置が、ぴったり表へ出てきた。
らでんは紙の折り目を押さえたまま顔を上げた。
「ここです。この斜めの折り跡と、穴の縁のところを見たいです」
支えの上の現物に横から斜めの光を当て、拡大した画像と並べて見比べる。
布を斜めに渡る折り跡は、細長く畳んだ時の線とははっきり違う場所を通っていた。さらに二つの穴の片方には、通した紐でぐっと引かれたような細かな擦れも残っている。補修された端を内側へ折り込むか表へ回すかで、外に出る面がまるきり変わる仕組みだった。
さっきまで紙の上で無理やり一つに重ねていた線が、細長い包みと丸い包みの二つの使い方へと綺麗にほどけていく。
「この向きでも使ってたんですね」
「うん。そっちの包み方の方が、穴の位置に全然無理がないね」
ピヨンは確認した二枚の写真を保存すると、画面の隣に古い帳面の画像を開いた。
「包みの記録なら、この辺かな。今までは道具の名前ばっかり追ってたけど、布の方を使い回してたなら、ちょっと見直したいところがある」
ピヨンが指し示した行には、前に読んでもらったことのある品名が並んでいた。そのすぐ後ろに、らでんにはまだ読めない崩し字の語が二つ続いている。
ピヨンは別の頁からよく似た記載を探し出し、二つをしばらく見比べてから片方の文字をトントンと指で叩いた。
「ここ、中身の品物を替えたんじゃないや。包みを替えた方で読める。品物の数はそのまま」
「あ……じゃあ、布の端の補修もそれで説明がつきそうです。一度包んでしまいっぱなしじゃなくて、途中で取り出して手を入れてたんですね」
「うん。この一行がこの布そのものの記録かは置いといて、ここでやってた仕事とはちゃんとつながるね」
らでんは現物の写真に今確かめた折り跡と擦れの箇所を記し、参照した帳面の頁番号を添えた。
《発》で見た断片の記録は、自分のノートの別の頁に残しておく。提出する調査記録の方には、斜めの折り跡と紐穴の摩耗から、複数の包み方で再使用されたと考えられることだけを根拠として書いた。
出来上がったのは、ほんの数行の短い所見だった。それでも、朝から頭を抱えて眺めていた一枚の布を、今は二つの包み方に分けて自分の言葉で説明できる。
「……使えましたね」
書き終えた用紙を見つめたままつい口にすると、隣から軽い声が返ってきた。
「今、使ったじゃん」
「そうなんですけど。その、試験じゃなくて、ほんとの仕事で」
言いながら、自分で少し笑ってしまった。
ペン軸の夜は、ただこの力が自分の意志で出たというだけで胸がいっぱいだった。けれど今日は、力を使ったあとの調査にまでちゃんとつなげることができた。試験で立ち止まって確かめたことが、そのまま目の前の仕事を一歩先へ進めてくれている。
ピヨンが画面の上で、帳面の次の頁を開いた。
「じゃ、こっちも続けて見てくれる? 包みの寸法らしい数字が書いてあるんだけど、どこを測った数字なのか現物と合わなくて」
「現物の写真の番号、あります?」
「あるよ」
らでんは椅子をぐっと机へ引き寄せた。
もう一度《発》を使うつもりでいた手袋の指を、今度は現物ではなく写真の端へと向ける。念に頼る前に、まずはその品がどの向きで包まれていたものなのかを自分の目で確かめたい。
「これ、長さと幅の向きが逆かもしれません。布を畳んだあとの外寸なら――」
ピヨンが画面の画像をくるりと回す。
二人で頭を寄せて覗き込むうちに、朝には片づいて広かったはずの机が、またたく間に写真と資料で手狭になっていった。
◇ ◇ ◇
数日後、今回の調査記録をすべてまとめ終えると、何日も紙の束に埋もれていた机の木目がようやく顔を出した。
石室から借り出していた資料はすべて管理者のもとへ返却し、追加で撮影してほしい箇所のリストもすでに渡してある。八百点ある資料の全部を読み切ったわけではないけれど、次にここを調べる人がすぐ使える目録と、今回の調査で裏が取れた所見は一通り揃った。
ピヨンは提出用のファイルをぱたんと閉じ、その隣に置かれたらでんの分厚いノートへ目をやった。
「それ、来た時よりずいぶん増えたね」
「誰かさんが試験に人形まで用意してくれたので」
「え、まだ怒ってる?」
「一生言う予定です」
「そんなに?」
二人で笑ってから、らでんはノートを鞄へしまいかけて、ふと手を止めた。
依頼の仕事が終われば、明日にはそれぞれの行き先へと戻る。こうして同じ机に並んで座り、分からないところをその場ですぐ尋ねたり言い合ったりできるのは、今日が最後だった。
「あの、このあとも、相談していいですか。ひとりじゃ読めない古文書があった時とか、《発》で変なものを見た時とか」
「いいよ。ただし、タダじゃない」
「……何を要求する気です?」
「面白い資料見つけたら送って」
身構えた分だけ、ぽんと肩の力が抜けた。そんな条件なら、これからの旅先で珍しい品を見つけるたびに、言われなくても送りたくなってしまう気がする。
「文字が書いてあるところだけじゃなくて、周りの形もね」
「はい、裏側もちゃんと撮ります」
「助かる。で、こっちで物の見方に困ったら、あんたにも送るから」
さりげなく付け足された最後の言葉に、らでんの返事が一拍遅れた。
自分の相談に乗ってもらえるだけで十分すぎるほどだった。ピヨンが自分の仕事で何かに困った時、相談相手にこの自分の顔を思い浮かべる。その先のことまで、まだ考えていなかった。
「……はい。送ってください」
「あんたの返事、すごく長そうだなあ」
「必要な分だけ書きますよ!」
「はいはい、ちゃんと読むから。分かりやすい写真も付けてね」
らでんは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じながら、今度こそノートを鞄へしまった。今回の修道院の依頼はこれで終わったけれど、次に自分の端末へ届くものが今からもう楽しみだった。
◇ ◇ ◇
翌朝、修道院を出た二人は、途中の乗換駅まで同じ列車に乗った。
列車が動き出してから、らでんは膨らんだ鞄を足元へ置き、ポケットから自分の端末を取り出す。画面をつけ、はじめとのやり取りの履歴を開いた。
数日前に届いていた動画には、見たことのない石畳の広場で踊るはじめの姿が映っていた。
片耳だけイヤホンを入れると、軽快に拍を刻む音楽と周りの笑い声が聞こえてくる。画面の中のはじめは途中で一か所だけ足をもつれさせ、すぐ隣で踊っていた土地の人と顔を見合わせて大きく笑った。けれど次の拍には、もう何事もなかったように元のステップへ戻っている。
動画のすぐ下には、短く『これむずい』とだけ添えられていた。
難しいなんて言いながら、最初から最後までずっと楽しそうだ。旅に出る前、知らない踊りをいっぱい持って帰ると言っていたけれど、本当に言葉通りあちこちで踊っているらしい。
らでんも画面を見ながら一度くすっと笑い、それから下の入力欄を開いた。
『発ができた。物に触ると、その物が経験したことが断片で――』
そこまで一気に打ち込んで、指を止めた。そして、今書いた文字をぜんぶ消す。
こんなふうに仕組みの説明を始めたら、ペン軸の夜のことも、ピヨンに引っ掛けられた性能試験のことも、残らず順番に話したくなってしまう。人形のくだりなんか、きっとお腹を抱えて大笑いされるに違いない。
そういう話は全部、次に会えた時に直接聞いてもらいたかった。今この画面で真っ先に知らせたいことは、もっとずっと短い。
『はじめ』
『発、できたよ』
送信ボタンを押した途端、急に座り心地が落ち着かなくなった。
この何日間もノートにびっしり記録して、試験で確かめて、修道院の仕事でも実際に使ったというのに、たった二行の短い文を見つめている今の方がよほどそわそわする。
向こうは今だってどこかの広場で踊っているかもしれないし、返事はあとでいい。そう自分に言い聞かせた矢先、画面の文字の横にぽつんと既読がついた。
「早っ」
思わず声が漏れたところへ、立て続けに吹き出しが飛び込んでくる。
『まじ?』
『おめでと!』
『すげーじゃん!』
らでんは片手で口元を押さえた。
どんな能力なのかも、どうやって出来たのかも、まだ一つだって説明していない。それでもはじめは、まず最初に全力で喜んでくれた。
「何、さっきから一人で楽しそう」
声をかけられて隣を見ると、ピヨンが膝の上のPCから顔を上げてこちらを見ていた。
「友達に、発ができたって送ったんです」
「ふーん。どんなのか見せたら?」
「今度、直接会った時にします」
そう答えたちょうどその時、手元の画面でも同じ話になった。
『どんなやつ?』
今度は少しも迷わず、短く打ち返す。
『今度会った時に見せる』
送ってしまうと、次に顔を合わせる日が急に待ち遠しくなった。
その時は何を用意して見せようか。はじめが普段から使っている物をその場で借りてもいいかもしれない。もしうまく断片を拾えたら、はじめはどんな顔をして驚くだろう。たとえ一回で何も出なくても、「もうちょっと待って」と言えば嫌な顔ひとつせず隣で付き合ってくれそうだった。
少しだけ間が空いてから、新しい返事が届いた。
『じゃあうちも』
『今度会った時すげーの見せる』
さっきの動画の中で、つまずいた次の拍にはもう軽やかに戻っていた足元を思い出す。あの動画から今日までのあいだに、また何か新しい動きを覚えたのだろうか。次に会う日までには、もっと増えているのかもしれない。
『楽しみにしてる』
一度そう送ってから、やっぱりもう少しだけ言葉を足したくなった。
『私も、見せるの楽しみ』
すぐに『うん!』と力強い返事が返ってきた。
らでんは端末を胸元に下ろし、揺れる列車の座席へ深く背を預けた。次に会えたら、最初に何と言おう。分厚くなったノートを開いてあれこれ説明するより先に、まずは目の前で一度やってみせたい。
まだ何ひとつ見せていないのに、窓の外を流れる景色を見ながら、らでんはまた一人で笑ってしまった。
【登場人物・念能力の設定資料】
本作に登場する人物や念能力の設定をまとめた資料サイト『人物と念の蒐集帖』を公開しています。
https://sekai-shushu-cho.pages.dev/#/chapter/hatsu
※ネタバレ注意:各章の終盤までの情報が含まれます。未読の章を閲覧する際はご注意ください。