第二十八話 西ゴルドー共和国の少女
午前六時二十分。枕元でスマートフォンが震えた。
音乃瀬奏は右手だけを布団から出し、画面を叩く。
一度では止まらず、二度目は端を掠め、三度目でようやく目覚ましが沈黙した。
「……あと五分」
目を閉じた。四十二秒後に、また開く。
「だめだ」
五分寝たら、本当に五分寝る。
六時二十五分では洗面所が混む。
朝食がずれて、七時十二分のバスに乗れなくなる。
十八分の便でも学校には着くが、地下鉄の乗り換えで座れない。
座れなければ、英単語帳を確認する時間が十四分減る。
十四分あれば、四十七語は見直せる。
捨てる理由がない。
「……よし」
布団を蹴って、カーテンを開けた。
西ゴルドー共和国の首都ソエルは、まだ白い朝の光の中にあった。
高層住宅の隙間を高架鉄道が抜け、その向こうに朝靄を被った山並みが見える。
いつもの景色。今日もいい天気だった。
月曜日だ。
それさえなければ、悪くない朝だった。
◇ ◇ ◇
「音乃瀬」
「はい」
「三番」
数学教師が黒板を指した。
奏は立ち上がり、歩きながら式を組む。
図形の面積を求める問題。
黒板でチョークを取り、途中式を三行書いたところで手を止めた。
二行目から消して、書き直す。
「ここ、場合分けいらないです」
教師が眼鏡の奥から式を追った。
「……そうだな」
教室の空気が少し緩む。
席へ戻ると、隣の女子が肘を寄せてきた。
「また正解?」
「また正解」
「むかつく」
「なんで?」
「私、昨日二時までやったんだけど」
「私は一時四十分」
「もっとむかつく」
笑いを噛みながらノートを開いた。
勉強は嫌いではない。むしろ得意だった。
分からなかった問題が解けるのは気持ちいいし、覚えた単語が模試に出れば嬉しい。
順位が上がれば、少し誇らしい。
やったことが返ってくる。
自分が今どこにいるのか、点数にすれば見える。
それは、かなり分かりやすかった。
授業終了のチャイムが鳴っても、教師は奏を呼び止めた。
「この前の模試、見たぞ」
「あー……はい」
「かなりいい。このままなら上位の高校も十分狙える。志望校、もう一段上げてもいいんじゃないか」
「そうですかね」
「その返事、毎回するな」
周囲で笑いが起きた。奏も笑う。
「だって、まだ分かんないじゃないですか」
「分からないから勉強するんだろ」
「正論」
「ちゃんと考えておけよ。選択肢があるうちに選べる方へ行った方がいい」
「はーい」
軽く返して廊下へ出た。
選択肢はある。頑張れば、かなりのところまで行ける。
だからこそ、どこへ行きたいのか聞かれる。
次の教室へ急ぐ生徒を避けながら、鞄の紐を肩へ掛け直した。
志望校の欄を埋めるために、もう一度模試を受ける。
その結果がよければ、また一段上を勧められるのだろう。
一段上。一段上。
階段の終わりは、まだ見たことがなかった。
午後四時十二分に学校を出て、十八分の地下鉄へ。
四時四十七分には塾に着く。
今日の模試は五時から英語、六時四十分から数学。
答案が回収され、八時二十分にようやく十五分の休憩になった。
その後は解説授業が待っている。
廊下の自動販売機で甘い缶コーヒーを買い、ベンチへ座る。
スマートフォンには、昨日途中まで見た配信がおすすめされていた。
小さなライブハウス。照明の中に女の子が一人立っている。
指が止まり、動画を押した。
イヤホンから歌声が流れる。
客席は暗く、前の方で誰かの手が上がった。
歌っている子がそちらへ笑いかけ、そのまま次の節に入っていく。
上手い。それより、楽しそうだった。
「……いいな」
自分の声が聞こえた瞬間、画面を消した。
八時二十二分。休憩は、あと十三分ある。
英文法を二ページ進められる。
鞄から参考書を出し、缶を脇へ寄せた。
例文。選択肢。正解と解説。
次の問題へ、指を滑らせる。
◇ ◇ ◇
午後十時十一分、塾を出た。
ソエルの夜は明るい。
飲食店や書店の看板が歩道まで照らし、コイン式の歌唱練習ブースにはまだ制服姿が並んでいた。
「奏ー、コンビニ寄る?」
「ごめん。今日、復習残ってる」
「まじめー」
「明日単語テストでしょ」
「聞こえなーい」
「現実見な?」
「お前が言うな!」
笑って別れ、駅へ向かった。
雑居ビルの二階から、かすかな歌声が漏れてくる。
カラオケ店の窓は閉まっていて、何の曲かも聞き取れない。
それでも声が高く伸びるところだけ、街の音を抜けてきた。
足が止まった。
歌いたい。
昼間は画面を消せば消えた言葉が、今度はしばらく残っていた。
でも、今じゃない。
受験が終わったら。高校に入ったら。その時でいい。
歌は逃げないし、好きなら趣味でもできる。
自分が歌で何かできるかなんて、まだ分からないのだから。
青信号が点滅した。
「あっ」
奏は走った。
帰宅したのは十一時三分。風呂を済ませ、机へ向かう。
残していた英文の解説を読み終える頃には、十一時五十分を回っていた。
今日の学習時間を記録し、スマートフォンを枕元へ置く。
「まあまあ」
目を閉じると、さっきの歌声がまだ少し残っていた。
「……私も」
続きは口にしなかった。
廊下の明かりが消え、部屋が暗くなる。
眠りに落ちるまでに、その言葉も曖昧になった。
◇ ◇ ◇
午前六時二十分。スマートフォンが震えた。
右手を布団から出す。一度、二度、三度。
「……あと五分」
口にしてから、目を開いた。
何かが変だった。
枕元へ手を伸ばし直して画面を見る。
日付が、昨日のままになっている。
「……あれ?」
一度消して、つける。同じ。
再起動している間に顔を洗い、戻って確かめても、やはり昨日だった。
「バグった?」
窓の外は昨日と同じような朝だった。
電車が高架を抜ける音もする。端末が壊れたのかもしれない。
時間だけはいつもどおりに過ぎている。
奏は制服へ着替え、鞄に単語帳を押し込んだ。
「音乃瀬」
「はい」
「三番」
教室で顔を上げた。
黒板には、図形の面積を求める問題が書かれている。
昨日と同じ数字。同じ問い。
「どうした?」
「いや」
前へ出て、式を書く。
二行目で手が止まった。昨日、ここを消した。
消して、書き直す。
「ここ、場合分けいらないです」
「……そうだな」
席へ戻ると、隣の女子が顔を寄せた。
「また正解?」
「……え?」
「むかつく。私、昨日二時までやったんだけど」
チョークの粉が指に残っていた。
奏はそれを親指で擦る。
「……一時四十分」
「もっとむかつく」
昨日と同じ笑い声がした。
塾へ行っても、模試の問題も解説の内容も変わらなかった。
教師の雑談も、休憩時間に参考書を落とした男子の「あっ」という声も覚えている。
落ちると分かっていながら、手が出なかった。
午後十時十一分、いつもの誘いを断った。
「……ごめん。今日、先帰る」
「お、おう」
昨日とは違う道で帰った。帰宅は十一時十九分になった。
時計を見るたび、今度こそ昨日と違うことが起きたと思おうとした。
勉強はできなかった。布団に入っても眠れず、何度も画面をつける。
十一時四十分。五十二分。五十九分。
次に目を開けた時、天井が白かった。
午前六時二十分。
枕元で、スマートフォンが震え始める。
「……マジ?」
日付は、また月曜日だった。
◇ ◇ ◇
三回目は学校へ行かなかった。
体調が悪いから休むと伝え、家族が出かけたあとで外へ出た。
普段使わない地下鉄に乗る。
行き先は決めていない。ただ、昨日と同じものを見たくなかった。
適当に乗り換え、さらに乗り換える。
ソエルの中心部から離れるにつれ、高層ビルが減っていった。
駅を出ると、市場へ向かう細い道がある。
古書店の外には本が積まれ、その隣の楽器店から誰かが弦を試す音が聞こえた。
「こんなとこあったんだ」
生まれてからずっと住んでいる街なのに、知らない場所ばかりだった。
考えてみれば、奏のソエルは家と学校と塾を結ぶ線でできている。
乗り換えの駅にある店なら覚えていた。
一本外れた道に何があるかは、見たこともなかった。
市場で食べた麺は思ったより辛くて、水を二杯飲んだ。
思ったより私って辛いものが苦手かもしれない。
店の人が笑いながら、もう一杯注いでくれた。
それが少し楽しかった。
午後も歩いた。
今日はまた戻るのか、それとも今度こそ火曜日になるのか、分からない。
本当に時間が繰り返しているのかさえ、まだ信じ切れていなかった。
長い夢かもしれない。自分だけがおかしくなったのかもしれない。
そんなことを考えながら角を曲がり、妙な人を見つけた。
黒と白が印象的だった。
重なったフリルの上にリボンがあり、帽子にまで装飾が続いている。
どこから眺めればいいのか、一目では分からない服だった。
年は自分とそこまで離れていないように見える。
観光地でもない古い路地で、その人だけが別の場所から切り抜かれたようだった。
「……なんだろ、この子」
相手は石壁を眺めていた。
手元のメモ帳に何か書き、少し横へ移動して、また見る。
奏が足を止めたことに気づいたのか、振り向いた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
「何か?」
「いや……すごい服だなと思って」
「初対面の第一声がそれですか?」
「だってすごいし」
「否定はしませんけど」
笑い方は妙に普通だった。それで奏も少し笑った。
「学生さんですか?」
「うん」
「今日は平日ですよね? 学校は?」
「休んだ。サボり」
「堂々と言いますねぇ」
「たまにはね」
「受験生?」
「なんで分かるの」
「鞄から参考書見えてます」
「あ」
慌てて押し込むと、また笑われた。何も考えず、いつもの鞄を持ってきてしまった。
「大変ですねぇ」
「めちゃくちゃ大変」
「私も勉強は嫌いじゃないんですけど、受験のために一日中となると嫌ですね」
「でしょ? なのにみんな『今しかできないから』って言うんだよ」
「まあ、それも正しいんでしょうけど」
「正しいのが一番めんどくさいんだよね」
「それは分かる」
奏は少し驚いた。
「分かるんだ」
「分かりますよ。正論は正しいから刺さるんです」
「何それ」
「名言っぽかったでしょ?」
「ちょっとだけ」
知らない人だった。
学校も親も、奏の成績も知らない。
そのせいか、口に出しても後で困る気がしなかった。
「名前は?」
「儒烏風亭らでんと申します」
「じゅ……?」
「儒烏風亭らでん」
「もう一回」
「儒烏風亭らでん」
「服に負けてないね」
「名前まで服を基準にしないでください!」
「私は音乃瀬奏」
らでんが少し目を細めた。
「奏さん。いい名前ですね」
「そう?」
「音を奏でる」
「……まあね」
また、胸の奥に何か触れた。奏は石壁へ目を移した。
「らでんは何してたの?」
「ちょっと仕事で」
「その格好で?」
「服装は関係ないでしょう!」
「ごめんって。何の仕事?」
「古い物を見たり、調べたり。まあ、そんな感じです」
「ふーん」
それ以上は聞かなかった。らでんも説明を足さず、メモ帳を閉じた。
歩き出すと同じ方向だった。自然に並んで、路地を抜ける。
「学校サボって、ここまで来たんです?」
「普段乗らない電車乗って、適当に」
「受験生が大胆ですねぇ」
「今日はなんか、どうでもよくて」
「……何かあった?」
答え方が分からなかった。
信じてもらえるはずがない。
そう思うのに、学校の友達へは言えなかったことを、この人には試してみたくなった。
「変なこと言っていい?」
「程度によります」
「今日が……ずっと繰り返してる気がする」
らでんがこちらを見た。
「いや、分かってる。変なのは」
「何回くらい?」
「……今日で三回目」
「なるほど」
「信じる?」
「信じません」
「即答!」
「だって初対面ですよ?」
「まあそうだけど!」
変な服だからといって、変な話を信じるわけではないらしい。
「受験生でしょう。寝不足とか、疲れとか」
「寝不足はある。でもさ、昨日と全く同じ問題が出て、先生も友達も同じこと言ったんだよ」
「それは確かに気持ち悪いですね」
「でしょ?」
路地の出口で、らでんは一度立ち止まった。
「でも、本当に時間が繰り返していると思う前に、もう少し普通の可能性から考えた方がいいと思います。疲れすぎてるとか、夢を現実だと思ってるとか」
「夢かぁ」
「嫌な言い方だったらごめんなさいね」
「いや。そりゃそうだよね」
頷いたつもりが、視線は足元へ落ちていた。
「ただ、困ってるのは本当なんでしょう?」
顔を上げた。
「今日が繰り返しているかは、まだ分かりません。でも学校を休んで、知らないところまで来て、知らない私に話すくらいには困ってる。それは別の話です」
「……うん」
「なら、話くらい聞きますよ」
「暇なの?」
「仕事中です!」
「だめじゃん」
「少しくらいいいんです!」
二人で近くの公園に入った。
自動販売機で飲み物を二本買ったらでんが、一本を差し出してくる。
「若人への投資です。いつか偉くなったら返してください」
「めちゃくちゃ利子つけるよ」
「では、ぜひ偉くなってください」
「ここでも期待されるの!?」
「将来が楽しみですねぇ」
「逃げてきた意味!」
笑いながら缶を受け取った。
冷えた表面に指が張りつく。
らでんは帽子の位置を直し、足を揃えてベンチへ腰を下ろした。
「で、受験生の音乃瀬奏さんは、何がそんなに嫌なんです?」
「別に。嫌ではないよ」
反射的に答えていた。
「勉強できるし、成績も悪くない。先生も期待してくれてる」
「いいことですね」
「うん」
「じゃあ何で、今日学校休んだんです?」
缶を持ったまま止まった。
らでんは急かさなかった。
公園の向こうに小さな楽器店があり、窓際にマイクが並んでいる。
奏はしばらく、それを見ていた。
「私……やっぱいい」
「そうです? じゃあいいです」
あっさり引かれた。
それがありがたくて、少し寂しかった。
「らでんは? やりたいことやってんの?」
「やってますねぇ」
「楽しい?」
「楽しいですよ」
「仕事でも?」
「嫌な仕事もありますけど」
「じゃなくて。これが自分のやることだって、分かってる感じ?」
らでんは缶を膝へ置いて、少し考えた。
「分かってはいないです。これでいいのかなって思うことくらいありますよ」
「あるんだ」
「ありますあります。でも、好きなんですよね」
「……何が?」
「残ってるものを見るのが」
さっきの石壁へ目を向けた。
仕事に戻る時間を気にしたのかと思ったが、その横顔は少し嬉しそうだった。
奏には壁の違いなど分からない。らでんには、もう一度戻って見たいところがあるらしい。
「いいね」
「でしょう?」
迷いなく笑った。
夕方、二人は公園の前で別れた。
「ちゃんと帰るんですよ。あと寝てください」
「はいはい」
「本当に!」
「お母さん?」
「違います!」
手を振って、少し歩いてから振り返る。
らでんはもう古い建物を見ていた。
メモ帳を開き、来た時とは別の角度から壁へ近づいていく。
妙な人だった。本当に。
「……やりたいこと、やれてるのかな」
駅へ向かう足は、来た時より少しゆっくりになった。
◇ ◇ ◇
その夜、奏は参考書を開かなかった。
スマートフォンで歌を聴いた。
一曲、二曲。三曲目の途中から、誰にも聞こえないくらい小さく一緒に歌った。
そのまま眠った。
午前六時二十分。スマートフォンが震える。
日付は、また昨日だった。
しばらく天井を見ていた。もう驚くより先に、思い出した顔があった。
黒と白の服。帽子。変な名前。
「……らでん」
今日も、あそこにいるのだろうか。
繰り返す今日の中で初めて、昨日と同じ場所へ、自分から行ってみたくなった。