あの一夜を境にしても、古層板はいつもの古層板のままだった。
日々スレッドに貼られるのは、泥のついた土器の破片や修復材の配合、南岸で見つかった古い織物の写真ばかりだ。
らでんも学校と宿題を終えるとパソコンを開き、分からない言葉があれば尋ね、面白そうな話題があれば目を輝かせて追いかけた。
ただ一つ変わったのは、やりとりの合間に大人たちが何気なく落とす現場の話を、前みたいに読み流さなくなったことだ。
古狸@野良発掘
> 遺跡を回るなら、最低でも一週間は自分の足で歩ける体力がいる。
みずき堂
> 出先で怪我でもしたら、資料を見るどころではありませんからね。
古狸@野良発掘
> どれだけ知識があっても、現場に着く前に潰れたら意味ねえぞ。
どれもハンター試験の攻略法ではない。
現地調査へ出る人間なら知っていて当たり前のことを、二人は雑談のついでに書いただけだった。
けれど画面のこちら側でそれを読むらでんには、机の上と現場のあいだにある距離がはっきり見えた。フィールドワークは、本で読んで想像していたよりずっと過酷だ。
らでんは新しいノートを一冊下ろした。
表紙をめくり、最初のページに大きく書きつける。
《ハンターになるために足りないもの》
体力。水泳。地図と方角。野営。応急処置。荷物の管理。
そして、争いごとに対処する力。
文化財の調査項目を一つずつ洗い出すみたいに、今の自分に足りないものを書き並べていく。必要なものが目に見える形になれば、あとは順番に埋めていくだけだった。
最初は、走ることから始めた。
初日は二キロで息が上がり、膝に手をついて立ち止まった。
喉の奥がひりついて、足首も思うように上がらない。けれど、そこで闇雲に根性だけ出しても続かないことは分かっていた。
家へ帰るとすぐに心肺の仕組みや走り方の本を調べ、翌日は歩幅を小さくして、今の自分の身体に合うペースから試し直した。筋や関節に痛みが出れば無理をせず休み、どこに負担がかかったのか理由が分かれば、靴紐の締め方や着地の癖を一つずつ直していく。
休日はプールへ通って泳ぎ、少しずつ重くした荷物を背負って長い坂道を歩いた。登山や応急処置の初心者講習にも申し込み、大人の受講者に混じって包帯の巻き方や止血の手順を覚えた。実際に山へ入るときは一人で無茶をせず、現地の案内人を頼んで、紙の地図と方位磁針を見比べながら尾根筋を歩いた。
平日は学校で図書室の本を読み、帰宅すれば古層板を覗いて新しい話題を追いかける。そんな毎日の隙間に、少しずつ鍛錬を積み重ねていった。
古狸たちが、らでんに直接稽古をつけたわけではない。
ただ、ときどきRDNから「濡れた斜面で滑りにくい靴底ってどんな形ですか」「荷物を背負って歩くとき、重たいものはどの高さに詰めるんですか」と妙に具体的な質問が上がるだけで、自分たちの返事が一字一句ノートへ書き写されているとは夢にも思っていなかった。
数か月が過ぎる頃には、らでんは重い荷物を背負ったままでも、長い舗装路や山道を息を乱さず歩けるようになっていた。水に入り、地図で現在地を確かめ、擦り傷や捻挫の手当ても自分の手でできる。
誰かに勝つために強くなりたいわけではなかった。
見たいものがある場所まで、自分の足で辿り着くための鍛錬だった。
◇ ◇ ◇
靴底を減らして身体を慣らしているあいだも、らでんの関心は相変わらず古い物と人の手仕事にあった。
ある夜、みずき堂から小さな木彫像の画像が送られてきた。資料館へ持ち込まれた相談品だという。
みずき堂
> これ、どう思います?
らでんは画像を画面いっぱいに広げ、台座の縁や衣の折り目を拡大して見つめた。
RDN
> ……新しいですよね?
みずき堂
> 根拠は?
RDN
> 古く見せてますけど、削った角が立ちすぎてます。
> あと顔料です。この地方の古い赤なら、時代が経つともう少しくすむと思います。
少し間を置いて、返事が来た。
みずき堂
> 正解。
RDN
> やった!
みずき堂
> ただ、問題はそこではありません。
> 持ち込まれたご本人は、古い本物だと信じておられるんです。
喜んでいた指が、キーボードの上でぴたりと止まった。
RDN
> 騙されたってことですか?
みずき堂
> おそらく。らでんさんなら、こういうときどうします?
RDN
> 偽物だって伝えます。
みずき堂
> それだけ?
らでんは画面を見つめたまま考えた。
本物だと信じて大事に持ち込んだ人に、ただ「違います」と突き返すだけでは、その人がなぜそれを選んだのかまでは分からない。
RDN
> どうして本物だと思ったのか聞きます。
> あと、どこで買ったのかも。
みずき堂
> それから?
らでんはもう一度、画面の木彫像へ目を戻した。
時代を偽るために表面こそ汚してあるけれど、全体の釣り合いはよく整っているし、肩から裾へ抜ける刃物の流れにも迷いがない。
RDN
> ……これを作った人も探したいです。
みずき堂
> なぜです?
RDN
> 作りがすごく丁寧で、彫り方も上手いので。
> どんな人が彫ったのか知りたくなります。
みずき堂からの返信が止まった。
しばらくして、短い一文だけが表示される。
みずき堂
> 面白いところに目を向けますね。
偽物を見抜いて終わり、ではない。
一つの木彫像の向こうには、それを本物と信じた人と、古い物だと偽って売った人と、確かな腕で木を彫った人がいる。
らでんは手元のノートを開き、画像から読み取れた刃物の癖と顔料の特徴を丁寧に書き留めた。
◇ ◇ ◇
十二歳になり、試験の日が近づいたある夜、らでんは古層板を開いて書き込んだ。
RDN
> ハンター試験、申し込みました。
少しだけ間があった。
古狸@野良発掘
> は?
みずき堂
> え?
RDN
> だから、申し込みました。
古狸@野良発掘
> 二回言わなくていい。
> いつ決めたんだよ。
RDN
> えっ、前から受けるって言ってたじゃないですか。
みずき堂
> いつか受けるかもしれない、という話だと思っていました。
RDN
> 受けたいって言いましたよ!
古狸@野良発掘
> だからって普通いきなり申し込むか?
RDN
> 申し込まないと受けられないので。
古狸@野良発掘
> そういう理屈の話はしてねえ。
らでんは画面の前で小さく吹き出した。
受験の手続きは、もうとっくに済ませてある。案内ページにあった開催都市までの列車を調べ、宿を取り、持っていく道具も一通り揃えた。
黙っていたのは意地悪をしたかったからではなく、自分の手で調べられるところまでは、ちゃんと自分でやってみたかったからだ。
みずき堂
> それで、試験日はいつなんです?
RDN
> 来週です。
古狸@野良発掘
> 来週!?
> お前、そういうことはもっと早く言えよ!
RDN
> なんでです?
古狸@野良発掘
> こっちの心の準備がなぁ!
RDN
> 受けるの私ですよ?
古狸の書き込みが、そこでぷつりと途切れた。
数分して、ようやく新しい行が上がる。
古狸@野良発掘
> ……準備はしたのか。
RDN
> はい。走ったり荷物を持って歩いたりして、体力をつけました。
> 泳ぎと地図の扱い方、怪我の応急処置も、一通り。
古狸@野良発掘
> 誰に教わった?
RDN
> 本と講習会です。
> あと、皆さんがここで話してたり、書いて教えてくれたこと。
古狸@野良発掘
> 俺らが?
RDN
> 「現場に着く前に潰れたら意味ない」って。
また返信が止まった。
静まり返ったスレッドに、みずき堂の書き込みがぽつりと落ちる。
みずき堂
> ……私たち、この子に軽率なことを言わない方がいいかもしれませんね。
古狸@野良発掘
> 今さらだな。
らでんはその二行を読んで、椅子の背にもたれかかった。
叱られた気は少しもしなかった。むしろ画面の向こうで大人二人が頭を抱えて慌てている様子が目に浮かんで、胸の奥がくすぐったくなる。
◇ ◇ ◇
出発の前夜、らでんは部屋の床に荷物を並べた。
着替え。履き慣らした丈夫な靴。水筒。筆記具とノート。
救急用品。簡単な携帯食料。方位磁針。折り畳んだ地図。
試験会場で何をさせられるかは分からない。だから、知らない土地を自分の足で歩いて帰ってくるために要るものだけを選んだ。
一通り詰め終えたあとで、机の端に置いてあった薄い本に目が留まった。地方工芸の資料集だった。
試験には、たぶん必要ない。
それでも片手で重さを確かめ、少し迷ってから、鞄の一番端の隙間へそっと差し込んだ。
「移動中に読む時間、あるかもしれないし」
そういうところだけは、やっぱりいつものらでんだった。
鞄の留め具を閉めると、机の上のパソコンを開いて古層板へ繋いだ。
RDN
> 明日出ます。
みずき堂
> いよいよですね。
古狸@野良発掘
> 今からでもやめていいからな。
RDN
> ここまで準備して!?
古狸@野良発掘
> 命より試験を優先すんなって話だ。
キーの上に置いていたらでんの指が止まった。
RDN
> はい。
今度は茶化さず、短く返した。
古狸@野良発掘
> 無理だと思ったら逃げろ。
> 試験だからって何でも従う必要はねえ。
> 生きて帰る方を選べ。
みずき堂
> 分からないものを見つけても、まずは離れて観察してから。
> 勝手に触らないこと。
RDN
> ……努力します。
古狸@野良発掘
> そこだけ返事弱いの何なんだ。
RDN
> だって、気になるものは気になるので。
みずき堂
> 試験中くらい我慢しなさい。
RDN
> はーい。
張りつめていた空気が少しだけ緩み、いつもの古層板の温度に戻った。
古狸@野良発掘
> 受からなくても気にすんな。
みずき堂
> 戻ってきたら、また渡り灯の続きでも話しましょう。
受からなくても。
その一行を目にした瞬間、知らず知らず入っていた肩の力がすっと抜けた。
自分で行くと決めて、自分で準備して出ていく。それでも、帰ってくる場所はある。
夜遅くまで灯る古層板の画面と、ガラスケースの中の《渡り灯》と、この部屋の机。
らでんはキーボードへ指を置き、ゆっくりと打ち込んだ。
RDN
> 行ってきます。
みずき堂
> 行ってらっしゃい。
少し遅れて、古狸からも一行が上がった。
古狸@野良発掘
> 生きて帰ってこい。
らでんはその画面をしばらく見つめてから、静かにパソコンを閉じた。
◇ ◇ ◇
翌朝。町がまだ目を覚ましきらないうちに、らでんは鞄を背負って家を出た。
ひんやりと冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、玄関の前で一度だけ振り返る。
通い慣れた道。いつも見ている駅の改札。けれど、そこから先だけが昨日までと違う。
怖くないと言えば嘘になる。
試験で何をさせられるのか。どんな人間が集まってくるのか。自分がここまで積み上げてきたものが通用するのか、何一つ分からない。
それでも、まだ知らない世界を自分の目と足で確かめたかった。
朝のホームへ列車が滑り込み、扉が開く。
儒烏風亭らでん、十二歳。
分からないことだらけだけれど、必要だと思ったものは自分で調べ、一つずつ鞄と身体に詰めてきたつもりだ。
らでんは鞄の肩紐をぎゅっと握り直し、開いた扉の向こうへ踏み出した。