四回目の月曜日、音乃瀬奏は目覚ましが鳴る三秒前に目を開けた。
三、二、一。
スマートフォンが震える。今度は一度で止められた。
「……はいはい」
日付を見る必要はなかった。昨日も月曜日。
その前も、その前も月曜日だった。
元々、好きな曜日ではない。
学校が嫌いなわけではなく、友達もいるし、勉強もそれなりにできる。
それでも月曜の朝には、一週間分の予定がまとめて頭に乗ってくる。
学校、小テスト、模試、塾、復習。
それを全部越えて、ようやく少し息ができる。
また始まる、と思っていた。
「終わらないなぁ」
今は始まり続けている。
布団を蹴った。
今日は学校へ行かない。
昨日行った古い街へ、最初から向かう。
あの人が、今日もいるのか確かめたかった。
変な名前で、ものすごい服で、仕事を楽しそうに話した人。
今日が繰り返していると言っても信じなかったくせに、奏を笑わなかった人だった。
◇ ◇ ◇
午前十時十二分。地下鉄を降り、古い商店街を抜けた。
昨日辛い麺を食べた店はもう開いている。
店の人が外へ出て、箱を壁際へ寄せていた。
昨日見たのと同じ位置だった。
「……ほんとに全部戻ってんだ」
こちらを見ても、昨日水を注いでくれた時の顔にはならない。
通りを歩く客への、軽い会釈だけだった。
昨日があるのは、自分だけらしい。
石壁の前に、らでんはいなかった。
早すぎたのだろう。昨日は適当に歩いていたので、何時に会ったか覚えていない。
近くの店を覗いて時間を潰したが、十一時になっても、十二時になっても姿がない。
一時四十分、壁の見えるベンチで飲み物を買った。
紙カップが空になる頃、黒と白が角から現れた。
「……来た」
午後二時十九分。
儒烏風亭らでんは、昨日と同じように石壁の前で足を止めた。
メモ帳を出し、上の方へ顔を向ける。
奏は立ち上がっていた。
「らでん!」
「はい?」
「いた! ほんとにいた!」
「あ、はい」
「ねえ、聞いてよ。やっぱ今日も月曜だった。しかもさ、昨日のあの後――」
「えっと、すみません」
らでんが申し訳なさそうに手を上げた。
「どちら様でしたっけ?」
口が止まった。
「……え?」
「以前、どこかでお会いしました?」
「私。奏。音乃瀬奏」
「奏さん」
「昨日会ったじゃん。ここで。受験生で、学校サボって、今日が繰り返してるって話して」
らでんの顔が、昨日と同じになっていく。
少し優しくて、少し困っていて、完全には信じていない顔。
「ああ……受験生なんですね」
「……そこから?」
「え?」
「そこからなの?」
分かっていたはずなのに、思ったより痛かった。
◇ ◇ ◇
十五分後、喫茶店で向かい合っていた。
らでんの前にはコーヒー、奏の前にはジュースが置かれている。
「つまり奏さんは、同じ月曜日を何度か繰り返している」
「今日で四回目」
「そして前回の月曜日、私とここで会った」
「ここじゃない。公園。自販機で飲み物奢ってくれた」
「私が?」
「若人への投資だって」
「……言いそう」
「言った」
「嫌だな、自分で言いそうなのが」
奏はテーブルへ額を伏せた。冷たい天板が気持ちいい。
「ほんとに覚えてないんだ」
「申し訳ないですが」
「いや、謝ることじゃないけどさ」
友達も先生も家族も覚えていない。らでんだけが覚えている理由などない。
昨日は話しやすかった沈黙が、今日は初対面の間になっていた。
あの話の続きをしようとしても、始める場所そのものがない。
「……なんかムカつく」
「理不尽ですね!?」
「昨日あんなに話したのに」
「私からしたら初対面です!」
「知ってるよ! しかも反応ほぼ一緒だし」
「何て言いました?」
「まず普通の可能性から考えた方がいい。寝不足とか、疲れてるとか、夢とか」
「なるほど」
らでんが頷く。
「まず普通の可能性から考えた方がいいと思います」
「ほら!!」
「いやでも、そうなるでしょう!」
「二回聞いた!」
「私は一回目です!」
顔を上げると、らでんまで困ったように笑っていた。
腹が立つ。でも少し安心した。
知らない顔で見てくるのに、話せばちゃんと、この人は今日もこの人だった。
学校の問題、教師の言葉、参考書を落とす音。
昨日より具体的に話した。らでんは時々聞き返しながら、メモ帳に短く書きつけていく。
話し終えても、時間が繰り返していると認めてはくれなかった。
「興味はあります」
「まだ信じてないんだ」
「信じると、興味を持つは別ですから」
「めんどくさ」
「大事ですよ。変なことほど、最初から変な答えに飛びつかない方がいいんです」
「じゃあ、もしまた今日に戻ったら。明日のらでんも同じこと言うと思う?」
「さあ」
「自分でしょ?」
「未来の私の責任まで取れません」
「何それ」
らでんはカップを置いた。
「でも、本当にそうなら、同じ場所へ同じ時間に来てみたらどうです? 私が毎回ここへ来るのか確認できる。それから、奏さん自身の行動も、意識して変えてみる」
「実験みたい」
「そうです。何が同じで、何が変わるのか。分けてみましょう」
「らでん、そういうの好き?」
「大好きです」
そこだけ即答だった。
「明日は学校へ行く。次は休む。次は遠くへ行く。変えるものを一つずつ決めると、比べやすいですよ」
「やること多くない?」
「一日では終わりませんね」
「一日はいっぱいある」
「……今、少し羨ましいと思ってしまった」
「代わってよ!」
「遠慮します!」
喫茶店を出てからも少し付き合ってくれた。
奏は通りの看板や時計を写真に撮り、時刻を書き留める。
明日残っているかを確かめるためだった。
午後六時過ぎ、別れ際に足を止めた。
「もし明日も月曜日だったら、また来てもいい?」
らでんが少し目を丸くした。
「もちろん」
「でも忘れてるじゃん」
「本当に奏さんの言う通りなら、忘れてるでしょうね」
「じゃあ意味ないじゃん」
「奏さんは覚えてるんでしょう?」
「……うん」
「ならいいじゃないですか」
なんでもないように、続けた。
「私が何度忘れても、その都度話を聞けばいいでしょう」
言葉が出なかった。
らでんはメモ帳を鞄へしまい、付け足した。
「まあ、本当にループしているならの話ですけど」
「最後にそれ言う?」
「大事なので。では、ちゃんと寝てくださいね」
「はーい」
手を振った。数歩進んで振り返ると、また石壁を見ていた。
「……何度忘れても、か」
その言葉だけは、明日も持っていける気がした。
◇ ◇ ◇
五回目の月曜日。写真もメモも消えていた。
「ですよねー」
午前中は高速鉄道に乗った。街の外へ出ればどうなるか、試したかった。
窓際の座席に落ち着き、駅が遠ざかっていくのを見ていた。
いつもの地下鉄より速い。建物の間隔が広がりかけたところで、景色が途切れた。
次に見えたのは、出発駅の案内板だった。
立っている。ホームに。列車はまだ扉を開けていた。
「……は?」
時計も戻っている。
手の中には、まだ使っていない切符があった。
「いや、乗ったよね?」
誰も答えない。車掌が出発を知らせている。
もう一度乗れば確かめられる。らでんなら、そう言うかもしれない。
奏は一歩下がった。
今日はもう、確かめなくてよかった。
午後二時十九分には、石壁から少し離れた場所にいた。
らでんが来る。露店の商品へ目を向け、その後で壁を見る。昨日と同じだ。
今日は声をかけず、動きをメモした。
二時二十五分、壁の右端。
二十八分には反対側の路地へ入り、三十四分に古い石門へ。
四十一分には門の装飾を見上げていた。
二時四十三分、小さな葉が帽子へ落ちた。
気づかないまま歩いていく。
「昨日もついてた」
声を抑えて笑った。あの葉まで律儀に戻ってきている。
書いたメモは消えるだろう。帰るまで何度も見返し、時刻を頭へ入れた。
試験の範囲が、こんなところにまで増えた。
◇ ◇ ◇
六回目は、向こうが名前を言うより先に呼んだ。
「儒烏風亭らでん」
らでんが固まった。
「なんで私の名前を?」
「今から『以前どこかでお会いしました?』って聞くよ。で、私が受験生って分かる。理由は鞄から参考書見えてるから」
相手の目が変わる。奏はそれを見て、背筋を少し伸ばした。
「音乃瀬奏。今日で六回目の月曜日」
「……六回目?」
「二時二十五分、壁の右端。二十八分、向こうの路地。三十四分、石門。四十三分に帽子へ葉っぱ落ちる」
「待って最後なんですか!」
「昨日めっちゃ面白かった」
「取ってくださいよ!」
「知らない人だったから」
「今も知らない人でしょう!」
「私は知ってるもん」
奏は笑ったが、らでんはもう笑っていなかった。
壁と時計を見て、メモ帳を閉じる。
「少し離れてもらっていいですか。ここから、私が何をするか見ていてください」
十メートルほど離れた。
らでんは石壁へ行かなかった。逆方向へ歩き、喫茶店に入る。
十五分後に出てくると、昨日とは別の路地へ進んだ。
やがて戻ってきて、奏の前に立つ。
「昨日の私は、今の行動をしました?」
「してない」
「一度も?」
「私が見てた範囲では」
「では少なくとも、私自身が決められた動きしかできないわけではない」
奏は壁の前を見た。誰もいない。
全部が台本になっているわけではない。
言葉をかけたことで、らでんは予定を変えた。
未来を当てたつもりで、その未来を自分が変えてしまった。
「じゃあ」
「ただし、奏さんが私の行動を知っていたことは残ります。前に調べた予定を話している、と考えることもできますが」
「ひど」
「可能性の話です」
「信じた?」
「まだ」
「固いなあ!」
「でも」
らでんが笑った。
「調べる価値は出てきました」
二時四十三分。奏は帽子を見た。
何も落ちてこない。らでんは石門から離れた場所に立っている。
「葉っぱ来なかった」
「別の場所ですからね」
「せっかく覚えたのに」
「予告されたので避けたんです!」
◇ ◇ ◇
七回目は学校へ行った。数学の問題を誰より早く解き、昼休みになったら早退した。
二時十二分、例の地区。十九分、らでん。
「奏。六回目じゃなくて今日は七回目。前のあなたの指示で来た」
「……前の私?」
「まず話を聞く。変な答えに飛びつかない。検証する。昨日は自分の予定を変えて、私が本当に未来を知ってるか確認した」
らでんが黙った。
「二時四十三分に帽子へ葉っぱ」
「何ですかその情報!」
「毎回そこ食いつくんだ。じゃ、調査しよ」
「まだ何も了承してませんよ!?」
「昨日はした」
「昨日の私に言ってください!」
「昨日はいない!」
「むちゃくちゃだ!」
頭を抱えていたが、五分後には一緒に歩いていた。
今度は街の出来事をいくつか試した。
三時頃に店員が看板を裏返す。
三時十七分には交差点の犬が、自転車に吠える。
前の月曜日、らでんが確認する候補として奏に覚えさせた出来事だった。
「原因は自転車?」
「うん。あの角から来る子」
時刻になると、本当に少年が現れた。犬が耳を立てるより先に、らでんが声をかけた。
「すみませーん。ちょっとだけ、反対側を通ってもらっていいですか?」
「え?」
困惑しながらも、少年は道路の向こう側へ寄った。
犬は頭を上げただけで、また前脚へ顎を載せた。
「吠えなかった」
「来る時刻は同じでしたね。介入すれば、その後は変わる」
「ゲームみたい」
「嫌なゲームですね」
「セーブないし」
「奏さんだけありますよ」
「私がセーブデータ?」
「どちらかというと引き継ぎデータですね」
「強くてニューゲームじゃん」
「強くはなってないですけど」
「ひど!」
高速鉄道で戻された話もした。
らでんは範囲も条件もまだ分からないと書き、その下へ線を引いた。
分からないと言われるたび、昨日までは腹が立った。
今は少し違う。分からないことを、二人で同じ紙に並べている。
「これも明日消えるんだよね」
奏がメモ帳を覗いた。
「奏さんが覚えていれば、また書けます」
「私、覚える担当?」
「得意でしょう?」
答える前に、少し笑ってしまった。
「めちゃくちゃ得意」
◇ ◇ ◇
夕方、使われなくなった小さな地上駅の前へ出た。
新しい地下鉄ができるまでは、この辺りの学生が使っていたらしい。
駅前には古い時計が立っている。
文字盤の下の金属は色が褪せ、台座だけが人の触れる高さで滑らかになっていた。
「ここ、昨日も来ました?」
「来てない。初めて」
らでんが台座へ近づき、手袋を外した。
「何するの?」
「ちょっと調べます」
「何を?」
「残ってるものを」
石へ手を置き、目を閉じる。
奏には何も見えなかった。時計の針が進む。
通りの向こうで、店を閉める金属音がした。
「らでーん」
「ちょっと静かに」
「はい」
しばらくして目が開いた。
らでんは台座を見下ろし、眉を寄せた。
「……もう一回」
二度目は長かった。
指を離してからも、見えないものを確かめるように時計と足元を交互に見ている。
「奏さん、ここを通ったことは一度もない?」
「ないよ」
「前の月曜日も?」
「ない。何見てるの?」
らでんは少し迷った。
「私、普通の調査員じゃないんです」
「知ってる」
「え?」
「その服で普通の調査員は無理」
「そこじゃない!」
鞄から薄いカードケースを出した。
一枚差し出されたカードを、奏は両手で受け取る。
「ハンターライセンス?」
「はい」
「……マジ?」
「マジです」
「何ハンター?」
「文化財ハンター」
奏は顔を上げ、服を見て、もう一度カードを見た。
「めちゃくちゃ納得した」
「服と結びつけないでください!」
「でもそれっぽい!」
「偏見!」
カードを取り返した指が、そのまま台座へ向いた。
「私は、物に残ったものを見るのが少し得意なんです。誰が触ったとか、どう扱われたとか。全部ではなく、断片だけですけど」
「それで何が?」
「同じ学生がここで飲み物をこぼす。清掃員が拭く。夕方には老夫婦が待ち合わせる。それが、重なって見えました」
「何回も?」
「ええ。よく似た別の日かと思ったんですが、服も、持ち物も、倒れたカップまで同じなんです」
そこで一度、言葉が止まった。
「だけど、学生が転ばない断片もあった」
奏は台座を見た。乾いた石しか見えない。
同じ人が同じことをする。それでも、何かが違えば、その先も変わる。ついさっき、二人で確かめたことだった。
「それ、今日?」
「断定はできません。日付が教えてもらえる能力じゃないので。ただ、奏さんの話を聞いてから見ると、気になる一致が多い」
時計を見上げたまま、らでんは言葉を選んだ。
「物の方に、何か残っているのかもしれません。人の記憶とは別の形で」
「……じゃあ」
「今まで、奏さんだけの記憶の問題かもしれないと考えていました」
こちらへ向き直る。
「撤回します」
しばらく、何も言えなかった。
怖い。自分の勘違いで済むかもしれないと思っていたものが、石の時計台にまで染み込んでいる。
なのに、息を吐くと別の言葉が出た。
「……よかった」
「よかった?」
「やっと信じたじゃん」
「そこ!?」
「長かったー!」
「こっちは今日会ったばかりなんですよ!」
「私は七回目!」
「知りませんよ!」
「知ってよ!」
笑えてしまった。
抜け方は分からない。何が起きているのかも分からない。
それでも、この月曜日のらでんは、一緒に考えてくれる。
「どうする?」
らでんは古い時計を見上げた。
疲れたように目元を押さえてから、少しだけ楽しそうに笑う。
「調べましょうか」
「何を?」
「全部です」
午後五時四十六分。
音乃瀬奏は初めて、月曜日がもう少し続いてもいいと思った。