八回目の月曜日。午前六時二十分。
音乃瀬奏は目覚ましを止めた。
「おはよう、月曜日」
最悪の挨拶だった。
少し前なら布団へ顔を埋めていたところだが、今日は起きる。
朝食を食べ、制服を着て、学校へ向かった。
数学の問題は覚えている。
昨日とは違う解き方を考えていると、名前を呼ばれた。
「音乃瀬、三番」
「場合分け、最初からいらないです」
「……まだ黒板にも来てないぞ」
「あ」
教室に笑いが起きた。奏も笑った。
昼休み、体調が悪いと言って早退する。嘘をつく罪悪感は薄くなっていた。
朝にはまた同じ授業が始まり、早退した記録も消える。
今日は、昨日の続きをしたかった。
午後二時十九分。もう走らなくても間に合う。
角を曲がると、らでんがいた。
「こんにちは。音乃瀬奏。受験生。今日で八回目の月曜日」
「…………はい?」
「あなたは儒烏風亭らでん。文化財ハンター。それから、昨日のあなたが駅前の時計を調べてた」
らでんの眉が動いた。
「時計を?」
「同じ学生が同じ飲み物をこぼすところ。何回も。今日、もう一回見てほしい」
「……少し待ってください」
「はいはい。待つと思って買ってきた」
鞄から缶コーヒーを出すと、目を丸くされた。
「準備がいいですね!?」
「八回目だからね」
十五分後、二人で駅前へ向かっていた。
「まだ全面的には信じていません」
「固いなあ」
「でも、調査します」
「そこまで昨日と一緒」
「昨日の私、かなりまともですね」
「自分で言う?」
古い時計の下で、らでんは手袋を外した。
「私の能力のこと、名前まで話しました?」
「物に残ったものを見るのが得意って。それだけ」
「《
「発?」
「特殊な能力と思ってください。説明すると長いので」
「魔法?」
「念です」
「知らない言葉増やさないで」
「だから長くなるって言ったじゃないですか!」
台座に指を置き、目を閉じる。奏も口を閉じた。
風で足元の枯れ葉が動いた。
らでんはその音には反応せず、少ししてから、小さく息を吸った。
「今日は、雨」
「雨?」
「この時計の下で、受験生らしい子が泣いています。かなり前のように見えたけど、いつかは分かりません」
「同じもの見えるんじゃないの?」
「毎回同じとは限らないんです。物が経験した過去の、ごく一部だけ。映像だったり、音だったり。こちらで見たいところを選べるわけでもなくて」
「便利そうでめんどくさい」
「そうなんですよ!」
そこだけ強く同意した。
「ループと関係ある?」
「まだ何とも」
「じゃあもう一回」
「連続使用は疲れるんですが」
「明日には戻るよ」
「私の疲労を雑に扱わないでください」
文句を言いながらも、少し休んでから再び触れた。
奏はその間、時計の周囲を歩いた。
学生がここに来るなら、学校が近くにあったのだろうか。
今見えるのは閉じた駅舎と店ばかりだった。
◇ ◇ ◇
九回目は、説明が短くなった。
「奏。九回目。文化財ハンター。《
らでんが黙る。
「……能力の名前まで?」
「あなたが教えた」
「私が?」
「あなた以外、こんな服の人知らない」
「服は信用の根拠になりません!」
その日は三度目に鐘の音を拾った。始業の合図のようだと、らでんが言った。
十回目には、それを先に伝えた。
「鐘。学校の始業みたいな音。近くに昔の学校か塾がなかったか調べようって、昨日のあなたが」
「……分かりました。とりあえず図書館へ行きます」
「信じる?」
「信用ではなく検証です」
「めんどくさ」
「大事なんです!」
十一回目、市立中央図書館。
奏は席へ着く前に、必要な地図を揃えていた。
「三つ。昔この辺にあった学校」
「早いですね」
「一つは移転。一つは統廃合。残り、これ」
《ソエル中央進学学院》。
旧校舎は地下鉄建設の際に閉鎖され、一部だけが残っている。
らでんが新しい地図を隣へ置くと、奏は二本の道を指で重ねた。
「時計から徒歩十分」
「行きましょうか。ところで今日、学校は?」
「行ってない」
「受験生」
「月曜日を十一回やってるんだよ」
「それでも勉強はした方が」
「数学の問題、全部覚えた」
「それはそれで怖いな」
十二回目。旧学院の入口。
鍵が掛かっていた。
十三回目。管理会社の窓口。
「担当は本日、もう外へ出ております」
十四回目。同じ窓口。
「何時までならいます?」
「午後三時より前でしたら」
その日の時計は、三時六分だった。
「六分」
「奏さん」
「たった六分!」
「来週、じゃなくて、次の月曜日に」
「覚えた。絶対覚えた」
帰り道、らでんに午前中の予定も聞いた。
午後二時十九分まで待たなければ会えないわけではない。
そのことに気づいた時、奏は思わず足を速めた。
◇ ◇ ◇
十五回目。午前十一時。
資料館を出てきたらでんへ、奏が横から合流する。
「こんにちは。奏です。十五回目」
「……十五?」
「まず歩きながら説明する」
「えっ」
「文化財ハンター。《
「ちょっと」
「ハンターライセンス出して」
「なぜ!?」
「申請に使う。用紙は書いた。ここと、ここ、あなたが確認して署名」
「私まだ何も了承してませんが!?」
「歩くのは了承してる」
「ついてきてるのはそっちでしょう!」
らでんは結局、書類を受け取った。
中身を確かめ、資料館で取った写しと照合する。
必要な質問が来る前に奏が答えると、いよいよ眉間に皺が寄った。
「昨日の私が、これを?」
「これを書かないともう一周する羽目になるって」
「……それは嫌ですね」
「でしょ」
管理会社では、担当者がまだ机にいた。
その顔を見ただけで、奏は小さく拳を握った。
許可書も申請も、朝になれば消える。
でも、どの窓口で何を見せればいいのかは、もう消えない。
十六回目。
「奏。十六回目。これ、資料。今日の目的は地下の解錠」
「お待ちください」
「どうぞ」
待っている間に、奏は次の申請書へ自分の名前を書いた。
「……説明、何分でした?」
「二分十七秒」
「初回は?」
「一時間くらい」
「上達しましたね」
「らでん攻略?」
「嫌な言い方しないでください」
旧学院へ向かう途中、らでんが図面の端を押さえた。
「前の私は、どこまで?」
「地下まで。扉が開かなかった。電子式で、電源が死んでる」
「非常解錠は?」
「右側の壁。昨日のあなたが見つけた」
「便利ですね、昨日の私」
「毎日お世話になってます」
「私は何も覚えてないんですけどねぇ」
奏は一瞬、足を止めた。
最近、目覚ましが鳴るのが前ほど嫌ではない。
説明を覚え、資料を取り直し、この人のところへ来れば続きをやれる。
それを楽しみにしているのは、自分だけだった。
「奏さん?」
「なんでもない。行こ」
十七回目は解錠の手順と鍵の所在を確かめた。
十八回目には、迷わなかった。
申請。本人確認。鍵の受け取り。
地下へ。右の壁。蓋を外す。レバー。
扉が開いた。
「やった!」
「静かに。響きます」
二人の声が、暗い地下へ吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇
隙間から、湿った埃の匂いが出てきた。
らでんの懐中電灯がコンクリートの壁を照らす。
錆びた棚の脚が光り、その下には底の潰れた段ボールがあった。
古い机や箱の間に、答案用紙が落ちている。
端は湿気で波打っていた。
印刷された枠も採点の赤も、自分が毎日見ているものと大して違わない。
「残ってるんだ」
「廃棄されないままになったんでしょうね」
らでんは拾い上げる前に、周りを照らした。
棚に残る箱の札を見て、落ちた紙の位置を記録する。
「すぐ能力使わないんだ」
「見えたものを正解だと思いたくないので」
「どういうこと?」
「断片を先に見ると、目の前のものまでそれに合わせて考えてしまうことがあるんです。普通に見て分かることは、先に見ておきたい」
「らでんっぽい」
「今日初対面ですよ?」
「私は何度も会ってるもん」
「ずるいなあ」
奥には古い教室があった。壁の標語は色褪せても読めた。努力、勝利、合格、未来。
奏が顔をしかめると、らでんが横目で見た。
「嫌です?」
「ちょっと。サボって来た先まで塾だよ」
「自分で見つけたんでしょう」
「優秀すぎた」
「反省の方向が違う」
笑いながら黒板へ目を向けて、そのまま止まった。
表面には、消し残した粉が白く曇っている。
その中に一つだけ、はっきり読める言葉があった。
もう一度。
「これだけ消えてない」
「ええ」
らでんが手袋を外し、指先を黒板へ置いた。奏は隣で待った。
呼吸が少し変わる。顎が引かれ、閉じた瞼の下で目が動いた。
「……試験。教室いっぱいに学生がいる」
「時計で見た子?」
「同じかは分かりません。一人、泣いてる子がいます」
指が離れた。らでんはもう一度、文字の高さを見た。
「この言葉を書いたのも、その子かもしれない。チョークを持つ手が見えました」
「やり直したかったのかな。受験?」
「かもしれません」
「もう一回やる?」
「今日はやめます。少し嫌な感じがする」
その時、奥で鐘が鳴った。
――カァン。
誰もいない地下を、硬い音が通り抜けた。奏は出口を振り返る。
「今の、時計で聞いたっていう……」
「戻ります」
らでんが腕を引いた。来た時より足音が大きく響いた。
地上へ出てから二人で図面を開き、音がした方向を確かめた。
直接向かうのは、準備をしてからにする。
鐘、と奏は何度も頭の中で繰り返した。
次に調べる場所が、見つかった。
◇ ◇ ◇
十九回目の月曜日。
目覚めるとすぐ、昨日の情報を書いた。
旧学院、黒板、泣いていた受験生。奥から聞こえた鐘。
危ないので引き返した。次は先に退路を確認。
午前中に資料を取り直し、午後零時四十八分、らでんを見つけた。
「奏。十九回目。説明一分でいく」
「一分!?」
「文化財ハンター。《
「時計との繋がりは?」
「学院の学生が使っていた駅。今日の履歴みたいなものが重なっていた」
「管理許可は?」
「申請書は書いた。ライセンスで確認してもらったら、その場で出せるって」
「退路は?」
「ここ。図面も取った」
らでんが資料を受け取る。その間に奏は腕時計を見た。
「四十八秒」
「何を競ってるんですか」
「昨日の私」
らでんが吹き出した。
「分かりました。確認しながら行きましょう」
「昨日までのあなたに聞かせたい」
「昨日までの私は知らない人です」
「私には全部らでんだけどね」
何気なく返すと、一瞬だけ変な顔をした。
「何?」
「いえ。行きましょう」
手続きを済ませ、地下へ入る。
鐘が鳴った方には、使われていない倉庫があった。
図面にはその先にも部屋があるのに、扉がない。
棚を動かして壁沿いを調べると、天井近くに古い換気口が見つかった。
「風ある」
格子へ指をかざした。わずかだが、冷たい空気が抜けてくる。
「入れる?」
「奏さんなら」
「らでんは?」
「服が」
「そこ!?」
「大事です!」
格子の強度と通路の先を確かめ、二人で中へ入った。
奏が先に身体を滑り込ませ、肘で少しずつ進む。後ろで布が擦れるたび、笑いそうになった。
「絶対、服引っかかってるでしょ」
「言わないでください」
「ゴスでダクトは無理あるって」
「二度とやりません」
「明日もやるかもよ」
「嫌だ!」
その声が狭い通路を伝わってきた。
奏は笑いながら、向こう側の格子を押した。
◇ ◇ ◇
小さな部屋だった。
教室でも倉庫でもない。
中央には真鍮色の鐘が吊られ、その横に木箱があった。
床には大量の紙が散っている。
奏は入口に近い一枚へ、灯りを落とした。
名前、年月日、志望校、点数。その下に、筆圧の強い文字。
次は絶対に失敗しない。
隣の紙には、もう一度だけ。
その下には、明日にならないで。
「……願掛け?」
「おそらく」
「塾で?」
「そういう習慣があったのかもしれません」
何百枚もある。字は全部違うのに、書いてあることはよく似ていた。
明日にならないで。奏はその紙から目を離せなかった。
「分かるな。ちょっとだけ」
らでんがこちらを見た。
「明日になったら、試験が来るから」
笑ってみせたが、らでんは答えなかった。鐘と、それを支える金具を順に照らしている。
「調べます。奏さんは下がってください」
「どれくらい?」
「換気口の近くまで。念が関係している可能性が高い」
声が真面目だった。
奏は戻って壁際に立った。頭の上に四角い出口がある。
らでんは床の紙を踏まないように近づき、手袋を外した。
指が鐘へ触れた。
全身が強張った。
「らでん?」
返事はなかった。手を引こうとしているように見えた。
「何見えた?」
「……来ないで」
鐘が鳴った。
誰も叩いていなかった。
指が離れる。らでんがこちらへ向いた時には、もう顔色が変わっていた。
「外へ。今すぐ!」
その声で身体が動いた。換気口へ手を掛ける。
二度目の鐘が鳴り、床の下で何かがずれた。
倒れていた椅子が立った。
破れた紙が跳ね、錆びた棚が壁へ滑っていく。片づけられる時の動きに似ていた。
ただし、人がいたことなど構わない速さだった。
「何これ……!」
「上がって!」
足元の板が跳ねた。
奏の指が格子の縁から外れ、膝をつく。
天井で太い音がして、見上げた先に梁があった。
落ちてくる、と分かった時には動けなかった。
らでんが割って入った。
頭上で梁が止まった。足元の床が沈んだ。
その横を、壁際にあった鉄骨が滑ってきた。
「奏さん!」
身体を突き飛ばされた。
床を転がり、肩を強く打つ。息が詰まった直後、背後で轟音がした。
埃で、何も見えなかった。
耳の奥が鳴っている。落とした懐中電灯だけが、床に光を投げていた。
「……らでん?」
返事がない。
灯りを拾い、両手で向きを変えた。
らでんは倒れていた。
上半身だけが見えている。
腰から下には、落ちた梁と横から押し寄せた鉄骨が重なっていた。
らでんの下半身は、完全に押し潰されてしまっていた。
「らでん」
指がわずかに動いた。
「……奏、さん」
生きている。
駆け寄り、梁へ手をかけた。
「今どかす! すぐ――」
「……っ」
らでんが息を詰めた。唇を噛んでも、喉から小さな音が漏れた。
見たことのない顔だった。
「救急車、呼ぶから!」
「はい……」
「すぐ来るから!」
「……うん」
震える指で番号を押す。住所を言い、旧学院の地下だと繰り返した。
人が挟まれている。入口はどこで、鍵はどうなっている。
聞かれたことに答えているのに、自分の声が遠かった。
「来るって!」
「……ありがとうございます」
「喋らなくていい!」
らでんは息を絶え絶えだった。
額に細かな汗が浮いている。片手で床を掴もうとしたが、指が滑った。
奏は膝をつき、その手を握った。
「聞いて」
「あとで聞くから」
「今」
「あとで!」
「今です」
声だけがいつものらでんだった。
奏は黙るしかなかった。
「次の……私に、言ってほしいことが、ある」
顔が歪んだ。
次。その言葉が、あまりにも残酷だった。
認めないでほしかった。私は大丈夫だと言ってほしかった。
らでんは言わなかった。
「覚えて」
一度息を吸い、途中で止まる。
奏は手を握り直した。
「……青磁の……欠片は」
「うん」
「……偽物だった」
意味が分からなかった。
聞き返しかけると、握った指にわずかに力が入った。
「……次の私に」
「どういう意味?」
「それは――」
身体が震えた。
らでんは目を強く閉じ、痛みが過ぎるのを待つように息を止めた。
奏の手に爪が食い込む。
痛いと言いかけて、飲み込んだ。
「ごめん、もういい。もう喋らなくていい!」
「説明……」
「いらない!」
「次の、私なら……分かる」
声が細くなる。
口元だけが、少し笑おうとした。
「私なので」
奏は頷いた。何度も頷いた。
青磁の欠片は、偽物だった。
分からなくても、そのまま持っていく。
その先を教えてもらうために、これ以上喋らせたくなかった。
遠くから人の声がした。
奏は顔を上げる。廊下の方で、誰かが呼んでいる。
「来た! らでん、来たよ!」
らでんが少しだけ目を開いた。
「もう一つ」
「喋らなくていいって」
「友達が……いるんです」
息を継ぐ。奏は顔を寄せた。
「はじめ」
「はじめ?」
「轟……はじめ」
「うん」
「伝えて。事故に……遭ったって」
握っている手から、力が抜けていく。
「協会に……言えば、分かるから」
「分かった。伝える。絶対伝える」
何度も頷いた。
らでんはそれを見ていた。
目を閉じたあとも、奏は返事を待った。
「らでん?」
遠くの光が近づいてくる。
「要救助者確認!」
誰かが奏の肩へ触れた。
それでも、手を離せなかった。
◇ ◇ ◇
外へ出されてから、人が大勢来た。
救急隊、消防、警察。
聞かれるままに名前を答え、どこから入ったかを説明する。
どうして中にいたのかと聞かれて、言葉が止まった。
「私が……連れて」
違う。二人で来た。
けれどらでんは、今日、奏に会わなければここへ来なかった。
石壁を調べ、夕方には仕事を終えていた。
その先がある人だった。
らでんは助からなかった。
現場で死亡が確認されたと聞かされた。
言葉は耳に入ったのに、それがどういうことか、しばらく分からなかった。
二時十九分には、いるはずだった。
あの服で角を曲がり、露店を覗いて、壁へ歩いてくる。
そう思うことと、今死んだことが、頭の中でどうしても重ならない。
ハンターライセンスが見つかると、周りの空気が変わった。
協会へ連絡が入ると聞き、奏は轟はじめという名前を伝えた。
らでんが最後に頼んだ人だ。それだけは何度も言えた。
「らでんさんとは、どういうご関係ですか」
「友達……」
答えかけて、止まった。
今日のらでんは奏を数時間しか知らない。
何度も笑ったことも、困った顔も、知っているのは自分だけだ。
「……知り合いです」
胸が痛かった。
◇ ◇ ◇
午後十時過ぎ、知らない番号から電話が来た。
『音乃瀬奏さんですか』
若い女性の声だった。
「そうです」
『……轟はじめです』
息が止まった。
らでんが最後に呼んだ名前。
その人が、本当にいた。
「らでんの」
『はい』
短い返事のあと、何も続かなかった。
奏はスマートフォンを持ち直した。
何を言えばいいか分からず、手の汗ばかりが気になった。
「私が、一緒にいて。私があそこに連れていって……ごめんなさい」
返事はなかった。
怒られると思った。怒ってほしかった。
お前のせいだと言われたら、今ここに座っていることへの言い訳を、もう考えなくて済む気がした。
『……最後に』
電話の向こうで、一度、呼吸が入った。
『何か、言ってましたか』
奏は目を閉じた。
埃の中の顔が浮かぶ。聞き逃したくなくて近づいた、あの小さな声。
「はじめ、って」
向こうの息が止まった。
「轟はじめ。友達に伝えてほしいって。事故に遭ったって、伝えてって……協会に言えば分かるからって」
受話口のすぐ近くで、息を呑む音がした。
そのあと、何か言いかけたような音が途切れた。吸った息が喉に引っかかり、細く、長く吐き出される。
奏は口を開いたが、何も言えなかった。
泣かないようにしている。
顔も知らない相手なのに、それだけは分かった。
声になるものを全部飲み込んで、呼吸だけを戻そうとしていた。
『……そっか』
やっと届いた声は、最初より低かった。
また間が空く。
遠くで布の擦れるような音がして、はじめがもう一度息を吸った。
『……伝えてくれて、ありがとうございました』
語尾だけが、かすかに揺れた。
「……はい」
電話が切れても、耳から離せなかった。
らでんには、あの声で名前を呼ぶ人がいた。
奏が知らない時間を一緒に過ごして、どこかで、次に会うつもりでいた人が。
◇ ◇ ◇
午後十一時五十五分。奏はベッドに座っていた。
家族に何を話したか、うまく思い出せない。
警察から連絡があって、説明して、泣いた。
それだけが途切れ途切れに残っている。
机の上には紙が一枚あった。
青磁の欠片は、偽物だった。
その下に、轟はじめ。連絡済み。
書いても何も片づかなかった。
伝えることはできた。それだけだった。
「……私が巻き込んだ」
声にすると、思ったより静かだった。
奏が抜けたいと言わなければ。旧学院へ連れていかなければ。鐘に触るところまで行かなければ。
明日もやるかもよ、と笑った。
嫌だ、とらでんが答えた。
もう一度聞きたかった。
どうせ朝になれば戻ると思おうとした。らでんも戻ってくる。今日のことはなかったことになる。
思えなかった。
もし今日だけが最後だったら。次の朝、らでんだけが戻らなかったら。
十一時五十九分。秒が進む。
奏は机の紙を握り、祈った。
「お願いだから」
あれほど嫌だった月曜日が来てほしかった。
終わらせたいと思っていた今日を、もう一度だけやり直したかった。
「月曜日でいいから」
五十五秒。
「戻って」
五十八。
「お願い」
五十九。
◇ ◇ ◇
午前六時二十分。スマートフォンが震えた。
天井が見える。自分の部屋だった。
日付は月曜日。
奏は起き上がった。手が震えていた。
机に紙はない。昨日書いた言葉も、連絡済みの文字も消えている。
全部戻ったのなら、らでんも戻ったのだろうか。
紙とペンを掴んだ。
忘れるはずがないのに、書いた。
”青磁の欠片は、偽物だった”
”轟はじめ”
午後二時十九分まで、まだ何時間もあった。
あの角から儒烏風亭らでんが歩いてくるか。
それを確かめるまで、二十回目の月曜日は始まらなかった。