儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第三十話 次の私に

 八回目の月曜日。午前六時二十分。

 音乃瀬奏は目覚ましを止めた。

 

「おはよう、月曜日」

 

 最悪の挨拶だった。

 少し前なら布団へ顔を埋めていたところだが、今日は起きる。

 朝食を食べ、制服を着て、学校へ向かった。

 

 数学の問題は覚えている。

 昨日とは違う解き方を考えていると、名前を呼ばれた。

 

「音乃瀬、三番」

「場合分け、最初からいらないです」

「……まだ黒板にも来てないぞ」

「あ」

 

 教室に笑いが起きた。奏も笑った。

 昼休み、体調が悪いと言って早退する。嘘をつく罪悪感は薄くなっていた。

 朝にはまた同じ授業が始まり、早退した記録も消える。

 今日は、昨日の続きをしたかった。

 

 午後二時十九分。もう走らなくても間に合う。

 角を曲がると、らでんがいた。

 

「こんにちは。音乃瀬奏。受験生。今日で八回目の月曜日」

「…………はい?」

「あなたは儒烏風亭らでん。文化財ハンター。それから、昨日のあなたが駅前の時計を調べてた」

 

 らでんの眉が動いた。

 

「時計を?」

「同じ学生が同じ飲み物をこぼすところ。何回も。今日、もう一回見てほしい」

「……少し待ってください」

「はいはい。待つと思って買ってきた」

 

 鞄から缶コーヒーを出すと、目を丸くされた。

 

「準備がいいですね!?」

「八回目だからね」

 

 十五分後、二人で駅前へ向かっていた。

 

「まだ全面的には信じていません」

「固いなあ」

「でも、調査します」

「そこまで昨日と一緒」

「昨日の私、かなりまともですね」

「自分で言う?」

 

 古い時計の下で、らでんは手袋を外した。

 

「私の能力のこと、名前まで話しました?」

「物に残ったものを見るのが得意って。それだけ」

「《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。私の発です」

「発?」

「特殊な能力と思ってください。説明すると長いので」

「魔法?」

「念です」

「知らない言葉増やさないで」

「だから長くなるって言ったじゃないですか!」

 

 台座に指を置き、目を閉じる。奏も口を閉じた。

 風で足元の枯れ葉が動いた。

 らでんはその音には反応せず、少ししてから、小さく息を吸った。

 

「今日は、雨」

「雨?」

「この時計の下で、受験生らしい子が泣いています。かなり前のように見えたけど、いつかは分かりません」

「同じもの見えるんじゃないの?」

「毎回同じとは限らないんです。物が経験した過去の、ごく一部だけ。映像だったり、音だったり。こちらで見たいところを選べるわけでもなくて」

「便利そうでめんどくさい」

「そうなんですよ!」

 

 そこだけ強く同意した。

 

「ループと関係ある?」

「まだ何とも」

「じゃあもう一回」

「連続使用は疲れるんですが」

「明日には戻るよ」

「私の疲労を雑に扱わないでください」

 

 文句を言いながらも、少し休んでから再び触れた。

 奏はその間、時計の周囲を歩いた。

 学生がここに来るなら、学校が近くにあったのだろうか。

 今見えるのは閉じた駅舎と店ばかりだった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 九回目は、説明が短くなった。

 

「奏。九回目。文化財ハンター。《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。昨日は時計で泣いてる受験生を見た。雨の日、かなり昔」

 

 らでんが黙る。

 

「……能力の名前まで?」

「あなたが教えた」

「私が?」

「あなた以外、こんな服の人知らない」

「服は信用の根拠になりません!」

 

 その日は三度目に鐘の音を拾った。始業の合図のようだと、らでんが言った。

 

 十回目には、それを先に伝えた。

 

「鐘。学校の始業みたいな音。近くに昔の学校か塾がなかったか調べようって、昨日のあなたが」

「……分かりました。とりあえず図書館へ行きます」

「信じる?」

「信用ではなく検証です」

「めんどくさ」

「大事なんです!」

 

 十一回目、市立中央図書館。

 奏は席へ着く前に、必要な地図を揃えていた。

 

「三つ。昔この辺にあった学校」

「早いですね」

「一つは移転。一つは統廃合。残り、これ」

 

 《ソエル中央進学学院》。

 旧校舎は地下鉄建設の際に閉鎖され、一部だけが残っている。

 らでんが新しい地図を隣へ置くと、奏は二本の道を指で重ねた。

 

「時計から徒歩十分」

「行きましょうか。ところで今日、学校は?」

「行ってない」

「受験生」

「月曜日を十一回やってるんだよ」

「それでも勉強はした方が」

「数学の問題、全部覚えた」

「それはそれで怖いな」

 

 十二回目。旧学院の入口。

 鍵が掛かっていた。

 

 十三回目。管理会社の窓口。

 

「担当は本日、もう外へ出ております」

 

 十四回目。同じ窓口。

 

「何時までならいます?」

「午後三時より前でしたら」

 

 その日の時計は、三時六分だった。

 

「六分」

「奏さん」

「たった六分!」

「来週、じゃなくて、次の月曜日に」

「覚えた。絶対覚えた」

 

 帰り道、らでんに午前中の予定も聞いた。

 午後二時十九分まで待たなければ会えないわけではない。

 

 そのことに気づいた時、奏は思わず足を速めた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 十五回目。午前十一時。

 資料館を出てきたらでんへ、奏が横から合流する。

 

「こんにちは。奏です。十五回目」

「……十五?」

「まず歩きながら説明する」

「えっ」

「文化財ハンター。《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。時計、雨、鐘。旧学院の地下に設備保管区画がある。管理会社の担当者は午後三時からいなくなる」

「ちょっと」

「ハンターライセンス出して」

「なぜ!?」

「申請に使う。用紙は書いた。ここと、ここ、あなたが確認して署名」

「私まだ何も了承してませんが!?」

「歩くのは了承してる」

「ついてきてるのはそっちでしょう!」

 

 らでんは結局、書類を受け取った。

 中身を確かめ、資料館で取った写しと照合する。

 必要な質問が来る前に奏が答えると、いよいよ眉間に皺が寄った。

 

「昨日の私が、これを?」

「これを書かないともう一周する羽目になるって」

「……それは嫌ですね」

「でしょ」

 

 管理会社では、担当者がまだ机にいた。

 その顔を見ただけで、奏は小さく拳を握った。

 

 許可書も申請も、朝になれば消える。

 でも、どの窓口で何を見せればいいのかは、もう消えない。

 

 十六回目。

 

「奏。十六回目。これ、資料。今日の目的は地下の解錠」

「お待ちください」

「どうぞ」

 

 待っている間に、奏は次の申請書へ自分の名前を書いた。

 

「……説明、何分でした?」

「二分十七秒」

「初回は?」

「一時間くらい」

「上達しましたね」

「らでん攻略?」

「嫌な言い方しないでください」

 

 旧学院へ向かう途中、らでんが図面の端を押さえた。

 

「前の私は、どこまで?」

「地下まで。扉が開かなかった。電子式で、電源が死んでる」

「非常解錠は?」

「右側の壁。昨日のあなたが見つけた」

「便利ですね、昨日の私」

「毎日お世話になってます」

「私は何も覚えてないんですけどねぇ」

 

 奏は一瞬、足を止めた。

 最近、目覚ましが鳴るのが前ほど嫌ではない。

 説明を覚え、資料を取り直し、この人のところへ来れば続きをやれる。

 それを楽しみにしているのは、自分だけだった。

 

「奏さん?」

「なんでもない。行こ」

 

 十七回目は解錠の手順と鍵の所在を確かめた。

 十八回目には、迷わなかった。

 

 申請。本人確認。鍵の受け取り。

 地下へ。右の壁。蓋を外す。レバー。

 

 扉が開いた。

 

「やった!」

「静かに。響きます」

 

 二人の声が、暗い地下へ吸い込まれていった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 隙間から、湿った埃の匂いが出てきた。

 らでんの懐中電灯がコンクリートの壁を照らす。

 錆びた棚の脚が光り、その下には底の潰れた段ボールがあった。

 古い机や箱の間に、答案用紙が落ちている。

 端は湿気で波打っていた。

 印刷された枠も採点の赤も、自分が毎日見ているものと大して違わない。

 

「残ってるんだ」

「廃棄されないままになったんでしょうね」

 

 らでんは拾い上げる前に、周りを照らした。

 棚に残る箱の札を見て、落ちた紙の位置を記録する。

 

「すぐ能力使わないんだ」

「見えたものを正解だと思いたくないので」

「どういうこと?」

「断片を先に見ると、目の前のものまでそれに合わせて考えてしまうことがあるんです。普通に見て分かることは、先に見ておきたい」

「らでんっぽい」

「今日初対面ですよ?」

「私は何度も会ってるもん」

「ずるいなあ」

 

 奥には古い教室があった。壁の標語は色褪せても読めた。努力、勝利、合格、未来。

 奏が顔をしかめると、らでんが横目で見た。

 

「嫌です?」

「ちょっと。サボって来た先まで塾だよ」

「自分で見つけたんでしょう」

「優秀すぎた」

「反省の方向が違う」

 

 笑いながら黒板へ目を向けて、そのまま止まった。

 表面には、消し残した粉が白く曇っている。

 その中に一つだけ、はっきり読める言葉があった。

 

 もう一度。

 

「これだけ消えてない」

「ええ」

 

 らでんが手袋を外し、指先を黒板へ置いた。奏は隣で待った。

 呼吸が少し変わる。顎が引かれ、閉じた瞼の下で目が動いた。

 

「……試験。教室いっぱいに学生がいる」

「時計で見た子?」

「同じかは分かりません。一人、泣いてる子がいます」

 

 指が離れた。らでんはもう一度、文字の高さを見た。

 

「この言葉を書いたのも、その子かもしれない。チョークを持つ手が見えました」

「やり直したかったのかな。受験?」

「かもしれません」

「もう一回やる?」

「今日はやめます。少し嫌な感じがする」

 

 その時、奥で鐘が鳴った。

 

 ――カァン。

 

 誰もいない地下を、硬い音が通り抜けた。奏は出口を振り返る。

 

「今の、時計で聞いたっていう……」

「戻ります」

 

 らでんが腕を引いた。来た時より足音が大きく響いた。

 地上へ出てから二人で図面を開き、音がした方向を確かめた。

 直接向かうのは、準備をしてからにする。

 

 鐘、と奏は何度も頭の中で繰り返した。

 次に調べる場所が、見つかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 十九回目の月曜日。

 目覚めるとすぐ、昨日の情報を書いた。

 

 旧学院、黒板、泣いていた受験生。奥から聞こえた鐘。

 危ないので引き返した。次は先に退路を確認。

 

 午前中に資料を取り直し、午後零時四十八分、らでんを見つけた。

 

「奏。十九回目。説明一分でいく」

「一分!?」

「文化財ハンター。《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。旧学院の地下。黒板に『もう一度』。昨日、あなたが昔の受験生を見た直後、奥で鐘が鳴った」

「時計との繋がりは?」

「学院の学生が使っていた駅。今日の履歴みたいなものが重なっていた」

「管理許可は?」

「申請書は書いた。ライセンスで確認してもらったら、その場で出せるって」

「退路は?」

「ここ。図面も取った」

 

 らでんが資料を受け取る。その間に奏は腕時計を見た。

 

「四十八秒」

「何を競ってるんですか」

「昨日の私」

 

 らでんが吹き出した。

 

「分かりました。確認しながら行きましょう」

「昨日までのあなたに聞かせたい」

「昨日までの私は知らない人です」

「私には全部らでんだけどね」

 

 何気なく返すと、一瞬だけ変な顔をした。

 

「何?」

「いえ。行きましょう」

 

 手続きを済ませ、地下へ入る。

 鐘が鳴った方には、使われていない倉庫があった。

 図面にはその先にも部屋があるのに、扉がない。

 棚を動かして壁沿いを調べると、天井近くに古い換気口が見つかった。

 

「風ある」

 

 格子へ指をかざした。わずかだが、冷たい空気が抜けてくる。

 

「入れる?」

「奏さんなら」

「らでんは?」

「服が」

「そこ!?」

「大事です!」

 

 格子の強度と通路の先を確かめ、二人で中へ入った。

 奏が先に身体を滑り込ませ、肘で少しずつ進む。後ろで布が擦れるたび、笑いそうになった。

 

「絶対、服引っかかってるでしょ」

「言わないでください」

「ゴスでダクトは無理あるって」

「二度とやりません」

「明日もやるかもよ」

「嫌だ!」

 

 その声が狭い通路を伝わってきた。

 奏は笑いながら、向こう側の格子を押した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 小さな部屋だった。

 教室でも倉庫でもない。

 中央には真鍮色の鐘が吊られ、その横に木箱があった。

 床には大量の紙が散っている。

 奏は入口に近い一枚へ、灯りを落とした。

 

 名前、年月日、志望校、点数。その下に、筆圧の強い文字。

 

 次は絶対に失敗しない。

 

 隣の紙には、もう一度だけ。

 その下には、明日にならないで。

 

「……願掛け?」

「おそらく」

「塾で?」

「そういう習慣があったのかもしれません」

 

 何百枚もある。字は全部違うのに、書いてあることはよく似ていた。

 明日にならないで。奏はその紙から目を離せなかった。

 

「分かるな。ちょっとだけ」

 

 らでんがこちらを見た。

 

「明日になったら、試験が来るから」

 

 笑ってみせたが、らでんは答えなかった。鐘と、それを支える金具を順に照らしている。

 

「調べます。奏さんは下がってください」

「どれくらい?」

「換気口の近くまで。念が関係している可能性が高い」

 

 声が真面目だった。

 奏は戻って壁際に立った。頭の上に四角い出口がある。

 らでんは床の紙を踏まないように近づき、手袋を外した。

 

 指が鐘へ触れた。

 

 全身が強張った。

 

「らでん?」

 

 返事はなかった。手を引こうとしているように見えた。

 

「何見えた?」

「……来ないで」

 

 鐘が鳴った。

 誰も叩いていなかった。

 

 指が離れる。らでんがこちらへ向いた時には、もう顔色が変わっていた。

 

「外へ。今すぐ!」

 

 その声で身体が動いた。換気口へ手を掛ける。

 二度目の鐘が鳴り、床の下で何かがずれた。

 

 倒れていた椅子が立った。

 破れた紙が跳ね、錆びた棚が壁へ滑っていく。片づけられる時の動きに似ていた。

 ただし、人がいたことなど構わない速さだった。

 

「何これ……!」

「上がって!」

 

 足元の板が跳ねた。

 奏の指が格子の縁から外れ、膝をつく。

 天井で太い音がして、見上げた先に梁があった。

 落ちてくる、と分かった時には動けなかった。

 

 らでんが割って入った。

 頭上で梁が止まった。足元の床が沈んだ。

 その横を、壁際にあった鉄骨が滑ってきた。

 

「奏さん!」

 

 身体を突き飛ばされた。

 床を転がり、肩を強く打つ。息が詰まった直後、背後で轟音がした。

 

 埃で、何も見えなかった。

 耳の奥が鳴っている。落とした懐中電灯だけが、床に光を投げていた。

 

「……らでん?」

 

 返事がない。

 灯りを拾い、両手で向きを変えた。

 

 らでんは倒れていた。

 上半身だけが見えている。

 腰から下には、落ちた梁と横から押し寄せた鉄骨が重なっていた。

 らでんの下半身は、完全に押し潰されてしまっていた。

 

「らでん」

 

 指がわずかに動いた。

 

「……奏、さん」

 

 生きている。

 駆け寄り、梁へ手をかけた。

 

「今どかす! すぐ――」

「……っ」

 

 らでんが息を詰めた。唇を噛んでも、喉から小さな音が漏れた。

 見たことのない顔だった。

 

「救急車、呼ぶから!」

「はい……」

「すぐ来るから!」

「……うん」

 

 震える指で番号を押す。住所を言い、旧学院の地下だと繰り返した。

 人が挟まれている。入口はどこで、鍵はどうなっている。

 聞かれたことに答えているのに、自分の声が遠かった。

 

「来るって!」

「……ありがとうございます」

「喋らなくていい!」

 

 らでんは息を絶え絶えだった。

 額に細かな汗が浮いている。片手で床を掴もうとしたが、指が滑った。

 奏は膝をつき、その手を握った。

 

「聞いて」

「あとで聞くから」

「今」

「あとで!」

「今です」

 

 声だけがいつものらでんだった。

 奏は黙るしかなかった。

 

「次の……私に、言ってほしいことが、ある」

 

 顔が歪んだ。

 次。その言葉が、あまりにも残酷だった。

 認めないでほしかった。私は大丈夫だと言ってほしかった。

 らでんは言わなかった。

 

「覚えて」

 

 一度息を吸い、途中で止まる。

 奏は手を握り直した。

 

「……青磁の……欠片は」

「うん」

「……偽物だった」

 

 意味が分からなかった。

 聞き返しかけると、握った指にわずかに力が入った。

 

「……次の私に」

「どういう意味?」

「それは――」

 

 身体が震えた。

 らでんは目を強く閉じ、痛みが過ぎるのを待つように息を止めた。

 奏の手に爪が食い込む。

 痛いと言いかけて、飲み込んだ。

 

「ごめん、もういい。もう喋らなくていい!」

「説明……」

「いらない!」

「次の、私なら……分かる」

 

 声が細くなる。

 口元だけが、少し笑おうとした。

 

「私なので」

 

 奏は頷いた。何度も頷いた。

 青磁の欠片は、偽物だった。

 分からなくても、そのまま持っていく。

 その先を教えてもらうために、これ以上喋らせたくなかった。

 

 遠くから人の声がした。

 奏は顔を上げる。廊下の方で、誰かが呼んでいる。

 

「来た! らでん、来たよ!」

 

 らでんが少しだけ目を開いた。

 

「もう一つ」

「喋らなくていいって」

「友達が……いるんです」

 

 息を継ぐ。奏は顔を寄せた。

 

「はじめ」

「はじめ?」

「轟……はじめ」

「うん」

「伝えて。事故に……遭ったって」

 

 握っている手から、力が抜けていく。

 

「協会に……言えば、分かるから」

「分かった。伝える。絶対伝える」

 

 何度も頷いた。

 らでんはそれを見ていた。

 目を閉じたあとも、奏は返事を待った。

 

「らでん?」

 

 遠くの光が近づいてくる。

 

「要救助者確認!」

 

 誰かが奏の肩へ触れた。

 それでも、手を離せなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 外へ出されてから、人が大勢来た。

 救急隊、消防、警察。

 聞かれるままに名前を答え、どこから入ったかを説明する。

 どうして中にいたのかと聞かれて、言葉が止まった。

 

「私が……連れて」

 

 違う。二人で来た。

 けれどらでんは、今日、奏に会わなければここへ来なかった。

 石壁を調べ、夕方には仕事を終えていた。

 その先がある人だった。

 

 らでんは助からなかった。

 現場で死亡が確認されたと聞かされた。

 言葉は耳に入ったのに、それがどういうことか、しばらく分からなかった。

 

 二時十九分には、いるはずだった。

 あの服で角を曲がり、露店を覗いて、壁へ歩いてくる。

 そう思うことと、今死んだことが、頭の中でどうしても重ならない。

 

 ハンターライセンスが見つかると、周りの空気が変わった。

 協会へ連絡が入ると聞き、奏は轟はじめという名前を伝えた。

 らでんが最後に頼んだ人だ。それだけは何度も言えた。

 

「らでんさんとは、どういうご関係ですか」

「友達……」

 

 答えかけて、止まった。

 今日のらでんは奏を数時間しか知らない。

 何度も笑ったことも、困った顔も、知っているのは自分だけだ。

 

「……知り合いです」

 

 胸が痛かった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後十時過ぎ、知らない番号から電話が来た。

 

『音乃瀬奏さんですか』

 

 若い女性の声だった。

 

「そうです」

『……轟はじめです』

 

 息が止まった。

 らでんが最後に呼んだ名前。

 その人が、本当にいた。

 

「らでんの」

『はい』

 

 短い返事のあと、何も続かなかった。

 奏はスマートフォンを持ち直した。

 何を言えばいいか分からず、手の汗ばかりが気になった。

 

「私が、一緒にいて。私があそこに連れていって……ごめんなさい」

 

 返事はなかった。

 怒られると思った。怒ってほしかった。

 お前のせいだと言われたら、今ここに座っていることへの言い訳を、もう考えなくて済む気がした。

 

『……最後に』

 

 電話の向こうで、一度、呼吸が入った。

 

『何か、言ってましたか』

 

 奏は目を閉じた。

 埃の中の顔が浮かぶ。聞き逃したくなくて近づいた、あの小さな声。

 

「はじめ、って」

 

 向こうの息が止まった。

 

「轟はじめ。友達に伝えてほしいって。事故に遭ったって、伝えてって……協会に言えば分かるからって」

 

 受話口のすぐ近くで、息を呑む音がした。

 そのあと、何か言いかけたような音が途切れた。吸った息が喉に引っかかり、細く、長く吐き出される。

 

 奏は口を開いたが、何も言えなかった。

 泣かないようにしている。

 顔も知らない相手なのに、それだけは分かった。

 声になるものを全部飲み込んで、呼吸だけを戻そうとしていた。

 

『……そっか』

 

 やっと届いた声は、最初より低かった。

 また間が空く。

 遠くで布の擦れるような音がして、はじめがもう一度息を吸った。

 

『……伝えてくれて、ありがとうございました』

 

 語尾だけが、かすかに揺れた。

 

「……はい」

 

 電話が切れても、耳から離せなかった。

 らでんには、あの声で名前を呼ぶ人がいた。

 奏が知らない時間を一緒に過ごして、どこかで、次に会うつもりでいた人が。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後十一時五十五分。奏はベッドに座っていた。

 家族に何を話したか、うまく思い出せない。

 警察から連絡があって、説明して、泣いた。

 それだけが途切れ途切れに残っている。

 

 机の上には紙が一枚あった。

 

 青磁の欠片は、偽物だった。

 

 その下に、轟はじめ。連絡済み。

 書いても何も片づかなかった。

 伝えることはできた。それだけだった。

 

「……私が巻き込んだ」

 

 声にすると、思ったより静かだった。

 奏が抜けたいと言わなければ。旧学院へ連れていかなければ。鐘に触るところまで行かなければ。

 

 明日もやるかもよ、と笑った。

 嫌だ、とらでんが答えた。

 

 もう一度聞きたかった。

 

 どうせ朝になれば戻ると思おうとした。らでんも戻ってくる。今日のことはなかったことになる。

 思えなかった。

 もし今日だけが最後だったら。次の朝、らでんだけが戻らなかったら。

 

 十一時五十九分。秒が進む。

 奏は机の紙を握り、祈った。

 

「お願いだから」

 

 あれほど嫌だった月曜日が来てほしかった。

 終わらせたいと思っていた今日を、もう一度だけやり直したかった。

 

「月曜日でいいから」

 

 五十五秒。

 

「戻って」

 

 五十八。

 

「お願い」

 

 五十九。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午前六時二十分。スマートフォンが震えた。

 天井が見える。自分の部屋だった。

 

 日付は月曜日。

 

 奏は起き上がった。手が震えていた。

 机に紙はない。昨日書いた言葉も、連絡済みの文字も消えている。

 全部戻ったのなら、らでんも戻ったのだろうか。

 

 紙とペンを掴んだ。

 忘れるはずがないのに、書いた。

 

 ”青磁の欠片は、偽物だった”

 

 ”轟はじめ”

 

 午後二時十九分まで、まだ何時間もあった。

 

 あの角から儒烏風亭らでんが歩いてくるか。

 それを確かめるまで、二十回目の月曜日は始まらなかった。

 

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