儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第四話 音乃瀬奏

 午後一時四十一分。

 音乃瀬奏は、もう石壁の向かいにいた。

 儒烏風亭らでんが来るのは二時十九分。

 早すぎると分かっていても、家にはいられなかった。

 

 午前中の行き先だって知っている。

 それでも今日は、ここから動けなかった。

 自分が何も変えなければ、いつもどおりに歩いてくる。

 その姿を、まず見たかった。

 

 ベンチに座り、立ち、また座る。

 紙を鞄から出して確かめた。

 

 青磁の欠片は、偽物だった。

 轟はじめ。

 

 昨日の紙は消えた。今朝、自分で書き直したものだった。

 字が読めることを確かめて、またしまう。

 

 一時四十三分。

 あと三十六分もある。

 旧学院の地下はまだ崩れていない。救急車も来ていない。

 はじめという人も、友達が死んだという電話を受けていない。

 全てなかったことになった。

 奏だけが、昨日の息遣いを覚えている。

 

 二時十五分。

 道路の向こうへ黒い服が見え、立ち上がった。

 違った。ただの会社員だった。

 

「……もう」

 

 座り直せなかった。

 鞄の紐を握り、角を見続けた。

 

 十九分。

 

 フリルの重なった裾が見えた。

 らでんはいつもの速さで歩き、露店へ一瞬目を向けてから、石壁の方へ来た。

 脚が動いている。

 鞄を掛け直す手も、何もかも普通だった。

 

「らでん」

 

 呼んだつもりが、声にならなかった。

 近づくと、向こうが顔を上げた。

 

「はい?」

 

 奏のことを知らない顔だった。

 目の前まで来て、足が止まる。

 何を言うつもりだったか、全部消えた。

 手を伸ばしかけて引くと、鞄の紐が指から滑った。

 

「大丈夫ですか?」

 

 らでんが鞄を受け止めた。

 その手へ目がいって、また離せなくなった。

 

「顔、真っ白ですよ。座れます?」

「……ごめん」

「謝らなくていいです。気分が悪い?」

 

 首を振った。言葉にしようとすると、喉が閉じた。

 らでんは周りを見てから、奏の鞄を持ったままベンチへ促した。

 

「お名前、聞いてもいいですか」

「音乃瀬奏」

「奏さん」

 

 同じ呼び方だった。

 鞄から紙を取り出す。見なくても言える。

 それでも握っていなければ、声までなくなりそうだった。

 

「青磁の欠片は」

 

 らでんの顔が止まった。

 

「偽物だった」

 

 目が変わった。

 その変化だけは、奏にもはっきり分かった。

 

 らでんは通りを見た。

 向かいの窓、路地の出口、屋根。

 

 そのまま半歩動き、奏と人通りの間に立った。

 

「今、怪我は?」

「ない」

「誰かに追われています?」

「追われてない」

「気分が悪い。記憶が飛ぶ。体の感覚がおかしい。そういうものは?」

「ない」

「分かりました」

 

 奏の手から落ちかけた紙を、そっと押し戻した。

 らでんは、奏の前に半歩出た。

 自然に、奏と通りの間へ。

 

「場所を変えます」

「え?」

「話は全部聞きます」

「でも」

「大丈夫」

 

 らでんは言った。

 

「信じます」

 

 奏が目を見開く。

 

「証明とか」

「いりません」

「でも今日のらでんは」

「大丈夫。奏さんを信じます」

 

 らでんはいった。

 何も言えなくなった。

 

 一時間。三十分。十五分。二分十七秒。

 名前を言って、前の月曜日を説明して、起こることを見せて。

 何度も、何度も、ようやく連れ出した人が。

 

 今は、一度も証拠を求めなかった。

 

「……ほんとに」

 

 笑おうとして、息が詰まった。

 

「すごい言葉、残してくれたんだね」

「前の私が?」

「うん。今日が何回も来るの。らでんは毎回忘れてて。だから、次の私に言ってって……」

 

 うまく続かなかった。

 らでんは隣へ腰を下ろした。

 奏の視線が自分の手や脚へ戻るのを見て、それから少しだけ声を落とした。

 

「前の私は……死んだんですか?」

 

 奏は息を吸った。

 息苦しくて胸が詰まりそうだった。

 

 声より先に涙が出た。

 

 紙を持つ手で顔を覆おうとして、ぐしゃぐしゃになった端が頬に当たる。

 拭いても拭いても止まらなかった。

 

「私が……」

 

 涙ぐんでそれしか言えない。

 らでんは何も聞き足さなかった。

 ハンカチを渡し、鞄をベンチの横へ寄せた。

 

「今は、急がなくていいです」

 

 その声で、余計に泣いた。

 昨日は何を言っても返事がなくなった。

 握った手も戻ってこなかった。

 今は、息を継げない奏の横で、らでんが待っている。

 

 しばらくして、ようやく首を縦に動かした。

 らでんも小さく頷いた。

 それを、答えとして受け取ってくれた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 喫茶店で水を飲んだ。

 グラスの縁が歯に当たったが、二口目はちゃんと飲めた。

 

「話せそうですか」

「うん」

「では、覚えているところから」

 

 初めの月曜日。学校。街の外へ出ようとして戻されたこと。

 時計に重なっていた断片。旧学院、黒板、鐘の部屋。

 順序を間違えても、らでんは話を切らなかった。

 

「鐘に触ったら、部屋の物が動いた。元の場所へ戻ろうとしたみたいに」

「うん」

「私、換気口に戻ろうとして。床が跳ねて、落ちた」

 

 グラスから手を離した。

 爪の跡が指に残っていた。

 

「梁が落ちてきて。らでんが、私を突き飛ばして」

 

 喉が詰まる。少し待ってくれたので、続きを言えた。

 

「落ちてきた梁と鉄骨に腰から下が挟まれて……救急車、呼んだんだけど」

「間に合わなかったんですね」

 

 頷いた。

 

「最後に、青磁の欠片のこと。それから、友達に伝えてって。轟はじめ」

 

 らでんの指が止まった。

 

「協会から連絡してもらった。夜、電話が来て。最後に何か言ってたかって聞かれたから、伝えた」

「……そうですか」

「泣きそうだった。声には出さないんだけど、息が……」

 

 そこで言葉がなくなった。

 らでんは目を伏せた。

 カップへ手を伸ばしかけ、触れずに戻す。

 

「うん」

 

 少し遅れて、それだけ返した。

 

「でも、今日はまだ何も起きてない。あの電話も、なかったことになってる」

「そうでしょうね」

「私だけ覚えてる。変な感じ」

 

 胸元へ手を当てた。

 今朝からずっと、ここに音が残っている気がした。

 

「奏さん。最後まで教えてくれて、ありがとうございます」

 

 目を逸らした。

 

「私が連れていかなかったら、死ななかった」

「そこで調べると決めたのは、私です」

「でも」

「今日は、その判断から変えます」

 

 らでんはメモ帳を開いた。

 昨日のことが消えたわけではない。

 胸も、まだ痛かった。

 それでも、次に何をするかを、この人はもう考えていた。

 

「まず、鐘には触りません」

 

 紙に書いた「鐘」を、一本の線で囲む。

 

「奏さんの話を確かめるために、同じ事故を起こす必要はないです」

「……うん」

「時計、黒板、願いの紙。この並びに、誰かの仕事の跡があります。部屋を使った人の記録を探しましょう」

「昨日は見つけてない」

「では、今日はそこから」

 

 時計を見た。

 午後二時五十三分。

 

「あ」

「何です?」

「管理会社。担当、三時に出る」

 

 らでんが立ち上がりかける。

 奏はスマートフォンを差し出した。

 

「でも、今電話すれば捕まる。必要な書類も、全部知ってる」

 

 らでんがこちらを見た。

 

「……では、お願いします」

 

 胸の奥で、何かが動いた。

 奏は番号を押した。もう、見なくても打てた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後三時十二分、旧ソエル中央進学学院。

 許可書は今日の分を取り直した。

 担当者は電話口で待ってくれて、らでんが本人確認をしている間に、奏が管理人へ鍵を頼んだ。

 

「さっきの連絡からもうですか……早いですね」

 

 管理人に言われた。

 奏は答えなかった。

 早いと思っているのは、こっちだった。

 

 玄関から地下まで、止まらず進む。

 

「右の壁」

「はい」

「蓋。中のレバー。引くんじゃなくて、回す」

「こちらですね」

 

 扉が開いた。

 

「左の棚、触らない。崩れる」

「了解」

「黒板は奥。でも今日は通り過ぎる」

「その通り」

 

 らでんが一度も、どうして知っているのかと聞かない。

 奏が伝える。らでんが動く。

 その間に、次を考えられる。

 

 こんなに速かったのか。

 二人とも、ずっと走れる人だったのか。

 

 午後三時十六分。換気口の前。

 奏の足が止まった。

 

 あの向こうに、昨日がある。

 

「今日は入りません」

 

 らでんは見上げさえしなかった。

 図面を開き、横の通路を指す。

 

「配管の管理通路。部屋の裏へ回れます」

「前のらでん、見つけてない」

「昨日は鐘の方へ気を取られていたんでしょうね」

「今日のらでん優秀アピール?」

「昨日の私も私です!」

 

 笑いが出た。

 出てから、少し驚いた。

 

「服、引っかけなくて済むね」

「引っかけたんですか」

「めっちゃ」

「それは先に教えてほしかった!」

 

 管理通路の扉は錆びついていた。

 らでんが蝶番と周囲の壁を照らす。

 奏は図面の欄外を示した。

 設備更新の時につけた、後付けの扉だった。

 

「壊す?」

「文化財ハンターにそれ聞くの、やめません?」

「昨日も言った」

「やっぱり!?」

 

 携帯で管理人に状態を伝えたらでんが、もう一度金具を調べた。

 

「周囲は傷めず開けられます。許可も取れました」

「つまり?」

「壊します」

「やった」

「何がやったなんですか」

 

 奏を下がらせ、らでんが足を引いた。

 一撃。固着した金具が外れ、扉が傾く。

 倒れる前に手で支えて、静かに壁際へ寄せた。

 

「……強」

「ハンターですので」

「そこはハンターだからなんだ」

 

 その向こうは、細い通路だった。

 らでんが先に入る。

 奏は灯りを持ち、指示された箇所へ向けた。

 

「その釘。横のものと違いません?」

「こっちだけ頭が平たい」

「板も違う。後から塞いだんでしょうね」

 

 図面では壁になっている場所に、わずかな継ぎ目があった。

 板を外すと、その裏に小さな鉄扉が現れた。鍵は壊れていた。

 

「灯り、お願いします」

「どこ?」

「私が見ている先へ」

 

 奏は頷き、光を向けた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 机と本棚、一脚の椅子。

 小さな部屋に、分厚い帳面が一冊残っていた。

 表紙には《面談記録》と書かれている。

 

 らでんが足元と天井を調べ、入口までの道を空けた。

 

「私より前には出ないで。何か動いたら、まず通路へ」

「うん。二人で帰るからね」

「はい」

 

 帳面を開く音が、部屋に大きく聞こえた。

 学生の名前、成績、志望校。

 家庭のことや、面談で話したらしい言葉が続いている。

 

 眠れない。

 失敗したら、家に帰れない気がする。

 本当は別の学校へ行きたい。

 

 奏はそれ以上、覗き込めなくなった。

 知らない人が書いたはずなのに、読んでいるところを見られたくなかった。

 らでんは個人の記録をめくり、後ろの覚え書きで手を止めた。

 


 

【面談について】

 

・正解を教えないこと。

・本人が決めるまで待つ。

・点数で測れることだけを人生にしない。

 


 

「塾の先生なのに」

 

 口から出た。

 らでんは文字を見たまま、頷いた。

 

「ここに来る子を、毎日見ていたんでしょうね」

 

 その先には「もう一日あれば」という言葉があった。

 一日を与えた、という記録が何度か続く。

 相談の欄と、その後の欄で同じ日付が使われている箇所もあった。

 ただの書き間違いかもしれない。奏にはそう読めなかった。

 

 らでんは何ページか戻り、紙を押さえていた手を離した。

 

「調べます」

「触って、大丈夫?」

「分かりません。なので、すぐ離れられるようにしておきます」

 

 椅子を退け、足元を確かめた。

 奏の位置をもう一度見てから、指を表紙へ置く。

 奏はらでんの顔だけを見ていた。

 自分には見えないものを、向こうは今見ている。

 

 眉が寄り、わずかに顎が動いた。

 昨日のように身体が強張ることはなかった。

 それでも指が離れるまで、奏は息を詰めていた。

 

「……同じ机です」

 

 らでんが言った。

 

「学生と向かい合って、話している人がいた。この帳面を何度も開いている。年を取った手でした」

「先生?」

「おそらく。鐘を鳴らす場面も見えました」

 

 見たものを短く書き、帳面の記述と比べる。

 後ろに挟まれていたのは、相談員の死を伝える古い記事の写しだった。

 らでんはそれを机へ広げた。

 

「この人が、念能力者だったのかもしれません」

「ループを作った?」

「元になった能力を。記録からすると、一度だけ、同じ日を考え直す猶予を渡していたようです」

「……いい能力じゃん」

「ええ。でも、使い手が亡くなったあとも、能力だけ残ることがある。”死後の念”というものです」

 

 奏は帳面と記事を見比べた。

 鐘の向こうに、こんな机があるとは思わなかった。

 誰もいない椅子を見た。

 

「止める人が、いなくなった?」

「その可能性はあります。あの願いの紙がどう関わっているのかも、まだ分かりません」

「何百枚もの、もう一度……」

 

 らでんは頷き、ページを戻した。

 

「ただ、これを見てください」

 

 同じ学生の欄だった。

 同じ日付が二つ。その横に試験の点数が並んでいる。

 

「四十六点。四十四点」

 

 奏が読んだ。

 

「下がってる」

「その下は?」

 

 翌日の記録があった。

 家族に志望先の変更を話した、と短く書かれている。

 

「……明日になってる」

「ええ」

 

 別のページをめくる。

 同じ日を二度過ごしたらしい学生が、今度は答案を提出していない。

 それでも、その先に翌日の面談が続いていた。

 

 奏は最初の記録へ戻った。

 

「満点じゃない。間違えたまま……」

「それでも終わっている」

 

 らでんが、覚え書きの一行を指した。

 

 正解を教えないこと。

 

「この人は、完璧な一日を作らせたかったんじゃない」

 

 奏は顔を上げた。

 

「じゃあ、何をすればいいの」

 

 らでんがこちらを見た。

 その目で、気づいてしまった。

 

 今、また答えを待っていた。

 

「学校へ行く。休む。試験を全部正解する。全部間違える。街を出る。核を探す」

 

 自分で並べながら、奏の声が遅くなる。

 

「これなら終わるかなって、ずっと……」

「この人が与えたかったのは、正解するまで繰り返す時間じゃなかったんでしょうね」

「自分で決めるまで待つ」

 

 文字をなぞった。

 

「じゃあ、今までやってきたこと、全部……」

「必要でした」

 

 らでんが言い切った。

 

「時計を調べて、学院を見つけて、鐘まで行った。奏さんが持ってきてくれなければ、私はこの帳面を開けていません」

 

 何も言えなくなった。

 

「ここまで一緒に調べたんです。ここから先は、別のことを試しましょう」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 調査を終えて地上へ戻ると、夕方になっていた。

 旧学院の屋上からは、ソエルの街が見えた。

 高層住宅の間を鉄道が走り、遠くの山は朝より濃い色になっている。

 奏はフェンスへ寄りかからず、少し手前で立った。

 

「選ぶって言われても、分かんない」

「うん」

「高校行くの嫌ってわけじゃない。勉強も嫌いじゃないし、成績だってそこそこいいんだよ?」

「うん」

「頑張れば、いいとこ行ける。みんな期待してくれてる。それを捨てたいかって聞かれたら……分かんない」

 

 風が髪を口元へ運んできた。

 指で払って、らでんを見る。

 

「何その『うん』しか言わないの」

「答えを待ってるので」

「腹立つなぁ」

 

 二人とも少し笑った。

 しばらく街の音を聞いていた。

 車の音が遠く重なって、ここまでは言葉が届かない。

 

「では、一回置いてみますか」

「何を?」

「高校とか、受験とか。親や先生にどう言われるかも、成績も」

「待って待って」

「お金、将来性」

「大事!」

「大事です。なくせとは言ってません。一回だけ、横へ置いてみる」

 

 らでんが両手で場所を空けるような仕草をした。

 

「誰にも褒められなくて、お金にもならなくて。上手いか下手かも、誰が許すかも、今は考えなくていいとしたら」

 

 こちらを見た。

 

「奏さんは、何がしたいんです?」

 

 すぐには答えられなかった。

 学校の黒板、模試の結果、志望校の欄。

 その向こうから、カラオケ店の窓が浮かんできた。

 照明の中で歌う女の子。

 休憩時間に画面を消した時、続きを聴きたかった声。

 

「……歌いたいかな」

 

 小さい声だった。

 言ってしまうと、もっと簡単に言えた。

 

「私、歌いたい」

 

 涙が出た。悲しくはなかった。

 こんな短い言葉を、どうしてあれほど飲み込んでいたのだろう。

 

 らでんは何も言わなかった。

 

「……何か言ってよ」

「言っていいんです?」

「言って」

「そうなんですね」

「それだけ!?」

「だって奏さんが歌いたいんでしょう?」

「向いてるよとか、やってみなよとか!」

「まだ歌、聴いてませんし」

「正論かよ!」

 

 らでんが笑った。

 奏も泣きながら笑った。

 

 勧められなかった。保証もされなかった。

 その代わり、そう言ったことを引っ込めなくてよかった。

 

「じゃあ、次の月曜日に歌えばいい?」

 

 らでんがこちらを見た。

 

「それ、私に聞いちゃ駄目」

「えぇ!?」

「『歌えば解除』って私が言ったら、攻略手順になるでしょう」

「めんどくさ、この能力!」

「めんどくさいですねぇ」

「じゃあどうすんの!」

 

 らでんは少し考えた。

 

「次の月曜日、私のところへ来ないでください」

 

 胸が冷えた。

 

「……なんで」

「私がいると、また聞くでしょう。これで合ってる? 次はどうする? 歌えばいい?」

「聞くかも。でも」

 

 袖を掴んでいた。

 こんなことをしたら困らせる。

 分かっていても離せなかった。

 

「月曜日になったら、ずっとらでんに会ってた。また月曜日になったら……会いたいよ」

 

 らでんは、しばらく何も言わなかった。

 奏の指にそっと触れ、袖から外した。

 

「一回だけ。私を使わないでみて」

 

 顔を上げた。

 

「起きて、どこへ行くか。学校へ行くのも、休むのも。自分で決めてみてください。誰にも頼るなって話じゃありません。ただ、私に正解をもらうのは、一日だけやめる」

「失敗したら?」

「知りません」

「冷た!」

「それを私が保証したら、また正解になっちゃうでしょう?」

 

 口を尖らせた。らでんが少し笑った。

 

「大丈夫。失敗しても、明日は来ますよ」

「……今、明日来てないんだけど」

「あ」

「説得力ゼロ」

「しまった」

 

 泣きながら笑った。

 袖を離した手を、自分の鞄へ戻した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午後十一時四十九分。二人は古い駅前の時計を見上げていた。

 家には帰りが遅くなると連絡した。

 今日だけは、一人で目を閉じたくなかった。

 話しているうちに夜になり、最後はここで待つことにした。

 最初にらでんが、奏だけの思い込みではないと言った場所だった。

 

「あと十一分」

「ですね」

「本当に会いに行かないからね。寂しくない?」

「私は覚えてませんので」

「最悪」

「事実!」

 

 笑いが引くと、時計の音が聞こえた。

 奏はずっと聞きたかったことを口にした。

 

「”青磁の欠片は、偽物だった”。何であの言葉なの?」

「……恥ずかしい話なんですけど」

 

 らでんは鞄の内ポケットへ手を入れ、底の布をめくった。

 青い陶片が一枚、指先に載った。

 

「昔、これを本物だと思って買ったんです。後で偽物だと分かって。恥ずかしくて、誰にも話せなかった」

「らでんでも間違えるんだ」

「間違えますよ」

 

 街灯の下で、青い面が鈍く光った。

 奏には本物との違いなど分からなかった。

 

「何でまだ持ってるの?」

「戒めです。自分の目だって間違えるって、忘れないように」

 

 陶片を二重底へ戻す。

 

「この話を託した人が来たら、その人を信じようと決めてました。理由を覚えていなくても、もう一度選ばせない」

「もう一度?」

「私が一度、決めたことですから」

 

 らでんが鞄を閉じた。

 それ以上の説明は、必要なかった。

 

「……ありがと」

「はじめには内緒ですよ。恥ずかしいので」

「次のらでんは忘れるんでしょ。私が言っても知らないよ」

「奏さんは覚えてるじゃないですか!」

 

 また笑った。笑えるのに、寂しかった。

 

「もし終わったら、火曜日になるよね。火曜日、らでんはどこにいる?」

 

 らでんは予定表を出した。

 

「今回の仕事、三日間なんです。明日は午前十一時、ソエル国立博物館の北館収蔵庫」

「いる?」

「予定どおりなら」

 

 奏は時刻と場所を繰り返した。

 十一時。ソエル国立博物館。北館。

 

「覚えました?」

「得意だからね」

 

 らでんが笑った。

 

「では、明日が来たら会いに来てください」

 

 胸がいっぱいになった。

 

「……うん」

「まあ、その私は奏さんのことを何も知りませんけど」

「知ってる」

「いきなり抱きつかないでくださいね」

「しないし!」

「今日の様子を見ると、ちょっと心配」

「あれは……!」

「はいはい」

 

 十一時五十五分。通りの人影はまばらになっていた。

 

「戻ったら、らでんには会わない。学校は?」

「私に聞かない」

「試験は?」

「私に聞かない」

「歌は?」

 

 らでんがこちらを向いた。

 奏は先に答えた。

 

「私に聞かない」

「よろしい」

「むかつく」

 

 十一時五十八分。

 急に、別れることが怖くなった。

 次のらでんは、今の顔も言葉も覚えていない。

 奏だけがまた持っていく。

 

「ほんとに、これでいいのかな」

 

 らでんは答えなかった。

 

「最後くらい何か言ってよ」

「では」

 

 奏へ向き直った。

 

「ここまで、よく持ってきてくれました」

 

 喉が詰まった。

 

「昨日の私から、今日の私へ」

 

 あの小さな声。握った手。

 紙へ書いた、意味の分からない言葉。

 今日、ここまで来られた。

 

「最後は、奏さんが持っていって」

 

 十一時五十九分。五十秒、五十一秒。

 奏は涙を拭き、頷いた。

 

「奏さん」

「何?」

 

 らでんが笑った。

 

「頼みますよ」

 

 五十八。五十九。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 午前六時二十分。スマートフォンが震えた。

 机には参考書と進路希望調査票がある。

 制服は昨日の朝と同じ場所に掛かっていた。

 

 奏は起き上がり、画面を見る。

 授業、小テスト、塾の模試。

 いつもの正しい月曜日が並んでいる。

 六時二十一分。

 単語帳へ手を伸ばしかけて、止めた。

 

「……らでん、わたしは」

 

 予定表を閉じた。

 

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