月曜日。午前六時二十一分。
音乃瀬奏は、予定表を閉じた。
六時二十五分になっても、洗面所へ行かなかった。
布団に座ったまま膝を抱え、カーテンの隙間が明るくなるのを見ていた。
六時三十分。
いつもなら朝食だ。
スマートフォンを開けば、今日の予定は全部入っている。
数学、英語、小テスト、進路指導。
放課後は塾で模試。
何度も繰り返した順番を、画面は初めて教えるように並べていた。
奏は画面を消した。
学校なら、もう何度も休んだ。
遠くへ行ったし、試験を白紙で出したこともある。
何をしたって、朝になれば全部なかったことになった。
先生に怒られたことも、母親に心配されたことも、月曜日が回収してくれた。
自分だけ覚えていればよくて、翌朝には誰も困っていなかった。
でも、もし今日で終わったら。
学校を休んだ記録は残る。
模試も受けなかったことになる。
どうしてそうしたのか、自分の口で説明しなければならない。
「……そりゃ怖いわ」
昨日のらでんなら、なんと言うだろう。
考えかけて、頭を振った。
「違う」
今日は、聞かない。
七時十二分。
いつものバスが家の近くを通った。
窓から見送る。
あれに乗ればいつもの地下鉄に間に合って、座って英単語を四十七語見直せる。
次に何をすればいいか、迷わなくて済む。
バスは角を曲がった。
「……あ」
それだけ声が出た。
乗らなかった朝は、これまでにもあった。
それでも、今日のバスが行ってしまうのを見るのは怖かった。
戻ってこないかもしれない一台を、自分で見送った。
七時三十六分。
台所で、今日は学校を休むと伝えた。
体調が悪いとは言わなかった。
「ちょっと考えたいことあるから」
母親の手が止まった。
どうしたの、何があったの、と聞かれても、うまく答えられない。
「今日だけ」
自分でも足りない説明だと思った。
困った顔を見ていると、やっぱり行くと言いそうになる。
それを飲み込んだ。
何度も休んだ月曜日の、この一回がいちばん緊張した。
八時十二分には、友達から通知が来た。
『奏、今日休み?』
『珍し』
学校からも連絡が入る。
塾の模試案内まで重なり、伏せたスマートフォンが机の上で震えた。
「……うるさい」
数秒置いて、また震える。
「うるさいって」
電源を切った。
静かになった部屋で、しばらくその黒い画面を見ていた。
何も解決していない。
返事をしていないだけだと分かっている。
それでも、次の通知を待たなくていいのは、少しだけ気持ちよかった。
◇ ◇ ◇
九時に家を出た。
制服ではない。
鞄には参考書を入れず、イヤホンとスマートフォンと財布だけを持った。
軽すぎて、忘れ物をした気がする。
駅の改札を通り、ホームで立ち止まった。
学校へ行く電車。
その反対は、塾のある中心部へ向かう。
そこから乗り換えれば、あの古い街にも行けた。
午後二時十九分。
石壁の前。
らでんは今日も、何も知らずにやって来る。
会いたかった。
青磁の欠片の話をすれば信じてくれる。
昨日と同じ顔で、きっと最後まで話を聞いてくれる。
怖いと打ち明けたら、今日も一緒に考えてくれるだろう。
足が、そちらの乗り場へ向いた。
「……だめ」
階段を戻った。
改札を出る時、駅員に事情を説明することになって、少し恥ずかしかった。
外へ出ても、行き先は決まっていない。
歩けば何かあるだろうと思ったのに、どの角を曲がるかでいちいち迷う。
今までなら次の電車の時刻を見ていた。
それをやめると、店の前で立ち止まっていいのかさえ分からなくなった。
小さな楽器店のウインドウに、マイクが並んでいた。
ヘッドホンと、用途もよく分からない機械。
その横の値札を見て、急に現実へ戻る。
「……高。歌って金かかるんじゃん」
店には入らなかった。
隣にはカラオケがあった。
朝料金の看板を見る。これなら払える。
入口を見て、通り過ぎた。
十メートルほど歩いてから戻った。
「一人です」
受付の人は、別に驚かなかった。
◇ ◇ ◇
午前十時十七分。
小さな部屋で、選曲画面を眺めていた。
知っている曲はたくさんある。
好きな曲も、昔よく歌った曲もあるのに、指が動かない。
「何やってんだろ」
平日の朝から学校を休んで、一人でカラオケに来ている。
「……最悪の受験生じゃん」
笑った。でも、帰らなかった。
一曲入れ、イントロが流れる間にマイクを握り直す。
最初の声が出なかった。
「あれ」
途中から入ったものの、思っていた声と違った。
もっと楽に歌えるつもりだったのに、喉ばかり気になる。
停止を押して、別の曲を入れる。
今度は声が出た。
安心したところで、高い音を思いきり外した。
「あー! 下手!」
誰もいない部屋に、自分の笑い声が響いた。
画面が採点機能を勧めてくる。
「しない」
消して、次の曲へ進んだ。
今度は外しても止めなかった。
歌詞を間違えたところは、適当にごまかした。
そんなことをしているうちに最後まで来て、伴奏だけがしばらく流れた。
マイクを持ったまま、息をつく。
「楽しい」
小さく言った声は、もう伴奏に隠れなかった。
一時間、二時間と歌った。
高すぎてどうにもならない曲もあった。
途中で笑ってしまった曲は、もう一度入れた。
上手くいくと、誰も聞いていないのに得意になった。
水を飲んで休む間にも、次に歌う曲を探していた。
順位も合格判定も出ない。誰にも褒められていない。
それなのに、時間を延ばしたかった。
◇ ◇ ◇
午後一時過ぎに店を出た。
喉は少し疲れていたが、頭は妙に軽かった。
コンビニで飲み物を買い、近くのベンチに座ってスマートフォンの電源を入れる。
「うわぁ……」
通知がまとめて戻ってきた。
友達、母親、学校、塾。
閉じたくなったが、今度は電源を切らなかった。
今日が終わるなら、これも明日まで残る。
友達には、元気だけど少しサボっている、と返した。
『お前が!?』
すぐに届いた。
『世界終わる?』
『終わんないよ』
打ってから、少し笑った。
終わってほしいのは月曜日だけだ。
母親に居場所を送り、学校には明日きちんと話すと伝える。
塾への「本日の模試は欠席します」だけは、送信ボタンの上で指が止まった。
押した。
「……やば」
何も起きない。送信済みの文字が出ているだけだった。
自分で欠席を決めたのだと、ようやく分かった。
「……まあ、一回くらいいいか」
その一言を口にするまでに、二十回も月曜日が必要だった。
午後二時十九分には、つい時計を見てしまった。
今ごろ、らでんは石壁を調べている。
あの帽子を傾けて、他の人なら通り過ぎるものを見ている。
会いたい気持ちは、まだ消えない。
奏は立ち上がり、駅とは反対へ歩いた。
四時には川沿いにいた。
学校帰りの学生が自転車で通る。
鞄から参考書の角が出ている子を見ると、少し焦った。
楽しく歌ったからといって、受験がどうでもよくなったわけではなかった。
その先では、大学へも行きたいかもしれない。勉強だって、たぶん続ける。
それなら、歌は。
「どっちかじゃないのか」
口にしてみると、当たり前のことに聞こえた。
大学へ行くなら歌ってはいけない、という決まりはない。
歌いたいなら今すぐ全部捨てろと、誰かに言われたわけでもない。
両方やって、足りなければその時に考えればいい。
今の奏には、その簡単そうなことがいちばん難しかった。
「……めんどくさ」
答えが一つなら楽だった。
けれど、ひとつでなくてもいいのなら。
川面へ目を落とす。風が吹くたび、橋の影が崩れた。
もう少し歌いたいと思った。
◇ ◇ ◇
夕方、人通りから少し離れた川沿いのベンチを選んだ。
イヤホンをつなぎ、いつも見るだけだった配信アプリを開く。
音楽用の配信には伴奏を選ぶ機能があった。
知っている曲を見つけて、設定へ戻った。
タイトルを入れては消した。
最後に残ったのは「テスト」の三文字だった。
「我ながら適当すぎる」
カメラはオフ。マイクはオン。
開始の上で指が止まった。
カラオケより怖かった。
誰かが聞くかもしれない。
下手だと笑われるかもしれないし、誰も来ないかもしれない。
昨日のらでんなら、どうするだろう。
「……自分で決める」
押した。
配信中。視聴者、ゼロ。
表示が変わっただけで、急に声の出し方が分からなくなった。
「えー。テスト……です」
風の音がイヤホン越しに小さく聞こえる。
「誰もいないけど。……歌います」
伴奏を流した。
最初は通りがかりの人まで気になったが、一番を歌い終わるころには画面を見なくなった。
さっき上手く出なかった音が、今度は出た。
その先も止めずに歌い切る。
視聴者はゼロのままだった。
「ほんとに誰も来ないじゃん」
二曲目の途中で、一になった。
「あ」
声が途切れた。誰かいる。
名前も顔も分からない誰かが、今の声を聞いた。
コメントは来なかった。
何を求められているのか分からず、伴奏だけが進んでいく。
「……まあいいや」
続きを歌った。
最後まで、その一人はいた。
三曲目の途中で、いなくなった。
「帰った!」
思わず笑って、また歌詞に遅れた。
「薄情だなぁ。サビこれからだったのに」
誰もいない配信で文句を言い、サビを歌った。
終わると、次の曲を入れた。
四曲目。五曲目。途中で水を飲み、好きなところを少し話した。
返事はないが、次に何を歌うかはもう決めていた。
七時十二分に配信を終えた。
総視聴者は数人。最大同時視聴は一人で、コメントはゼロだった。
「……すご」
成績としてなら、何がすごいのか分からない。
ただ、やった。自分でボタンを押して、人がいなくなってからも歌った。
終了画面を閉じるのが惜しくて、もう一度数字を見た。
「私、ほんとに歌いたいんだ」
言ってから、少し笑った。
誰も褒めてくれなくても、もう一曲歌いたくなる。
このことを、らでんに話したかった。
今からなら、まだ会える。どこを歩いているかも知っている。
奏は配信の履歴を閉じ、明日の予定を開いた。
十一時。ソエル国立博物館。北館。
そこへ書き込んだ。
◇ ◇ ◇
家では、当然、話をすることになった。
学校を休んだ理由。模試を受けなかった理由。
何かあったのなら話してほしいと言われても、月曜日が二十回続いたとは言えなかった。
文化財ハンターと友達になって、その人が死ぬところを見たことも。
代わりに、一つだけ口にした。
「歌がやりたい」
声が震えた。
それで全部伝わるわけはなく、受験はどうするのかと聞かれた。
まだ決めていないことには、そう答えるしかなかった。
「今、全部やめたいって話じゃない。でも、これもやりたい」
もっと上手く言う方法は、きっとある。
母親はすぐには頷かなかった。
何を、どんなふうにやるつもりなのか。
それを聞かれると、また考えなければならなかった。
今日のことを何もかも認めてもらえたわけではない。
それでも、言わなかったことにはしなかった。
十一時四十五分。
部屋の机で参考書を開いた。
一問、二問、三問。解き終わってから笑った。
「結局勉強すんのかい!」
でも、やりたくて開いた。
今日の遅れを全部取り返すつもりではなく、この三問なら解いておこうと思った。
十一時五十五分に閉じた。
あと五分。
時計を見た途端、心臓が速くなった。
戻ったら、どうしよう。
歌って、配信して、学校を休んで、家族に話した。
それでもまた月曜日になったら、今日したことは間違いだったのだろうか。
「……違う」
頭を振った。
戻っても、楽しかったことまで間違いにはならない。
あの一人が帰ったあとも、歌いたかった。
それを自分で知った。
十一時五十八分。
昨日は隣にらでんがいた。
今は机の上に、解き終えた三問とスマートフォンだけがある。
「……らでん」
返事はない。
十一時五十九分四十秒。表示を見つめた。
奏さん、頼みます。
「……任された」
四十八、四十九、五十。
息を吸った。五十五、五十六。目を逸らせなかった。
五十九。
0:00:00。
机がある。
参考書も、書きかけの計算も消えていない。
0:00:01。
数字が進んだ。
二秒。
三秒。
「…………明日」
四秒、五秒。
「明日だ」
机へ突っ伏した。
笑ったのか、泣いたのか分からなかった。
顔を上げては日付を見て、また伏せる。
「火曜日……!」
何度見ても、火曜日だった。
◇ ◇ ◇
午前六時二十分、スマートフォンが震えた。
奏は飛び起きて日付を確かめた。
「ほんとだ」
寝ても消えなかった。
昨日送った欠席の連絡も、配信の履歴も残っている。
先生と話さなければならないし、模試のことも塾へ聞かなければならない。
全部、ちゃんと残っていた。
その前に、一人だけ会いたい人がいる。
家で予定を伝え、学校にも午前中は欠席して午後から登校すると連絡した。
用事が済んだら、そのまま行けるよう教科書を鞄へ戻した。
十時五十二分。
ソエル国立博物館の入口に立った。
何度も近くを通った建物なのに、中へ入るのは初めてだった。
北館の収蔵庫と聞いて職員に尋ねると、一般客は入れないと教えられた。
「……そりゃそうか」
取り次ぎを頼むことも考えた。
でも、今のらでんは知らない名前を聞いて、仕事の途中で出てきてくれるのだ。
今日くらいは、こちらが待っていたかった。
北館のロビーで、ベンチへ座る。
十一時。十分。二十分。
昨日なら、らでんが何時何分にどの角を曲がるか分かった。
今日は扉がいつ開くのかさえ分からない。
「……不便」
少し笑えた。
隣の展示案内を読んでいるうちに、知らない十分が過ぎた。
十一時三十八分。職員用の扉が開いた。
学芸員らしい男性の後ろから、黒と白のフリルが見えた。
らでんは、歩きながら何かを説明していた。
鞄を持ち替え、相手が示した資料へ顔を寄せる。
普通に立って、普通に脚を運んでいる。
奏は口元を押さえた。
あの月曜日も、鐘も、奏のことも知らずに、楽しそうに話している。
立ち上がるのに時間がかかった。
近づくと、らでんが顔を上げた。
何度も見た、初対面の顔だった。
「私に御用ですか?」
「……うん」
「どこかでお会いしました?」
喉が詰まる。
いつもなら名前を呼んだ。
これまで起きたことを全部説明していた。
でも今日は、言わなかった。
「初めまして」
一度息を吸う。
「音乃瀬奏です」
「儒烏風亭らでんです。初めまして」
一礼したらでんが、顔を上げてもこちらを見ている奏に首を傾げた。
「……ものすごく見られてるなって」
「気のせい」
「泣いてません?」
「泣いてない」
「いや、泣いてるでしょ」
「泣いてないって!」
「ええ!?」
笑ったら、涙がこぼれた。
らでんはますます困った顔になる。
「ちょっと、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「私、何かしました?」
「した」
「初対面ですよね!?」
「うん」
「矛盾してる!」
同じだった。
何も覚えていなくても、やっぱり、らでんだった。
「ねえ、らでん。今日、仕事?」
「そうですけど」
「終わったら暇? ご飯行こ」
「初対面ですよね!?」
「それ何回言うの」
「言わせてるのそっちです!」
「いいじゃん。ご飯」
「距離感どうなってるんですか!?」
少し離れた学芸員が笑っていた。
らでんはそちらを見てから、奏の鞄へ目を戻した。
「学校は?」
「午後から。連絡した」
「……お昼休みなら。でも、まだ少し仕事が残ってますよ」
「待つ」
即答すると、また不思議そうな顔をされた。
「奏さん。本当に、初めましてですよね?」
一瞬だけ黙った。
「うん。今日が初めて」
火曜日に会うのは、今日が初めてだった。
◇ ◇ ◇
正午を少し過ぎて、二人で博物館を出た。
らでんの仕事は午後にも続くらしい。
近くで食べられる店を探しながら歩く。
「何食べます?」
「お昼だし、ハンバーガーとか」
「お好きなんです?」
「この前食べた店、おいしかった」
「では、そこにしましょうか」
「遠い」
「提案したのに!?」
「何食べたいか聞かれたから」
「場所も一緒に考えてください!」
奏は笑った。
帰れば先生に説明しなければならない。
模試のことも残っている。
次の配信だって、誰も来ないかもしれない。
それでも、次がある。
水曜日、木曜日、金曜日。その先には、また月曜日が来る。
「奏さん?」
隣から、何も知らない声がした。
「何笑ってるんです?」
「別に」
「変な人ですねぇ」
「らでんに言われたくない」
「何で初対面からそんな扱い!?」
奏は前を向いた。
明日がある。来週がある。
そしたらまた、新たな月曜日だ。