儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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幕間《消された素描》の後日談にあたる短編です。
先にそちらを読んでおくと、より楽しめます。


1994.3
【幕間】《無題(エリオの肖像)》


 一九九四年、リーネ市立美術館。

 

 床が光っていた。

 

 部屋の隅から、赤や青や金色が、低い斜面になって広がっている。

 入口で見た写真よりずっと細かく光っていた。

 らでんが半歩動くだけで、さっき暗かったところが白くきらめく。

 

 飴だった。

 

 一つずつ両端を捻った包みが、数えられないほど積まれている。

 台はない。二面の白い壁に寄りかかり、そのまま床に載っていた。

 

 リーネへまた立ち寄ると分かった時、らでんは美術館の展示予定を調べた。

 知らない作品が来ていたので、乗継だけで通り過ぎず、この町に一泊することにした。

 宿に荷物を置いてから来たため、今日は列車の時刻を気にしなくていい。

 

 十六歳になった今は、乗継も宿も自分で決めて、仕事の合間にこうした時間を取れるようになっていた。

 

 隣の客が屈んだ。

 山の裾から一粒取り、上着のポケットに入れる。

 

 らでんの肩が動いた。

 

 声をかける前に、壁際の係員を見た。

 係員は気づいている。

 客が立ち上がるのを待って、通路へ少しはみ出した案内の台を直しただけだった。

 

 らでんも、その案内を読んだ。

 

『ご希望の方は、一粒お持ち帰りいただけます。お召し上がりになる際は、休憩テラスをご利用ください』

 

 二度読んだ。

 それから、また山を見る。

 取られたところがどこだったのか、もう分からなかった。

 

---

 

「取ったところ、もう分からなくなったね」

 

 横から声がした。

 青年が、案内の向こうにある山を見ていた。

 黒い髪を後ろへ流し、額に暗い布を巻いている。

 薄い灰色の上着の襟元で、青い耳飾りが揺れた。

 

 らでんは顔を上げたまま止まった。

 

「……あの、お久しぶりですね」

 

 青年の目がこちらへ動いた。

 一拍あって、その口元が緩む。

 

「取っ手か」

「その覚え方、変ですね」

「先に言ったのは君だよ」

 

 そうだった。らでんは笑った。

 

 三年前、《消された素描》の前で話した人だった。

 顔を合わせるのは、あの日以来だった。

 

「また、来てたんですね」

「この展示が気になってね。君も?」

「はい。写真だと、もっと固そうに見えたんですけど」

 

 二人で山へ向き直った。

 

 銀色の間に赤が挟まり、金色の端が隣の青へ引っ掛かっている。

 写真で見た山より、一粒ずつがよく見えた。

 

「飴ですよね」

「飴だね」

「こんなにあるところ、初めて見ました」

「菓子屋でも、あまり床には積まないだろうな」

 

 らでんはもう一度案内を見た。

 ちゃんと持っていっていいと書いてある。

 なのに手を出す時だけ、いつもの美術館の癖が勝ちそうだった。

 

 青年も一度係員へ目を向けた。

 係員が小さく頷く。

 

「じゃあ、一つ」

 

 そう言って屈み、裾の銀色を摘んだ。

 周りを掻き回さず、一粒だけ持ち上げる。

 包みが擦れる乾いた音がした。

 

 らでんは空いたところを見た。

 その上にあった青い飴がわずかに傾く。

 下から、金色の端が覗いた。

 

 青年は銀色の一粒を目の高さへ上げた。

 照明へ透かしてから、掌の中で一度転がす。

 らでんは、青い包みの下を見ていた。

 

「金色が出ました」

「どこ?」

「今のところ。さっきは、ほとんど隠れてたのに」

 

 青年がもう一度屈んだ。

 らでんも少し横へ寄る。

 二人の影で金色が暗くなった。

 らでんが半歩退くと、細い端に光が戻った。

 

「本当だ」

 

 青年はそのまま、隣の包みの重なりへ目を移した。

 

「あの下にも、あったのか」

 

 青年が持ち上げた銀色も気になった。

 捻った両端の一方が長く、指で支えると小さな舟のようだった。

 らでんが覗き込むと、青年はよく見える方へ向けてくれた。

 二人の顔が同じ角度に傾いた。

 

「君は、まだ?」

「もうちょっと見てからにします」

 

 青年は頷き、銀色の一粒を上着のポケットへ入れた。

 

---

 

 壁の札には、《無題(エリオの肖像)》とあった。

 

 作者、ルカ・セレン。素材、個包装の飴。

 設置の広さは展示によって異なる。

 理想重量、七十二キロ。

 

 隣に、館が用意した解説があった。

 

 エリオは作者の恋人だった男性で、病気で亡くなった。

 七十二キロは、彼が元気だった頃の体重に由来するという。

 鑑賞者は飴を持ち去ることができ、展示する側は補充について判断する。

 

 らでんは最初の二行を読み返した。

 

 肖像だったのか。

 

 顔の形は、どこにもない。髪も、肩も、着ていた服もない。

 けれど七十二キロという数字を読んでから見ると、床の山は、さっきよりずっと重そうだった。

 

 青年も解説を読んでいた。

 名前のところから七十二キロまで目を動かし、もう一度、初めの行へ戻った。

 すぐには話しかけてこなかった。

 

 年配の客が長く立ち止まり、やがて何も取らずに次の部屋へ行った。

 

「この人の顔、見てみたいです」

 

 らでんが言った。

 

「エリオ?」

「はい。どんな顔だったのかなって」

 

 小さな解説には写真がなかった。

 

「図録にはあるかもしれないね」

 

 あとで売店へ寄ろう。

 そう思ったが、まだ山の前を離れる気にはなれなかった。

 

 赤い包みがよく光る。

 さっきから欲しいと思っていたのは、その一粒だった。

 誰かの肖像だと知った後でも、目は勝手にそこへ戻った。

 

 らでんは両手を鞄の紐へかけた。

 

「取ると減るんですよね」

「うん」

「分かってたんですけど」

 

 青年は急かさなかった。

 ポケットへ入れた手を戻し、壁に寄らず、少し離れたところへ立った。

 

 別の客が来て、案内を読み、飴を一つ選んだ。

 包みを持ち上げた手は、そのまま胸の前に残った。

 客は何か確かめるようにそれを裏返し、連れに見せた。

 

「あの人、まだ持ってる」

 

 青年が言った。

 らでんの目は山から離れた。

 客は飴をポケットへしまわず、掌に載せたまま解説を読み始めていた。

 連れの人は山と、その掌とを交互に見ている。

 

 さっきまで、らでんは山がどれだけ変わるかを見ていた。

 

 でも、そちらにも一粒あった。

 札の前で止まり、手と一緒に動く、小さな赤い光だった。

 

---

 

 壁際のベンチに座ると、山の高さが少し増した。

 

 立って見下ろしていた時にはよく見えた頂が、奥へ隠れる。

 代わりに裾の一粒ずつが、大きく見えた。

 らでんは膝に鞄を置き、身体を前へ傾けた。

 

 青の下に金色。ベンチから、さっきの一粒を探した。

 同じ組合せがいくつもある。

 青年も指を少し動かし、結局、どれも指ささずに下ろした。

 

 客が続けて来た。

 一粒取った後、連れの分も取ろうとして案内へ目を戻す人がいた。

 その人は手を引き、代わりに連れを呼びに行った。

 

 入口に小さな台車が来た。

 

 係員が二人で箱を運んでいる。

 らでんはベンチで背を伸ばした。

 

「補充だ」

 

 青年も顔を上げた。

 

 一人が客に場所を空けてもらい、もう一人が箱から袋を出した。

 透明な袋の中で、見覚えのある色が押し合っている。

 

 袋の口を低くして、飴を少しずつ出す。

 

 かさかさと乾いた音が重なった。

 斜面を転がり、包みに引っ掛かり、その上へ次が載る。

 

 らでんは、金色を探していたところを見た。

 

 赤い包みが二つ流れてきた。

 青の隣で止まったものと、もう少し下まで転がったものがある。

 金色があったはずのあたりは、その下へ隠れた。

 

 係員は一度袋を起こした。

 山を見て、位置を変え、残りを別の側へ注いだ。

 

「そっちにも入れるんですね」

 

 らでんが小さく言うと、青年は袋から係員の足元へ視線を移した。

 

 飴が足された方で、裾が少し広がった。

 

「真ん中を高くするのかと思った」

「私も」

 

 袋が空になった。

 

 係員は一粒ずつを並べ直さなかった。

 通り道へ離れて転がった数粒だけを手袋で拾い、別の容器へ移す。

 それから客へ場所を空けた。

 

 らでんは立ち上がった。

 

「すみません。これ、最初と同じ形へ戻すんですか」

 

 近くの係員が山を振り返った。

 

「一粒ずつ、元の位置へは戻しません。今回の展示では、この隅を使って、状態を見ながら補っています」

「最初から、こうやって補う予定だったんですか」

「ええ。今日はこの回で、補充を終える予定です」

 

 らでんは礼を言った。

 

 台車が出ていった後も、らでんは足された飴を見ていた。

 青年が隣へ来た。

 

「増えたね」

「はい」

 

 光る面が広くなった。

 見ていると少し嬉しかったが、金色が隠れたあたりへ、どうしても目が戻った。

 

「あれ、欲しかったんです」

 

 青年がらでんを見た。

 

「さっきの金色?」

「はい。最初は赤がよかったんですけど」

 

 二人でしゃがんで見た、あの細い光だった。

 今ある別の金色を指して、これでいいと言われても困る。

 自分で驚くほど、あの一粒を持って帰りたくなっていた。

 

「取っておけばよかった?」

「ちょっと。でも、もう少しあそこにあるのも見たかったので」

「忙しいな」

 

 らでんは笑った。実際、そうだった。

 

 青年はポケットから銀色を出した。

 二本の指でつまみ、山の手前へ重ねる。

 

「こっちは、見失わずに済んだ」

 

 飴が動いた。

 奥の山とは関係なく、青年の指の向いた方へ、銀色が向きを変える。

 らでんもそれを目で追った。

 

「全部なくなって、最後の一粒だったら」

 

 青年が山へ目を戻した。

 

「どれを取るかは、もう迷わないね」

「最後だと、別のことで迷いそうです」

 

 想像してみる。

 白い床に一つだけ置かれた飴。

 今のように裾の方からそっと、という取り方はできない。

 手を引いた後には、床しかない。

 

「取ってみたいな」

 

 青年が言った。

 

 らでんは顔を向けた。

 冗談を言う時の顔ではなかった。

 山の裾から、何も載っていない床へ目を動かし、それから自分の一粒を見ている。

 

「最後のを?」

「ああ」

 

 その指が銀色を包んだ。

 

 らでんも欲しいと思った。

 一つしか残っていなかったら、きっと欲しい。

 

 けれどそこまで考えた途端、その次に部屋へ入ってくる人が浮かんだ。

 あの札を読み、顔を上げる人。

 その人には何が見えるのだろう。

 

 山を振り返ると、係員が台車の通った跡を確かめていた。

 

「明日も、この展示は見られるんですよね」

 

 確かめずにいられなかった。

 係員は頷き、案内に載った会期を示してくれた。

 

 青年の掌は、もう下がっていた。

 らでんが礼を言って戻ると、閉じた指を一度だけ開いた。

 

 銀色が光った。

 

---

 

 飴が全部、新しいものになっても、この人の肖像なのだろうか。

 

 らでんは札を読み直した。

 補充することは、隠されていない。

 さっきの袋も、係員の手も、部屋にいた皆が見ていた。

 新しい飴を古い飴だと偽っているわけではない。

 

 七十二キロ。

 

 今、何キロあるのかは知らない。

 もっと大きく積めば光るところは増える。

 でも、あの数字まで大きくしたら、それはもう彼の体重ではなかった。

 

 青年が銀色の包みを裏返していた。

 

「何味なんでしょう」

 

 らでんが聞くと、青年は手をこちらへ向けた。

 

「書いてないな」

 

 小さな模様はあったが、味を示す文字はなかった。

 

「山から取ったと知らなければ、普通の飴ですね」

「そうだね」

 

 青年は、銀色だけを眺めていた。

 

「黒い皿に、一つ置いてみたい」

 

 らでんも想像した。

 黒に銀色なら、よく光りそうだった。

 包みの端を起こせば、影も綺麗に出そうだ。

 

「丸いお皿ですか」

「平たい方がいい。縁の低い」

「ああ。影が見えるやつ」

 

 青年が顔を上げた。

 二人で少し笑った。

 皿はまだどこにもないのに、飴を置く場所だけは決まりそうだった。

 

 それから、らでんは壁へ目をやった。

 

 皿のそばには、あの札がない。

 

 青年はもう、掌の上で飴を横にしていた。

 皿の色と、包みの傾き。

 その二つだけで、さっきとは違うものを作り始めているように見えた。

 

 自分で飾るところを考えると、らでんはどこに名前を書こうかというところで手が止まった。

 黒い皿の中か、外か。

 それとも、別の紙か。

 

 青年の指は止まらなかった。

 

 らでんは山へ近づいた。

 

「金色を探すのは、やめます」

「決まった?」

「これからです」

 

 青年が小さく笑った。

 

「長いね」

「一粒しか選べないんですもん」

 

 らでんも笑い、裾の少し離れたところへ屈んだ。

 赤い包みが一つあった。両端の片方は長く、もう片方は短く捻れている。

 自分の指だけで摘めるところまで出ていた。

 

 それを取った。

 

 二粒ほどが小さく動いた。穴は残らなかった。

 下から現れたのは、同じような赤だった。

 

 掌へ載せる。

 

 軽かった。

 

 七十二キロという数字の後では、少し拍子抜けするくらいだった。

 手を傾けると包みが転がりそうになり、指でそっと止めた。

 

 これがどこで作られ、何に入れられて運ばれたのか。

 調べるための問いなら、いくつも思いつく。

 念を向ければ、何かの断片を拾えるかもしれない。

 

 けれど、この飴がエリオの手にあったとは、どこにも書いていない。

 運ばれてきた途中が見えても、作者が恋人の肖像を飴にした理由が分かるわけではなかった。

 

 らでんは指先へ意識を集めず、包みを普通に持ち直した。

 

 青年が銀色を隣へ出した。

 二人の掌の上に、赤と銀が一つずつ載った。

 

「赤いからって、苺とは限らないですよね」

「辛かったら驚くね」

「それは、かなり困ります」

 

 らでんは思わず真面目に答えてしまった。

 

 青年が笑い、らでんも笑った。

 さっきまで、もっと大きなことを考えていたのに、舌が辛くなるかどうかは別に気になった。

 

---

 

 もう選びに近づかなくていい。

 らでんは正面を空けた。

 入ってきた客がその手を見て驚き、案内を読み直した。

 自分も最初、あんなふうだった。

 

 青年は手の中の一粒をポケットへ入れた。

 らでんはまだ持っていた。

 

 入れてしまうと、ほかの細々したものと一緒になりそうだった。

 切符や硬貨と混ざって、あとで出した時には、今日のどこから話せばいいか分からなくなりそうだった。

 

「もう少し見ていく?」

 

 青年に聞かれ、らでんは山を見た。

 

「今日は、これで」

 

 足を動かす前に、裾の赤いところをもう一度確かめた。

 二人で展示室を出た。

 廊下では足音がよく響いた。

 

「明日、違う形になってるかな」

「今戻っても、違うかもしれない」

 

 らでんは歩いたまま笑った。

 

「戻りたくなること言わないでください」

「君が先に振り返ったんだろう」

 

 そうだった。

 

 正面の明るい空間へ出ると、売店と出口と休憩テラスへ道が分かれた。

 らでんは売店の入口に図録を見つけ、足を止めた。

 

 表紙は、あの山だった。

 開くと、別の場所の展示が載っていた。

 今日よりずっと低く、横へ広く置かれている。

 同じ作品名が付いていた。

 頁の下に、小さな人物写真がある。

 

 エリオ、と添えられていた。

 

「ありました」

 

 青年が隣から見た。

 

 笑っている男性の写真だった。

 まぶしそうに片目を細め、口の端を上げている。

 写真の端には別の人の肩が少しだけ入っていた。

 

 らでんは、写真の下の短い説明も読んだ。

 どんな声で笑う人だったかは分からない。

 それでも、知らなかった顔を一つ知ることができた。

 

「この写真、見たら思い出せそうです」

「山を?」

「山も。この人も」

 

 青年も写真を見て、隣の頁へ目を移した。

 

「こっちは、床がずいぶん広く見えるな」

 

 言われて、らでんもそちらへ目を移した。

 写真では、飴のない床が半分以上を占めていた。

 そこにも山の色が薄く映っている。

 

「あ、光が落ちてる」

「ここだね」

 

 二人の指が同じところを示し、らでんは思わず笑った。

 

「大きい写真で見たいなあ」

 

 らでんは奥付で値段を見た。

 

 黙った。

 

「そっちは、小さい方がよかった?」

「かなり」

 

 青年が笑った。

 

 台の端には、小さな展覧会案内と絵葉書があった。

 絵葉書の一枚は、今見た低い山の写真だった。

 二人が同時に手を伸ばし、らでんは思わず青年を見た。

 

 青年もこちらを見ていた。

 

「そっちの、光がある方」

「はい。私も、それです」

 

 一枚ずつ取り、らでんは裏を返した。

 作品名と作者名、小さな解説が印刷されている。

 

 図録には及ばない。でも、今の自分には買える。

 青年は表を向けたまま、写真の縁を目で辿っていた。

 

 会計を済ませ、らでんは展覧会案内も一枚もらった。

 

---

 

 休憩テラスで、二人は日陰の卓へ座った。

 まだ少し時間がある、と青年が言い、らでんも飴の味を確かめたかった。

 周りには飲み物を飲む人や、持ってきたパンを食べる人がいた。

 

 らでんは膝の上で包みを開いた。

 薄い黄色だった。

 

「あ、赤くないんだ」

 

 青年の方も同じような色だった。

 二つ並べて見たが、同じ味かどうかまでは分からない。

 

 口に入れると、まず甘かった。

 それから舌の端へ少し酸味が来た。柑橘のような味だった。

 

 らでんが肩の力を抜くと、青年が笑った。

 

「本当に心配してたの?」

「ちょっとだけ」

 

 青年も自分の一粒を口に入れた。

 包みだけが、それぞれの手に残った。

 

 らでんは赤い紙を広げた。

 指を離すと端が戻る。

 もう一度、破らない程度に伸ばした。

 

 青年は銀色の片端を内側へ折っていた。

 反対側も折り、親指で中央を押し広げる。

 さっきまで飴が入っていた丸みが、浅い窪みになった。

 

 小さな舟になった。

 

「それ、置いたらどうなります?」

 

 らでんが身を乗り出すと、青年は買った絵葉書の白い縁へ載せた。

 舟は少し傾いた。指先で片側を押すと、今度は立った。

 

 小さな模様も、菓子を包んでいた捻れも、ほとんど内側へ入ってしまっていた。

 明るいところだけが舟の縁に残る。

 

 綺麗だった。

 

 らでんも赤い紙の端を少し折りかけ、やめた。

 どう畳まれていたか、もう分からなくなるところだった。

 赤い紙を開き直し、鞄からノートを出した。

 

 作品名。ルカ・セレン。エリオ。

 

 今日の日付と館名を書き、その下に、補充を見たことと、係員が袋を一度起こして反対側へ移ったことを書く。

 赤い包み、薄い黄色の飴。柑橘のような味。

 

 青年の舟を見る。

 包みの折り方なら、真似できそうだった。

 けれどその前に、山から銀色を抜いた手と、青の下に金色が現れたところを描きたくなった。

 ノートへ小さく山の裾を描いたが、やはり上手くいかなかった。

 

 青年がそれを見て、口元を緩めた。

 

「何ですか」

「取っ手が増えてる」

 

 らでんは絵を見下ろした。

 確かに、包みの端を描いたつもりの輪が、三つとも取っ手に見えた。

 

「難しいんですよ。これ」

 

 笑いながら、絵の脇へ言葉を足した。

 それから絵葉書を裏返し、余白に鉛筆を当てた。

 

『近くへ行くことがあったら、見てほしいものが増えました』

 

 書き出しを少し眺め、続けた。

 誰に送るかは、鞄を開いた時から決めていた。

 飴が積まれていること。一粒もらえること。

 自分が座って見た時には、山が少し高く見えたこと。

 

 その途中で、印刷された小さな解説を読み返した。

 宛名を書く場所まで文を伸ばしかけていたので、そこは空ける。

 エリオの名前には、鉛筆で細く線を引いた。

 

---

 

 青年は舟を指に載せたまま、その線を見た。

 

 少女は赤い包みを残そうとしている。金色が埋もれた時の、惜しそうな顔も覚えている。

 あの一粒を見つけたら、ほかに同じ色があっても、それを選んだだろう。

 

 欲しがるところは、よく分かった。

 

 だが、手に入れてからも少女の手は忙しかった。

 今日ここで飴を取ったのは彼女だ。

 それでも紙をしまう前に、まず別の人間の名前を書いている。

 

 誰が作り、なぜ大切にしていたのか。

 青年も、そういうことを知りたくなる。

 知ってから、なお欲しくなったものもあった。

 

 始めは、ただ欲しかった。

 

 手に入れた後、何に使うかまで元の持ち主に決めさせるつもりはなかった。

 

 指の上の舟を傾ける。甘い匂いがわずかに残っている。

 銀色の包みがこの形に落ち着くまで、肖像の男に尋ねたいことは一つもなかった。

 

 少女は赤い紙と入館券を、小さな袋へ入れた。それから一度出した。

 展覧会案内を折り、作品名が見える向きにして、一緒に入れ直す。

 

 青年は舟の端をつまむ手を止めた。

 

 取ったものを、まだあの部屋へ結びつけている。

 自分の手の中だけで終わらせず、その先の誰かへ渡すために、細い線を一本ずつ足していた。

 

 絵葉書の表を見た。少女と同じところを気に入った写真だった。

 白い床へ落ちる色も、飴の細かな光も、そのまま写っている。

 

 青年は舟を写真の上へ戻し、指でそっと向きを変えた。

 

---

 

 らでんが顔を上げると、舟は山の写真の手前に置かれていた。

 

 紙の上の飴と、紙の上に載った銀色。

 印刷された光の隣で、本物の包みが光っている。

 さっき売店で選んだ写真に、もう一つ、青年の置いたものが加わっていた。

 

「あ、そっち向きもいいですね」

 

 青年が舟から手を離した。

 

「こっちから見て」

 

 らでんは椅子を少しずらした。

 山の低い裾と、舟の縁が重なる。

 傾ければ離れ、また戻せば繋がった。

 

 赤い包みも横へ置いてみたくなった。

 

 袋に手をかけたところで止まる。

 案内を一緒に入れたばかりだった。

 青年は、袋とらでんの手を見ていた。

 

 らでんは少し笑い、小袋の口を開いた。

 赤い紙だけを出す。

 舟には折らず、皺の残った面を、絵葉書の端へそっと置いた。

 

 銀色の隣に、赤が映った。

 

 二人とも、しばらく何も言わなかった。

 

 綺麗なものを手元で見たい。その気持ちは同じだと思っていた。

 けれど青年の舟は、もう山へ戻らない。

 らでんはそれを綺麗だと思いながら、どこから来た銀色なのかを、まだ一緒に置いておきたかった。

 

 風が吹いた。

 

 赤い紙の端が持ち上がり、らでんが指で押さえた。

 青年は舟の腹を軽く押さえた。ほとんど同時だった。

 目が合い、二人で笑った。

 

 青年が時計を見た。

 

「そろそろ行くよ」

「はい。私も、書いたら出ます」

 

 らでんは赤い紙を引き取った。

 青年は舟を指に載せ、内側の折り目をもう一度だけ確かめた。

 形を潰さないよう、上着の胸ポケットへ収める。

 絵葉書は別にしまった。

 

 らでんは赤い紙を、名前の見える袋へ戻した。

 

「また、何かあるといいね」

 

 青年が美術館の方へ目を向けた。

 

「この館、油断できないですね」

「また長居しそうだ」

「今回は、先に泊まることにしました」

 

 青年が声を立てずに笑った。らでんも笑った。

 

 片手が上がり、それから青年はテラスを出ていった。

 ガラス越しに少しだけ姿が見え、売店の棚に隠れた。

 

 今日も名前を聞かなかった。

 

---

 

 らでんは絵葉書へ目を戻した。

 

 まだ書きたいことがあった。

 飴が減ること。足されること。

 足された後も、壁に書かれた一行は変わらなかったこと。

 

 それを全部書くには狭かった。

 少し考え、続きは手紙にすることにした。

 図録で顔写真を見つけた頁も、忘れないうちにノートへ書き留める。

 

 あの写真の男がどんな声で笑ったかは、まだ知らない。

 青年が帰ってから舟をどこへ置くのかも知らない。

 黒い皿に載せるだろうか。

 それとも、もう別の置き方を思いついているだろうか。

 

 舟の写真も、撮らせてもらえばよかった。

 

 今さらそう思って、少し笑った。

 

 ノートの余白へ、小さな舟を描く。

 今度は取っ手にならなかった。

 横へ、銀色の包みで作った、と書き足す。

 山の裾の下手な絵とは、短い矢印で繋いだ。

 

 自分が取った赤い方の記録も見直した。

 味を書いた行の後へ、食べた場所を足す。

 甘さはもう、ほとんど口に残っていなかった。

 

 絵葉書には、案内に載っていた会期も写した。

 会期の後に見返すかもしれないノートとは違う。

 こちらは、まだ見られるうちに届いてほしかった。

 

 小袋をその頁へ挟む。

 

 赤い紙の片端が少し反って、午後の光を返した。

 

 その下に、エリオの名前が読めた。

 

     ◇ ◇ ◇

 


 

【クルタ族の集落で百二十八人が殺害】

 

森に迷い込んだ旅行者の女性が、集落の住民百二十八人の遺体を発見した。

 

家族は互いに向かい合うように座らされ、全身に刃物の傷を負い、首を切断されていた。

遺体からは、両眼が持ち去られていた。

 

子供の傷も多く、親にその惨状を見せつけた可能性があるという。

 

現場には、次の言葉が残されていた。

 

『我々は何ものも拒まない。だから我々から何も奪うな』

 


 




参考とさせていただいたアート

Felix Gonzalez-Torres
"Untitled" (Portrait of Ross in L.A.),1991

この作品を「続きも読みたい!」と強く感じたのは、どのあたりからでしたか?

  • 冒頭1〜3話
  • ハンター試験・裏試験編
  • 発の習得編
  • 事件録に入ってから
  • まだ判断中
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