白い道の先で、測量標が床を離れた。
横へ落ちていく。
その先に、白い月が見えた。
「まず、こっちの下」
そぴあが、細い糸の先に重りを吊るした。
重りは、素直に床を指した。
二十五メートルほど先では、測量標が月へ向かって落ち続けている。
同じ白い道の上なのに。
「ここは、まだ足元。あっちは月の方」
「下って、そんなに気軽に変わっていいものでしたっけ」
「よくないね。どこで変わるか、確かめよう」
足を置ける床で、そぴあは試験灯をしまい、糸を巻き戻した。
記録を見比べる間に発動時間が満了する。
次も同じ九項目。
三重の環が現れ、二十八メートルの円が戻った。
光景の読み方は変えても、測る量は途中で変えない。
観測儀の環が、月の方へ傾いている。
「近づけるところまで。二人いっぺんに足を出さないで」
「はい。道があるように見える、では足りませんものね」
足元を調べ、一人が進み、もう一人が続く。
らでんは、帰りの操作盤を何度か振り返った。
角の三角形の剝げが、まだ見えている。
床を横切る継ぎ目の手前で、そぴあが止まった。
「ここ」
らでんは、思わず彼女の肩のそばを見た。
《
その中心から広がる、薄い円の輪郭。
丸い縁を目で辿ると、床の継ぎ目を境に、その続きだけが別の向きへ折れて見えた。
水に差した棒のように、球の縁が途中で食い違っている。
「……丸いはずなのに、ここだけ折れて見える」
この子の基準は、変わらない。
手前の丸みはそのままだった。
星空へ差しかかるところだけ、ひと続きになるはずの輪郭がつながらない。
「半径は?」
「二十八メートル。変わることはありません」
そぴあは、折れ目の両側を順に測った。
「この観測器は、私が怖がったからって球を歪めたりしません。なのに、同じ球の続きがここで折れて見える。向こうまで、同じ距離と向きの決まりでつながっているとは限らないんです」
「水に入れた筆が、途中で折れて見えるみたいな」
「そう。まだ、見え方だけの可能性はあります。でも、空間のつながりまで違っていたら、そこへ出した足が、見えている床に着くとは限らない」
そぴあは、自分の靴先と継ぎ目の間へ点検棒を差し出した。
「人間で試すわけにはいかないので。まず、物がどう動くかを見よう」
今度は点検棒の先から、糸につないだ小さな球を下げた。
球は足元へ垂れている。
棒を、横へ。
継ぎ目の先へ、少しだけ。
球が浮いた。
いや、落ち始めたのだった。
糸が斜めになり、やがて、床と平行になった。
そぴあの手から横へ伸びた棒。
その先から、さらに横へ伸びる糸。
風は吹いていない。
糸の先で球だけが、月を目指していた。
「……なるほど。見え方だけじゃ、済まない方だ」
「うん。こっちは本当に、落ちる向きが変わってる。同じ姿勢で踏み出しても、向こうでは横向きに落ちる。床が見えてるだけでは、歩ける場所だとは言えません」
そぴあが棒を引くと、球は境目を越えたところで、すとんと下がった。
もう一度、先へ出す。
横へ。
戻す。
足元へ。
「雑ですねぇ、世界の切り替えが」
「こっちの都合は聞いてくれないみたいです」
らでんは、継ぎ目に灯りを沿わせた。
白い道の脇に、柱が二本ある。
その間が開口になっていた。
さっきまで遠い星と重なっていた細い手すりが、灯りを受けて姿を現す。
道の続きではなく、道から横へ入る場所だ。
らでんは、撮影した操作盤の案内を開いた。
次の区画を示す印と、柱に残る印が同じだった。
「こちらが、先へ進む入口ですね」
「この月のところを通るのか……」
そぴあは、糸の先を見たまま言った。
月は、思っていたよりずっと小さかった。
近づいて測れるようになると、直径は四メートルほど。
白い表面には浅いくぼみがあり、その一つに、失くした測量標が引っかかっていた。
星空を背景にした、小さな球。
それが、あたりの
◇ ◇ ◇
開口のすぐ先には、短い踏み出し台があった。
そこまでは手すりが続いている。
ただし、その先に道はなかった。
月の脇を空けて、斜め向かいに、もう一つの足場がある。
距離だけなら、らでんが跳べないほどではない。
けれど、ここでは何に向かって落ちるかが違う。
月の周りには、銀色の板が、ばらばらの向きで留められていた。
手のひらほどのものから、人の胴ほどもある曲面まで。
支える細い黒い棒が星空に紛れ、板だけが宙に浮いているように見える。
その間には、尖った三角や細長い金属もあった。
まだ組み立てていない装飾のようで、何の形なのかは分からなかった。
「普通に跳ぶと?」
「途中から、月に曲げられる。強く跳べばいい、でもないです。着くときの向きが変わるから」
「着いたつもりで、頭から、は困りますね」
「めちゃくちゃ困ります」
らでんは門柱の根元に、赤い綿ひもを結んだ。
遺構を傷つけずに外せる、帰路の目印だ。
そこから先は、手すりを離さずに確かめた。
踏み出し台には、浅い溝が二本あった。
一方は縁へまっすぐ向かっている。
もう一方は、少し外側へ開いていた。
溝の周りだけ、石が丸く減っている。
らでんはしゃがんだ。
「そぴあさん。ここ、ちょっと」
「何かあった?」
「人の足です」
そぴあが、すぐ隣へしゃがむ。
「靴の跡?」
「一人の、ではないですね。何度も同じところへ足を置いて、踏ん張った跡。ほら、こっちは踵のところだけ、深くなってる」
らでんは、触れずに指で囲った。
そのまま、手すりへ灯りを上げる。
磨かれた場所が、二つあった。
立ったまま握る高さと、腰を低くしたときに握る高さ。
「ずいぶん、しっかり掴まれていますねぇ」
「そりゃ掴む。私も掴みたい」
「ええ。私も」
らでんはもう一度、向かいの足場を見た。
あちらの縁は、こちらへ向かって少し反っている。
滑り込んだものを受けるような形だった。
手すりも、その奥へ続いている。
出るところと、受けるところ。
どちらにも、同じように石の減った場所がある。
「少なくとも、通った人たちはいたんですね。ここに迷い込んだ人のものかも」
「うん。向こうは着地するための面だ。角度も、月の方を向いてる」
そぴあの目が、今度は二つの足場を行き来する。
らでんは、手すりの外側に残った金属環へ気づいた。
上の方には、細いレールが弧を描いている。
月から離れた側を通って、向かいの足場まで続くものだ。
環の下に、古い革の切れ端が残っていた。
「これ、腰を留めていたのかもしれません」
「……命綱だ」
そぴあが立ち上がった。
金属環は、レールに沿って動く滑車につながっていた。
「落ち方を間違えたら、こっちで止める」
「いきなり『飛べ』だけではなかったんですね」
「それはそうであってほしい」
その声には、少し本気の安堵があった。
古い革は使わない。
支柱とレールの傷み、滑車の動きは、二人で確かめた。
持参したロープへ荷重をかけると、そぴあは支えの反応を測り、らでんは留め具の周りを見た。
止まるためのものは、まだ使える。
ただし、それを使わずに通れる道筋も、調べなくてはならない。
らでんは、月のくぼみに引っかかった測量標を見た。
「とりあえず、あの子と同じ場所へは行かない方向で」
「うん。落ちる先を、月の表面じゃなくて、あの足場にする」
そぴあは試験球を持ち上げた。
「まっすぐ落とすと、ぶつかる。じゃあ、横向きのベクトルならば?」
◇ ◇ ◇
最初の球は、月へ曲がった。
何もしなければ、そのまま表面へ当たる。
そぴあは手前で回収用の糸を張り、引き戻した。
次は、少し横へ送る。
軌道を邪魔しないよう、糸を十分に繰り出す。
球は月へ向かいながら、その脇を通り過ぎた。
「あ」
らでんは身を乗り出しかけ、手すりを握り直した。
真横へ進んでいた球が、少しずつ曲がっていく。
月の端をかわす。向こうへ回る。
引っ張られる向きに合わせて、道筋まで、くるりと回る。
だが、向かいの受け台には届かなかった。
縁の内側を通り過ぎ、さらに月の奥へ曲がりかけたところで、そぴあが回収した。
「惜しい」
「うん。けど、いまので力の変わり方は取れた」
そぴあは手帳に、月を表す丸を描いた。
その横へ、短い線。
「ボールを横に投げると、前へ進みながら下へ落ちるでしょ」
「はい」
「ここもそれ。ただ、下がずっと同じ向きじゃない。月の脇まで行ったら、下はもう、後ろ斜めになる」
進む先を指し、月の中心を指す。
また少し先へ、また中心へ。
二つの動きが重なって、一本の曲線になった。
「……月へ落ち続けるけど、横にも進むから、当たらない?」
「そう。うまく横へ逃げながら落ちると、回り込める」
「上手に落ち損ねるわけだ」
「その言い方、好き」
そぴあが笑った。
らでんは紙の丸と、本物の月を見比べる。
落下と聞けば、地面へぶつかるところを想像する。
けれど、この場所の地面は、向きを変える。
足元にあったはずの下が、横へ、斜めへ、背中の方へ回っていく。
そのたびに、落ちる道も曲がる。
まっすぐな橋を架けなくても、向こうへ行く道はあるのだ。
「では、次はもっと強く?」
「強さも変えられるけど、まず向き。速くしすぎると、向こうで止まるのが大変だから」
そぴあが、さっきの軌道を紙へ重ねた。
受け台の内側を外れている。
らでんは、足元の溝を見た。
「……この人たち、月に向かって踏み出してませんね」
「え?」
「右の溝。足を揃えるためだと思ってたんですけど、こっちは少し外を向いてる。踏み切る足をここへ置いたら――」
手すりを掴んだまま、靴の向きだけ合わせる。
肩が、月から離れる側を向いた。
「向こうへ行きたいのに、最初は向こうを狙わない」
そぴあが、その姿勢を見た。
次に、紙へ引いた線を見た。
「……そっちだ」
新しい線は、月から少し遠ざかってから、ゆっくり回り込んだ。
「最初の曲がり方が変わる。それなら、着地の向きも合う」
「どうでしょう、先に通った皆さんの知恵は」
「すごく助かる。設計図に、この足跡を描いといてほしい」
「現物には、ちゃんと残ってますよ」
次の球は、白い月の脇を大きく回った。
くぼみに触れず、星空を横切り、反った受け台へ。
低く滑り込んだ球が、奥の溝で止まる。
「着いた」
そぴあの声が、少し高くなった。
回収して、もう一度。
今度も、同じところへ。
「着きましたねぇ」
「うん。いまのは気持ちいい」
らでんも、手帳の曲線へ目を落とした。
紙の線が、目の前の道になっていた。
ただし、自分たちは球ではない。
そぴあはらでんの姿勢と荷物の位置を確かめ、踏み出す速さと、受け台へ足を向けるところを決めた。
らでんは鞄の紐を締め直し、腰の命綱を滑車につなぐ。
「全力では蹴らない。そこの溝から、いま合わせた方向へ」
「月を避けようとして、途中で暴れない」
「そう。着く方を見て。月を目で追うと、体まで回しすぎるから」
「了解です」
らでんは足元へオーラを巡らせ、全身を《堅》で覆った。
そぴあも短く頷く。
測ったから、怖くないわけではない。
ただ、何をするかは、もう分かっている。
「先に行きます。受ける側から、見られることもありますので」
「うん。こっちから測ってる」
観測儀は、そぴあの肩のそばにある。
月も、受け台も、試した軌道も、いまはその二十八メートルの中だった。
らでんは手すりを離した。
白い床を、一度だけ蹴る。
星空へ、落ちた。
◇ ◇ ◇
胸の底が、すっと軽くなった。
踏み出したときには、月は横にあった。
いまは斜め下にある。
目で追えば、さらに下へ回ってくる。
体ごと引かれているのに、足は何も踏んでいない。
空に投げ出された鞄の紐の先が、視界の隅でふわりと浮いた。
腰の命綱はたるんでいる。上の滑車だけが、小さな音を立ててついてきた。
自分を運んでいるのは、ロープではなかった。
落ちている。
月へ、ぶつからないまま。
白い表面のくぼみが、脇を流れた。
そこに引っかかった測量標を、目の端で追い越す。
急に、笑いそうになった。
さっきまであんなに怖かった落ち方で、いま、自分も移動している。
「受け台。そのまま!」
そぴあの声がした。
らでんは、向かいの白い縁へ目を戻した。
反った石の面。その奥の手すり。
足先を、決めておいた溝へ。
靴底が触れた。
膝を曲げ、滑る勢いを殺す。
オーラに覆われた掌で手すりを掴み、足場の奥へ体を収めた。
重さが、靴底へ戻ってきた。
「……着いた」
息を吐いた。
足元を確かめ、命綱を受け台側の留め具へつなぎ替える。
その低い姿勢のまま、顔を上げた。
銀色の板が、視界の中で重なった。
月のそばに留められた、意味の分からない細長い金属。
裏返った皿のような曲面。
奥にあった三角と、手前の細い板。
腰を落とした高さから見ると、それぞれの縁が、ぴたりとつながっていた。
細長い金属が、嘴になった。
皿のような曲面が、胸になった。
離れていた三角と板が、一枚ずつ重なり合う羽根になった。
両翼を大きく広げた、銀の鳥。
遠い星の一つではない。
手は届かないが、銀の縁に残る細かな傷まで、肉眼で追える近さだった。
広げた翼は、人が三人、両腕を広げて並ぶほどもある。
その胸の下に、さっき脇を回り込んだ白い月が見えた。
宙に留められた板を見ているはずなのに、大きな鳥が目の前の空を滑っているようだった。
羽根は動かない。ただ、その重なりに沿って銀の光が連なり、今にも風を受けそうに見える。
らでんは、手すりを握ったまま動けなかった。
「らでんさん?」
向こうから、声が来た。
「着地、大丈夫?」
「……大丈夫です。命綱も固定しました」
「よかった。じゃあ、こっちも――」
「そぴあさん。着いたら、膝を曲げてください」
「それ、着地の話?」
「そのあとです。低い方が、いいものが見えます」
わずかな間があった。
「何それ。気になる」
「ええ。気にしながら来てください。ただ、見るのは着いてから」
「その言い方、ずるいなあ」
らでんは、ようやく少し笑えた。
手すりを握ったまま、ゆっくり腰を上げる。
近くの板と奥の板が、視界の中で違う幅だけずれた。
胸と首の間に星空が入り、羽根の縁が離れる。
さっきまで嘴だったものは、首から外れた一本の金属にしか見えなくなった。
部材を留める棒は、一本も揺れていない。
変わったのは、らでんの目の高さだった。
もう一度、腰を落とす。
隙間が閉じた。
同じ場所に留まったままの金属が、また一羽に見えた。
「……ここかぁ」
らでんは、自分が握っている手すりを見た。
低い位置に、手の当たった艶がある。
何度も、人がこうして掴んだ。
この高さから、顔を上げた。
掌をその艶へ重ねてから、そぴあへ手を振る。
「こちら、いつでもどうぞ!」
向こうの足場で、そぴあが頷いた。
自分の命綱を確かめ、記録へ短く印を入れる。
そぴあの纏は、薄く一定のままだった。
オーラを増して受け止める代わりに、命綱と足を置く位置をもう一度確かめる。
それから、白い床を蹴った。
観測儀も、彼女と一緒に動き出す。
動かない星空の中を、円の薄い縁が滑ってくる。
二十八メートルの物差しを伴って、小さな人影が月の脇へ落ちていく。
らでんは受け台の縁で待った。
そぴあは球と同じ方へ回り込み、最後のところで足先を揃えた。
靴が石を擦る。
手すりを掴む指が、きゅっと縮む。
「……よし」
短く息を吐いた顔へ、らでんが手を差し出した。
握り返してきた手を引き、半歩、奥へ迎える。
「ここで、腰を低く」
「こう?」
「もう少し。そう、その高さ。目線は、月の上へ」
自分がいた場所を譲る。
そぴあの顔が上がった。
「……あっ」
それきり、言葉が止まった。
らでんは急かさなかった。
少し横へ寄った自分の位置からは、もう翼の輪郭がずれている。
でも、いまそぴあに何が見えているかは、分かった。
「うわ」
そぴあの声が、そっと漏れた。
「……あれ、さっきの、板?」
「そうなんですよ」
「待って。全部、そこにあった?」
「ありました」
そぴあは首を伸ばした。
翼のつなぎ目が外れる。
慌てて元の高さへ戻すと、また揃った。
「いる」
もう一度、伸ばす。
「いない」
「そぴあさん」
「ごめん。もう一回」
らでんは吹き出した。
「お気持ちは、大変よく分かります」
◇ ◇ ◇
「帰る方も、先に確かめておこう」
何度目かに目の高さを戻したところで、そぴあが言った。
声は明るかったが、手はもう試験球を取り出していた。
こちら側にも、踏み出しに使う溝がある。
向こうから来たときの受け面とは、少し向きが違っていた。
らでんは、その先を指した。
「帰りも、入口を直接狙わない。いったん、月から離れる方へ」
「そう。その向きで戻るか、やってみよう」
試験球が、月の脇を逆に回った。
来たときの踏み出し台へ戻り、石の縁で止まる。
入口の門は、そのすぐ奥にあった。
柱に結んだ赤い綿ひもも、向こう側の白い道も、元の位置に見えている。
そぴあは二つの足場と門の位置を記録し、球を回収した。
「この範囲では、行きも帰りも通せる。いまのところ、力の向きも変わってない」
「では、もう少しだけ、あちらを」
らでんが指すと、そぴあもすぐに振り返った。
「うん。見たい」
次の区画へ続く案内は、足場の奥にある。
そぴあがその位置も記録する間に、らでんは鳥の見える高さへ戻った。
自分の肩越しに、そぴあも覗こうとする。
「あれ。ここだと、翼がずれる」
「そぴあさん、もう半歩、左。……ああ、そこです」
「あ、揃った」
らでんは体を引いて、場所を譲った。
二人が横に並ぶと、どちらかの目がちょうどよい位置から外れてしまう。
いちばん綺麗に見えるところへ、交代で顔を寄せた。
「これ、立体の騙し絵ですねぇ。似た作品を、展覧会で見たことがあります」
「こういう鳥?」
「そちらは、人の顔でした。部屋に古い椅子や食器が並んでいて、横から見たら、何とも散らかった部屋なんですよ」
「片づけたい方の展示」
「ところが、決まった場所から覗くと、お皿が頬になって、椅子の脚が眉になる。全部合わせて、一人のお顔になるんです」
らでんは、手前の羽根と、奥の羽根を順に指した。
「くっつける場所は、物と物の間じゃない。見る人の目の中なんですね」
「ああ。だから、横にずれると離れる」
「ええ。『アナモルフォーシス』という、見る位置を利用する騙し絵の仲間です」
鳥を見る位置を交代している間に、環が消えた。
そぴあは同じ九項目で次の計測を始め、観測儀へ目を戻した。
それから、胸を作る曲面を指す。
「あの胸で、ここから十メートルくらい。部材全体は、横に六メートルほど広がってる」
「やっぱり、ずいぶん大きいですねぇ」
「でも、一枚の大きな鳥を吊ってるんじゃない。この羽根は六メートル先。すぐ隣に見える方は、十二メートル先」
どちらも、円の範囲内だった。
そぴあは足場の同じ継ぎ目を基準に、板の位置を確かめ直す。
「間に、人が何人も入れる。そんなに離れてるのに、ここからは隣同士なんだ」
そぴあと入れ替わって、らでんも顔を寄せた。
羽根と羽根の間にあるのは、細い継ぎ目のような影だけだ。
その向こうに何メートルもの星空が挟まっているとは、聞いていても、すぐには思えなかった。
「……しかも、止まってる。鳥に見えてる間も、見えなくなったときも」
「では、こちらも」
らでんはカメラを低い手すりへ添えた。
さっき目を置いた場所に、レンズを合わせる。
画面に、一羽の銀の鳥が収まった。
「そのまま、立ってみてください」
そぴあが腰を上げる。
彼女の目には、ばらばらの金属。
低く据えたカメラの画面には、翼を広げた鳥。
同じ瞬間に、二つの見え方が並んでいた。
「……そっちは、ずっと鳥だ」
「ええ。鳥になる時間を待っていたわけじゃない。鳥に見える場所へ、私たちが来たんです」
「動いたの、私だけか」
らでんがカメラを引くと、そぴあはもう一度、ゆっくり腰を落とした。
さっき画面にあった鳥と、目の前の鳥が、同じ姿になる。
「これを見るために、あの落ち方を?」
そぴあが、来たばかりの月の脇へ目を向ける。
「着く場所も、向きも、ちゃんとここになるんだ」
らでんは、低い手すりの艶をカメラへ収めた。
「手をついて、ほっとして、顔を上げたら」
「鳥がいる」
そぴあの目が、手すりと銀の翼を行き来した。
「……それは、嬉しいな」
らでんは頷いた。
自分が着いたときの、息の止まった一瞬を思い出していた。
何も知らないまま、この場所で顔を上げられた。
次に来る人へ、見てほしいと思った。
あの人たちも、そうだっただろうか。
石を減らすほど何度もここへ足を置いた人や、低い手すりを磨いた人たち。
「そぴあさん。記録、撮れました?」
「撮れた。……けど、写真だと、普通に鳥だね」
「普通に鳥ですねぇ」
「違うんだけどな。さっきまで、ただの板だったんだけど」
その言い方に、らでんは笑った。
「では、カメラの方を動かしながら、撮りましょうか」
「それだ。立ったときの目の高さから、ここまで」
高い位置では、ばらばらの金属。
レンズをゆっくり下げると、画面の中で板の縁が重なり、銀の鳥の輪郭が揃っていく。
そこで手を止めれば、鳥もその姿のまま。
上へ戻せば、また金属の隙間から星が見える。
そぴあは小さな画面を覗き、嬉しそうに頷いた。
らでんは、もう一度、翼の縁へ目を向けた。
「……ただ、ここだけ」
片方の翼に、小さな欠けがあった。
羽根の先端ではない。
なめらかに続くはずの縁が、一か所だけ内側へ入り込んでいる。
少し首をずらした。
ほかの羽根のつなぎ目が外れる。
いちばん綺麗に揃う位置へ戻っても、そのくぼみだけは残った。
「目の位置が、まだ違うのかな」
そぴあが、らでんと交代して覗く。
らでんは手帳を開いた。
台座から読み取った、整った線。
そこへ、わざわざ刻み足された小さなくぼみ。
「これ、覚えてます?」
「……ああ。さっきの」
そぴあの目が、紙と翼を行き来した。
「似てる」
「ですよねぇ。同じだとまでは、まだ言えませんけど」
鳥全体は、驚くほど丁寧にできている。
離れた板を組み合わせ、見る高さまで合わせて、一羽に見せている。
それなのに、この縁だけは、なめらかにしなかった。
「ここだけ直したら、もっと綺麗につながるのに」
「作った人には、こっちの方が正しかったのかもしれません」
「何に対して?」
「それが、分からない」
らでんが言うと、そぴあは画面の倍率を上げた。
「位置と形、取っておこう。あとで並べて見たい」
「お願いします」
いまは、鳥でいい。
この人が何を残したかったのかは、まだ分からなくても。
らでんは手帳の線の横へ、小さな翼を描き添えた。
足場の下で、こつん、と音がした。
◇ ◇ ◇
手すりを伝って、小さな振動が来た。
鳥は、そのままだった。
月も動いていない。
そぴあの視線だけが、すぐに門へ向いた。
「らでんさん。いま、そこ動かないで」
らでんは手帳を閉じた。
そぴあが、足元の同じ位置へ立ち直る。
先ほど測った場所だった。
観測儀の環が、静かに回る。
円の輪郭が、門のところで食い違っていた。
ここへ入る前にも、折れて見える場所はあった。
ただし、折れ目は同じところに留まっていた。
測定する位置を戻せば、同じ形で見えた。
いまは違う。
こちら側の丸い縁は動かないのに、門の向こうに見える続きだけが、横へ引かれていく。
ひとつの球を途中で切って、向こう半分だけ、ずらしているようだった。
「……さっきと、違いますね」
「うん」
そぴあの返事が短い。
「門までの距離は同じ。柱の間隔も、こっちの床も変わってない」
「円の方は」
「二十八メートル。こっちは変わらない」
そぴあは、門の向こうを指した。
「向こうの道と、合わなくなってる。さっきは、同じ位置に立てば同じ折れ方をした。だから測って、通り方を決められたんです。でも、いまは立ち止まっていても、ずれが増えてる」
らでんは、赤い綿ひもを見た。
門柱の根元に結んだ、小さな目印。
「空間のほうが、歪んでいってる」
その奥にある白い道の縁が、少しずれていた。
写真では柱のすぐ後ろへつながっている。
いまは、その先に細い星空が挟まっている。
鳥を見る位置を間違えたのとは、違う。
同じ場所に立っているのに、同じものが、同じところへ戻らない。
「動いてるのは、床ですか。それとも、つながり方?」
「床だけが動いてるなら、まだ動いた先を追えます。でも、区画同士のつながりが変わってる可能性がある。そうなら、入口が壊れなくても、帰り道はなくなる」
そぴあの指が、赤いひもの結び目で止まった。
「目印が残ってても、その向こうが、来た場所とは限らないんです」
らでんは、門柱から白い道へ目を移した。
覚えておけば帰れる。ついさっきまで、そのつもりで結んだひもだった。
結び目は同じなのに、帰る先を示せなくなるかもしれない。
「いったん戻ろう。さっきの操作盤まで。足を出すところから、測り直します」
「はい」
らでんは即座に頷き、手帳を鞄へ収めた。
鳥の映像も、欠けの形も入っている。
そぴあが帰りの踏み出し面へ向き直った。
らでんも命綱を確かめる。
まだ、足は出さない。
帰りの落ち方を、いまの状態でもう一度測る。
その間にも、隙間が広がった。
赤いひもの結び目は、動いていなかった。
柱も、踏み出し台も、そこにある。
門の向こうの、白い道だけが滑っていた。
柱の幅を越えた。
もう、細い隙間ではない。
人の足が、すっぽり入る。
「そぴあさん」
「見てますよ」
そぴあは、試験球を握ったまま止まった。
さっきまで入口のすぐ先にあった床が、門の端へ寄っていく。
踏み出せば靴底を受けてくれるはずの白が、少しずつ、星空に置き換わる。
銀の板も、月も、動いていなかった。
二人が見つけた帰り道だけが、入口の向こうから外れていった。
今回の「銀の鳥」の見え方は、トーマス・ダイニンガー(Thomas Deininger)の、廃材や日用品を組み合わせ、特定の位置から見ると一羽の鳥に見える立体作品を参考にしています。
また、らでんが話した「椅子や食器が、決まった場所から見ると人の顔になる作品」のイメージは、ベルナール・プラス(Bernard Pras)による、日用品の配置を特定の視点から一つの像として見せるアナモルフォーシス作品を参考にしました。
どちらも、見る場所が変わるだけで、ばらばらの物が一つの姿へまとまるところがとても魅力な作品です。
作中の銀の鳥の形・大きさ・月と足場の配置・念の仕組み、および空間の接続が変化する現象は、本作独自の創作です。
参考作品をご覧になる場合は、下記の作家紹介・作品掲載ページをご参照ください。
Thomas Deininger/Bernice Steinbaum Gallery
https://bernicesteinbaum.gallery/paget
Thomas Deininger/Ethan Cohen Gallery・作品一覧
https://www.ecfa.com/artists/36-thomas-deininger/works/
Bernard Pras/Marble Arch Fine Arts
https://www.marblearchfinearts.com/artists/35-bernard-pras/overview/