儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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【独立事件録・ジャンル・都市アクション】
 この章の主人公は轟はじめ。
 ある工芸品の回収任務から、ゴシカ・シティを駆け巡る一日が始まります。
 本編《発の習得編》までの読了をおすすめします。


《第一期・事件録② ゴシカ・シティ編》
第一話 受付担当 一条莉々華



 

《夜明けの蝉》という工芸品がある。

 

 約二百年前、宮廷工房で作られた宝飾工芸品。

 金属の胴に小さな石を配し、薄い翅には七宝を施してあった。

 見る角度によって青や紺から淡い金色へ移る、その仕上げと保存状態が評価される一品。

 制作記録や旧蔵目録、過去の写真から来歴を追えることも、その価値を支えていた。

 

 旧蔵家から合法的に売却された後に担保取引や相続などを経て、権利は複数の持ち主に分かれた。

 ゴシカでも、高価で来歴を確かめられる品として担保に使われてきた。

 品に価値があることと、今それを持っている者が自由に売れることは同じではない。

 

 現在この品を握っているのは、ゴシカ・シティのマフィア社会の一角を占めるベルベット商会。

 表では融資や資産保管、美術品取引を扱う信用のある商会として通っている。

 主な稼ぎは賭博。

 裏では違法な賭場に加え、人の命まで賭けるゲームも開いていた。

 身辺警護の名目で凄腕の用心棒を手配するルートは、殺しの依頼にもつながっている。

 

 商会は《夜明けの蝉》の返却に合意しながら、別件の交渉が済むまで現物を渡さないと主張している。

 桐生組とベルベット商会は、どちらもヴァレンティ会の傘下にある。

 ただ、同一傘下であるものの、桐生組は商会が市場の荷物や道まで押さえ取引を自分たちの都合で止めることを疎ましく思っていた。

 商会の支配を崩したい桐生組と、預けた品を取り戻したい所有者側。

 双方の利害が一致していた。

 

 共同所有者の依頼を受け、来歴と権利関係の整理に入った文化財ハンターが、儒烏風亭らでん。

 今はクカンユ側で共同所有者の身柄を守り、引渡しの手続きを進めている。

 現物の回収と運搬は、轟はじめへ委任された。

 

 届け先は、ゴシカ市内の中立の競売施設。

 期限は本日二十二時。

 現物の確保だけでなく、指定担当による正式受領までが任務となる。

 


 

 1994-09−18 

 09:00

 

 ゴシカ・シティの駅を出ると、頭の上を列車が走った。

 鉄の継ぎ目を踏む音が、胸のあたりまで響いてくる。

 階段から吐き出された人たちはその音を気にする様子もなく、左右へ分かれて歩いていく。

 右には新聞を広げた売店。左では、鉄板の上で肉が焼けていた。

 

 おにく、いいなー。

 

 そちらへ顔を向けたところで、携帯が震えた。

 届いた写真には、蝉をかたどった美しい細工物が写っていた。

 青い翅を背中で合わせ、誰かの掌にちょこんと載っている。

 はじめは階段の正面から外れ、高架の柱のそばへ寄った。

 続いてかかってきた電話に出る。

 

『はじめさ、写真届いた?』

「届いた。これ、手に載ってるやつ?」

『そう。これが《夜明けの蝉》』

「小っさ。もっと大きいのかと思ってた」

『二枚目も見てみて。翅の色もすごいんだから』

 

 画面を切り替えると、同じ蝉が金色になった。

 指の位置は少ししか違わない。

 さっきは紺に見えた縁まで明るく光っていて、別の物を並べられたようだった。

 

「これ、同じ?」

『同じ。角度を変えると、青から紺、それから金へ見え方が変わるのがすごいの。七宝の翅でね、二百年くらい前の宮廷工房の仕事なんだけど、この薄いところまで——』

「運んでる途中で色が変わっても、壊れたわけじゃないんだね」

『そこから確認するんだ』

「大事でしょ。受け取ったのと違う色になったら、びっくりするじゃん」

『それは確かに。変わって大丈夫。むしろ、ぜひ見てほしい』

 

 写真を閉じ、下に届いていた委任状を開く。

 依頼の窓口は、この蝉を共有している持ち主たちの共同代理人。

 現物を確保する役目は、はじめ。

 届け先の欄には、市内の競売施設の住所が入っていた。

 

「ここへ、今夜の二十二時まで。ちゃんと受け取ってもらったところまでで、終わりだよね」

『はい。正式な受領までお願いします』

「で、ベルベット商会は、返すって言ってるんだよね?」

『返却には合意してるんだけど、別の交渉が済むまで渡せないと』

「返すって言ったじゃん」

『そこなんだよね。揉めそー』

 

 高架の下を配送車が抜けた。

 通話を聞き取りやすい側へ顔を向けると、今度は、積み上げた箱の向こうから荷車の車輪が出てくる。

 押している人からは、はじめが見えていない。

 柱との間には身体一つ分の隙間があるが、リュックまで通すには狭い。

 はじめは半歩退いて肩を引き、荷車を先に通した。

 箱の脇から顔を出した男が、すまなそうに片手を上げたので、こちらも手を上げる。

 

「じゃ、向こうがうんって言うのを、もう一回待つ仕事じゃなくて」

『現物を取りに行く仕事だね。荒事になるかも。法的な委任は代理人からこちらで受けているけどね』

「そっちは、まだ美術館?」

『クカンユ王国の国立工芸美術館にいるよ。昔の王宮を使っているところでね、今いる部屋、窓の金具がとてもよくて』

「書類の話、どこ行った?」

『同じ机の上にあります。こっちは共同所有者の人たちを守りながら、代理人と書類も詰めてるの。代理人への襲撃も、もう何度もあって。向こうは受け渡しの直前まで諦めるつもりはないみたい』

 

 電話の向こうで、紙をめくる音がした。

 

『来歴と、持ち主の皆さんの合意、引き渡しの手続き。共同代理人側の分は、私がここでつなぐから。はじめが持っていった先で、「必要書類が足りません」とは言わせない』

「うん。助かる」

 

 あの小さな蝉が、どうやって二百年を渡ってきたのか。

 誰の物で、誰が返していいと言えるのか。

 らでんはそういうことを、一つずつ拾っていける。

 はじめは住所の欄をもう一度見た。

 こちらは、実物をそこへ運ぶ。

 

「二人で来られたらよかったのにね」

『それだとこっちをやる人がいなくなるからねー』

「こっちでも、らでんがやるじゃん」

『私、遊びに誘われたのかと思ったんだけど?』

 

 つい笑ってしまった。

 

「こないだの、ジンさんおすすめのあのゲーム。難しかったけど面白かったね」

『ねえ。すごく高かったけど買ってよかった。また二人で、ああいうのやりたいね』

 

 らでんが一拍置いて、仕事の声に戻った。

 

『そちらではエージェントの指示を聞いてね。現地の協力者まで、もう手配してくださってるはずだから』

「らでんが見つけた、すごい人?」

『すごい人。いろはさんに紹介してもらった。間違いなく頼れる方です』

「いろはかぁ……分かった。行ってくる」

『ええ。こちらも進めておくから、……無事に帰ってきてね』

 

 通話が切れる。

 駅の時計は九時を少し回ったところだった。

 はじめは写真をもう一度だけ開き、青い蝉を確かめてから、教えられた番号を呼び出した。

 

『はじめちゃん? 鷹嶺ルイです。到着、お疲れさま』

「お疲れさまです。轟はじめです。はじめでいいよ」

『うんわかった。はじめは今、高架の柱の横にいるね。そのまま高架沿いに歩いて。赤い庇の角を右』

 

 はじめは顔を上げた。

 見えているらしい。

 どこからだろう、と上を探しかけたところで、前から来た女性が手提げを持ち替えた。

 通りたい側が分かったので、反対へ半歩ずれる。

 

「ルイさん。赤いのって、パン売ってるとこ?」

『そう。そこを曲がって』

「さっきから、道案内が全部おいしそうなんだけど」

『目印を選んでるのは私じゃなくて、はじめの目じゃない?』

 

 それはそうかもしれない。

 角でパンを受け取っている客の後ろを通り、通りを一本入る。

 高架の音が壁の向こうへ退いた。

 

「協力してくれるのって、どんな人?」

『桐生ココ。この街の有力なマフィアの一つ、桐生組の組長。今回の回収に協力するのは、”いろいろと都合がいい” みたい』

「”都合がいい”」

『そう。この街は十老頭の一角、ヴァレンティ会の一派で牛耳られてるけど、シンプルな一枚岩じゃないのさ。現にこの街には、マフィアや、賞金稼ぎ、殺し屋、フィクサーなんかごろごろ入り込んでる。何が起きるかわからない街だから周りには注意してね』

「……それで、朝からマフィアの事務所に行くんだ、はじめ」

『昼ならよかった?』

「時間の問題じゃない」

 

 道の先を見た。

 配送車を降りた男が伝票を確認していて、その横では、店の人が入口の硝子を拭いている。

 ここまでは、普通の仕事の朝だ。

 

『話は通してある。あちらにも協力する理由があるし、今回の目的も伝えてるよ』

「うん。そこまでやってくれてるなら、まず会う」

『ありがとう。次の角を左。二階に事務所がある』

「ほんと仕事早いね、ルイさん」

『その「さん」は、なくても大丈夫。呼びやすいのでいいよ』

「じゃ、ルイ姉」

『一気に来たね』

「呼びやすいのでいいって」

『言ったけど。……はい、ルイ姉です。階段は建物の脇ね』

 

 そこまで案内されれば、迷うところはなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 事務所の扉を開けると、大きな机の向こうから大柄な女性が立ち上がった。

 

「おぉ、長旅お疲れ様! 来たね。はじめ?」

「うん。桐生ココさん?」

「ココでいいよ。よろしく」

 

 差し出された手を握る。

 大きい。掌だけでなく、背も肩も。

 着ているジャケットが窮屈そうなわけではないのに、その下の身体がしっかり詰まっているのが分かる。

 まとっているオーラも、握手のために腕を伸ばしたくらいでは、ほとんど揺れなかった。

 

 この人、強いかも。

 

 見上げていると、ココがにっと口の端を上げた。

 

「そんなに見られると、こっちも何か感想ほしくなるね」

「思ってたより大きい」

「見たまんまじゃん」

「でも、安心した。頼りになりそう」

「あ、それは嬉しいね。そっちを先に言ってよ」

 

 手が離れ、来客用の椅子を勧められる。

 はじめはリュックを足元に置いた。

 机の脇には配送の伝票らしい束があり、壁には道の書き込まれた地図が掛かっている。

 携帯を通話用のスピーカーに切り替え、机の上へ置く。

 

「ルイ姉、着いたよ」

『聞こえてる。ココ、よろしくね』

「うん。こっちも助かるよ」

 

 ココは椅子に座ると、地図の一点を指で押さえた。

 

「ベルベット商会。行くのはここ。蝉は、ここの保管庫に入ってる」

「手伝ってくれるのって、ココたちも、その人らに困ってるから?」

「荷物も道も、あいつらの都合で止まるからね。同じヴァレンティ会の傘下だけど、勝手に幅を利かせられると邪魔なんだ。成功すれば私らにも得がある」

「じゃ、道と人を借りる。蝉は、頼まれた届け先へ持っていくけど」

「うん。そのための手伝いだから」

 

 話が早い。

 はじめが椅子を寄せたところで、扉が軽く叩かれた。

 

「ボス、お客さんです」

「入れて。ごめんね、すぐ済むから」

 

 入ってきた男は、封筒を抱えて会計の机へ向かった。

 封を開くのも、中身を取り出すのも左手だけ。

 右手は腰の前に下がっていて、指がずっと同じ形をしていた。

 会計が金を数え、帳簿と突き合わせる。

 

「確認できました。これで完済です」

「はい。じゃ、約束どおりね」

 

 ココが男へ向き直ると、右手にまとわりついていたオーラがほどけた。

 人差し指が曲がる。残りの指も、ゆっくり掌に収まった。

 男は一度開き、もう一度握ってから、長く息を吐いた。

 

「……ありがとうございます」

「うん。受領書、忘れんなよ」

 

 差し出された紙は、右手で受け取っていた。

 男が出ていってから、はじめは自分の手を膝の上で握った。

 

「お金借りると、ああなるの?」

「借りただけじゃならないよ。期限を守らなかったら、返すまで手の自由を担保にする。アイツとは、そういう約束だった」

「お金以外も取れるんだ」

「そう。返したら戻す。そこまでが約束」

 

 あの男が何に金を使ったかは知らない。

 ただ、返済が確認されると、ココはその手を返した。そこは見た。

 

「さて。こっちも、人を出す約束だったね。かなた、わため。準備できた?」

「できてる。通信機、こっちでいいんだよね」

 

 先に顔を出したのは、歩きやすそうな靴を履いた小柄な女の子だった。

 片手に耳掛けの通信機を持っている。

 その後ろから、もう一人。小さな水のボトルを抱え、開いた扉を足で押さえていた。

 

「かなたん、これ一個持って」

「そんなに持ってきたの?」

「三人だよ。三本」

「数は合ってるけど、僕もう一本持ってる」

「じゃあ一本は予備。ぴったりだね」

 

 はじめが立ち上がると、通信機の女の子が手を差し出した。

 

「天音かなただよ。はじめちゃん、よろしくね」

「轟はじめです。よろしく」

「わためは、角巻わため。私もはじめちゃんって呼んでもいい?」

「もちろん。じゃあ、こっちは、かなたちゃんと、わためちゃん」

「うん。はい、お水」

「ありがとう。これ、予備のほう?」

「はじめちゃんの分。予備はかなたんのところ」

「僕だけ二本持つことになってるんだけど〜!」

「力仕事、かなたんが得意だから」

 

 かなたは言い返しかけた口を一度閉じた。

 

「それはそう」

「どのくらい?」

「僕? ちょっと力が強いくらいかな。握力五十キロ〜!」

「五十。……その『ちょっと』、だいぶ入るね」

「ちゃんと数字も言ってるからね!そこは各自で判断!」

 

 握手は普通だった。こちらを試すような握り方もしない。

 

「じゃ、力がいるところはよろしく。はじめは、足場があったらだいたい行ける」

「分かった。僕が行きにくいところは任せるね」

 

 通信機の掛け方を教わり、携帯の通話を切った。

 少しして、ルイの声が耳のすぐ横から聞こえてくる。

 

『はじめちゃん、聞こえる?』

「聞こえる。おお、手が空いた」

『よかった。外へ出たら、道は引き続き私が見る。ただ、建物の中は直接見えないから。中に入ったら、そちらで見えたことを教えてね』

「じゃ、今ここで手を振っても分からない?」

『分からない。振ってるの?』

「ちょっと振った」

『はい、振り返したつもりで受け取って』

 

 はじめが手を下ろすと、かなたが口元だけで笑っていた。

 ココが、名前と連絡先を書いた紙片を机に滑らせる。

 

「補給とか、手当てが必要になったらここ。沙花叉クロヱっていう『掃除屋』」

「さかまた、くろえ」

『はじめちゃん。その人とは敵対しないで』

 

 今度のルイの声には、冗談が混じっていなかった。

 

「私からも言っとく。完全中立で、敵も客として入る。店の中では決して揉めないこと」

「掃除屋さんなんだよね?」

「そう。引退した伝説の殺し屋だったとか、凄腕のブラックリストハンターだったとかいろいろ言われててね。この街で、そいつに逆らうやつはいないよ。敵がいても同じ」

「敵がいても、掃除屋で喧嘩しない」

「そういうこと」

 

 まだ会ってもいない人について、二人から続けて釘を刺された。

 紙片は折らずに、携帯と一緒にしまっておく。

 ココが地図を三人の方へ寄せた。

 かなたも椅子の背に手を掛け、わためが隣からのぞき込む。

 

「じゃ、三人でどう動くか。はじめは委任状を出して、正面から引渡しを求めて。かなたとわためは裏。通用口までは、うちの者が案内する。今朝の情報だと、蝉は二階の奥の金庫」

「渡してくれるなら、そのまま受け取って帰る。まだ駄目って言うなら?」

「はじめの合図で、二人が取りに行く。止められたら押し通る。先に話をするか、最初から踏み込むかは、あんたが決めていい」

 

 はじめは地図の正面入口と、裏側の通用口を見た。

 こちらは、受け取りに来たと言えば中へ入れる。

 二人が同じことを言っても、そうはいかないのだろう。だから、別々に行く。

 

「まず話す。返すって言ってるんだから、一回はちゃんと返してもらおう。それでも出さないなら、『中、お願い』って言うよ」

「了解。僕らはそれを待つ。邪魔はこっちでどかして、金庫を確かめるね」

「正面から出られなくなっても大丈夫だよ。帰りはわためが受けるから」

「帰り、窓もあり?」

「玄関が混んでたら、ね」

 

 かなたが、開いた手で窓の方を示した。

 

「僕もそっちから出ることになるかもしれないし」

「二人いっぺんはやめてね。順番にお願い」

「分かった。順番待ちの場所は、自分で作る」

 

 はじめが答えると、わためがにこっと笑った。

 

『私は外周と離脱先を見てる。中で出口を変える時は、一言ちょうだい。二人との合流は、外で合わせよう』

「うん。中は自分で見る。外へ出るところからお願い」

 

 正面で話している間に、裏へ回ってもらう。

 話が駄目なら、自分で二人を呼ぶ。

 誰かが知らないところで決めるのではなく、そこまで込みで、はじめの仕事だ。

 

「蝉を取れたら、一度ここへ戻っておいで」

 

 ココが事務所の位置へ指を戻した。

 

「車と、競売施設まで安全に行ける道を用意しておく。分からなくなって、適当な車に乗らないこと」

「蝉を取る。ここへ戻る。車で競売施設」

「そう。施設の中では揉めない。あそこは完全に中立だからね。取引を続けたいなら、私らも商会も決まりを守る」

『二十二時までに、指定担当の正式受領。そこまでつなごう』

「任せて」

 

 リュックを背負い、水を脇のポケットへ差した。

 わためが、下で揺れていた肩紐の端を留め具の輪へ通してくれる。

 

「これだけ。引っかかるからね」

「経験者?」

「看板ごと持っていきかけたことある」

「持ってったよ。途中まで」

「かなたん、それ言わなくていいよ」

 

 はじめは笑いながら、反対側の紐を収めた。

 

「じゃ、行ってくる。ココ、二人借りるね」

「うん。二人とも、よろしくね」

「はじめにも言って。客じゃないんだから」

 

 ココがこちらを見て、笑った。

 

「そうだった。三人、よろしく」

「任された」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 商会の建物は、通りの他の店よりずっと窓が大きかった。

 磨かれた石の外壁に、金色の文字。

 入口の硝子には向かいの店まできれいに映っている。その脇で、背広の男が行き交う人を眺めていた。

 

「お金、ありそう」

「あるよ。返してくれないだけで」

「いちばん駄目じゃん、それ」

 

 かなたが小さく笑った。

 角には、ココのところで見た男が待っていた。

 かなたが片手を上げると、建物の裏手を顎で示す。

 

「じゃ、はじめちゃん。またあとで」

「うん。持って出られたら、そっちが蝉の受け取り係ね」

「はじめちゃんは、わための受け取り待ちだね」

「玄関から帰れるかもしれないでしょ」

「それがいちばんだよ」

 

 二人と案内の男が角へ消える。はじめは正面へ進んだ。

 硝子の脇の男が、今曲がっていった二人から、こちらへ目を移した。

 扉は、普通に開いた。

 

「《夜明けの蝉》の受け取りに来ました。共同所有者側の代理人です」

 

 受付へ携帯の委任状を見せる。

 女の人が画面を確かめ、奥へ電話をかけた。

 名前を聞かれたので答えると、三階の応接室へ案内されることになった。

 階段を上がる間に、耳の通信機へ指を添える。

 

「正面、入れた。三階で面会」

『聞こえた。中はよろしく』

 

 応接室の時計は、九時四十二分だった。

 広い机を挟んで椅子が置かれ、奥の窓からは表通りが見下ろせる。

 右手の扉は開いたまま。

 壁際には男が二人いて、はじめが入ると会話をやめた。

 

「お待たせしましたー。一条莉々華です。こちらの交渉窓口を担当してます」

 

 机の向こうの女性が、明るい声で迎えた。

 胸元にも、同じ名前の札がついている。

 

「轟はじめです。よろしくお願いします」

「はじめちゃんって呼んでいい? こっちも莉々華でいいから。座って座って、せっかく来てくれたんだし」

「うん。蝉、受け取れる?」

「早いなー。お茶くらい飲もうよ」

 

 勧められた椅子に座った。リュックは背負ったまま、浅く腰を掛ける。

 はじめの前に出されたお茶は、いい匂いがした。脇の小皿には、丸い焼き菓子が二つ。

 蝉まで一緒に出てきたら、文句なしなのに。

 

「ごめんね、まだ渡せる準備ができてなくて」

 

 莉々華は自分のカップを持ち上げた。

 

「今、ちょっと別のお話も動いてて。そっちが片づけば、すぐなんだけど」

「返すっていう話は、もう決まってるよね。今日の二十二時までに、競売施設で受け取ってもらわないといけないから、取りに来た」

「うんうん、聞いてる。だから、こっちも急いでるんだって」

「じゃ、何時に渡せる?」

「そこで何時って約束しちゃうと、守れなかった時よくないじゃん?」

「守れる時間を言ってほしいんだけど」

 

 カップが、口元へ上がる途中で止まった。

 

「それが、まだ決まってないんだよねー」

 

 窓の外を、配送車がゆっくり通った。

 はじめはお茶へ伸ばしかけた手を戻す。

 

「莉々華が決められないなら、決められる人に聞いて。合意した相手の代理人が来てるって」

「ボスには伝わってるよ。私は窓口だから、上で止めてる物を勝手には渡せないの」

「じゃあ、返せないんじゃなくて、まだ返さないってこと?」

「言い方ぁ。そこは、調整中ですって受け取ってほしいな」

「受け取りに来たの、そっちじゃないんだよなぁ」

 

 耳元に、かなたの声が入った。

 

『裏、着いた。こっちはいつでも』

 

 はじめは通信機へ触れるだけにした。

 莉々華の携帯が、机の上で短く震えた。

 画面を見て、こちらの耳元を見る。

 カップを置く音が、さっきよりはっきり聞こえた。

 

「ところでさ。はじめちゃん、桐生組と何してるの?」

「道、案内してもらってる」

「道だけ?」

 

 はじめが答える前に、莉々華は携帯を持ち上げた。

 

「入口の警備から。桐生組のヤツと一緒だったって。二人とも知ってる顔だし」

 

 硝子の脇にいた男を思い出した。

 ああ。見てたもんね。

 

「回収も手伝ってもらう。ココにも話してあるよ」

「へえ。ずいぶん仲いいじゃん。じゃ、今日来たのは、代理人として? それとも桐生組の用事?」

「受け取りに来た、はじめの用事」

 

 机の上へ携帯を向け、まだ開いていた委任状を示した。

 

「誰と来たかで、返すって約束は変わらないでしょ」

「変わらないよ。でも、お友達が裏で何してるかくらいは聞いてもいいよね?」

「待ってもらってる。蝉を渡してくれたら、帰ろうって」

 

 莉々華の指が、カップの持ち手から離れた。

 時計の長い針が、九を向く一つ手前まで来ている。

 

「だから、準備ができてないんだって。分かってくれる?」

 

 分かった。

 今この人は、蝉を出してくれない。

 はじめは携帯をしまい、椅子の下へ引いていた足を床に置いた。

 

「かなたちゃん。中、お願い」

『了解』

 

「……ちょっと。何をお願いしたの?」

 

 足の裏へ、鈍い振動が届いた。

 奥で何かが倒れた。

 続いて、男の怒鳴り声。

 扉の脇にいた一人が廊下をのぞき、もう一人の手が上着の前へ動く。

 

「出してくれないなら、取りに行ってもらう」

 

 机の電話が鳴った。

 莉々華が受話器を取り、こちらを見たまま耳へ当てる。

 

「はい。……裏? 二人って――」

 

 また、床の向こうで大きな音がした。

 耳元には、かなたの短い声。

 

『入った。奥へ行くね』

 

 莉々華の視線が一度扉へ流れ、それから、はじめへ戻ってきた。

 

「……そっか。最初から、そのつもりか」

 

 口元は笑ったままだった。

 けれど、今度はお茶を勧める顔ではなかった。

 

--

 09:45

 

 莉々華が受話器を置いた。机の下へ引いた右手が、黒いものを連れて戻ってくる。

 銃。

 肩が上がり、腕がこちらへ伸びる。

 その銃口が正面を向く前に、はじめは椅子を蹴って横へ跳んだ。

 

 破裂音。

 さっきまで背中のあった場所で、椅子の布が弾けた。

 

「普通に撃った!」

「そっちから始めたんでしょ! 捕まえて!」

 

 壁際の男が上着を跳ね上げた。

 扉まで、あと二歩。その間に銃を抜かれる。

 はじめは床へ着いた足で、すぐに男の懐へ飛び込んだ。

 腰から出かけた銃を外へ押し退け、みぞおちへ拳を叩き込む。

 男の息が、短く潰れた。

 膝が折れ、銃が床を跳ねる。

 両手を腹に重ねたまま、顔も上がらない。

 

 その向こうから、黒い棒が横に来た。

 扉をのぞいていた、もう一人。

 はじめは身を低くして棒の下へ入り、倒れかけた椅子ではなく、机の脚元を踏んだ。

 固い床が力を返す。伸ばした脚で男の胸を蹴り抜くと、身体が開いた扉へぶつかった。

 扉ごと廊下へ押し出された男の足がもつれ、壁の下に尻から落ちる。

 その脇を抜けた。

 

 背後で、もう一発。

 扉の縁から木片が散った。

 はじめは廊下へ肩を引き、角の壁を挟んだところで息を吐いた。

 あぶな。あれは、当たったらまずいやつ。

 

『はじめちゃん、決裂? 銃声が聞こえた』

「うん。三階の応接、いま出た。話し合い終わり!」

『無事なら、出口を探して。裏の二階に大きな荷物口がある。そこから荷捌き場へ出られる』

 

 廊下の左に、階段を囲む柵が見えた。

 そちらへ足を向けた途端、横の扉から大きな男が出てきた。

 上着も着ていない。太い腕の周りに、オーラが厚くまとわりついている。

 この人は、さっきの二人とは違う。

 

「止まれ」

「下、行きたいんだけど」

 

 腕が振られた。

 避けるつもりで下がったら、そのまま抱え込まれる。

 はじめは前へ出た。振られた腕の外へ踏み込み、男の脇へ身体を入れる。

 拳へオーラを寄せ、肘の下を短く打ち抜いた。

 硬い手応えが腕へ返った。

 それでも男の身体は横へ折れ、肩から壁へぶつかる。

 口を開いたまま膝をつき、追おうと出した足が一歩も前へ出なかった。

 

 はじめは、空いた方へ抜けた。

 

 その先の扉が開く。反対側からも、足音。

 え、増える。まだ増える。

 

「こっちだ!使(・)い(・)手(・)だぞ!」

「階段へ行かせるな!」

 

 壁際の長椅子を、二人がかりで通路へ出してくる。

 それが床に置かれる前に、はじめは近い方の男の肩を押さえた。

 腕に体重を預け、一息に椅子を越える。

 向こうへ降りた足が、こちらをつかみに来た別の男の膝を横から払った。

 崩れた男が、運んでいる途中の椅子へぶつかる。

 脚が引っかかり、椅子が斜めに落ちた。

 後ろから来ていた連中が、まとめて足を止める。

 

 階段まで開いた。

 

 走り出した正面で、一人が両手を揃えた。

 銃口が上がる。

 はじめはすぐ横の扉のくぼみへ入り、続けて逆側へ踏み込んだ。

 狙う腕がついてくるより先に、間へ椅子を跨いだ男が出る。

 

「どけ!」

 

 怒鳴り声を置いて、はじめは階段の角を曲がった。

 全員を倒す必要はない。

 追ってくる順番が、少しずつ狂ってくれればいい。

 

『金庫の部屋、着いた』

 

 かなたの声がした。

 すぐ近くで何かを叩くような音も聞こえたが、こちらの足音に重なって途切れる。

 

「正面、混んでる。二階の荷物口から出るよ!」

『分かった。こっちも外で合わせる』

 

 階段は吹抜けに沿って、下の階へ折り返していた。

 途中の踊り場から男たちが上がってくる。

 その下にも、まだ頭が見える。後ろでは、廊下を塞いだ椅子が蹴り退けられた。

 下りたいのに、みんな上がってくる。

 片側だけでも空けてほしい。

 

 先頭の男が足を速めた。その右手が腰へ回る。

 はじめは手すりの角柱を踏んだ。

 下から伸びた手が靴の下を空振りする。

 踊り場の壁際、まだ人のいないところへ身体を飛ばした。

 着地を狙って腕が伸びてきたが、床へ片足を置いた時には、はじめはもうその横へ回っていた。

 伸びた肘を押し込み、背中へ肩を当てる。

 男が壁へ突っ込み、上がってきた二人が慌てて止まった。

 

 下の段に、銃。

 

 はじめは踊り場の壁際へ寄った。

 男の腕が追ってくる。正面を外しながら、下りの一段目を強く蹴る。

 銃声が、吹抜けいっぱいに響いた。

 頬へ、熱いものが当たる。

 石の粉。顔は向けない。

 もう次の足が床を蹴っていた。

 銃を構え直そうとする手首へ踵を落とし、下がった腕の内側を抜ける。

 うずくまった男の肩越しに、二階の床が見えた。

 

 下り切った。

 正面に「荷受」の札。その矢印が向く通路へ入る。

 

『金庫、確認したよ! 僕らも出る!』

 

 かなたの声を聞いたところで、背中に怒鳴り声が迫った。

 はじめは振り向かず、壁から突き出た棚をよけた。

 荷物を覆う布が、足元へ落ちている。

 そこは踏まず、木箱の低い縁へ一歩だけ乗って越える。

 すぐ後ろで、靴底が布を引っ掛けた。

 倒れる音に、さらに二人分の足音がぶつかった。

 

 通路の先が明るい。

 両開きの大きな搬入扉が、外へ開いていた。

 

「ルイ姉、荷物口、見えた!」

『こっちからも見えた。下、左側に飛べ。わためが受ける』

 

 開口まで走った。

 外は、建物に挟まれた荷捌き場だった。

 下に停まった配送車の屋根が見える。

 その横は空いているが、床はずっと低い。上がってきた階段の一階分より、高く感じた。

 

「はじめちゃん、こっち!」

 

 左下に、わためがいた。

 低いコンクリートの積み降ろし台に立ち、後ろへ片足を置いている。

 空いた左手は柱へ。差し出した右手からは、白い編み目が太い束でつながっていた。

 縮れた毛糸のようなオーラが、荷台の脇へ大きく広がっている。

 人一人が十分に身を預けられる、柔らかな面。

 その下には、まだたっぷり空間があった。

 浮かせて置いてあるのではない。

 わための掌まで、途切れずにつながっている。

 

「《やさしい檻(スイート・ホーム)》で受けるよ。背中からおいで!」

 

 わためが膝をゆるめた。

 こちらを見ている。

 もう、待てている。

 

 背後で足音が揃った。

 はじめは開口の縁を蹴った。

 

 外の風が、いっぺんに身体へ当たる。

 床も壁も離れた。白い面へ腰を向け、そこへ背中ごと預ける。

 

 ふわり、と触れた。

 

 思っていたところに、底がなかった。

 触れたのに、まだ沈む。

 背負ったリュックごと深く沈み、白い編み目が両側からせり上がってくる。

 落ちる勢いを急につかまれるのではなく、広いものに丸ごと持っていかれる感じだった。

 ぎゅっと固めていた身体が、ぶつかる先を失った。

 

 まだ柔らかい。

 あ、これ、ちゃんと止まれる。

 

 頭上の窓が、遠ざかる速さを落とした。

 頬を打っていた風も弱くなる。

 編み目の向こうに、わための手が見えた。

 右腕は伸びきらず、重さを受けて身体ごと少し沈んでいる。

 後ろの足は動いていない。

 あの手まで、はじめの重さが届いている。

 

「はい、足つくよ」

 

 靴の底に地面が戻った。

 包みがゆっくり開く。

 立ち上がると、背中に残っていた柔らかさも、するりと離れた。

 

「……すご。わためのオーラ、ふかふか」

「玄関から来てくれたら、もっと楽だったんだけどね」

「混んでた」

「うん、見えたよ」

 

 通用口が勢いよく開いた。

 飛び出しかけた男を、その脇にいたかなたが胸元でつかむ。

 出てきたところへ押し戻すと、向こうから二人分の悪態が上がった。

 扉を閉めた手で、こちらへ大きく手招きする。

 

「はい、二人とも出発!」

 

 わためは編みを手元へ戻し、荷台から降りた。

 はじめも隣へ走る。

 三人分の靴音が、すぐに揃った。

 

「かなたありがとう!さすが握力五十、助かるー」

「名前みたいに呼ばないで!」

『二人とも助かった。右、通りへ抜けて』

「わためも、ありがと!」

「はーい。ちゃんと受け取ったよ」

 

 荷捌き場を出る角で、背後の扉がまた開いた。

 はじめたちは、振り向く前に曲がった。

 

 表通りから、鋭い笛が聞こえた。

 

「銃を下ろしなさい! そこから先は、人がいます!」

 

 道の向こうで、制服の女性が腕を伸ばしていた。

 車道へ出かけた買い物客を手で止め、店先へ戻す。

 別の警官が、停めた車の脇からこちらを指した。

 

「キョーコ! 裏からも来る!」

「分かってる! 皆さん、店の中へ。窓には近づかないでください!」

 

 通りへ出た追手が、拳銃を持ったまま足を止めた。

 警官の手は、腰の銃に掛かっている。

 

「警察です!地面に置いて。ゆっくり!」

「そいつらが、うちに――」

「銃を置くのが先だろ! そこの三人も、止まりなさい!」

 

 はじめは、ほんの少し肩をすくめた。

 こっちも、だよね。そりゃそうだ。

 でも、いま足を止めたら、後ろの連中と一緒になる。

 

『追手は警察の前で止まってる。向かいへ渡って、薬局の脇へ。車は来てない』

 

 はじめが車道へ足を出した時、右の店先で長いケースが持ち上がった。

 白い髪の女の人だった。紙コップを持ったまま、ケースを片手で拾い、石の柱の裏へ一歩だけ入る。

 慌ててもいないし、何度も後ろを確かめてもいない。

 それで、追手の銃が向く先から、ちゃんと外れていた。

 

「そこの人も、もっと下がって!」

「はいはい、言われなくても下がってるよ。あと、お巡りさん。右の人も銃、出したからね」

 

 女の人が、紙コップを持った手で小さく示す。

 キョーコと呼ばれた警官の声が、すぐにそちらへ向いた。

 

「あなたも! 手を上げて、銃を離しなさい!」

「ほらね。言う相手、いっぱいいるじゃん」

 

 柱の陰から、女の人がもう半歩退いた。

 その目が、通りを渡るはじめへ向く。

 こちらも見ていたせいで、目が合った。

 

「ずいぶん人気者だねぇ」

「そういうのは要らない!」

 

 走ったまま返すと、柱の陰で、ははっと笑われた。

 

『……白い髪に、長いケース。獅白ぼたんだね。独立の賞金稼ぎ。こちらの協力者じゃないから、そのまま抜けて』

 

 ルイの声が入った。

 女の人は、ケースを開けなかった。

 追ってもこない。

 あの人の周りだけ、まだ普通の朝みたいだった。

 

「止まって! そこの――」

 

 警官の声を、角の壁が遮った。

 わための背中がすぐ前にあり、かなたが先の角をのぞいている。

 はじめは二人に続いて、もう一つ通りを折れた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 建物の陰へ入ると、銃も警官も見えなくなった。

 通りに背を向けた石壁と、閉まった店の裏口。

 はじめはその脇で足を止めた。

 今なら、走らずに話せる。

 

『表から追ってきてる人は、いま見えてない。長居はしないで』

 

 耳元でルイが言った。

 はじめは袖で頬をぬぐった。

 石の粉が付き、少しだけ赤い。

 そこで初めて、ぴりっとした痛みが追いついてきた。

 わためがこちらへ顔を寄せる。

 

「頬、切れてるよ」

「さっきの壁。ちょっとだけ。水、まだある?」

「あるよ。かなたんのところに二本」

「自分の分を飲んでよ。ちゃんと全員にあるから」

 

 そうだった。

 リュックの脇から、自分の水を抜いた。

 ひと口が冷たくて、思っていたより喉が乾いていたと分かる。

 蓋を締め、二人を見た。

 

「で、蝉は?」

「なかった」

 

 かなたの返事は、早かった。

 

「金庫番に開けさせて、中まで確かめた。蝉だけ、もう出したあと」

「……え。あんなに、通してくれなかったのに?」

「他の物は、ちゃんとあったよ」

「蝉を守っててよ」

「守ってるんだって。もっと安全なところで」

 

 かなたが、自分の携帯を取り出した。

 画面には、開いた帳面の写真が写っている。

 

《夜明けの蝉》。保護ケース一式。

 持出しの時刻は、九時四十分。

 

 その隣の受取人の欄を、かなたが指した。

 

「こいつが持ってる『あやめ』。凄腕の用心棒だって」

「この人が持ってるの?」

「うん。商会のボスの命令で、金庫番がケースごと渡した。本人がそう話してて、この引継ぎにも残ってた」

 

 九時四十分。

 はじめが、あの応接室へ入る前だ。

 二人に合図を送るより、さらに前。

 莉々華と話している間にはもう、目的のものは金庫にいなかった。

 

「逃げられたんじゃなくて、最初からいなかったんだ」

「わためたちが入ってきて、金庫番もびっくりしてたよ。渡したの、ついさっきだったって」

 

 かなたが画面を操作した。

 

「ルイちゃん、写真送るね」

『受け取った。行き先は聞けた?』

「そこは金庫番も知らないって。ボスに聞け、だってさ」

 

 はじめは自分の携帯を出した。九時五十三分。

 らでんから届いた写真を開くと、青い蝉が掌の上に載っていた。

 あの綺麗な翅を、誰かが今、ケースに入れて持ち歩いている。

 

「なんで、金庫からそいつに?」

 

 わためが、少し眉を下げた。

 

「『金庫より、その人に持たせる方が安全だから』って、金庫番がそう言ってた」

 

 はじめは画面から顔を上げた。

 分厚い扉に、鍵に、あれだけの人数。

 その全部より、一人。

 

「……そこまで言う?」

「僕も、聞き返したよ」

 

 かなたが携帯をしまった。

 その隣で、わためも水の蓋を締める。

 窓の下に、あの白い編みがあった感触を思い出した。

 飛べるところまで行けば、受けてもらえた。

 開けてほしい道は、かなたが開けてくれた。

 蝉はまだ取れていない。

 でも、どこから取り戻すのかは、さっきより分かっている。

 

「じゃ、その人から取り戻さなきゃ」

 

 はじめは水をリュックの脇へ戻し、二人の間へ足を出した。

 

 

 


 

 角巻わため(変化系能力者)

 

 桐生組の戦闘員で、仲間の救助と戦闘の補助を担う念能力者。

 相手の身体を傷つけずに支え、降ろすには、力だけでなく、荷重を受ける位置とオーラの配分を見極める技量が要る。

 

《やさしい檻(スイート・ホーム)》

 

【基本性能】

 変化系の能力。

 オーラを、縮れて絡み合う弾性繊維の性質に変える。

 手元から編み、毛布・網・帯・袋のような形へ広げる。

 押される方向には柔らかく沈み、引かれる方向には強い張力が働く。

 この性質を、受け止め・保持・防護・進路の誘導に使う。

 


 

 桐生ココ(操作系能力者)

 

 桐生組の組長。本人の身体能力と基礎念、実戦経験も高い。

 契約を交わしていない相手との戦いでも、その強さは失われない。

 

 《⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎》

 

【基本性能】

 操作系 要請・半強制型の能力

 盃を交わす契約によって、身体の一部の自(・)由(・)を担保として預かる。

 取り決めが履行されなかった場合、相手は事前に指定されたペナルティを受ける。

 ペナルティを受けてなお72時間以内に契約が履行されない場合、盃の重みに応じたケ(・)ジ(・)メ(・)が執行される。

 


 

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  • 冒頭1〜3話
  • ハンター試験・裏試験編
  • 発の習得編
  • 事件録に入ってから
  • まだ判断中
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