儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第三話 無限は二十メートル

「門の手前までは、戻れますね」

 

 そぴあが言った。

 次の発動に入る前、二人は月の裏の足場に身体を固定して記録を照らした。

 四百九十六秒が満ちてから、そぴあは同じ九項目を選び直す。

 試験球は、月の脇を回って、向こうの踏み出し台へ着いていた。

 

 そのすぐ奥で、帰り道が外れかけている。

 

「月の引き方も、受ける床も、いまは同じ。その先は、別に調べる」

「では、門の前まで」

 

 らでんは、腰の命綱を滑車へつなぎ直した。

 銀の鳥を見るために落ちてきた道を、今度は、鳥へ背を向けて戻る。

 

 最初の一歩だけ、少し違う方向へ。

 月から離れて、引かれて、向こう側へ。

 

 受け台の縁に靴底が触れた。

 手すりを掴む。

 赤い綿ひもが、腕を伸ばせば届きそうなところにあった。

 

 自分で結んだ、二つの輪。

 門柱の傷も、ひもの端のほつれも変わっていない。

 

 けれど、その向こうにあるはずの白い道が、なかった。

 

 黒い隙間の奥に、灰色の床が見えている。

 背の低い四角い柱が、いくつも並ぶ部屋だった。

 

「……知らないところへ、つながってます」

 

 らでんは、門へ足を出さずに言った。

 

 あとから戻ったそぴあも、手すりへ命綱を留めた。

 観測儀の環が、門の縁に沿って傾く。

 

「カメラを先に回しますか」

 

 点検棒へ小型カメラを固定する。

 落とさないよう線を留め、門の内側へ、ほんの少しだけ差し出した。

 

 画面には、灰色の床。

 小さな柱。その先の壁。

 

 五十二メートルの白い道でも、三角の剝げた操作盤でもない。

 棒を引けば、カメラは二人の手元へ戻ってきた。

 

「映像だけが、別の場所を見せられている可能性は?」

「残る。だから、向こうへは乗らない」

 

 そぴあは同じ棒から重りを下げ、見えている床の手前まで送った。

 重りの先が、小さく跳ねた。

 糸がたるむ。

 

「そこに、何かを支える面はある。でも、元の道との位置関係は取れない」

 

 立ち位置を変えて測る。

 門を斜めから覗き、最初の継ぎ目へ戻る。

 

 灰色の部屋は、灰色の部屋のままだった。

 

 鳥のときは、目を戻せば、同じ形へ戻った。

 ここでは、何度立ち直しても、帰り道だけが戻ってこない。

 

 らでんは写真の中の門へ、指を重ねた。

 

「この門は、間違いなく同じものです」

「うん」

「同じ扉だから、同じ部屋へ出る。そこが、なくなったんですね」

 

 そぴあは頷き、点検棒を引いた。

 

「帰り道としては、もう使えない。少なくとも、いま確認できる経路では」

 

 赤い綿ひもが、静かに垂れている。

 

 目印は、働いていた。

 ここが来た門だと、きちんと教えてくれる。

 

 ただ、帰る場所までは、留めておいてくれなかった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 二人はもう一度、月の脇を回った。

 安全を確かめた受け台まで戻り、今度は、その奥にある案内へ向かう。

 

 らでんは古い文字を、灯りで斜めに照らした。

 

 順路。

 観測席。

 終端――復帰。

 

「最初の盤にも、ありましたね。帰る操作は、終端で」

「レイトンの記録も、そこまでは同じ」

 

 終端到達。帰還経路確認。

 

 ただ一人、帰ってきた男の短い報告を、らでんは思い出した。

 ここから先の何を知っていて、あれだけで済ませたのだろう。

 

「知らない部屋へ賭けるより、帰還設備のある方へ行こう」

「ええ。帰るために、先へ」

 

 らでんは案内を撮った。

 滑車から命綱を外し、巻いたロープを鞄へ収める。

 そぴあも持参の留め具を回収した。

 

 振り返ると、銀の部材があった。

 この高さからは、翼も胸もつながらない。

 

 低くしゃがめば、きっとまだ、鳥になる。

 

 その場所へ戻る代わりに、そぴあと並んで歩き出した。

 

 受け台から続く短い通路の先で、星空が、白い柱に区切られた。

 

 門があった。

 

 その奥にも、門。

 さらに奥にも、その奥にも。

 

 白い縁を持つ門が、小さく、小さく重なっている。

 真ん中に空いた四角を覗くたび、その向こうへ、次の四角があった。

 

 道の両脇には、腰ほどの手すりが続いていた。

 足元の床は、二人が余裕を持って並べる幅がある。

 

 なのに、正面だけを見ると、はるか遠くに吸い込まれそうだった。

 

「……今度は、ずいぶん長い廊下ですねぇ」

 

 らでんが言うと、そぴあは返事をしなかった。

 門の奥を見ている。

 いつの間にか、少し前のめりになっていた。

 

「そぴあさん?」

「待って。あれ」

 

 彼女が指した先を追った。

 数えきれない白い四角の奥に、薄い弧がある。

 

 ”《万象観測器》”の円だった。

 

 半径二十八メートル。

 さっきまで月と足場を包んでいた、変わらない物差し。

 

 その縁が、果てしなく遠く見える門の列を越えていた。

 

「……届いてる。円が地(・)平(・)線(・)の(・)彼(・)方(・)まで」

 

 そぴあが、小さく言った。

 

 らでんは、目の前の廊下と、肩のそばの観測儀を交互に見た。

 

「……伸ばしてませんよね?」

「伸ばせない。二十八は、二十八です。考えられるのは、二十八の中に無(・)限(・)が内包されている可能性があること」

「……無限が有限の中に?ですか?」

「観測器はそういってるので」

 

 そぴあは、門の列の奥にある、細い真鍮色の横線を示した。

 手すりの一部らしかった。

 遠すぎて細いのだと、らでんは思っていた。

 

「あそこまで、二十メートルくらい」

「二十」

「うん」

 

 もう一度、門を見た。

 

 近いものだけ数えても、ずいぶんある。

 その向こうは細かな縞になり、縞の向こうにも、まだ白い縁が重なっている。

 

「その間に、全部?」

「全部かどうかは、まだ。でも、あの手すりは円の中にある」

 

 らでんは口を閉じた。

 

 はるか遠くにあるはずのものを、そぴあの円が、包んでいた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 最初の門には、石の柱があった。

 らでんは、その内側を覗き込む。

 

 柱の縁に、小さな門の飾りが彫られていた。

 それと同じ輪郭が、光の像となって奥へ繰り返されている。

 

 白い柱だと思ったものの一つへ、点検棒を差し出した。

 

 棒は、通り抜けた。

 

「扉を、順番に開けるわけではなさそうです」

「よかった。一枚ずつだったら、かなり困る」

 

 そぴあは、足元へ目を落とした。

 見かけの門が小さくなっていくのとは別に、左右の手すりと床は、同じ幅で先へ続いている。

 

 らでんもその違いを見た。

 正面の四角ばかり追っていると、廊下全体が細くなるように感じる。

 けれど、手すりを目で辿れば、人の通るところは狭まっていない。

 

「私たちまで、小さくなる必要はないんですね」

「少なくとも、ここは。床の幅は三メートル。先も同じ」

 

 らでんは、最初の門飾りへ灯りを向けた。

 

 右肩の線が、一か所だけ、わずかにへこんでいる。

 

 あの鳥の翼にも、こんな引っかかりがあった。

 手帳へ位置を写してから、次の像を見る。

 

 次にも、同じへこみ。

 ただし、その幅まで小さくなっていた。

 

「門だけじゃない。飾りも、そっくり縮めてある」

「え、遠いから小さく見えるだけじゃなく?」

「ええ。こちらの彫り込みと、その奥の像。線の太さまで一緒に」

 

 らでんが指すと、そぴあは横へ移り、像の重なりを確かめた。

 手帳へ、短い線を三つ引く。

 

「ここを始まりにすると、最初の像まで十メートル。次までは五メートル。その次は、二・五」

「半分ずつ?」

「うん。奥ほど、間隔も狭くなる」

 

 近いところでは、一本ずつ見分けられる。

 先へ行くほど、白い縁が密になる。

 

 門が増えたぶんだけ、道が延びているのではない。

 同じ場所へ、もっと細かく詰まっていく。

 

 らでんは、その見え方に覚えがあった。

 

「……魚の版画だ」

「魚? それ、どんな絵?」

「《四角い海》という版画を見たことがあります。正方形の中を、魚が隙間なく埋めているんです」

 

 手帳に、四角を一つ描いた。

 中へ、大きな魚を一匹。

 その隣へ、小さな魚。

 

「端へ行くほど、魚が小さくなる。小さい魚の隙間を、もっと小さい魚が埋めていく。どこまでも、その続きを描けるような絵でした」

「紙は、広がらないまま?」

「そう。魚が続くからといって、額縁がどんどん遠ざかるわけではないんですね」

 

 そぴあの目が、白い門へ戻った。

 

「あ、そっか。門の数を、廊下の長さに見せてるんだ」

「ええ。私も、さっきまで数えようとしてました」

 

 らでんは、果てしなく見える廊下へ目を戻した。

 

「遠近法には、ずいぶんお世話になっているつもりだったんですが」

「普段、信じてる見え方ほど引っかかるね」

 

 そぴあは手帳から、白紙を一枚切り離した。

 撮影用の定規を添えて、二十センチの長さを取る。

 

「これ、廊下にしよう」

「今度は、廊下までお持ち帰りですか」

「この大きさならね」

 

 左端に小さな門を描く。

 右端には、真鍮の手すりの代わりに、一本の太い線。

 

 紙を半分に折って、開いた。

 

「最初が、ここ」

 

 真ん中の折り目。

 左端から十センチ。

 

「次は、残った右半分の、その半分」

 

 また折る。

 さっきの折り目から、五センチ。

 

「その次も、残りの半分」

 

 さらに、二・五センチ。

 

 紙を広げると、折り目が右端へ寄っていた。

 一つ増えるたび、次に折るところが細くなる。

 

「ほら。目の前の廊下と、同じでしょ」

 

 らでんは紙を受け取った。

 白い門の列と、白い紙の折り目。

 

 その右端へ、親指を置く。

 

「まだ折り目は増やせる。でも、紙はここまでしかない」

「うん。この半分ずつが続くならね」

「……そうか」

 

 折り目の数を気にしている間は、終わらない。

 けれど、親指はもう、その全部を収める紙の端に触れている。

 

 らでんは、廊下の奥を見た。

 いまも門は、数えきれないほどある。

 

 でも、その見え方は、少し変わっていた。

 

 果てしない道ではない。

 紙の端へ詰め込まれた、折り目の列だ。

 

「最後の門は、どれになるんでしょう」

「その規則をどこまでも続けるなら、『最後の一枚』はない。でも、門が集まっていく場所は決まる」

 

 そぴあが紙の右端を指した。

 

「ここ。折り目を何回増やしても、これより向こうへは行かない」

 

 手帳に、一行だけ書く。

 

 10+5+2.5+……=20

 

「こっちは、半分ずつが続いたときの長さ。実際の廊下もそうなってるか、別に確かめよう」

「ええ。でも、やることは分かりました」

 

 らでんは紙の上へ、人差し指を置いた。

 左端から右端へ、すっと滑らせる。

 

 全部の折り目の名前を言わなくても、指は端へ着いた。

 

「門を数えるのを、やめればいい」

 

 そぴあが笑った。

 

「そう。歩幅まで、半分にしなくていい」

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 糸をつけた試験球が、床を転がった。

 

 最初の門の像を通る。

 その先の門を通る。

 

 途中から、妙に速くなったように見えた。

 白い縁を、次々と追い越していく。

 

「速くなった?」

「ううん。床に対する速さは、むしろ少し落ちてる。通り過ぎる印の方が、増えてるだけ」

 

 球が、小さな光のかたまりへ入った。

 

 そして、その向こうへ出た。

 

 こつん。

 

 真鍮の手すりの根元で、止まる音がした。

 

 そぴあは、繰り出した糸の長さと観測値を確かめた。

 球は小さくなっていない。床へ支えられたまま、門の像が終わるところを越えている。

 

「……通れた」

 

 その声に、らでんの頬が緩んだ。

 

 遠い星だと思ったものが、手の届く場所にあったときに似ていた。

 まだ自分はそこへ行っていない。

 けれど、行けるということが、体の方にも伝わってくる。

 

「床は、あそこまでつながってる。門に見える白い縁は、途中を塞いでない」

「一枚ごとに立ち止まる必要も、ない」

「ないです」

 

 そぴあが球を回収した。

 らでんは光の層から少し目を外し、足元を見た。

 

 自分の靴。

 その先の、平らな石。

 

 見える四角の大きさがどう変わっても、こちらの一歩まで勝手に短くなるわけではない。

 

「では、あの手すりまで」

「うん。縁の数じゃなくて、床を見て」

 

 最初の数歩は、並んで歩いた。

 靴底の感触は変わらない。

 

 らでんが歩調を速めると、そぴあも隣で頷いた。

 

 走り出す。

 

 最初の門の像が、頭上と脇を通り過ぎた。

 十メートル。

 

 次は、その半分。

 間を置かず、次。

 

 白い縁が、細い光となって後ろへ流れた。

 足は同じ調子で床を蹴っているのに、目の前の廊下だけが早送りになったようだった。

 

 柱、柱、柱。

 数える声より先に、次が来る。

 

「そのまま!」

 

 そぴあの声。

 

 らでんは、正面の光へ飛び込んだ。

 

 何十枚もの白い紙を、一瞬でめくるように。

 細い縞が視界を走り、鞄の脇を、肩を、髪の先を、次々と追い越していく。

 

 そして、ほどけた。

 

 白い門が、なくなった。

 

 普通の床があった。

 低い手すりがあり、その奥には壁がある。

 

 らでんは足を緩めた。

 そぴあも、すぐ隣へ止まる。

 

 振り返った。

 

 門は、まだそこにあった。

 向こう側では遠く見えた縞模様が、いまは足元に近い、薄い光の層になっている。

 

 最後の門がどれだったかは、分からなかった。

 

 けれど、門のない場所には、着いていた。

 

「……抜けた」

 

 らでんは、手すりへ掌を置いた。

 球がぶつかったのと同じ、冷たい真鍮だった。

 

「二十メートル」

 

 そぴあが言った。

 

「ただいま、無限を走り抜けたところなんですけど」

「うん。二十メートル」

「そこ、もう少し感動を分けていただけませんかねぇ」

 

 そぴあは手帳を開いた。

 何かを書きかけて、口元を押さえる。

 

「……無限、二十メートル。走破」

 

 らでんは、声を出して笑った。

 

「採用で」

 

 その紙に記録されるのが、少し嬉しかった。

 

 帰れないかもしれない場所で、帰るために走った。

 それだけだったはずなのに。

 

 門を越えた瞬間の、白い光がまだ目に残っている。

 隣でも同じものが残っているらしく、そぴあはもう一度、肩越しに廊下を見た。

 

「これ、説明を聞いてからでも、びっくりするね」

「知っていても、足がついていきませんでしたよ」

「足は、ちゃんとついてきた。目の方」

「では、目を置いてきかけました」

「拾って帰らないと」

 

 らでんが笑いかけたとき、手すりの奥で、小さく音がした。

 

 こつん。

 

 そぴあの手が、すぐに止まる。

 

 遠くの入口が、一度だけ二重になった。

 白い門の像はそのままで、最初に通った石の柱だけが、重なり損ねた写真のようにずれる。

 

 らでんは、踏み出しかけていた足を止めた。

 

 そぴあがその位置を測り直し、時刻を記録する。

 

「今度も、戻りきってない」

「……先ほどの月のところと?」

「似てる。こっちの床は同じなのに、入口との対応が違う」

 

 そぴあは、通ってきた廊下を見つめていた。

 らでんも、白い門を見た。

 

 さっき分かったばかりの場所が、壊れかけている。

 

「記録、残せてよかったですね」

 

 らでんが言うと、そぴあは一度だけ頷いた。

 

「うん。持って帰ろう」

 

 手帳を閉じて、二人は先へ向き直った。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 廊下を出たところは、小さな観測席になっていた。

 足場の確認を終えてから、そぴあは記録を残す。

 環が消えたのは、その記録を照らしている間だった。

 新しい測定がない間は、残した値と目の前の図を比べる。

 

 窓はない。

 壁に大きな図があり、その下へ、腰ほどの台が据えられている。

 表面には、古い観測表が透明な板で押さえられていた。

 

 数字と、細い線。

 ところどころに、星に似た印。

 

 らでんは、まず台の縁を見た。

 次の区画へ向かう矢印がある。

 その脇に、復帰系を示す印が続いていた。

 

「こちらにも、帰りの案内があります」

「読める?」

「『基準は原図に従う』。……その原図が、これでしょうか」

 

 図の下半分には、新しい説明板が重ねてある。

 取付ねじの形も、表面の傷み方も違っていた。

 

 らでんは、覆われていない端へ灯りを当てた。

 

 人の横顔に似た、小さな記号がある。

 その目のところから、線が伸びていた。

 

「そぴあさん。これ、星を示す印ですか?」

 

 そぴあが身を寄せた。

 数字を一つ読み、隣の欄と見比べる。

 

「星の観測も入ってる。でも、これだけじゃない。人が立った場所と、目の高さが書いてある」

 

 らでんは、図の端を目で追った。

 

 同じ横顔が、二つ。

 一つは、高い位置。

 もう一つは、低い位置。

 

 それぞれの目から伸びる線が、違う場所で途切れていた。

 

「立って見るのと、しゃがんで見るのと」

「うん。こっちの線は、途中で何かに遮られてる」

 

 そぴあは透明板へ触れず、その上に指を浮かせた。

 目の印から、ぎざぎざした線へ。

 

「これが邪魔して、その向こうが見えない。だから、見る位置を変えてる」

「鳥のときみたいに」

「似てる。けど、鳥の部品の置き方だけなら、この数字はいらない」

 

 らでんは、ぎざぎざした線を見つめた。

 

 飾りにしては、不揃いだった。

 角が丸いところもあれば、妙に細かく折れるところもある。

 

 その一か所に、目が止まった。

 

 なめらかにつなげてもよさそうな線が、ほんの少しだけ、内側へ落ち込んでいる。

 

「……また、これだ」

 

 手帳を開いた。

 

 台座で見た、整った線へ欠けを足す手。

 鳥の翼。

 さっきの門飾り。

 

 大きさも、向きも違う。

 けれど、見ていると、同じところで指が止まる。

 

 そぴあが、鳥を撮った画面を開いた。

 らでんは門の輪郭を描いた紙を、その隣へ置く。

 

「同じ欠けを、好きで入れてるんでしょうか」

「署名みたいに?」

「その可能性もあります。ただ……」

 

 らでんは、三つの形の間で指を止めた。

 

 署名なら、目立つ場所へ、同じ大きさで置いてもいい。

 この欠けは、どれも、それぞれの輪郭の中へ紛れている。

 鳥なら翼。門なら肩。そして、この図では、ぎざぎざした線の一部。

 

「別々に思いついた飾りより、同じ何かを、違う形で描いたようにも見えます」

 

 そぴあは、すぐには頷かなかった。

 図の線の向きを写し、写真の角度を少し変えて見る。

 

「比べるなら、向きと縮尺を戻したいね。鳥は、見てた位置も必要だし」

「それは、記録にありますね」

「うん。あってよかった」

 

 さっきまでは、鳥が現れるところを持って帰りたかった。

 そのために撮った記録が、いまは、この図の読み方へつながりかけている。

 

 らでんは、手帳をそぴあへ少し寄せた。

 

 そぴあの指が、紙の上を辿る。

 門のへこみ。鳥の翼。図の線。

 

 その先に、一本だけ違う方向へ伸びる線があった。

 

 ほかの線は、どこかの点や輪郭へ届いている。

 それだけは、いま見ているまとまりを離れ、図の外縁へ向かっていた。

 

「こっちは?」

 

 らでんが尋ねた。

 

「まだ分からない。先の対応が取れてない」

 

 そぴあは、その線も含めて撮った。

 都合の悪いところを、図から外すことはしなかった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 らでんは、もう一度、図全体を見た。

 

 壁一面の線は、最初、星座のように見えていた。

 点と点を結んだもの。空にあるものへ、名前をつけるための図。

 

 でも、小さな横顔を見つけてから、印象が変わっている。

 

 ここに、人が立っている。

 ここから、何かを見ている。

 

 何を?

 

 らでんは、手帳の白い紙を折った。

 さっき廊下にした紙の、余白の方だ。

 

 図の上半分を、そっと隠してみる。

 原物へは触れず、目の前へ紙をかざすだけ。

 

 星に見えた点を隠すと、その下にある、不揃いな線が残った。

 

 らでんは紙を下ろした。

 

「この線、下にあるものじゃありませんか」

「下?」

「空の点を結んだんじゃなくて。人が立つ場所から見た、地面の形」

 

 そぴあが図へ目を戻す。

 

「……待って」

 

 観測表の一つを読み直した。

 隣の列。図の目印。もう一度、数字。

 

「この高さ、星の高度だけじゃない。観測地点を変えたときの、地表との関係を残してる」

 

 らでんは、図の隅へ視線を動かした。

 

 新しい説明板の端に、隠れかけた小さな輪郭がある。

 湾のようなくぼみ。

 そこから伸びる、二つに分かれた岬。

 

 見覚えがあった。

 

 旅先で買ったり、協会の資料でも、何(・)度(・)も(・)見(・)て(・)き(・)た(・)。

 見慣れすぎて、形として意識しなくなっていた輪郭だった。

 

 なのに、この図では、片隅に小さく収まっている。

 

 らでんは、自分の親指をその前へ立てた。

 知っている大陸の一部が、指に隠れた。

 壁の残りは、ほとんど隠れなかった。

 

「そぴあさん」

 

 声が、少しだけ低くなった。

 

 そぴあも、その小さな輪郭を見ている。

 

「……見覚え、あるよね」

「ええ」

 

 らでんは親指を下ろした。

 

 この一致だけで、本物だと決めることはできない。

 架空の土地を、知っている場所につないで描いた絵だってある。

 

 それでも。

 

 立つ場所。

 目の高さ。

 視界を遮る線。

 

 あの鳥の欠け。

 

 誰かが、何かを見ていた。

 それを別の人にも見せるために、目を置く場所まで残した。

 

 らでんは、壁一面の図を見上げた。

 

「これ……星図じゃなくて、私(・)た(・)ち(・)の(・)世(・)界(・)の(・)地(・)図(・)じゃない?」

 

 そぴあの指が、知っている海岸の先へ動いた。

 細い線が、そこから外へ伸びている。

 

 その先には、二人が通ってきた作品の中で、何度も見た、あの小さな欠けがあった。

 




今回、らでんが思い出した版画《四角い海》のイメージは、M. C. Escher(M. C. エッシャー)の《Square Limit》(1964年)を参考にしています。

一枚の正方形の中に、小さな形が次々と組み合わされていく作品です。
「図柄の続きをどこまでも考えられること」と「それらを収める紙の大きさ」を、一緒に想像する手掛かりにしました。
作中の《四角い海》という題名は架空のもので、原作品の正式な邦題ではありません。

また、この中編で「普段とは違う空間を、どうすれば目で見て理解できるか」を考えるうえで、数学映像作品『Dimensions』の公式解説も参考にしています。
制作は、Jos Leys、Étienne Ghys、Aurélien Alvarezの三氏です。

特に、平面の世界に住む生き物へ立体を伝えるところから、私たちが高次元の形を考えるところへ進む第2章、第3・4章の解説を参照しました。

数学や美術の構造を、知識として説明するだけでなく、「見て驚き、自分でも考えたくなるもの」として伝えてくださる仕事に、敬意と感謝を込めて紹介します。原作品も、ぜひご覧になってみてください。

なお、作中の回廊、紙を使った実験、念による空間の仕掛けは、本作のために組み立てたものです。
《Square Limit》や『Dimensions』に、同じ廊下や「二十メートルを走る場面」があるわけではありません。

【参考作品・公式解説】

M. C. Escher《Square Limit》(1964)
National Gallery of Art・作品情報
https://www.nga.gov/artworks/135604-square-limit

『Dimensions』公式サイト(日本語)
https://www.dimensions-math.org/Dim_JP.htm

第2章・日本語解説
https://www.dimensions-math.org/Dim_CH2_JP.htm

第3・4章・日本語解説
https://www.dimensions-math.org/Dim_CH3_JP.htm

制作者・クレジット(英語)
https://www.dimensions-math.org/Dim_merci_E.htm
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