「門の手前までは、戻れますね」
そぴあが言った。
次の発動に入る前、二人は月の裏の足場に身体を固定して記録を照らした。
四百九十六秒が満ちてから、そぴあは同じ九項目を選び直す。
試験球は、月の脇を回って、向こうの踏み出し台へ着いていた。
そのすぐ奥で、帰り道が外れかけている。
「月の引き方も、受ける床も、いまは同じ。その先は、別に調べる」
「では、門の前まで」
らでんは、腰の命綱を滑車へつなぎ直した。
銀の鳥を見るために落ちてきた道を、今度は、鳥へ背を向けて戻る。
最初の一歩だけ、少し違う方向へ。
月から離れて、引かれて、向こう側へ。
受け台の縁に靴底が触れた。
手すりを掴む。
赤い綿ひもが、腕を伸ばせば届きそうなところにあった。
自分で結んだ、二つの輪。
門柱の傷も、ひもの端のほつれも変わっていない。
けれど、その向こうにあるはずの白い道が、なかった。
黒い隙間の奥に、灰色の床が見えている。
背の低い四角い柱が、いくつも並ぶ部屋だった。
「……知らないところへ、つながってます」
らでんは、門へ足を出さずに言った。
あとから戻ったそぴあも、手すりへ命綱を留めた。
観測儀の環が、門の縁に沿って傾く。
「カメラを先に回しますか」
点検棒へ小型カメラを固定する。
落とさないよう線を留め、門の内側へ、ほんの少しだけ差し出した。
画面には、灰色の床。
小さな柱。その先の壁。
五十二メートルの白い道でも、三角の剝げた操作盤でもない。
棒を引けば、カメラは二人の手元へ戻ってきた。
「映像だけが、別の場所を見せられている可能性は?」
「残る。だから、向こうへは乗らない」
そぴあは同じ棒から重りを下げ、見えている床の手前まで送った。
重りの先が、小さく跳ねた。
糸がたるむ。
「そこに、何かを支える面はある。でも、元の道との位置関係は取れない」
立ち位置を変えて測る。
門を斜めから覗き、最初の継ぎ目へ戻る。
灰色の部屋は、灰色の部屋のままだった。
鳥のときは、目を戻せば、同じ形へ戻った。
ここでは、何度立ち直しても、帰り道だけが戻ってこない。
らでんは写真の中の門へ、指を重ねた。
「この門は、間違いなく同じものです」
「うん」
「同じ扉だから、同じ部屋へ出る。そこが、なくなったんですね」
そぴあは頷き、点検棒を引いた。
「帰り道としては、もう使えない。少なくとも、いま確認できる経路では」
赤い綿ひもが、静かに垂れている。
目印は、働いていた。
ここが来た門だと、きちんと教えてくれる。
ただ、帰る場所までは、留めておいてくれなかった。
◇ ◇ ◇
二人はもう一度、月の脇を回った。
安全を確かめた受け台まで戻り、今度は、その奥にある案内へ向かう。
らでんは古い文字を、灯りで斜めに照らした。
順路。
観測席。
終端――復帰。
「最初の盤にも、ありましたね。帰る操作は、終端で」
「レイトンの記録も、そこまでは同じ」
終端到達。帰還経路確認。
ただ一人、帰ってきた男の短い報告を、らでんは思い出した。
ここから先の何を知っていて、あれだけで済ませたのだろう。
「知らない部屋へ賭けるより、帰還設備のある方へ行こう」
「ええ。帰るために、先へ」
らでんは案内を撮った。
滑車から命綱を外し、巻いたロープを鞄へ収める。
そぴあも持参の留め具を回収した。
振り返ると、銀の部材があった。
この高さからは、翼も胸もつながらない。
低くしゃがめば、きっとまだ、鳥になる。
その場所へ戻る代わりに、そぴあと並んで歩き出した。
受け台から続く短い通路の先で、星空が、白い柱に区切られた。
門があった。
その奥にも、門。
さらに奥にも、その奥にも。
白い縁を持つ門が、小さく、小さく重なっている。
真ん中に空いた四角を覗くたび、その向こうへ、次の四角があった。
道の両脇には、腰ほどの手すりが続いていた。
足元の床は、二人が余裕を持って並べる幅がある。
なのに、正面だけを見ると、はるか遠くに吸い込まれそうだった。
「……今度は、ずいぶん長い廊下ですねぇ」
らでんが言うと、そぴあは返事をしなかった。
門の奥を見ている。
いつの間にか、少し前のめりになっていた。
「そぴあさん?」
「待って。あれ」
彼女が指した先を追った。
数えきれない白い四角の奥に、薄い弧がある。
”《万象観測器》”の円だった。
半径二十八メートル。
さっきまで月と足場を包んでいた、変わらない物差し。
その縁が、果てしなく遠く見える門の列を越えていた。
「……届いてる。円が
そぴあが、小さく言った。
らでんは、目の前の廊下と、肩のそばの観測儀を交互に見た。
「……伸ばしてませんよね?」
「伸ばせない。二十八は、二十八です。考えられるのは、二十八の中に
「……無限が有限の中に?ですか?」
「観測器はそういってるので」
そぴあは、門の列の奥にある、細い真鍮色の横線を示した。
手すりの一部らしかった。
遠すぎて細いのだと、らでんは思っていた。
「あそこまで、二十メートルくらい」
「二十」
「うん」
もう一度、門を見た。
近いものだけ数えても、ずいぶんある。
その向こうは細かな縞になり、縞の向こうにも、まだ白い縁が重なっている。
「その間に、全部?」
「全部かどうかは、まだ。でも、あの手すりは円の中にある」
らでんは口を閉じた。
はるか遠くにあるはずのものを、そぴあの円が、包んでいた。
◇ ◇ ◇
最初の門には、石の柱があった。
らでんは、その内側を覗き込む。
柱の縁に、小さな門の飾りが彫られていた。
それと同じ輪郭が、光の像となって奥へ繰り返されている。
白い柱だと思ったものの一つへ、点検棒を差し出した。
棒は、通り抜けた。
「扉を、順番に開けるわけではなさそうです」
「よかった。一枚ずつだったら、かなり困る」
そぴあは、足元へ目を落とした。
見かけの門が小さくなっていくのとは別に、左右の手すりと床は、同じ幅で先へ続いている。
らでんもその違いを見た。
正面の四角ばかり追っていると、廊下全体が細くなるように感じる。
けれど、手すりを目で辿れば、人の通るところは狭まっていない。
「私たちまで、小さくなる必要はないんですね」
「少なくとも、ここは。床の幅は三メートル。先も同じ」
らでんは、最初の門飾りへ灯りを向けた。
右肩の線が、一か所だけ、わずかにへこんでいる。
あの鳥の翼にも、こんな引っかかりがあった。
手帳へ位置を写してから、次の像を見る。
次にも、同じへこみ。
ただし、その幅まで小さくなっていた。
「門だけじゃない。飾りも、そっくり縮めてある」
「え、遠いから小さく見えるだけじゃなく?」
「ええ。こちらの彫り込みと、その奥の像。線の太さまで一緒に」
らでんが指すと、そぴあは横へ移り、像の重なりを確かめた。
手帳へ、短い線を三つ引く。
「ここを始まりにすると、最初の像まで十メートル。次までは五メートル。その次は、二・五」
「半分ずつ?」
「うん。奥ほど、間隔も狭くなる」
近いところでは、一本ずつ見分けられる。
先へ行くほど、白い縁が密になる。
門が増えたぶんだけ、道が延びているのではない。
同じ場所へ、もっと細かく詰まっていく。
らでんは、その見え方に覚えがあった。
「……魚の版画だ」
「魚? それ、どんな絵?」
「《四角い海》という版画を見たことがあります。正方形の中を、魚が隙間なく埋めているんです」
手帳に、四角を一つ描いた。
中へ、大きな魚を一匹。
その隣へ、小さな魚。
「端へ行くほど、魚が小さくなる。小さい魚の隙間を、もっと小さい魚が埋めていく。どこまでも、その続きを描けるような絵でした」
「紙は、広がらないまま?」
「そう。魚が続くからといって、額縁がどんどん遠ざかるわけではないんですね」
そぴあの目が、白い門へ戻った。
「あ、そっか。門の数を、廊下の長さに見せてるんだ」
「ええ。私も、さっきまで数えようとしてました」
らでんは、果てしなく見える廊下へ目を戻した。
「遠近法には、ずいぶんお世話になっているつもりだったんですが」
「普段、信じてる見え方ほど引っかかるね」
そぴあは手帳から、白紙を一枚切り離した。
撮影用の定規を添えて、二十センチの長さを取る。
「これ、廊下にしよう」
「今度は、廊下までお持ち帰りですか」
「この大きさならね」
左端に小さな門を描く。
右端には、真鍮の手すりの代わりに、一本の太い線。
紙を半分に折って、開いた。
「最初が、ここ」
真ん中の折り目。
左端から十センチ。
「次は、残った右半分の、その半分」
また折る。
さっきの折り目から、五センチ。
「その次も、残りの半分」
さらに、二・五センチ。
紙を広げると、折り目が右端へ寄っていた。
一つ増えるたび、次に折るところが細くなる。
「ほら。目の前の廊下と、同じでしょ」
らでんは紙を受け取った。
白い門の列と、白い紙の折り目。
その右端へ、親指を置く。
「まだ折り目は増やせる。でも、紙はここまでしかない」
「うん。この半分ずつが続くならね」
「……そうか」
折り目の数を気にしている間は、終わらない。
けれど、親指はもう、その全部を収める紙の端に触れている。
らでんは、廊下の奥を見た。
いまも門は、数えきれないほどある。
でも、その見え方は、少し変わっていた。
果てしない道ではない。
紙の端へ詰め込まれた、折り目の列だ。
「最後の門は、どれになるんでしょう」
「その規則をどこまでも続けるなら、『最後の一枚』はない。でも、門が集まっていく場所は決まる」
そぴあが紙の右端を指した。
「ここ。折り目を何回増やしても、これより向こうへは行かない」
手帳に、一行だけ書く。
10+5+2.5+……=20
「こっちは、半分ずつが続いたときの長さ。実際の廊下もそうなってるか、別に確かめよう」
「ええ。でも、やることは分かりました」
らでんは紙の上へ、人差し指を置いた。
左端から右端へ、すっと滑らせる。
全部の折り目の名前を言わなくても、指は端へ着いた。
「門を数えるのを、やめればいい」
そぴあが笑った。
「そう。歩幅まで、半分にしなくていい」
◇ ◇ ◇
糸をつけた試験球が、床を転がった。
最初の門の像を通る。
その先の門を通る。
途中から、妙に速くなったように見えた。
白い縁を、次々と追い越していく。
「速くなった?」
「ううん。床に対する速さは、むしろ少し落ちてる。通り過ぎる印の方が、増えてるだけ」
球が、小さな光のかたまりへ入った。
そして、その向こうへ出た。
こつん。
真鍮の手すりの根元で、止まる音がした。
そぴあは、繰り出した糸の長さと観測値を確かめた。
球は小さくなっていない。床へ支えられたまま、門の像が終わるところを越えている。
「……通れた」
その声に、らでんの頬が緩んだ。
遠い星だと思ったものが、手の届く場所にあったときに似ていた。
まだ自分はそこへ行っていない。
けれど、行けるということが、体の方にも伝わってくる。
「床は、あそこまでつながってる。門に見える白い縁は、途中を塞いでない」
「一枚ごとに立ち止まる必要も、ない」
「ないです」
そぴあが球を回収した。
らでんは光の層から少し目を外し、足元を見た。
自分の靴。
その先の、平らな石。
見える四角の大きさがどう変わっても、こちらの一歩まで勝手に短くなるわけではない。
「では、あの手すりまで」
「うん。縁の数じゃなくて、床を見て」
最初の数歩は、並んで歩いた。
靴底の感触は変わらない。
らでんが歩調を速めると、そぴあも隣で頷いた。
走り出す。
最初の門の像が、頭上と脇を通り過ぎた。
十メートル。
次は、その半分。
間を置かず、次。
白い縁が、細い光となって後ろへ流れた。
足は同じ調子で床を蹴っているのに、目の前の廊下だけが早送りになったようだった。
柱、柱、柱。
数える声より先に、次が来る。
「そのまま!」
そぴあの声。
らでんは、正面の光へ飛び込んだ。
何十枚もの白い紙を、一瞬でめくるように。
細い縞が視界を走り、鞄の脇を、肩を、髪の先を、次々と追い越していく。
そして、ほどけた。
白い門が、なくなった。
普通の床があった。
低い手すりがあり、その奥には壁がある。
らでんは足を緩めた。
そぴあも、すぐ隣へ止まる。
振り返った。
門は、まだそこにあった。
向こう側では遠く見えた縞模様が、いまは足元に近い、薄い光の層になっている。
最後の門がどれだったかは、分からなかった。
けれど、門のない場所には、着いていた。
「……抜けた」
らでんは、手すりへ掌を置いた。
球がぶつかったのと同じ、冷たい真鍮だった。
「二十メートル」
そぴあが言った。
「ただいま、無限を走り抜けたところなんですけど」
「うん。二十メートル」
「そこ、もう少し感動を分けていただけませんかねぇ」
そぴあは手帳を開いた。
何かを書きかけて、口元を押さえる。
「……無限、二十メートル。走破」
らでんは、声を出して笑った。
「採用で」
その紙に記録されるのが、少し嬉しかった。
帰れないかもしれない場所で、帰るために走った。
それだけだったはずなのに。
門を越えた瞬間の、白い光がまだ目に残っている。
隣でも同じものが残っているらしく、そぴあはもう一度、肩越しに廊下を見た。
「これ、説明を聞いてからでも、びっくりするね」
「知っていても、足がついていきませんでしたよ」
「足は、ちゃんとついてきた。目の方」
「では、目を置いてきかけました」
「拾って帰らないと」
らでんが笑いかけたとき、手すりの奥で、小さく音がした。
こつん。
そぴあの手が、すぐに止まる。
遠くの入口が、一度だけ二重になった。
白い門の像はそのままで、最初に通った石の柱だけが、重なり損ねた写真のようにずれる。
らでんは、踏み出しかけていた足を止めた。
そぴあがその位置を測り直し、時刻を記録する。
「今度も、戻りきってない」
「……先ほどの月のところと?」
「似てる。こっちの床は同じなのに、入口との対応が違う」
そぴあは、通ってきた廊下を見つめていた。
らでんも、白い門を見た。
さっき分かったばかりの場所が、壊れかけている。
「記録、残せてよかったですね」
らでんが言うと、そぴあは一度だけ頷いた。
「うん。持って帰ろう」
手帳を閉じて、二人は先へ向き直った。
◇ ◇ ◇
廊下を出たところは、小さな観測席になっていた。
足場の確認を終えてから、そぴあは記録を残す。
環が消えたのは、その記録を照らしている間だった。
新しい測定がない間は、残した値と目の前の図を比べる。
窓はない。
壁に大きな図があり、その下へ、腰ほどの台が据えられている。
表面には、古い観測表が透明な板で押さえられていた。
数字と、細い線。
ところどころに、星に似た印。
らでんは、まず台の縁を見た。
次の区画へ向かう矢印がある。
その脇に、復帰系を示す印が続いていた。
「こちらにも、帰りの案内があります」
「読める?」
「『基準は原図に従う』。……その原図が、これでしょうか」
図の下半分には、新しい説明板が重ねてある。
取付ねじの形も、表面の傷み方も違っていた。
らでんは、覆われていない端へ灯りを当てた。
人の横顔に似た、小さな記号がある。
その目のところから、線が伸びていた。
「そぴあさん。これ、星を示す印ですか?」
そぴあが身を寄せた。
数字を一つ読み、隣の欄と見比べる。
「星の観測も入ってる。でも、これだけじゃない。人が立った場所と、目の高さが書いてある」
らでんは、図の端を目で追った。
同じ横顔が、二つ。
一つは、高い位置。
もう一つは、低い位置。
それぞれの目から伸びる線が、違う場所で途切れていた。
「立って見るのと、しゃがんで見るのと」
「うん。こっちの線は、途中で何かに遮られてる」
そぴあは透明板へ触れず、その上に指を浮かせた。
目の印から、ぎざぎざした線へ。
「これが邪魔して、その向こうが見えない。だから、見る位置を変えてる」
「鳥のときみたいに」
「似てる。けど、鳥の部品の置き方だけなら、この数字はいらない」
らでんは、ぎざぎざした線を見つめた。
飾りにしては、不揃いだった。
角が丸いところもあれば、妙に細かく折れるところもある。
その一か所に、目が止まった。
なめらかにつなげてもよさそうな線が、ほんの少しだけ、内側へ落ち込んでいる。
「……また、これだ」
手帳を開いた。
台座で見た、整った線へ欠けを足す手。
鳥の翼。
さっきの門飾り。
大きさも、向きも違う。
けれど、見ていると、同じところで指が止まる。
そぴあが、鳥を撮った画面を開いた。
らでんは門の輪郭を描いた紙を、その隣へ置く。
「同じ欠けを、好きで入れてるんでしょうか」
「署名みたいに?」
「その可能性もあります。ただ……」
らでんは、三つの形の間で指を止めた。
署名なら、目立つ場所へ、同じ大きさで置いてもいい。
この欠けは、どれも、それぞれの輪郭の中へ紛れている。
鳥なら翼。門なら肩。そして、この図では、ぎざぎざした線の一部。
「別々に思いついた飾りより、同じ何かを、違う形で描いたようにも見えます」
そぴあは、すぐには頷かなかった。
図の線の向きを写し、写真の角度を少し変えて見る。
「比べるなら、向きと縮尺を戻したいね。鳥は、見てた位置も必要だし」
「それは、記録にありますね」
「うん。あってよかった」
さっきまでは、鳥が現れるところを持って帰りたかった。
そのために撮った記録が、いまは、この図の読み方へつながりかけている。
らでんは、手帳をそぴあへ少し寄せた。
そぴあの指が、紙の上を辿る。
門のへこみ。鳥の翼。図の線。
その先に、一本だけ違う方向へ伸びる線があった。
ほかの線は、どこかの点や輪郭へ届いている。
それだけは、いま見ているまとまりを離れ、図の外縁へ向かっていた。
「こっちは?」
らでんが尋ねた。
「まだ分からない。先の対応が取れてない」
そぴあは、その線も含めて撮った。
都合の悪いところを、図から外すことはしなかった。
◇ ◇ ◇
らでんは、もう一度、図全体を見た。
壁一面の線は、最初、星座のように見えていた。
点と点を結んだもの。空にあるものへ、名前をつけるための図。
でも、小さな横顔を見つけてから、印象が変わっている。
ここに、人が立っている。
ここから、何かを見ている。
何を?
らでんは、手帳の白い紙を折った。
さっき廊下にした紙の、余白の方だ。
図の上半分を、そっと隠してみる。
原物へは触れず、目の前へ紙をかざすだけ。
星に見えた点を隠すと、その下にある、不揃いな線が残った。
らでんは紙を下ろした。
「この線、下にあるものじゃありませんか」
「下?」
「空の点を結んだんじゃなくて。人が立つ場所から見た、地面の形」
そぴあが図へ目を戻す。
「……待って」
観測表の一つを読み直した。
隣の列。図の目印。もう一度、数字。
「この高さ、星の高度だけじゃない。観測地点を変えたときの、地表との関係を残してる」
らでんは、図の隅へ視線を動かした。
新しい説明板の端に、隠れかけた小さな輪郭がある。
湾のようなくぼみ。
そこから伸びる、二つに分かれた岬。
見覚えがあった。
旅先で買ったり、協会の資料でも、
見慣れすぎて、形として意識しなくなっていた輪郭だった。
なのに、この図では、片隅に小さく収まっている。
らでんは、自分の親指をその前へ立てた。
知っている大陸の一部が、指に隠れた。
壁の残りは、ほとんど隠れなかった。
「そぴあさん」
声が、少しだけ低くなった。
そぴあも、その小さな輪郭を見ている。
「……見覚え、あるよね」
「ええ」
らでんは親指を下ろした。
この一致だけで、本物だと決めることはできない。
架空の土地を、知っている場所につないで描いた絵だってある。
それでも。
立つ場所。
目の高さ。
視界を遮る線。
あの鳥の欠け。
誰かが、何かを見ていた。
それを別の人にも見せるために、目を置く場所まで残した。
らでんは、壁一面の図を見上げた。
「これ……星図じゃなくて、
そぴあの指が、知っている海岸の先へ動いた。
細い線が、そこから外へ伸びている。
その先には、二人が通ってきた作品の中で、何度も見た、あの小さな欠けがあった。
今回、らでんが思い出した版画《四角い海》のイメージは、M. C. Escher(M. C. エッシャー)の《Square Limit》(1964年)を参考にしています。
一枚の正方形の中に、小さな形が次々と組み合わされていく作品です。
「図柄の続きをどこまでも考えられること」と「それらを収める紙の大きさ」を、一緒に想像する手掛かりにしました。
作中の《四角い海》という題名は架空のもので、原作品の正式な邦題ではありません。
また、この中編で「普段とは違う空間を、どうすれば目で見て理解できるか」を考えるうえで、数学映像作品『Dimensions』の公式解説も参考にしています。
制作は、Jos Leys、Étienne Ghys、Aurélien Alvarezの三氏です。
特に、平面の世界に住む生き物へ立体を伝えるところから、私たちが高次元の形を考えるところへ進む第2章、第3・4章の解説を参照しました。
数学や美術の構造を、知識として説明するだけでなく、「見て驚き、自分でも考えたくなるもの」として伝えてくださる仕事に、敬意と感謝を込めて紹介します。原作品も、ぜひご覧になってみてください。
なお、作中の回廊、紙を使った実験、念による空間の仕掛けは、本作のために組み立てたものです。
《Square Limit》や『Dimensions』に、同じ廊下や「二十メートルを走る場面」があるわけではありません。
【参考作品・公式解説】
M. C. Escher《Square Limit》(1964)
National Gallery of Art・作品情報
https://www.nga.gov/artworks/135604-square-limit
『Dimensions』公式サイト(日本語)
https://www.dimensions-math.org/Dim_JP.htm
第2章・日本語解説
https://www.dimensions-math.org/Dim_CH2_JP.htm
第3・4章・日本語解説
https://www.dimensions-math.org/Dim_CH3_JP.htm
制作者・クレジット(英語)
https://www.dimensions-math.org/Dim_merci_E.htm