儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第四話 見えない方向

「……地図だったら、どこから見たかも、残してるはずだよね」

 

 そぴあの指が、壁の小さな横顔へ戻った。

 知っている海岸の先に伸びた線。その先の、見覚えのある欠け。

 

 らでんは、親指で隠せた大陸の形をもう一度見た。

 あの小さな部分だけが、本物の地理に似ている。

 残りも本物なのかは、まだ分からない。

 

 けれど、帰還設備の案内には、原図に従えとあった。

 

「鳥を見る場所が決まっていたように、帰るときも、どこへ目を置くかが大事なんでしょうか」

「ああ、それはありそう。まず、ここの目盛りを読めるようにしたいね」

 

 そぴあが示した数列は、後から重ねられた説明板の下へ消えていた。

 らでんは板の留め方を撮影し、その脇へ灯りを移す。

 

 細い矢印が、隣の開口へ続いている。

 その下に、二つの短い言葉があった。

 

「『断面』。こちらは、『送り』」

「帰りの装置と、同じ印がある」

 

 二人は図を撮った。

 そぴあが次に具現化すると、同じ九項目の計測が始まる。

 足元を確かめながら、隣へ移った。

 

 十二メートルほどの幅がある、低い天井の部屋だった。

 壁際には腰の高さの作業台。

 奥へ通じる保守用の足場には、細い手すりが続いている。

 

 中央の、何もない空中に、光が灯った。

 

 八メートルほど先。

 らでんの胸と同じ高さに、針の先ほどの白い点。

 

 それが、膨らんだ。

 

 真珠。拳。大きな西瓜。

 とうとう、両腕で抱えても手の届かない球になった。

 

 床へ近づいてきたわけではない。

 同じ場所で、大きくなっている。

 

 らでんが足を止めると、そぴあも手を上げた。

 

「待って。壁と床は、動いてない」

 

 《万象観測器》の薄い円が、部屋の先まで広がっていた。

 その輪郭は変わらない。

 白い球だけが、円の内側で育っている。

 

 直径が一メートルほどになったところで、動きが変わった。

 

 西瓜へ。

 拳へ。

 真珠へ。

 

 光が、なくなった。

 

「……いなくなりましたね」

「うん。……でも、いまの消え方、破裂じゃないよね」

 

 数息おいて、同じところへ白い点が現れた。

 また、大きくなる。

 

 二人は動いていない。

 鳥のときとは違って、見ているものの方が変わっていた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 入口脇の作業台に、小さな箱があった。

 正面も横も透明で、中に、林檎くらいの赤い球が入っている。

 

 その真ん中を、薄い青い光が水平に横切っていた。

 机を一枚、光だけで作って、箱の中へ差し込んだようだった。

 

 球が、ゆっくり下がる。

 

 青い面に触れたところが、白く光った。

 はじめは点。少し下がると、小さな丸。

 球の真ん中が通ると、大きな丸。

 

 そして、また小さくなる。

 

「あ。こっちにも」

 

 らでんは中央の大きな球と、箱の中を見比べた。

 どちらも、大きくなって、小さくなって、消える。

 

 ただし、透明な箱の中では、赤い球は消えていなかった。

 光の面を通り抜け、その下へ出ている。

 

「あ、こっちは全部見えてる」

 

 そぴあが言った。

 箱の下には送り用の把手があり、その動きに合わせて、赤い球と部屋の白い球が変化していた。

 

 らでんは、把手を途中で留めるための爪を見つけた。

 操作の跡を確かめてから、そぴあと頷き合う。

 

 爪を掛けると、赤い球は半ば沈んだ位置で止まった。

 部屋の白い球も、同じところで止まる。

 

「ああ、赤い方は、縮んでないんだ」

「うん。同じ大きさの球が、光の面を通ってるだけ」

「林檎を輪切りにしたら、端の一枚は小さくて、真ん中は大きい」

「そうそう。それを、切らずに見せてるんだね」

 

 らでんは腰を落とし、青い面と目の高さを合わせた。

 

 丸は、細い光の線に見えた。

 少し顔を上げると、円の形が分かる。

 その上にも下にも、赤い球の続きがあった。

 

「この面の中だけが世界だったら、球の上も下も、見られないんですねぇ」

「うん。その世界の人には、丸いものがいきなり現れて、育って、消えたように見えるかもね」

「上から林檎が通っただけなのに」

 

 そぴあが笑った。

 

「いや、向こうからしたら大事件だからね?」

 

 らでんも笑いかけ、ふと、さっき描いた魚の絵を思い出した。

 

「あ、あの版画家にね、もう一つ、好きな絵があるんですよ」

「魚の人?」

「ええ。《紙の外の散歩》。ノートに敷き詰められたトカゲが、一匹、紙から這い出してくる」

 

 らでんは手帳を開き、余白へ小さな足を描いた。

 紙の縁に指を掛け、その外へ持ち上げる。

 

「平らな模様だった体に厚みがついて、本に登って、机の上を回って。それから、また紙へ戻るんです」

「お散歩の範囲が広いなあ」

「帰ってから、留守番の皆さんへ何と話すんでしょうね。『世界には上がありました』って」

「まず『上って何?』って聞かれるよね」

 

 そぴあが、手帳を指した。

 

「その紙から出られないなら、どの方へ行っても、紙の上でしょ。上は、遠くまで歩いた先にあるわけじゃない」

 

 らでんは手帳の端から端まで、指を動かした。

 どこへ置いても、紙に触れている。

 

 最後に、持ち上げた。

 

 たった、それだけの動きだった。

 

 紙の住人には、行けない方へ動かしたのだと考えると、急に、自分の指が変なものに思えた。

 

「では、あちらの白い球は」

 

 部屋の中央を見る。

 

「今度は、私たちが紙の中?」

「うん。その見方を体験させる模型みたい。丸の代わりに、こっちには立体が出てくるんだ」

 

 そぴあは爪を外した。

 白い球が再び膨らみ、やがて小さくなった。

 

「『球が育った』んじゃなくて、『もっと大きなものの、違う切り口が順に現れた』と考えることもできる」

「……本体は、どっちへ行ったんです?」

「この部屋の右とか左じゃない。さっきの紙に対する、上みたいな方向を、もう一つ考える」

 

 らでんは、消えた球のあった場所を見た。

 上。下。壁の奥。

 どれを見ても、いま言われた方向ではない。

 

「四次元、という考え方?」

「うん。ただ、この装置が四次元の実物を持ってるかは、別。念でその見え方を作ることもできるから」

 

 そぴあが箱へ目を戻した。

 

「でも、見えなくなったから、なくなったとは限らないんだよね。ほら、赤い球はまだいる」

 

 赤い球は、青い面の下にいた。

 少しも小さくなっていない。

 

 らでんは、しばらくそれを見ていた。

 

 さっきまで、自分は紙の外から、全部を見ているつもりだった。

 いまは、何もない空中へ、紙に閉じ込められたトカゲの気持ちで目を向けている。

 

「いやぁ、これはずるいですねぇ」

「え、どのへん?」

「見えない方が、気になっちゃうじゃないですか」

 

 そぴあは、すぐには答えなかった。

 白い点がまた生まれるのを見てから、小さく頷いた。

 

「うん。……気になるよね」

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 箱の隣には、三つの浅い皿があった。

 

 真ん中に一つ。

 左右に一つずつ。

 端から端まで、一メートルもない。

 

 中央の皿の上には、小さな金属の枠が立っていた。

 枠の脇には、帰還の案内で見たものと同じ印がある。

 

「『試料送り』。これが、送り装置ですね」

 

 らでんは、皿と皿を結ぶ彫り込みを辿った。

 行き先は二つ。左に一本線、右に二本線の刻み。

 そのうち二本線の方に、薄く、『復』の文字が残っている。

 

「帰る方の動きも、ここで試せるのかな」

「こちらの使い方が分かれば、終端の装置を読む手掛かりになりそうです」

 

 らでんは、把手の足元へ灯りを当てた。

 

 途中に操作用の溝が一つある。

 隣の図には、丸い輪郭が彫られていた。

 部屋の白い球を、この大きさへ合わせるらしい。

 

 そぴあは持参した真鍮の試験片へ、斜めに一本線を描いた。

 端に小さな穴のある、指先ほどの薄板だ。

 

「飛ぶとしたら、まずこれだけ」

 

 二人で左右の皿を撮り、何も載っていないことを確かめる。

 中央の枠の内側へ試験片を置いた。

 

 白い点が現れる。

 大きくなり、彫られた輪郭と、同じ大きさになる。

 

「そこで、止めて」

 

 そぴあの合図で、らでんが把手を溝へ倒した。

 

 試験片の真ん中に、細い暗がりが走った。

 割れたのではない。斜めの印ごと、板が向こうへ引き込まれていく。

 

 中央の皿が、空になった。

 

 ちん、と音がした。

 

 左の皿に、真鍮の板があった。

 

「……近いのに、途中を通ってませんね」

「うん。皿の間を横切る動きは、取れてない」

 

 そぴあは観測記録を止めず、板を撮影した。

 斜めの線と端の穴。元の試験片に対応している。

 

 らでんは、右の皿を見た。

 

「ただ、『復』はあちらです」

「あれ。同じ大きさには、合わせたんだけどなぁ」

 

 そぴあは、部屋の白い球を見上げた。

 試験片を回収し、把手を戻す。

 

 球はさらに大きくなった。

 いっぱいまで膨らみ、それから縮む。

 

「あ」

 

 らでんが、箱へ指を向けた。

 

「もう一回、通りますね」

「え?」

「同じ大きさの丸を。林檎の上半分にも、下半分にも、ありましたよね」

 

 赤い球は、青い面を下へ通り抜けようとしていた。

 下へ動き続けている。途中で逆戻りしたわけではない。

 

 なのに、白い丸は、さっきと同じ大きさへ戻ってきた。

 

 そぴあが、ぱっと顔を上げた。

 

「あっ、そっか! 大きさだけだと、二回あるんだ」

「入ってくる途中か、出ていく途中か」

「そうそう。同じ大きさだけど、切ってる場所が違うんだ」

 

 そぴあは観測記録へ二つ、印をつけた。

 同じ直径。

 片方は広がっているとき。もう片方は、縮んでいるとき。

 

「じゃあ、小さくなる方も試そう」

 

 試験片を中央へ戻す。

 点が育つのを見送って、一番大きくなるところも待つ。

 

 白い球が縮み始めた。

 

 らでんは把手に手を添えた。

 いま見える形だけでなく、その一つ前からの動きを追う。

 

「今」

 

 把手を倒す。

 

 中央から、板が消えた。

 

 今度は、右の皿が鳴った。

 

「帰る方」

 

 そぴあの声が弾んだ。

 らでんも、二本線の刻みを見て笑った。

 

「これは、写真一枚だけ見せられたら間違えますねぇ」

「ね。丸の大きさは合ってるのに、選ぶ方を間違えちゃう」

 

 右の皿の縁には、中央へ戻る矢印と、小さな爪があった。

 状態を止めたまま、その爪を押す。

 

 右の皿が空になり、中央で、板が鳴った。

 

「戻った」

「お帰りなさい。ちゃんと戻ってきましたねぇ」

 

 もう一度、同じ手順で送り、戻す。

 同じ皿へ、同じ板が届いた。

 

 そぴあは試験片を回収し、二つの状態を別々に記録した。

 続く資料の照合中に、今回の四百九十六秒も満了した。

 器具を休ませたのではない。

 装置に決められた時間が来たのだった。

 

 この装置は、同じ大きさに見える二つの状態を、別々の送り先につないでいる。

 どこへでも行けるのではない。

 小さな皿から、決められた皿へ。

 

 それでも、らでんは空になった真ん中の皿を、もう一度見た。

 

 物は消えた。

 なくなったのではなく、こちらから見えない送り方をした。

 

「帰るとき、思い出しましょう。丸が同じでも、途中は違う」

「忘れない、これは。いま間違えといてよかった」

 

 そぴあが、手帳へ少し大きな字で書いた。

 らでんは、その脇へ二つの丸と、広がる矢印、縮む矢印を添えた。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 作業台の奥に、薄い図板が並んでいた。

 そのうち一枚には、先ほど壁で見たものと同じ横顔がある。

 

 目の印から、何本もの線。

 その先に、小さな鳥の輪郭。

 

「こっちは、鳥を見る方の図ですね」

 

 らでんが言うと、そぴあはすぐに写真を開いた。

 

 銀の板が離れているところ。

 低い位置へ顔を置くと、一羽になるところ。

 あのとき、面白がって撮った映像だった。

 

「いや、撮っといてよかったね、これ」

「あれだけ立ったり座ったりした甲斐がありましたねぇ」

「ほら、もう一回って言っといてよかったでしょ」

 

 そぴあは鳥を見た目の位置と、部材までの距離を確かめた。

 画面を傾けて印象で合わせるのではなく、図に示された向きへ、一つずつ戻していく。

 

 らでんは、薄紙に翼の縁を写した。

 小さな欠けだけでなく、その両脇の曲がりも。

 

 次は門飾りの右肩。

 最後に、壁の図の、不揃いな線。

 

 そぴあが目盛りを読み、らでんが写す大きさを合わせた。

 

「ここ、揃えてもらっていい?」

「はい。その先は?」

「そこは、まだ動かさないで。合うか見たい」

 

 小さな欠けのところへ、鉛筆の先を置く。

 紙を重ねた。

 

 その隣の、丸い曲がり。

 少し平らになるところ。

 もう一度、鋭く落ちるところ。

 

 一本ずつ確かめるたび、下の線が、上の線に隠れていった。

 

「……欠けだけじゃない」

 

 らでんは紙を持ち上げた。

 別々だった線が現れる。

 戻すと、また一つになる。

 

「……合うね。同じところを、写してる」

 

 そぴあが、小さく言った。

 

 鳥と門が同じ形なのではない。

 けれど、翼の一部と門の肩と、地面らしい線の一部が、同じ曲がり方をしている。

 

「鳥の形を門にした、というより」

「同じ元の図から、鳥にも、門にもした」

 

 らでんは頷き、壁面図の写真へ戻った。

 

 鳥を作るために、あの線を考えた。

 そうも読める。

 

 しかし、あの線を見せるために、鳥を作ったのだとしたら。

 

 そぴあも、目の印を見ていた。

 

「ここ、球の模型とは別だね。球の断面を重ねても、この輪郭にはならない」

「何でも同じ仕掛け、ではないんですね」

「うん。方法は違うんだ。なのに、比べる基準には同じ図が入ってる」

 

 そぴあは、図板の端まで撮った。

 鳥や門の線から離れ、一方向へ伸びる線がある。

 

 回廊の先の観測席で見た、あの一本だった。

 

「こちらは、揃いませんか」

「まだ。いま見たどの模型にも、対応するところがない」

 

 そぴあは、その線の脇へ、小さく疑問符を置いた。

 紙の上ではなく、自分の記録の方へ。

 

 その先を追うには、足りないものがあった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 図板の下に、保守用の細い通路があった。

 作業台の背面へ回り込むと、壁に点検窓が並んでいる。

 

 そぴあが床と支えを確かめる間、らでんは窓の縁へ灯りを当てた。

 

 最初の窓。

 送り装置の裏。

 

 次の窓。

 壁の奥に固定された、黒ずんだ金属の枠。

 

 らでんの手が止まった。

 

「……これ、最初の盤にあったものじゃありませんか」

 

 携行用の折り畳みの継ぎ手。

 薄い補修板。

 その縁に、塞ぎ直した二つの孔。

 

 写真を開く。

 孔の間に残る短い工具傷まで、同じだった。

 

 ただし、いま見えているのは裏側だ。

 枠は壁の細い開口を貫き、向こう側の台座へ組み込まれている。

 

「ああ、展示の順路と、整備する人の通り道は別なんだね」

 

 そぴあが、点検窓から見える範囲を測った。

 窓は道具を差し入れるための大きさしかなく、正面の盤へ抜けられる通路は見当たらない。

 

「戻る道には、できないね」

「ええ。でも、この枠には、手が届きます」

 

 らでんは、枠の下にある、古い銘板の端を撮った。

 器材番号らしい刻印が残っている。

 

 台座は、この建物のために作られたものだった。

 枠には、折り畳んで持ち運ぶための作りがある。

 

 別の場所へ行ったことのある道具かもしれない。

 

「触れるところは、動きますか」

「いまは固定されてる。外さず、その面だけなら」

 

 らでんは頷き、手袋を外した。

 

 《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。

 

 指先を、金属へ。

 

――――――

 

 乾いているはずの面が、濡れた。

 

 潮の匂いがした。

 

 細い枠の向こうを、暗い水が上下している。

 すぐ手前に、濡れた板の縁。

 その隙間を、白い泡が走った。

 

 もっと遠くに、輪があった。

 

 輪、と初めは思った。

 けれど、滑らかな円ではない。

 地面から持ち上がったような、長い稜線が回り込み、一部だけを欠いている。

 

 その欠けの奥に、白い柱。

 

 一本。

 

 枠が低くなった。

 視界の下へ、濡れた板がせり上がる。

 ほんの少し、横へ流れた。

 

 柱の縁が、二つに分かれた。

 

 手前の白。

 その奥へずれた、もう一つの白。

 

 欠けの底には、上からは隠れていた細い分かれ目があった。

 

 水が来た。

 継ぎ金具に、硬い飛沫が当たる。

 

 そこで途切れた。

 

――――――

 

 らでんは、手を離した。

 

 目の前にあるのは、点検窓だった。

 指は濡れていない。

 けれど、潮の匂いだけが、まだ鼻の奥にあった。

 

「らでんさん」

 

 そぴあの声がした。

 

 らでんは、自分の足元を見た。

 平らな保守通路。固定された手すり。

 隣にいる人の靴。

 

「……大丈夫です。少し、書かせてください」

「うん」

 

 手帳を開く。

 見た順番を書いた。

 形を描き、位置が変わったところへ、短い矢印を入れる。

 

 頭の中に浮かんだ意味は、別の欄へ置いた。

 

 そぴあは、それを覗き込まなかった。

 

「……聞かないんですか。何が見えたか」

「聞きたい。すごく」

 

 返事は速かった。

 

「でも、いま聞いちゃうと、図の線をそっちに寄せて読みそうなんだよね。先に、私の方も書く」

 

 らでんは、鉛筆を持つ手を止めた。

 

 そぴあは壁面図の写真を開き、二つの目の印を拡大していた。

 そこから、何がどう見えるはずか。

 まだらでんの話を知らないうちに、自分の答えを出そうとしている。

 

「では、答え合わせは、お互い書いてからですね」

「うん。合わなかったところも、ちゃんと残す」

 

 らでんは紙を折った。

 手帳の後ろのポケットへ入れる。

 

 同じものを見ようとしているのに、いまは、別々に考える。

 その距離の取り方が、不思議と嬉しかった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 点検窓の脇には、枠を据え付けるための古い図が残っていた。

 下の隅に、補修板と二つの孔が描かれている。

 

 持ち運ぶ枠を、建物の装置へ固定する。

 そのための後付けの台と、太い留め具。

 

 らでんは、図の線が重なっているところへ目を寄せた。

 

 下にある細い輪郭は、不揃いだった。

 その上へ引かれた別の線は、よく整っている。

 さらに、その整った線の一部が取り消され、古い輪郭の小さなへこみへ戻されていた。

 

 線が描かれた順は、その重なりから追えた。

 

「そぴあさん。これ、下の線の方が先です」

 

 そぴあが、らでんの手元を見た。

 断片を書いた紙ではなく、壁に残る据付図の方へ。

 

「……最初から、このへこみがあるんだ」

「ええ。後から整えようとして、それを、また戻している」

 

 らでんは、台座へ触れたときの手を思い出した。

 美しくつながっていた線。

 そこを、わざわざ削った刃先。

 

 変なこだわりだと思った。

 

 もし、あれが、こだわりではなく、修正だったら。

 

「綺麗な形へ、間違いを足したんじゃないのかもしれません」

「元に合わせ直した?」

「ええ」

 

 らでんは、折った紙の入ったポケットを押さえた。

 あの水。あの白い柱。

 いまは、そぴあへ詳しく話せない。

 

 それでも、口にせずにはいられなかった。

 

「この人、ど(・)こ(・)か(・)で(・)見(・)て(・)き(・)た(・)んじゃないですか」

 

 そぴあの指が止まった。

 

 短い沈黙のあと、写真の中の二つの目の印へ戻る。

 

「……私も、それを確かめたい」

 

 声は、さっきより低かった。

 

「綺麗な模型を作るだけなら、観測した場所や、目を低くしたときの記録まで、こんなふうに残すかなって」

「見たものの方が先で。それを見せるために、形を探した」

「その順番かもしれないね」

 

 らでんは、枠の銘板をもう一度撮った。

 港の器材台帳や帰還受入の控えは、端末に保存してある。

 番号の続きまで読めれば、あの枠がいつ、どこへ持ち出されたものか、照らせるかもしれない。

 

「この人が、自分で描いたもの同士を比べるだけでは、まだ足りませんね」

「うん。外の記録も見よう。……帰りの基準を探すのに、そのまま使えるはず」

 

 写真と記録を照らし終え、そぴあは周囲を測り直すため、同じ九項目で次の観測を始めた。

 らでんが頷いたところで、手すりが鳴った。

 

 こつん。

 

 今度は、その音だけでは終わらなかった。

 

 

     ◇ ◇ ◇

 

 

 作業台の前の床が、持ち上がった。

 

 らでんには、そう見えた。

 白い敷石が、一枚の紙のように斜めになる。

 けれど、目を落とすと、足元にもまだ、同じ床があった。

 

 床が、二枚ある。

 

 一枚は、正面へ。

 もう一枚は、途中から壁の方へ起き上がっている。

 

 そぴあの観測儀の円が、二つの景色を横切った。

 滑らかな縁が作業台の角で食い違い、斜めの床の向こうへ、もう一本の弧となって続く。

 

 中心の球は、一つしかない。

 

「動かないで」

 

 そぴあの手が、らでんの腕を掴んだ。

 

 らでんは出しかけた足を、まだ支えのある場所へ戻した。

 半歩も先へ行っていない。

 それなのに、今度は、戻した位置まで違って見えた。

 

「円は?」

「変わってない。二十八のまま」

 

 そぴあは観測儀を見ず、床を見ていた。

 空いた方の手が、手すりの根元を探している。

 

「見えてる床と、足を置けるところが、合ってない」

 

 さっきの試験片を取り出した。

 真鍮の薄板。斜めに一本、黒い線。

 

 床のあるはずの場所へ、手を伸ばす。

 膝の高さから、放した。

 

 板が落ちた。

 

 白い石に触れた。

 

 音が、しなかった。

 

 黒い線が、床の中へ沈んでいく。

 石の下へ、板の下へ。

 そのまま、暗がりの中へ消えた。

 

「……そこは、踏めませんね」

「うん。戻って。私の方へ」

 

 そぴあが、らでんの腕を引いた。

 二人分の足が、同じ狭い石の上へ収まる。

 

 その正面で、手すりが折れた。

 

 金属の裂ける音はしなかった。

 支柱も、継ぎ金具もそのままなのに、一本の棒の先だけが別の向きへ続いている。

 折り目をつけた絵の中に、実物の棒を押し込んだようだった。

 

「手すりも、向こうまでは信用しないで」

 

 そぴあの声が短い。

 

 らでんは、反対側を見た。

 壁際の保守足場。幅の狭い、本来の通路。

 

 そこから延びた支柱の根元は、厚い壁へ留められていた。

 留め具に浮きはない。

 少なくとも、いま立っている場所から目で追える金属には、食い違いがなかった。

 

「こっち。壁側の支えは?」

 

 そぴあの視線が移った。

 測る。

 点検棒の先で、足場を押す。

 

 硬い音がした。

 

「ある。そっちへ。一人ずつ」

 

 らでんは鞄のロープを引き出した。

 手の届く壁側の支柱へ回し、自分の腰と、そぴあの腰へつなぐ。

 金具を留める音が、妙にはっきり聞こえた。

 

 見えている床を、踏まない。

 棒が音を立てた、細い足場へ。

 

 らでんは手すりの根元を掴み、体を低くして移った。

 靴底が石に触れる。

 重さが戻った。

 

「こっち、立てます」

 

 続こうとしたそぴあが、足を止めた。

 

 二人の間で、床の像が一度、跳ね上がった。

 足を置こうとしていた先が、急な坂に見える。

 

 そぴあはすぐに観測を取り直した。

 らでんは、その間に、支柱へ回したロープを短く取った。

 

「見た目じゃなくて、測れたところへ。私が引きます」

 

 そぴあがこちらを見る。

 らでんは手を伸ばした。

 

「はい、そぴあさん。こっち」

 

 伸びてきた手を掴んだ。

 

 そぴあが足を出す。

 見かけの坂ではなく、らでんの靴と同じ高さへ。

 

 引く。

 壁側へ。

 

 そぴあの靴が、足場を踏んだ。

 観測儀が遅れずに寄り、円の中心も、二人のいる側へ移った。

 

 らでんは支柱を掴んだまま、息を吐いた。

 そぴあも、手を離さなかった。

 

「……ありがとう」

「さっき、引っ張ってもらいましたからね」

「返すの、早くない?」

 

 笑いかけた口元が、途中で止まった。

 

 さっきまで二人の立っていた石へ、白い床が重なり直そうとしていた。

 ずれた写真を、元に戻すように。

 

 端が近づく。

 もう少し。

 

 揃う直前で、止まった。

 

 手の幅ほどの暗がりが、残った。

 

 そぴあは、手帳に時刻を書いた。

 月の入口。回廊の先。そして、いま。

 

「戻そうとは、してる」

 

 そぴあが言った。

 

「でも、元の位置まで、戻りきらない」

 

 らでんは、壁の向こうに残した枠を見た。

 その図と銘板の写真は、鞄に入っている。

 見たものを書いた紙も、濡れずにそこにある。

 

 あの枠が本当に、見知らぬ景色から持ち帰られたものなら。

 帰るための手掛かりも、まだ残っているかもしれない。

 

「原図を、急ぎましょう」

「うん。次に直るのを、待つのはやめよう」

 

 二人は壁際の足場へ体を寄せた。

 そぴあが先の支えを測り、らでんがロープを持ち直す。

 

 どの石にも、ひびは入っていなかった。

 

 それなのに、足場のすぐ下を、さっきまで歩いていた床が、音もなく通り過ぎていった。

 




らでんが話す架空の版画《紙の外の散歩》は、M. C. Escherの《Reptiles》をイメージの参考にしました。
紙に描かれた爬虫類が立体となって外へ出て、再び紙へ戻る作品です。

作中の《紙の外の散歩》という題名、赤い球と薄い光の面を使った装置、小さな試験片を送る念の仕組みは、本作独自の創作です。
断面という数学の考え方と、念による物体の移送は区別しています。
この話は、現実に物体を四次元へ送れると説明するものではありません。
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