「……地図だったら、どこから見たかも、残してるはずだよね」
そぴあの指が、壁の小さな横顔へ戻った。
知っている海岸の先に伸びた線。その先の、見覚えのある欠け。
らでんは、親指で隠せた大陸の形をもう一度見た。
あの小さな部分だけが、本物の地理に似ている。
残りも本物なのかは、まだ分からない。
けれど、帰還設備の案内には、原図に従えとあった。
「鳥を見る場所が決まっていたように、帰るときも、どこへ目を置くかが大事なんでしょうか」
「ああ、それはありそう。まず、ここの目盛りを読めるようにしたいね」
そぴあが示した数列は、後から重ねられた説明板の下へ消えていた。
らでんは板の留め方を撮影し、その脇へ灯りを移す。
細い矢印が、隣の開口へ続いている。
その下に、二つの短い言葉があった。
「『断面』。こちらは、『送り』」
「帰りの装置と、同じ印がある」
二人は図を撮った。
そぴあが次に具現化すると、同じ九項目の計測が始まる。
足元を確かめながら、隣へ移った。
十二メートルほどの幅がある、低い天井の部屋だった。
壁際には腰の高さの作業台。
奥へ通じる保守用の足場には、細い手すりが続いている。
中央の、何もない空中に、光が灯った。
八メートルほど先。
らでんの胸と同じ高さに、針の先ほどの白い点。
それが、膨らんだ。
真珠。拳。大きな西瓜。
とうとう、両腕で抱えても手の届かない球になった。
床へ近づいてきたわけではない。
同じ場所で、大きくなっている。
らでんが足を止めると、そぴあも手を上げた。
「待って。壁と床は、動いてない」
《万象観測器》の薄い円が、部屋の先まで広がっていた。
その輪郭は変わらない。
白い球だけが、円の内側で育っている。
直径が一メートルほどになったところで、動きが変わった。
西瓜へ。
拳へ。
真珠へ。
光が、なくなった。
「……いなくなりましたね」
「うん。……でも、いまの消え方、破裂じゃないよね」
数息おいて、同じところへ白い点が現れた。
また、大きくなる。
二人は動いていない。
鳥のときとは違って、見ているものの方が変わっていた。
◇ ◇ ◇
入口脇の作業台に、小さな箱があった。
正面も横も透明で、中に、林檎くらいの赤い球が入っている。
その真ん中を、薄い青い光が水平に横切っていた。
机を一枚、光だけで作って、箱の中へ差し込んだようだった。
球が、ゆっくり下がる。
青い面に触れたところが、白く光った。
はじめは点。少し下がると、小さな丸。
球の真ん中が通ると、大きな丸。
そして、また小さくなる。
「あ。こっちにも」
らでんは中央の大きな球と、箱の中を見比べた。
どちらも、大きくなって、小さくなって、消える。
ただし、透明な箱の中では、赤い球は消えていなかった。
光の面を通り抜け、その下へ出ている。
「あ、こっちは全部見えてる」
そぴあが言った。
箱の下には送り用の把手があり、その動きに合わせて、赤い球と部屋の白い球が変化していた。
らでんは、把手を途中で留めるための爪を見つけた。
操作の跡を確かめてから、そぴあと頷き合う。
爪を掛けると、赤い球は半ば沈んだ位置で止まった。
部屋の白い球も、同じところで止まる。
「ああ、赤い方は、縮んでないんだ」
「うん。同じ大きさの球が、光の面を通ってるだけ」
「林檎を輪切りにしたら、端の一枚は小さくて、真ん中は大きい」
「そうそう。それを、切らずに見せてるんだね」
らでんは腰を落とし、青い面と目の高さを合わせた。
丸は、細い光の線に見えた。
少し顔を上げると、円の形が分かる。
その上にも下にも、赤い球の続きがあった。
「この面の中だけが世界だったら、球の上も下も、見られないんですねぇ」
「うん。その世界の人には、丸いものがいきなり現れて、育って、消えたように見えるかもね」
「上から林檎が通っただけなのに」
そぴあが笑った。
「いや、向こうからしたら大事件だからね?」
らでんも笑いかけ、ふと、さっき描いた魚の絵を思い出した。
「あ、あの版画家にね、もう一つ、好きな絵があるんですよ」
「魚の人?」
「ええ。《紙の外の散歩》。ノートに敷き詰められたトカゲが、一匹、紙から這い出してくる」
らでんは手帳を開き、余白へ小さな足を描いた。
紙の縁に指を掛け、その外へ持ち上げる。
「平らな模様だった体に厚みがついて、本に登って、机の上を回って。それから、また紙へ戻るんです」
「お散歩の範囲が広いなあ」
「帰ってから、留守番の皆さんへ何と話すんでしょうね。『世界には上がありました』って」
「まず『上って何?』って聞かれるよね」
そぴあが、手帳を指した。
「その紙から出られないなら、どの方へ行っても、紙の上でしょ。上は、遠くまで歩いた先にあるわけじゃない」
らでんは手帳の端から端まで、指を動かした。
どこへ置いても、紙に触れている。
最後に、持ち上げた。
たった、それだけの動きだった。
紙の住人には、行けない方へ動かしたのだと考えると、急に、自分の指が変なものに思えた。
「では、あちらの白い球は」
部屋の中央を見る。
「今度は、私たちが紙の中?」
「うん。その見方を体験させる模型みたい。丸の代わりに、こっちには立体が出てくるんだ」
そぴあは爪を外した。
白い球が再び膨らみ、やがて小さくなった。
「『球が育った』んじゃなくて、『もっと大きなものの、違う切り口が順に現れた』と考えることもできる」
「……本体は、どっちへ行ったんです?」
「この部屋の右とか左じゃない。さっきの紙に対する、上みたいな方向を、もう一つ考える」
らでんは、消えた球のあった場所を見た。
上。下。壁の奥。
どれを見ても、いま言われた方向ではない。
「四次元、という考え方?」
「うん。ただ、この装置が四次元の実物を持ってるかは、別。念でその見え方を作ることもできるから」
そぴあが箱へ目を戻した。
「でも、見えなくなったから、なくなったとは限らないんだよね。ほら、赤い球はまだいる」
赤い球は、青い面の下にいた。
少しも小さくなっていない。
らでんは、しばらくそれを見ていた。
さっきまで、自分は紙の外から、全部を見ているつもりだった。
いまは、何もない空中へ、紙に閉じ込められたトカゲの気持ちで目を向けている。
「いやぁ、これはずるいですねぇ」
「え、どのへん?」
「見えない方が、気になっちゃうじゃないですか」
そぴあは、すぐには答えなかった。
白い点がまた生まれるのを見てから、小さく頷いた。
「うん。……気になるよね」
◇ ◇ ◇
箱の隣には、三つの浅い皿があった。
真ん中に一つ。
左右に一つずつ。
端から端まで、一メートルもない。
中央の皿の上には、小さな金属の枠が立っていた。
枠の脇には、帰還の案内で見たものと同じ印がある。
「『試料送り』。これが、送り装置ですね」
らでんは、皿と皿を結ぶ彫り込みを辿った。
行き先は二つ。左に一本線、右に二本線の刻み。
そのうち二本線の方に、薄く、『復』の文字が残っている。
「帰る方の動きも、ここで試せるのかな」
「こちらの使い方が分かれば、終端の装置を読む手掛かりになりそうです」
らでんは、把手の足元へ灯りを当てた。
途中に操作用の溝が一つある。
隣の図には、丸い輪郭が彫られていた。
部屋の白い球を、この大きさへ合わせるらしい。
そぴあは持参した真鍮の試験片へ、斜めに一本線を描いた。
端に小さな穴のある、指先ほどの薄板だ。
「飛ぶとしたら、まずこれだけ」
二人で左右の皿を撮り、何も載っていないことを確かめる。
中央の枠の内側へ試験片を置いた。
白い点が現れる。
大きくなり、彫られた輪郭と、同じ大きさになる。
「そこで、止めて」
そぴあの合図で、らでんが把手を溝へ倒した。
試験片の真ん中に、細い暗がりが走った。
割れたのではない。斜めの印ごと、板が向こうへ引き込まれていく。
中央の皿が、空になった。
ちん、と音がした。
左の皿に、真鍮の板があった。
「……近いのに、途中を通ってませんね」
「うん。皿の間を横切る動きは、取れてない」
そぴあは観測記録を止めず、板を撮影した。
斜めの線と端の穴。元の試験片に対応している。
らでんは、右の皿を見た。
「ただ、『復』はあちらです」
「あれ。同じ大きさには、合わせたんだけどなぁ」
そぴあは、部屋の白い球を見上げた。
試験片を回収し、把手を戻す。
球はさらに大きくなった。
いっぱいまで膨らみ、それから縮む。
「あ」
らでんが、箱へ指を向けた。
「もう一回、通りますね」
「え?」
「同じ大きさの丸を。林檎の上半分にも、下半分にも、ありましたよね」
赤い球は、青い面を下へ通り抜けようとしていた。
下へ動き続けている。途中で逆戻りしたわけではない。
なのに、白い丸は、さっきと同じ大きさへ戻ってきた。
そぴあが、ぱっと顔を上げた。
「あっ、そっか! 大きさだけだと、二回あるんだ」
「入ってくる途中か、出ていく途中か」
「そうそう。同じ大きさだけど、切ってる場所が違うんだ」
そぴあは観測記録へ二つ、印をつけた。
同じ直径。
片方は広がっているとき。もう片方は、縮んでいるとき。
「じゃあ、小さくなる方も試そう」
試験片を中央へ戻す。
点が育つのを見送って、一番大きくなるところも待つ。
白い球が縮み始めた。
らでんは把手に手を添えた。
いま見える形だけでなく、その一つ前からの動きを追う。
「今」
把手を倒す。
中央から、板が消えた。
今度は、右の皿が鳴った。
「帰る方」
そぴあの声が弾んだ。
らでんも、二本線の刻みを見て笑った。
「これは、写真一枚だけ見せられたら間違えますねぇ」
「ね。丸の大きさは合ってるのに、選ぶ方を間違えちゃう」
右の皿の縁には、中央へ戻る矢印と、小さな爪があった。
状態を止めたまま、その爪を押す。
右の皿が空になり、中央で、板が鳴った。
「戻った」
「お帰りなさい。ちゃんと戻ってきましたねぇ」
もう一度、同じ手順で送り、戻す。
同じ皿へ、同じ板が届いた。
そぴあは試験片を回収し、二つの状態を別々に記録した。
続く資料の照合中に、今回の四百九十六秒も満了した。
器具を休ませたのではない。
装置に決められた時間が来たのだった。
この装置は、同じ大きさに見える二つの状態を、別々の送り先につないでいる。
どこへでも行けるのではない。
小さな皿から、決められた皿へ。
それでも、らでんは空になった真ん中の皿を、もう一度見た。
物は消えた。
なくなったのではなく、こちらから見えない送り方をした。
「帰るとき、思い出しましょう。丸が同じでも、途中は違う」
「忘れない、これは。いま間違えといてよかった」
そぴあが、手帳へ少し大きな字で書いた。
らでんは、その脇へ二つの丸と、広がる矢印、縮む矢印を添えた。
◇ ◇ ◇
作業台の奥に、薄い図板が並んでいた。
そのうち一枚には、先ほど壁で見たものと同じ横顔がある。
目の印から、何本もの線。
その先に、小さな鳥の輪郭。
「こっちは、鳥を見る方の図ですね」
らでんが言うと、そぴあはすぐに写真を開いた。
銀の板が離れているところ。
低い位置へ顔を置くと、一羽になるところ。
あのとき、面白がって撮った映像だった。
「いや、撮っといてよかったね、これ」
「あれだけ立ったり座ったりした甲斐がありましたねぇ」
「ほら、もう一回って言っといてよかったでしょ」
そぴあは鳥を見た目の位置と、部材までの距離を確かめた。
画面を傾けて印象で合わせるのではなく、図に示された向きへ、一つずつ戻していく。
らでんは、薄紙に翼の縁を写した。
小さな欠けだけでなく、その両脇の曲がりも。
次は門飾りの右肩。
最後に、壁の図の、不揃いな線。
そぴあが目盛りを読み、らでんが写す大きさを合わせた。
「ここ、揃えてもらっていい?」
「はい。その先は?」
「そこは、まだ動かさないで。合うか見たい」
小さな欠けのところへ、鉛筆の先を置く。
紙を重ねた。
その隣の、丸い曲がり。
少し平らになるところ。
もう一度、鋭く落ちるところ。
一本ずつ確かめるたび、下の線が、上の線に隠れていった。
「……欠けだけじゃない」
らでんは紙を持ち上げた。
別々だった線が現れる。
戻すと、また一つになる。
「……合うね。同じところを、写してる」
そぴあが、小さく言った。
鳥と門が同じ形なのではない。
けれど、翼の一部と門の肩と、地面らしい線の一部が、同じ曲がり方をしている。
「鳥の形を門にした、というより」
「同じ元の図から、鳥にも、門にもした」
らでんは頷き、壁面図の写真へ戻った。
鳥を作るために、あの線を考えた。
そうも読める。
しかし、あの線を見せるために、鳥を作ったのだとしたら。
そぴあも、目の印を見ていた。
「ここ、球の模型とは別だね。球の断面を重ねても、この輪郭にはならない」
「何でも同じ仕掛け、ではないんですね」
「うん。方法は違うんだ。なのに、比べる基準には同じ図が入ってる」
そぴあは、図板の端まで撮った。
鳥や門の線から離れ、一方向へ伸びる線がある。
回廊の先の観測席で見た、あの一本だった。
「こちらは、揃いませんか」
「まだ。いま見たどの模型にも、対応するところがない」
そぴあは、その線の脇へ、小さく疑問符を置いた。
紙の上ではなく、自分の記録の方へ。
その先を追うには、足りないものがあった。
◇ ◇ ◇
図板の下に、保守用の細い通路があった。
作業台の背面へ回り込むと、壁に点検窓が並んでいる。
そぴあが床と支えを確かめる間、らでんは窓の縁へ灯りを当てた。
最初の窓。
送り装置の裏。
次の窓。
壁の奥に固定された、黒ずんだ金属の枠。
らでんの手が止まった。
「……これ、最初の盤にあったものじゃありませんか」
携行用の折り畳みの継ぎ手。
薄い補修板。
その縁に、塞ぎ直した二つの孔。
写真を開く。
孔の間に残る短い工具傷まで、同じだった。
ただし、いま見えているのは裏側だ。
枠は壁の細い開口を貫き、向こう側の台座へ組み込まれている。
「ああ、展示の順路と、整備する人の通り道は別なんだね」
そぴあが、点検窓から見える範囲を測った。
窓は道具を差し入れるための大きさしかなく、正面の盤へ抜けられる通路は見当たらない。
「戻る道には、できないね」
「ええ。でも、この枠には、手が届きます」
らでんは、枠の下にある、古い銘板の端を撮った。
器材番号らしい刻印が残っている。
台座は、この建物のために作られたものだった。
枠には、折り畳んで持ち運ぶための作りがある。
別の場所へ行ったことのある道具かもしれない。
「触れるところは、動きますか」
「いまは固定されてる。外さず、その面だけなら」
らでんは頷き、手袋を外した。
《
指先を、金属へ。
――――――
乾いているはずの面が、濡れた。
潮の匂いがした。
細い枠の向こうを、暗い水が上下している。
すぐ手前に、濡れた板の縁。
その隙間を、白い泡が走った。
もっと遠くに、輪があった。
輪、と初めは思った。
けれど、滑らかな円ではない。
地面から持ち上がったような、長い稜線が回り込み、一部だけを欠いている。
その欠けの奥に、白い柱。
一本。
枠が低くなった。
視界の下へ、濡れた板がせり上がる。
ほんの少し、横へ流れた。
柱の縁が、二つに分かれた。
手前の白。
その奥へずれた、もう一つの白。
欠けの底には、上からは隠れていた細い分かれ目があった。
水が来た。
継ぎ金具に、硬い飛沫が当たる。
そこで途切れた。
――――――
らでんは、手を離した。
目の前にあるのは、点検窓だった。
指は濡れていない。
けれど、潮の匂いだけが、まだ鼻の奥にあった。
「らでんさん」
そぴあの声がした。
らでんは、自分の足元を見た。
平らな保守通路。固定された手すり。
隣にいる人の靴。
「……大丈夫です。少し、書かせてください」
「うん」
手帳を開く。
見た順番を書いた。
形を描き、位置が変わったところへ、短い矢印を入れる。
頭の中に浮かんだ意味は、別の欄へ置いた。
そぴあは、それを覗き込まなかった。
「……聞かないんですか。何が見えたか」
「聞きたい。すごく」
返事は速かった。
「でも、いま聞いちゃうと、図の線をそっちに寄せて読みそうなんだよね。先に、私の方も書く」
らでんは、鉛筆を持つ手を止めた。
そぴあは壁面図の写真を開き、二つの目の印を拡大していた。
そこから、何がどう見えるはずか。
まだらでんの話を知らないうちに、自分の答えを出そうとしている。
「では、答え合わせは、お互い書いてからですね」
「うん。合わなかったところも、ちゃんと残す」
らでんは紙を折った。
手帳の後ろのポケットへ入れる。
同じものを見ようとしているのに、いまは、別々に考える。
その距離の取り方が、不思議と嬉しかった。
◇ ◇ ◇
点検窓の脇には、枠を据え付けるための古い図が残っていた。
下の隅に、補修板と二つの孔が描かれている。
持ち運ぶ枠を、建物の装置へ固定する。
そのための後付けの台と、太い留め具。
らでんは、図の線が重なっているところへ目を寄せた。
下にある細い輪郭は、不揃いだった。
その上へ引かれた別の線は、よく整っている。
さらに、その整った線の一部が取り消され、古い輪郭の小さなへこみへ戻されていた。
線が描かれた順は、その重なりから追えた。
「そぴあさん。これ、下の線の方が先です」
そぴあが、らでんの手元を見た。
断片を書いた紙ではなく、壁に残る据付図の方へ。
「……最初から、このへこみがあるんだ」
「ええ。後から整えようとして、それを、また戻している」
らでんは、台座へ触れたときの手を思い出した。
美しくつながっていた線。
そこを、わざわざ削った刃先。
変なこだわりだと思った。
もし、あれが、こだわりではなく、修正だったら。
「綺麗な形へ、間違いを足したんじゃないのかもしれません」
「元に合わせ直した?」
「ええ」
らでんは、折った紙の入ったポケットを押さえた。
あの水。あの白い柱。
いまは、そぴあへ詳しく話せない。
それでも、口にせずにはいられなかった。
「この人、
そぴあの指が止まった。
短い沈黙のあと、写真の中の二つの目の印へ戻る。
「……私も、それを確かめたい」
声は、さっきより低かった。
「綺麗な模型を作るだけなら、観測した場所や、目を低くしたときの記録まで、こんなふうに残すかなって」
「見たものの方が先で。それを見せるために、形を探した」
「その順番かもしれないね」
らでんは、枠の銘板をもう一度撮った。
港の器材台帳や帰還受入の控えは、端末に保存してある。
番号の続きまで読めれば、あの枠がいつ、どこへ持ち出されたものか、照らせるかもしれない。
「この人が、自分で描いたもの同士を比べるだけでは、まだ足りませんね」
「うん。外の記録も見よう。……帰りの基準を探すのに、そのまま使えるはず」
写真と記録を照らし終え、そぴあは周囲を測り直すため、同じ九項目で次の観測を始めた。
らでんが頷いたところで、手すりが鳴った。
こつん。
今度は、その音だけでは終わらなかった。
◇ ◇ ◇
作業台の前の床が、持ち上がった。
らでんには、そう見えた。
白い敷石が、一枚の紙のように斜めになる。
けれど、目を落とすと、足元にもまだ、同じ床があった。
床が、二枚ある。
一枚は、正面へ。
もう一枚は、途中から壁の方へ起き上がっている。
そぴあの観測儀の円が、二つの景色を横切った。
滑らかな縁が作業台の角で食い違い、斜めの床の向こうへ、もう一本の弧となって続く。
中心の球は、一つしかない。
「動かないで」
そぴあの手が、らでんの腕を掴んだ。
らでんは出しかけた足を、まだ支えのある場所へ戻した。
半歩も先へ行っていない。
それなのに、今度は、戻した位置まで違って見えた。
「円は?」
「変わってない。二十八のまま」
そぴあは観測儀を見ず、床を見ていた。
空いた方の手が、手すりの根元を探している。
「見えてる床と、足を置けるところが、合ってない」
さっきの試験片を取り出した。
真鍮の薄板。斜めに一本、黒い線。
床のあるはずの場所へ、手を伸ばす。
膝の高さから、放した。
板が落ちた。
白い石に触れた。
音が、しなかった。
黒い線が、床の中へ沈んでいく。
石の下へ、板の下へ。
そのまま、暗がりの中へ消えた。
「……そこは、踏めませんね」
「うん。戻って。私の方へ」
そぴあが、らでんの腕を引いた。
二人分の足が、同じ狭い石の上へ収まる。
その正面で、手すりが折れた。
金属の裂ける音はしなかった。
支柱も、継ぎ金具もそのままなのに、一本の棒の先だけが別の向きへ続いている。
折り目をつけた絵の中に、実物の棒を押し込んだようだった。
「手すりも、向こうまでは信用しないで」
そぴあの声が短い。
らでんは、反対側を見た。
壁際の保守足場。幅の狭い、本来の通路。
そこから延びた支柱の根元は、厚い壁へ留められていた。
留め具に浮きはない。
少なくとも、いま立っている場所から目で追える金属には、食い違いがなかった。
「こっち。壁側の支えは?」
そぴあの視線が移った。
測る。
点検棒の先で、足場を押す。
硬い音がした。
「ある。そっちへ。一人ずつ」
らでんは鞄のロープを引き出した。
手の届く壁側の支柱へ回し、自分の腰と、そぴあの腰へつなぐ。
金具を留める音が、妙にはっきり聞こえた。
見えている床を、踏まない。
棒が音を立てた、細い足場へ。
らでんは手すりの根元を掴み、体を低くして移った。
靴底が石に触れる。
重さが戻った。
「こっち、立てます」
続こうとしたそぴあが、足を止めた。
二人の間で、床の像が一度、跳ね上がった。
足を置こうとしていた先が、急な坂に見える。
そぴあはすぐに観測を取り直した。
らでんは、その間に、支柱へ回したロープを短く取った。
「見た目じゃなくて、測れたところへ。私が引きます」
そぴあがこちらを見る。
らでんは手を伸ばした。
「はい、そぴあさん。こっち」
伸びてきた手を掴んだ。
そぴあが足を出す。
見かけの坂ではなく、らでんの靴と同じ高さへ。
引く。
壁側へ。
そぴあの靴が、足場を踏んだ。
観測儀が遅れずに寄り、円の中心も、二人のいる側へ移った。
らでんは支柱を掴んだまま、息を吐いた。
そぴあも、手を離さなかった。
「……ありがとう」
「さっき、引っ張ってもらいましたからね」
「返すの、早くない?」
笑いかけた口元が、途中で止まった。
さっきまで二人の立っていた石へ、白い床が重なり直そうとしていた。
ずれた写真を、元に戻すように。
端が近づく。
もう少し。
揃う直前で、止まった。
手の幅ほどの暗がりが、残った。
そぴあは、手帳に時刻を書いた。
月の入口。回廊の先。そして、いま。
「戻そうとは、してる」
そぴあが言った。
「でも、元の位置まで、戻りきらない」
らでんは、壁の向こうに残した枠を見た。
その図と銘板の写真は、鞄に入っている。
見たものを書いた紙も、濡れずにそこにある。
あの枠が本当に、見知らぬ景色から持ち帰られたものなら。
帰るための手掛かりも、まだ残っているかもしれない。
「原図を、急ぎましょう」
「うん。次に直るのを、待つのはやめよう」
二人は壁際の足場へ体を寄せた。
そぴあが先の支えを測り、らでんがロープを持ち直す。
どの石にも、ひびは入っていなかった。
それなのに、足場のすぐ下を、さっきまで歩いていた床が、音もなく通り過ぎていった。
らでんが話す架空の版画《紙の外の散歩》は、M. C. Escherの《Reptiles》をイメージの参考にしました。
紙に描かれた爬虫類が立体となって外へ出て、再び紙へ戻る作品です。
作中の《紙の外の散歩》という題名、赤い球と薄い光の面を使った装置、小さな試験片を送る念の仕組みは、本作独自の創作です。
断面という数学の考え方と、念による物体の移送は区別しています。
この話は、現実に物体を四次元へ送れると説明するものではありません。