儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第五話 世界の外側

「そっちは確認しなくていいですよー。壁の方、あと三歩」

 

 そぴあの声に、らでんは頷いた。

 足場の下を、白い床が通り過ぎていく。自分の足がそちらへ引かれそうになって、手すりを握り直した。

 

 測れた支えへ足を移し、次の支柱へロープを掛け替える。

 靴底のすぐ先を、さっき渡ってきた白い床が横切った。

 あれほど広かった道が、ここからは細い帯に見える。

 手すりの隙間から見下ろすと、その続きだけが壁の向こうへ折れ、目で追った先にはもう、足を置けるものがなかった。

 

 壁のくぼみに入ると、ようやく二人が並べる幅になった。

 腰ほどの保守台がある。

 その脚と足元をそぴあが確かめる間に、らでんは最後の支柱からロープを回収した。

 新しい留め具へつなぎ直す。

 

「ここは、いまのところ動いてないよ」

「では、こちらで。……机があるって、ありがたいことなんですねぇ」

「ほんとにね。さっきから、紙を落としたら終わりだなって思ってた」

 

 そぴあは言いながら、鞄を留め具へ固定した。

 らでんも手帳の背へひもを通す。

 冗談だけで済む場所ではなかった。

 

 保守台の上には、内側へ開く点検枠があった。

 その向こうに、透明な板と、逆向きの文字が見える。

 

 回廊の先で見た、壁一面の図だった。

 こちらは、その裏側に当たるらしい。

 

「あ。説明板の留め具、ここから届きます」

 

 らでんは、正面から撮った写真を開いた。

 原図を覆っていた新しい板。四隅のねじ。

 そのうち二つは、こちら側で小さな爪に留められている。

 

「外して大丈夫な方?」

「原図を押さえている枠とは別です。板だけ、こちらへ起こせます」

 

 そぴあが裏の配線と支えを調べ、頷いた。

 らでんは取付状態を撮ってから、爪を順に外した。

 

 板を傷つけないよう、両手で受ける。

 そぴあが端を支え、保守台の脇へ留めた。

 

 隠れていた線が、つながった。

 

 鳥の翼に似た曲がりも、小さな欠けも、説明板の端で終わっていたのではなかった。

 細い線の束が、その外側まで伸びている。図の余白だと思っていたところにも、こちらへ向かう目が描かれていた。

 

 らでんはカメラを点検口から正面側へ回し、覆われていた部分を撮影した。

 画面の中で、読めなかった目盛りが原図の端まで続いている。

 

「……目の位置が、二つある」

 

 そぴあが言った。

 

 新しい説明板の写しでは、線が一つの中心へ集められていた。

 原図には、それとは別に、低い横顔と、そこから少し横へ移った横顔がある。

 

「写しの方は、ここを省いてますね」

「うん。これ、なくしちゃ駄目なところだ」

 

 保守台へ身体と荷物を固定してから、二人は記録と資料の照合に移った。

 そぴあの観測器は、発動時間を満了すると消えた。必要な位置の値は、手帳に残っている。

 そぴあが目盛りを読み直す。

 らでんは原図の下端に残る署名と日付を撮った。

 

 その隣には、建物へ据え付ける際の図が重ねられている。

 同じ目の印が、機構の小さな基準枠へつながっていた。

 

「あ、こっちにも同じ目がある。見る場所を、装置の基準にも使ってるんだ。……待って、帰る方の図も、ここから読めるかも」

 

 そぴあは、自分の手帳に二つの横顔を写した。

 その間へ短い線を引き、目盛りを添える。

 

 らでんは、線が目へ集まるところを見ていた。

 

「昔の絵の教本に、こんな版画がありましたよ。二人がかりで、楽器を描いてるんです」

「二人がかり?」

「ええ。一人は楽器の端へ糸を当てて、もう一人は、その糸が枠を通る場所を紙へ写す。見る人の目の代わりに、糸の集まる点を固定してあるんです」

 

 そぴあが図の横顔を、鉛筆で軽く示した。

 

「ああそういうこと。この人の目を、借りるんですね」

「そう。どこから見たかが残っているなら、絵から向こうへ、糸を張り直せる」

「一本だけだと、糸の途中のどこにあるかは決まらない。でも、もう一つの目の位置からも張ったら――」

 

 鉛筆が二つの線を辿り、途中で交わった。

 そぴあの指が、そこで止まる。

 今度は別の二本を追い、また同じように交点を確かめた。

 

「……あ。これ、読める」

「向こうが?」

「うん。待って。先に書くから。らでんさんの紙、まだ見せないでね」

 

 らでんは、手帳の後ろのポケットを押さえた。

 枠から見たものを書いた紙が、そこにある。

 

 まだ、開かない。

 

 そぴあも、こちらの手元を見なかった。

 

 そぴあが図を読み直している間に、らでんは銘板の写真を並べた。

 

 正面。

 裏側。

 灯りを横から当てたもの。

 

 一枚では潰れていた器材番号の末尾が、別の一枚では読めた。

 入域前に保存した台帳の索引を開く。

 オチマの管理局が付けた整理票と、旧院の台帳の画像が並んだ。

 古い器材番号も、欄外の書き込みも、そのまま残されている。

 

 あった。

 

 携行観測枠。

 番号の続きまで一致する。

 

 記載された出航日を、出航簿と照らした。

 同じ航海に属する観測原票の整理番号も見つかる。

 別の観測者の名が付いていた。

 

 らでんは、表紙だけを開いて待った。

 

 隣では、そぴあが最後の線を引いていた。

 書き終えたところを撮影し、時刻を残す。

 

「できた」

 

 鉛筆を置く。

 

「……ちょっと、変な答えになったかも」

「おや。楽しみですねぇ」

「今さらだけどね。変じゃない方が困るんだけど、これは……ここ、一本に見えるはずなんだよね」

 

 そぴあが紙をこちらへ回した。

 

 欠けた輪郭。

 その奥に、白い柱が一つ。

 

 少し離して、もう一枚の小さな図。

 今度は、柱が二つになっていた。

 

 らでんの指が、止まった。

 

「低い方の目へ移して、横から見ると分かれる。一本の柱が割れるんじゃなくて、前と後ろにあるものが、重ならなくなる」

 

 そぴあは続けた。

 

「あと、この欠けの下。上からだと手前に隠れるけど、低い位置なら、細く分かれてるところが見えるはず」

 

 その線を、らでんは知っていた。

 

 暗い水。

 濡れた板。

 枠が低くなり、ほんの少し横へ流れた。

 

 一本だった白が、二つになる。

 

「……開きますね」

 

 紙を取り出した。

 折り目を伸ばし、そぴあの記録の隣へ置く。

 

 そぴあは、一行目から読んだ。

 形を見て、視点を動かした矢印を見た。

 

 もう一度、自分の紙を見る。

 

「え」

 

 小さな声だった。

 

「……二本、見えたの?」

「はい。最初は一本でした。そのあと、前後に分かれて」

「下の、ここも?」

「そこも。細い分かれ目がありました」

 

 そぴあは、口を開きかけて閉じた。

 笑うより先に、もう一度、原図の目盛りへ目を戻した。

 

 らでんは、その一拍を待った。

 

「私、横へ動いたのが、どちら向きだったかまでは書けていません。そこは、同じと言い切れないです」

「うん。そこは空けとこう。でも、前と後ろに別の柱があって、見る位置を変えたら分かれる。そこは、合ってる」

 

 そぴあが、自分の鉛筆を縦に持った。

 

「ちょっと、それ、借りてもいい?」

 

 らでんの鉛筆も受け取り、一本を手前、もう一本をその奥へ。

 らでんの片目からは、重なって一本に見えた。

 

「これだよね」

 

 頭を少し横へ動かす。

 手前の鉛筆が大きくずれ、奥の一本が、脇から現れる。

 

 戻す。

 一本。

 

 横へ。

 二本。

 

「鳥は、ばらばらのものを、一つに見せていましたね」

「うん。今度は逆。一つに見えてたものの、奥行きが分かった」

 

 そぴあが鉛筆を返した。

 らでんは、まだ表紙のままの資料を、二人の間へ置いた。

 

「もう一人に、聞いてみましょうか」

 

 そぴあの目が、端末へ動く。

 

「別の人の記録?」

「この枠と同じ航海の原票です。施設の制作者とは、筆記者が違います」

 

 表紙には、港側で付けられた受入番号があった。

 開いた頁は、展示の図より、ずっと荒かった。

 

 欄からはみ出した数字。

 太く引き直された線。

 ある印の横には、同じ場所を測り直したらしい、別の値もある。

 

 そぴあが日付と観測地点の符号を合わせた。

 らでんは、その頁の欄外へ目を移した。

 

 走り書きの輪郭。

 丸く囲まれた一か所。

 

 一本の線に、訂正が入っている。

 その後ろへ、もう一本。

 

「……『白柱、前後に二』」

 

 らでんが読んだ。

 

 そぴあは何も言わず、図を大きくした。

 低い観測位置から引いた線の先に、欠けの底が描かれている。

 細い分かれ目も、そこにあった。

 

 そぴあの指が、画面の縁を掴んだ。

 

「……いる」

 

 らでんは顔を上げた。

 

「私の図の中だけじゃない。こっちにも、いる」

 

 同じ言い方を、月のそばで聞いた。

 低くしゃがんで鳥を見つけたとき、そぴあは、いる、と言っていた。

 

 いまは、数百年前の紙へ向かっている。

 

 目の前には白い柱などない。

 壁と、保守台と、壊れかけた床しかない。

 それなのに、紙の向こうに、前後の離れた二本が立っている。

 

 枠から受け取った暗い水の断片が、勝手に埋め合わせた景色ではなくなる。

 そぴあは原図の線からそこへ辿り着き、別の人は、その場所に立って一本を二本へ描き直していた。

 

 訂正の線が、ひどく生々しかった。

 最初には見えなかったのだ。見直して、間違いに気づいて、紙へ戻った。

 その人も、いまの二人と同じように、もう一度見ようとした。

 

「……この人は実物を見てきたんですね」

 

 らでんは言った。

 

「この景色は、絵の中だけにあったんじゃない」

 

 そぴあが、深く息を吐いた。

 

「うん」

 

 小さく頷いてから、もう一度、二本の柱を見た。

 

「……すごいな、これ」

 

 そぴあは、自分の図を原票の隣へ寄せた。

 二枚の紙の間を、まだ何度も見比べている。

 

「この人と、話せたらなあ。ここの測り直し、何を見て気づいたんだろう」

「最初の一本が、二本になるところを?」

「うん。私なら、たぶん、もう一回戻って見てる」

「私もです。見えなくなった方が、今度は気になりだしました」

 

 そぴあは自分の図へ、小さな目を描き足した。

 端末に開いた数百年前の走り書きと、同じ位置に。

 その低い横顔が、ようやく同じところを向いた。

 

 手すりの向こうで、床の縁がわずかに揺れた。

 

 そぴあは、保存した観測値へ目を戻した。

 今いる保守台の脚と足場には、変化がない。

 時刻を残し、図の右下を示した。

 

「場所も、つなごう。原図の向きがどこを基準にしてるか、ここまで合わせたい」

「こちらは、枠の帰ってきた方を調べます」

 

 らでんは帰還受入の控えを開いた。

 

 観測枠の番号。

 補修済み、という記載。

 脇に、小さな添え図。

 

 塞がれた孔が、二つ並んでいる。

 一本の孔では留め直せなかったのだろう。

 位置を少しずらした継ぎ金具まで、あの枠と同じだった。

 

 現物の写真を隣へ置く。

 その孔の間を、短い工具傷が横切っている。

 

 枠は、出航した。

 向こうで使われ、補修され、戻ってきた。

 

 物だけではなかった。

 

 器材返却の確認欄に、自筆の署名があった。

 原図の下にある、制作者の署名と同じ名。

 

 出航簿に添えられた乗船者の控えにも、観測担当として同じ名があった。

 帰港日の帰還者欄から、器材の返却欄へ、係員の確認印が続いている。

 

 らでんは、その短い一行を、ゆっくり辿った。

 

「帰ってきてる」

 

 口にすると、胸の奥が緩んだ。知らず、ずっと息を詰めていたらしい。

 外へ行ったという記録の先に、人の名前がもう一度ある。

 

 まだ、この棟も銀の鳥もなかったころ。濡れた観測枠を港へ戻し、ここへ名前を書いた人がいた。

 受付の誰かが器材を数え、補修の跡を確かめたのだろう。

 控えには、受領の印もある。驚くほど普通の手続きが、知らない景色とこちら側をつないでいる。

 

「そぴあさん。本人も、帰ってきています」

 

 隣の鉛筆が止まった。

 

「……うん。そこ、大事」

 

 そぴあは一行を読んでから、自分の紙の端へ『帰還後』と書いた。

 二本の柱より先に、その文字を囲んだ。

 

 そぴあの端末では、古い航路の記録が、別の地図へ重なり始めていた。

 

 最初に合わせたのは、出航した港だった。

 次に、沖の島。離れた岬。

 いまも位置の分かる複数の場所を揃え、古い距離の単位を読み替える。

 

 そこから先は、航程と方位の記録だった。

 天体の観測欄、途中で測った標点への方向、往路と復路で重なる区間。

 そぴあは、それぞれが同じ場所を指すかを確かめていった。

 

 らでんが古い単位の注記を見つけるたび、隣へ寄せる。

 そぴあが保存した観測値を確認する間には、次に必要な頁を開いておいた。

 

 線は、一本の細い航路にはならなかった。

 古い記録の粗さを含んだ、幅のある帯として伸びていく。

 

「これは、測り損ねた幅ですか」

「うん。向きも距離も、昔の値に幅があるから。こっちで勝手に、細くはできない」

 

 帯の末端が、いまの地図に載った海域の外へ出ていた。

 

 紙が小さいからではない。

 倍率を変え、地図を引いても、その位置は変わらなかった。

 

 知っている港を揃えた、同じ物差しの上で。

 人類が把握する海域の外へ、観測地点が残っている。

 

 らでんは帯の内側の縁を指した。

 

「いちばん、こちらへ寄せても?」

「入らない」

 

 そぴあが言った。

 

「途中の記録を、ずれが大きくなる方へ見直しても。最後にこの二人が測ってる場所は、外側にある」

 

 画面の中の地図が、急に小さく見えた。

 

 大陸の形はさっきと同じだ。

 港も海も、仕事で訪ねた土地も消えていない。

 ただ、その全部を収めた輪郭が、画面の中央へ寄っている。余白の方が広い。

 そこへ、確かに人の道が一本つながっていた。

 

 らでんは端末を近づけ、すぐに元の位置へ戻した。

 拡大すれば、知っている世界はまた画面いっぱいになる。

 けれど、いま見てしまった外側はなくならない。

 

「……地図を、引いたんですね」

「うん」

「こんなに余るんだ」

 

 そぴあも、小さくなった港から目を離せなかった。

 

「その先、どこまで続いているかは?」

「そこは分からない。記録があるのは、ここで見た範囲だけ」

 

 そぴあは、帯の先に大きな陸地を描き足さなかった。

 白い柱の位置と、欠けた稜線の一部だけを残す。

 

 空白は、空白のままだ。

 

 それでも、らでんが触れたものは、その場所へ行っていた。

 潮を浴びた枠を持って帰った人が、そのあと、ここを作った。

 

 らでんは受領の署名と、原図の日付を並べた。

 

「この人、外へ行って、帰ってきて。それから、鳥を作ったんです」

 

 そぴあが顔を上げた。

 

「……順番、逆だったんだね」

 

 らでんは、二本の柱をもう一度見た。

 

「数学で景色を思いついたんじゃない」

 

 その言葉を、そぴあが受け取った。

 

「見た景色を、ほかの人にも見せるために、数学を使った」

 

 保守台の上で、三枚の記録が並んでいた。

 どれも、同じ小さな欠けを持っていた。

 

 原図を支える枠には、何枚もの施工図が綴じ留められていた。

 退去設備の調整に必要なものを、らでんが順に撮っていく。

 

 最初のものには、景色だけがあった。

 輪郭と、目の位置と、細かな数字。

 

 次のものには、板が増えていた。

 その次には、足場。

 足場の位置が変わり、手すりが下がり、月から離れる向きに、短い溝が加わる。

 

「……これ、私たちの足跡のところだ」

 

 そぴあが、図の一角へ指を置いた。

 

 現物にあった、外を向いた溝。

 球の軌道を直すきっかけになったものだ。

 

「受け台も、いまの形に直してる。ここで止まったときに、体がこっちを向くように」

「低い方の手すりは、そのあとですね」

「うん。……これ、手をついたら、自然に目が下がるんだ」

 

 らでんは、着いたときのことを思い出した。

 

 石へ靴底が触れた。

 膝を曲げた。

 手すりを掴んで、ほっとして、顔を上げた。

 

 そこに、鳥がいた。

 

 その順番を、作っていた。

 

 そぴあが次の図をめくろうとして、日付へ目を止めた。

 らでんは帰還受入の年と、いちばん新しい施工図の年を指す。

 

 その間に、三十年以上あった。

 

 帰ってきた人が、三十年以上、これを直していた。

 図が増えるたびに誰かの足を置く場所が増え、握るところが変わり、うまく通れなかったときの支えが足されている。

 鳥の輪郭を直すより先に、見る人の膝や手の位置を直した年もあった。

 

 らでんは、紙の端を押さえる指へ目を落とした。

 帰還者の署名を見つけたばかりだった。

 その人が戻ってから過ごした長い時間まで、いま、二人の身体に触れてくる。

 

 着地のあとで自然に曲がった膝も、探さず掴めた低い手すりも、景色の外にある付け足しではなかった。

 

「『ここを見れば分かる』だけでは、駄目だったんでしょうねぇ」

 

 らでんは、最初の図へ戻った。

 あまりに細かく、目の置き場に迷う一枚。

 

「この人には、これで見えていた。でも、ほかの人の目には、まだ見えていなかった」

「だから、説明を増やしたんじゃなくて」

 

 そぴあが、受け台の線を辿る。

 

「見えるところへ、連れてきたんだ。同じ高みまで辿り着けるように」

 

 らでんは頷いた。

 

 知らない言葉を覚えなくても。

 正しい式を、先に言えなくても。

 

 膝を曲げて顔を上げれば、ばらばらの銀が、一羽になる。

 

「そぴあさん、何度もしゃがんでましたものね」

「らでんさんだって、先にやってたじゃないですか」

「やってました。ええ、何度か」

 

 そぴあが笑い、画面の中の古い足場へ目を戻した。

 

「……これ、見てほしかったな」

 

 らでんは、隣の横顔を見た。

 

「私たちが?」

「うん。二人して、立ったり座ったりしてるところ。すごいって言って、もう一回って言ってたところ」

 

 原図の隅には、小さな修正があった。

 削られた線。その脇へ、もう一度引き直した線。

 

 らでんが台座から見た手も、あんなふうに動いていた。

 届かなかったものを、もう少しだけ、届く形へ直していたのかもしれない。

 

 らでんは、そぴあが撮った動画を開いた。

 

 低い位置へ下がる画面の中で、鳥の翼が揃う。

 その外から、小さな声が入っていた。

 

 いる。

 

 二人とも、しばらく何も言わなかった。

 画面の外で、細い笑い声が重なる。

 声の主はすぐ隣にいるのに、あのときの暢気な息遣いが、もう少し遠い。

 

 らでんは再生を止め、保存されていることを確かめた。

 図面だけでなく、これも残したかった。

 あの仕掛けを通った人が、そこで何を見て、どんな声を出したのか。

 

「これも、持って帰りましょうね」

「うん。絶対」

 

 そぴあは、今度はすぐに頷いた。

 

 施工図の最後には、帰還設備の基準表が付いていた。

 

 新しい説明板では、途中から途切れていた線。

 原図では、外へ向かう観測の線と、戻るときの低い目の印が、別々に記されている。

 

 そぴあが読み進める間に、らでんは端の小さな文字へ灯りを当てた。

 

 鳥にも、門にも、球の模型にも重ならなかった、あの線だった。

 その先の余白に、短い書き込みがある。

 

「……『未詳』」

 

 そぴあが顔を寄せた。

 

「まだ、分かってないってこと?」

「ええ。この記録を書いた人にも」

 

 線そのものは、消されていなかった。

 見る位置と方向の一部は残っている。

 けれど、そこから何がどう見えたのかを、ほかの図のようには説明していない。

 

 そぴあは、端まで画面に収めた。

 

「これ、描き忘れた余白じゃないんだ」

「分からないまま、残したところなんですね」

 

 原図のこちら側には、二人にも分かった景色がある。

 同じ紙の先には、作者さえ説明し切れなかったものがある。

 

 らでんは、なかなかそこから目を離せなかった。

 

 そぴあも同じらしく、指を動かしかけて、止めた。

 

「……気になるね」

「ええ。大変、困ったことに」

 

 そぴあが短く笑った。

 

「でも、帰る方の基準はこっち。未詳の線を解かなくても、そこまでは読める」

「はい。先に、帰る方を」

 

 記録を閉じず、必要な部分を隣へ並べる。

 未知を捨てるのではない。

 いま使うものを、先に手へ取った。

 

 そぴあが、保守台の下にある点検蓋を開いた。

 

 原図の目の印から引かれた案内が、古い基準金具へつながっている。

 その隣に、後から足された真鍮の渡し金具があった。

 

 らでんは、入域前に撮った扉の下の写真を出した。

 添え物に見えて、大きな鉄の腕を支えていた、小さな部品。

 

 その奥へ消えていた連結が、ここへ続いている。

 点検口から見える接合部と、据付図の継ぎ目を順に照らした。

 

「この渡し金具、同じ改修のものですね。留め方も、加工の跡も」

 

 そぴあが図面を開いた。

 

 前室を元に戻す腕。

 本来なら、それとは離れている奥の装置。

 

 現物では、その間がつながっていた。

 

「……だから、戻したら、奥も動いたんだ」

 

 らでんは、灰色の壁へ星が灯った瞬間を思い出した。

 同じ把手を戻しただけだった。

 図面にはない音が、壁の向こうで鳴った。

 

 原因になったつながりが、いま目の前にある。

 

 さらに奥で、帰還側の基準を受ける古い金具が途切れていた。

 切断された端は黒ずみ、後から取り付けられた板が、その一部を覆っている。

 

 代わりの連結は、外へ戻る側ではなく、内側の目盛りへ渡されていた。

 

「外へ合わせる目印をなくして、内側のものを代わりにしてる」

「それで、帰る場所が合わなくなった?」

「うん。図の通りに追うと、そうなる。ずれた内側を目印にして、また内側を直そうとしてるんだ」

 

 そぴあは、これまでの観測を並べた。

 月の入口で、道がずれた。

 回廊でも、入口が戻りきらなかった。

 さっきは、床そのものが重なり損ねた。

 

「直すたびに、同じところへ戻れる幅が減ってる。残った基準も傷んでるから、もう補い切れてない」

 

 らでんは、切られた金具へ灯りを当てた。

 

「どうして、こんなことを」

「そこは、まだ分からない。けど、これを外したら直る、じゃないんだ。残ってるつながりまで落ちるかもしれない」

 

 らでんは頷き、工具へ伸ばしかけた手を撮影の方へ戻した。

 

 作者が、人を閉じ込めるために作ったものではなかった。

 帰るための基準も、戻る足場も、ちゃんと用意されていた。

 

 その一部が、あとから失われた。

 

 原図には、まだ失われる前の向きがある。

 

「目印を、取り直せば」

 

 らでんが言うと、そぴあの目が上がった。

 

「うん。恒久的に直すのは無理でも、帰還の一回に合わせるなら」

 

 そぴあは記録を閉じ、次の計測に選ぶ九項目を確かめた。

 帰路の位置も、支えの荷重も、ここまでと同じ項目で取れる。

 肩のそばに、三つの環が現れた。

 四百九十六秒の計測が、新しく始まる。

 

 《万象観測器(プリンキピア)》。

 

 何度具現化しても、変わらなかった二十八メートル。

 選んだ九つは、この発動が満了するまで変えられない。

 

 保守台の横に、低い観測窓があった。

 そぴあが原図の目の高さを読み、らでんは窓の下の足置きを確かめた。

 

 膝を曲げる。

 胸を少し引く。

 

 壁の向こうにあった線が、窓枠の刻みに重なった。

 

 片側に、白い道の一部が見える。

 別の開口には、月の裏側と、これまで見えなかった小さな盤。

 その奥に、細かく詰まっていく目盛りがあった。

 

 どれも、遠くまで歩いて探し直す必要はなかった。

 展示を裏からつなぐ保守用の開口が、終端のこの台へ集められている。

 

 ただし、いま通れるかは別だった。

 そぴあは窓ごとに立つ位置を変え、円の中へ入る足場と、金具の反応を順に確かめた。

 

「最初の切替を戻すと、月の裏の盤が起こせる。その盤が合えば、こっちの止め具まで届く」

 

 らでんは、その動きを図の上で追った。

 

 まっすぐ行けば、一周する道。

 横へ落ちて、回り込む月。

 目盛りを数えず、端まで行ける短い距離。

 

 どれも、もう一度教わらなくても分かった。

 

「最後は、送り装置ですね」

「うん。さっきの小さいのと、同じ系統」

 

 そぴあが、二本線の『復』を示した。

 その先には、別棟の受け台へ向かう登録が残っている。

 装置の構内番号は、持参した配置図のものと一致した。

 

 そこへ戻れるように、基準を合わせ直す。

 形だけではなく、どちら向きに変わっている途中かも確かめて。

 

「向こうの床は、まだ見ていませんよね」

「うん。小物とカメラを先に送ろう。ちゃんと立てるか、確かめてから」

 

 らでんは、予備の小さな重りを取り出した。

 表面へ斜めの印をつけ、点検棒のカメラと一緒に、すぐ出せる場所へ収める。

 

 さっき失くした真鍮の板は、拾いに戻れない。

 新しい目印で、帰る場所を確かめる。

 

 そぴあが、原図の低い横顔を見た。

 

「この人が戻るときに見た方を、最後の基準にしてある」

「見てきた景色を、置いて帰るための場所」

「そう。見せて、帰す。そこまでで、一つなんだね」

 

 らでんは、窓の下の足置きを撫でそうになり、指を止めた。

 

 帰ってきた人が、作った場所だった。

 人が帰ることを、忘れていたはずがない。

 

 そぴあの手が、記録の上で止まった。

 

 こつん。

 

 足置きには、何も起きなかった。

 けれど、窓の向こうで、一本の横棒が曲がった。

 

 片端は、月の裏の盤に付いたまま。

 もう片端は、隣の開口へ入っている。

 

 金属そのものには、曲げられた跡がなかった。

 部屋と部屋のつながりが、棒の途中へ、角を作っていた。

 

 円の縁も、その角で折れた。

 

 そぴあが窓の前へ戻る。

 同じ立ち位置。同じ高さ。

 環が一つ回り、手帳へ、新しい値が加わった。

 

「……さっきより、詰まってる」

 

 窓の向こう、帰還用の連結部に付いた二つの標が、近づいて見えた。

 こちら側の目盛りは変わらないのに、接続を挟んだ対応だけが、押し潰されていく。

 

 そぴあは、原図の線と、今の測定を重ねた。

 

「このまま進むと、戻す計算が成立しなくなる」

「計算が、追いつかなくなる?」

「ううん。速さの問題じゃない」

 

 そぴあは、帰還側の二つの印を指した。

 

「こっちで見分けられた場所が、同じところへ潰れてしまう。そこまで行くと、元のどこへ戻せばいいか、決められない。この接続の、特異点」

 

 らでんは、二つの印の間にある、細い空白を見た。

 

「もっと、正確に測っても?」

「間が残ってるうちは、助けになる。でも、なくなったあとは別。一をゼロで割れないのと同じです」

 

 そぴあの円は、変わらなかった。

 

 測ることはできる。

 何が、どちらへ、どれだけずれているか。

 

 その先に、測れていても帰せない場所が来る。

 

 らでんは、手帳のポケットを確かめた。

 折った紙も、そぴあの予測も、照合した記録もある。

 原図の画像。帰還受入の署名。銀の鳥を見つけた声。

 

 鞄の口を閉じ、肩へ掛け直す。

 

「そぴあさん。間に合う方を、お願いします」

 

 そぴあは、二人が通る順番へ視線を戻した。

 最初の盤。月の裏。送り装置。

 観測儀が一緒に通れる幅と、今ある足場。

 

 最後に、自分の手帳を閉じた。

 

「帰れます」

 

 らでんが顔を上げる。

 

 そぴあは、もう一度だけ、近づいていく二つの印を見た。

 

「今なら」

 




今回、らでんが話した「二人がかりで楽器を描く版画」は、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)の木版挿絵 “Draftsman drawing a lute”(1525年)を参考にしています。

リュートという楽器を前に、糸や枠を使って、その見え方を紙へ写し取る図です。
「何が見えたか」だけでなく、「どこから、どう見たか」を残そうとする工夫が、今回の原図を読む場面の参考になりました。

米国議会図書館の作品情報:
https://www.loc.gov/item/92518203/

メルボルン大学の作品・装置の紹介:
https://arts.unimelb.edu.au/about/arts-west-gallery/past-exhibitions/albrecht-durers-material-renaissance/master-engravings

※大学のページで紹介されているのは、デューラーの原図に基づく、Johan Janssenによる1605年の複製です。1525年の原図と、紹介されている複製の制作年は区別しています。

また、鉛筆を使って「一本に見えていたものが、見る位置をずらすと二本に分かれる」場面では、視差という性質を使っています。
身近なペンや遠くの物を見比べる実験と、測量へのつながりは、OpenStax『Astronomy 2e』第19.2節 “Surveying the Stars” が参考になります。

OpenStaxの解説:
https://openstax.org/books/astronomy-2e/pages/19-2-surveying-the-stars

見たものを正確に写し取り、その見方をほかの人へ渡そうとする、美術と数学の仕事に敬意を込めて紹介します。

本作の観測枠、原図、航海記録、銀の鳥、念による空間接続、登場人物の会話は創作です。実在の作品や解説の台詞を転載したものではなく、デューラーの実人生をこの施設の制作者へ置き換えたものでもありません。
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