儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第四話 桐生ココ、会長就任

 1994年9月18日

 14:54

 

 右の刀の向こうに、黒い箱の角が見えた。

 あやめの腰の後ろ。さっきは隣に座れば見えた物が、今は二本の刃の先にある。

 そこまで、たった数歩。間にあるのは刀と、何も落ちていない乾いた舗装だ。

 

 赤い目が、はじめを見ていた。

 胸の高さにある右の刀。その下で、斜めに寝かされた左の刀。

 隙間はある。人が一人、通れそうな隙間だ。

 

 たぶん、通ったら斬られる。

 

 あやめの周りには、薄くオーラが広がっていた。

 広場全体を覆うほどではない。

 けれど刀が届くところへ入るには、その中を通らなくてはならない。

 

 《円》

 

 右へ蹴るなら左足に体重を預ける。左へ出るなら、その逆。

 目の前の用心棒は、そういう準備を拾ってくる。

 刀を構えて待っているだけなのに、足を預ける先がもう危ない気がした。

 

『外からの接近は、まだない。抜ける通りにも人影はないよ』

「うん。ありがと」

 

 北では、かなたとわためが止めてくれている。

 ルイ姉も周りを見ている。

 ここを抜けるのは、はじめの仕事だ。

 

 片手ずつリュックの肩紐を引き、背中へ寄せた。

 薄いオーラを、両方の靴底へ回す。

 

 次の一歩を読まれるなら。

 

 そ(・)の(・)一(・)歩(・)を(・)、(・)踏(・)ま(・)な(・)け(・)れ(・)ば(・)い(・)い(・)

 

 広がる《円》の手前で、小さく地面を蹴った。

 あとは、足を振り出さない。

 靴裏を薄いオーラで覆った。変化させ地面の上を滑る。

 力を抜け、脱力しろ、最大限リラックスした状態で相手の間合いへ。

 

 《滑走(グラインド)》

 

 靴底と舗装の間を、薄いオーラで滑る。

 肩を落とし、腕を緩めた。

 膝にも、腰にも、次に蹴り出すための力を溜めない。

 両足を地面へ置いたまま、最初の踏み込みの勢いで身体だけがスッと近づいていく。

 

 左へ抜けるか。右へ抜けるか。それとも下か。

 どちらでも最速に動ける。

 どちらかの脚に体重を預け直す、その手前のまま進む。

 

 あやめの目が、靴先から肩へ戻った。

 今いる場所は、見えている。

 《円》が近づく。

 それでも、次に蹴る足は見せていない。

 

 広がるオーラへ、靴先が触れた。

 

 あやめの右手が動く。

 その瞬間、はじめは身体を支えていた力を抜いた。

 

 《落拍(ドロップ)》

 

 腰が、くっと落ちる。

 肩も、背中のリュックも、そのまま刃の下へ。

 頭のすぐ上を刀が走り、風が帽子の縁をはたいた。

 左の袖が、遅れて裂ける。

 腕には届いていない。

 

 避けた。

 

 低いまま滑り、右肩を先にして、あやめの左脇へ抜けようとした。

 ここまで入れば、拳が届く。

 

 その先へ、もう一本が来た。

 

 左の刀。

 低く寝かされていた切っ先が、斜めに跳ね上がる。

 立ち上がるところを待っているのではない。

 今、下へ逃がした頭を、そのまま斬るための刃だ。

 

 顔も胸も、右肩のあとについていく。

 その先が、銀色で塞がれた。

 

 うわ。次が読まれた。

 そっちまで、用意してあるのか。

 

 止まれば間に合わない。

 後ろへ跳ぶために足を置き直す、その時間もない。

 左の刃が、もうそこにある。

 

 広場の音が、遠くなった。世界がどんどん遠くなる。

 まるで自分とあやめしか世界にいなくなったような。

 世(・)界(・)の(・)す(・)べ(・)て(・)の(・)時(・)間(・)が(・)限(・)り(・)な(・)く(・)遅(・)く(・)な(・)っ(・)た(・)。

 

〈初動を読めないよう脱力姿勢のまま正面突破……余の一の太刀をかわすには、いい考えだった余〉

 

 あやめの声だった。

 けれど、口は動いていない。

 

〈でも、それ悪手だよ。余にも次があるって、考えなかった?〉

 

 声になるより前の言葉が、耳の奥へ届く。

 考えた。考えたけど、こんなに次が早いとは聞いてない。

 そう思った途端、赤い目が笑った。

 

〈さようなら、楽しかった〉

 

 刀が近い。

 これだけの言葉を交わせる時間なんて、あるはずがない。

 それなのに、胸の中だけが妙にはっきりしていた。

 

 戻さなきゃ。

 でも、戻している間に――。

 

 その時、別の声を思い出した。

 


 

「一呼吸を、”分”と呼ぶ」

「一分も息止めんの?」

「時計の一分ではない。ひと息のことじゃ」

 

 老人が笑い、胸の前で手を開いた。

 

「その分を八つに分けて、”秒”。さらに細かく十六に分け、”糸”、”忽”と分けてゆく。動きの間を、それほど小さく見よという教えじゃ」

 

 はじめは、自分の手へ目を戻した。

 

「……そこまで数えてたら、相手に殴られるけど」

「そうじゃな」

「そうじゃな、じゃなくて」

「拳を出そうとして、息を止める。肩を固める。脚を踏ん張る。さて打つぞ、と身体へ知らせておる。考えている間に相手は打てる」

 

 目の前の、布を巻いた柱を見る。

 はじめは拳を構え直した。

 

「では、もう一度。息を速くするのではないぞ」

「動くのは速く?」

「動(・)こ(・)う(・)とするな、動(・)け(・)」

 

 肩に入った力が、自分でも分かった。

 はじめは一度、腕を下ろした。

 

 踊る時、次の動きが身体から出ることがある。

 足を置く。腰が動く。

 そのあと肩、と考えなくても、一つの動きになる。

 今も、そうすればいい。

 

 息を吐いた。

 その息を途中で止めず、拳を出した。

 

 布が、短く鳴った。

 

 拳が柱へ触れた時には、足裏も、腰も、肩も、オーラも、そこに揃っていた。

 打ってから気づいた。

 いつも先に入れていた力が、いらなかった。

 

「……いまの」

 

 和尚が、膝から身を起こした。

 さっきまで細く笑っていた目が、大きく開いている。

 

「見事」

 

 もう一度、頷いた。

 

「今のが”忽”の先、”雲耀”」

 

 はじめは手を開いた。

 すごいことをした手には見えない。いつもの手だった。

 ただ、打つ前と打ったあとが、すぐ隣にあった。

 

「もっかい、できるかな」

「まず、今の呼吸を忘れるな。型だけ覚えて帰るでないぞ。おぬしは今、息まで一緒に打っておった」

 


 

 今の呼吸を、忘れるな。

 

 息を止めていた。

 斬られる、と身体を固めていた。

 

 はじめは、その力をほどいた。

 

 戻すのは、斬られるところだけ。

 

 右肩を引く。

 前へ出した時と同じ道を、逆向きに。

 顎が戻る。胸が引ける。腰は、まだ前へ滑っている。

 頭から順に、上半身だけを巻き戻した。

 

 《逆拍(リワインド)》

 

 踊っている時なら、何度もやった。

 進んでいた動きを、いきなり逆再生する。

 肩を戻しても、腰はついてこない。

 胸を引いても、脚まで帰さない。

 身体の全部に、同じ命令を出す必要はない。

 

 左の刀が、顎の前を斜めに通った。

 風が頬を擦る。

 頭を戻したあとの空間へ、刃が切り上がっていく。

 

〈――え?〉

 

 短い声が、遠ざかった。

 広場の音が戻ってくる。

 

 まだだ。

 あやめは、まだ刀を持っている。

 

 膝は深く折れたまま。

 腰は前、胸は後ろ。

 背中のリュックが地面へ触れそうなくらい、上半身だけが反っている。

 ここから普通に立とうとしたら、三の刀で斬られる。

 

 じ(・)ゃ(・)あ(・)、(・)立(・)た(・)な(・)き(・)ゃ(・)い(・)い(・)。

 

 左の踵だけ、薄いオーラを引いた。

 靴底が舗装を噛む。

 つま先を浮かせ、その踵を軸にして、腰をくるりと回した。

 

 《転軸(ピボット)》

 

 右足は滑ったまま、外へ弧を描く。

 反った胸を起こす前に、腰だけが横を向いた。

 遅れて肩が回り、頭がそのあとを追う。

 低く折り畳んだ身体が、足元の一点を残して向きを変える。

 床すれすれのターン。

 踊りの途中みたいに、そこからまた動きが始まった。

 

 あやめの左手が、刀を返そうとしていた。

 その手首の内側へ掌を添え、戻ってくる道を一瞬だけ塞ぐ。

 刃には触らない。

 

 右の刀の柄も、もう引かれ始めている。

 二本とも、まだ終わっていない。

 

 こっちも、終わらせない。

 

 右の靴底を地面へ戻す。

 滑ってきた勢いを受け止め、回ってきた腰をその上へ送った。

 膝がほどける。胴が戻る。肩が前へ出る。

 さっきは巻き戻した順番を、今度は足元からつなぎ直す。

 

 《継拍(トランジション)》

 

 回避の終わりが、そのまま次の動きの頭になる。

 踊りなら、ここで一度構えたら間が空く。

 身体も、見ている相手も、そこで待ってしまう。

 だから止めない。反った背中を起こす動きも、腰を回した続きも、全部使う。

 

 あやめの胴へ、オーラが戻っていた。

 間に合う。

 そういう速さで、守りが集まってくる。

 

 でも、こっちはもう踏み直さない。

 拳を引かない。

 

 息が抜ける、その途中で。

 足裏から胴へ、胴から腕へ、右の拳へ。

 全身をつないできた動きが、そこで一瞬、きゅっと締まった。

 

 打つ形と《流》が、一つに揃った。

 

 《”雲耀”・無拍(ヒット)》

 

 守りが集まりきる前へ、短い拳が届いた。

 背中の箱から外れた、肋骨の下、身体の正面。

 肘が伸びきるより先に、鈍い手応えが返る。

 

 あやめの口が開いた。

 声になる前の息だけが、そこから抜けた。

 足で支えていた高さが落ち、片膝が舗装につく。

 

 はじめは手首を離し、刃の外へ身体を抜いた。

 右の刀の先が地面を擦り、柄を握っていた指がほどけた。

 左も下がり、二本とも舗装へ落ちる。

 

 あやめは、すぐに足を立て直そうとした。

 膝が少し浮いて、また落ちる。

 息を吸おうとして口を開き、片手で腹を押さえた。

 顔は上がっている。こちらを追う目も残っていた。

 けれど、刀を振るための腰が起きない。

 

 落ちた刀の柄を、靴先で押した。

 一本ずつ、あやめの腕が届かない舗装へ滑らせる。

 指が追ってきたが、握るところまでは届かず、身体を支えるために地面へ戻った。

 

 はじめも、ようやく最後まで息を吐いた。

 

 危なかった。

 滑って入っても、二本目までちゃんと来た。

 最後の刃が通った場所を思うと、今になって首の後ろが冷える。

 

 14:56

 

『はじめ、大丈夫?』

「動ける。今、箱取る」

 

 声を出すと、思ったより息が弾んでいた。

 拳を開く。肩の奥が重い。

 朝から走って、登って、殴ってきた分に、今の分がちゃんと増えている。

 それでも、両脚で立てる。手も動く。

 

 あやめが顔を上げた。

 白い髪が頬に落ち、口元が少し動く。

 

「……今のも、踊りのやつ?」

「呼(・)吸(・)の使い方」

「先に……見せて余」

「見せたら、斬るじゃん」

 

 あやめが笑いかけ、途中で息を止めた。

 はじめは背中側へ回った。

 

 黒いケースは、二本の短いベルトで腰の帯へ留められていた。

 地面には当たっていない。

 底を片手で支え、バックルへ指をかける。

 

「箱、外すよ」

 

 はじめは留め具を順に外し、鞘に引っかけないよう持ち上げた。

 箱の重さが、そのまま手へ移る。あやめの肩が動いた。

 はじめは一歩離れたが、向こうの手はケースへ来ず、もう一度舗装を支えた。

 

 取れた。

 まだ、中を見なければいけない。

 

「ルイ姉。ケース、取った。確かめたい」

『左の抜け口から出て。角を曲がった先、今は人がいない。そちらを見る』

「分かった」

 

 持ち手を握り直し、歩き出した。

 抜け口の手前で一度振り返る。

 あやめは膝をついたまま、顔だけをこちらへ向けていた。

 刀は手から離れたところにある。

 赤煉瓦の角を曲がるまで、背中に刃は来なかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 14:58

 

 通りの脇でリュックを下ろした。

 頭の上には空があり、通りの先も見える。

 ケースを平らに置いてしゃがむと、閉じた蓋の上へ自分の影が落ちた。

 

『近づく人はなし。確認して』

 

 携帯を出し、朝にらでんから届いた写真を開く。それを脇へ置いてから、ケースの留め具を外した。

 

 黒い緩衝材のくぼみに、《蝉》がいた。

 

 掌に載るくらいの、小さな品だった。

 金属の胴に配された石。その左右に、薄い翅が広がっている。

 

 あった。

 

 写真を大きくし、石の並びと間隔を追った。

 翅の輪郭、先端の形、内側を走る細い線。

 画面とケースの中を順に見比べる。

 見えている特徴は合っていた。

 朝から画面の中でばかり見ていた《夜明けの蝉》が、今は手元にある。

 

 もう少しよく見ようと、顔を横へ動かした。

 

 翅が、青くなった。

 

 さっきまで濃い紺だと思っていたところだった。

 触っていない。ケースも動かしていない。

 見る場所を少し変えただけで、翅の端まで明るい色が渡っていく。

 さらに角度を変えると、その薄い面に淡い金色が浮いた。

 

「……すげー」

 

 さっきの位置へ戻る。

 金色が引き、青が深くなって、紺へ戻った。

 《蝉》はずっと、同じ形で収まっている。

 動いたのは、はじめの頭だけだ。

 

 七宝、とらでんは言っていた。

 見る角度で色が変わる。

 聞いた時は、そのままの意味で受け取った。

 言われたとおりだ。なのに、聞いていた時とは全然違う。

 

 箱の縁へ指を置いた。力を入れていた指が、そこでようやく緩んだ。

 こんな薄い翅の中に、何色もある。

 これを二百年くらい前の誰かが作ったのか。

 

 らでんに話したら、また知らない言葉が五個くらい増えるんだろうな。

 今度は、増えてもいい気がした。

 

『はじめ? 中、合ってた?』

「うん。写真と、形も石の並びも合ってる。《夜明けの蝉》、回収した」

『よし。よくやった、はじめ』

「翅、めちゃくちゃきれい」

『らでんにも伝えてあげないとね』

「うん。これは話す」

 

 もう一度だけ、顔を少し傾ける。

 青の端に淡い金が見えた。

 はじめは翅へ触れずに蓋を閉じ、二つの留め具を戻した。

 閉じれば、ただの黒い箱だ。

 でも、その中に何があるのかは、もう知っている。

 

 リュックのカバーをめくって口を開き、中の物を片側へ寄せた。

 ケースは収まる大きさだった。

 背中側へ寄せて入れ、口を閉じてから両脇の調節ベルトを引く。

 布越しに箱が固定され、背負い直しても中で動く感触はなかった。

 水も脇のポケットにある。

 

『はじめ自身は? どこか切られてない?』

「袖は切られた。腕は平気」

 

 裂け目の下を確かめた。

 皮膚は切れていない。肘を曲げ、指を握る。

 

「ちゃんと動く」

『戻ったら見てもらおう。頬のも、触らないでね』

「それ、今日ずっと言われる」

『触りそうだから言ってるの』

 

 伸ばしかけていた指を、肩紐へ戻した。

 よく見ている。

 

 背中の重さが、来た時とは違う。

 軽い箱一つなのに、当たる感触がやけにはっきりしていた。

 

「ルイ姉。ココんとこ戻る。どっちへ出よう?」

『北には回らないで。角を二つ戻って、南の歩道を使おう。車道は詰まってるけど、歩く方は通れる』

「じゃ、歩いて戻る。二人にも言っとく」

 

 携帯からかなたへ電話をかけた。

 短い呼び出しのあと、聞き慣れた声に変わる。

 

『はじめちゃん。取れた?』

「取れた。用心棒も止めた。今、公園を出たとこ」

『僕らはまだ北の通り。こっちへ来てる連中は通してない。そっちはルイさんに見てもらって、先に戻ってて』

 

 電話の向こうで、少し離れた声がした。

 

『はじめちゃん、荷物も一緒ー?』

「一緒! ちゃんと取った!」

『よかったぁ。気をつけて戻ってね』

「二人とも、ありがと」

『うん。じゃ、またあとで』

 

 通話を終え、携帯をしまった。

 あの二人が北で止めてくれている間に、こちらも取れた。

 刀から一度も目を外せなかった時間を、外側から守ってくれていた。

 

「ルイ姉。いったんココのとこ。道、お願い」

『了解。次の角は左。今は急がなくていいよ』

 

 肩紐を握って歩き出す。

 ずっと取りに行っていた物が、今は自分と同じ速さで進んでいた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 15:12

 

 交差点の向こうで、黄色い作業車が潰れた車を持ち上げていた。

 歩道まで柵が出ている。はじめは前の人につられて止まり、脇の細い道へ回った。

 

『そこを抜けたら、次は右。駅前には出ないで』

「こっちも混んでるね」

『一本ずつ見ていこう。通れる方へ案内する』

 

 曲がった先では、店の男が外の看板を引っ込めていた。

 携帯を肩と耳で挟み、片手で扉を押さえている。返事をするたび、向こうの通りへ目が行く。

 隣の店も、まだ明るいのにシャッターを半分まで下ろしていた。

 

 朝の銃声から、ずいぶん離れたはずなのに。

 

 角の先には黒い車が二台停まっていた。

 窓越しに話していた男が、電話へ出るなり顔を背ける。もう一人も、その返事を待つように携帯を持ち上げた。

 はじめは二人の前を通らず、買い物袋を提げた人の後ろへついた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 15:34

 

「お。また会った」

 

 歩道の脇から声がした。

 店先の低い腰掛けに、白い髪の女の人が座っている。足元には長いケース。

 朝、柱の陰で笑っていた人だ。

 

「あっ、朝の!」

「今度は歩いてるんだ」

「ずっと走ってるわけじゃないよ」

「そりゃそうか。もうひと段落ついた感じ?」

「はやく終わってほしい〜」

 

 獅白ぼたんが、ははっと笑った。

 はじめも店の入口から外れ、肩紐を掛け直す。

 ぼたんの目が、リュックへ向いた。

 中を見せてとは言わなかった。

 

「大事なものでも運んでるのかい?」

「うん。そっちも重そう」

「重いよー。商売道具一式だからね。だから座ってる」

「なるほどね」

 

 せっかくなので、はじめも空いている端へ腰を下ろした。

 背中はつけない。

 水を一口飲むと、思っていたより喉が乾いていた。

 

 ぼたんの携帯が震えた。

 画面を見て、片方の眉だけが少し上がる。

 短く返事を打って、しまった。

 

「ぼたんも仕事?」

「まだ。今日は、手配が変わったって連絡ばっかりだ。ゴシカもずいぶんと荒れてるねぇ〜」

「それってうちらの朝の騒ぎで?」

「それだけなら、そろそろ落ち着いててもいいんだけどねえ。……なーんかきな臭いんだよなぁ」

 

 通りの向こうで、黒い車の扉が閉まった。

 中へ入ろうとしていた男が呼び止められ、また携帯を耳へ当てる。

 ぼたんは、その人を見ていた。

 

「ほら、みんな、話が変わったって顔してる」

「それ、見たら分かるの?」

「みんなピリピリしてるし、さっきまで暇そうだった人が、急に忙しそうになるからね」

 

 ぼたんの口元が、少し上がった。

 

「こういう日は、急に仕事が入るんだよねえ」

「忙しくなりそうってこと?」

「来るなら、実入りのいい仕事がいいな。せっかくここで待ってるし」

 

 足元の長いケースへ、靴先が軽く触れた。

 銃が入っているんだろうな、と今さら思う。

 朝も、あれを持っていた。

 

 まだ仕事は来ていないらしい。

 でも、ぼたんは帰る気もなさそうだった。

 

 15:42

 

「獅白さん。そこ、入口は空けておいてください!」

「空けてるよー。ぼたん、端っこ」

 

 制服の女性が、手前の通りから戻ってきた。

 遠くまで届く声。

 この人も、朝に会った。

 はじめが立つと、向こうも足を止めた。

 

「あっ、あなた! 朝の三人の!」

「あ、朝のお巡りさん」

「今は一人かな?」

「そう。これからはじめは戻るとこ」

「朝、止まってって言いましたよね」

「そうだけど。後ろから追われて銃来てたから、止まれなかった」

 

 女性が、はじめの頬を見た。

 笑って誤魔化せる感じではなかったので、水の蓋を閉めた。

 

「追ってきていたのは、誰なの」

「ベルベット商会の人。こっちは正式な代理人から頼まれた物を、受け取りに行っただけだったんだけど」

「受け取りで、あの騒ぎですか!?」

「はじめも、それ言いたいよ」

 

 ぼたんが横で小さく笑った。

 女性はそちらを見ず、手帳を開く。

 

「お名前と、依頼の確認ができる連絡先は?」

 

 携帯を出し、委任状の画面を見せた。

 轟はじめ、と名乗ると、女性は依頼の連絡先も短く書き留めた。

 ハンターライセンスを見せると女性はすこし驚いていた。

 

「プロのハンターさんですか。一体マフィアとつるんで何するんです?」

「本当に受け取って運ぶだけなんだけどなぁ」

「これは、あとで確認します。怪我は手当てしてますね?」

「頬はしてもらった。袖も切れてるけど、中は平気」

 

 左の布を少し持ち上げる。

 腕を確かめた女性の無線から、別の通りの名前が聞こえた。

 応援を求める声だった。

 

「百灯、聞こえています。こちら、歩行者を退避させてから向かいます」

 

 返事は早かった。

 通りへ足を向け、出てきた荷車を手で止める。

 

「いま車が入ります! 壁側へ寄ってください! そこのお二人も!」

 

 はじめはぼたんと一緒に下がった。

 白黒の車が二台、続けて通る。

 朝の騒ぎがあった方とは、違う通りへ曲がった。

 

「まだ、あっちも揉めてるの?」

「さっきは別の通りでした。今度は、また別。通報が次々来るんです」

 

 女性が無線の音を少し下げた。

 その指が、すぐには離れない。

 

「朝の分だけで終わってくれればよかったんですけどね。今日のゴシカは様子が変だ」

「ほんとに、今日は忙しいねえ」

「獅白さんは、嬉しそうに言わないでください」

「そんな顔してた?」

「してました」

 

 ぼたんが笑う。

 お巡りさんは笑わなかった。

 

「頼むから、このまま何事もなく終わってほしいんですけど」

 

 携帯を耳へ当てた人が、通りの向こうを足早に横切った。

 女性はその人を一度見て、はじめへ目を戻した。

 

「あなたも、また余計な仕事増やさないでね!」

「わかってるよ。あとは運んで終わりだし」

「今は、ね。何かあれば百灯キョーコに。さっきの件も、後で確認しますから」

「うん。分かった」

 

 キョーコは近くの店へ人を下がらせ、通りの先へ向かった。

 歩いてきた老人には、段差のない方を指してから行く。

 行きたいところがあっても、そこは飛ばさないらしい。

 

 15:48

 

 ぼたんが、長いケースを持ち上げた。

 はじめも肩紐を引く。背中に硬い角が当たった。

 

「じゃ、届ける方、頑張って」

「うん。ぼたんも、いい仕事来るといいね」

「だねえ」

 

 小さく手が上がった。

 ケースを持った人が、さっき車の曲がった方を見てから、別の歩道へ入っていく。

 

「ルイ姉。ココんとこ、あとどっち?」

『次の角を右。正面の通りは避けて、南から戻ろう』

「了解」

 

 歩き出す前に、肩越しにリュックの位置を確かめた。

 さっきと同じところに、箱がある。

 そのまま、身体の向きを戻す。

 

 はじめは、口元が緩むのを止めなかった。

 あの翅を、もう少し見ていたかった。

 その続きは、届けてからにする。

 赤煉瓦の建物を一つ過ぎ、ルイに言われた角を曲がった。

 

 1994年9月18日

 16:05

 

 事務所の前まで来て、はじめは一度足を止めた。

 両手で肩紐を直し、背中に寄せた箱が動かないことを確かめる。

 

 取れた。今度こそ、持って帰ってきた。

 あとはこれを、今夜二十二時までに競売施設の指定担当へ届ける。ココに車と道を聞いて、正式に受け取ってもらえばいい。

 

 入口へ足を向けると、腿の後ろが少し張った。

 ゆっくり歩いても、疲れた分が消えるわけではないらしい。知ってたけど。

 

 事務所の入口にいた男が、はじめを見て扉を押さえた。

 朝も見た顔だった。こちらが何か言うより早く、廊下の奥へ声を飛ばす。

 

「お戻りです」

 

 その声に、書類を抱えた二人が脇へ寄った。

 先に通してくれる。ありがたいが、そんなに端へ寄られるほど横幅はない。

 

「はじめ!」

 

 奥からココが出てきた。

 顔を見るなり笑い、こちらへ大きく手を上げる。

 

「取れたんだって?」

「取れた。箱も中も無事」

「よっしゃ。お前やるじゃねーか!」

 

 差し出された掌へ、はじめも手を上げた。

 ぱん、といい音がした。肩の奥にちょっと響いたが、そこは顔に出さないでおく。

 

「二人が止めてくれたからね。北の方、まだやってる?」

「そろそろ片づくって。さっき連絡あったよ。ほら、先に座んな」

 

 言われなくても座りたい。

 客用のソファまで行き、リュックを下ろしかけて、そのまま膝へ抱え直した。

 

 ココがそれを見て笑う。

 

「大事そうに持つね」

「大事だから。これ、めっちゃ薄いとこある」

「箱に入ってんでしょ」

「はじめが雑にして壊れたら怖いし」

 

 リュックの底を腿の上へ落ち着ける。

 これなら、両手を空けても自分の腹に触れている。

 

「で、お願いがあって。ここから受け渡しのとこまで行きたい。車、出してもらえる?」

「ああ、出すよ」

 

 ココは立ったまま、入口の男へ顎を向けた。

 

「競売施設まで一台。駅前を回せるか見といて」

「はい、会長」

 

 はじめは、リュックの紐を握ったまま顔を上げた。

 今、呼び方が違わなかったか。

 

 聞く前に、腹が鳴った。

 昼に三人で食べたのに。

 あれはどこへ行ったんだ。

 

 ココがこちらを見る。

 はじめも見る。

 

「……今のは別件」

「だいぶ緊急そうだけど」

「そっちもお願いしたい」

 

 ココが吹き出した。

 

「飯も! すぐ食えるやつ。私の分も持ってきて」

 

 廊下の男が、返事とほぼ一緒に動いた。

 朝から何度も出入りした部屋なのに、人の動く速さが少し違う。

 ココの言葉を聞き終わるより先に、次の用事へ足が向いていた。

 

「ルイ姉、着いた。車の手配、してもらう」

『了解。こっちは外を見てる。出る時に呼んでね』

「うん。ご飯も来る」

『そっちの報告も来たか』

「大事なやつだから」

 

 受信は残し、送話だけを切り替えた。

 

 ココが向かいのソファへ腰を下ろす。

 笑っていた目が、はじめの左腕で止まった。

 

「……それ、袖?」

「袖」

「中は?」

「はじめ」

 

 一拍置いて、ココが声を上げて笑った。

 

「いや、そりゃそうだわ。切れてない?」

「うん。ほら」

 

 裂けた布を持ち上げて見せる。

 腕に赤い筋はなかった。指も握れるし、肘も曲がる。

 ココは身を乗り出して確かめると、ようやく背もたれへ戻った。

 

「よかった。あのあやめ相手に、服で済んだなら安いもんだ」

「はじめの服なんだけど」

「それはごめんな」

 

 すぐに謝られると、怒るところもなかった。

 

 水と、紙に包まれたサンドイッチが来た。

 はじめは受け取った皿を脇の卓へ置き、一つだけ手に取る。

 膝からリュックをどけなくても食べられるのが、ものすごくありがたい。

 

 一口かじると、パンの間から卵が少しはみ出した。

 落ちる前に口で捕まえる。

 

「そんな急がなくても、誰も取んないよ」

「落ちそうだったの」

「そっちか」

 

 ココも同じ包みを開いた。

 皿もパンも、向かいとこちらで同じだった。

 

 はじめはもう一口食べ、水を飲んだ。

 喉が通る。肩に入っていた力が、少し抜ける。

 ようやく、刀が来ない場所で座っている気がした。

 

 携帯を出し、らでんへの連絡を打つ。

 

『《蝉》、回収した。写真と形も石の並びも合ってる。今から受け渡しに向かう。翅めちゃくちゃきれい』

 

 最後の一文は、いったん消してから、また入れた。

 それも報告しておこう。

 あれは、ちゃんと見た。

 

 送信して携帯をしまうと、ココがパンを持ったままこちらを見ていた。

 

「相方?」

「うん。まだ向こうで仕事してるから」

「じゃあ、こっちもちゃんと送らないとね」

 

 はじめは頷き、残りを口へ運んだ。

 北で二人が頑張ってくれて、ルイ姉が道を見てくれて、ここへ戻ればご飯まで出る。

 最後の運搬も何とかなる。そう思うと、今になって膝の上の重さが嬉しくなった。

 

 16:12

 

「でさ」

 

 ココが空の包みを畳んだ。

 

「ちゃんと言っとくわ。今日は、本当に助かった。ありがとう」

 

 はじめは、次のサンドイッチを取ろうとしていた手を止めた。

 向かいの声が少し変わっていた。

 さっきまでの笑いの続きなのに、目はこちらへまっすぐ向いている。

 

「あんたが商会をかき回してくれたおかげで、こっちも邪魔を片づけられた。おかげで、私がボスだ」

「……ボスだったじゃん」

「もっと上の」

「もっと?」

 

 ココが親指で、天井の方を示した。

 

「親父の席。今は私」

「え」

 

 はじめの手が、皿の手前へ戻った。

 

「ヴァレンティ会は、私がまとめる。桐生組が頭になるわけ。さっきの呼び方、聞こえた?」

「聞こえたけど。会長って」

「そ。今日から」

 

 ココが、ちょっと得意そうに顎を上げた。

 その仕草は分かる。何かうまくいった時の顔だ。

 ただ、うまくいったことの大きさが、よく分からない。

 

「親父の席って、ゴシカ・マフィアのトップってこと?」

「そこ。今日から十老頭に桐生組が入る。嬉しいねぇ」

 

 即答だった。

 

 はじめは膝のリュックを見た。

 箱を取り返して、歩いてここへ帰ってきた。

 その間に、向かいの人が十老頭になったらしい。

 

「はじめ、そんな長いこと出てた?」

「時間の問題じゃないでしょ」

「でも、出る前と話の大きさ違うじゃん」

「だから。前から準備してたんだって。今日、急に偉くなりたくなったわけじゃないの」

 

 ココは笑いながら、水へ手を伸ばした。

 

「椅子はもう揺れてた。そこへチャンスが来てね。商会が走り回って、動いてほしい連中も動いてくれた。あんたが取りに行ってくれたから、私も取りに行けたってこと。おかげで邪魔者が一掃できたよ。商会も他の組も、私に逆らう奴はゴシカにはいない。邪魔者は警察くらいかな。中立の掃除屋と」

「……取る物、違いすぎない?」

 

 ココの肩が揺れた。

 

「そこは人それぞれじゃん」

「それで済む?」

「済んだんだわ、これが」

 

 廊下で足音が止まった。

 

「会長。かなた様、わため様、二人も、こちらへ戻るとのことです」

「分かった。お疲れって伝えといて」

「はい」

 

 男はそれだけ告げて離れた。

 もう、呼び間違いではなかった。

 

 はじめは皿へ手を伸ばし、二つ目を取った。

 腹は空いている。話が大きくなっても、そこは変わらない。

 

「二人が戻ったら、お礼言ってから行きたい」

「入れ違いになるかもよ。車の方が早い」

「じゃ、あとで電話する」

「うん。喜ぶわ」

 

 ココは頷いたあと、少しだけ身を乗り出した。

 

「私からも、ありがとね。あんたが無事に帰ってきてくれてよかった」

 

 はじめは口の中を飲み込んだ。

 

「こっちも、ほんと助かった。朝からずっと」

 

 言うと、ココが笑った。

 大きい話のあとでも、知っている顔だった。

 はじめも笑い返し、残りのパンを食べた。

 

 16:17

 

「その《蝉》さ。実物、そんなにきれいだった?」

 

 ココの目が、膝のリュックへ落ちた。

 

「うん。写真と違う」

「合ってたんじゃなかった?」

「物は合ってる。そうじゃなくて、見るとこ変えると色も変わるの」

「ああ、そういうことね」

 

 はじめは頷いた。

 言葉だけだと、本当にそれだけになる。

 

「ここでなら、見せられるよ」

 

 卓の皿を脇へ寄せ、紙ナプキンで指を拭く。

 リュックの調節ベルトを緩め、口を大きく開いた。

 ケースは抜き切らず、底を膝で水平に支える。

 中身が傾かない位置を作ってから、二つの留め具へ指をかけた。

 

 蓋を開ける。

 黒いくぼみの中で、薄い翅が紺に光った。

 

 ココが、口を閉じた。

 

 はじめは箱の縁を持ったまま、少し待った。

 向かいの顔が横へ動く。部屋の明かりを受けて、翅の片側が青くなった。

 

「あ、ほんとだ」

「ね。そっち行くと、まだ変わる」

「どっち?」

「もうちょい」

 

 ココが肩をずらした。

 青かったところへ淡い金が差す。

 

「……いいね、これ」

 

 声が近かった。

 伸びかけたココの指が、箱の縁の手前で止まる。

 はじめは無意識に底を支え直したが、その手は触れずに引っ込んだ。

 

「ずっと見てたくなるじゃん」

「分かる。さっき、ちょっと見てた」

「ちょっとで済んだ?」

「ルイ姉に呼ばれた」

 

 ココが笑った。

 はじめも口元を緩め、翅に触れないよう蓋を戻す。

 一つ目の留め具を閉じたところで、向かいから言われた。

 

「……それ、私の就任祝いにくれない?」

 

 指が止まった。

 

「……《蝉》?」

「うん」

「それは、だめ」

「即答じゃん」

「はじめがあげていいやつじゃない」

 

 二つ目も閉める。

 硬い音が、二人の間でした。

 

 ココはまだ笑っていた。

 

「だよねえ。でも実物見たら、やっぱ欲しいわ」

「欲しいで持ってっちゃだめなやつ。お祝いは別の物にして」

「例えば?」

「それは、これから考える」

 

 ココが吹き出した。

 

「何も決まってないだろー」

「就任したって今聞いたからね?」

 

 ケースを背中側へ戻す。

 緩めたベルトを引き、布越しに箱が動かないことを確かめた。

 ココに贈る物なら、もっと大きくて丈夫な物がよさそうだ。

 こんな薄い翅を、事務所の机へぽんと置かれたら落ち着かない。

 

 口を閉じ、リュックを持ち直す。

 

 顔を上げると、ココが笑っていなかった。

 

 さっきまで水のコップへ添えていた指も、ソファへ預けていた肩も、止まっている。

 こちらの手元ではなく、顔を見ていた。

 

「もう一回だけ、聞くね」

 

 声は大きくなかった。

 廊下で話していた二人の声が、そこで途切れた。

 

「はじめちゃん。私の就任祝いに、そ(・)の(・)《(・)蝉(・)》(・)を(・)ち(・)ょ(・)う(・)だ(・)い(・)」

 

 はじめは、リュックの持ち手を握った。

 

 冗談ではなかった。

 最初から、欲しいと言ったのは本当だったのだ。

 そのことが、今度はちゃんと分かった。

 

 ココの膝と、自分の膝。

 その間に卓がある。横へ抜けるには、先に足を床へ置き直さないといけない。

 背中にはソファ。リュックは、まだ膝の上だ。

 

 入口の方で服が擦れた。

 そちらを見るために、目を外したくなかった。

 

 喉の奥が、さっきより狭い。

 水はまだ卓にある。でも、手を伸ばす気にはならない。

 

「渡さないよ」

 

 はじめはココを見た。

 

「預かった物だから。これを届けるのが、はじめの仕事」

 

 ココは動かなかった。

 こちらも、持ち手から指を離さない。

 

 廊下の奥で電話が鳴った。

 一度、二度。

 誰かが取ったところで、ココの口元が緩んだ。

 

「あー……そっか」

 

 背もたれへ、大きく身体を戻す。

 

「悪かった。無理言ったね」

 

 コップを取る指が動いた。

 さっきのココだった。

 片手で水を飲み、口を離してから、少し照れたように笑う。

 

「いきなり欲張りすぎたわ」

「……だいぶね」

 

 返すと、また笑った。

 はじめも息を吐く。

 けれど、握っていた指は一度に緩まなかった。

 

 入口から、車の用意ができたという声がした。

 

「じゃ、行きな。受け渡し、あるんでしょ」

「うん」

 

 はじめはリュックを持って立った。

 片腕ずつ肩紐を通し、背中へ引き寄せる。ケースは中にある。

 携帯も、委任状も、写真も。何も置いていかない。

 

 水を最後に一口もらい、空の包みを皿へまとめた。

 

「ご飯、ごちそうさま」

「そこまできっちり片づけなくていいって」

「食べたのはじめだし」

 

 ココはその返しにも笑った。

 いつもの速さだった。

 どこからがいつもと違っていたのか、分からなくなりそうだった。

 

 廊下へ出ても、止められなかった。

 横へ寄っていた男たちが、今度も道を空ける。

 はじめは帽子を直し、扉の手前で振り向いた。

 

 ココが片手を上げた。

 

「じゃあね、はじめ。気(・)を(・)つ(・)け(・)て(・)」

 

「……うん」

 

 返事をして、外へ出た。

 傾いた日差しが、帽子の縁を白くした。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 16:22

 

『はじめ。その車、乗らないで』

 

 耳の中で、ルイの声がした。

 

 入口のすぐ右に、黒い車が寄せられていた。

 後席の扉が開いている。脇へ立った男が、はじめへ手を差し出した。

 

「お荷物を」

 

 はじめは、肩紐から手を離さなかった。

 運転席にも人がいる。行きに送ってくれた運転手とは、違う顔だった。

 

『聞いて。あなたに懸賞が出た。手配の登録を確認した。まず、そこから離れて』

 

 送話を戻す。

 

「……はじめに?」

『そう。車の向こうからも一人来てる。乗らずに右へ。青い日よけの角まで進んで』

 

 後席の向こうに、靴が見えた。

 車の陰から回ってくる。こちら側の男は手を引っ込めず、はじめと扉の間へ半歩出た。

 

 はじめは、その足が着く前に横へずれた。

 

「ごめん。ちょっと用事できた」

 

 差し出された手の外を通り、歩き出す。

 

「はじめさん。お車、こちらです」

 

 声が背中へ来た。

 振り返らず、歩幅を広げた。

 

『中で何があった?』

「ココに、《蝉》が欲しいって言われた」

『それで?』

「断った。二回とも」

 

 ルイの返事が、少しだけ遅れた。

 

『分かった。今は戻らないで。日よけの手前、曲がって』

「うん」

 

 角へ入ったところで走り出した。

 靴底が舗装を叩く。

 事務所の扉が見えなくなっても、肩の力が抜けなかった。

 

 さっきは普通に外へ出られた。

 ご飯の礼も言った。ココも笑っていた。

 

 なのに、車には乗るなと言われた。

 

『後ろの二人、ついてきてる。次の出口は右。人が多いから、建物寄りを進んで』

「了解」

 

 事情を聞きに帰る道は、もう使えなかった。

 

 16:23

 

 路地は、劇場前の広い通りへ抜けていた。

 買い物袋を提げた人と、店から出てくる人。その間を、紙袋や飲み物が行き交っている。

 はじめは右へ曲がり、建物に沿って進んだ。

 

 向かいのビルで流れていた音楽が、途中で切れた。

 

『ゴシカ・シティのみなさーん、こんにちは!』

 

 ものすごく、聞き覚えのある声だった。

 

 はじめは顔を上げた。

 商業ビルの外壁いっぱいにある大型画面で、莉々華が手を振っていた。

 

『本日はベルベット商会と桐生組から、共同でお知らせがあります!』

 

「……共同?」

 

 道を歩いたまま、口だけが動いた。

 

 画面の莉々華は、いつもの調子でにこにこしていた。

 朝からあちこち走らされたこちらと違って、服も髪も整っている。

 

『両者の抗争については、先ほど無事に手打ちが成立しました。ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございます! ということで、さっそく次のお仕事です』

 

 莉々華が、画面の横を示した。

 

 そこへ、自分の顔が出た。

 

 はじめは一歩だけ、歩幅を間違えた。

 前の人の踵へぶつかる手前で足を引き、横へ避ける。

 

『こちら、轟はじめちゃん。両者共同の手配対象となります。懸賞金は』

 

 写真の下へ、数字が出る。

 

 100,000,000ジェニー。

 

『一億ジェニーです!』

 

「いちおく」

 

 読めた。

 読めたけど、頭がすぐにはついてこなかった。

 

『生死は問いません。携行品も回収対象ですので、そちらもお忘れなく。写真と詳しい条件は、登録者のみなさんへ配信しますね』

 

 ピッ、と近くで音がした。

 

 店の入口に立っていた男が、携帯を見た。

 少し先でも鳴った。道の向こうでは二つ。

 自分の耳に近いところで、また一つ。

 

 はじめは画面から目を戻した。

 

 左手に携帯。

 右手が上着の内側へ入る。

 

 別の男は、はじめの顔を見て、それから背中へ視線を落とした。

 片手で誰かへ電話をかけながら、歩道の中央へ出てくる。

 

 子供の手を引いていた女性が、二人の間を見て足を止めた。

 すぐに子供を抱き寄せ、近くの店へ入る。

 店の中から「警察、呼んで」と声がした。

 

 すべての人が、こちらを狙っているわけじゃない。

 でも、狙う人だけが止まらずに近づいてくる。

 避ける人の作った隙間を、そいつらが使っていた。

 

『はじめ。画面を見ないで。二十メートル先の右、搬入口の通りへ入って』

「……あの二つ、仲直りしたの」

『聞いた。今は道を見て』

「はじめだけ、仲直りに入ってないじゃん」

『正確にはヴァレンティ会……今は桐生組か、傘下も含め全十一組の連名で懸賞金が懸かかってる。ベルベット商会も金虎堂も名前がある。つまりゴ(・)シ(・)カ(・)・(・)マ(・)フ(・)ィ(・)ア(・)と(・)賞(・)金(・)稼(・)ぎ(・)全(・)て(・)が(・)敵(・)だ。だから走るよ』

 

 莉々華の声が、頭の上から降ってくる。

 

『はじめちゃん、聞こえてるかな? 頑張って逃げてね。莉々華はお仕事が済んだので、ここで失礼しまーす』

 

 画面の中で、小さく手を振る。

 

『まあ、この街から逃げるのは、難しいと思うけど』

 

 笑顔が消えた。

 何事もなかったように、冷たい飲み物の広告が始まる。

 

 はじめの行く先で、男が銃を抜いた。

 

この作品を「続きも読みたい!」と強く感じたのは、どのあたりからでしたか?

  • 冒頭1〜3話
  • ハンター試験・裏試験編
  • 発の習得編
  • 事件録に入ってから
  • まだ判断中
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