「そっちは確認しなくていいですよー。壁の方、あと三歩」
そぴあの声に、らでんは頷いた。
足場の下を、白い床が通り過ぎていく。自分の足がそちらへ引かれそうになって、手すりを握り直した。
測れた支えへ足を移し、次の支柱へロープを掛け替える。
靴底のすぐ先を、さっき渡ってきた白い床が横切った。
あれほど広かった道が、ここからは細い帯に見える。
手すりの隙間から見下ろすと、その続きだけが壁の向こうへ折れ、目で追った先にはもう、足を置けるものがなかった。
壁のくぼみに入ると、ようやく二人が並べる幅になった。
腰ほどの保守台がある。
その脚と足元をそぴあが確かめる間に、らでんは最後の支柱からロープを回収した。
新しい留め具へつなぎ直す。
「ここは、いまのところ動いてないよ」
「では、こちらで。……机があるって、ありがたいことなんですねぇ」
「ほんとにね。さっきから、紙を落としたら終わりだなって思ってた」
そぴあは言いながら、鞄を留め具へ固定した。
らでんも手帳の背へひもを通す。
冗談だけで済む場所ではなかった。
保守台の上には、内側へ開く点検枠があった。
その向こうに、透明な板と、逆向きの文字が見える。
回廊の先で見た、壁一面の図だった。
こちらは、その裏側に当たるらしい。
「あ。説明板の留め具、ここから届きます」
らでんは、正面から撮った写真を開いた。
原図を覆っていた新しい板。四隅のねじ。
そのうち二つは、こちら側で小さな爪に留められている。
「外して大丈夫な方?」
「原図を押さえている枠とは別です。板だけ、こちらへ起こせます」
そぴあが裏の配線と支えを調べ、頷いた。
らでんは取付状態を撮ってから、爪を順に外した。
板を傷つけないよう、両手で受ける。
そぴあが端を支え、保守台の脇へ留めた。
隠れていた線が、つながった。
鳥の翼に似た曲がりも、小さな欠けも、説明板の端で終わっていたのではなかった。
細い線の束が、その外側まで伸びている。図の余白だと思っていたところにも、こちらへ向かう目が描かれていた。
らでんはカメラを点検口から正面側へ回し、覆われていた部分を撮影した。
画面の中で、読めなかった目盛りが原図の端まで続いている。
「……目の位置が、二つある」
そぴあが言った。
新しい説明板の写しでは、線が一つの中心へ集められていた。
原図には、それとは別に、低い横顔と、そこから少し横へ移った横顔がある。
「写しの方は、ここを省いてますね」
「うん。これ、なくしちゃ駄目なところだ」
保守台へ身体と荷物を固定してから、二人は記録と資料の照合に移った。
そぴあの観測器は、発動時間を満了すると消えた。必要な位置の値は、手帳に残っている。
そぴあが目盛りを読み直す。
らでんは原図の下端に残る署名と日付を撮った。
その隣には、建物へ据え付ける際の図が重ねられている。
同じ目の印が、機構の小さな基準枠へつながっていた。
「あ、こっちにも同じ目がある。見る場所を、装置の基準にも使ってるんだ。……待って、帰る方の図も、ここから読めるかも」
そぴあは、自分の手帳に二つの横顔を写した。
その間へ短い線を引き、目盛りを添える。
らでんは、線が目へ集まるところを見ていた。
「昔の絵の教本に、こんな版画がありましたよ。二人がかりで、楽器を描いてるんです」
「二人がかり?」
「ええ。一人は楽器の端へ糸を当てて、もう一人は、その糸が枠を通る場所を紙へ写す。見る人の目の代わりに、糸の集まる点を固定してあるんです」
そぴあが図の横顔を、鉛筆で軽く示した。
「ああそういうこと。この人の目を、借りるんですね」
「そう。どこから見たかが残っているなら、絵から向こうへ、糸を張り直せる」
「一本だけだと、糸の途中のどこにあるかは決まらない。でも、もう一つの目の位置からも張ったら――」
鉛筆が二つの線を辿り、途中で交わった。
そぴあの指が、そこで止まる。
今度は別の二本を追い、また同じように交点を確かめた。
「……あ。これ、読める」
「向こうが?」
「うん。待って。先に書くから。らでんさんの紙、まだ見せないでね」
らでんは、手帳の後ろのポケットを押さえた。
枠から見たものを書いた紙が、そこにある。
まだ、開かない。
そぴあも、こちらの手元を見なかった。
そぴあが図を読み直している間に、らでんは銘板の写真を並べた。
正面。
裏側。
灯りを横から当てたもの。
一枚では潰れていた器材番号の末尾が、別の一枚では読めた。
入域前に保存した台帳の索引を開く。
オチマの管理局が付けた整理票と、旧院の台帳の画像が並んだ。
古い器材番号も、欄外の書き込みも、そのまま残されている。
あった。
携行観測枠。
番号の続きまで一致する。
記載された出航日を、出航簿と照らした。
同じ航海に属する観測原票の整理番号も見つかる。
別の観測者の名が付いていた。
らでんは、表紙だけを開いて待った。
隣では、そぴあが最後の線を引いていた。
書き終えたところを撮影し、時刻を残す。
「できた」
鉛筆を置く。
「……ちょっと、変な答えになったかも」
「おや。楽しみですねぇ」
「今さらだけどね。変じゃない方が困るんだけど、これは……ここ、一本に見えるはずなんだよね」
そぴあが紙をこちらへ回した。
欠けた輪郭。
その奥に、白い柱が一つ。
少し離して、もう一枚の小さな図。
今度は、柱が二つになっていた。
らでんの指が、止まった。
「低い方の目へ移して、横から見ると分かれる。一本の柱が割れるんじゃなくて、前と後ろにあるものが、重ならなくなる」
そぴあは続けた。
「あと、この欠けの下。上からだと手前に隠れるけど、低い位置なら、細く分かれてるところが見えるはず」
その線を、らでんは知っていた。
暗い水。
濡れた板。
枠が低くなり、ほんの少し横へ流れた。
一本だった白が、二つになる。
「……開きますね」
紙を取り出した。
折り目を伸ばし、そぴあの記録の隣へ置く。
そぴあは、一行目から読んだ。
形を見て、視点を動かした矢印を見た。
もう一度、自分の紙を見る。
「え」
小さな声だった。
「……二本、見えたの?」
「はい。最初は一本でした。そのあと、前後に分かれて」
「下の、ここも?」
「そこも。細い分かれ目がありました」
そぴあは、口を開きかけて閉じた。
笑うより先に、もう一度、原図の目盛りへ目を戻した。
らでんは、その一拍を待った。
「私、横へ動いたのが、どちら向きだったかまでは書けていません。そこは、同じと言い切れないです」
「うん。そこは空けとこう。でも、前と後ろに別の柱があって、見る位置を変えたら分かれる。そこは、合ってる」
そぴあが、自分の鉛筆を縦に持った。
「ちょっと、それ、借りてもいい?」
らでんの鉛筆も受け取り、一本を手前、もう一本をその奥へ。
らでんの片目からは、重なって一本に見えた。
「これだよね」
頭を少し横へ動かす。
手前の鉛筆が大きくずれ、奥の一本が、脇から現れる。
戻す。
一本。
横へ。
二本。
「鳥は、ばらばらのものを、一つに見せていましたね」
「うん。今度は逆。一つに見えてたものの、奥行きが分かった」
そぴあが鉛筆を返した。
らでんは、まだ表紙のままの資料を、二人の間へ置いた。
「もう一人に、聞いてみましょうか」
そぴあの目が、端末へ動く。
「別の人の記録?」
「この枠と同じ航海の原票です。施設の制作者とは、筆記者が違います」
表紙には、港側で付けられた受入番号があった。
開いた頁は、展示の図より、ずっと荒かった。
欄からはみ出した数字。
太く引き直された線。
ある印の横には、同じ場所を測り直したらしい、別の値もある。
そぴあが日付と観測地点の符号を合わせた。
らでんは、その頁の欄外へ目を移した。
走り書きの輪郭。
丸く囲まれた一か所。
一本の線に、訂正が入っている。
その後ろへ、もう一本。
「……『白柱、前後に二』」
らでんが読んだ。
そぴあは何も言わず、図を大きくした。
低い観測位置から引いた線の先に、欠けの底が描かれている。
細い分かれ目も、そこにあった。
そぴあの指が、画面の縁を掴んだ。
「……いる」
らでんは顔を上げた。
「私の図の中だけじゃない。こっちにも、いる」
同じ言い方を、月のそばで聞いた。
低くしゃがんで鳥を見つけたとき、そぴあは、いる、と言っていた。
いまは、数百年前の紙へ向かっている。
目の前には白い柱などない。
壁と、保守台と、壊れかけた床しかない。
それなのに、紙の向こうに、前後の離れた二本が立っている。
枠から受け取った暗い水の断片が、勝手に埋め合わせた景色ではなくなる。
そぴあは原図の線からそこへ辿り着き、別の人は、その場所に立って一本を二本へ描き直していた。
訂正の線が、ひどく生々しかった。
最初には見えなかったのだ。見直して、間違いに気づいて、紙へ戻った。
その人も、いまの二人と同じように、もう一度見ようとした。
「……この人は実物を見てきたんですね」
らでんは言った。
「この景色は、絵の中だけにあったんじゃない」
そぴあが、深く息を吐いた。
「うん」
小さく頷いてから、もう一度、二本の柱を見た。
「……すごいな、これ」
そぴあは、自分の図を原票の隣へ寄せた。
二枚の紙の間を、まだ何度も見比べている。
「この人と、話せたらなあ。ここの測り直し、何を見て気づいたんだろう」
「最初の一本が、二本になるところを?」
「うん。私なら、たぶん、もう一回戻って見てる」
「私もです。見えなくなった方が、今度は気になりだしました」
そぴあは自分の図へ、小さな目を描き足した。
端末に開いた数百年前の走り書きと、同じ位置に。
その低い横顔が、ようやく同じところを向いた。
手すりの向こうで、床の縁がわずかに揺れた。
そぴあは、保存した観測値へ目を戻した。
今いる保守台の脚と足場には、変化がない。
時刻を残し、図の右下を示した。
「場所も、つなごう。原図の向きがどこを基準にしてるか、ここまで合わせたい」
「こちらは、枠の帰ってきた方を調べます」
らでんは帰還受入の控えを開いた。
観測枠の番号。
補修済み、という記載。
脇に、小さな添え図。
塞がれた孔が、二つ並んでいる。
一本の孔では留め直せなかったのだろう。
位置を少しずらした継ぎ金具まで、あの枠と同じだった。
現物の写真を隣へ置く。
その孔の間を、短い工具傷が横切っている。
枠は、出航した。
向こうで使われ、補修され、戻ってきた。
物だけではなかった。
器材返却の確認欄に、自筆の署名があった。
原図の下にある、制作者の署名と同じ名。
出航簿に添えられた乗船者の控えにも、観測担当として同じ名があった。
帰港日の帰還者欄から、器材の返却欄へ、係員の確認印が続いている。
らでんは、その短い一行を、ゆっくり辿った。
「帰ってきてる」
口にすると、胸の奥が緩んだ。知らず、ずっと息を詰めていたらしい。
外へ行ったという記録の先に、人の名前がもう一度ある。
まだ、この棟も銀の鳥もなかったころ。濡れた観測枠を港へ戻し、ここへ名前を書いた人がいた。
受付の誰かが器材を数え、補修の跡を確かめたのだろう。
控えには、受領の印もある。驚くほど普通の手続きが、知らない景色とこちら側をつないでいる。
「そぴあさん。本人も、帰ってきています」
隣の鉛筆が止まった。
「……うん。そこ、大事」
そぴあは一行を読んでから、自分の紙の端へ『帰還後』と書いた。
二本の柱より先に、その文字を囲んだ。
そぴあの端末では、古い航路の記録が、別の地図へ重なり始めていた。
最初に合わせたのは、出航した港だった。
次に、沖の島。離れた岬。
いまも位置の分かる複数の場所を揃え、古い距離の単位を読み替える。
そこから先は、航程と方位の記録だった。
天体の観測欄、途中で測った標点への方向、往路と復路で重なる区間。
そぴあは、それぞれが同じ場所を指すかを確かめていった。
らでんが古い単位の注記を見つけるたび、隣へ寄せる。
そぴあが保存した観測値を確認する間には、次に必要な頁を開いておいた。
線は、一本の細い航路にはならなかった。
古い記録の粗さを含んだ、幅のある帯として伸びていく。
「これは、測り損ねた幅ですか」
「うん。向きも距離も、昔の値に幅があるから。こっちで勝手に、細くはできない」
帯の末端が、いまの地図に載った海域の外へ出ていた。
紙が小さいからではない。
倍率を変え、地図を引いても、その位置は変わらなかった。
知っている港を揃えた、同じ物差しの上で。
人類が把握する海域の外へ、観測地点が残っている。
らでんは帯の内側の縁を指した。
「いちばん、こちらへ寄せても?」
「入らない」
そぴあが言った。
「途中の記録を、ずれが大きくなる方へ見直しても。最後にこの二人が測ってる場所は、外側にある」
画面の中の地図が、急に小さく見えた。
大陸の形はさっきと同じだ。
港も海も、仕事で訪ねた土地も消えていない。
ただ、その全部を収めた輪郭が、画面の中央へ寄っている。余白の方が広い。
そこへ、確かに人の道が一本つながっていた。
らでんは端末を近づけ、すぐに元の位置へ戻した。
拡大すれば、知っている世界はまた画面いっぱいになる。
けれど、いま見てしまった外側はなくならない。
「……地図を、引いたんですね」
「うん」
「こんなに余るんだ」
そぴあも、小さくなった港から目を離せなかった。
「その先、どこまで続いているかは?」
「そこは分からない。記録があるのは、ここで見た範囲だけ」
そぴあは、帯の先に大きな陸地を描き足さなかった。
白い柱の位置と、欠けた稜線の一部だけを残す。
空白は、空白のままだ。
それでも、らでんが触れたものは、その場所へ行っていた。
潮を浴びた枠を持って帰った人が、そのあと、ここを作った。
らでんは受領の署名と、原図の日付を並べた。
「この人、外へ行って、帰ってきて。それから、鳥を作ったんです」
そぴあが顔を上げた。
「……順番、逆だったんだね」
らでんは、二本の柱をもう一度見た。
「数学で景色を思いついたんじゃない」
その言葉を、そぴあが受け取った。
「見た景色を、ほかの人にも見せるために、数学を使った」
保守台の上で、三枚の記録が並んでいた。
どれも、同じ小さな欠けを持っていた。
原図を支える枠には、何枚もの施工図が綴じ留められていた。
退去設備の調整に必要なものを、らでんが順に撮っていく。
最初のものには、景色だけがあった。
輪郭と、目の位置と、細かな数字。
次のものには、板が増えていた。
その次には、足場。
足場の位置が変わり、手すりが下がり、月から離れる向きに、短い溝が加わる。
「……これ、私たちの足跡のところだ」
そぴあが、図の一角へ指を置いた。
現物にあった、外を向いた溝。
球の軌道を直すきっかけになったものだ。
「受け台も、いまの形に直してる。ここで止まったときに、体がこっちを向くように」
「低い方の手すりは、そのあとですね」
「うん。……これ、手をついたら、自然に目が下がるんだ」
らでんは、着いたときのことを思い出した。
石へ靴底が触れた。
膝を曲げた。
手すりを掴んで、ほっとして、顔を上げた。
そこに、鳥がいた。
その順番を、作っていた。
そぴあが次の図をめくろうとして、日付へ目を止めた。
らでんは帰還受入の年と、いちばん新しい施工図の年を指す。
その間に、三十年以上あった。
帰ってきた人が、三十年以上、これを直していた。
図が増えるたびに誰かの足を置く場所が増え、握るところが変わり、うまく通れなかったときの支えが足されている。
鳥の輪郭を直すより先に、見る人の膝や手の位置を直した年もあった。
らでんは、紙の端を押さえる指へ目を落とした。
帰還者の署名を見つけたばかりだった。
その人が戻ってから過ごした長い時間まで、いま、二人の身体に触れてくる。
着地のあとで自然に曲がった膝も、探さず掴めた低い手すりも、景色の外にある付け足しではなかった。
「『ここを見れば分かる』だけでは、駄目だったんでしょうねぇ」
らでんは、最初の図へ戻った。
あまりに細かく、目の置き場に迷う一枚。
「この人には、これで見えていた。でも、ほかの人の目には、まだ見えていなかった」
「だから、説明を増やしたんじゃなくて」
そぴあが、受け台の線を辿る。
「見えるところへ、連れてきたんだ。同じ高みまで辿り着けるように」
らでんは頷いた。
知らない言葉を覚えなくても。
正しい式を、先に言えなくても。
膝を曲げて顔を上げれば、ばらばらの銀が、一羽になる。
「そぴあさん、何度もしゃがんでましたものね」
「らでんさんだって、先にやってたじゃないですか」
「やってました。ええ、何度か」
そぴあが笑い、画面の中の古い足場へ目を戻した。
「……これ、見てほしかったな」
らでんは、隣の横顔を見た。
「私たちが?」
「うん。二人して、立ったり座ったりしてるところ。すごいって言って、もう一回って言ってたところ」
原図の隅には、小さな修正があった。
削られた線。その脇へ、もう一度引き直した線。
らでんが台座から見た手も、あんなふうに動いていた。
届かなかったものを、もう少しだけ、届く形へ直していたのかもしれない。
らでんは、そぴあが撮った動画を開いた。
低い位置へ下がる画面の中で、鳥の翼が揃う。
その外から、小さな声が入っていた。
いる。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
画面の外で、細い笑い声が重なる。
声の主はすぐ隣にいるのに、あのときの暢気な息遣いが、もう少し遠い。
らでんは再生を止め、保存されていることを確かめた。
図面だけでなく、これも残したかった。
あの仕掛けを通った人が、そこで何を見て、どんな声を出したのか。
「これも、持って帰りましょうね」
「うん。絶対」
そぴあは、今度はすぐに頷いた。
施工図の最後には、帰還設備の基準表が付いていた。
新しい説明板では、途中から途切れていた線。
原図では、外へ向かう観測の線と、戻るときの低い目の印が、別々に記されている。
そぴあが読み進める間に、らでんは端の小さな文字へ灯りを当てた。
鳥にも、門にも、球の模型にも重ならなかった、あの線だった。
その先の余白に、短い書き込みがある。
「……『未詳』」
そぴあが顔を寄せた。
「まだ、分かってないってこと?」
「ええ。この記録を書いた人にも」
線そのものは、消されていなかった。
見る位置と方向の一部は残っている。
けれど、そこから何がどう見えたのかを、ほかの図のようには説明していない。
そぴあは、端まで画面に収めた。
「これ、描き忘れた余白じゃないんだ」
「分からないまま、残したところなんですね」
原図のこちら側には、二人にも分かった景色がある。
同じ紙の先には、作者さえ説明し切れなかったものがある。
らでんは、なかなかそこから目を離せなかった。
そぴあも同じらしく、指を動かしかけて、止めた。
「……気になるね」
「ええ。大変、困ったことに」
そぴあが短く笑った。
「でも、帰る方の基準はこっち。未詳の線を解かなくても、そこまでは読める」
「はい。先に、帰る方を」
記録を閉じず、必要な部分を隣へ並べる。
未知を捨てるのではない。
いま使うものを、先に手へ取った。
そぴあが、保守台の下にある点検蓋を開いた。
原図の目の印から引かれた案内が、古い基準金具へつながっている。
その隣に、後から足された真鍮の渡し金具があった。
らでんは、入域前に撮った扉の下の写真を出した。
添え物に見えて、大きな鉄の腕を支えていた、小さな部品。
その奥へ消えていた連結が、ここへ続いている。
点検口から見える接合部と、据付図の継ぎ目を順に照らした。
「この渡し金具、同じ改修のものですね。留め方も、加工の跡も」
そぴあが図面を開いた。
前室を元に戻す腕。
本来なら、それとは離れている奥の装置。
現物では、その間がつながっていた。
「……だから、戻したら、奥も動いたんだ」
らでんは、灰色の壁へ星が灯った瞬間を思い出した。
同じ把手を戻しただけだった。
図面にはない音が、壁の向こうで鳴った。
原因になったつながりが、いま目の前にある。
さらに奥で、帰還側の基準を受ける古い金具が途切れていた。
切断された端は黒ずみ、後から取り付けられた板が、その一部を覆っている。
代わりの連結は、外へ戻る側ではなく、内側の目盛りへ渡されていた。
「外へ合わせる目印をなくして、内側のものを代わりにしてる」
「それで、帰る場所が合わなくなった?」
「うん。図の通りに追うと、そうなる。ずれた内側を目印にして、また内側を直そうとしてるんだ」
そぴあは、これまでの観測を並べた。
月の入口で、道がずれた。
回廊でも、入口が戻りきらなかった。
さっきは、床そのものが重なり損ねた。
「直すたびに、同じところへ戻れる幅が減ってる。残った基準も傷んでるから、もう補い切れてない」
らでんは、切られた金具へ灯りを当てた。
「どうして、こんなことを」
「そこは、まだ分からない。けど、これを外したら直る、じゃないんだ。残ってるつながりまで落ちるかもしれない」
らでんは頷き、工具へ伸ばしかけた手を撮影の方へ戻した。
作者が、人を閉じ込めるために作ったものではなかった。
帰るための基準も、戻る足場も、ちゃんと用意されていた。
その一部が、あとから失われた。
原図には、まだ失われる前の向きがある。
「目印を、取り直せば」
らでんが言うと、そぴあの目が上がった。
「うん。恒久的に直すのは無理でも、帰還の一回に合わせるなら」
そぴあは記録を閉じ、次の計測に選ぶ九項目を確かめた。
帰路の位置も、支えの荷重も、ここまでと同じ項目で取れる。
肩のそばに、三つの環が現れた。
四百九十六秒の計測が、新しく始まる。
《
何度具現化しても、変わらなかった二十八メートル。
選んだ九つは、この発動が満了するまで変えられない。
保守台の横に、低い観測窓があった。
そぴあが原図の目の高さを読み、らでんは窓の下の足置きを確かめた。
膝を曲げる。
胸を少し引く。
壁の向こうにあった線が、窓枠の刻みに重なった。
片側に、白い道の一部が見える。
別の開口には、月の裏側と、これまで見えなかった小さな盤。
その奥に、細かく詰まっていく目盛りがあった。
どれも、遠くまで歩いて探し直す必要はなかった。
展示を裏からつなぐ保守用の開口が、終端のこの台へ集められている。
ただし、いま通れるかは別だった。
そぴあは窓ごとに立つ位置を変え、円の中へ入る足場と、金具の反応を順に確かめた。
「最初の切替を戻すと、月の裏の盤が起こせる。その盤が合えば、こっちの止め具まで届く」
らでんは、その動きを図の上で追った。
まっすぐ行けば、一周する道。
横へ落ちて、回り込む月。
目盛りを数えず、端まで行ける短い距離。
どれも、もう一度教わらなくても分かった。
「最後は、送り装置ですね」
「うん。さっきの小さいのと、同じ系統」
そぴあが、二本線の『復』を示した。
その先には、別棟の受け台へ向かう登録が残っている。
装置の構内番号は、持参した配置図のものと一致した。
そこへ戻れるように、基準を合わせ直す。
形だけではなく、どちら向きに変わっている途中かも確かめて。
「向こうの床は、まだ見ていませんよね」
「うん。小物とカメラを先に送ろう。ちゃんと立てるか、確かめてから」
らでんは、予備の小さな重りを取り出した。
表面へ斜めの印をつけ、点検棒のカメラと一緒に、すぐ出せる場所へ収める。
さっき失くした真鍮の板は、拾いに戻れない。
新しい目印で、帰る場所を確かめる。
そぴあが、原図の低い横顔を見た。
「この人が戻るときに見た方を、最後の基準にしてある」
「見てきた景色を、置いて帰るための場所」
「そう。見せて、帰す。そこまでで、一つなんだね」
らでんは、窓の下の足置きを撫でそうになり、指を止めた。
帰ってきた人が、作った場所だった。
人が帰ることを、忘れていたはずがない。
そぴあの手が、記録の上で止まった。
こつん。
足置きには、何も起きなかった。
けれど、窓の向こうで、一本の横棒が曲がった。
片端は、月の裏の盤に付いたまま。
もう片端は、隣の開口へ入っている。
金属そのものには、曲げられた跡がなかった。
部屋と部屋のつながりが、棒の途中へ、角を作っていた。
円の縁も、その角で折れた。
そぴあが窓の前へ戻る。
同じ立ち位置。同じ高さ。
環が一つ回り、手帳へ、新しい値が加わった。
「……さっきより、詰まってる」
窓の向こう、帰還用の連結部に付いた二つの標が、近づいて見えた。
こちら側の目盛りは変わらないのに、接続を挟んだ対応だけが、押し潰されていく。
そぴあは、原図の線と、今の測定を重ねた。
「このまま進むと、戻す計算が成立しなくなる」
「計算が、追いつかなくなる?」
「ううん。速さの問題じゃない」
そぴあは、帰還側の二つの印を指した。
「こっちで見分けられた場所が、同じところへ潰れてしまう。そこまで行くと、元のどこへ戻せばいいか、決められない。この接続の、特異点」
らでんは、二つの印の間にある、細い空白を見た。
「もっと、正確に測っても?」
「間が残ってるうちは、助けになる。でも、なくなったあとは別。一をゼロで割れないのと同じです」
そぴあの円は、変わらなかった。
測ることはできる。
何が、どちらへ、どれだけずれているか。
その先に、測れていても帰せない場所が来る。
らでんは、手帳のポケットを確かめた。
折った紙も、そぴあの予測も、照合した記録もある。
原図の画像。帰還受入の署名。銀の鳥を見つけた声。
鞄の口を閉じ、肩へ掛け直す。
「そぴあさん。間に合う方を、お願いします」
そぴあは、二人が通る順番へ視線を戻した。
最初の盤。月の裏。送り装置。
観測儀が一緒に通れる幅と、今ある足場。
最後に、自分の手帳を閉じた。
「帰れます」
らでんが顔を上げる。
そぴあは、もう一度だけ、近づいていく二つの印を見た。
「今なら」
今回、らでんが話した「二人がかりで楽器を描く版画」は、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)の木版挿絵 “Draftsman drawing a lute”(1525年)を参考にしています。
リュートという楽器を前に、糸や枠を使って、その見え方を紙へ写し取る図です。
「何が見えたか」だけでなく、「どこから、どう見たか」を残そうとする工夫が、今回の原図を読む場面の参考になりました。
米国議会図書館の作品情報:
https://www.loc.gov/item/92518203/
メルボルン大学の作品・装置の紹介:
https://arts.unimelb.edu.au/about/arts-west-gallery/past-exhibitions/albrecht-durers-material-renaissance/master-engravings
※大学のページで紹介されているのは、デューラーの原図に基づく、Johan Janssenによる1605年の複製です。1525年の原図と、紹介されている複製の制作年は区別しています。
また、鉛筆を使って「一本に見えていたものが、見る位置をずらすと二本に分かれる」場面では、視差という性質を使っています。
身近なペンや遠くの物を見比べる実験と、測量へのつながりは、OpenStax『Astronomy 2e』第19.2節 “Surveying the Stars” が参考になります。
OpenStaxの解説:
https://openstax.org/books/astronomy-2e/pages/19-2-surveying-the-stars
見たものを正確に写し取り、その見方をほかの人へ渡そうとする、美術と数学の仕事に敬意を込めて紹介します。
本作の観測枠、原図、航海記録、銀の鳥、念による空間接続、登場人物の会話は創作です。実在の作品や解説の台詞を転載したものではなく、デューラーの実人生をこの施設の制作者へ置き換えたものでもありません。