らでんは、腰の留め具を引いて確かめた。
そぴあの手が、帰還用の把手ではなく、その隣の小さな爪へ伸びる。
「先に、補助送りを戻す。こっちの接続が閉じないと、帰る方を始められない」
「はい。こちらで支えます」
らでんの帰路の図へ、そぴあが短い矢印を足した。
主系の線に重ねず、その手前へ別の口を描く。
らでんは書き足された図を撮って、鞄へ戻した。
主補正の標は、始動前の位置にある。
保守台の脚へロープを回すと、そぴあが爪を押した。
窓の奥で、横になっていた金具が起きた。
その向こうの受け面が、二枚になった。
同じ縁が、少しずつ離れていく。
一方には床の白い継ぎ目があり、もう一方には、その継ぎ目の途中から壁が立っている。
そぴあは把手をそれ以上動かさず、窓から半歩退いた。
「先の端が、円から外れる。……右の足場へ移るね。そこなら、受け面まで入る」
示した先は、壁に沿った保守用の足場だった。
送り先の白い床とは別に、こちらから支柱の根元まで目で辿れる。
棒で押し、重りを載せる。
そぴあが支えの反応を取り、らでんも取付部に浮きがないことを確かめた。
「ありますね」
「うん。らでんさんは、まだこっちに来ないで。二人で載る前に、先を取るので」
そぴあは足場側の支柱へ命綱を掛け替え、片手を壁の握りに残したまま移った。
靴の跡が、薄い埃を二つ払う。
肩のそばを《
三つの環も、中心から広がる二十八メートルも、彼女と一緒に動く。
本人を包む薄い《纏》は、そのままだった。
「そっちの支点、動いてない?」
「動いてません。……巻尺、こちらで持ってますよ」
台の縁から滑った小さな巻尺を、らでんは膝の前で受け止めた。
腰の固定は外さない。
手の中へ収めて顔を上げると、そぴあは窓の脇で手帳を開いていた。
「あとで借りる。今、ここの――」
声が切れた。
らでんは、続きが来るのを待った。
そぴあのいた場所には、窓の縁がある。
その奥へ、手すりの短い端が見えている。
「そぴあさん?」
返らない。
さっきまで覗いていた横顔も、肩のそばの環もなかった。
壁が彼女を隠したのだと思い、窓の横へ首を伸ばす。
足は出さず、棒だけを先へ送った。
先端が、硬いものに当たった。
そぴあの立っていた足場ではない。
もっと手前に、縦の石面があった。
灯りを下げると、足場へ続いていた支柱が、その面の向こうで別の高さへ出ている。
「聞こえますか。こちらは、保守台です」
無線も呼んだ。返事はなかった。
らでんは壁の握りを棒で二度叩き、耳を澄ました。
音は自分の手元へ響いたきりだった。
見えなくなったから、なくなったわけではない。
あの小さな箱では、赤い球は光の下へ抜けていた。
そぴあだって、足を滑らせたのではない。
両足を確かめた場所へ収め、手帳を開いていた。
手元の巻尺を鞄へ入れた。
帰るために用意した重りには、斜めの印がある。
点検棒のカメラも、すぐ使える。
「そっちへ行きます。動けるなら、返事を」
声を残して、壁際の細い開口を覗いた。
先ほどまで窓の横にあった支柱の足が、その奥に見える。
床へ重りを下ろすと、糸がたるんだ。棒で縁を押し、固定できる金具を探す。
そぴあの靴跡があった。
ただし、そのすぐ先の壁は、さっきと違っていた。
手を添える高さの溝が、深く、丸く減っている。
数息前の写真では、溝の角はまだ立っていた。
らでんは画面と壁を、一度ずつ見た。
新しい足跡の先に、長く使われた壁が続いていた。
◇ ◇ ◇
次の支点へ先に命綱を留め、保守台側からロープを回収した。
開口の先へ身体を移すと、保守台は見えなくなった。
横へ振った灯りには、白い道と、低い盤の裏側が浮かんだ。
出口を振り返る。自分がいま通った口はある。
けれど、その向こうには保守台の脚ではなく、壁の暗い継ぎ目が見えていた。
らでんは口の縁へ綿ひもを結び、来た方向を手帳へ記した。
戻れば戻れる、と決めてしまうのは危ない。
目印だけを残し、現物を見直せるようにする。
棒で床を探り、命綱を張って足を運ぶ。
そぴあのように、離れた支えまで一度には分からない。
自分の腕が届くところから確かめるしかなかった。
壁の切れ目を出ると、道が前と後ろへ続いていた。
その先に、三角形の欠けた盤がある。
らでんは止まった。
盤の角だけを見て走らず、手帳を開く。
初めに撮った白い床。栞を置いた継ぎ目。
その脇にある、枝分かれした小さな傷。
足元の傷は、輪郭が鈍くなっていた。
それでも、分かれる位置は同じだった。
脇の保守番号も一致する。
盤までを示す案内の下には、逆向きの矢印が刻まれている。
「……後ろへ、十二」
遠く見える盤へ、そのまま向かわなくていい。
一周五十二メートル。
前へ四十メートル行くより、反対へ十二メートル戻る方が近い。
二人で歩いて確かめた道だった。
巻尺の端を、足元の固定具へ留めた。
目盛りを繰り出しながら向きを変える。
端の欠けた石を避け、棒が床を捉えたところへ、靴を置く。
巻尺の目盛りが十二メートルに近づくころ、盤の裏へ手が届いた。
「着きましたよ」
口にしてから、横を見てしまった。
灯りに照らされた手すりの間には、自分の腕しかなかった。
巻尺を戻す音が、妙に大きい。
そぴあが持っていたときには、数字を確かめる声の合間で鳴っていた音だ。
引っかからないよう、指で送りながら巻き取った。
盤の表には、古い表示板が斜めに残っていた。
三角に剝げていた角はさらに欠け、下の金属が薄くなっている。
ただ、盤を動かした跡はあった。
把手の根元に、施設の刻印とは違う細い数字が並んでいる。
らでんは灯りを横へ寝かせた。
同じ区画番号が、二度書かれていた。
下のものには取り消し線。
上のものから伸びる短い矢印は、盤の背後のくぼみを指している。
そこに、”紙”があった。
保守盤の庇と、小さな石の間に挟まれている。
濡れて乾いたものが何層も貼りついたようで、端の形さえ揃っていない。
それでも、灯りを近づけると、細い罫が二本見えた。
条件を書く場所。
結果を書く場所。
その外側へ、少し空けて追記する場所。
”そぴあの手帳と、同じ並び”だった。
紙の縁が、灯りを持ち替えた腕の下で崩れた。
触れたつもりはなかった。
服の端が、飛び出していた一片をかすめただけだ。
落ちたものは紙片の形を保たず、盤の根元へ散った。
らでんは肘を引き、その姿勢で止まった。
残る方へ、息を吹きかけない。
灯りを離し、まず全体を撮る。
上から、斜めから。
読もうとして剝がせば、下の文字ごと失う。
かろうじて読めるのは、欄の左端にある『受け』と、短い数字だけだった。
右の欄は、もう紙と一緒になくなっている。
何が成功したとも、失敗したとも書き写せない。
らでんは自分の手帳を開いた。
帰還の図の脇に、そぴあが書き足した補助送りの口がある。
矢印の先が、いったん細く戻ってから跳ねている。
崩れた紙にも、同じ戻りがあった。
「……ここで、書いたの?」
盤の向こうへ灯りを上げた。
答える姿はない。くぼみの奥には、穴を開けた金属札が斜めに差し込まれていた。
施設の試験用らしく、下端に古い通し番号がある。
その上へ、もっと細い刃で文字を足している。
紙に残っていた数字と、同じ数字。
左の条件欄も、右の結果欄も、今度は刻まれていた。
『紙より転記』。
すぐ下は腐食で膨らんでいたが、庇に隠れていた部分には深い線が残っていた。
数字を囲む枠の端に、そぴあの記法と同じ短い折り返しがある。
紙に残る数字も単位も、札の同じ欄にある。
転記したころは、右側の結果も読めたのだろう。
らでんは紙と札を一枚の画面へ収めた。
奥を照らすと、床の縁にも数字があった。
壁材から外れたらしい陶片を、溝へ差し込んでいる。
札の番号が引かれ、その脇に、別の試験の結果が加わっていた。
札では欄外へ小さく足されていた番号が、陶片では最初から欄の中に入っている。
写しただけではなく、使い直していた。
その陶片の新しい追記は、さらに先の石面へ取り込まれている。
らでんは、重ねて撮れる位置からカメラを動かした。
丈夫なものから順に古い、と並べてしまったら、書いた人がたどった順番を逆にするところだった。
陶片の下では、石へ直接、線が刻まれていた。
上に落ちてきた粉で浅い部分は埋まっている。
風にさらされにくい縁の下へ灯りを回すと、押し込むように彫った数字だけが影を持った。
二十八。
その横に小さな球と、床まで下ろした垂線。球の位置を示す印と、足元の標点は分けて描かれている。
そぴあの装置の中心は、床ではない。
床の印は、そのときどこに立ち、中心球をどの位置へ保っていたかを、あとから辿るためのものだった。
らでんは、残る標点の方へ灯りを向けた。
全周など残っていない。
端が崩れ、どの線だったのか分からないところも多い。
それでも、壁際の二つと、盤の下の一つには、同じ番号が添えられていた。
測った人がいた。
変わらない二十八メートルをここへ置き、周りのものがどちらへ動くか、何度も比べた人が。
紙に書くだけでは足りなくなって、札へ移した。
札で足りないところは、陶片へ。持ち歩くものから、動かない床へも残した。
記録する場所を変えるたびに、古い記録のどこを使ったかまで添えてある。
これほど傷んだ紙が、いま自分の手にある手帳と同じころに使われたものなのか。
らでんは、開いた頁の角をつまんだ。まだ曲がる。指を離すと、紙は少しだけ起き上がった。
盤の下では、同じ動きを試せない。
湿気のせいだと考えかけ、金属札の縁を見た。文字の外側まで欠け落ちたところがある。
石へ書き直した線も、表に出た部分は丸く減っていた。
一つの材質だけがおかしいのではなかった。
そぴあは、どれだけここにいたのだろう。
考えてしまうと、足が速くなりそうだった。
らでんは棒を先へ出した。底の見えない溝が、足場の途中を横切っている。
踏み越えず、壁際の続きへ回る。手すりに掛けたロープを送り、刻みを追った。
低い作業台の脚へ、同じ線が続いていた。
その下の石のくぼみに、丸い金属の縁が残っていた。
◇ ◇ ◇
円盤状の髪飾りだった。
らでんは、先にその持ち主を探した。
作業台の向こう。壁際。低い仕切りの陰へ灯りを振る。
「そぴあさん。髪飾り、ここに――」
言いかけたまま、台の縁へ指を置いた。
二つあったうちの、片方。
中央は割れ、鮮やかだった色も残っていない。
錆の浮いた縁の内側に、交差する細い線だけが見えた。
横向きの八の字。その一方は、欠けた面の向こうへ途切れている。
灯りを寝かせると、縁のへこみが影になった。
最初に会ったとき、そぴあはそこを親指で撫でた。
気に入っているから、そのまま使っていると笑っていた。
錆の色より先に、傷の位置が分かってしまった。
脇には、測量に使う二脚器の片側が残っていた。
途中で折れた金属の脚と、開いたままの関節。
肩のそばに浮く《
手で開き、幅を移す普通の道具だった。
そのすぐ下に、白いものがあった。
最初は、欠けた壁材だと思った。
けれど、灯りをずらしても、片端だけが滑らかだった。
小さな歯が一つ、薄い骨の一部についたまま、台の脚と石の間へ残っていた。
息が、うまく入らなかった。
らでんは膝をついた。
遺されたものには触れず、灯りを持つ腕だけを低くする。
人の輪郭は、もうどこにもなかった。顔を探しても、顔はない。
それでも、ここで手帳を使い、道具を置いた人の身体の一部が、同じ作業位置に残っていた。
台の下には、記録の末尾があった。
条件、結果、その外へ少し空けた追記。髪飾りの傷と、ここまで辿ってきた記録の癖。
その持ち主の身体が、同じ作業位置に残っていた。
置き忘れた道具を見つけたのではなかった。
持ち主は、ここにいた。
「そぴあさん」
返事はなかった。
らでんは、膝の前の石を見ていた。
手すりの向こうに声が届かなかったときは、向こう側へ回ればいいと思えた。
いまは、呼ぶ相手のいるところまで来ていた。
聞いてもらうために近づける距離が、もう残っていなかった。
”そぴあが、ここで死んでいた”。
いつなのかは、分からない。
どんなふうに息が止まったのかも、この骨や髪飾りを見ただけでは分からなかった。
数えるための暦も、確かな日付もない。
ただ、紙が崩れ、道具が壊れるほどの時間を、彼女の身体もここで過ごしていた。
巻尺を拾い、顔を上げた。
自分にとって、そぴあを見失ったのは、たったそれだけの一瞬だった。
けれど、その一瞬を境に、二人の時間はどれほどずれてしまったのだろう。
こちらでは声の続きを待っている間に、そぴあの側では、記録を何度も書き直し、身体を遺すまでの時間が過ぎたのかもしれない。
離れたのは、立っていた場所だけではなかったのか。
手が、髪飾りへ伸びかけた。
ついさっきまで、彼女の横顔が見えていた。
拾って渡せば、また髪へ戻してくれる気がした。
指を、握った。
持ち上げれば、何がどこにあったかが失われる。
無理に外せば、もう一度壊すかもしれない。
そんなことを考えてしまう自分の頭が、嫌だった。
いままで何度も、人の残した場所を読む助けになった考え方だった。
らでんは、端末を膝へ置いた。
画面の端に、二人で作った帰路の図が見えている。
低い窓。月の裏の盤。最後の受け台。そぴあはそこを順に示して、帰れますと言った。
その声を思い出したところで、文字が滲んだ。
手袋の甲で目元を押さえた。
石の上へ雫を落とさないよう、少しだけ顔を背ける。
息を吐いても、次の息はつかえたままだった。
「……見つけました」
それだけを言った。
探していた人に言うには、あまりに役に立たない言葉だった。
しばらくしてから、撮影位置を決めた。
髪飾り、道具、身体の残った場所。その関係が分かる距離と、傷を確かめられる距離を分けた。
撮り終えるたび、画面を見直すのに時間がかかった。
記録の名前の欄に、そぴあと書いた。
知らない人の遺留品には、しなかった。
膝を上げようとしたとき、灯りが作業台の脚を横切った。
石へ刻まれた線は、そこで終わっていなかった。
脚の陰から床の低い縁へ、短い番号が続いている。
そぴあが見ていた先が、まだあった。
らでんは、台の下へ灯りを戻した。
線の先には、送りの受け面を描いた小さな図があった。
左側の候補には大きな取り消し線がある。
だが、何もかも消してはいない。横から読むと、下の文字も残っていた。
『支持なし』
隣には、点検棒の先を描いた図。
見えている床へ差し入れ、そのまま沈んだ位置が示されている。
そぴあは身体で試していなかった。
まず棒を送り、足を置けないと知って、候補から外した。
その次は、通った試験片の記録だった。
送り先で物が受け止められている。
ただ、帰る向きに印をつけた方へ動かすと、元の皿に戻った。
行けることと、出られることは、別の結果として刻んであった。
らでんは、盤の方を振り返った。
さっき見た取り消し線の理由は、こちらに残っていた。
同じ試験を無駄にやり直さないために、条件の方も消さずに置いたのだ。
いつもの声で説明されたわけではない。
目の前の線を追うと、彼女が何を変えようとしたのか、その順番だけが分かった。
陶片の一つには、発動を分ける見出しがあった。
前の記録の末尾に『四九六・満了』。
次の開始欄は、それより下ではなく、新しい枠の中にある。
九つの観測項目のうち、光の強度を選んでいた位置が、音の強度に変わっていた。
そぴあも、声の届く方を探したのだろうか。
試験欄には、金属を叩いた位置が三つ描かれていた。
反応のなかった向きには、短い横線。
その先の石面では、また満了を挟んで、光の強度へ戻っている。
片側へ工具を送る試験と、戻す試験が、改めて区別されていた。
装置を出したままにして、待ち続けたのではなかった。
一回が終われば記録を比べ、次に何を測るかを選び直していた。
開始から満了までは、読める記録のどれでも四百九十六秒だった。
記録を比べている間は、計測値の欄も空いている。
測る場所を変えた記録には、中心の印が描き直されていた。
前の印は消さず、別の番号を付けている。
同じ二十八メートルでも、どこに置いて測ったかを混ぜてはいない。
らでんは一つずつ、残る床の標点を写真の中へ入れた。
古い値が読めることと、いまの床がそのとおりであることは、分けておかなければならなかった。
床の縁には、休むために選んだ場所も記されていた。
物を置ける面と、送りが起きる面を離している。
壁の張り出しに隠れる位置へ、少ない荷物を集め直した跡があった。
その近くの札だけは、数式ではなかった。
食料の残りを書いた欄と、次に使う分。
取り消して、少なく書き直している。
文字の端が欠け、数量までは読めなかったが、増えていく記録でないことは分かった。
さらに先の試験には、移動しないで済む手順が加わっていた。
同じ支点から二つの向きを試す。
次の発動までは、器材を並べ直すだけにする。
測りたいものがなくなったからではない。
歩くことも、オーラを使うことも、際限なくは続けられないからだった。
らでんは、髪飾りのある場所へ目を戻した。
帰ろうとしていた。
最後に残った記録まで、出るための候補を調べていた。
作業台の下、手を伸ばせば届く低い石面に、最後の試験欄がある。
途中まで削られた数字のあとへ、道具を運んだ細い擦れがあった。
その続きには、文字も、取り消し線もなかった。
らでんは、その空白を撮った。
何が起きたのか、書き足すことはできなかった。
画面を一つ戻し、床の図を開く。
髪飾りの写真とは別に、試験の順番を並べた。
読めない箇所には空きを残す。欄外にだけ、自分の推測を書いた。
しゃがんだまま、灯りを横へ動かした。
作業台の脚、その先の石の縁、壁際に差した陶片。
ばらばらだった短い線が、低い位置からは同じ側へ向いて見えた。
動いたらしい破片を除いても、床に直接刻まれた分はつながっている。
らでんは顔を少し上げ、また下げた。
線の先に、壁の裾を回る細い通路があった。
足を置いたらしい窪みは残っているが、そこが安全な出口だとは、どの札にも書かれていなかった。
ただ、まだ読んでいない続きがある。
手帳へ、その向きを写した。
そぴあの書いた線と区別できるよう、自分の矢印は脇へ置く。
ここから先に何があるかは、本人に聞けなかった。
聞けないまま、彼女の記録を手に進まなければならない。
「この先も、見てきます」
台の下へ声を残し、立った。
命綱の金具が一度、うまく留まらなかった。
指を開き直し、掛かったことを引いて確かめる。
巻尺も、灯りも、カメラもある。
持ち出したのは写真と、自分で写した記録だけだった。
そぴあの残したものは、作業をしていた場所に置いたまま、そこへ戻るための形を手帳に残した。
壁の裾へ回ったところで、音がした。
ぽつ、と。
硬いものを叩く音ではなく、水の落ちる音だった。
◇ ◇ ◇
水音は、通路の奥から来ていた。
壁の低いところに刻みが続き、その先に、人が一人ずつ通る細い口がある。
縁には古い点検標が残っていた。
展示の順路を示すものではなく、観測枠の整備図で見た、基準を合わせる場所の印だった。
そぴあの測定痕は、入口の手前まであった。
床に置いた標点と、壁のくぼみから下げた線の跡。
そこから中へ向けて、試験の向きが二つ記されている。
ただ、中へ通れたという結果は読めなかった。
水があるからといって、彼女もそこへ来られたとは限らない。
らでんは入口へ寄りすぎず、点検棒の先へカメラを付け直した。
画面に、白い壁が映った。
中央には浅い水盤。
脇に石の腰掛けがある。
四つの細い通路口が壁を区切り、上は明るい採光面で塞がれていた。
空は見えない。
水盤へ、雫が落ちた。
下へ。
丸い波が広がって、縁に当たって、小さくなった。
らでんは、画面を持つ手を止めた。
次の雫も、同じように落ちた。横へ曲がりもせず、途中で消えもせず、水面へ届く。
目を離して戻したあとにも、水盤は同じ場所にあった。
棒で入口からの床を探り、印のある重りを下ろした。
支持は続いている。
引き戻した重りの印も、そのままだった。
自分の方の入口に、綿ひもで小さな札を結んだ。
番号と、入ってきた向きだけを書く。
余ったひもは通路へ出さず、結び目の下でまとめた。
入口脇の金具には、片側のなくなった二股の支えがあった。
残る片側と代わりの板が、横棒を受けている。
らでんは写真を一枚撮り、固定する先には、壁へ直接つながる方を選んだ。
引いて確かめてから、中へ入った。
両足が、平らな床を踏んだ。
膝が不意に沈むことも、腰のロープが張ることもない。
自分の重さが、ちゃんと足の下にあった。
水盤の向こうで、葉が一枚、壁際を滑った。
低い鉢の枝に引っかかっていたものが、外れたらしい。
縁に触れ、裏返り、床へ落ちる。らでんの知る落ち方だった。
腰掛けへ目を向けた。
座れば、背中を壁へ預けられそうだった。
肩に食い込んでいる鞄を、一度下ろしたい。
そこまで考え、自分の入口を振り返った。
札はある。
その奥に見えていた細い横面が、もう一枚、見えなくなっていた。
壁の縁だけを残し、向こうの足場との重なりが失われている。
来た口そのものは残っていたが、その状態まで続く保証はなかった。
鞄は下ろさなかった。
水にも手をつけず、灯りを床へ向けたまま立っていた。
静かだった。
近くで息をする音が聞こえた。
自分のものとは、違う間隔だった。
らでんは顔を上げた。
”水盤を挟んだ斜め向かいの口に、人がいた”
男は、通路の敷居に片膝をついていた。
厚手の上着の裾を片側へ払い、短いひもの先を床へ置いている。
らでんに気づいても、まずその端の位置を指で押さえ、手元の紙へ印をつけた。
「なるほど。こっちを変えても、同じか」
独り言の声は大きかった。
うまくいかなかったらしいのに、紙を投げ出す気配はない。
ひもを巻き取り、もう一度、敷居を眺めている。
口の脇の金具には、二股に分かれた古い支えが残っていた。
こちらの通路では片側が失われ、代わりの板で受けていた箇所だ。
男の脇では、二本とも揃っている。上着の留め方も、肩から提げた道具の作りも、らでんが見慣れたものとは違っていた。
男が立った。
らでんは、自分の入口を背中で塞がない位置へ寄った。
片手に棒、もう片方に端末。
向こうの靴が敷居を離れ、中庭の床へ下りる。
「そっちからも来る奴がいたか」
男は、水盤のこちら側へ視線を移した。
らでんの手にある灯りと、鞄と、顔を見た。近づいてはこなかった。
紙も筆跡も違う入域記録。
その中に、一つだけあった退出印。
短い報告と、数枚の測定値。
この場所で会う調査者の名として、思い当たるのは一つだった。
「……もしかして、レイトン=ベネドさんですか?」
男は一瞬考え、口の端を上げた。
「そういや、そういう名前にしてたんだったか。どこで見た?」
「お名前だけ、記録で」
退出のことは、口に出さなかった。
目の前の男の胸が、上着の下で動いている。
いま自分で試したことを、まだ手元の紙へ書こうとしている。
”レイトン=ベネド”
記録の中では名だけだった人が、目の前でこちらを見ていた。