儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

39 / 40
第六話 声のない観測

 らでんは、腰の留め具を引いて確かめた。

 そぴあの手が、帰還用の把手ではなく、その隣の小さな爪へ伸びる。

 

「先に、補助送りを戻す。こっちの接続が閉じないと、帰る方を始められない」

「はい。こちらで支えます」

 

 らでんの帰路の図へ、そぴあが短い矢印を足した。

 主系の線に重ねず、その手前へ別の口を描く。

 らでんは書き足された図を撮って、鞄へ戻した。

 主補正の標は、始動前の位置にある。

 保守台の脚へロープを回すと、そぴあが爪を押した。

 窓の奥で、横になっていた金具が起きた。

 

 その向こうの受け面が、二枚になった。

 

 同じ縁が、少しずつ離れていく。

 一方には床の白い継ぎ目があり、もう一方には、その継ぎ目の途中から壁が立っている。

 そぴあは把手をそれ以上動かさず、窓から半歩退いた。

 

「先の端が、円から外れる。……右の足場へ移るね。そこなら、受け面まで入る」

 

 示した先は、壁に沿った保守用の足場だった。

 送り先の白い床とは別に、こちらから支柱の根元まで目で辿れる。

 棒で押し、重りを載せる。

 そぴあが支えの反応を取り、らでんも取付部に浮きがないことを確かめた。

 

「ありますね」

「うん。らでんさんは、まだこっちに来ないで。二人で載る前に、先を取るので」

 

 そぴあは足場側の支柱へ命綱を掛け替え、片手を壁の握りに残したまま移った。

 靴の跡が、薄い埃を二つ払う。

 肩のそばを《万象観測器(プリンキピア)》がついていった。

 三つの環も、中心から広がる二十八メートルも、彼女と一緒に動く。

 本人を包む薄い《纏》は、そのままだった。

 

「そっちの支点、動いてない?」

「動いてません。……巻尺、こちらで持ってますよ」

 

 台の縁から滑った小さな巻尺を、らでんは膝の前で受け止めた。

 腰の固定は外さない。

 手の中へ収めて顔を上げると、そぴあは窓の脇で手帳を開いていた。

 

「あとで借りる。今、ここの――」

 

 声が切れた。

 

 らでんは、続きが来るのを待った。

 そぴあのいた場所には、窓の縁がある。

 その奥へ、手すりの短い端が見えている。

 

「そぴあさん?」

 

 返らない。

 さっきまで覗いていた横顔も、肩のそばの環もなかった。

 壁が彼女を隠したのだと思い、窓の横へ首を伸ばす。

 足は出さず、棒だけを先へ送った。

 

 先端が、硬いものに当たった。

 

 そぴあの立っていた足場ではない。

 もっと手前に、縦の石面があった。

 灯りを下げると、足場へ続いていた支柱が、その面の向こうで別の高さへ出ている。

 

「聞こえますか。こちらは、保守台です」

 

 無線も呼んだ。返事はなかった。

 らでんは壁の握りを棒で二度叩き、耳を澄ました。

 音は自分の手元へ響いたきりだった。

 

 見えなくなったから、なくなったわけではない。

 あの小さな箱では、赤い球は光の下へ抜けていた。

 そぴあだって、足を滑らせたのではない。

 両足を確かめた場所へ収め、手帳を開いていた。

 

 手元の巻尺を鞄へ入れた。

 帰るために用意した重りには、斜めの印がある。

 点検棒のカメラも、すぐ使える。

 

「そっちへ行きます。動けるなら、返事を」

 

 声を残して、壁際の細い開口を覗いた。

 先ほどまで窓の横にあった支柱の足が、その奥に見える。

 床へ重りを下ろすと、糸がたるんだ。棒で縁を押し、固定できる金具を探す。

 

 そぴあの靴跡があった。

 ただし、そのすぐ先の壁は、さっきと違っていた。

 手を添える高さの溝が、深く、丸く減っている。

 数息前の写真では、溝の角はまだ立っていた。

 

 らでんは画面と壁を、一度ずつ見た。

 新しい足跡の先に、長く使われた壁が続いていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 次の支点へ先に命綱を留め、保守台側からロープを回収した。

 開口の先へ身体を移すと、保守台は見えなくなった。

 横へ振った灯りには、白い道と、低い盤の裏側が浮かんだ。

 出口を振り返る。自分がいま通った口はある。

 けれど、その向こうには保守台の脚ではなく、壁の暗い継ぎ目が見えていた。

 

 らでんは口の縁へ綿ひもを結び、来た方向を手帳へ記した。

 戻れば戻れる、と決めてしまうのは危ない。

 目印だけを残し、現物を見直せるようにする。

 

 棒で床を探り、命綱を張って足を運ぶ。

 そぴあのように、離れた支えまで一度には分からない。

 自分の腕が届くところから確かめるしかなかった。

 

 壁の切れ目を出ると、道が前と後ろへ続いていた。

 その先に、三角形の欠けた盤がある。

 

 らでんは止まった。

 盤の角だけを見て走らず、手帳を開く。

 初めに撮った白い床。栞を置いた継ぎ目。

 その脇にある、枝分かれした小さな傷。

 

 足元の傷は、輪郭が鈍くなっていた。

 それでも、分かれる位置は同じだった。

 脇の保守番号も一致する。

 盤までを示す案内の下には、逆向きの矢印が刻まれている。

 

「……後ろへ、十二」

 

 遠く見える盤へ、そのまま向かわなくていい。

 一周五十二メートル。

 前へ四十メートル行くより、反対へ十二メートル戻る方が近い。

 二人で歩いて確かめた道だった。

 

 巻尺の端を、足元の固定具へ留めた。

 目盛りを繰り出しながら向きを変える。

 端の欠けた石を避け、棒が床を捉えたところへ、靴を置く。

 

 巻尺の目盛りが十二メートルに近づくころ、盤の裏へ手が届いた。

 

「着きましたよ」

 

 口にしてから、横を見てしまった。

 灯りに照らされた手すりの間には、自分の腕しかなかった。

 

 巻尺を戻す音が、妙に大きい。

 そぴあが持っていたときには、数字を確かめる声の合間で鳴っていた音だ。

 引っかからないよう、指で送りながら巻き取った。

 

 盤の表には、古い表示板が斜めに残っていた。

 三角に剝げていた角はさらに欠け、下の金属が薄くなっている。

 ただ、盤を動かした跡はあった。

 把手の根元に、施設の刻印とは違う細い数字が並んでいる。

 

 らでんは灯りを横へ寝かせた。

 同じ区画番号が、二度書かれていた。

 下のものには取り消し線。

 上のものから伸びる短い矢印は、盤の背後のくぼみを指している。

 

 そこに、”紙”があった。

 

 保守盤の庇と、小さな石の間に挟まれている。

 濡れて乾いたものが何層も貼りついたようで、端の形さえ揃っていない。

 それでも、灯りを近づけると、細い罫が二本見えた。

 

 条件を書く場所。

 結果を書く場所。

 その外側へ、少し空けて追記する場所。

 

 ”そぴあの手帳と、同じ並び”だった。

 

 紙の縁が、灯りを持ち替えた腕の下で崩れた。

 

 触れたつもりはなかった。

 服の端が、飛び出していた一片をかすめただけだ。

 落ちたものは紙片の形を保たず、盤の根元へ散った。

 らでんは肘を引き、その姿勢で止まった。

 

 残る方へ、息を吹きかけない。

 灯りを離し、まず全体を撮る。

 上から、斜めから。

 読もうとして剝がせば、下の文字ごと失う。

 

 かろうじて読めるのは、欄の左端にある『受け』と、短い数字だけだった。

 右の欄は、もう紙と一緒になくなっている。

 何が成功したとも、失敗したとも書き写せない。

 

 らでんは自分の手帳を開いた。

 帰還の図の脇に、そぴあが書き足した補助送りの口がある。

 矢印の先が、いったん細く戻ってから跳ねている。

 

 崩れた紙にも、同じ戻りがあった。

 

「……ここで、書いたの?」

 

 盤の向こうへ灯りを上げた。

 答える姿はない。くぼみの奥には、穴を開けた金属札が斜めに差し込まれていた。

 施設の試験用らしく、下端に古い通し番号がある。

 その上へ、もっと細い刃で文字を足している。

 

 紙に残っていた数字と、同じ数字。

 左の条件欄も、右の結果欄も、今度は刻まれていた。

 

 『紙より転記』。

 

 すぐ下は腐食で膨らんでいたが、庇に隠れていた部分には深い線が残っていた。

 数字を囲む枠の端に、そぴあの記法と同じ短い折り返しがある。

 

 紙に残る数字も単位も、札の同じ欄にある。

 転記したころは、右側の結果も読めたのだろう。

 

 らでんは紙と札を一枚の画面へ収めた。

 奥を照らすと、床の縁にも数字があった。

 壁材から外れたらしい陶片を、溝へ差し込んでいる。

 札の番号が引かれ、その脇に、別の試験の結果が加わっていた。

 

 札では欄外へ小さく足されていた番号が、陶片では最初から欄の中に入っている。

 写しただけではなく、使い直していた。

 その陶片の新しい追記は、さらに先の石面へ取り込まれている。

 らでんは、重ねて撮れる位置からカメラを動かした。

 丈夫なものから順に古い、と並べてしまったら、書いた人がたどった順番を逆にするところだった。

 

 陶片の下では、石へ直接、線が刻まれていた。

 上に落ちてきた粉で浅い部分は埋まっている。

 風にさらされにくい縁の下へ灯りを回すと、押し込むように彫った数字だけが影を持った。

 

 二十八。

 

 その横に小さな球と、床まで下ろした垂線。球の位置を示す印と、足元の標点は分けて描かれている。

 そぴあの装置の中心は、床ではない。

 床の印は、そのときどこに立ち、中心球をどの位置へ保っていたかを、あとから辿るためのものだった。

 

 らでんは、残る標点の方へ灯りを向けた。

 全周など残っていない。

 端が崩れ、どの線だったのか分からないところも多い。

 それでも、壁際の二つと、盤の下の一つには、同じ番号が添えられていた。

 

 測った人がいた。

 変わらない二十八メートルをここへ置き、周りのものがどちらへ動くか、何度も比べた人が。

 

 紙に書くだけでは足りなくなって、札へ移した。

 札で足りないところは、陶片へ。持ち歩くものから、動かない床へも残した。

 記録する場所を変えるたびに、古い記録のどこを使ったかまで添えてある。

 

 これほど傷んだ紙が、いま自分の手にある手帳と同じころに使われたものなのか。

 

 らでんは、開いた頁の角をつまんだ。まだ曲がる。指を離すと、紙は少しだけ起き上がった。

 盤の下では、同じ動きを試せない。

 

 湿気のせいだと考えかけ、金属札の縁を見た。文字の外側まで欠け落ちたところがある。

 石へ書き直した線も、表に出た部分は丸く減っていた。

 一つの材質だけがおかしいのではなかった。

 

 そぴあは、どれだけここにいたのだろう。

 

 考えてしまうと、足が速くなりそうだった。

 らでんは棒を先へ出した。底の見えない溝が、足場の途中を横切っている。

 踏み越えず、壁際の続きへ回る。手すりに掛けたロープを送り、刻みを追った。

 

 低い作業台の脚へ、同じ線が続いていた。

 その下の石のくぼみに、丸い金属の縁が残っていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 円盤状の髪飾りだった。

 

 らでんは、先にその持ち主を探した。

 作業台の向こう。壁際。低い仕切りの陰へ灯りを振る。

 

「そぴあさん。髪飾り、ここに――」

 

 言いかけたまま、台の縁へ指を置いた。

 

 二つあったうちの、片方。

 中央は割れ、鮮やかだった色も残っていない。

 錆の浮いた縁の内側に、交差する細い線だけが見えた。

 横向きの八の字。その一方は、欠けた面の向こうへ途切れている。

 

 灯りを寝かせると、縁のへこみが影になった。

 

 最初に会ったとき、そぴあはそこを親指で撫でた。

 気に入っているから、そのまま使っていると笑っていた。

 

 錆の色より先に、傷の位置が分かってしまった。

 

 脇には、測量に使う二脚器の片側が残っていた。

 途中で折れた金属の脚と、開いたままの関節。

 肩のそばに浮く《万象観測器(プリンキピア)》ではない。

 手で開き、幅を移す普通の道具だった。

 

 そのすぐ下に、白いものがあった。

 

 最初は、欠けた壁材だと思った。

 けれど、灯りをずらしても、片端だけが滑らかだった。

 小さな歯が一つ、薄い骨の一部についたまま、台の脚と石の間へ残っていた。

 

 息が、うまく入らなかった。

 

 らでんは膝をついた。

 遺されたものには触れず、灯りを持つ腕だけを低くする。

 人の輪郭は、もうどこにもなかった。顔を探しても、顔はない。

 それでも、ここで手帳を使い、道具を置いた人の身体の一部が、同じ作業位置に残っていた。

 

 台の下には、記録の末尾があった。

 条件、結果、その外へ少し空けた追記。髪飾りの傷と、ここまで辿ってきた記録の癖。

 その持ち主の身体が、同じ作業位置に残っていた。

 

 置き忘れた道具を見つけたのではなかった。

 

 持ち主は、ここにいた。

 

「そぴあさん」

 

 返事はなかった。

 

 らでんは、膝の前の石を見ていた。

 手すりの向こうに声が届かなかったときは、向こう側へ回ればいいと思えた。

 いまは、呼ぶ相手のいるところまで来ていた。

 聞いてもらうために近づける距離が、もう残っていなかった。

 

 ”そぴあが、ここで死んでいた”。

 

 いつなのかは、分からない。

 どんなふうに息が止まったのかも、この骨や髪飾りを見ただけでは分からなかった。

 数えるための暦も、確かな日付もない。

 ただ、紙が崩れ、道具が壊れるほどの時間を、彼女の身体もここで過ごしていた。

 

 巻尺を拾い、顔を上げた。

 自分にとって、そぴあを見失ったのは、たったそれだけの一瞬だった。

 けれど、その一瞬を境に、二人の時間はどれほどずれてしまったのだろう。

 こちらでは声の続きを待っている間に、そぴあの側では、記録を何度も書き直し、身体を遺すまでの時間が過ぎたのかもしれない。

 離れたのは、立っていた場所だけではなかったのか。

 

 手が、髪飾りへ伸びかけた。

 ついさっきまで、彼女の横顔が見えていた。

 拾って渡せば、また髪へ戻してくれる気がした。

 

 指を、握った。

 

 持ち上げれば、何がどこにあったかが失われる。

 無理に外せば、もう一度壊すかもしれない。

 そんなことを考えてしまう自分の頭が、嫌だった。

 いままで何度も、人の残した場所を読む助けになった考え方だった。

 

 らでんは、端末を膝へ置いた。

 画面の端に、二人で作った帰路の図が見えている。

 低い窓。月の裏の盤。最後の受け台。そぴあはそこを順に示して、帰れますと言った。

 

 その声を思い出したところで、文字が滲んだ。

 

 手袋の甲で目元を押さえた。

 石の上へ雫を落とさないよう、少しだけ顔を背ける。

 息を吐いても、次の息はつかえたままだった。

 

「……見つけました」

 

 それだけを言った。

 探していた人に言うには、あまりに役に立たない言葉だった。

 

 しばらくしてから、撮影位置を決めた。

 髪飾り、道具、身体の残った場所。その関係が分かる距離と、傷を確かめられる距離を分けた。

 撮り終えるたび、画面を見直すのに時間がかかった。

 

 記録の名前の欄に、そぴあと書いた。

 知らない人の遺留品には、しなかった。

 

 膝を上げようとしたとき、灯りが作業台の脚を横切った。

 石へ刻まれた線は、そこで終わっていなかった。

 脚の陰から床の低い縁へ、短い番号が続いている。

 

 そぴあが見ていた先が、まだあった。

 

 らでんは、台の下へ灯りを戻した。

 

 線の先には、送りの受け面を描いた小さな図があった。

 左側の候補には大きな取り消し線がある。

 だが、何もかも消してはいない。横から読むと、下の文字も残っていた。

 

 『支持なし』

 

 隣には、点検棒の先を描いた図。

 見えている床へ差し入れ、そのまま沈んだ位置が示されている。

 そぴあは身体で試していなかった。

 まず棒を送り、足を置けないと知って、候補から外した。

 

 その次は、通った試験片の記録だった。

 送り先で物が受け止められている。

 ただ、帰る向きに印をつけた方へ動かすと、元の皿に戻った。

 行けることと、出られることは、別の結果として刻んであった。

 

 らでんは、盤の方を振り返った。

 さっき見た取り消し線の理由は、こちらに残っていた。

 同じ試験を無駄にやり直さないために、条件の方も消さずに置いたのだ。

 

 いつもの声で説明されたわけではない。

 目の前の線を追うと、彼女が何を変えようとしたのか、その順番だけが分かった。

 

 陶片の一つには、発動を分ける見出しがあった。

 前の記録の末尾に『四九六・満了』。

 次の開始欄は、それより下ではなく、新しい枠の中にある。

 九つの観測項目のうち、光の強度を選んでいた位置が、音の強度に変わっていた。

 

 そぴあも、声の届く方を探したのだろうか。

 

 試験欄には、金属を叩いた位置が三つ描かれていた。

 反応のなかった向きには、短い横線。

 その先の石面では、また満了を挟んで、光の強度へ戻っている。

 片側へ工具を送る試験と、戻す試験が、改めて区別されていた。

 

 装置を出したままにして、待ち続けたのではなかった。

 一回が終われば記録を比べ、次に何を測るかを選び直していた。

 開始から満了までは、読める記録のどれでも四百九十六秒だった。

 記録を比べている間は、計測値の欄も空いている。

 

 測る場所を変えた記録には、中心の印が描き直されていた。

 前の印は消さず、別の番号を付けている。

 同じ二十八メートルでも、どこに置いて測ったかを混ぜてはいない。

 らでんは一つずつ、残る床の標点を写真の中へ入れた。

 古い値が読めることと、いまの床がそのとおりであることは、分けておかなければならなかった。

 

 床の縁には、休むために選んだ場所も記されていた。

 物を置ける面と、送りが起きる面を離している。

 壁の張り出しに隠れる位置へ、少ない荷物を集め直した跡があった。

 

 その近くの札だけは、数式ではなかった。

 食料の残りを書いた欄と、次に使う分。

 取り消して、少なく書き直している。

 文字の端が欠け、数量までは読めなかったが、増えていく記録でないことは分かった。

 

 さらに先の試験には、移動しないで済む手順が加わっていた。

 同じ支点から二つの向きを試す。

 次の発動までは、器材を並べ直すだけにする。

 測りたいものがなくなったからではない。

 歩くことも、オーラを使うことも、際限なくは続けられないからだった。

 

 らでんは、髪飾りのある場所へ目を戻した。

 

 帰ろうとしていた。

 最後に残った記録まで、出るための候補を調べていた。

 

 作業台の下、手を伸ばせば届く低い石面に、最後の試験欄がある。

 途中まで削られた数字のあとへ、道具を運んだ細い擦れがあった。

 その続きには、文字も、取り消し線もなかった。

 

 らでんは、その空白を撮った。

 何が起きたのか、書き足すことはできなかった。

 

 画面を一つ戻し、床の図を開く。

 髪飾りの写真とは別に、試験の順番を並べた。

 読めない箇所には空きを残す。欄外にだけ、自分の推測を書いた。

 

 しゃがんだまま、灯りを横へ動かした。

 作業台の脚、その先の石の縁、壁際に差した陶片。

 ばらばらだった短い線が、低い位置からは同じ側へ向いて見えた。

 動いたらしい破片を除いても、床に直接刻まれた分はつながっている。

 

 らでんは顔を少し上げ、また下げた。

 線の先に、壁の裾を回る細い通路があった。

 足を置いたらしい窪みは残っているが、そこが安全な出口だとは、どの札にも書かれていなかった。

 

 ただ、まだ読んでいない続きがある。

 

 手帳へ、その向きを写した。

 そぴあの書いた線と区別できるよう、自分の矢印は脇へ置く。

 ここから先に何があるかは、本人に聞けなかった。

 聞けないまま、彼女の記録を手に進まなければならない。

 

「この先も、見てきます」

 

 台の下へ声を残し、立った。

 命綱の金具が一度、うまく留まらなかった。

 指を開き直し、掛かったことを引いて確かめる。

 巻尺も、灯りも、カメラもある。

 

 持ち出したのは写真と、自分で写した記録だけだった。

 そぴあの残したものは、作業をしていた場所に置いたまま、そこへ戻るための形を手帳に残した。

 

 壁の裾へ回ったところで、音がした。

 

 ぽつ、と。

 硬いものを叩く音ではなく、水の落ちる音だった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 水音は、通路の奥から来ていた。

 壁の低いところに刻みが続き、その先に、人が一人ずつ通る細い口がある。

 縁には古い点検標が残っていた。

 展示の順路を示すものではなく、観測枠の整備図で見た、基準を合わせる場所の印だった。

 

 そぴあの測定痕は、入口の手前まであった。

 床に置いた標点と、壁のくぼみから下げた線の跡。

 そこから中へ向けて、試験の向きが二つ記されている。

 ただ、中へ通れたという結果は読めなかった。

 

 水があるからといって、彼女もそこへ来られたとは限らない。

 らでんは入口へ寄りすぎず、点検棒の先へカメラを付け直した。

 

 画面に、白い壁が映った。

 中央には浅い水盤。

 脇に石の腰掛けがある。

 四つの細い通路口が壁を区切り、上は明るい採光面で塞がれていた。

 空は見えない。

 

 水盤へ、雫が落ちた。

 

 下へ。

 丸い波が広がって、縁に当たって、小さくなった。

 

 らでんは、画面を持つ手を止めた。

 次の雫も、同じように落ちた。横へ曲がりもせず、途中で消えもせず、水面へ届く。

 目を離して戻したあとにも、水盤は同じ場所にあった。

 

 棒で入口からの床を探り、印のある重りを下ろした。

 支持は続いている。

 引き戻した重りの印も、そのままだった。

 

 自分の方の入口に、綿ひもで小さな札を結んだ。

 番号と、入ってきた向きだけを書く。

 余ったひもは通路へ出さず、結び目の下でまとめた。

 

 入口脇の金具には、片側のなくなった二股の支えがあった。

 残る片側と代わりの板が、横棒を受けている。

 らでんは写真を一枚撮り、固定する先には、壁へ直接つながる方を選んだ。

 引いて確かめてから、中へ入った。

 

 両足が、平らな床を踏んだ。

 膝が不意に沈むことも、腰のロープが張ることもない。

 自分の重さが、ちゃんと足の下にあった。

 

 水盤の向こうで、葉が一枚、壁際を滑った。

 低い鉢の枝に引っかかっていたものが、外れたらしい。

 縁に触れ、裏返り、床へ落ちる。らでんの知る落ち方だった。

 

 腰掛けへ目を向けた。

 座れば、背中を壁へ預けられそうだった。

 肩に食い込んでいる鞄を、一度下ろしたい。

 そこまで考え、自分の入口を振り返った。

 

 札はある。

 その奥に見えていた細い横面が、もう一枚、見えなくなっていた。

 壁の縁だけを残し、向こうの足場との重なりが失われている。

 来た口そのものは残っていたが、その状態まで続く保証はなかった。

 

 鞄は下ろさなかった。

 水にも手をつけず、灯りを床へ向けたまま立っていた。

 

 静かだった。

 近くで息をする音が聞こえた。

 

 自分のものとは、違う間隔だった。

 

 らでんは顔を上げた。

 

 ”水盤を挟んだ斜め向かいの口に、人がいた”

 

 男は、通路の敷居に片膝をついていた。

 厚手の上着の裾を片側へ払い、短いひもの先を床へ置いている。

 らでんに気づいても、まずその端の位置を指で押さえ、手元の紙へ印をつけた。

 

「なるほど。こっちを変えても、同じか」

 

 独り言の声は大きかった。

 うまくいかなかったらしいのに、紙を投げ出す気配はない。

 ひもを巻き取り、もう一度、敷居を眺めている。

 

 口の脇の金具には、二股に分かれた古い支えが残っていた。

 こちらの通路では片側が失われ、代わりの板で受けていた箇所だ。

 男の脇では、二本とも揃っている。上着の留め方も、肩から提げた道具の作りも、らでんが見慣れたものとは違っていた。

 

 男が立った。

 らでんは、自分の入口を背中で塞がない位置へ寄った。

 片手に棒、もう片方に端末。

 向こうの靴が敷居を離れ、中庭の床へ下りる。

 

「そっちからも来る奴がいたか」

 

 男は、水盤のこちら側へ視線を移した。

 らでんの手にある灯りと、鞄と、顔を見た。近づいてはこなかった。

 

 紙も筆跡も違う入域記録。

 その中に、一つだけあった退出印。

 短い報告と、数枚の測定値。

 この場所で会う調査者の名として、思い当たるのは一つだった。

 

「……もしかして、レイトン=ベネドさんですか?」

 

 男は一瞬考え、口の端を上げた。

 

「そういや、そういう名前にしてたんだったか。どこで見た?」

「お名前だけ、記録で」

 

 退出のことは、口に出さなかった。

 目の前の男の胸が、上着の下で動いている。

 いま自分で試したことを、まだ手元の紙へ書こうとしている。

 

 ”レイトン=ベネド”

 

 記録の中では名だけだった人が、目の前でこちらを見ていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。