第四話 仲間だー!
ハンター試験の開催案内に記されていたのは、たった一行だけだった。
《試験会場:ロスカ市》
施設名も番地も、案内人の名前すらない。
初めてその画面を開いたとき、らでんは思わず苦笑いした。
(……これ、最初から会場まで辿り着かせる気がないやつだよね。絶対なにか仕掛けがありそう)
少し調べれば、毎年かなりの受験希望者が会場へ着く前にふるい落とされていることくらいはすぐに出てくる。しかも開催地は年ごとに変わり、前年の記録を追っても当てにならない。『ロスカ市へ来い』の一言だけで終わるはずがなかった。
そこでらでんは、出発前に案内ページそのものを隅々までひっくり返してみた。
短い文面に怪しいところはなかったけれど、ページの下に一枚だけ貼られていたロスカ市の風景写真に目が留まった。何の変哲もない駅前の写真なのに、手元のパソコンへ保存してみると、見た目の大きさに対してデータ量が妙に重たい。
(怪しいところから、一つずつ潰していくか……)
画像の属性情報、埋め込まれたコメント欄、色の数値、ファイルの末尾。
見慣れない形式が出てくれば調べ、意味の通らない文字列が浮き上がれば並び替えて変換してみる。一晩で綺麗に解けたわけではなく、途中で何度も『これ、ただの壊れたデータじゃない?』と首を傾げながら手を動かした。
そうして最後に、二つの暗号めいた記述が手元に残った。
一つ目は、《NOAH=GREY》ノア=グレイ。
人名のような響きだけれど、ロスカ市の著名人や古い名士、施設の名前を一通り洗っても該当するものは出てこない。
二つ目は、写真の色情報にわざと紛れ込ませてあった微細な点。
六つ、四つ、五つ、三つ。
そのすぐ横に、短い文句が添えられていた。《赤を分ける白い建物》《四度、扉を呼べ》
らでんは手元のノートに、読み取れた材料を書き出した。
【ハンター試験・会場関係?】
『《ノア=グレイ》 人名? 歴史上、地元の関係者での該当者なし』
『《6・4・5・3》 何かの符号? 距離? カウント数?』
『《赤を分ける白い建物》 → 血? → 献血? → 病院? 診療所? 血液関係施設?』
『《四度、扉を呼ぶ》 → 鍵? ノック?』
◇ ◇ ◇
減速した列車が、ロスカ市中央駅のホームへ滑り込んだ。
らでんは窓の外の駅名標を確かめてから席を立ち、荷物の詰まった鞄を背負って時計を見た。
午前八時七分。
案内にあった時刻までは、まだ十分に余裕がある。
下調べはしてきたけれど、ノートのメモだけではロスカ市のどこを目指せばいいのかまでは決まらない。病院一つとっても街中にいくつもあるし、診療所や血液センター、大学病院、献血ルームまで含めればきりがない。そもそも『赤を分ける白い建物』が医療施設を指している保証だってないのだ。
つまり、画面の向こうにあったのは答えではなく、現地で使うためのヒントにすぎない。残りは自分の足で歩いて確かめるつもりで、らでんは改札を抜けた。
駅の外へ出ると、まずは足を止めて周りを見渡した。
朝の広場は足早に職場へ向かう人たちで混み合い、案内板の前では立ち止まる客と通り過ぎる人の列が幾重にも重なっている。
街の地図、催し物の告知、公共施設の矢印、バスの時刻表。掲示されている図面だけならすぐに頭へ入る。
難しいのは、その前を行き交う人の流れだった。大きな荷物を背負った人は普通の旅行客に紛れ、鍛え上げた体つきの人も現場へ向かう作業服に混じってしまう。一人ずつ目で追ってみても、鞄の大きさや靴だけでは受験者かどうか見分けがつかない。
「まあ、そんな簡単には分からないよねぇ」
小さく呟いて視線を巡らせたとき、駅前広場の端で妙な動きをしている少女が目に入った。
歳はらでんと同じくらいに見える。動きやすそうな軽装で、さっきから同じ場所を何度も行ったり来たりしていた。
案内板を見上げて右へ歩き出したかと思えば、数歩で引き返してきて今度は左へ向かい、また首を捻りながら戻ってくる。道に迷っているのは確かなのに、何を頼りに探せばいいのか自体が定まっていない足取りだった。
「あの」
近づいて声をかけると、少女がぱっと振り返った。
「ん?」
らでんは周囲に聞こえないよう、少しだけ声を落とした。
「もしかしてなんですけど……ハンター試験の受験者ですか?」
少女の目が丸く見開かれた。
一拍置いて、ぱあっと顔を輝かせると、らでんの鼻先をまっすぐ指差した。
「お!」
「そっちも!?」
「はい!」
「仲間だー!」
ばん、と遠慮のない力で肩を叩かれた。
「うわっ」
「よかったー! うち、場所が全然わかんなくてさ!」
「あ、いえ、私も会場そのものはまだ分かってないんですよ」
「え、知らんの?」
「知らないですよ」
少女はあからさまに肩を落として唇を尖らせた。
「なんだー、頼れるやつ見つけたと思ったのにー」
「そんな露骨に残念がらなくてもいいじゃないですか。というか、そっちだって分かってないのは同じでしょ!」
言い返すと、少女はけらけらと笑った。
「まぁね! ってことは、うちら一緒じゃん」
「そうですねー。残念ながらまったく一緒ですねー」
少女がひらりと右手を差し出してくる。
「轟はじめ! よろしく」
らでんもその手を握り返した。
「儒烏風亭らでんです。よろしくお願いします」
「らでん?」
「はい」
「珍しい名前!」
「そういうはじめさんだって、結構ユニークな名前ですよ」
「あ、確かに」
顔を見合わせて、どちらからともなく笑いがこぼれた。
「で、どこから探しにいく?」
「まずは、お互い持ってる情報を合わせません?」
「情報?」
「はじめさん、ここへ来てから何か調べました?」
「あるよ、聞き込みしてた。駅の係の人と、タクシーのおっちゃんと、売店のおばちゃん」
「おぉ、すごい! もうそんなに聞いて回ってたんですか!」
「だって場所わかんないなら、知ってそうな人に聞くしかなくね〜?と思って」
らでんは目を丸くした。
自分は出発前に案内ページのデータを分解して、机の上でやれるだけの準備はしてきたつもりだった。けれど目の前の少女は、現地に着くなり自分の足で色んな人に声をかけて回っている。問題へのぶつかり方が、自分とはまるで逆だ。
「それで、何か分かりました?」
「最初は全然だったんだけどさ」
はじめが指を一本立てた。
「駅員さんは何も知らない」
続けて二本目を立てる。
「でも売店のおばちゃんが、今日は朝からやたら水とか携帯食ばっか買ってく変な旅行者が多いって」
そして三本目を立てた。
「で、タクシーのおっちゃん」
はじめが少しだけ得意そうに鼻を鳴らす。
「今日の朝だけで、でっかい荷物持った妙な客を何人か東港の方まで乗せたってさ」
らでんの目がわずかに見開かれた。
「今日ですか?」
「うん、今日の朝」
「何人くらい?」
「そのおっちゃんだけで三人。仲間の運転手も似たような客を乗せたって言ってた」
「降りた場所までは聞きました?」
「全員おんなじ場所じゃないみたい。でも、方角はみんな東港地区」
「なるほど……」
考え込むらでんの前で、はじめがもう一つ思い出したように付け足した。
「あ、あとね、そのうちの一人だけ『東港病院の健康イベントって今日だよな』って聞いてきた客がいたんだって」
鞄の紐に添えていたらでんの指がぴたりと止まった。
「……病院?」
「そう、病院」
らでんはすぐに鞄を開け、書き留めておいたノートを取り出した。横からはじめがひょいと首を伸ばして覗き込んでくる。
「何それ」
「私、来る前にハンター試験の案内ページを調べたんです。表にはロスカ市としか書いてなかったんですけど、貼ってあった画像の中に変なデータが隠してあって」
「画像の中? どうやって見つけんの、そんなの」
「データをバイナリ変換したりして少しずつ剥がしたんですよ。全部説明すると長くなっちゃうんですけど」
言いながら該当のページを開き、『赤を分ける白い建物』と書いた一行を指先で示した。
「赤を分ける白い建物って……血のこと?」
「私も、献血とか血液検査のことじゃないかなって考えてたんです」
はじめがぱっと顔を上げた。
「じゃあ、これってもしかして病院?」
「そうなんです」
らでんは駅構内のラックでもらっておいた市街地図を広げた。ロスカ市の区画には、病院の記号がいくつも散らばっている。
「ただ、この文句だけだと病院らしいってところまでは絞れても、市内のどこなのかまでは決めきれなくて。ロスカ市、医療施設が結構多いんですよ」
「じゃあさ、さっき言ってた東港にも病院ある?」
「はい、あります」
地図の東側、港へ下る区画に指を置いた。
ロスカ市立東港病院。
二人の頭が地図の上で近づく。
「今日に限って東港へ向かった旅行者と、健康イベントの噂と、私が見つけた暗号。三つとも、この東港病院で重なりますね」
「繋がった?」
「かなり。行ってみる価値は十分あります」
「よし、行こ!」
「はい、行きましょう!」
らでんは地図を折り畳みながら、さっきまで一人で案内板の前で立ち尽くしていたことを思い返した。
同じ朝の駅にいて、はじめは自分が目にも留めなかった人たちの言葉をいくつも拾い集めていた。家で書いてきたノートの空白が、ついさっき出会ったばかりの相手の話で一気に繋がっていく。
この子と一緒なら次はどんな手がかりが見つかるのだろうと思うと、自然と足取りが軽くなって隣に並んだ。
◇ ◇ ◇
東港へ向かう通りは、海へ向かって緩やかな下り坂になっていた。
吹き上げてくる風に、かすかに潮の匂いが混じる。
二人は歩きながら自然と役割を分けた。らでんは道端の看板や案内表示を目で追い、はじめは通りがかりの人に声をかけていく。
「東港病院ってこっちの道で合ってる?」
「今日、病院でなんかやってる?」
「朝から人多い?」
坂の途中、街角の掲示板の前ではじめの方が先に足を止めた。
「あ、これ!」
貼られていたポスターには『東港病院 健康週間フェア開催中』と大きな文字が躍っていた。
簡易健康診断、生活習慣相談、健康啓発展示。
そして、その下に《献血協力会》の文字がある。
二人は揃って立ち止まった。はじめがその一行をビシッと指差す。
「赤、分けてるじゃん」
「綺麗にわけてますね」
これで三つの材料がぴたりと噛み合った。
案内ページに仕込まれていた暗号と、今日の朝だけ生じている不自然な人の流れ、それに現地で確かめた献血イベント。一つだけなら偶然で片付けられても、三つ重なればただの偶然ではない。
「絶対ここっぽくね!」
「ここっぽいですねー!」
はじめが嬉しそうにらでんの肩をぽんと叩いた。
「なあ、うちら結構いい感じじゃね?」
「どうなんでしょう? まだ試験そのものは始まってもないですし」
「でもさ、うち一人だったら絶対ここまで辿り着けなかったかも」
らでんはポスターから目を離し、少しだけ考えてから頷いた。
「それは私だってそうですよ」
ノートの暗号だけでは市内のどの病院か絞り込めなかったし、逆にはじめが集めた噂話だけでも確信までは持てなかったはずだ。
◇ ◇ ◇
辿り着いた東港病院は、拍子抜けするほど普通の病院だった。
むしろ普段の診察日よりずっと明るく賑わっている。正面玄関には健康週間ののぼり旗が揺れ、消毒液の匂いに混じって、紙コップで配られている温かいお茶の香りが漂っていた。
家族連れや高齢の夫婦、案内をする看護師たちのあいだに、献血の受付や血圧測定、簡易検査のブースが並び、隅には子供向けの健康クイズコーナーまである。放送マイクの案内が途切れると、風船を持った子供の笑い声がロビーに響いた。
どこをどう見ても、過酷なハンター試験の会場には見えない。
はじめが周囲をきょろきょろ見回して、小声で耳打ちしてきた。
「……ほんとにここで合ってんの?」
「たぶん」
「どう見ても普通の病院のお祭りだけど」
「だから、ここにしたんでしょうね」
「?」
「今日なら、朝から知らない人が大勢出入りしてもぜんぜん不自然じゃないですから」
らでんはロビーの人の波へ目を向けた。受付の列も待合の長椅子も地域の住民で埋まっていて、大きな鞄を背負った少女二人が混じり込んでも、誰も気に留めない。
「受験者が紛れて入ってきても目立たないんですよ」
「あー、なるほど」
「しかも健康診断のイベントなら、そのまま検査室のある奥へ案内されても周りから怪しまれませんし」
「よく考えるなあ、そういうの」
「考えたのは私じゃなくて、試験を作った人ですよ」
そう言いながらも、らでんの声は少し弾んでいた。用意された仕掛けの筋道を一つずつたぐっていく作業そのものが面白くてたまらない。
二人はロビーの奥にある簡易健康診断の受付へと向かった。
長机の向こうで、受付の女性が柔らかな笑顔を向けてくる。
「健康チェックをご希望ですか?」
らでんは頷き、隣のはじめと一瞬だけ目を合わせてから、差し出された申込用紙を二枚受け取った。
氏名、年齢、いくつかの簡単な質問項目。
備え付けの薄い紙の上で、ボールペンの先がさらさらと滑る。らでんは一番上の氏名欄を見つめた。自分の本名を書く場面ではない。
これで通る保証はどこにもないけれど、手元のカードで切れる名前は一つしかなかった。迷わずペンを走らせる。
『ノア=グレイ』
横から手元を覗き込んだはじめが、ひそひそ声で尋ねてくる。
「ねえ、それ誰の名前?」
「案内ページの暗号に入ってた名前です」
「それをそこに書くの?」
「たぶん、ここで使うんだと思います」
「もし外れだったら、普通に怒られない?」
「そのときは普通に怒られると思います」
顔を見合わせて、くすっと小さく笑った。
書き終えた申込用紙を二枚重ねて渡すと、受付の女性が丁寧な手つきで受け取った。
記入欄へ落ちた視線がほんの一瞬だけ止まったけれど、口元の微笑みは少しも崩れない。
「お二人ですね」
「はい」
「こちらの項目ですと、少し詳しい検査が必要になります」
らでんとはじめは、思わず目を見合わせた。
女性が椅子からすっと立ち上がる。
「ご案内しますので、こちらへどうぞ」
賑やかな健康診断のブースを抜け、仕切りカーテンの裏手へと入る。
血圧計の駆動音や看護師の明るい声が背中側へ遠ざかり、人の気配がすっと薄れた。長い廊下を曲がり、さらに病院の奥へ。天井の蛍光灯の間隔が少しずつ広くなり、すれ違う足音も聞こえなくなる。
やがて、何の表示もない一枚の扉の前で足が止まった。
受付の女性は「こちらです」とだけ短く告げると、足音も立てずに元来た廊下へ引き返していった。
残されたはじめが、目の前の扉を見上げる。
「ここへ入れってこと?」
そのままノブへ手を伸ばしかけるのを、らでんは慌てて引き止めた。
「あ、待って!」
「ん、まだなんかあんの?」
「もう一つだけ残ってます」
鞄からノートを取り出し、先ほどのページを開いた。
《6・4・5・3》そして《四度、扉を呼べ》
はじめが横から紙面を覗き込む。
「あ」
「たぶん、ここで使う分です」
「扉を呼ぶって……ノック?」
「だと思います」
「6、4、5、3回ってこと?」
「はい。四度に分けて、それぞれ間を空けて叩くんだと思います」
「長っ。間違えそうだから、らでんやってよ」
「えっ、なんでです?」
「こういうのは暗号解いた本人がやった方が絶対いいって!」
「なにその謎理論……」
ぶつぶつ言いながらも、らでんは扉の正面へ立ち、一度だけ深く息を吸った。
軽く握った拳を上げ、コン、コン、コン、コン、コン、コン、と六回続けて叩いてから一拍置く。
続けて同じ調子で四回、間を空けて五回、もう一度間を置いて、最後に三回。
音が吸い込まれ、廊下に静けさが戻った。扉の向こうからは何の物音もしない。
ノックを終えた指先に、塗装の下にある鉄扉の冷たさだけが残っていた。
隣ではじめが、すごく小さな声で呟く。
「……もしかして外したかな?」
「ちょっと、不吉なことやめてくださいよ……」
数秒置いて、内側からガチャリと重い錠前の外れる音がした。
ゆっくりと開いた隙間の向こうに、白衣を着た男が一人立っている。
男は無表情のまま二人を見下ろした。
「ノア=グレイ?」
らでんが背筋を伸ばして答える。
「はい」
男は数秒のあいだ二人を無言で見つめてから、部屋のさらに奥を親指で示した。
「突き当たりを右。エレベーターがある。地下最下層まで降りろ」
ぱあっとはじめの顔が輝いた。
「当たりだ!」
らでんも張りつめていた息を吐き出して、思わず笑顔になった。
「当たりですね!」
白衣の男の脇を抜け、職員用の無機質な通路を言われたとおりに進むと、突き当たりに小さなエレベーターがあった。
壁のボタンは『下』が一つだけ。二人が乗り込むと、重い扉が閉まって箱が静かに沈み始めた。
一階、地下一階、さらに下、もっと下へ。
階数表示のないまま、耳の奥がツンと詰まる感覚だけが長く続く。
はじめが何もない操作盤を見上げて首を傾げた。
「病院って、こんな深い地下あるもん?」
「普通の病院にはないと思います」
「だよね。やっぱここが試験会場だ」
ずいぶん長い時間をかけて降りていったエレベーターが、やがて低い振動とともに止まり、目の前の扉が左右へ開いた。
◇ ◇ ◇
扉の向こうには、上の病院とはまるで別の世界が広がっていた。
むき出しの壁に囲まれた巨大な地下空間に、二百人近い人間がひしめいている。
見上げるような大男、剥き出しの武器を背負った者、顔や腕に古い傷跡を刻んだ者、鋭い目つきの老人、無口な若者。どの一人をとっても、表のロビーにいた人たちとは纏っている空気が違う。
コンクリート特有の湿った冷気と、天井の白々とした照明が肌を刺した。エレベーターの扉が開いた瞬間、近くにいた男たちの視線が一斉にこちらへ集まる。
降りてきたのは、十二歳ばかりの少女が二人。
はじめが自然と声を潜めた。
「……なんか、強そうなのばっかじゃん」
らでんも小さく頷いて声を落とす。
「ですね」
「今から帰る?」
「ここまで来て帰りませんよ」
「だよね」
顔を見合わせて、小さく笑い合う。
まだ駅で声をかけてから数時間も経っていない。それでも二人のあいだにはもう、自分たちの頭と足でここまで潜り抜けてきたという確かな手応えがあった。
そのとき、すぐ横から人の良さそうな声が飛んできた。
「やあ」
振り返ると、少し丸顔の中年男が立っていた。
両手には缶ジュースを二本持ち、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「初めて見る顔だね。君たち、今年が初受験?」
「はい」
らでんが答えると、隣のはじめも「おう」と短く続いた。
男の目尻の皺が、少しだけ深くなる。
「やっぱり! いやあ、ここまで辿り着くの大変だったろ?」
気前よく差し出された缶ジュースへ、はじめが何の疑いもなく手を伸ばしかけた。
「お、ありが――」
その袖口を、らでんが横からきゅっと引いた。
「待って」
「ん?」
らでんは差し出された缶を見て、男の笑顔を見て、それから周囲の受験者たちへちらりと目を走らせた。
この男がさっきまでどこに立っていたのか、誰とどんな話をしていたのかまでは分からない。
けれど、ここへ来る前に古狸から口酸っぱく言われた言葉が頭の奥で鳴っていた。
『治安の悪い土地で、知らん奴から貰った飲食物を何も考えず口に入れるな』
あのとき理由を尋ねたら、『文化財見る前に倒れたら終わりだろ』と、鼻で笑うような返事が来たのだ。画面の前では少し笑ってしまったけれど、この地下の空気の中では笑い話にならない。
らでんは一歩も引かず、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
差し出された缶を両手で受け取る。アルミの表面から、じんと強い冷たさが指先へ伝わってきた。
歩いて乾いた喉には魅力的な冷たさだったけれど、プルタブには指を掛けないまま、ただ手の中に収めておく。
男が首を傾げた。
「あれ、飲まないの?」
「はい、あとでいただきます」
はじめは、らでんの横顔と自分の手元の缶を交互に見比べてから、すぐに口調を合わせた。
「……じゃ、うちもあとで貰うわ」
男の目がほんの一瞬だけ細まり、すぐに元の人の良さそうな笑顔へ戻った。
「へえ、ずいぶん慎重だねえ」
「そうですか?」
「だって新人って、最初はもっと余裕がなくて緊張してるもんだからさ」
男は親指で自分の胸元を指した。
「僕はトンパ。このハンター試験、もう結構長く受けてるんだ」
らでんはすぐに食い付いた。
「へえ、何年くらい受けてらっしゃるんです?」
「……まあ、結構、毎年のように受けてるよ」
曖昧に濁したトンパの横から、別の声が割って入った。
「ねえ」
振り返ると、一人の少女が立っていた。歳はらでんたちとそう離れていないように見える。
髪をすっきりまとめ、動きやすい軽装をして、片手には茶色い紙袋を抱えていた。何かを口に運びながらこちらを見ている。袋の底には丸い油染みが滲んでいて、揚げ物の匂いがかすかに漂ってきた。
少女はらでんの手元にある缶を顎でしゃくった。
「そのジュース」
「はい?」
「飲まない方がいいよ」
隣でトンパの笑顔がぴくりと固まる。
はじめがすぐに少女へ向き直った。
「え、なんで?」
「中身までは知らないけど」
「知らんの!?」
「でも絶対怪しいよ。だってそいつ、さっきから新人にしか配ってないもん」
らでんが視線を戻すと、トンパは大げさに両手を広げて笑ってみせた。
「いやいや、人聞きの悪いこと言わないでくれよ。たまたまだよ、たまたま」
少女は冷めた目で言い放った。
「ふうん。じゃあ、自分でその一本飲めば?」
ぴたりと言葉が止まった。
はじめがトンパを見る。らでんもじっと見る。
トンパは額に汗を浮かべたまま、にこにこと笑い続けた。
「いやあ、僕はいま全然喉が渇いてないからさ」
少女は「ふーん」とだけ鼻を鳴らした。もうそれ以上追及する気もないらしい。
手元の紙袋へ指を突っ込み、小さな焼き菓子をつまみ出す。一口かじった途端、露骨に眉間へ皺を寄せた。
「……まず。これ、油が古い」
そう文句を言いながら、少女は残りの半分も口へ放り込んだ。
はじめが吹き出す。
「まずいのに食うんだ」
「食べ物を粗末に捨てる方が嫌だしね」
「へー」
「何よ」
「いや、なんか面白いなって」
少女の目がきゅっと細くなった。
「あんたの方こそ、なんか変な喋り方だけど」
「そう?」
二人のやりとりを見ていた、らでんが横から声をかけた。
「あの、あなたも今年が初受験ですか?」
「まぁね」
「よかった、私たちもなんです」
「見れば分かるわよ」
「えっ、そんなに新人っぽいです?」
少女は呆れたようにトンパを指差した。
「そいつに真っ先に声かけられてる時点でね」
「いや、ちょっと待ってくれないかな」
トンパが慌てて口を挟んだけれど、少女はきれいさっぱり無視した。
「メンチっていうの」
「え?」
「私の名前」
らでんも慌てて姿勢を正した。
「あ、私は儒烏風亭らでんです」
「で、こっちは轟はじめ!」
メンチは二人を交互に見て、小さく息を吐いた。
「どっちも変な名前」
らでんはすかさず言い返した。
「メンチさんにだけは言われたくないですよ!」
「何よ」
「いや、だってメンチも結構お肉の――」
はじめがそのまま続けようとした瞬間、メンチの鋭い視線が飛んだ。
「何?」
「なんでもないです」
引くのだけは驚くほど速かった。
らでんは咳払いをして、一番聞いてみたかったことを尋ねた。
「メンチさんは、何ハンターを目指してるんですか?」
メンチは少しの迷いもなく胸を張った。
「世界中の料理を食べ尽くす、グルメハンター」
「おぉ! 世界中の?」
「まぁね」
「じゃあ、危ない場所にしかない珍しい食材とかも?」
「当たり前でしょ。だからわざわざハンターになるんじゃない」
らでんの顔がぱあっと明るくなった。
「いいじゃないですか! 実は私も、ちょっと似たような理由で来たので」
「似たようなって、あんたも食なの?」
「いえ、私は文化の方ですね」
「うわ、広っ」
横からはじめが素直な感想を挟み、メンチの口元もほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ、そっちのあんたは? 何ハンターになるつもりなの?」
顎で指されたはじめは、そこで少しだけ動きを止めた。
「……わかんね」
「は?」
「だから、ここに来た」
メンチが不思議そうに眉を寄せる。けれど、はじめ本人は別に気まずそうでもなく、あっけらかんと言った。
「自分が何したいのかまだ分かんないからさ、ハンターになったらなんか探せるかなーと思って」
メンチはしばらくはじめの顔をまじまじと見つめていた。
「……ほんと変なの」
「そう?」
「普通、やりたいことが先にあって受けるもんじゃないの?」
らでんが横から助け船を出した。
「でも、そういう受け方があってもいいんじゃないですか? 行ってみないと分からないことって沢山ありますし」
「……まあね」
メンチは肩をすくめただけで、それ以上は否定しなかった。
らでんとはじめは、結局一口も飲まなかった二本の缶ジュースだけを、壁際の荷物置き場の隅へそっと置いた。鞄と持ってきた道具一式はそのまましっかり背負い直す。
アルミ缶の冷たさが指先から消えたのを確かめてから、二人はその壁際を離れた。
話しているあいだにも、地下会場の人数は少しずつ増えていた。エレベーターの扉が開くたび、一人、二人、ときには数人まとまって新しい受験者が降りてくる。
けれど時計の針が午前九時五十五分を指しても、胸の番号札の数字はまだ二百に届いていなかった。案内ページにあったロスカ市中央駅への集合目安は九時までで、この地下会場の扉が閉まるのが十時。駅から東港病院を割り出して辿り着くための猶予は、その一時間の差の中にぴったり収められていたことになる。
第279期ハンター試験。
◇ ◇ ◇
午前十時ちょうど、最後のエレベーターの扉が重く閉まった。
ほぼ同時に、地下空間を包んでいた空気がぴんと張りつめる。
会場の最奥、天井まで届きそうな巨大な鉄扉が地響きを立てて開いた。受験者たちのざわめきが、波の引くように静まっていく。
暗い通路の奥から、一人の男がこちらへ向かって歩いてきた。歳は三十代から四十代ほど。
無駄なく鍛え上げられた体躯に、派手さのない実用本位の服を着ている。履き込まれた靴も最低限の装備も、すべて現場で動くためのものだと一目で分かった。
男は受験者たちの集団の前に立つと、鋭い視線でフロアを一瞥した。一人ずつの顔を品定めするというより、この場にいる人間と空間を丸ごと一つの現場として測っているような目だった。
「百九十八名」
男が短く言った。声を張り上げたわけではないのに、コンクリートの壁の隅々までよく通る低い声だった。
「入り口を少し難しくした割には、ずいぶん残ったな」
すぐ近くで、トンパが小さく息を呑む気配がした。らでんが小声で尋ねる。
「知ってる人ですか?」
「……まあね」
男は周囲の反応など気にも留めずに続けた。
「第279期ハンター試験、第一次試験を担当する」
そこでほんの少しだけ間を置いた。
「ツェズゲラだ」
フロアのあちこちで、小さく息を呑む声や身構える気配が立った。名前を知っている受験者が少なくないらしい。
らでんには聞き覚えのない名前だったし、隣のはじめもきょとんとしている。メンチだけは、どこかで名前くらいは耳にしたことがある、といった顔つきで前を見つめていた。
ツェズゲラはざわめきが収まるのを待たずに口を開いた。
「最初に一つだけ言っておく」
冷徹な目が、百九十八人をまっすぐ射抜く。
「俺の試験で見るのは、お前らがどれだけ強いかじゃない」
腕に覚えのありそうな何人かが、怪訝そうに眉をひそめた。
「実際の現場に放り込んで、生きて帰ってこられるかどうかだ」
らでんの目が、わずかに見開かれた。
それは出発する前の晩まで、古狸から何度も画面越しに叩き込まれた言葉とそっくり同じだった。どれだけ知識があっても、現場に着く前に潰れたら意味がない。生きて帰る方を選べ。
ツェズゲラが背後の巨大な鉄扉を親指で示した。開け放たれた扉の向こうには、湿った闇の奥へと続く古い坑道が口を開けている。
「目的地は、旧ゴラン鉱山・第七搬出口」
受験者たちのあいだに、低いどよめきが走った。
「制限時間、七時間。経路は自由。途中二ヶ所に検査所がある。両方の通過印を持って出口へ来い」
前方にいた受験者の一人が、すぐに手を上げた。
「地図は配られないのか?」
「ない」
別の方向からも、矢継ぎ早に声が飛ぶ。
「中は一本道か?」
「違う」
「最短距離はどれくらいだ?」
「自分で調べろ」
「試験用の罠は仕掛けてあるのか?」
その問いにだけ、ツェズゲラはわずかに眉を動かした。
「鉱山にわざわざ罠なんて仕掛けない」
そして、突き放すように淡々と言葉を継いだ。
「中にあるのは水没、崩落、酸欠、老朽化した足場、行き止まり……それから、お前ら自身の判断ミスだ」
地下会場から、すべての話し声が消えた。
「最短経路が最善とは限らない。安全な道を選べば時間内に着けるとも限らない。現地で情報を拾え。体力を使え。危険だと判断したら退け。それでも、制限時間内に必ず出口へ着け」
ツェズゲラが左手の腕時計へ目を落とした。
「説明は以上だ」
張りつめた沈黙の中で、らでんは思わず口元をほころばせていた。
隣にいたはじめがすぐに気づいて、小声でつついてくる。
「え、何笑ってんの?」
「いえ、こういう試験なら、私が家で準備してきたこと、ちゃんと使えそうだなって思って」
背負った鞄の肩紐をきゅっと握り直す。足元の靴も、中のノートも、数か月かけて歩いてきた体力も、全部この先で使うために持ってきたものだ。
はじめもつられたようにニッと笑った。
「そっか、それならよかったじゃん!」
「はじめさんは大丈夫そうですか?」
「走るのだけは得意だからね」
二人のすぐ横で、メンチが呆れたように声を挟んだ。
「ちょっと、二人とも始まる前から油断しないでよ。まだ一歩も中へ入ってないんだから」
少し離れた場所からその三人のやりとりを眺めながら、トンパは内心で小さく肩をすくめた。
(まあ、口で言うほど簡単にいくなら、誰も苦労はしないんだけどね)
ツェズゲラが一歩、坑道の入り口から横へ退いた。
「開始」
短い号令と同時に、百九十八人の受験者が一斉に動き出した。
儒烏風亭らでん。轟はじめ。メンチ。
そして、これで何十回目かの挑戦となるトンパ。
第279期ハンター試験、最初の本試験が幕を開けた。