儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第七話 レイトン=ベネド

 レイトンは、書きかけの紙へ目を戻した。

 らでんの名を聞いたあとも、そこに印を一つ足してから、顔を上げる。

 水盤へ落ちた雫が、二人の間で小さく鳴った。

 

「……こちらへ、もう一人、来ませんでしたか。髪の両側に、丸い飾りをつけた人です」

「俺がいる間には、来てない。連れか?」

「はい。別々になって、探して……向こうで、亡くなっていました」

 

 最後まで言うと、喉の奥が狭くなった。

 端末を持つ手へ力が入る。

 画面には床の図を出したまま、隣の写真へは送らなかった。

 男の筆が止まった。

 

「いつ死んだ?」

 

 らでんは、すぐに答えられなかった。

 あの場所にあったものを、また一つずつ説明しなければならないのか。

 顔を上げると、レイトンは画面を覗こうとはしていなかった。

 

「息が止まるところを、見たのか?」

「……いいえ。残された身体と、持ち物を。彼女がそこで調べていた記録も、ありました」

「なら、死んだことと、いつ死んだかは別だな」

 

 慰める声ではなかった。

 らでんの言葉から、一つだけ抜いて、脇へ置くような言い方だった。

 死は見た。そぴあの傷のある髪飾りと、その人が残した身体を見た。

 そこまでを、間違いだったことにはできない。

 けれど、あの部屋が、いつの部屋なのかは。

 

「……そこへ着いたときには、長い時間が経っている痕跡がありました。どれくらいかは、分かりません」

「空間だけでなく時間のずれは俺も観測した。ここの出入口は調べてるところだ。見える先へ、そのまま出られるわけじゃなかった」

 

 レイトンの指が、自分の敷居を示した。

 紙には、らでんの知らない条件が並んでいる。

 彼も、調べている途中だった。

 

 その脇には、二本とも揃った支えがある。

 こちらの入口で撮ったものは、片側を別の板で補っていた。

 同じ形だから同じ時点だと決めるには、違うところが多すぎた。

 

 らでんは、自分の札を見た。

 向こうへ戻るなら、まだ口はある。

 けれど、走り出した先で何を探すのか。

 そぴあのいた最後の場所まで辿り着いた。

 その先の考え方が、自分にはなかった。

 

「あなたは、何を調べているんですか」

「”外”へ行くための下調べだ。ここを出る方の外じゃない」

 

 レイトンが、紙の端へ大きな輪を描いた。

 その中に、小さな輪を置く。

 

「あの地図は見たか。知ってる陸地が、隅に寄ってるやつ」

「見ました。最初は、星の図だと思っていました」

「どう思った?」

「……知らない場所を、知っている場所につないだ絵かもしれない。でも、そぴあさんが測って、別の航路の記録とも照らしました。地図に載っていないところまで、誰かが行って、帰ってきたんだと」

「なら、先がある」

 

 小さい輪の外へ、筆が出た。

 空いていた紙へ線を一本引く。

 その手つきには、途方もない広さを前にして、ためらう間がなかった。

 

「その先で、何を探すんですか」

「知らん。地図に描かれてるものだけ探すなら、ここで読むだけでもいいからな」

 

 男が笑った。

 遠い土地へ目を向けているのに、話す声は近かった。

 

「誰かの帰り道だけで、終わらせたくないんだ。俺が歩いたら、ほかにも何か見つかるかもしれん」

「それで、出られないところまで?」

「出方も調べてる。そこを省いたら、次へ行けんからな」

 

 敷居の試験図を、太い指が叩いた。

 失敗した印がいくつもある。

 どれも消していなかった。

 

「お前は、行きたくならなかったか?」

 

 らでんは水盤を見た。

 下へ落ちる雫。その向こうに、男がいる。

 入域記録では、もう帰った人。

 ここでは、まだ自分の足で出口を試している。

 過去のどこかに残った、その人の影のようなものなのかもしれない。

 けれど、言葉を選び、こちらの話を聞き、考え直している。この出来事まで偽物だとは思えなかった。

 もしそうならば、レイトンと同様に、”今も生きているそぴあ”がここにいるのかもしれない。

 そして彼女は、まだここで出口を探し彷徨っているのかもしれない。

 

「行きたいです。でも、今ははぐれた友達を見つけたい」

「両方持っとけ。片方のために、もう片方をなかったことにする必要はない」

 

 男は紙の大きい輪を、自分の指で囲んだ。

 

「ただ、行きたいだけじゃ歩けん。十日歩いたあとで、初日の物差しが狂ってたと分かったら、十日分の道を捨てることになる。帰りの分までだ」

「だから、ここで測り方を?」

「場所が変わっても、長く使っても、基準がぶれない観測法。誤差の幅まで分かって、値を残せる装置。まずはそれを作らなきゃ話にならん。自分が疲れたからって、昨日と今日で一メートルが違うんじゃ困る」

 

 そぴあの肩のそばで回っていた、三つの環が浮かんだ。

 変わらない二十八メートル。

 知りたいものが途中で増えても、変えられない九つの項目。

 

「そういうものを、作った人を知っています」

「連れか」

「はい。測定器は、本人の都合では変わらないんです。危なくなっても止められない。だから、どこで何を測るかは、出す前に決める」

 

 レイトンは小さい輪へ戻りかけた筆を止めた。

 

「そいつが何を測ってたか、まだ残ってるんだな」

「記録はあります。帰るために、最後まで調べていました」

「だったら、機械の値だけ拾うな。その値で、何を変えようとしたかまで見ろ」

 

 それは、そぴあに説明してもらうための質問だった。

 いつもなら、隣へ顔を向ければよかった。

 

「……私の念で、分かることはないかと思ったんです。でも、何を見たいのかが、先に決まってしまいそうで」

「お前の念は、何ができる?」

 

 らでんは、端末から手を離した。

 今ここで話さなければ、自分一人の考えへ戻る。

 死んだ時点を今だと決めたまま、違う出口を探すだけになるかもしれない。

 

「《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。物に触れて、その物が経験したことの断片を受け取ります。映像だったり、音だったり。匂いだけのこともあります」

「欲しい時の、欲しい場面を出せるのか」

「できません。同じ物でも、違うものが来ます。何も来ないことも。人の頭の中は読めないし、物が経験していないことも分からない」

「どこまで試した?」

 

 最近、仕事で手伝ってもらった試験のことを話した。

 古い品から何も拾えなかったこと。

 古びた人形から、火と泣き声を受け取ったこと。

 それを古い事件だと思ったら、試験のために新しく仕込まれた経験だったこと。

 拾った断片を資料と照合し、仕事に使えた例も話した。

 像が鮮やかでも、意味まで合っているわけではない。

 

「強いものは、自分の記憶みたいに残ることも。どこから危ないかは、まだ調べ切れていません」

「で、何をするための発だ?」

「残されたものを知るために」

「何でもか」

 

 答えかけて、口が止まった。

 何でも知りたい。

 知らないものが、あるのが嬉しい。

 けれど、それを全部、この能力へ渡したいのだろうか。

 

「まだ、自分の発を分かり切ってないのか」

「……はい。分からないところは、残っています」

「今の話だけなら、弱い”発”だな」

 

 水音がした。

 

「それが”発”の理解ならば、”外の世界”に出ても何もできないだろう」

 

 男は、らでんから目を逸らさなかった。

 

「見えるものが少ないからじゃない。どこまで任せて、どこから自分でやるかが曖昧だ」

「見えたものを、答えにしてしまう」

「さっきの人形で、もうやったんだろ」

 

 らでんは頷いた。

 うまく使えた試験のことも、間違えたものと同じくらい話したはずだった。

 残ったのは、使い方の継ぎ目をまだ人に埋めてもらっている自分だった。

 

「制約は?」

「接触が必要です。それと、物が経験していないことは取れない。ほかは、まだ……」

「誓約は」

「自分で課したものは、ありません」

「なら、今ある仕様と、自分が引き受ける限界を分けろ。分からんところを全部、あとで便利になる余地として残すな」

 

 筆が紙へ戻った。

 二本の線を引き、その間に細い空白を残す。

 

「何を成すか。何を成さないか。できることと、できないことの境界を、お前の口で説明できるようにしろ。これは”舌”の問題だ」

「できないことを、増やすんですか」

「成すべきことのために、何を捨てるかを決めろ。曖昧なままなら、失うものも選んでない。お前の発には、その覚悟がまだ見えん」

 

 らでんは、二本の線を見ていた。

 空いたところへ、もっと鮮明に見える能力を足したくなる。

 もっと古い場面を、もっと長く。誰が、いつ、何をしたかまで。

 それができたら、そぴあを見つけられるだろうか。

 見えた場面に、呼びかけることはできない。

 

「今ここで、重い誓約をつければいいわけでは、ないですよね」

「当たり前だ。何が欲しいかも決めずに、罰だけ決めてどうする。使えない縛りを増やして満足するのは、目的に向かう”強かさ”とは違う」

 

 男が筆を持ち上げた。

 

「その連れの物差しは、何を測らないかも決まってるんだろ」

「何が起きているかを測って、そこから考えるのは本人です」

「そこは明確だ。お前は?」

 

 らでんは、端末を持ち直した。

 そぴあの書いた条件。結果。空けて足された追記。

 そこにない言葉を、自分が置きかけていた。

 

「見えたものを、答えにしない。まだ知っていないことを、知ったことにしない。それは、私がやることです」

「そうだな。それで、次は何を確かめる」

 

 すぐには答えられなかった。

 けれど、さっきとは違う沈黙だった。

 何でもいいから使える力を探すのではなく、まだ確かめていないものを選ぶために、記録へ戻れた。

 

 男が、短いひもを巻き取る。

 手首が返り、肘が少し引かれた。

 

 らでんの頭に、連続写真の走者が浮かんだ。

 

 細かな線を引いた壁の前を、一人の男が走っている。

 一枚目では踵が地面につき、次では膝が前へ出る。

 その次には、両足が浮く。

 横へ並べられた写真を見れば、同じ服の人が何人もいるようで、袖口の折れまで一緒だった。

 あれは、大勢が並んで走った写真ではない。

 一人の、違う瞬間だ。

 

 《階を降りるひと》という絵もあった。

 茶色い面と細い線が、階段に沿って何重にも重なる。

 最初に見たときは、肘も膝も多すぎて、何人いるのか分からなかった。

 けれど、肩から腕の振れを辿ると、一段を降り、重心を移し、次の足を出す、一つの動きとして見えてきた。

 同じ紙にあるものが、同じ瞬間のものとは限らない。

 

 目の前には、記録へ書き込んでいるレイトンがいる。

 らでんが知っていたのは、その人の仕事が終わったあとの紙だった。

 

 なら、そぴあも。

 

 らでんは、その先を言葉にしかけて、口を閉じた。

 最後の姿へ着いたからといって、それより前の姿が消えたとは限らない。

 終わりの手前に、まだ呼べば振り向く彼女がいるのではないか。

 そう、考えたい。

 写真には前の一枚が並んでいる。

 でも、この施設にもあるのか。あったとして、そこへ手が届くのか。

 それはまだ、何も試していなかった。

 

「そちらの口、先に棒を通しても?」

「やってみろ。俺は隣を試したが、出ると自分側の出口だった」

 

 らでんは自分の命綱の行く先を確かめ、点検棒を伸ばした。

 二股の支えの間へ、先端だけを出す。

 水盤の向こう、自分が結んだ札の下に、棒の先が現れた。

 

 手元からは、男の敷居へ伸びている。

 出ているのは、自分の入口だ。

 

 棒を引き戻し、確保を残したまま靴先も試した。

 やはり、自分の札の下へ出る。

 男のいる時点へ歩いて渡る道にはならなかった。

 

「私の方へ来ることも、できないんですね」

「さっき俺も、同じところへ足を出した。こっちの口に戻る。出方がほかにあるかは、まだ分からん」

「……私は、向こうの記録を読み直します。場所だけでなく、順番も」

 

 らでんは、手帳の送り試験を指で挟んだ。

 

「同じ丸でも、入る途中と、抜ける途中で行く先が違いました。見る位置と、何を先に通したかを、分けて確かめてきます」

「通す順か」

 

 レイトンが、紙の二つの印を見比べた。

 消すのではなく、別の並びを下へ書く。

 

「そっちは、まだ変えてなかったな」

 

 彼の視線は、自分の口へ戻っていた。

 帰れる人の答えを聞いたのではない。

 帰り方を探している人と、少し話したのだった。

 

「相談にのっていただき、ありがとうございました。そろそろ友人を探しに戻ります」

「……ああ」 

 

 らでんは礼を言い、自分の札へ向かった。

 退出の記録も、その先にあることも、口にしなかった。

 

 入口の奥で、細い受け面がまた一つ、壁の陰へ外れた。

 らでんは残る支持を棒で確かめ、札を撮ってから、元の口へ身体を移した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 口の外では、白い道が足元を横切っていた。

 庭へ来るときに通った細道は、左下に見える。

 同じ縁に同じ札を結んでも、その先の重なりまでは留められない。

 らでんは目の高さを戻し、棒の届く道へ重りを下ろした。

 糸がたるむ。

 その向こうに、枝分かれした傷があった。

 

 写真を開く。

 傷が二つに割れる位置と、脇の区画番号。

 初めに栞を置いた場所と同じ組合せだった。

 ただ、いまの傷は深く削れ、その上をかすめる擦れが増えている。

 低い盤までを示す、逆向きの矢印もある。

 

 らでんはすぐには盤へ向かわず、道の脇へ膝をついた。

 壁の低い切れ目に、細長い受け面が三つ、ずれて重なっていた。

 その一つに、さっきの作業台の脚が見える。

 石のくぼみ。壊れた器材。丸い髪飾りの縁。

 喉が、一度だけ動いた。

 

 その上の面にも、同じ台があった。

 けれど、脚の根元にある陶片は、まだ割れていない。

 

 らでんは灯りを横へ回した。

 どちらの台にも、脚を据え直した孔が並んでいる。

 一つだけ縁を外れた孔から、斜めの工具傷が走っていた。

 新しい方では傷の先を補修板が覆い、古い方では、その板が腐食して傷の続きが露出している。

 孔の間隔だけでなく、失敗した穴の位置まで同じだった。

 

 画面の中で、二つを並べた。

 違うところを消して似せるのではなく、どう変わったら片方から片方になるかを見る。

 

 陶片の左には、二つの丸が刻まれていた。

 下へ向く短い矢印。その脇には、まだ小さな追記だけがある。

 髪飾りの残る方では、その追記を取り込んだ新しい欄が、床へ彫り直されていた。

 先ほど撮った写真にも、同じ番号がある。

 

 らでんは古い方の取消線を拡大し、もう一方へ灯りを戻した。

 そちらには、取消線がない。

 削って消したのなら一緒に失われそうな、浅い罫線が、その場所を途切れず通っていた。

 

 こちらが先で、あちらがあと。

 材質の丈夫さではなく、書いたものを使い直した順が、二つの部屋の間にも続いている。

 

 一番下の受け面には、同じ修理孔と、まだ角の立った補修板が見えた。

 そぴあの刻んだ試験欄はない。

 台の上は縁に隠れ、誰かがいるかまでは見通せなかった。

 らでんは、端末へ『手前の候補』とだけ書いた。

 生存、とは書かなかった。

 

 傷だけで、同じ場所だと断定はできない。

 けれど、記録を使い直した順まで続いている。

 違う段階を見ているのなら、まだ試験欄のない面から確かめればいい。

 

 カメラを下の面へ寄せようとしたとき、上の受け面が細くなった。

 陶片の文字が縁へ隠れ、台の脚ごと見えなくなる。

 らでんは棒を引いた。

 残った面の位置を撮り直し、手帳の候補へ短い横線を引く。

 

 すべての瞬間が、並んで待っているのではない。

 

 残る二つの面を囲む刻みには、同じ補助送りの番号があった。

 手帳を開くと、分断前、そぴあが帰路の図へ足した小さな口から、その番号へ線を辿れた。

 いま探せるのは、この先だ。

 庭の向こうの時代でも、好きな日の世界でもない。

 

 らでんは、試験記録の写真を送った。

 『支持なし』の候補は外す。

 その次には、通った物が元の皿へ戻る図がある。

 通過した、という欄の丸と、退出した、という欄の横線を、別々に写す。

 

 入る方と、抜ける方。

 同じ大きさの丸に添えられた矢印は、逆向きだった。

 

 そぴあは、両方を試していた。

 片方は届かない。もう片方は届いても、その部屋から出られない。

 読み直すと、送り出す側だけでなく、受ける側の位置も記録してある。

 ただ、その横に帰還成功の印はなかった。

 

 らでんは、いま自分が立つ側を見た。

 あの部屋の中ではない。送りを受ける盤へ、こちらから回れる側だ。

 

「……こっちを、変えてみる」

 

 声に出してから、記録の中心を探した。

 写真にはいくつもある。測る場所を変えた回を混ぜないよう、同じ番号を持つ床の印と、壁際の二点だけを選ぶ。

 道の縁、その番号が残っていた。

 そぴあの刻みは、ここまで続いている。

 

 印の上に球を置いたのではない。

 床から上へ垂線が伸び、その先に小さな球が描かれている。

 当時、そぴあの肩のそばにあった《万象観測器(プリンキピア)》の中心だ。

 二十八メートルを取ったのは、そこからだった。

 巻尺で残る標点を照らす。

 そぴあの精度には届かなくても、どこから測った記録かは取り違えずに読める。

 

 擦れた手すりへ手を添え、浅いくぼみに膝を置いた。

 顔を下げる。

 

 盤の表が、見えなくなった。

 代わりに、裏の縁が現れた。

 

 手前の石にある切れ込みと、盤の下へ刻まれた二本線。

 その先の、遠く細い台の縁。

 立っていたときには高さの違う三つだったものが、同じ隙間の中へ並んだ。

 そぴあが床へ残した線は、その途中で、盤の向きを変える小さな腕へ届いていた。

 

 低い位置から、記録の中心と、動かす腕と、その先の台を一枚に撮る。

 何を変えるための値か。

 男の問いが、ここで初めて、目の前の形につながった。

 

 そぴあも、こんなふうに膝をついたのだろうか。

 手すりへ置いた指を、一度だけ握り直した。

 

 この位置からなら、あの盤を動かす理由が分かる。

 行き方も、もう知っていた。

 

「後ろへ、十二」

 

 今度は、返事を待たなかった。

 巻尺の端を留め、白い道へ向きを変える。

 一周五十二メートルの閉路を、逆に辿った。

 前方に見える盤の像から目を外し、壁側の支持を辿った。

 傷んだ縁は踏まず、棒が捉えた石へ足を運ぶ。

 繰り出す数字と、通り過ぎる継ぎ目が、さっきの記録へ順に合っていった。

 

 盤の裏へ着く。

 帰還の案内がある把手には触れず、側面の低い腕へ灯りを向けた。

 手前からでは大きな表示板に隠されていた、補助送りの受け側だった。

 根元に、二本線がある。

 

 記録と同じ弧に沿って、低い腕を回した。

 途中で支えへ当たりかけたところは、腰を落として内側へ逃がす。

 金属が擦れ、腕が刻みへ収まった。

 爪を掛けると、盤の脇で細い床の端が揃った。

 

 その先には、目盛りが並んでいた。

 初めは一本ずつ見える。

 それが先へ行くほど詰まり、白い縞の向こうに、小さな作業台だけが残る。

 

 盤を動かす前の写真では、手前の床と台へ続く床の間に、暗い帯があった。

 いまは、その縁が重なっている。

 らでんは見えるだけで渡らず、棒を先へ滑らせた。

 継ぎ目の向こうでも、硬い面が先端を受けた。

 試験用の重りへ糸を結び、通路へ転がす。

 

 重りは床に沿って進み、向こうの台へ当たった。

 

 そぴあの記録には、十、五、二・五と、最初の区間がある。

 その続きは数を埋めず、端の床と、そこで止まった試験片が描かれていた。

 らでんも、繰り出した糸を巻尺へ合わせた。

 

 二十メートル。

 

 無数の線を、一つずつ越える必要はない。

 試験具を回収し、確保を送りながら、重りの当たった台の下端へ進む。

 途中から目盛りが密になり、目だけが奥へ引かれた。

 それでも、足元の幅は変わらない。

 数えずに歩いた。

 

 白い縞が、肩の後ろへ抜けた。

 

 台の縁が、掌に当たった。

 息を吐き、確保を台の支柱へ移す。

 低い正面に、『選別』の文字があった。

 上には丸い観測窓。脇には試料を置く浅い皿と、小さな返しの爪。

 その隣に、一人ずつ身体を通す保守口が開いている。

 模型の小窓を通るのではない。

 皿で送り方を確かめ、その横の口を人が使う作りだった。

 

 らでんは、台の向こうへ目を移した。

 道の先へは届いた。

 次はここから、手前の候補へ小物を通す。

 

 らでんは、鞄から帰路の図を出した。

 そぴあの足した補助口と、台の回収側の刻印が一致している。

 送り出す候補を選ぶ前に、戻る側へ爪を合わせ、点検棒のカメラを出した。

 

 画面の奥に、斜めに起こした説明板が現れた。

 その下には、保守台の脚。

 板を留めたときに回したひもが、片側だけ短く余っている。

 

 らでんは、端末を近づけた。

 二人で原図を読んだ場所だった。

 

 区画番号も、板の留め方も、分断前の写真と合う。

 重りと棒で向こうの支持を確かめ、回収の爪で戻した。

 

 戻る先は、ある。

 らでんはその爪の位置と、向こうで試した範囲を図へ残した。

 現在の保守台と書いた文字に、指が一度止まる。

 一人でそこへ出るために、ここまで来たのではなかった。

 

 送り側へ戻すと、観測窓に白い点が生まれた。

 膨らみ、刻まれた丸へ近づいていく。

 

 らでんは、未来の試験記録を台の縁へ置くように、端末を固定した。

 今度試す受け面と、同じ番号の欄だ。

 そこには、入り側では同じ皿へ戻るとある。

 重りを送り、確かめた。

 

 向こうへ消えた斜めの印が、脇の皿に現れる。

 回収の爪を押すと、元の位置へ戻った。

 記録どおりだった。

 ただし、これではあの部屋へ届かない。

 

 らでんは爪を外した。

 丸が大きくなるところを、見送る。

 いちばん大きな輪郭を越え、小さくなる途中。

 同じ刻みへ来たところで、留めた。

 

 今度、重りは脇の皿に出なかった。

 向こうで小さく鳴り、回収用の糸がたるんだ。

 

 カメラを出す。

 

 画面に、補修板があった。

 角が立っている。

 失敗した孔から伸びる斜めの傷は、途中から板に隠れていた。

 先ほど『手前の候補』と記した面だった。

 その下に、試験欄のない床がある。

 

 らでんはカメラの角度を変えた。

 足元から、台の下へ。重りがそこにある。

 印を確かめるため、糸を少し引いた。

 重りが、転がった。

 

 横から、手が出てきた。

 

 一本の指が重りを止めた。

 糸を引く力とは別に、指がそれを台の内側へ押し戻す。

 爪のそばに、小さな黒い汚れがあった。

 らでんは、引くのをやめた。

 

 相手の手は、まだ動いていた。

 穴に通した糸を避け、斜めの印を自分の方へ向けようとしている。

 

 らでんの膝が、台へ当たった。

 身体が先に寄りかける。支柱へ掛けた命綱が腰に触れ、そこで止まった。

 

 まだ、顔は見えていない。

 

 手帳から小さな札を切り、短く書いた。

 灯りが一回なら、印を上へ。二回なら、下へ。

 重りをいったん戻し、札を糸へつけて、同じ面へ送る。

 向こうの手が紙を押さえた。らでんは灯りを遮り、一度だけ開いた。

 

 印が、上を向いた。

 

 今度は間を空けた。

 向こうの指が重りから離れかけたところで、二度、光を通す。

 

 手が戻り、重りを返した。

 印が、床へ隠れた。

 

 向こうは、いま変えた合図を読んで、別の動きで返している。

 自分の背中の像でも、繰り返す映像でもない。

 

 カメラが少し揺れた。

 向こうの手が、レンズの位置を確かめるように、前へかざされた。

 らでんは灯りを下げ、名前を呼んだ。

 

「そぴあさん」

 

 返事は、すぐだった。

 

「らでんさん?」

 

 声が、来た。

 

 らでんは口を開いた。

 何か言おうとして、吸った息が途中で止まる。

 端末の縁を握り直すと、画面へ顔が入った。

 こちらを覗く目。頬へ落ちた髪。

 その両側に、円盤状の飾りがある。

 顔の向きが変わり、右の縁の浅いへこみへ光が当たった。

 

「巻尺は?」

 

 らでんは、鞄の中へ手を入れた。

 丸いケースに指が触れる。

 

「……持ってます」

「よかった。下の受けを取るね」

 

 そぴあの顔が、画面の下へ外れた。

 手帳が見える。開いた紙は、白かった。

 指で端を押さえると、そのぶんだけ曲がった。

 

 らでんは目を閉じかけ、開き直した。

 見ていなければならない。

 そこへ行くための、足を置くところを。

 

 そぴあは命綱を壁側へ短く取り、カメラのついた棒の先を示した。

 らでんが保守口の下へ当てると、三つの環の一部が画面を横切った。

 そぴあを包む《纏》は、薄く一定のままだった。

 

 《万象観測器(プリンキピア)》。

 

 彼女の肩のそばに、ある。

 中心球から広がる円が、いま二人を隔てている縁の向こうまで続いていた。

 

「手前と奥、支えがある。私の方へ」

「そこの支点へ」

 

 らでんは固定用のロープを送り、そぴあが受け取った。

 壁につながる金具へ掛け、引く。

 こちらの確保も残したまま、らでんはカメラと試験用の糸を回収した。

 さっき図へ書いた帰路は、端末の端に残っている。

 

 らでんは、保守口の枠へ手を置いた。

 向こうの棒が触れている、その位置へ靴を送る。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 そぴあが、顔を上げた。

 

 画面の縁は、もうなかった。

 鼻先で短く息を吸い、唇を開く。

 少しだけ乱れた髪が、頬に触れている。

 こちらへ向けた目が、らでんの顔を見て、一度、細くなった。

 

「らでんさん、どうしたの」

 

 その口が、言葉を作っている。

 らでんは二歩目を確かめ、そぴあの手を取った。

 温かかった。

 

 指が、こちらの手袋を掴む。

 腕を引けば、相手の重さが返る。

 胸の前の服が膨らみ、少し下がり、また膨らんだ。

 何かを測らなくても、目の前で息をしていた。

 

 肩へ手を回そうとして、途中で腕を掴んだ。

 そこにいる人を、手の届かない方へ行かせたくなかった。

 考えるより先に指が閉じ、そぴあの身体が半歩、こちらへ寄った。

 

「掴む力強いね、らでんさん」

 

 らでんは、はっと手を緩めた。

 

「あ……ごめんなさい」

 

 腕を離しかけると、そぴあの方が手を残した。

 掴まれたところを一度見て、それから、らでんの顔を見る。

 何か尋ねようとした口が、閉じた。

 

「……よかった」

 

 らでんの声は、それだけだった。

 そぴあの親指が、手袋の甲を少し押した。

 強くもない、引っ張るためでもない力だった。

 らでんはそこを見て、一度、息を吐いた。

 次の息は、つかえずに入った。

 

 そぴあは片手で手帳を閉じた。

 その何でもない動きが終わるまで、らでんの目は指についていった。

 

「離れて六分くらい。観測、あと少し。帰路は?」

「小物で、戻る方まで試しました。ここへ来た口から、選別台へ戻れます」

 

 手を離し、点検棒と帰路の図を渡す。

 端末では、測定の中心を示す写真だけを開いた。

 

「……私の字? どこで?」

「ずっとあとの部屋です。話は、帰ってから」

 

 そぴあは写真の数字と、まだ何も刻まれていない足元を見比べた。

 

「うん。今の方を測る」

 

 支点と口の縁を観測し、二人がいる床の支持を確かめる。

 命綱は、壁に固定したままだった。

 次の測定に選ぶ項目を手帳へ書き終えるころ、三つの環が消えた。

 

 らでんの目が、肩へ動く。

 本人はそこにいた。手も、足も、声も。

 

「満了。消えたの、装置だけだよ」

 

 そぴあが、らでんの手首へ指を添えた。

 らでんは頷いた。

 手袋越しでも、その力は分かった。

 

 四百九十六秒。

 止めたのでも、延ばしたのでもない。

 彼女のそばで続いていた一回が、終わった。

 そぴあは開始と満了を分けて記し、次も同じ九項目を選んだ。

 位置、外形、向き、速度、加速度、荷重、経過時間、光の強度、オーラ量。

 

 中心球が現れ、三つの環が囲む。

 二十八メートルが、新しく二人の周りを包んだ。

 

「行こう。今度は一緒に」

「はい」

 

 点検棒で確かめながら、そぴあが先に口を抜ける。

 らでんは後ろから、次の確保へロープを送った。

 

 選別台へ戻ると、らでんが回収側の爪を合わせた。

 開口に、保守台の脚が現れる。

 そぴあは番号と説明板を見て、次に支持枠へ視線を移した。

 

「合う。右を押して」

 

 らでんが腕へオーラを寄せ、枠へ力を加えた。

 そぴあはその応答から二人と荷物を支える条件を確かめる。

 

「そこまで。一人ずつ」

 

 確保を向こうへ掛け替え、らでんが渡る。

 そぴあは自分で測った足場を辿り、次の手すりへ手を伸ばした。

 

「次、そこ」

「はい」

 

 今度は、らでんが声を返す方だった。

 隣を空けると、そぴあの肩が枠を越え、三つの環がついてきた。

 

 二人が、保守台側へ揃った。

 

 らでんは試験の糸とロープを引き取り、端が残っていないことを確かめた。

 その向こう、選別台の脇に細く残った受け面が目に入る。

 低い作業台の下に、錆びた丸い縁があった。

 石の刻みも、途切れたところも、変わっていなかった。

 

 隣で、そぴあが息を吐いた。

 らでんはその音を聞いてから、視線を戻した。

 

「補助、戻すよ」

 

 そぴあが小さな爪を元へ送った。

 選別台の縁が外れた。

 重なっていた受け面が一枚ずつ見えなくなり、壁際の開口には、暗い石の継ぎ目だけが残った。

 らでんは最後に見えた場所を、手帳の図へ短く記した。

 残してきたものの位置を消さず、その手前で帰路の線を曲げる。

 あちらへ続く道を、そぴあは歩いていない。

 

 保守台の下で、金具が収まる音がした。

 分断が起きたときに立ち上がった部品が、主系の手前へ戻っている。

 始動の標は、まだ動いていなかった。

 

 固定してあったそぴあの鞄を外し、巻尺といっしょに渡した。

 彼女がいつもの場所へ収める。取り落としかけた小さな道具が、持ち主の手へ戻った。

 

 そぴあは新しい計測の値を記し、主系の連結部へ目を向けた。

 らでんも帰路の図を開く。補助送りの先を辿った線とは別に、二人で選んだ帰る方の順が残っている。

 まだ、施設の外へ出たわけではない。

 

「準備、できました」

 

 そぴあが顔を向けた。

 らでんは今度、急いで手を伸ばさなかった。すぐ隣で、返事を待った。

 

「うん。じゃあ、始めよう」

 

 始動の把手に、そぴあの手が掛かった。

 




今回の「違う瞬間を、一緒に見る」という発想には、エドワード・マイブリッジの連続写真と、マルセル・デュシャン《Nude Descending a Staircase (No. 2)》(1912年)を参考にしています。

マイブリッジの《Animal Locomotion》では、人や動物の動きを、一定の間隔で順番に撮影しています。デュシャンの作品では、動く人体を一枚の絵の中で捉えようとしています。
別々の瞬間を見ることと、同じ画面に重ねて見ること。その違いを、らでんが目の前の記録を読み直す手掛かりにしました。

作中の《走者連続観測》《階を降りるひと》は架空の作品名です。
時間断面、迷宮の接続、救出の仕組みは本作の創作であり、現実の写真や絵画が時間旅行の方法を示しているという意味ではありません。

【参考作品】

マイブリッジ《Animal Locomotion》/ペンシルベニア大学文書館
https://archives.upenn.edu/exhibits/penn-history/muybridge/

デュシャン《Nude Descending a Staircase (No. 2)》/フィラデルフィア美術館
https://www.philamuseum.org/objects/51449
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