1994年9月18日
19:51
清掃所を出てから、1時間あまりが過ぎていた。
はじめとルイは、作業船で川の上にいた。
近い橋の出口には、桐生組の追手が待っていた。
清掃所で決めたとおり、西の階段から水路へ下り、ルイが見つけた作業船に乗った。
船は倉庫の裏を回り、橋を通らず対岸の競売地区へ向かった。届け先も、この地区にある。
22時までに、背中の《夜明けの蝉》を正式に受け取ってもらう。
まだ、仕事は終わっていない。
---
操船席の男が速度を落とした。
「あー。お仲間さんよんだんだね」
船が岸へ寄ったところで、聞き覚えのある声がした。
右の倉庫の階段を、銀色の髪が下りてくる。ぼたんだ。
短く太い銃が、はじめのいる船へ向いた。
「陸の方が早いの、ずるくない!?」
「いや、先回りできる道を選んでるだけなんよ」
やっと降りられると思ったら、これだ。
船と岸の間へ、小さな浮桟橋の端が入ってきた。
中央には岸へ架かる鋼製の渡り板。左端には、狭い石段がある。
頭より少し高い岸の上は荷捌き場だ。
古いクレーンの台座の脇から、作業道が奥へ続いている。
あそこへ入れば水路から上がれる。
ぼたんが最後の段を下りた。
銃口は船首ではなく、はじめの動く先へついてくる。
ここで引き返しても、逃がしてくれる気はなさそうだ。
ルイへ声を掛けた。
《
ルイは右目に手を当てて周囲を確認している。
左目で普段の視界を保ちながら、右目で周囲の索敵も並行して行う。
「上がるよ」
「私も。左端の階段を使おう。渡り板の正面、かなたがいる」
板の向こうで、小柄な影がしゃがんだ。
はじめの目を見て笑う。
「泳いできてもよかったのに。すぐ拾ってあげたよ」
「そのあと返してくんないじゃん!」
「当たり前だろ」
ルイが手を下ろして自分の目で足元を確かめ、先に浮桟橋へ移った。
はじめはすぐ横へ着く。
「巻き込まれないようにすぐに離れて!」
はじめが操船席へ叫ぶと、男は言い返さず、船を岸から振った。
エンジン音が大きくなる。
ぼたんの銃口は離れる船ではなく、はじめの行く方へついてきた。
板を走れば、かなた。
左の階段へ向かえば、岸の右側から撃たれる。
右へ跳んで岸の上へ直接上がるには、距離がある。
「はじめちゃん、こっちの方が上がりやすいよ」
《
白いオーラが、左の石段の前へ広がった。
渡り板の左脇に、わためが立っている。
柔らかな面の端が浮桟橋まで届き、足を乗せる場所を作っていた。
「階段、滑るからね」
「乗ったら包むつもりでしょ!」
「うん。その方が落ちないよ。それでおしまい!」
それじゃ駄目なんだよ。
はじめは中央の渡り板へ足を掛けかけた。
かなたの手が伸びる。
出した足を戻した途端、その手が板の縁を掴んだ。
「じゃ、これいらないね」
《
鋼製の板が、岸から外れた。
かなたが片腕で持ち上げる。
浮桟橋に載っていた下端も離れ、水滴が頭の上から落ちてきた。
「階段しかなくなったじゃん!」
「そう言ってる」
ぼたんが岸を左へ動いた。
渡り板がなくなり、こちらを見る角度が広がっている。
はじめは桟橋の縁へ身を伏せた。
銃声。すぐ先の木張りが剥がれ、欠片が水を叩く。
「ぼたん! 板外すまで待てって言ったでしょ!」
「そりゃ、見えるまでは待つけどさぁ」
「僕が捕まえるところなんだけど!」
「じゃ、早いもの勝ちってことで」
かなたが持っていた板を横へ振った。
岸壁の縁へ下端をぶつけ、ぼたんとの間に斜めに立てる。
次の散弾が厚い縁を打ち火花が水面へ散った。
板を支えたかなたの靴が石を削る。
「好き放題ぶっ放しやがって。獲物が壊れたらどうすんだ!」
「はじめちゃん狙ってるんで。邪魔なら退いてもらっていい?」
「退くわけないだろ!」
はじめは顔を上げた。
板が右の射線を切っている。
左には、わための《
中央ではかなたが片手で板を押さえ、空いた方の手をこちらへ向けていた。
あっちもこっちも、敵だらけだ。
ルイが桟橋の低い縁の内側から、左の石段を見た。
「わための右手が階段。左はまだ空いてる」
「両方から挟まれたらきっついね」
「二つとも、同じ方へ出させよう。私は板の陰から階段へ行く」
はじめは右へ目を向けた。
浮桟橋の端と、岸壁に張り出した低い足場。
あそこなら一跳びで届く。
踏み切る場所も、みんなから見える。
はじめは桟橋の右端へ走った。
わためが岸を二歩寄り、左手を差し出す。
《
「そっちは危ないよ。受け止めるからね」
後ろからも《
階段の前にあった右手のオーラの編みが、桟橋の上を追ってきていた。
足場を塞ぐ面と帰り道を包む面。
優しい声のまま、きっちり両方を狙ってくる。
「そうそう。そっちへ寄ってくれると、私も助かるよ」
ぼたんまで動いた。
板の右端から撃てる位置へ、銃を据えたまま回り込む。
かなたが舌打ちし、板をそちらへ押し出した。
重い縁が岸を擦る。ぼたんの足が止まった。
「階段が空いた。板があるうち!」
ルイの声が、左から来た。
もう自分で石段を上がっている。
はじめは、跳ばなかった。
踏み切るつもりで沈めた身体を、その低さで止める。
前へ送った肩を引き、浮きかけた踵を、さっき踏んでいた場所へ戻した。
《
跳ぶために畳んだ脚が、戻る一歩に変わる。
右の足場を白い編みが包んだが、そこにはもうはじめはいない。
後ろから来たもう一面が、灰色の袖へ触れる。
まだ閉じていない。
伸ばした腕を身体へ沿わせ、肩から順に巻き戻す。
ケースの薄い側を白い縁へ向け、布も箱も編み目へ引っかけず、胸を岸へ返した。
戻るのはそこまでだ。
足先を左へ返し、回転の終わりから滑り出す。
《
白い縁が肩の後ろで閉じた。
はじめは石段の下へ抜けていた。
「うそ、そっち戻れるの?」
「器用な動きだねぇ!」
わための手が返る。
ルイは階段の上で待たず、クレーンの台座を回っていた。
「上がったら左! 台座の裏まで!」
はじめは段を二つ飛ばした。
太腿に痛いほど力が入る。
最後の一段だけ足裏全体で踏み、ケースまで岸へ持ち上げた。
白い編みが手すりへ被さるより先に、コンクリートの角を曲がる。
ルイがいた。
作業道へ向いたまま、片手を小さく上げている。
「ようやく上がれたね」
はじめはその手へ軽く手の甲を当てた。
背中の留め金も確かめる。
閉じている。肩紐も切れていない。
向こうで鉄がぶつかる音がした。
「ほんっと邪魔だなー。一回その銃置けよ」
「いやいやいや。それ置いたら私、何しに来たのってなるじゃん」
一瞬覗くと、かなたが板をぼたんの足元へ押し倒したところだった。
ぼたんは二歩下がり、もう別の銃口の出し方を探している。
わためも編みを手元へ戻し、石段の上をこちらへ向かってきた。
誰も諦めていない。
でも、岸へ上がる方が先だった。
「ルイ姉、こっち!」
「その角の先、通れる。行こう」
はじめとルイは、荷捌き場から作業道へ入った。
◇ ◇ ◇
20:03
荷捌き場の外へ出るまでに長い倉庫を一つ回った。
車路へは上がらず、岸沿いの作業道を進む。
奥へ通じる連絡口の手前でルイが先を見て、はじめは追ってくる靴音を確かめた。
銀色の髪が後ろの積荷の切れ目に見える。
ぼたんも同じ道へ入り直している。
正面には『競売地区外周』の案内板があった。
まだ受領施設ではない。
けれど、ここを抜ければ競売地区に沿う道へ出られる。
人の立っていない通路口。ようやく、ゴールが見えてくる。
がん、と重い音がした。
通路の左右が、荷物の待避場所になっていた。
右には大きな発電機。
電線は外され、車輪の前に新しい打ち傷がついている。
左の奥には二本の幅広い脚で立つ厚い鉄板。
その両方に金色の札があった。
どちらにもすでに数字が並んでいる。
「……ルイ姉」
「見えた。左右に一枚ずつ」
男が発電機から大槌を離した。
もう一人が鉄板を打つ。
低く響く音と一緒に、そちらの数字も増えた。
男たちが槌を持って、通路口から退いた。
「《
発電機が右の待避場所から滑り出した。
はじめは通路口の手前で止まる。
ルイも隣の石壁へ寄った。
重い車輪が、横向きのまま舗装を擦る。
一直線だ。
二人の前を横切り、左の縁石ぎりぎりで止まった。
通れる隙間がなくなった。
「いやぁ。仲良く来てくれたんだね」
右の待避場所の奥から、丸眼鏡が覗いた。
虎の柄の上着。
揺れる金の飾り。
金虎堂のニコが、手袋の指を一本ずつ引いて直している。
「はじめちゃんだけでも大変なのに。お連れさんもなかなかやるじゃん」
「見てたなら、そろそろ通してよ」
「うん。それは別のお話なんでね」
発電機の上なら越えられる。
はじめが足をずらしたところで、ニコの目がそちらを向いた。
「《
通路を塞いでいた発電機が、左の鉄板と位置を入れ替えた。
向こう側の通路まで見えなくなる。
左の待避場所には発電機が現れていた。
外装の打ち傷も、金色の札も一緒だ。
鉄板は正面。発電機は左。
ニコは板の右端へ、こちらを向いたまま一歩寄った。
「今回はちゃんと、お二人まとめてお預かりしますので」
「荷物みたいに言うじゃん」
「大事に扱うって意味ですよ?」
後ろから、散弾銃へ弾倉を入れる音が聞こえた。
戻る道へぼたん。
進む道にはニコと鉄板。
左で発電機の札が、また光る。
「ルイ姉。板の向こう、お願いできる?」
「任せて。はじめは左の警戒頼む」
ルイが石壁の陰へ位置を選び、右目を手で覆った。
はじめは左足を引き、発電機が来ても横へ抜けられる幅を確かめる。
清掃所へ逃げ込む前は、一人で鉄板とフォークリフトとニコを順番に見ていた。
今は、返事を聞く間にも、動く方から目を離さなくていい。
「じゃ、通してもらおっかな」
隣で声が笑った。
はじめも口の端を上げ、左の金色を見据えた。
「板の裏、左の脚に隠れて細い溝がある。そこを越えれば、奥の荷捌き場まで空いてる。曲がった先はまだ見えてない」
ルイの声を聞きながら、はじめは発電機の車輪を見た。
左の待避場所からこちらへ向いているのは、車輪ではなく、傷だらけの側面だった。
後ろで、ぼたんの靴が石を踏む。
銃口が少し下がった。退けば、今度は足を狙われる。
「《
発電機が斜めに滑り出した。
背中へ逃げる幅はない。
はじめは逆に、鉄板へ一歩詰めた。
重い角が腰の後ろを通り過ぎる。
「前へ出る! ルイ姉は壁!」
「戻す。私も行く!」
ルイが手を下ろし、石壁に沿って動いた。
発電機が二人の背後を横切る。
ぼたんが撃った散弾は、その外装で火花になった。
車輪が右の待避場所まで滑り、止まる。
振り返らなくても、はじめの足元にはもう銃弾が来ていなかった。
「そっちに詰めるんだ。いいねえ」
ぼたんの声。
褒めながら、靴音はもう左へ移っている。
はじめは鉄板の左脚へ足を掛けた。
張り出した脚が、ルイの言う溝への抜け道を塞いでいる。
押す場所を上へ変え、脚を浮かせにかかった。
「それ、開けちゃ駄目なんですよ。《
金色の札が光った。
浮きかけた脚が止まる。
底の金属がきしみ、はじめの靴だけが舗装を擦った。
壊せないわけではなさそうだ。けれど、押し切る前にニコの手が来る。
はじめは力を抜き、板の端から離れた。
「止まった。どうしよ」
「右はニコ。板のすぐ向こうなら、身を隠せる石材がある」
ルイが《
はじめは板の上を見た。
横から抜けられないなら、足を掛けて越える。
自分が向こうへ回れば、ニコもこちらを向かざるを得ない。
はじめは鉄板へ踏み込んだ。
足を掛けようとした、その手前。
「《
目の前の鉄板と、右の待避場所にある低い発電機が入れ替わった。
踏むはずだった面がない。
はじめの上体が前へ流れ、ニコがその先へ手を出す。
「はい、お預かり。いい加減、大人しく捕まりやがれ」
はじめは上げた膝を胸へ引いた。
掴みに来た手が靴の下を通る。
残していた足で地面を蹴り、発電機の低い端を越えた。
綺麗な跳び方ではない。
片手を外装の縁へ添え、身体だけを向こうへ送る。
ケースが金属へ触れる前に、足が着いた。
「お断り!」
ニコの肩越しに、ルイが走っていた。
鉄板がなくなった右端。発電機との間にできた幅を抜けてくる。
ニコが足を返した。その横で、銃声。
交換で後ろへ移った鉄板の左から、ぼたんが銃を出していた。
狙っているのは、発電機の陰を離れたはじめだ。
「そうそう。その位置を低くしてくれると助かるよ〜社長さん」
「あなたを助けるためじゃないんですけどね!」
ニコの指が後ろを示した。
《
鉄板が左へ滑り、銃口の前へ割り込む。
ぼたんは銃を引いて身を退き、その縁へ散弾を叩きつけた。
その一拍で、ルイが石材の陰へ入った。
「はじめ、こっちだ!」
はじめも発電機から離れた。
ニコの手が肩へ届く前に、石材の角を曲がる。
「通れた!」
「入口はね。次、右奥の坂」
「一個ずつ言ってくれるの、助かる!」
胸の高さまで積まれた石材の先に、短い坂があった。
競売地区の外周へ上がる道だ。
そちらへ行こうとして、はじめは足を止めた。
坂の下へ、虎の上着が回り込む。
ニコは広場の中央を斜めに突っ切っていた。
こちらはぼたんの銃を避け、石材を大きく回った。
その分だけ、先へ出られている。
「仲良しなのは分かりましたので。そろそろ、ニコのお話も聞いてくれる?」
入口の発電機が動き出した。
通路から広場へまっすぐ進んで止まる。
今度は別の札が光り、鉄板が同じ入口を擦りながら抜けてきた。
鉄板が止まったときには、坂へ向かうはじめの前をまた高い面が塞いでいた。
◇ ◇ ◇
20:06
「板の右側から回れる?」
「確認する。入口はお願い」
ルイが石材へ背を寄せ、右目を覆い《
はじめは入口へ身体を向ける。
ぼたんが発電機へ一発撃ち、すぐ動いた。
外装がへこむ。その上で、札の数字を増やす。
ニコが口の端を上げる。
「ご入金、ありがとうございます」
「大体ルールがわかってきたしいいよ。そこに置いとくなら利用できるものは使わせてもらうし」
ぼたんは発電機の裏へ入り、端から銃を出した。
遮蔽物にしているのだ。
ニコが動かせば射線が開く。
動かさなければ、あそこから撃ち続けられる。
はじめは頭を引っ込めた。
石材の角が欠け、細かい粉が髪に降った。
「人の道具で商売しないでもらっていいですか?」
「じゃあさっさと撤去してくださいよぉ」
「なんかそっちも仲良さそうだなぁ」
思わず言うと、ルイの肩が少し揺れた。
「右側、坂の縁に溝が続いてる。板の右の脚が張り出してるけど、奥へ回れば通れる。坂の上はまだ見てない」
「じゃ、板の奥まで」
「うん。私は隣の石材へ移る」
ルイは手を下ろした。
はじめの肩を軽く叩き石材の切れ目を自分で確かめて走る。
その間、はじめはぼたんから目を離さなかった。
発電機の上へ銃が出る。
はじめは石材の右から肩を見せ、すぐ戻した。銃声が角を打つ。
ぼたんが次の角度を取り直したときには、ルイはもう隣の陰にいた。
「着いた」
「次、はじめね」
はじめが返すと、ルイは右目へ手を戻した。
「入口を確認する。坂の方は一度外すよ」
全部を見続けてもらえるわけではない。
でも、今どこを任せられるかは分かる。
はじめは坂へ顔を向けた。
ニコの手と、その脇の鉄板。今は、それだけでよかった。
正面へ踏み出す。
ニコは手を広げたまま、すぐには動かなかった。はじめが右へ抜ければ鉄板。左へ返せば、本人の間合いだ。
つま先で一度、左を叩く。
《
次は右。足を入れ替えたところで、ニコの肘が下がった。
はじめは低く沈み、その手の外から坂へ出ようとした。
「そっちは通行料が要るよ〜」
《
坂の縁まで通り道を潰し、止まった。
はじめは足を止めず、板の前を左へ切り返す。
「伏せて!」
ルイの声へ、身体を落とした。
背後で銃声がした。
すぐ後ろの鉄板が激しく鳴った。
ぼたんが発電機の右へ出たのだ。
はじめが坂へ向かう線と、ちょうど重なっていた。
ニコも鉄板へ寄っている。
こちらを掴むために伸びた手が、一度だけ戻った。
「撃たないでくれる!?」
「そこ取られたら私が困るんよ」
「ニコが困るのはいいんだ!」
はじめは低いまま、ルイのいる石材へ戻った。
戻りたくて戻ったわけではない。
太腿の奥が熱い。立ち上がる前に、一度息を吐いた。
「今、惜しかった」
「うん。でも同じ方へは、もう行かない」
ルイが手を下ろし、はじめの向いている方を見た。
発電機の札が光った。
「《
発電機の数字が大きく減り、鉄板の数字が増えた。
こちらの石材からは、どちらも見える。
増えた方を確かめて、ルイが眉を寄せた。
「移したのかな。減った分、全部がもう一方の札に載るわけじゃないみたい」
「途中で減損してる分が取られてる?誓約かな」
「たぶん。動かすときも数字は減ってる」
ニコが指を曲げ直した。
息を吐く口元から、さっきまでの笑みが一瞬だけ消える。
けれど、腕を覆うオーラは薄くなっていなかった。
「残ってる数字だけ見て、平気ってわけでもなさそうね」
「使った分、負荷がかかる系?」
「そこまでは分からない。こっちは通れる方へ行こう」
それなら、できる。
あと何回、などと数えるより、次にどこへ足を置くかの方が、はじめにはよく分かった。
「坂の左右、どっちも塞ぐには動かさないと駄目だよね」
「うん。私が見たのは、右の奥。そこは使いたい」
「じゃ、左から攻めてみる」
はじめは石材の左へ出た。
ニコがそちらへ身体を向ける。
鉄板の数字を一度見て、発電機へ指を振った。
新しい《
高い板をこちらへ戻さずもう一つの物で済ませている。
「近い方でいいよね。大きく動かす必要ないので」
「気が合うね。はじめも遠回り、したくない!」
発電機が止まるのを待って、その右端へ足を入れた。
車輪を押し、機体を少しだけ斜めにする。
間へ身体を差し込もうとした途端、札が光った。
「《
動きかけた車輪が止まった。
はじめは押すのをやめ、そのまま機体の低い角へ手を置く。
越えれば、坂だ。
ニコの手が伸びた。
触れる前に、はじめは向きを返した。
「そこ、行かせないよー!」
機体を越えるためではなく、横へ回るために置いた手だ。
発電機の陰を走り、はじめは右へ出た。
ニコも追う。坂の左から右へ、本人の身体が横切ってくる。
ルイは、今のうちに石材の奥を抜けていた。
「右奥の壁まで行くよ」
「分かった!」
はじめはニコの手首へ掌を当て、掴む向きだけを外した。
腕を叩き落とせるほど軽い相手ではない。
押し返される前に離れ、もう一度坂を見る。
ルイの姿は低い石壁の向こうへ消えた。
その壁なら鉄板の右側に近い。
「二人で別々、ねえ」
ニコが足を引いた。
はじめだけを追うのをやめ坂の中央へ戻る。
ルイの方へ突っ込んでもいかない。
前と後ろを見比べその場で手袋を引き直した。
「でも、目的地は一緒でしょ?」
はじめは止まった。
右端へ出ていたぼたんまで、足を止めている。
散弾銃から弾倉を抜き、次のものを差し込んでいた。
「そうそう。そこ待ってる方が早いじゃん」
「あなたに褒められても嬉しくないんですけど!」
「私、待たれる方だから、もっと嬉しくない!」
はじめの声に、石壁の向こうから小さく笑いが返った。
「見てるよ。右の溝、板の奥までは通れる。入口寄りの脚だけ避けて」
低い石壁の上に、右目を覆うルイの手が見えた。
板の向こうにいる人が、そのさらに向こうを見てくれる。
はじめは、真正面のニコを見た。
「ルイ姉。板が替わったら、そこだけ教えて」
「任せて」
はじめは右へ走った。
ニコが手を上げる。
けれど札は光らない。
まず自分の身体で道を取るつもりだ。
出てきた腕の下へ潜ろうとして、はじめは急に身を起こした。
その肩越しへ跳び抜ける構えを見せる。ニコの視線が上がった。
その足元へ、ぼたんの銃口が向いた。
「それ、降りるとこある?」
発砲より先に、はじめは身を低く戻し、ニコの横へ滑り込んだ。
ニコが舌打ちした。
「《
坂の右を塞いでいた鉄板が、手前へ滑った。
ぼたんの射線とはじめの間を横切り、広場へ戻る。
散弾が表を打ったところで、止まった。
背後に板。左に発電機。
坂の前にはニコ。
撃たれずに済んだ代わりに、はじめの左右はまた狭くなった。
「これで、銃は邪魔しない」
ニコが笑った。
今度の配置は、ちゃんとニコのためのものだった。
はじめが坂へ踏み込めば、その手が取る。
横へ逃げても、重い物の端を回る間に追いつかれる。
石壁の向こうにルイはいる。けれど、自分の足でそこまで行かなければ、意味がない。
「板が手前。右の溝は空いた。でも、そこへ行く前にニコを外さないと」
「分かってる」
はじめは発電機へ顔を向けた。
左の低い方を越える。そのつもりで足を開き、右肩を落とす。
ニコの目が、支える脚へ下がった。
膝を上げる。
もう、元の姿勢へは戻れないように。
「《
左の発電機と、広場側の鉄板が位置を入れ替えた。
左へ越す場所が消える。広場側には低い発電機。
振り返れば、ぼたんからもこちらが見える。
前にはニコの手。
はじめの右脚には、もう身体の重さが載っていた。
「板の奥、空いてる!」
ルイの声が来た。
ニコが、広場側の発電機を指す。
「これで、取る。《
低い機体がはじめへ向かって滑り出した。
坂へ逃げればニコ。左へ退けば、交換された鉄板の面へ押しつけられる。
残った右へ走るにも、もう一度足を置き直す必要があった。
はじめはその一歩を使わなかった。
《
上げた膝を止める。
前へ落ちかけた肩を引き、浮いていた足を、直前に離した舗装へ戻す。
《
ただ元へ戻れば発電機の正面だ。
戻した足先を鉄板の奥へ向けた。
右脚に溜まった重さを、そこへ渡す。
太腿が焼けるように痛んだ。
止めた反動まで捨てず、踵を軸に身体を返す。
《
ニコの指が肩の前を空振った。
はじめは鉄板の面に沿って横へ流れる。
張り出した脚は手前。通れるのは奥。
見えない向こう側へ、自分で向きを選んで踏み込む。
「そのまま! 壁まで空いてる!」
鉄板の端へ、ケースの薄い側を向けた。
回転の終わりを、低い滑りへつなぐ。
《
灰色の板が頬の横を抜けた。
はじめはその裏へ入っていた。
壁へ片手をつき、滑りを止める。
ケースは、ぶつけていない。
すぐ近くで発電機が通り過ぎた。
車輪が縁石を削り、角が坂脇の石へぶつかる。
外装が潰れても機体はなお進み、石を押し崩して、ようやく止まった。
その停止音に、妙に高い声が重なった。
「……うぇ?」
はじめが板の奥から覗くと、さっきまでニコの顔があった高さには、何もいない。
もっと下。
虎の意匠と、大きな丸眼鏡。上着の中身まで縮んだような、小さなニコが舗装に座っていた。
身体を覆っていたオーラが、ない。
「手数料ぉ……! 今ので超えたぁ!」
小さな手が地面を叩いた。
さっきまで発電機を走らせていた人とは思えない可愛いか弱い声しかしない。
「なんで最後まで戻れるんだよっ!? もう右に体重、載ってたじゃん!」
「載ってたよ。だから、それを使った」
「使わないでよ!」
「それは無理!」
言い返してから、はじめはもう一度、潰れた発電機を見た。
角に、砕けた石が食い込んでいる。
あと半歩遅れていたら、あそこにいたのは自分だ。
ルイが右目から手を下ろし、鉄板の裏を回ってこちらへ来た。
はじめと目が合った。
「抜けたね」
「……うんっ」
「札には数字が残ってても、使う方が駄目になるんだ」
ニコは眼鏡を押し上げようとして、ずれた縁を両手で掴んだ。
「悔しい〜〜!やられたぁ!!」
広場の入口から、槌を腰に差した男が二人走ってきた。
一人が上着を脱いでニコを包み、もう一人が小さくなったニコを抱き抱える。
「親分。撤収します」
「まだ捕まえてなぁい!」
「今の親分は念、使えないんですから。役立たずです。諦めて別のやつらに任せましょう」
「もう今日は何にもできないじゃん!」
男の腕の中でも、小さな手がこちらを指していた。
「お前ら!覚えてろよ!!」
はじめは笑った。
「よし! はじめ、いまのうちに行くよ!」
はじめは頷いた。
二人はその間の細い溝を跨ぎ、坂へ出た。
「うわ。ニコやられちゃったかぁ」
下からぼたんの声がした。
覗くと、銃を構えたまま鉄板の端を回ろうとしている。
けれど潰れた発電機と崩れた石がその足元を塞いでいた。
「塞がれてんなぁ。あとでまたね。こっちはまだ諦めてないからね〜」
「今日はもう、だいぶ会ったよ!」
「しつこく諦めないのが私の信条なんでねぇ」
その通りなのが嫌だった。
はじめは顔を戻し、ルイと一緒に坂を上がった。
ぼたんも、追いかける道を探していた。
二人は足を止めず石壁の角を曲がった。
◇ ◇ ◇
20:14
坂を抜け、競売地区の外周路へ出た。
石壁の切れ目に受領施設へ向かう案内がある。
まだ入口ではない。けれど、ゴールは少しずつ着実に近づいてきている。
はじめは肩紐を掛け直した。
留め金は閉じている。ケースも、ぶつけていない。
「ルイ姉、助かった。ありがとう」
ルイが、歩きながらこちらを見た。
「うん。こんなこと今言うのもなんだけどさ、わたくしたちなかなかいいコンビじゃない?」
低く差し出された手へ、はじめは自分の手の甲を軽く当てた。
すぐに離し、次の角へ目を向ける。
はじめは先へ出た。
すぐ後ろで、ルイの足音も曲がった。
この作品を「続きも読みたい!」と強く感じたのは、どのあたりからでしたか?
-
冒頭1〜3話
-
ハンター試験・裏試験編
-
発の習得編
-
事件録に入ってから
-
まだ判断中