【幕間】《無題(エリオの肖像)》
一九九四年、リーネ市立美術館。
床が光っていた。
部屋の隅から、赤や青や金色が、低い斜面になって広がっている。
入口で見た写真よりずっと細かく光っていた。
らでんが半歩動くだけで、さっき暗かったところが白くきらめく。
飴だった。
一つずつ両端を捻った包みが、数えられないほど積まれている。
台はない。二面の白い壁に寄りかかり、そのまま床に載っていた。
リーネへまた立ち寄ると分かった時、らでんは美術館の展示予定を調べた。
知らない作品が来ていたので、乗継だけで通り過ぎず、この町に一泊することにした。
宿に荷物を置いてから来たため、今日は列車の時刻を気にしなくていい。
十六歳になった今は、乗継も宿も自分で決めて、仕事の合間にこうした時間を取れるようになっていた。
隣の客が屈んだ。
山の裾から一粒取り、上着のポケットに入れる。
らでんの肩が動いた。
声をかける前に、壁際の係員を見た。
係員は気づいている。
客が立ち上がるのを待って、通路へ少しはみ出した案内の台を直しただけだった。
らでんも、その案内を読んだ。
『ご希望の方は、一粒お持ち帰りいただけます。お召し上がりになる際は、休憩テラスをご利用ください』
二度読んだ。
それから、また山を見る。
取られたところがどこだったのか、もう分からなかった。
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「取ったところ、もう分からなくなったね」
横から声がした。
青年が、案内の向こうにある山を見ていた。
黒い髪を後ろへ流し、額に暗い布を巻いている。
薄い灰色の上着の襟元で、青い耳飾りが揺れた。
らでんは顔を上げたまま止まった。
「……あの、お久しぶりですね」
青年の目がこちらへ動いた。
一拍あって、その口元が緩む。
「取っ手か」
「その覚え方、変ですね」
「先に言ったのは君だよ」
そうだった。らでんは笑った。
三年前、《消された素描》の前で話した人だった。
顔を合わせるのは、あの日以来だった。
「また、来てたんですね」
「この展示が気になってね。君も?」
「はい。写真だと、もっと固そうに見えたんですけど」
二人で山へ向き直った。
銀色の間に赤が挟まり、金色の端が隣の青へ引っ掛かっている。
写真で見た山より、一粒ずつがよく見えた。
「飴ですよね」
「飴だね」
「こんなにあるところ、初めて見ました」
「菓子屋でも、あまり床には積まないだろうな」
らでんはもう一度案内を見た。
ちゃんと持っていっていいと書いてある。
なのに手を出す時だけ、いつもの美術館の癖が勝ちそうだった。
青年も一度係員へ目を向けた。
係員が小さく頷く。
「じゃあ、一つ」
そう言って屈み、裾の銀色を摘んだ。
周りを掻き回さず、一粒だけ持ち上げる。
包みが擦れる乾いた音がした。
らでんは空いたところを見た。
その上にあった青い飴がわずかに傾く。
下から、金色の端が覗いた。
青年は銀色の一粒を目の高さへ上げた。
照明へ透かしてから、掌の中で一度転がす。
らでんは、青い包みの下を見ていた。
「金色が出ました」
「どこ?」
「今のところ。さっきは、ほとんど隠れてたのに」
青年がもう一度屈んだ。
らでんも少し横へ寄る。
二人の影で金色が暗くなった。
らでんが半歩退くと、細い端に光が戻った。
「本当だ」
青年はそのまま、隣の包みの重なりへ目を移した。
「あの下にも、あったのか」
青年が持ち上げた銀色も気になった。
捻った両端の一方が長く、指で支えると小さな舟のようだった。
らでんが覗き込むと、青年はよく見える方へ向けてくれた。
二人の顔が同じ角度に傾いた。
「君は、まだ?」
「もうちょっと見てからにします」
青年は頷き、銀色の一粒を上着のポケットへ入れた。
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壁の札には、《無題(エリオの肖像)》とあった。
作者、ルカ・セレン。素材、個包装の飴。
設置の広さは展示によって異なる。
理想重量、七十二キロ。
隣に、館が用意した解説があった。
エリオは作者の恋人だった男性で、病気で亡くなった。
七十二キロは、彼が元気だった頃の体重に由来するという。
鑑賞者は飴を持ち去ることができ、展示する側は補充について判断する。
らでんは最初の二行を読み返した。
肖像だったのか。
顔の形は、どこにもない。髪も、肩も、着ていた服もない。
けれど七十二キロという数字を読んでから見ると、床の山は、さっきよりずっと重そうだった。
青年も解説を読んでいた。
名前のところから七十二キロまで目を動かし、もう一度、初めの行へ戻った。
すぐには話しかけてこなかった。
年配の客が長く立ち止まり、やがて何も取らずに次の部屋へ行った。
「この人の顔、見てみたいです」
らでんが言った。
「エリオ?」
「はい。どんな顔だったのかなって」
小さな解説には写真がなかった。
「図録にはあるかもしれないね」
あとで売店へ寄ろう。
そう思ったが、まだ山の前を離れる気にはなれなかった。
赤い包みがよく光る。
さっきから欲しいと思っていたのは、その一粒だった。
誰かの肖像だと知った後でも、目は勝手にそこへ戻った。
らでんは両手を鞄の紐へかけた。
「取ると減るんですよね」
「うん」
「分かってたんですけど」
青年は急かさなかった。
ポケットへ入れた手を戻し、壁に寄らず、少し離れたところへ立った。
別の客が来て、案内を読み、飴を一つ選んだ。
包みを持ち上げた手は、そのまま胸の前に残った。
客は何か確かめるようにそれを裏返し、連れに見せた。
「あの人、まだ持ってる」
青年が言った。
らでんの目は山から離れた。
客は飴をポケットへしまわず、掌に載せたまま解説を読み始めていた。
連れの人は山と、その掌とを交互に見ている。
さっきまで、らでんは山がどれだけ変わるかを見ていた。
でも、そちらにも一粒あった。
札の前で止まり、手と一緒に動く、小さな赤い光だった。
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壁際のベンチに座ると、山の高さが少し増した。
立って見下ろしていた時にはよく見えた頂が、奥へ隠れる。
代わりに裾の一粒ずつが、大きく見えた。
らでんは膝に鞄を置き、身体を前へ傾けた。
青の下に金色。ベンチから、さっきの一粒を探した。
同じ組合せがいくつもある。
青年も指を少し動かし、結局、どれも指ささずに下ろした。
客が続けて来た。
一粒取った後、連れの分も取ろうとして案内へ目を戻す人がいた。
その人は手を引き、代わりに連れを呼びに行った。
入口に小さな台車が来た。
係員が二人で箱を運んでいる。
らでんはベンチで背を伸ばした。
「補充だ」
青年も顔を上げた。
一人が客に場所を空けてもらい、もう一人が箱から袋を出した。
透明な袋の中で、見覚えのある色が押し合っている。
袋の口を低くして、飴を少しずつ出す。
かさかさと乾いた音が重なった。
斜面を転がり、包みに引っ掛かり、その上へ次が載る。
らでんは、金色を探していたところを見た。
赤い包みが二つ流れてきた。
青の隣で止まったものと、もう少し下まで転がったものがある。
金色があったはずのあたりは、その下へ隠れた。
係員は一度袋を起こした。
山を見て、位置を変え、残りを別の側へ注いだ。
「そっちにも入れるんですね」
らでんが小さく言うと、青年は袋から係員の足元へ視線を移した。
飴が足された方で、裾が少し広がった。
「真ん中を高くするのかと思った」
「私も」
袋が空になった。
係員は一粒ずつを並べ直さなかった。
通り道へ離れて転がった数粒だけを手袋で拾い、別の容器へ移す。
それから客へ場所を空けた。
らでんは立ち上がった。
「すみません。これ、最初と同じ形へ戻すんですか」
近くの係員が山を振り返った。
「一粒ずつ、元の位置へは戻しません。今回の展示では、この隅を使って、状態を見ながら補っています」
「最初から、こうやって補う予定だったんですか」
「ええ。今日はこの回で、補充を終える予定です」
らでんは礼を言った。
台車が出ていった後も、らでんは足された飴を見ていた。
青年が隣へ来た。
「増えたね」
「はい」
光る面が広くなった。
見ていると少し嬉しかったが、金色が隠れたあたりへ、どうしても目が戻った。
「あれ、欲しかったんです」
青年がらでんを見た。
「さっきの金色?」
「はい。最初は赤がよかったんですけど」
二人でしゃがんで見た、あの細い光だった。
今ある別の金色を指して、これでいいと言われても困る。
自分で驚くほど、あの一粒を持って帰りたくなっていた。
「取っておけばよかった?」
「ちょっと。でも、もう少しあそこにあるのも見たかったので」
「忙しいな」
らでんは笑った。実際、そうだった。
青年はポケットから銀色を出した。
二本の指でつまみ、山の手前へ重ねる。
「こっちは、見失わずに済んだ」
飴が動いた。
奥の山とは関係なく、青年の指の向いた方へ、銀色が向きを変える。
らでんもそれを目で追った。
「全部なくなって、最後の一粒だったら」
青年が山へ目を戻した。
「どれを取るかは、もう迷わないね」
「最後だと、別のことで迷いそうです」
想像してみる。
白い床に一つだけ置かれた飴。
今のように裾の方からそっと、という取り方はできない。
手を引いた後には、床しかない。
「取ってみたいな」
青年が言った。
らでんは顔を向けた。
冗談を言う時の顔ではなかった。
山の裾から、何も載っていない床へ目を動かし、それから自分の一粒を見ている。
「最後のを?」
「ああ」
その指が銀色を包んだ。
らでんも欲しいと思った。
一つしか残っていなかったら、きっと欲しい。
けれどそこまで考えた途端、その次に部屋へ入ってくる人が浮かんだ。
あの札を読み、顔を上げる人。
その人には何が見えるのだろう。
山を振り返ると、係員が台車の通った跡を確かめていた。
「明日も、この展示は見られるんですよね」
確かめずにいられなかった。
係員は頷き、案内に載った会期を示してくれた。
青年の掌は、もう下がっていた。
らでんが礼を言って戻ると、閉じた指を一度だけ開いた。
銀色が光った。
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飴が全部、新しいものになっても、この人の肖像なのだろうか。
らでんは札を読み直した。
補充することは、隠されていない。
さっきの袋も、係員の手も、部屋にいた皆が見ていた。
新しい飴を古い飴だと偽っているわけではない。
七十二キロ。
今、何キロあるのかは知らない。
もっと大きく積めば光るところは増える。
でも、あの数字まで大きくしたら、それはもう彼の体重ではなかった。
青年が銀色の包みを裏返していた。
「何味なんでしょう」
らでんが聞くと、青年は手をこちらへ向けた。
「書いてないな」
小さな模様はあったが、味を示す文字はなかった。
「山から取ったと知らなければ、普通の飴ですね」
「そうだね」
青年は、銀色だけを眺めていた。
「黒い皿に、一つ置いてみたい」
らでんも想像した。
黒に銀色なら、よく光りそうだった。
包みの端を起こせば、影も綺麗に出そうだ。
「丸いお皿ですか」
「平たい方がいい。縁の低い」
「ああ。影が見えるやつ」
青年が顔を上げた。
二人で少し笑った。
皿はまだどこにもないのに、飴を置く場所だけは決まりそうだった。
それから、らでんは壁へ目をやった。
皿のそばには、あの札がない。
青年はもう、掌の上で飴を横にしていた。
皿の色と、包みの傾き。
その二つだけで、さっきとは違うものを作り始めているように見えた。
自分で飾るところを考えると、らでんはどこに名前を書こうかというところで手が止まった。
黒い皿の中か、外か。
それとも、別の紙か。
青年の指は止まらなかった。
らでんは山へ近づいた。
「金色を探すのは、やめます」
「決まった?」
「これからです」
青年が小さく笑った。
「長いね」
「一粒しか選べないんですもん」
らでんも笑い、裾の少し離れたところへ屈んだ。
赤い包みが一つあった。両端の片方は長く、もう片方は短く捻れている。
自分の指だけで摘めるところまで出ていた。
それを取った。
二粒ほどが小さく動いた。穴は残らなかった。
下から現れたのは、同じような赤だった。
掌へ載せる。
軽かった。
七十二キロという数字の後では、少し拍子抜けするくらいだった。
手を傾けると包みが転がりそうになり、指でそっと止めた。
これがどこで作られ、何に入れられて運ばれたのか。
調べるための問いなら、いくつも思いつく。
念を向ければ、何かの断片を拾えるかもしれない。
けれど、この飴がエリオの手にあったとは、どこにも書いていない。
運ばれてきた途中が見えても、作者が恋人の肖像を飴にした理由が分かるわけではなかった。
らでんは指先へ意識を集めず、包みを普通に持ち直した。
青年が銀色を隣へ出した。
二人の掌の上に、赤と銀が一つずつ載った。
「赤いからって、苺とは限らないですよね」
「辛かったら驚くね」
「それは、かなり困ります」
らでんは思わず真面目に答えてしまった。
青年が笑い、らでんも笑った。
さっきまで、もっと大きなことを考えていたのに、舌が辛くなるかどうかは別に気になった。
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もう選びに近づかなくていい。
らでんは正面を空けた。
入ってきた客がその手を見て驚き、案内を読み直した。
自分も最初、あんなふうだった。
青年は手の中の一粒をポケットへ入れた。
らでんはまだ持っていた。
入れてしまうと、ほかの細々したものと一緒になりそうだった。
切符や硬貨と混ざって、あとで出した時には、今日のどこから話せばいいか分からなくなりそうだった。
「もう少し見ていく?」
青年に聞かれ、らでんは山を見た。
「今日は、これで」
足を動かす前に、裾の赤いところをもう一度確かめた。
二人で展示室を出た。
廊下では足音がよく響いた。
「明日、違う形になってるかな」
「今戻っても、違うかもしれない」
らでんは歩いたまま笑った。
「戻りたくなること言わないでください」
「君が先に振り返ったんだろう」
そうだった。
正面の明るい空間へ出ると、売店と出口と休憩テラスへ道が分かれた。
らでんは売店の入口に図録を見つけ、足を止めた。
表紙は、あの山だった。
開くと、別の場所の展示が載っていた。
今日よりずっと低く、横へ広く置かれている。
同じ作品名が付いていた。
頁の下に、小さな人物写真がある。
エリオ、と添えられていた。
「ありました」
青年が隣から見た。
笑っている男性の写真だった。
まぶしそうに片目を細め、口の端を上げている。
写真の端には別の人の肩が少しだけ入っていた。
らでんは、写真の下の短い説明も読んだ。
どんな声で笑う人だったかは分からない。
それでも、知らなかった顔を一つ知ることができた。
「この写真、見たら思い出せそうです」
「山を?」
「山も。この人も」
青年も写真を見て、隣の頁へ目を移した。
「こっちは、床がずいぶん広く見えるな」
言われて、らでんもそちらへ目を移した。
写真では、飴のない床が半分以上を占めていた。
そこにも山の色が薄く映っている。
「あ、光が落ちてる」
「ここだね」
二人の指が同じところを示し、らでんは思わず笑った。
「大きい写真で見たいなあ」
らでんは奥付で値段を見た。
黙った。
「そっちは、小さい方がよかった?」
「かなり」
青年が笑った。
台の端には、小さな展覧会案内と絵葉書があった。
絵葉書の一枚は、今見た低い山の写真だった。
二人が同時に手を伸ばし、らでんは思わず青年を見た。
青年もこちらを見ていた。
「そっちの、光がある方」
「はい。私も、それです」
一枚ずつ取り、らでんは裏を返した。
作品名と作者名、小さな解説が印刷されている。
図録には及ばない。でも、今の自分には買える。
青年は表を向けたまま、写真の縁を目で辿っていた。
会計を済ませ、らでんは展覧会案内も一枚もらった。
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休憩テラスで、二人は日陰の卓へ座った。
まだ少し時間がある、と青年が言い、らでんも飴の味を確かめたかった。
周りには飲み物を飲む人や、持ってきたパンを食べる人がいた。
らでんは膝の上で包みを開いた。
薄い黄色だった。
「あ、赤くないんだ」
青年の方も同じような色だった。
二つ並べて見たが、同じ味かどうかまでは分からない。
口に入れると、まず甘かった。
それから舌の端へ少し酸味が来た。柑橘のような味だった。
らでんが肩の力を抜くと、青年が笑った。
「本当に心配してたの?」
「ちょっとだけ」
青年も自分の一粒を口に入れた。
包みだけが、それぞれの手に残った。
らでんは赤い紙を広げた。
指を離すと端が戻る。
もう一度、破らない程度に伸ばした。
青年は銀色の片端を内側へ折っていた。
反対側も折り、親指で中央を押し広げる。
さっきまで飴が入っていた丸みが、浅い窪みになった。
小さな舟になった。
「それ、置いたらどうなります?」
らでんが身を乗り出すと、青年は買った絵葉書の白い縁へ載せた。
舟は少し傾いた。指先で片側を押すと、今度は立った。
小さな模様も、菓子を包んでいた捻れも、ほとんど内側へ入ってしまっていた。
明るいところだけが舟の縁に残る。
綺麗だった。
らでんも赤い紙の端を少し折りかけ、やめた。
どう畳まれていたか、もう分からなくなるところだった。
赤い紙を開き直し、鞄からノートを出した。
作品名。ルカ・セレン。エリオ。
今日の日付と館名を書き、その下に、補充を見たことと、係員が袋を一度起こして反対側へ移ったことを書く。
赤い包み、薄い黄色の飴。柑橘のような味。
青年の舟を見る。
包みの折り方なら、真似できそうだった。
けれどその前に、山から銀色を抜いた手と、青の下に金色が現れたところを描きたくなった。
ノートへ小さく山の裾を描いたが、やはり上手くいかなかった。
青年がそれを見て、口元を緩めた。
「何ですか」
「取っ手が増えてる」
らでんは絵を見下ろした。
確かに、包みの端を描いたつもりの輪が、三つとも取っ手に見えた。
「難しいんですよ。これ」
笑いながら、絵の脇へ言葉を足した。
それから絵葉書を裏返し、余白に鉛筆を当てた。
『近くへ行くことがあったら、見てほしいものが増えました』
書き出しを少し眺め、続けた。
誰に送るかは、鞄を開いた時から決めていた。
飴が積まれていること。一粒もらえること。
自分が座って見た時には、山が少し高く見えたこと。
その途中で、印刷された小さな解説を読み返した。
宛名を書く場所まで文を伸ばしかけていたので、そこは空ける。
エリオの名前には、鉛筆で細く線を引いた。
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青年は舟を指に載せたまま、その線を見た。
少女は赤い包みを残そうとしている。金色が埋もれた時の、惜しそうな顔も覚えている。
あの一粒を見つけたら、ほかに同じ色があっても、それを選んだだろう。
欲しがるところは、よく分かった。
だが、手に入れてからも少女の手は忙しかった。
今日ここで飴を取ったのは彼女だ。
それでも紙をしまう前に、まず別の人間の名前を書いている。
誰が作り、なぜ大切にしていたのか。
青年も、そういうことを知りたくなる。
知ってから、なお欲しくなったものもあった。
始めは、ただ欲しかった。
手に入れた後、何に使うかまで元の持ち主に決めさせるつもりはなかった。
指の上の舟を傾ける。甘い匂いがわずかに残っている。
銀色の包みがこの形に落ち着くまで、肖像の男に尋ねたいことは一つもなかった。
少女は赤い紙と入館券を、小さな袋へ入れた。それから一度出した。
展覧会案内を折り、作品名が見える向きにして、一緒に入れ直す。
青年は舟の端をつまむ手を止めた。
取ったものを、まだあの部屋へ結びつけている。
自分の手の中だけで終わらせず、その先の誰かへ渡すために、細い線を一本ずつ足していた。
絵葉書の表を見た。少女と同じところを気に入った写真だった。
白い床へ落ちる色も、飴の細かな光も、そのまま写っている。
青年は舟を写真の上へ戻し、指でそっと向きを変えた。
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らでんが顔を上げると、舟は山の写真の手前に置かれていた。
紙の上の飴と、紙の上に載った銀色。
印刷された光の隣で、本物の包みが光っている。
さっき売店で選んだ写真に、もう一つ、青年の置いたものが加わっていた。
「あ、そっち向きもいいですね」
青年が舟から手を離した。
「こっちから見て」
らでんは椅子を少しずらした。
山の低い裾と、舟の縁が重なる。
傾ければ離れ、また戻せば繋がった。
赤い包みも横へ置いてみたくなった。
袋に手をかけたところで止まる。
案内を一緒に入れたばかりだった。
青年は、袋とらでんの手を見ていた。
らでんは少し笑い、小袋の口を開いた。
赤い紙だけを出す。
舟には折らず、皺の残った面を、絵葉書の端へそっと置いた。
銀色の隣に、赤が映った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
綺麗なものを手元で見たい。その気持ちは同じだと思っていた。
けれど青年の舟は、もう山へ戻らない。
らでんはそれを綺麗だと思いながら、どこから来た銀色なのかを、まだ一緒に置いておきたかった。
風が吹いた。
赤い紙の端が持ち上がり、らでんが指で押さえた。
青年は舟の腹を軽く押さえた。ほとんど同時だった。
目が合い、二人で笑った。
青年が時計を見た。
「そろそろ行くよ」
「はい。私も、書いたら出ます」
らでんは赤い紙を引き取った。
青年は舟を指に載せ、内側の折り目をもう一度だけ確かめた。
形を潰さないよう、上着の胸ポケットへ収める。
絵葉書は別にしまった。
らでんは赤い紙を、名前の見える袋へ戻した。
「また、何かあるといいね」
青年が美術館の方へ目を向けた。
「この館、油断できないですね」
「また長居しそうだ」
「今回は、先に泊まることにしました」
青年が声を立てずに笑った。らでんも笑った。
片手が上がり、それから青年はテラスを出ていった。
ガラス越しに少しだけ姿が見え、売店の棚に隠れた。
今日も名前を聞かなかった。
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らでんは絵葉書へ目を戻した。
まだ書きたいことがあった。
飴が減ること。足されること。
足された後も、壁に書かれた一行は変わらなかったこと。
それを全部書くには狭かった。
少し考え、続きは手紙にすることにした。
図録で顔写真を見つけた頁も、忘れないうちにノートへ書き留める。
あの写真の男がどんな声で笑ったかは、まだ知らない。
青年が帰ってから舟をどこへ置くのかも知らない。
黒い皿に載せるだろうか。
それとも、もう別の置き方を思いついているだろうか。
舟の写真も、撮らせてもらえばよかった。
今さらそう思って、少し笑った。
ノートの余白へ、小さな舟を描く。
今度は取っ手にならなかった。
横へ、銀色の包みで作った、と書き足す。
山の裾の下手な絵とは、短い矢印で繋いだ。
自分が取った赤い方の記録も見直した。
味を書いた行の後へ、食べた場所を足す。
甘さはもう、ほとんど口に残っていなかった。
絵葉書には、案内に載っていた会期も写した。
会期の後に見返すかもしれないノートとは違う。
こちらは、まだ見られるうちに届いてほしかった。
小袋をその頁へ挟む。
赤い紙の片端が少し反って、午後の光を返した。
その下に、エリオの名前が読めた。
◇ ◇ ◇
【クルタ族の集落で百二十八人が殺害】
森に迷い込んだ旅行者の女性が、集落の住民百二十八人の遺体を発見した。
家族は互いに向かい合うように座らされ、全身に刃物の傷を負い、首を切断されていた。
遺体からは、両眼が持ち去られていた。
子供の傷も多く、親にその惨状を見せつけた可能性があるという。
現場には、次の言葉が残されていた。
『我々は何ものも拒まない。だから我々から何も奪うな』
参考とさせていただいたアート
Felix Gonzalez-Torres
"Untitled" (Portrait of Ross in L.A.),1991