死者の呪いというものがある。
墓を暴いた者に降りかかる災厄。遺品を手にした者に続く異変。死者との約束を違えた家に、代々伝わる禁忌。
古来、各地で記録されてきたこれらの現象は、長らく迷信や偶然として処理されていた。
念に関する研究が進んだ現在、その一部には、術者の死後も作用を続ける念の関与が認められている。
生前の強い意志によって残り、ときに死を契機として強まる念。それは、原因の特定後も除念が困難な場合がある。
なかでも、儀式や儀礼を伴う事例には注意を要する。
複数の者が役割を分担し、定められた手順を踏み、供物や犠牲を差し出す。その過程が念の成立条件を満たし、相互協力型の構造によって、個人では及ばない規模の作用を生む例が報告されている。
さらに死後の念が関与する場合、儀式を行う者と、その念を制御する者が一致しているとは限らない。
手順を進めている当人にも、中断する権限がない可能性がある。
儀式の意味を理解することと、それを止められることは、別である。
術者の死亡をもって、危険の終息を判断してはならない。
――ハンター協会『念災害調査資料・残留念と祭祀行為』より抜粋
記念館の受付カウンターの前で、らでんは肩に掛けた鞄から茶封筒を取り出した。
昨夜は宿の机の上でいくら白黒の写真を傾けてみても、写っていない横顔までは出てきてくれなくて、結局そぴあのノートに予想の線を引き合うところまでで終わった。
けれど、今日は違う。この扉の向こうには実物があるのだ。
すぐにでも展示室の方へ首を伸ばしたいのを堪えて封筒の口を緩めていると、受付の奥から黒髪の女性がひょいと顔を出した。
「おはよう。らでんさんたちだよね。どうぞ、こっちこっち」
大神ミオが、腕に抱えていた分厚い綴りを脇の机へ置いた。手招きされるままカウンターの横へ寄りながら、らでんも一番上の写真にすぐ指が掛かるよう封筒を持ち直す。
「町の文化振興財団で働いてて、ここの資料管理とか、地域との連絡を担当してるんだ。今日はよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。あの、早速なんですけど、昨日三人で写真を見てて、どうしても気になったものがあるんです」
逸る気持ちのまま展示室へ飛び込む前に、まずは写真に写っていた品々が今どこにあるのか、足場を確かめておきたかった。
古い写真と、記念館の公開一覧の写しを机の上に並べ、そのすぐ下へ制作資料の写しを一枚添える。昨夜のうちに宿の机で出す順番を揃えておいたおかげで、説明の途中で鞄の中を引っ掻き回さずに済んだ。
「まず、この二枚の写真に写ってる細長い彫刻って、同じ作品ですか? それから、こっちの作業台に並んでる道具も、今どこにあるのか確かめたくて」
「一覧に載ってる方は、今も展示室に出してるよ。古い写真は、元の台紙も出して一緒に見ようか。この写しだと、一番下が切れちゃってるね」
「そこ、私も気になってた」
横から身を乗り出したピヨンが、古い写真の切れた下端を指先でトントンと押さえた。昨夜、二枚の写真を重ねずに並べておいたのも、そぴあのノートに足元の続きを描き足せなかったのも、まさにその枠の外が分からなかったせいだ。
ミオはピヨンの指した裾の部分を確かめてから、下に添えた制作資料の頁へ視線を移した。
「この公開一覧は、主に完成した作品を載せてるんだよね。制作に使った道具は、また別に記録があるよ。館で預かってるものもあるし」
「あっ、じゃあ公開一覧に載ってないっていうだけじゃ、今どこにあるかはまだ分からないんですね」
「うん。ただ、この写真の卓上にあるどれが残ってるかまでは、実物や記録と見比べないと言えないかな」
「道具の記録も見せてもらっていい? この制作資料に書いてある『一まとまり』と写真の道具が同じものなのか、そっちからも追ってみたいんだよね」
「うん、用意してある分から見てもらえるよ。じゃあ、まずは展示室の作品の方へ行こっか」
道具の記録が別にあると分かっただけでも、朝の質問としては十分すぎる収穫だ。
らでんがいそいそと写真を重ね直していると、すぐ隣では、もうそぴあのノートがぱっと開かれていた。白い頁の隅には、昨夜二人で好き勝手に引いた予想の線がそのまま残っている。もし今朝になって綺麗に消しゴムで消されていたら、それはそれで少し寂しかったはずだ。
「あ、そのノートも持ってきてくれたんですね」
「答え合わせですからね。ちゃんと、らでんさんの描いた分もありますよ」
「よかった、消されてなくて」
「外れてても消しませんよ。そのすぐ横に、本当の形を描きます」
真面目な顔で鉛筆を構えるそぴあと、つい頬が緩むらでんの手元を覗き込んで、ミオも楽しそうに口元を綻ばせた。
「あ、どんな形か予想してきたんだ。じゃあ、うちから先に答えを言わない方がいいね」
ミオに案内されて展示室へ足を踏み入れた途端、らでんは手に持っていた写真をそのまま下ろしかけた。
高い窓から差す朝の光を受けて、部屋の真ん中にあの細長いブロンズの形がすっと立っている。
古い白黒写真では暗い影になって潰れていた中ほどの膨らみにも、実物ではくっきりと明るい縁が通っていて、その一部が思っていたよりずっと外へ張り出していた。張り出しの裏側は深い影になっている。写真で見たときは、てっきり金属の表面が少し荒れているだけなのだと思っていたのに。
このまま駆け寄れば、裏側も凹凸も一瞬で全部見える。けれど、昨夜あれだけ頭をひねった予想を確かめる前に、いきなり別の角度から答えを見てしまうのはあんまりにも惜しかった。
らでんはぐっと足を止め、胸の前で古い写真を持ち直した。最初はやっぱり、あの写真を撮った人とまったく同じ場所から見たい。
「こっちかな」
印画紙の上へ伸びる細い輪郭を、少し離れた実物の姿へ重ねてみる。左へ半歩ずれて、それからほんの少し後ろへ下がる。そのまま膝を曲げて腰を屈めると、少しずれていた二つの輪郭がぴたりと一本の線に収まった。
昨日から紙の向こうでずっと探していたカメラの立ち位置が、今、自分の靴の下に見つかったのだ。
「あった。ここです」
胸の前の写真をそっと下ろしても、目の前にはあの写真と寸分違わない細長い正面の姿が残っていた。上へ伸びる途中のわずかな膨らみも、縁の小さな折れ曲がりも、拡大すれば白黒の粒にぼやけてしまった印刷の向こうに、最初からこうして実物が立っていたのだ。
しかもここなら、紙の方を傾ける必要はない。続きが見たければ、自分の足を動かせばいい。
らでんは呼吸を整えて、右へ一歩踏み出した。
途端に、一本の線がすっと割れた。重なり合っていた細い二つの金属の間に、向こう側の白い壁が細長く覗く。下の方はまだ一本に重なっているのに、中ほどから上へ向かって明るい隙間が開いていく。
たまらずもう一歩横へ出ると、その白い隙間が途中でぐいと片側へ曲がっていくのが見えて、らでんは面白さに目を奪われたまま視線で後を追った。
「……へえ、こうやって開くんだ」
「らでんさん、そのままもうちょっと横、行ってみてください」
後ろから飛んできたそぴあの声に背中を押されて、らでんはさらにもう二歩、横へ回り込んだ。
すると、手前にあった細長い形にいきなりぐっと幅が出た。丸い棒のようなものだと思い込んでいた部分が、実は平たく薄い金属の帯になっていて、ゆるやかに身をよじりながら奥へねじれていく。正面の写真で小さな突起に見えていたのも、その帯が折れ曲がる縁の角だったのだ。
こんなに広い幅があったなんて。さっき正面に立っていたときは、この面積をいったいどこへ隠していたのだろう。
「あー、そぴあの予想、やっぱり違ってました」
「え、もう答え出ちゃいました?」
「昨日から、ちょっと怪しいなとは思ってたんですけどね。こっちを丸い棒みたいに描いちゃったんで」
そぴあが向けてくれたノートと、目の前のねじれた帯を交互に見比べる。確かに、ノートの上の一本は丸い線のまま逆向きに曲がっていた。昨夜あれだけ二人で写真を睨みつけたのに、いざ横へ回ってみればこんなふうに裏切られる。そうなると、自分が余白に描き足した方の線まで急に怪しく思えてきて、らでんはそぴあの手元を覗き込んだ。
「でも、らでんさんのは結構近いですよ。下の、この曲がり方とか」
「本当ですか? 上の方はどうです?」
「そっちは……こっちから見ると、たぶん違いますね」
「ちょっと、そこは一緒に外しましょうよ」
「だから、こっち来て見てくださいって」
笑うそぴあからノートを受け取り、らでんはそぴあが立っていた位置へ入れ替わるように回った。自分の引いた線がどこで実物と合わなくなるのか、この目でちゃんと見届けておきたい。
そこから見上げると、奥のもう一本は、手前の帯ほどには幅が広がっていなかった。ほっそりしたまま後ろへ反り返って、一番上の先端にだけ、スパッと斜めに切り落としたような平らな面がある。らでんが余白に描き足した予想の線とは、中ほどから上がまるで違っていた。
公開一覧の写真で二本に分かれているのを見つけただけで満足してしまって、その二本がそれぞれどんな形をしているかまでは、まだちっとも見えていなかったのだ。
「ああ、なるほど。奥のこっちは、そんなに幅が広がらないんですね」
「二本とも同じ形にしちゃうと、さっき見えたみたいな曲がった隙間にはならないんだ」
「横から見たら二本あるんだ、って分かったところで、もうすっかり分かったつもりになっちゃってました」
「私もです。二本あるなら、ただ二本の線を描けばいいと思ってた」
らでんがノートを返すと、白い頁の上でそぴあの鉛筆がさらさらと動き始めた。昨夜引いた細い線のすぐ隣に、ねじれた帯の幅を持つ新しい形が描き足されていく。
そぴあが実物を見上げて鉛筆を止めるたび、らでんの目も自然と彫刻の同じ場所へ引き寄せられた。
奥の一本の上端にある、小さな平らな面。正面から見たときはただ鋭く尖っているようにしか見えなかった先端が、この角度では窓からの光をまともに受けて白く光っている。下から細い反りを辿ってきた視線が、その明るい面でふと留まる。
もしここが光を受け止める面なのだとしたら、窓と反対側の陰になる方から見上げたら、いったいどんな表情に見えるのだろう。
「これ、反対側から見たら先端は暗いんですかね」
「行ってみます?」
「はい、見たいです」
二人揃って彫刻の反対側へ回り込もうとしたその足を、低いところから響いたピヨンの声が止めた。
「二人とも、ちょっと下も見てみて」
振り返ると、ピヨンは展示台のすぐ脇で膝を折ってしゃがみ込んでいた。
らでんたちが夢中で追い掛けていた細長い二本の根元に、低くうずくまるような金属の塊が広がっている。上に細長いものが立っているのだから、当然その重さを支える土台が下にある。そのくらいの当たり前のつもりで、さっきから視線が素通りしてしまっていた場所だった。
ピヨンの隣へ並んでしゃがみ込むと、低い塊の真ん中は浅く窪んでいて、奥側の縁だけが波のように少し持ち上がっていた。すぐ目の前まで近づいていたのに、こんな足元の形はまだ半分も見ていなかった。
「ほら、二本の根元がこっちと奥にずれてるんだよね。古い写真だと、同じ場所から一緒に立ってるように見えたけど」
作品には指を触れないまま、ピヨンが手前と奥の根元を順番に示す。その指先を目で辿ると、細長い二つの形はそもそも最初から別々の場所から生えていた。中ほどで隙間が開くよりずっと前に、この低い足元の時点でもう前後にずれているのだ。
これは根元から全部追い直さなければ、と身を乗り出したところへ、反対側からそぴあもしゃがみ込んできた。
「ほんとだ。こっちの根元、隙間から向こう側が見えますね」
「この窪みの縁、途中からすごく薄くなってるんですね。……上から立ったまま見てたときは、下が全部詰まってる塊だと思ってました」
「ね。古い写真、この足元までちゃんと入れてほしかったなあ」
ピヨンが掲げてみせた古い写真の写しは、ちょうどその根元が前後にずれるすぐ上のあたりでぷつりと切れていた。昨夜はこの一枚と公開一覧を見比べただけでずいぶん分かった気になったのに、実物の足元を知ってしまった今では、印画紙の下へ紙を継ぎ足して続きを描き込みたくて仕方がない。
「写真を撮った人は、上の細長いところを見せたかったんですかね」
「かもね。でも、私はこの下も欲しい」
「らでんも欲しいです」
三人で展示台の脇に固まっていると、ミオもすぐ近くへやって来て同じように膝を屈めた。せっかく案内してくれている人を待たせる格好になってしまったかと、らでんは少し慌てて顔を上げた。
「ここへ見に来る地元の子どもたちも、よくそうやってしゃがんで見てるよ。上の細いところより、こっちの足元を大きく描く子もいるんだよね」
「え、この低い足元をですか?」
「うん、展示室の絵を描くときにね。うちはいつも立ったまま見てるから、なんでわざわざそこを選んだんだろうって不思議に思うんだけど」
ここへ来た子どもたちが画用紙いっぱいに描きたくなったのは、どんな形だったのだろう。らでんはしゃがんだまま、もう一段ぐっと顔を低くして下から覗き込んだ。
すると、浅い窪みのすぐ向こうに、すっと細い朝の光が通った。重たく固まった金属の土台だと思っていたすぐ下にも、向こう側の明るさを覗き込める小さな空間が抜けていたのだ。
しかも、その低い位置からそのまま視線を上へ滑らせると、二本の細長い金属が、立ったまま見ていたときより何倍も高く、天井へ向かって伸びていくように見えた。
なるほど、この足元の塊をどんと大きく描けば、そこから一気に見上げたときのこの伸びやかな高さまで一緒に絵の中へ残せるかもしれない。
「……ああ、これ、ここから見たら絶対描きたくなりますね」
「なるでしょ」
すぐ隣から、ミオも同じ角度で窪みの向こうを覗き込んでいる。気がつけば、大人四人が揃いも揃って展示台の低いところへ頭を寄せてしゃがみ込んでいた。
昨夜、宿で弁当を食べながら「三人で止まる」なんて冗談を言っていたけれど、案内役のミオまで一緒に足を止めてしゃがみ込んでしまったら、いよいよこの展示室から先へ進めなくなる。らでんはおかしくなって、つい声を上げて笑ってしまった。
「ふふ。ミオさんも、一緒に足が止まっちゃう方なんですね」
「普段はうち、ここで来館者に説明する側だからさ。たまにはこうやって、同じ高さで一緒に見るのもいいね」
「あっ、ミオさんの説明を聞いてないわけじゃないですよ。つい、こっちの足元に夢中になっちゃって」
「大丈夫だよ。三人がすごくよく見てくれてるの、見てれば分かるから」
ミオが嬉しそうに目を細めるので、らでんも安心してお礼を言い、膝を伸ばして立ち上がった。
元の高さに戻ってから、もう一度だけ、足元の前後のずれから一番上の先端までを順番に目で辿り直す。最初はただ頼りないほど細いと思っていた中ほどのくびれまで、下のどっしりした広がりが力強く繋がっている。どこからどんなふうに生えているかを知っただけで、さっきと同じ細さがまるで違って見えるのだから不思議だった。
そうして今度こそ、さっき行きかけた窓と反対側へ回り込んだ。
一番上の斜めの面は、予想したとおり陰になって暗く沈んでいる。けれど、そこから視線を少し下げたところで、らでんは思わず目を凝らした。暗い金属肌の上に、浅く引っ掻いたような溝がいくつも並んでいる。さっきの明るい窓側では、こんな筋を見た覚えがなかった。
「そぴあさん、ちょっとここ見てください。これ、さっきの側からも見えてました?」
「え、どこです?」
「この中ほどの辺りです。細い線が三つくらい並んでるでしょ。古い写真だと、ただの一つの黒い点にしか見えなかったところなんですけど」
呼ばれたそぴあが、らでんと同じ高さへすっと顔を寄せてきた。
斜め後ろから回り込むわずかな光を受けて、浅い溝の縁だけに細い照りがあり、その底は一本ずつ暗い影になっている。しかも、そのすぐ隣の面は指かへらで浅く押し広げたように滑らかで、さらにその隣はざらざらと細かく粒立っていた。
昨日、宿で写真を拡大したときは、これらを全部ひとまとめにして「表面が粗い肌」と呼んでいたのが、急に申し訳なくなるほどもったいない。直接手を触れなくたって、立つ場所を選ぶだけでこれだけたくさんの違いが浮かび上がってくるのに。
「ただの穴じゃなかったんですね」
「ええ、写真だと結構深く窪んでる穴なのかなと思ってました。でもこっちから見ると、むしろ溝の周りの方がぷっくり盛り上がってるのが分かりますね」
「……あの、もう一回だけ、ちょっと横から見てみてもいいですか」
そぴあの提案に頷いて、二人で肩を並べたまま半歩横へ動いた。
すると、三本の溝の底は暗いままなのに、さっきまでくっきり光っていた縁の照りだけがふっと消え、すぐ隣の盛り上がりの方が明るく浮き上がった。
人間の目は正直なもので、どうしても明るく光っている方へ先に引っ張られる。らでんは意識して目を細め、もう一度同じ溝の底を探した。
「あれ、ここからだと、さっきより隣の盛り上がりの方がずっと高く見えました。金属の形はちっとも変わってないのに」
「光ってるところを、つい出っ張りの一番高い頂点だと思っちゃいますね」
「昨日の古い写真も、まさにこれがありそうですね。らでんさんが予想で描いてた途中の膨らみも、もし今の光の当たり方で写真を撮ってたら、もっと大げさに大きく描いちゃってたかも」
自分でも確かめたくなって、らでんは手元の古い写真へ目を落とした。
昨夜は「写っていない裏側さえ見られれば」とばかり思っていたけれど、ちゃんと正面から写っているはずのこちら側だって、こんな調子だったのだ。黒く潰れているところを深い穴だと思い込み、白く光っているところを一番高い出っ張りに変換して、ずいぶんと自分の頭に分かりやすい形へ勝手に作り直して見ていたらしい。
目を上げれば、実物のブロンズには、今また別の小さな縁の折れが見つかった。事前の予想が外れた分だけ、次に見たい場所がどんどん増えていく。
「らでんさん、こういう表面の細かい肌って、どうやって残すんですか? 金属になってから刃物で削るんですかね」
そぴあの問いかけに、らでんは溝の凹凸から展示台の隅にある小さな表示札へ視線を移した。材質はブロンズとある。鋳造されて金属になったあとの表面だけをいくら睨んでいても、この三本の溝をつけたときの手の動きまでは決められない。
「金属になる前の段階で、もうこうなってたのかもしれません。ブロンズを鋳造するときって、元の原型の細かい凹凸までそのまま写し取れるんですよ」
「あっ、じゃあ、その元の原型の方も見たいですね!」
「ね、見たいですよね。この三本の溝も、いつの段階で付いたのか制作中の写真で追えたら絶対面白いんですけど」
「線の答え合わせをしに来たはずなのに、また見たいものが増えちゃいましたね」
「とても一周じゃ終われませんね、これ」
そぴあがノートを開き直し、新しく描いた幅のある線画の上へ、鉛筆の腹を寝かせてさらさらと影をつけ始めた。その黒鉛の濃淡を横から覗き込みながら、らでんも実物の暗い溝へ目を戻す。
今描いているこの新しい絵にだって、また別の角度へ回れば合うところと合わないところが出てくるはずだ。それを消さずに何枚も並べておくのも、きっと楽しいに違いない。
「制作中の写真なら、奥の資料の部屋にあるよ」
二人で影のつき方を確かめているところへ、ミオが声を掛けてくれた。
「さっき言ってた道具の記録も、そっちの部屋で一緒に見ようか」
「はい! ……あっ、でもその前に、もう一回だけ、一番最初の場所から見ていってもいいですか」
「あ、それならそぴあも見たいです」
「じゃあ、私も上のところをもう一回見ていこうかな」
ピヨンは言いながら、もう一足先に、らでんが最初に立った正面の位置へ戻っていた。らでんも急いでその横へ並び、そぴあも反対側から覗き込む。今度は胸の前に写真を掲げて測らなくても、どこに立てばいいかすぐに分かった。
少し腰を屈めると、開いていた白い隙間がすっと閉じて、二つの形がまた細い一本の線に重なった。
それなのに、もう最初見たときのような頼りない一本の線にはどうしても見えなかった。手前の細い輪郭の裏にはねじれた帯の広い幅が隠れていることも、足元の塊が前後にずれて向こうへ光を通していることも、今のらでんは全部知っている。一番最初にここで足を止めたとき、自分はいったい何を見ていたのだろうと、さっきの浅い予想図をもう一度見返したくなった。
「不思議ですね。さっきとまったく同じ場所から見てるのに、なんだかずっと奥行きと厚みがある気がします」
「見えてない裏側がどうなってるか、もう知ってますもんね」
隣でそぴあが満足そうにパタンとノートを閉じるまで、らでんもその場から足元の窪みと上端の重なりを眺め直していた。
完成した形はたっぷり目に焼き付けた。となれば次は、いよいよこれを人の手が作っているところが見たい。らでんは古い写真を大切に茶封筒へ戻し、ミオの背中を追って資料の部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
資料室の広い机には、ミオが用意しておいてくれた写真の綴りと、保管記録のファイルが並んでいた。
らでんたちは椅子を引く前に、まず受付で出した一番最初の問いへ立ち返った。ミオが書庫から出してくれた古い写真の元の台紙には、記念館の公開一覧にあるのとまったく同じ作品名が記されている。
しかも、台紙に貼られたオリジナルの写真では下の切れていた部分がもう少しだけ残っていて、上端の斜めの面や中ほどの張り出し具合も、ついさっき展示室で周囲をぐるぐる歩いて確かめてきた実物の特徴とぴたりと一致していた。
あの張り出しの裏側がどうねじれているかまで自分の目で見てきた直後なので、ただ台紙の文字だけを頼りに「同じ作品だ」と頷くより何倍も腑に落ちる。らでんはようやく納得して、並べていた写真の端から指を離した。
「うん、これで彫刻の方は、二枚とも同じ作品ってことでよさそうですね」
「じゃあ、こっちの控えにも、どの台紙とどの記録を突き合わせたか書いておくね」
ピヨンが手際よく二枚の写しの余白に参照元の番号を書き添える。その頼もしいペン先を横目に見ながら、らでんは待ちきれずに隣の制作写真の頁を開いた。
白黒の写真の中で、まだ金属になる前の白い原型に、一人の男がぐっと身を寄せていた。
髪を無造作に後ろへ撫でつけ、頬に深い皺が刻まれている。横からミオに「それがセザールだよ」と教えてもらっても、らでんの目が真っ先に吸い寄せられたのは、男の顔ではなく、白い原型の面へ斜めに当てられた手元の道具の方だった。
すぐ隣に貼られた別の写真では、細長く立ち上がった白い原型の足元に、削り落とされた白い屑が点々と散らばっている。あのまだ柔らかい面から、どんな順番で何を削り取り、何を最後まで残したのか。展示室で完成したブロンズを見たあとでは、この作りかけの白い姿まで隅々まで覗き込みたくなる。
「この白いのが、鋳造する前の石膏の原型だよ。制作中の写真は、こっちの頁にもまだある」
ミオが開いてくれた隣の頁へ、らでんはそぴあと頭をぶつけそうになりながら顔を寄せた。展示室の反対側で見つけたあの細かい肌の凹凸が、この白い石膏の段階でもう写っていないか、目を皿のようにして探す。
「あっ、見てください。この張り出しの縁、もうこの石膏のときから少し粗いんですね」
「ほんとですね。金属になってから、あとで全部削り出したわけじゃなさそう」
「さっきの三本の溝もあるかな……あー、この写真の引き具合だと、ちょっと小さすぎて潰れちゃってますね」
「でも、石膏の原型のときにどんな面だったかは、これでかなり追えますね。あとで、別の角度から撮った制作写真も全部並べてみません?」
そぴあが楽しそうに言いかけたところで、白い原型の上を辿っていたその指先がふと止まった。らでんもつられて、そぴあの爪の先が示す場所へ目を凝らす。
「あ、らでんさん、これ見てください。セザールさんの反対側の手、細いところの裏へ回ってますよ」
言われて見直すと、道具を持った手とは反対の左手が、細長く伸びた石膏の裏側へぐるりと回り込んでいた。正面の写真からは陰になって見えにくい奥の面へ、長い指と、もう一本の小さな道具の先が確かに届いている。
ついさっき展示室で、らでんとそぴあが首を傾げながら横へ回り込んでようやく見つけた、あのねじれた帯の裏側だ。
完成したあと、誰かが正面だけでなく横や裏まで回り込んで覗き込むことを知りながら、あの狭い隙間の奥へ手を入れて面を作っていた人がいる。どう作ったかを知ればあの形の理由がもっと分かるかもしれないし、形をもっとよく見れば、この人の手の仕事が分かるかもしれない。
そう思ったら、写真の隅の作業台に無造作に置かれた道具を、ただの背景として通り過ぎることなどとてもできなくなった。
「ミオさん、預かってるっていう道具の方も見せてもらえますか? このとき、どの道具のどの部分を使ってたのか、すごく気になってきちゃって」
「うん、いいよ。今、箱を出すね」
ミオが棚の方へ立ちかけたとき、資料室の窓の外から「ミオさーん!」と明るい声が掛かって、らでんも思わずそちらへ振り向いた。
窓の向こうの通路を、作業着姿の町の人が二人、横長の大きな木枠の看板を抱えて運んでいる。明後日行われるという町の祭りの案内看板らしい。
その白い看板の隅っこに、小さくシルエットで刷られた細長い絵が目に入って、らでんは「あ」と声を漏らした。さっきまで展示室でその周りを散々歩き回っていた、あの彫刻の横顔だ。
一度実物の幅を知ってしまった目で見ると、そんな小さな印刷の影にさえ、手前の帯がぐっと広がるところがちゃんと表現されているのが分かる。記念館の展示室の中だけで大事にされている形ではないのだな、と嬉しくなって、看板が運ばれていく先まで目で追った。
「ミオさん、これ、外の壁に立てかけちゃっていい?」
「あ、それまだ下の脚がついてないから、そっちの敷物の上に寝かせておいて! 括るための紐の箱は、すぐそこの軒下にあるよ」
ミオが手早く窓を開けて軒下の敷物を指差すと、外の二人は「りょうかい」と息を合わせて看板をゆっくり地面へ寝かせた。らでんは看板の角がぶつからずに落ち着くのを窓越しに見届けてから、机の上の写真へ視線を戻した。
「ミオさん、今年も神社の方、出るんだよね?」
「うん。明後日の本番はそっち。だから、こっちの館の準備はそれまでに全部済ませるよ」
賑やかな外の足音が遠ざかっていくのを見送って、ミオは窓を少しだけ閉めてこちらへ振り向いた。
「明後日のお祭りの日はね、財団の仕事とは別なんだけど、地元の神社で巫女さんのお手伝いをしてるんだ」
「あっ、そうなんですか! じゃあ、記念館の方の展示や案内を準備して、当日は神社の方もなんですね」
「そうそう。今はまだ外も看板や資材ばっかりだけど、お祭りの当日は町中から人がいっぱい来るからね。らでんさんたち三人も、仕事の合間に時間ができたら、よかったら見に来てよ」
昨日、宿へ向かう橋のたもとで見た束ねられた飾りや色紙は、明後日のその神社のためのものだったらしい。当日はあの川沿いの道がどんなふうに彩られるのだろう。らでんが楽しみで頷いている間も、少し開いた窓の隙間からは「あれ、紐の端っこ、こっちじゃない?」と箱を探る長閑な声が風に乗って聞こえていた。
「ミオさん、今の外の看板にも、さっきの彫刻の絵が載ってるんですね」
「うん。町のお店に置いてある案内チラシにもよく載ってるよ。こっちの人は、長い作品名で呼ぶより『あの細いの』って言う方がすぐ通じたりするんだけどね」
「ああ、なんだか分かる気がします。でも、細いなって思って近くまで見に行ったら、全然細いだけじゃなかったです」
「ふふ、そう言ってもらえると、ここで管理してるうちも嬉しいよ」
言いながらミオが机の脇の棚から運んできてくれた浅い保存箱には、緩衝用の柔らかな支持材の上に、形も大きさも違う制作道具がいくつも並べて収まっていた。
細長い棒のようなものもあれば、先端が平たく広がったものもある。さっきの写真で、白い石膏の原型に斜めに当てられていたあの一本が、この箱の中に眠っているかもしれない。らでんは胸を躍らせながら、古い写真の作業台と、目の前の保存箱の中身を交互に見比べた。
何本目かで、木の柄の先に薄い金属の刃を継いだ一本のへらで、らでんの目がぴたりと止まった。
使い込まれた木の柄の側面に、横方向の細い割れ目が走っていて、その端を留めるように薄い金属の帯がぐるりと巻かれている。そして、その金属帯のすぐ隣だけ、木の色が黒っぽく濃くなっていた。
昨夜、宿の机で古い写真を覗き込みながら、ピヨンやそぴあと「汚れか、傷か、影か」と話していたあの小さな黒い箇所も、ちょうどこんな位置の並びではなかったか。
「あっ、これじゃないですか? 写真のこの一本に、すごく似てますよね」
らでんが古い写真の作業台にある黒い箇所を指差すと、ミオが箱の中のへらを、下の支持材ごと机の明るい方へそっと寄せてくれた。直接へらを掴んで持ち上げたりせず、支えごと動かしてくれる手つきに安心しながら、らでんは似ていると思った部分を一つずつ食い入るように見直した。
「あ、ほんとだ。昨日らでんさんが言ってた窪みも、ちょうどここにありますね」
隣からそぴあも顔を寄せてきた。らでんは、そぴあが見ている柄の割れ目あたりと、古い写真の黒い染みのような部分を慎重に見比べる。
「ええ、ちゃんと窪んでますね。……でも、写真の方で黒く写ってるところが、全部この木の割れ目なのかどうかは、まだこれだけじゃ分からないですね」
「あ、そうですね。巻いてある金属の帯の影も、写真だと重なって黒く見えちゃいそうです。こっちの角度から見ると、ほら」
そぴあに言われて少し頭の位置をずらすと、金属の帯の下に落ちた細長い影が、木の割れ目の暗い線とぴたりと一つに繋がって見えた。
ついさっき展示室の彫刻で、光と影に騙されて凹凸を見間違えかけたばかりだというのに、場所が資料室に変わった途端、へらの柄でもまた黒いところを全部ひとまとめに読もうとしていたらしい。写真とよく似た一本が目の前に出てきてくれたからといって、嬉しさのあまり「これとこれは同じ物だ」と飛びつくわけにはいかなかった。
「作業台をもっと大きく撮った別の写真があれば、この金属の帯の端っこがどこにあるかも比べられそうなんですけどね」
「あと、このへらの先端ってどうなってるんでしょう。見えてる表だけじゃなくて、裏側の反り方もちゃんとノートに描いておきたいです」
そぴあがさっそく新しい頁を開いてへらの形をスケッチし始めたので、らでんは邪魔にならないよう写真の綴りを少し横へずらして場所を空けた。
その反対側では、ピヨンが古い制作資料の写しと、記念館の現在の受入控えを並べて見比べている。
「うーん、今の館の記録を見ても、『制作道具一式をまとめて受け取った』っていう書き方なんだね。この頁には、一本ずつの詳しい内訳までは書いてないみたい」
「それは旧制作施設からこっちの記念館へ荷物を移したときの控えなんだけど、実はそれより前の記録がね、まだ全部は繋がってないんだよね」
ミオが申し訳なさそうに控えの綴りを押さえた。
目の前の箱に、こうして古いへらがあるのは間違いない。けれど、制作資料にある「一まとまりの道具」という記載と、今ここにある保存箱の中身を、記録の裏付けなしに最初からまったく同じ顔ぶれだと決めつけることはできない。
もし、この特徴的なへら一本だけでも写真や移送時の記録と確実に繋げることができれば、そこから前後の来歴をたぐり寄せられるかもしれないのだ。
らでんはもう一度、支持材の上のへらへ視線を戻した。
木の柄の側面は長年の使用で角がすっかり丸くなり、補修で巻かれた金属帯のすぐ脇だけがわずかに盛り上がっている。ここを親指と人差し指で握り込んだら、ちょうど指の腹にその段差が当たったのではないだろうか。
写真を見ていたときは石膏を削る先端ばかり気にしていたのに、実物を前にすると、どうしてもそれを握っていた手の感触の方が気になってくる。
「ミオさん、このへらの柄のところ、少しだけ指で触って確かめてみてもいいですか? 持ち上げないで、この支えに載せたままにしておくので」
「うん、それならいいよ。木が割れてるところだけは避けてね」
「あ、ミオさん。この受入控えの元になった古い綴りも、もしあったら見せてもらっていい? 記念館で受け入れる前に、旧施設のどこでどんなふうに保管してたのかも追ってみたいんだけど」
ピヨンの頼みに、ミオが机の上のファイルを確かめてから顔を上げた。
「それなら奥の書庫の方にあるね。ちょっと探して持ってくるよ。旧施設から移したときに撮った箱の写真も、確か一緒にあるはずだから見てくるね」
ミオが軽く手を上げて資料室を出ていき、後ろで木製の扉がパタンと閉まった。
廊下を遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、らでんは向かいの二人にだけ届くよう、すっと声を落とした。外形のスケッチや紙の記録だけではどうしても届かない部分を、自分の能力なら、ほんの少しだけ拾えるかもしれない。
「……じゃあ、ミオさんが戻る前に、少しだけ読んでみますね」
「うん」
ピヨンが綴りから顔を上げて頷き、隣のそぴあもスケッチしていた鉛筆を静かに机へ置いた。
らでんはもう一度、支持材の上のへらの状態を確かめる。ミオに言われたとおり、細く割れている箇所や金属帯の縁から十分離れた、丸く滑らかな木の柄の腹に、人差し指と中指の腹をそっと添えた。無理に持ち上げて負荷をかける必要はない。支えの上に載せたまま、指先に伝わる乾いた木の温度へ静かに意識を沈めていく。
《
人が触れ、使い続けた品物が経験した過去の断片を、集中とオーラの操作で掬い上げる第一の発だ。あの白い石膏の向こう側へ手を回していた人は、この柄をどんな手つきで握っていたのだろう。
――――――
白い粉の散った作業台が見えた。
擦れた袖が視界の端を横切る。向こうにいた男が手を止め、顔をこちらへ向けた。後ろへ撫でつけた髪。頬の深い線。
目が合った。
「この道具から、私の声を聞いているのなら」
「君に、見てもらいたいものがある」
――――――
らでんは反射的に発を切った。
はっと息を呑んだ瞬間、指先には今の資料室の、冷たく乾いた木の柄の感触が戻っていた。すぐ向かいにはそぴあの開いたノートがある。その上に、心配そうにこちらを覗き込むそぴあの顔がある。隣では、ピヨンの手が控えの綴りの上でぴたりと止まっていた。
目の前にある広い机の縁を自分の目で確かめてからでなければ、喉からうまく声が出てこなかった。
「らでん?」
ピヨンの落ち着いた声に、らでんは浅く息を吸った。
さっき耳の奥に響いた言葉を口にするより先に、まず自分が何にこれほど驚いたのかを、正確に二人に伝えなければいけない。
「……すみません、ちょっと驚きました」
「何が見えた?」
「作業台みたいなところに、白い石膏みたいな粉が散ってて……その向こうに、男の人がいたんです。顔が、さっき制作写真で見たセザール氏によく似てました」
言いながら、らでんはへらの柄からそっと指を離した。へらは最初から柔らかな支持材の上に載ったままで、一ミリも動いていない。らでんはその静かな道具を見下ろしながら、今しがた聞こえた言葉の続きを慎重に口にした。
「それで、その人から声も聞こえたんです。この道具を通して自分の声を聞いてる相手に、見せたいものがある、って」
「え……それ、あなたに言ったの?」
ピヨンに問い返されて、らでんは反射的に頷きかけ、すぐ首を止めた。
目が合った瞬間は、間違いなく今の自分へ向けられた言葉だと思った。けれど、自分がそう感じたということと、実際に起きた事実とは、絶対に混ぜてはいけない。
「いえ、私の名前は呼ばれてないです。今の私が心の中で考えた質問に答えたわけでもないですし。ただ、作業の手を止めて真っ直ぐこっちに顔を向けたので……まるで今のらでんに話しかけてるように感じたんです」
古い道具の隙間から、過去の作業風景をこちらが一方的に覗き込んでいたはずだった。それなのに、その記憶の向こう側からいきなり真っ直ぐこちらを見返された。そう感じた途端、背筋がぞくりとして、自分の意思で能力を切って引き返していたのだ。
らでんは鞄から自分の記録ノートを引き寄せ、ペンを執った。
まず、見えた作業台と白い粉、後ろへ髪を撫でつけた男の顔を書く。その下に、聞こえたとおりの二つの文を一字一句違えずに書き留めた。
そして一行きっちり空白を空けてから、『こちらと目が合い、自分へ向けられたように感じた』という自分自身の感覚を別の欄として書き足す。どちらも今のらでんにとっては嘘のない感覚だったけれど、同じ一つの事実の欄にはどうしても書けなかった。
「聞こえた言葉は、この二つだけです。……下の『らでんに向けて』っていう方は、あくまで読んだ私がそう感じた、っていうだけですね」
「うん。そこは、まだ今の段階で決めつけないでおこうか」
横からノートを覗き込んだピヨンが、区切られた二段のメモを見て静かに頷いた。今はまだ決めなくていい。その一言で、らでんも少し強張っていた肩を落とし、自分が書き留めた二つの文をもう一度落ち着いて見返すことができた。
「あの、隣にいた私には、声は全然聞こえなかったです。らでんさんが急にぱっと顔を上げたから、何か見えたのかな、とは思ったんですけど」
「らでん、今は何も見えたり聞こえたりしてない?」
ピヨンの確認に、らでんはへらから離した自分の指先と、朝の光が差す机の上をもう一度見渡した。
「いえ、今は何も。自分で読むのを止めてからは、声も景色も何もないです」
少し開いた窓から聞こえてくるのは、外で祭りの準備をしている町の人たちの明るい声だけだ。この資料室にいるのも、ピヨンと、そぴあと、自分自身の三人しかいない。
不意に目が合ったように感じた瞬間は、確かに怖かった。けれど、自分がびっくりして怖かったからというだけの理由で、あの記憶の中の人が何を思い、何をしようとしていたのかまで悪い方へ決めつけたくはなかった。あれはいつの時点で、いったい誰に向けて残された言葉なのか。そこは、まだ何一つ調べていないのだ。
「どうする? もう一度読んでみる?」
「いえ、もう一度同じ柄を読んでも、さっきと同じ場面や続きが出るとは限らないんですよね。それよりまずは、このへらがどうやってあの作業台からここまで来たのか、外の記録から確かめたいです」
らでんが答えると、ピヨンは納得したように現在の受入控えを手前へ引き寄せた。らでんも、隣に広げたままの制作写真の綴りへ視線を戻す。もう一度すぐにあの声のする暗がりへ手を伸ばさなくても、今の自分たちの目で確かめられることは、この机の上にまだたくさん残っていた。
「この現在の控えだけだと、記念館へ移す前に誰がどう持ってたのかまでは分からないね。今ミオさんが書庫から持ってくる古い綴りで、その間まで戻れるといいんだけど」
「制作中の写真も、もう少し詳しく見せてもらおうかな。さっき見えた男の人の顔が本当にセザール氏本人だったのか、他の写真とも見比べて確かめたいです」
「じゃあ、私は先にこっちのへらの図を仕上げておきますね。この柄の割れ目、もしかすると見えてない反対側まで続いてるかもしれないんで」
そぴあが、描きかけのスケッチの頁をこちらへ少し向けてくれた。柄に巻かれた金属帯の端っこに、小さな目印の線が描き込まれている。もし制作写真の中からこのへらを探し出すなら、漫然と黒い部分を見るのではなく、この帯の端の形と割れ目の位置関係を追えばいい。そぴあの図のおかげで、らでんにも次に写真の中で探すべき場所がはっきりと見えた。
「らでんさん、制作写真を見てて、もしこの帯の端っこが写ってるのがあったら教えてもらえます?」
「はい、探してみます。そぴあさんも、へらの裏側の形が分かったら私に見せてくださいね」
「もちろん。そうしたら、写真と現物の両方から見比べられますね」
らでんは、さっきの記憶と二つの文を書き留めた自分のノートをいったん閉じて脇へ置き、代わりに制作写真の綴りを二人の真ん中へ大きく広げ直した。
目の前にあるへらの実際の形と、古い制作写真に写り込んだ道具、そして旧施設から受け入れたときの記録。あの記憶の中の言葉が示す先へ進むかどうかを決める前に、まずこの机の上で揃えられる証拠を全部揃えておきたい。
そのとき、資料室の扉がノックとともに開き、ミオが分厚い綴りを両腕に抱えて戻ってきた。
「お待たせ! 移したときの箱の写真もやっぱりあったよ。こっちに置くね」
「ありがとうございます、ミオさん。さっきの制作中の写真と、順番に並べて見比べてみてもいいですか」
机の空いた場所へ置かれた古い綴りに、らでんはさっそく手を伸ばした。窓の外からは、寝かせた看板にいよいよ脚を取り付け始めたのか、トントンと乾いた木槌の音が一定のリズムで響き始めている。
「らでんさん、そっちの箱の写真も、ノートのすぐ横に並べてもらっていいですか?」
「もちろん」
らでんはそぴあのノートのすぐ隣に写真一枚分のスペースを作り、ミオが持ってきてくれた移送時の箱の写真を並べて置いた。
白い石膏の原型へ伸びていたあの手と、作業台の傍らに置かれた道具。能力を使うついさっきまでは、ただあの面をどうやって削ったのかという使い方ばかりが見たかった。けれど今は、あの写真の手が握っていた一本が、本当に今目の前にあるこのへらと同じ物なのかどうかを、何より先に自分の目で突き止めたい。
らでんは写真の端を両手でそっと押さえ、まずは一番手掛かりになる木の柄の形から順番に見比べ始めた。
ゴシカ・シティ編、最後までお付き合いいただきありがとうございました! さて、十老頭入りを果たした桐生組。となれば、気になるのは、その武力を担う念能力者集団――《陰獣》です。 皆さんは、誰に陰獣の一員として登場・活躍してほしいですか? 今後の構想の参考にさせていただきます!
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桐生組直参 天音かなた
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桐生組直参 角巻わため
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ゴシカでは掃除屋が陰獣を兼ねるしきたり
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その他新規で別のホロメン