儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

45 / 55
第三十話 カエラ・コヴァルスキアと、鋼の雪玉

 昼食を挟んでも、あのへらのことがずっと頭に残っていた。

 午前に柄から聞こえた声は、もちろん気になる。けれど、その声の先へ気を回す前に、目の前にあるへらそのものについて確かめられることがまだ残っているはずだ。

 らでんは資料室へ戻ると、食事へ出る前にいったん伏せておいた制作写真を表へ返し、ミオが書庫から持ってきてくれた移送時の箱の写真をそのすぐ隣へ並べた。窓から差す午後の光は、午前中よりずっと長く机の反対側まで伸びている。

 向かいではピヨンも、午前中にミオが運んでくれた受入綴りをぱっと開いた。さっきの記憶を書き留めた自分のノートは、まだ鞄の中にしまっておく。まずは、古い写真の中に写っている一本と、今この机の上にある一本を、同じ物だとしっかりつなげたい。

 

「まずは、このへらですね。制作中の写真に写ってるのと、今ここにあるのが同じ一本なのか、確かめてみましょうか」

「うん。写真の一本がどうやってここまで来たのか、順番につないでみよう」

 

 旧制作施設からこの記念館へ荷物を運んだときの記録には、一箱にまとめた道具の数と、運び出した場所までは書いてあった。けれど、肝心の一本ずつの名前や特徴までは載っていない。

 らでんは箱詰めされたときの写真を手元へ引き寄せた。書類の数だけでは選べなくても、実物の木の柄には横方向の割れ目があり、そこを留めるように金属の帯が巻かれている。

 すると隣から、そぴあが午前中に描いたへらの図をすっと差し入れてくれた。写真の小さな柄と支持材の上の現物を、何度も首を振って見比べずに済む絶妙な位置だった。

 

「あ、この金属の帯、やっぱり途中から斜めになってますね」

 

 そぴあの指したとおり、巻かれた金属帯の端が、途中から斜めに切り上がっている。らでんは図に描かれた同じ箇所を探した。木の割れ目を横切る位置関係もよく似ている。ただ似た形のへらが箱に写っているだけなら、補修の帯の端や割れ目の重なりまで、こんなふうに揃うだろうか。たまらず、もう一枚の制作中の写真へ手が伸びた。

 

「制作中の写真にも写ってますよ。ほら、ここのところ」

「ほんとだ。じゃあ、この一本は追えそうだね」

 

 制作中の作業台の写真から、移送のために箱詰めされたときの写真、そして今目の前にあるへらへ。木の割れ目と金属帯の斜めの端を順番に追っていくと、さっきまで別々の紙の上にあった三つが、ようやく一本の線になって並んだ。らでんは調査用紙へ柄の特徴を書き足し、どの写真の何頁と見比べたのかもきっちり添えておく。

 

 一つ線でつながると、その勢いのまま、箱の中で隣に並んでいる細い道具の方も片づけてしまいたくなる。けれど、写真をいくら見返しても、そちらはどの角度でも肝心の先端が他の道具の陰に隠れていた。今の段階で確実に言えるのは、同じ箱に収まっているというところまでだ。無理に同じ欄へ押し込めず、へらとは記録の欄を分けて残しておいた。

 

「……ちょっと待って。この下にある板も、今ここにある?」

 

 写真を覗き込んでいたピヨンの指先は、並んだ道具ではなく、箱の底に敷かれた薄い木板を示していた。そこは、らでんもさっきからほとんど目に入れていなかった場所だ。

 道具を運ぶために箱の底へ敷いた梱包材だと思ってしまえば、写真の中ではただの背景にしか見えない。ところが、ピヨンが開いた受入の内訳には、作業台で使っていた敷板とはっきり記されている。

 へらや細い道具ばかりを目で追って、そのすぐ下にあった一番大きな面を見落としていたのか。らでんは思わず箱の写真を自分の正面へ置き直した。

 

「あれ、これ、ただの箱の底じゃなかったんですか?」

「私もそう思って、さっき飛ばしちゃった」

「ですよね、梱包材かと思ってました。この板そのものも、受け入れた品物なんですね」

「ね。こういうのがあるから、書類の内訳も見ておきたいんだよね」

 

 近くにいたミオへ箱の写真を向けると、ミオは頷いて棚の別の保管箱を確かめてくれた。

 

「ああ、その板ならこっちにあるよ。今は道具とは別の箱にしてるけど、紙の資料と一緒に受け入れた分だね」

 

 ミオが机の上へ運んできてくれた箱には、柔らかな支持材の上に、片隅が三角に欠けた薄い木板が収まっていた。表面には何かを当てたような浅い筋が何本も走っている。一辺の縁に白く固まった付着物があるのがすぐに目に入ったが、そこへは指を触れず、らでんはまず板の上へ顔を寄せた。

 

 セザールはこの板の上に、いったい何を置いて手を動かしていたのだろう。

 急いで制作写真の作業台を探し直す。白い原型へ向かうセザールの肘のすぐ向こうに、作業台の木目とは色の違う四角い面が写っていた。さっきまで見ていたへらたちの、すぐ下だ。らでんは写真の板の端に、小さな欠けらしい形がないか目を凝らした。

 

「そぴあさん、ここ、一緒に見てもらっていいですか?」

「あ、この角、欠けてる?」

 

 横から覗き込んできたそぴあも、古い写真の縁へぐっと顔を近づけた。

 

「あ、でも、この角度からだと、板の厚さで角が隠れてるだけかもしれませんね。別の向きから撮った写真もありましたよね?」

 

 言われて、白い石膏の原型を反対側から撮った写真を引っ張り出した。すると今度は、三角の欠けのすぐ隣から、長い一本の筋が角まで真っ直ぐ続いているのがはっきり見えた。箱詰めの写真にも、目の前の支持材の上にある現物にも、まったく同じ欠けと筋の組合せがある。あのとき作業台の反対側へ回ってシャッターを切ってくれた人に、今からでも少しお礼を言いたくなった。

 

 板へ手を触れる前に、まず全体と欠けた角をカメラで撮っておく。寸法を測って記し、そぴあが描いた図へ白い付着物の位置も書き添えた。それが石膏の粉なのか別の何かなのかは、見ただけではまだ決められない。気になるからこそ、削ったり拭いたりせず、あとから見直せるように今の状態をそのまま残しておきたかった。

 

 もう一度制作写真へ目を戻すと、さっきまでただの作業台の背景だった場所に、金属帯のへらと三角に欠けた敷板が揃って浮かび上がってきた。完成したブロンズの彫刻だけを見上げていた朝より、あの作業台がずっと自分の手元へ近づいてきた気がする。

 

 そのすぐ横で、ピヨンが受入記録の前の頁をめくった。

 

「こっちの紙は、制作中の覚え書きと原稿だって。この敷板と同じ場所から、同じ日に移してるね」

「それなら、もう一つ、薄い綴りがあるよ。まだ中身ごとには分けられてないんだけどね」

 

 ミオが追加で出してきてくれた薄い綴りには、写真を撮影した日の控えと、折り畳まれた手書きの紙が挟まっていた。撮影日の控えを付けた人の名前は、記念館の受入書類の立会人の欄にも同じ字で載っている。

 らでんは、へらと敷板の調査メモへ移送記録の頁番号を書き添えた。あの作業台で作っていた場所からこの資料室まで、追えたところには一つずつ確かな根拠が増えてきている。先端の隠れた細い道具の欄が空いたままなのも、さっきほどもどかしくはない。分からないところを無理に埋めないままでも、この敷板にはちゃんと辿り着けたのだ。

 

「ミオさん、この板も少し触って確かめたいんですけど、縁のところなら大丈夫ですか?」

「うん、支えに載せたままならいいよ。白いところは触らないでね。あと、原稿を動かすときは、下に敷いてある紙ごとお願いできる?」

 

 敷板と手書き原稿の扱い方を丁寧に示してくれたミオが、ふと壁の時計へ目をやった。らでんもつられて顔を上げる。夢中で調べ物をしていると、ついここで働いている人の時間まで一緒に使っていることを忘れそうになる。

 

「うち、このあと祭りの案内を配る人たちと打合せなんだよね。ここは、このまま使ってて大丈夫だよ。ほかに見たい物があったら、メモしといてもらえる?」

「ありがとうございます。あ、工房の方はどうでした?」

「夕方なら大丈夫だって。うちの打合せが終わったら、一緒に行こっか」

 

 ミオは自分の抱えていた綴りを持って資料室を出ていった。廊下で別の職員と明るく挨拶を交わす声が聞こえて、その足音もやがて遠ざかっていく。

 

 部屋の中に三人だけが残ったところで、ピヨンが折り畳まれた手書きの原稿を、下の支持紙ごとそっと開いた。

 

「未来の読取者へ、だって」

 

 未(・)来(・)の(・)読(・)取(・)者(・)

 その言葉に、らでんの指先がぴくりと止まった。あの人は、あとから道具を読む誰かへ向けて、最初から紙の上にも言葉を置いていたのだろうか。

 

 らでんは開かれた原稿ではなく、手前の敷板へ目を戻した。午前中に読んだへらと同じ作業台に敷かれ、同じ箱でここまで運ばれてきた板だ。もしかすると、午前のあの声に関わる場面がこの木にも残っているかもしれない。

 もちろん、自分の見たい続きを都合よく選んで引き出せるわけではない。それでも、今のらでんにはこの板を確かめる理由があった。

 紙に書かれた原稿を先に読んで答えを知ってしまう前に、まずこの板から何が見えるのかを確かめておきたい。

 

「ピヨンさん、そっちの原稿、あとで見せてもらえます? 先に一度、この板を読んでみたいです」

「いいよ。何か見えたら、先に書いておいて。それから比べよう」

 

 隣のそぴあが並べていた写真を脇へ寄せて、手元の場所を広く空けてくれた。らでんは下の支持材が動かないことを確かめてから、白い付着物を十分に避けた木の縁へそっと指を添えた。

 《物語る蒐集帖(ミュージアム・ログ)》。

 指先に伝わる薄い木の感触を手掛かりにして、静かに意識を沈めていく。

 

――――――

 

 卓上に紙が一枚あった。

 その上で、鉛筆を持った手が止まる。セザールが紙を少し押しやり、顔を上げた。午前より低いところから、顎の下の陰が見えた。

 

「君の返事を、私が聞くことはない」

「私は、ここで言葉を残しているだけだ」

 

 鉛筆の先が紙へ戻り、小さな擦れる音がした。

 

――――――

 

 指先に今の資料室の木の縁を感じて、らでんは読取を止めた。

 鉛筆が紙を擦る乾いた音は、もうどこからも聞こえない。顔を上げれば、机の向かいにこちらを見守るそぴあがいる。

 

 らでんは鞄から記録用のノートを取り出し、今聞こえた二つの文と、最後に鉛筆を持った手が紙の上へ戻っていったところまでを順番に書き留めた。午前中と違って、今度は耳に残っているこの言葉を、すぐ隣にある別の品と比べることができる。書き終えた分を声に出して二人に読み上げてから、らでんはピヨンの手元の原稿を支持紙ごと受け取った。

 

 紙の上を辿っていた目が、その二行を見つけたところでぴたりと止まった。

 同じだ。今、板から聞こえたのと一字一句違わない文が、そこに並んでいる。

 しかも、そのすぐ前の行には、遠い先でこれを読む者へ宛てる旨まで記されていた。さらに目を凝らすと、一度は鉛筆で「君たち」と書いてから二重線を引き、そのすぐ上に「君」と書き直した跡がある。あの真っ直ぐな呼び掛けを、この紙の上で迷いながら選んでいた手の跡がそのまま残っていた。

 

「最初は『君たち』って書いてたんだ。それを、一人に向けた言い方に直してるんですね」

「うん。見て、この書き直した跡、写真の方にもある」

 

 ピヨンが薄い綴りの後ろから取り出した写真には、作業机と、その上に置かれた一枚の紙が写っていた。印刷が小さすぎて文字までは読めない。けれど、らでんが原稿と写真を並べて見比べると、二重線で書き直した位置がぴたりと重なった。二つの文の下に広く空いた余白の形も同じだ。添えられた撮影日の控えを見れば、間違いなくセザールが生きていた頃に撮られた写真だった。

 

 あの作業机の前で言葉を選び、一度書いて、線を引いて直した。そのときの紙が、今こうして自分の手元にある。らでんは消しゴムで消しきらずに残された鉛筆の黒鉛の線を、もう一度目で追った。

 

「じゃあ、この二つの文は、今の私たちの返事を聞いて言ったわけじゃないんですね」

「少なくとも、今聞こえた二つの文は、私たちがここへ来るずっと前からこの紙に書いてあるね」

 

 ピヨンが支持紙の端をそっと押さえ、その二行が影に隠れないようにしてくれた。斜め向かいのそぴあの位置からも、らでんが書き留めたノートと手書きの原稿の両方がよく見えている。

 

「あ、こうして紙に言葉が残ってるなら、私にも一緒に比べられますね。セザールさんの顔がどう動いたかとかは、らでんさんに聞かないと分からないけど」

「最後は、鉛筆を持った手がまた紙に戻っていくところでした。声に出して言い終わって、続きを書こうとしてたのかなって」

 

 続きを書こうとした、という自分の推測は、実際に見えた手の動きの記録とは少し間を空けてノートに記した。

 

 午前中、へらを読んだときに真っ直ぐこちらを見返されたように感じたあの目。あれも、いつか遠い未来に道具を通して記憶を読む誰か一人へ向けて顔を上げたのだとしたら、少しも不思議なことではなくなる。今この部屋にいるらでんの返事を、あの人が記憶の向こう側でじっと待っているわけではないのだ。

 そう腑に落ちた瞬間、午前中からずっと胸の奥につかえていたものが、ようやく少しだけ緩んだ。あの作業台の場面を思い返すたび、知らず知らずのうちに、次に自分がどんな返事をすればいいのかまでずっと気にして構えていたらしい。

 

「でも、結局その先で何を見せたかったのかは、まだ分からないんですよね」

「そう、そこは別。昔の言葉だって分かっても、奥に残されてる物まで安全とは限らないからね」

 

 手書きの原稿にもまったく同じ二文があった、とノートの記録に書き足した。けれど、その下の欄へ「何を見せたかったのか」を書き込むことはまだできない。呼び掛けの仕組みが昔の一方向のものだと分かってみると、今度はその言葉の先に残された品物を、自分の目で確かめてみたくなっていた。

 

 らでんは敷板を支持材ごと丁寧にもとの箱へ戻した。ピヨンが手元へ引き寄せた収蔵品の一覧には、午前中から保留にしたままの欄がまだ残っている。

 

「声の方はいったんここまでにしようか。頼まれてる品の所在も、ちゃんと確かめておきたいし」

「ああ、まだ見つかってない品の方ですね」

「うん。全部こっちの記念館へ運んだわけじゃなくて、向こうの施設に残した分もあるみたい」

 

 ピヨンが開いた別の移送記録では、外部へ修復に出した品と、旧制作施設の保管庫にそのまま残した品とが分けて記されていた。運び出した方の欄には受取人の署名がある。らでんが気になったのは、保管庫へ残した方の、その後の確認欄だった。現在どこにあるかを確かめたという記入が、最初からぽっかり空いているのだ。

 

 今もあの保管庫に眠っているのか、それともあとから別の場所へ動かしたのか。この紙の上だけでは、どちらにも決められない。けれど、自分たちが最初に足を運んで探すべき場所はこれでぐっと絞れそうだ。

 

「残した保管庫って、建物のどこにあるんでしょう。……あ、後ろに入口の図もついてますよ」

 

 らでんが記録の後ろに添えられた添付図を開くと、そぴあもすぐに椅子から身を寄せてきた。旧制作施設の建物の横に小さな戸口が描かれていて、そこから細い廊下が奥へ折れ曲がっている。さっきまで白黒の写真の中にしかなかった場所へ実際に入るための道を、らでんは初めてまともに目にした。

 

「今の町の案内図と比べると、この建物の周り、外を通路として歩けるみたいですね。あとで工房へ行った帰りに、ちょっと寄ってみません?」

「いいですね! まずは外から、この入口がどこにあるか見てみましょうか」

 

 その保管庫の奥には、残された品々がどんな姿で置かれているのだろう。そこへ辿り着くためにも、まずはこの小さな入口が今の建物のどこにあるのかを自分の目で確かめたい。

 らでんは記憶を書いたノートを鞄へしまい、別の新しい紙へ古い入口の図と寸法を書き写した。元の添付図もカメラで撮っておこうとすると、横からそぴあがすっと自分の物差しを紙の脇へ置いてくれた。これなら、あとで写真を見返したときにも実際の大きさを確かめやすい。出来上がった図の写しを、これから工房へ持っていく封筒の中へ大切に収めた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 打合せから戻ってきたミオへ、出かける前に古い入口図の写しを見せた。外の通路は自由に歩けるけれど、建物の中へ入るには別の手配が要るらしい。今日は帰りに外から入口の場所だけ確かめておきたい、と伝えると、ミオは快く頷いて、工房から川沿いの旧施設へ下りる道を教えてくれた。

 

 ミオに案内されて記念館からしばらく歩くと、低い屋根の連なる工房の奥から、カン、カン、と乾いた金属の音が聞こえてきた。開け放たれた戸口をくぐっても、まったく同じ間隔で小気味よく響いている。

 午前中からずっと、白黒の写真の中の手や、使われなくなって箱に収められた道具ばかりを見ていたせいか、今まさに誰かの手で使われている道具の音が妙にうれしい。らでんは入り口の棚に色ごとに分けられた鉱石へ目を向け、それから奥の作業台に整然と並ぶ細い金属片を見つめた。

 

「カエラさん、連れてきたよ」

 

 ミオが声を掛けると、乾いた音がぴたりと止まった。

 長い髪を後ろでまとめた女性がこちらを向き、手元に持っていた小さな品と金槌を作業台の上へ置く。どんな形を打っていたのか今すぐ台の上を覗き込みたくなったが、らでんはまず戸口のところで礼儀正しく足を止めた。

 

「こんにちは、カエラです。そこの白線から先には、まだ熱い物があるんだ。こっち側なら大丈夫、どうぞ」

「儒烏風亭らでんです。お仕事中なのに、見せていただけてうれしいです。ありがとうございます」

「大丈夫だよ、ちょうど一段落したところだから。何が見たい?」

 

 気さくに聞かれて、らでんは色とりどりの石の棚から、奥の金属片が並ぶ作業台までをもう一度交互に見渡した。どれか一つだけを選んで見せてもらうつもりだったのに、こうして両方を目にしてしまうと、あのゴツゴツした石がどこからどうやってあんな滑らかな金属へ変わっていくのか、その間の道のりこそが知りたくなってくる。見ていいと言われた途端、どうにも欲張りになってしまう。

 

「……あの、これ、一つに絞らないと駄目ですか?」

「最初の一つでいいよ。その続きは、見てから決めよう」

「それなら、あの棚の石が、そっちの台の金属になるまでを見たいです」

「途中が長いね」

 

 後ろで聞いていたピヨンが、らでんの指差した石の棚と奥の作業台を見比べて楽しそうに笑った。カエラも同じ方を見て、肩を揺らしている。

 

「一つってお願いしたら、全部になったね」

 

 ピヨンは自分の名前を名乗りながら作業の邪魔にならない壁側へ寄り、そぴあも丁寧に挨拶を済ませた。隣へ並んだそぴあと一緒に白線のこちら側で待っていると、カエラが奥から浅い皿を三枚運んできてくれた。

 一枚目には砕いたばかりの鉱石、二枚目にはそこから分けて取り出した細かな粒、三枚目には小さな金属の塊。この近くで進めている鉱石の調査と精錬で、途中の段階を少しずつ取っておいた物だという。三枚の皿を順番に覗き込んでいくと、棚の石から作業台の金属へ至るまでの長い間を、一足飛びに飛ばさずに目で辿れそうだった。

 

「さすがに今日ここで、一から全部はできないけどね。途中の分を取ってあるから、順番に見ていこうか」

「あ、途中の段階もちゃんと残してあるんですね」

「うん。どこでどう変わったか、あとで見比べたいからね。真ん中のこの粒なら、手で触ってみていいよ」

 

 許しを得て小さな粒を一つ掌へ載せた途端、目で見る大きさからは想像もつかないずっしりした重みが来た。らでんは思わず掌を少し持ち上げ、粒の小ささと手にかかる重さをもう一度確かめたくなる。すぐ隣でも、そぴあが一粒を受け取って、指先でくるりと向きを変えていた。

 

「あれ。平らな面だと思ってたのに、ここ、真ん中がへこんでる」

「ほんとだ。そっちの角度からだと光ってて、真っ平らに見えましたもんね」

「らでんさん、朝も展示室でやりましたね、これ」

 

 二人で皿の反対側へ少し頭を動かして回り込むと、光っていた面の浅い窪みがよく見えた。朝のブロンズ彫刻といい、この小さな金属の粒といい、二人揃って同じところを見て同じように光に騙されるのは、なんだかおかしい。らでんがそぴあと顔を見合わせて笑っていると、皿を支えていたカエラが不思議そうに首を傾げた。

 

「重さより、そっちの形の方が気になる?」

「重さにもびっくりしたんですけど、今、二人ともまったく同じところを見間違えたんですよ」

「へえ。それなら、こっちも見てみる?」

 

 カエラが作業台の端から持ってきてくれたのは、丸みを帯びた鋼の小品だった。

 定規で測ったような綺麗な球体ではない。浅い窪みのすぐ隣に、柔らかな小さなふくらみがある。降りたての雪を両手でぎゅっと握り固めて、ぱっと手を開いたら、ちょうどこんな形になるかもしれない。

 らでんはツルツルに磨き上げられた球よりも、かえってその不揃いな表面の表情に強く目を引かれた。一番上には、紐を通すための小さな輪が付いている。

 

「これはね、あとちょっとで出来上がり」

 

 カエラの爪の先が示したのは、らでんが見惚れていた表面の凹凸ではなく、上の小さな輪の内側だった。

 

「紐が当たるところだけ、引っかからないように滑らかにしてるんだよ」

「表面の、このでこぼこはそのまま残すんですね」

「そっちもツルツルに磨いちゃう?」

「いえ、ここは絶対残してほしいです! このままの方が好きなので」

 

 もっと近くでその凹凸を見たくて、らでんはつい手を伸ばしかけ、はっと途中で止めた。白線の向こうにはまだ熱い物があると言われたばかりだ。するとカエラの方から、その鋼の小品を掌に乗せて差し出してくれた。

 

「これはもうすっかり冷めてるから、触って大丈夫だよ」

 

 指先でそっと触れてみると、目で見て角ばっているように見えた箇所まで、驚くほど柔らかな起伏になっていた。もちろん鍛えた鋼なので、指で押したくらいで形が変わることはない。それなのに、肌に刺さるような鋭い角がどこにもないのだ。掌の上でほんの少し傾けるだけで、浅い窪みの縁に溜まっていた光が、隣のふくらみへと滑るように移っていく。

 らでんは指先で少しずつ向きを変え、今度は別の窪みから逃げていく光を夢中で追った。

 

「……雪玉みたい」

「でしょ。ちゃんと雪玉に見えたなら、よかった」

 

 カエラが棚から出して見せてくれた作業前の写真を覗き込むと、今らでんの手の中にある丸さとは似ても似つかない物が写っていた。赤黒く錆びついた細長い金属の道具だ。細い軸の部分は途中でぽっきり折れ、不自然に曲がった継ぎ目のすぐそばには、細い針金が幾重にも巻きつけてある。

 らでんは鋼の雪玉を皿の脇へそっと置き、写真の錆びた道具の継ぎ目へぐっと身を寄せた。

 

「元はこれなんだ。昔この辺りで山の測量をしてた、振矩師の道具だったんだって。もう使えないから、作り直してもいい材料としてここで預かってたんだよ」

「カエラさん、この曲がってるところって、測量で使うときにも動くんですか?」

 

 横からそぴあが覗き込んでいるのは、針金の近くの継ぎ目の方だった。らでんもそぴあの指す場所を見つめる。角度を合わせるために動かす仕組みなのか、それとも無理な力がかかって壊れてできた角度なのか、平らな写真の上だけではすぐに見分けがつかなかった。

 

「動かして使う継ぎ目も別にあるけど、そっちは壊れて曲がっちゃったところだね。私が預かって見たときには、もう元の動きはできなかったよ」

「じゃあ、今のこの曲がった角度を測るだけじゃ、実際に山で使ってたときの形までは分からないんですね」

「そうなんだよね。だから、針金を外す前の写真もこうして残しておいたんだ。裏側のも見る?」

 

 カエラがめくってくれた裏側の写真へ替わると、巻かれた針金が途中で一度ぷつりと切れ、そのすぐ上から別の針金を巻き足しているのが見えた。らでんが思わず目を留めたのは、その不器用な重なりの部分だった。

 

「ここ、壊れたのを自分で直して、まだ使ってたんですね」

 

 らでんの指先が、印画紙の外側でふと止まった。

 

「そうみたいだね。その巻き足したところもまた、なかなか外れなくて」

「直して使ってた人、ずいぶん頑張りましたね」

「私も頑張った」

 

 カエラはしみじみと真顔だった。らでんは堪えきれずに吹き出して笑ってしまった。

 隣ではピヨンも、作業記録の写真の束を興味深そうに少し持ち上げていた。

 

「針金をほどいた順番まで写真がある。これ、全部見ていい?」

「いいよ。最後の方なんて、すごく細かいところまで撮ってあるから」

「そう、そういう細かいところまで見ておきたいの」

 

 らでんが鋼の小品を返すと、カエラは上の小さな輪へ細いヤスリのような工具を通した。ごく短く削っては、光に透かして向きを変えて確かめ、またほんの少し手を入れる。らでんの目にはもうすっかり出来上がっているように見えていた輪の内側が、作った本人にはまだ気になるらしい。らでんはその狭い輪の中を、邪魔にならないよう横からじっと覗き込んだ。

 

 手を動かしながらカエラが教えてくれた話では、あの錆びた測量具から使える金属を取り分け、再精錬し、何度も打ち直して冷ますまでに、もう何日もかけているという。奥の棚には、同じ材料から一緒に作ったという輪のない丸い小品も並んでいた。

 自分たちが今日ここへ来てから見ているのは、その何日にもわたる長い仕事の、ほんの一番最後――通した紐が触れるところだけなのだ。らでんはカエラの手元を一つも見逃すまいと、細い工具が止まるたび、今どこを指先で確かめたのかを目で追っていた。

 

「この辺りにはね、雪のお守りを持つ習慣があるんだよ」

 

 輪の内側から不揃いな表面へ目を戻したところで、隣で見ていたミオが優しく声を掛けた。

 

「山へ入った人が、ちゃんと無事に帰ってこられますようにってね。カエラさんにも前にその話をしたら、いつの間にかこんなのができてたんだよね」

「袋の中に入れちゃうより、こうして外から形も見えてた方がいいかなと思ってね」

 

 言いながら、カエラは削り終えた小品を柔らかい布で綺麗に拭き上げ、小さな輪に細い丈夫な紐を通した。指先で少し引いてみて、どこにも引っかからないのを確かめる。ついさっきまで細い工具で整えていた輪の中を、今度は黒い紐がすっと滑らかに通り抜けた。

 そしてそのまま、その小品がらでんのすぐ前へことりと置かれた。

 

「これ、持っていっていいよ」

「……え、らでんにですか?」

「うん。さっき、この表面がそのまま残ってる方が好きだって言ってくれたでしょ。どこを削らずに残したのか、ちゃんと見てくれる人に持っててほしかったんだよね」

 

 本当に受け取っていいのだと分かると、らでんは思わず両手でその小さな鋼の塊を持ち直した。

 

 さっき写真で見た二重の針金も、折れた細い軸も、この丸い形の中にはもう残っていない。それでも、山の測量具だったものがどんな手を通ってここまで来たのかを、ついさっき作った本人から聞いたばかりだ。

 小さな輪に添えた指のすぐ横で、通されたばかりの紐がさらりと滑った。掌の中へすっぽり収まるその小ささと重みが、急にたまらなくうれしくなった。

 

「ありがとうございます! せっかくだから、これ、服の外の見えるところにつけたいです」

「じゃあ、ちょうどいいところに紐の長さを合わせようか」

 

 カエラに手伝ってもらって紐を首に回し、結び目を襟の後ろへ収めた。服の上から、鋼の雪玉がことりと軽く胸元に当たる。首が凝るほど重すぎず、けれど確かにそこにあるのが分かるくらいの心地よい重さだった。外からどう見えるのかも知りたくて顔を上げると、そぴあが一歩後ろへ下がって全体のバランスを見てくれていた。

 

「あ、その高さだと、らでんさんが動くたびに表面が光りますね」

「そぴあさん、これ、ちょっとだけ持ち上げてもらえます? 首につけたままだと、自分からは裏側が見えなくて」

「いいですよ。……あ、本当だ。これ、見えない裏側までちゃんと丸いんですね」

「そこを平らにしてみたら、途端に雪玉じゃなくなっちゃったんだよね」

 

 服に当たる裏側まで雪玉の形を整えたのだと聞くと、首に掛けたばかりなのに、もうひっくり返して見たくなった。顎を引いて懸命に自分の胸元を覗き込んでみるが、今の位置からではやはり上半分しか見えない。らでんはそぴあの指先でくるりと回る小品の裏側を、上から必死に目で追いかけた。

 

「カエラさん、今夜もまだお仕事ですか?」

 

 写真を束ねて返しながら、ピヨンが尋ねた。

 

「ううん、あとはここを片付けたら今日は終わりだよ。どうして?」

「今夜、私たちの宿で焼肉しようかって話してて。五人なら、お肉もいろいろ買えるしさ」

「焼肉? 行くよ、それは」

「返事、早いですね!」

 

 あんまり迷いのない即答につられて笑いながら、らでんは隣のミオの方へもくるりと向き直った。せっかくなら、宿のあの広い共用机を五人みんなで囲みたい。

 

「ミオさんも、今夜ご一緒にどうですか?」

「え、うちも行っていいの? 今日は、このあと記念館へ戻って連絡を一本したら仕事は終わるよ」

「ぜひぜひ! 何を焼きましょうか。好きなもの、なんでも教えてください」

「んー、じゃあ、おにぎり焼きたいな」

「いいね。じゃあ、お米もいるね」

 

 ピヨンが手元の買物メモへ、さっそく「米」と書き足した。さっきまで資料室で調査用紙を覗き込んでいたのと同じ調子で、らでんもつい横からそのメモを覗いてしまう。五人でホットプレートを囲むのなら、お肉も野菜もたくさん種類を増やして大丈夫そうだった。

 カエラは宿の場所をミオに確かめ、作業場の片付けが済んだらすぐに向かうと約束してくれた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 カエラの工房を出ると、四人で並んで川の方へ続く坂道を下りた。らでんは歩きながら、服の上に出した鋼の雪玉へ一度だけそっと指先を触れた。それから、脇に抱えていた茶封筒を持ち替える。楽しみな夕食の買物へ行く前に、もう一か所だけどうしても見ておきたい場所があった。

 

 川沿いの道へ出ると、旧制作施設の低い石垣が見えてきた。古い写真では、その石垣の上に細い庇が張り出していた場所だ。けれど、今目の前にあるのは、庇のない淡い色の壁がずっと続いている姿だった。もっと近くまで歩み寄れば、あの小さな戸口が見つかるだろうか。

 らでんは封筒から入口図の写しを取り出して開いた。図面の上では、石垣の折れ角から少し進んだところに入口があり、そのすぐ奥へ細い廊下が伸びている。

 

「図面だと、ちょうどこの辺りですよね?」

「もう少し先かもしれません。らでんさん、そこの石垣の角、ちょっと押さえててもらっていいですか?」

 

 そぴあが鞄から取り出した巻尺の端を、通路側から石垣の折れ角へぴたりと合わせた。ここを基準にすれば、古い図に記された寸法と同じ起点にできる。そぴあが目盛りの数値を確かめながら淡い壁に沿って離れていくのを、らでんは巻尺の端がずれないようにしっかり指で押さえて見送った。

 

 やがてそぴあが足を止めた場所には、戸口がなかった。

 ただ、古い写真で入口のすぐ右側に立っていた細長い石の柱はある。今は半分ほど新しい壁の中に埋まってしまっているが、積まれた石の継ぎ目の位置まで写真と見比べると、間違いなく同じ柱だった。もし入口の場所だけを自分たちが取り違えたのならまだよかったのに、と思いながら、らでんは手元の図面へ目を戻した。

 

「石垣の角から測っても、この柱を目印にしても、やっぱりここなんですよね。隣の別の建物と間違えた、ってわけではなさそうです」

 

 そぴあが石柱のすぐ手前で位置を示し、らでんに場所を譲ってくれた。らでんは巻尺を戻してその場所に立ち、古い図面にある戸口の高さへ目をやった。

 手を掛ける取っ手もなければ、扉の隙間の切れ目もない。淡い色の壁は、一番下まで隙間なく地面につながっていた。

 

「今、ここからは入れないね」

 

 隣へ来たピヨンが静かに言った。らでんはミオにも古い入口図を見てもらった。もし今、記念館の職員が出入りに使っている別の入口があるなら、そこから手掛かりがつながるかもしれない。

 

「うちもね、出入りの手配をするときは別の棟の入口を使ってるんだよね。そこからこの奥の廊下に行けるのかな。そこまでは、うちも中を見てないんだ」

「ミオさん、ここの入口を塞いだときの図面って、記念館に残ってそうですか?」

「改修工事の書類ならあるよ。ただ、一度だけの工事じゃないんだよね。何年の分を見ればいいか、明日一緒に探してみようか」

「お願いします! 古い図面と重ねて、いつどんなふうに変わったのか見てみたいんです」

 

 ピヨンが今の塞がれた壁の様子を別の紙へ描き留め、そぴあが今しがた巻尺で測った数値と起点の位置を書き添えた。らでんも古い入口図を目の前の壁の高さまで持ち上げてみる。この紙の上では、すぐ向こうへ細い廊下が伸びて、保管庫へとつながっていた。けれど今の平らな壁の前からは、奥がどうなっているのかを頭の中で想像するしかない。

 

 工事のときにどこを造り変え、どこを昔のまま残したのだろう。らでんは持ち上げていた図面を下ろした。そこを確かめるには、今日見つけた移送記録だけではまだ足りない。

 

「明日は、先に記念館で改修の図面を見せてもらってから、またここへ来ましょうか」

「そうですね。壁の中に廊下が残ってるかどうかも、その図面を見てからで」

 

 そぴあが測定のノートを閉じる間に、らでんは通路を二、三歩後ろへ下がり、起点にした石垣の角と半ば埋まった石柱を一枚の写真に収めた。明日、記念館の机で新しい図面を見るときには、今日外から確かめたこの二つの位置関係も一緒に並べて比べたい。

 

 今日の調査はここまでだ。ミオは残りの連絡を済ませるためいったん記念館へ戻り、らでんたち三人は夕飯の買物をしてから宿へ向かった。提げた買物袋を持つ手に、さっきまで扱っていた紙の資料とはまるで違うずっしりした重さがかかる。夕暮れの川面に残った明るい光が、袋の口から覗く長ねぎや野菜の葉にも柔らかく差していた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

「その一枚、今夜もそこにいる?」

 

 台所から戻ってきたピヨンに言われて、らでんは共用机の真ん中に残っている古い外観写真へ目を落とした。昼間の資料は全部ひとまとめにしたつもりだったのに、その一枚だけはすぐ手元に置いてある。

 夕食が終わったら、明日持って出る写真をそぴあと一緒に選ぶつもりだ。だから、あとで一番取り出しやすい方がいいと思ったのだが、確かにこれから焼肉をしようという机のど真ん中で待っていてもらう必要はなかった。

 

「あとで使います」

「じゃあ、それまでよけといてもらおうか。もうすぐ、ここに肉が来るよ」

「それは、退いていただかないと」

 

 らでんは大急ぎで写真を茶封筒へ収め、壁際の資料の箱の上へ移した。濡れ布巾で机の上を端から端まで拭くと、昼間の図面で埋まっていた場所へ、さっきまでなかった広々とした面積が戻ってくる。

 

 仕事を終えたミオとカエラを玄関で迎える頃には、机の真ん中で大きなホットプレートがすっかり熱くなっていた。ピヨンが運んできた大皿の肉を避けながら、らでんは五人分の箸を順番に並べていく。そぴあが両手で抱えてきた山盛りの野菜の皿は、向かいに座ったミオの前へ渡った。

 広い机を挟んで次々に物を渡し合うのは、昼間の資料室とあまり変わらない。ただ今度は、目の前に並ぶどれを見ても全部食べられるというのが実にいい。

 

「きのこのお皿、こっちでいい?」

「はい、そこにお願いします。あ、玉ねぎ、お皿に重ねて持ってきたら真ん中が崩れちゃって」

「崩れてても焼けばおいしいから大丈夫。うち、この小さい輪っかから焼いちゃうね」

 

 ミオが崩れた玉ねぎの輪を鉄板の端へ置くと、じゅっと水気が小さく弾けた。いい音に急かされて、らでんは箸を並べる手を早める。カエラも空いた小皿をみんなの前へ手際よく配り、最後の一枚を自分の手元へ引き寄せた。

 

「塩、ある?」

「ありますよ。たれも甘口と辛口で二種類買ってみたんですけど」

「じゃあ、最初は塩で、次はたれにしようかな」

「カエラさん、最初から両方いくつもりですね?」

「どっちも食べたいから」

 

 らでんが塩の小瓶を渡すと、カエラはさっそく自分の小皿へひと振りした。隣には二種類のたれの瓶も並んでいる。さて自分はどちらのたれからいこうか、と眺めているうちに、選ぶ順番がこちらへ回ってきた。

 

「らでんさんは?」

「らでんは、たれでいきます。お肉が机に来る前から、こっちのご飯の準備はもうできてますから」

 

 らでんがほかほかの茶碗を手元へ引き寄せると、隣でピヨンも自分の箸を上げた。

 

「私も準備万端。じゃ、どんどん焼こうか」

 

 熱い鉄板の上に肉がずらりと並ぶと、焼ける音が一段と大きく弾けた。薄い肉の端がくるりと反り、香ばしい脂が落ちて煙が立つ。らでんはちょうどよく色の変わった一枚を見逃さず、焼くための菜箸でひょいと返した。あとほんの少し待てば、たれをたっぷりつけて白いご飯と一緒に食べられる。

 すると隣から、そぴあの顔も鉄板の上へぐっと近づいてきた。

 

「らでんさん、これ、もういいですかね」

「そっちは、もうちょっとだけ待った方がよさそう。こっちの端のなら、もういけますよ」

「ありがとうございます。……ん、熱っ」

 

 そぴあは自分の小皿の上で焼きたての肉を一度バウンドさせてから、はふはふと口へ運んだ。らでんも、甘いたれにたっぷりくぐらせた一枚を、白いご飯と一緒に大きく頬張る。焦げた脂の香ばしさのすぐあとからたれの甘みが広がって、その途端、自分が思っていた以上にぺこぺこにお腹が空いていたのだと分かった。

 昼食からずいぶん歩いたのでもう少し早く食べたかった気もするが、五人でこんなに賑やかに焼けるなら、ここまでお腹を空かせて待って大正解だった。向かいではミオが焼けた玉ねぎを美味しそうに噛み、カエラは塩で一枚目を平らげたばかりなのにもうたれの瓶へ手を伸ばして小皿へ注いでいた。

 

「カエラさん、たれの方もどうです?」

「うん、こっちも好き。あ、玉ねぎも、もう少しよく焼いたのが食べたいな」

「それなら、うちの育ててたこの端っこの食べてみる? 最初からちょっと長めに置いてたんだ」

 

 ミオが自分の前の鉄板から、じっくり長めに焼かれた飴色の一切れをカエラの小皿へ渡した。らでんも思わずその美味しそうな焼き色を目で追う。ホットプレートの端の方に置いておくと、焦げずにあんなふうに甘く焼けるらしい。カエラは礼を言ってから、その一切れを口へ運んだ。

 

「あ、これくらいの焼き加減が好き。すごく甘いね」

「そぴあも、そっちの厚い玉ねぎ、食べたいです」

「これね、まだ真ん中が白いからもう少し待った方がいいと思う。実は私も最初から狙ってるんだけど」

 

 そう言いながら、ピヨンは先に焼けた手前の肉をひょいとさらっていった。ただ、自分が狙っている分厚い玉ねぎだけは、他の肉と混ざらないよう鉄板の端へきっちり寄せてある。らでんが次に新しい野菜を置こうとしても、その大事な一切れの場所だけはひと目で分かった。

 

「ピヨンさん、どれをいつから焼いてたか、全部ちゃんと覚えてるんですね」

「自分が食べたい物はね」

 

 おかしくて笑っていたら、ピヨンの目がすっとらでんの左手の茶碗へ移った。急に手元を見られると、自分でも茶碗の中の残りが気になりだす。

 

「らでん、ご飯がもう半分ないじゃない」

「お肉が焼けるまでの待ち時間の使い方が違うんです」

「ふふ、おにぎりもちゃんとあるよ」

 

 ミオが脇から出してくれた大皿には、掌に収まるくらいの小さなおにぎりがいくつも並んでいた。らでんは自分の茶碗の残りとそのおにぎりの皿を交互に見比べ、迷わず鉄板からもう一枚肉を取った。

 

「おにぎりの分は、ちゃんと別で空けてあります」

「らでんさん、今の一枚、ほんとに必要でした?」

「そぴあさん、それとこれとは別のお話です」

 

 ひとしきり肉を焼く勢いが落ち着いたところで、キッチンペーパーで鉄板の空いた面の脂を拭き取った。そこへそぴあが、大皿から小さなおにぎりを一つずつ並べていく。最初に置いた一つが、鉄板の上でゆっくりと横へ傾いて、すぐ隣に置かれたおにぎりへことりと寄りかかった。

 らでんは、そのまま崩れてしまうかと思って咄嗟に箸を浮かせ、途中で止めた。

 

「あ、その傾いたの、私が握ったやつです」

「え、分かるんですか、今の傾き方だけで?」

「さっき台所で握ったとき、一個だけ途中で形を直したんですよ。だから覚えてて」

「これくらいの傾きなら、そのままでも綺麗に焼けるよ」

 

 ミオが菜箸で周囲の間を少し空けてやると、傾いた一つも崩れずにそのまま落ち着いた。らでんは安心してお箸を戻す。すると今度は、向かいのカエラが机の上へ身を乗り出し、おにぎりの底の焼け具合を下から覗き込もうとしていた。

 

「これ、まだ返さない方がいい?」

「うん、まだ鉄板にくっついてるから、もう少しだけ待とうか」

「ふふ、今度はカエラさんがおにぎりに待たされる番ですね」

 

 カエラは真剣な目をおにぎりから上げ、らでんを見た。

 

「もう今すぐ食べたいからね。底がちゃんと焼けたか、途中の確認は大事でしょ」

「それはすごく分かります」

 

 すぐ隣でそぴあまで深く頷いたので、らでんも笑いながら一緒におにぎりの底を確かめた。しばらく待って表面が固まったものから順番に菜箸で返すと、きつね色の薄い焼き色が付いている。

 そこへ小皿の醤油を刷毛代わりに箸先で塗り、もう一度裏返した途端、じゅうっと音を立ててたまらない香りが立ち上った。さっきまでの焼肉の脂とはまた違う、香ばしくて胸が躍る匂いだ。

 

「あ、この匂い。明後日の祭りの屋台も、こういう匂いする?」

 

 カエラが鼻をひくつかせてミオへ顔を向けた。らでんもおにぎりを返す箸を動かしながら、思わずそちらへ耳をそばだてる。

 

「するする。境内の近くでお団子を焼く屋台が出るよ。甘いたれのも、お醤油のもあるんだ」

「へえ、両方あるんだ」

「カエラさん、今、絶対両方食べる顔しましたね」

「した」

 

 一点の曇りもない即答に笑って、らでんは焼き上がったおにぎりを自分の小皿へ取った。カエラは迷わず、さっき斜めに傾いていたあの一つを選んでいた。平らな底だけでなく、鉄板に当たっていた斜めの角にまでこんがりといい色が付いている。カエラがそぴあへ見せてやっている小皿を、らでんも横から覗き込んだ。

 

「ほら、これ、こっちの角がすごくよく焼けてる」

「あ、ほんとだ、私の握ったやつだ。その角のカリッとしたところ、一番おいしそうですね」

「次握るときも、最初からその形にしてみる?」

「いや、もう一回同じ斜めに作れる気はしないです。次に狙ってやったら、もっと倒れちゃうかもしれない」

 

 もし次にまた傾いたおにぎりが並んだら、今度こそ角を焼くためにわざと曲げたのだと思われそうだ。らでんとそぴあが二人でおにぎりの皿を覗き込んでいる間に、隣ではピヨンがさっきから大事に育てていた分厚い玉ねぎをすっかり食べ終えていた。今は自分の焼きおにぎりを箸で半分に割り、立つ湯気を逃がしている。

 

「ミオさんは明後日のお祭り、ずっと神社にいるの?」

「ううん、途中で交代のお休みがあるから、少しは外を見て回れるよ。うちも屋台、毎年楽しみにしてるんだ」

「あっ、それなら、ミオさんの手が空いたときに一緒に屋台を回りません?」

 

 らでんが身を乗り出して誘うと、ミオはすぐに嬉しそうに頷いてくれた。らでんはおにぎりを食べる手を少し緩める。地元の屋台をよく知っている人と一緒に回れるなら、今のうちに聞いておきたいことがあった。

 

「うん、ぜひ! 境内にいたら気軽に声かけてよ。もしすぐ手が離せないときは、あとで時間を決めて合流するから」

「やった。ミオさんは、屋台だとどこのお店がおすすめですか?」

「うちはやっぱり焼き団子かな。去年、神社の片付けが全部終わってから行ったら、もう売り切れててさ」

「それは今年も最後に回ったら、ちょっと危ないね」

 

 向かいでお茶を飲んでいたピヨンが口を挟んだ。

 

「そうなの。だから今年は、途中の休憩のときに絶対買いに行こうと思ってるんだ」

「それなら、私たちも早めの時間に行かないとですね」

「あ、そぴあも一緒に行きたいです。らでんさん、もし買えたら、甘いたれの方を少し分けてもらってもいいですか?」

「いいですよ! じゃあ、そぴあさんの醤油の方も、一口もらっていいですか?」

「もちろん。ふふ、まだお団子買ってもないのに、分け方まで決まっちゃいましたね」

 

 二人で笑っている向かい側で、カエラの小皿のおにぎりは、話している間にもう半分なくなっていた。

 

「私は、最初から一本ずつにする」

「カエラさん、ほんとに迷いがないですねえ」

 

 らでんも、自分の焼きおにぎりの香ばしい表面へ歯を立てた。醤油の焦げた薄い皮がパリッと軽く割れ、そのすぐ内側からほかほかと柔らかいお米が現れる。やっぱり、夕方の買物でお米も一緒に買っておいて本当によかった。

 そう声に出して言おうとしたが、あいにく今は口の中がおにぎりでいっぱいだった。向かいのミオがらでんの膨らんだ頬を見て楽しそうに笑い、自分のおにぎりも一口かじった。らでんはしっかり飲み込んでから、また残りの半分へ箸を伸ばす。

 

 鉄板の上では、カエラが残っていたきのこを真ん中へ寄せ、ピヨンが新しい肉を何枚か並べた。五人の箸はまだ止まりそうになく、夕食が終わるにはもう少し時間がありそうだ。そぴあは五人の小皿をぐるりと見回してから、鉄板の上に残っていた最後のおにぎりを箸で綺麗に半分に割った。

 

「らでんさん、この最後の一つ、半分ずつ食べません?」

「食べます食べます! そぴあさんは、おにぎりは少し焦げてる方が好きですか?」

「はい、少し焦げてるくらいなら。らでんさんは?」

「私も、そのくらいが一番好きです」

 

 割れたおにぎりの断面を覗き込むと、醤油の焼き色が濃い角の部分が片方へ偏っていた。らでんが小皿をくるりと回すと、そぴあも横から一緒に頭を寄せて覗き込んでくる。結局、二人の取り分にカリッとした角が一つずつ公平に来る向きへ、仲良くお皿の上で並べ直した。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 食べ終えた最後の空の皿を重ねて台所の流しへ運ぶと、共用机の向こうでミオが壁に掛けてあった上着を手に取っていた。カエラも椅子の背から自分の荷物を持ち上げる。あんなに賑やかだったのにもうそんな時間かと、らでんは濡れた手を拭いて布巾を置いた。

 

「ごちそうさま。すごくおいしかったよ」

「こちらこそ、楽しかったです。カエラさん、このお守りも、ほんとにありがとうございます」

 

 らでんは服の上から胸元の鋼の雪玉へそっと指を添えた。工房で首に掛けてもらってから、今日はもう何度こうして触ったか分からない。カエラが満足そうに小さく頷くのを見て、らでんは指を離した。

 

「また工房にも見に来てね。今日見てもらったあの金属の粒の、続きもできてるかもしれないから」

「わ、見たいです! お仕事のお邪魔にならないとき、また教えてもらえますか?」

「うん。あ、うちも、明日は記念館で改修工事の書類を先に出しておくね」

 

 明日の図面のことをお願いしてミオに礼を言い、玄関の戸口まで二人を見送った。外へ出た二人を見送る隙間から、夜の川の方から吹いてきた風がすっと入り込み、ホットプレートの熱気で温まった頬に心地よく冷たい。扉を閉めると、部屋の中にはまだ焼けた醤油の香ばしい匂いがほんのり残っていた。

 

 共用机の方では、ピヨンがテーブルの上に残った水滴を綺麗に拭き取り、自分の湯呑み茶碗を持ち上げていた。

 

「私、先に部屋へ戻るね。明日持って行く写真の分、二人で選んだらその箱の上に置いといて」

「はい、分かりました。ピヨンさん、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 

 奥の寝室の扉がパタンと閉まると、広い共用机にはそぴあと二人きりになった。

 らでんが水気の乾いた机の端へ資料の箱を戻すと、その脇から、夕食前にどかした茶封筒が顔を出した。そぴあがその中から写真を一枚ずつ取り出して机の上へ並べていく。明日、記念館の改修図面と見比べるための写真を今のうちに選んでおきたいのは、二人ともまったく同じだったらしい。

 

 庇のあった古い外観写真と、石垣の折れ角が大きく写った写真。そのすぐ横へ、らでんは自分のカメラの液晶画面を点けて、夕方撮ってきたばかりの今の壁の写真を見せた。

 塞がれた入口の正面だけを大きく写したものより、右側の半分埋まった石柱や石垣の角まで一緒に入っている写真の方が、明日の図面と場所を合わせやすい。ご飯を食べ終わってからもう一度見直しておいてよかった。

 

「そぴあさん、この横から石柱を撮った写真も、明日の封筒へ入れときましょうか?」

「入れときたいです。あの柱の裏側がどうなってるかも見たいし。……あ、それと、そぴあでいいですよ」

 

 らでんは古い写真を指に挟んだまま、ぱっと顔を上げた。てっきり石柱の向きの話が続くものだと思って聞いていたので、不意に出てきた名前のところで一拍遅れた。

 

「名前、もうさん付けしなくて大丈夫ですよ」

「あ……じゃあ、そぴあ。らでんのことも、そのまま呼んでよ」

「うん。分かった」

 

 実際に声に出して呼んでみると、思っていたよりずっとすんなり唇から出た。そぴあは少し照れたように笑って頷き、手にしていた茶封筒の口をこちらへ向けた。

 

「じゃあ、らでん。そっちの封筒の端、ちょっと押さえててくれない?」

「えー、名前で呼ばれたと思ったら、もう仕事頼まれたんですけど」

「だって、今ちょうどらでんの手が空いてたから」

「空けてあげました。どうぞ」

 

 軽口を返しながら、茶封筒の端を両手で押さえる。そこへそぴあが選んだ写真の束を滑り込ませたところで、印画紙の角が封筒の口に引っかかった。入れやすいように少し傾けようとしたら、向こうのそぴあの手もまったく同じタイミングで同じ方へ動く。

 二人分の親切が重なると、かえって写真の角が入らない。らでんはおかしくなって手を止めた。

 

「あ、そぴあ、そっちの手はそのまま動かさないで持っててくれる?」

「あ、そっか。らでんの方だけ動かす?」

「そうそう」

 

 片方の手だけをすっと動かすと、引っかかっていた紙の端がようやく綺麗に封筒へ収まった。明日ミオに借りる改修図面の写しもすぐ一緒に入れられるよう、封は閉じないまま資料の箱の上へ置いておく。

 

 すると、片づけた写真の下から、昨日の夜に二人で描いたあの彫刻の予想図がひょっこり覗いた。実物を見る前にああでもないこうでもないと引いた細い線の横へ、今朝展示室で確かめたねじれた帯の幅が描き足されている。

 らでんはその重なった鉛筆の線を見つけ、図面用の封筒へしまいかけた手を止めた。この一枚も、できればもう一度実物の前へ持って行って並べてみたかった。

 

「らでん、それも明日持っていく?」

「うん、持っていきたい。もう一回、実物の彫刻と並べて見たいんだよね」

「そぴあも、もう一回見たい。今度はあの低い足元の下から見上げて描いてみようかな」

 

 明日、もしまた展示室で新しく描きたくなったらすぐ使えるように、まっさらな白い紙をもう一枚だけその下へ添えた。机の上にあの旧施設の入口図とこのスケッチが並んでいると、明日もまた見たい場所をどんどん増やしてしまいそうだ。

 

 少し冷えた体を温めようと、らでんはお湯を沸かし直しに台所へ立った。振り返った先では、そぴあがすでに二人分の空のカップを手に持っていた。せっかくならついでにお願いしてしまおうと、らでんは口を開いた。

 

「そぴあ、ついでに私のも持ってきてよ」

「うん、そのつもり。らでん、どっちのカップがいい?」

「多い方」

「まだお湯も入ってないよ」

 

 らでんは声を上げて笑って、そぴあから差し出された二つのカップを受け取った。

 

ゴシカ・シティ編、最後までお付き合いいただきありがとうございました! さて、十老頭入りを果たした桐生組。となれば、気になるのは、その武力を担う念能力者集団――《陰獣》です。 皆さんは、誰に陰獣の一員として登場・活躍してほしいですか? 今後の構想の参考にさせていただきます!

  • 桐生組直参 天音かなた
  • 桐生組直参 角巻わため
  • 金虎堂頭領 虎金妃笑虎
  • ベルベット商会 フィクサー 一条莉々華
  • ゴシカでは掃除屋が陰獣を兼ねるしきたり
  • その他新規で別のホロメン
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。