1994年9月18日
14:54
右の刀の向こうに、黒い箱の角が見えた。
あやめの腰の後ろ。さっきは隣に座れば見えた物が、今は二本の刃の先にある。
そこまで、たった数歩。間にあるのは刀と、何も落ちていない乾いた舗装だ。
赤い目が、はじめを見ていた。
胸の高さにある右の刀。その下で、斜めに寝かされた左の刀。
隙間はある。人が一人、通れそうな隙間だ。
たぶん、通ったら斬られる。
あやめの周りには、薄くオーラが広がっていた。
広場全体を覆うほどではない。
けれど刀が届くところへ入るには、その中を通らなくてはならない。
《円》
右へ蹴るなら左足に体重を預ける。左へ出るなら、その逆。
目の前の用心棒は、そういう準備を拾ってくる。
刀を構えて待っているだけなのに、足を預ける先がもう危ない気がした。
『外からの接近は、まだない。抜ける通りにも人影はないよ』
「うん。ありがと」
北では、かなたとわためが止めてくれている。
ルイ姉も周りを見ている。
ここを抜けるのは、はじめの仕事だ。
片手ずつリュックの肩紐を引き、背中へ寄せた。
薄いオーラを、両方の靴底へ回す。
次の一歩を読まれるなら。
広がる《円》の手前で、小さく地面を蹴った。
あとは、足を振り出さない。
靴裏を薄いオーラで覆った。変化させ地面の上を滑る。
力を抜け、脱力しろ、最大限リラックスした状態で相手の間合いへ。
《
靴底と舗装の間を、薄いオーラで滑る。
肩を落とし、腕を緩めた。
膝にも、腰にも、次に蹴り出すための力を溜めない。
両足を地面へ置いたまま、最初の踏み込みの勢いで身体だけがスッと近づいていく。
左へ抜けるか。右へ抜けるか。それとも下か。
どちらでも最速に動ける。
どちらかの脚に体重を預け直す、その手前のまま進む。
あやめの目が、靴先から肩へ戻った。
今いる場所は、見えている。
《円》が近づく。
それでも、次に蹴る足は見せていない。
広がるオーラへ、靴先が触れた。
あやめの右手が動く。
その瞬間、はじめは身体を支えていた力を抜いた。
《
腰が、くっと落ちる。
肩も、背中のリュックも、そのまま刃の下へ。
頭のすぐ上を刀が走り、風が帽子の縁をはたいた。
左の袖が、遅れて裂ける。
腕には届いていない。
避けた。
低いまま滑り、右肩を先にして、あやめの左脇へ抜けようとした。
ここまで入れば、拳が届く。
その先へ、もう一本が来た。
左の刀。
低く寝かされていた切っ先が、斜めに跳ね上がる。
立ち上がるところを待っているのではない。
今、下へ逃がした頭を、そのまま斬るための刃だ。
顔も胸も、右肩のあとについていく。
その先が、銀色で塞がれた。
うわ。次が読まれた。
そっちまで、用意してあるのか。
止まれば間に合わない。
後ろへ跳ぶために足を置き直す、その時間もない。
左の刃が、もうそこにある。
広場の音が、遠くなった。世界がどんどん遠くなる。
まるで自分とあやめしか世界にいなくなったような。
〈初動を読めないよう脱力姿勢のまま正面突破……余の一の太刀をかわすには、いい考えだった余〉
あやめの声だった。
けれど、口は動いていない。
〈でも、それ悪手だよ。余にも次があるって、考えなかった?〉
声になるより前の言葉が、耳の奥へ届く。
考えた。考えたけど、こんなに次が早いとは聞いてない。
そう思った途端、赤い目が笑った。
〈さようなら、楽しかった〉
刀が近い。
これだけの言葉を交わせる時間なんて、あるはずがない。
それなのに、胸の中だけが妙にはっきりしていた。
戻さなきゃ。
でも、戻している間に――。
その時、別の声を思い出した。
「一呼吸を、”分”と呼ぶ」
「一分も息止めんの?」
「時計の一分ではない。ひと息のことじゃ」
老人が笑い、胸の前で手を開いた。
「その分を八つに分けて、”秒”。さらに細かく十六に分け、”糸”、”忽”と分けてゆく。動きの間を、それほど小さく見よという教えじゃ」
はじめは、自分の手へ目を戻した。
「……そこまで数えてたら、相手に殴られるけど」
「そうじゃな」
「そうじゃな、じゃなくて」
「拳を出そうとして、息を止める。肩を固める。脚を踏ん張る。さて打つぞ、と身体へ知らせておる。考えている間に相手は打てる」
目の前の、布を巻いた柱を見る。
はじめは拳を構え直した。
「では、もう一度。息を速くするのではないぞ」
「動くのは速く?」
「
肩に入った力が、自分でも分かった。
はじめは一度、腕を下ろした。
踊る時、次の動きが身体から出ることがある。
足を置く。腰が動く。
そのあと肩、と考えなくても、一つの動きになる。
今も、そうすればいい。
息を吐いた。
その息を途中で止めず、拳を出した。
布が、短く鳴った。
拳が柱へ触れた時には、足裏も、腰も、肩も、オーラも、そこに揃っていた。
打ってから気づいた。
いつも先に入れていた力が、いらなかった。
「……いまの」
和尚が、膝から身を起こした。
さっきまで細く笑っていた目が、大きく開いている。
「見事」
もう一度、頷いた。
「今のが”忽”の先、”雲耀”」
はじめは手を開いた。
すごいことをした手には見えない。いつもの手だった。
ただ、打つ前と打ったあとが、すぐ隣にあった。
「もっかい、できるかな」
「まず、今の呼吸を忘れるな。型だけ覚えて帰るでないぞ。おぬしは今、息まで一緒に打っておった」
今の呼吸を、忘れるな。
息を止めていた。
斬られる、と身体を固めていた。
はじめは、その力をほどいた。
戻すのは、斬られるところだけ。
右肩を引く。
前へ出した時と同じ道を、逆向きに。
顎が戻る。胸が引ける。腰は、まだ前へ滑っている。
頭から順に、上半身だけを巻き戻した。
《
踊っている時なら、何度もやった。
進んでいた動きを、いきなり逆再生する。
肩を戻しても、腰はついてこない。
胸を引いても、脚まで帰さない。
身体の全部に、同じ命令を出す必要はない。
左の刀が、顎の前を斜めに通った。
風が頬を擦る。
頭を戻したあとの空間へ、刃が切り上がっていく。
〈――え?〉
短い声が、遠ざかった。
広場の音が戻ってくる。
まだだ。
あやめは、まだ刀を持っている。
膝は深く折れたまま。
腰は前、胸は後ろ。
背中のリュックが地面へ触れそうなくらい、上半身だけが反っている。
ここから普通に立とうとしたら、三の刀で斬られる。
左の踵だけ、薄いオーラを引いた。
靴底が舗装を噛む。
つま先を浮かせ、その踵を軸にして、腰をくるりと回した。
《
右足は滑ったまま、外へ弧を描く。
反った胸を起こす前に、腰だけが横を向いた。
遅れて肩が回り、頭がそのあとを追う。
低く折り畳んだ身体が、足元の一点を残して向きを変える。
床すれすれのターン。
踊りの途中みたいに、そこからまた動きが始まった。
あやめの左手が、刀を返そうとしていた。
その手首の内側へ掌を添え、戻ってくる道を一瞬だけ塞ぐ。
刃には触らない。
右の刀の柄も、もう引かれ始めている。
二本とも、まだ終わっていない。
こっちも、終わらせない。
右の靴底を地面へ戻す。
滑ってきた勢いを受け止め、回ってきた腰をその上へ送った。
膝がほどける。胴が戻る。肩が前へ出る。
さっきは巻き戻した順番を、今度は足元からつなぎ直す。
《
回避の終わりが、そのまま次の動きの頭になる。
踊りなら、ここで一度構えたら間が空く。
身体も、見ている相手も、そこで待ってしまう。
だから止めない。反った背中を起こす動きも、腰を回した続きも、全部使う。
あやめの胴へ、オーラが戻っていた。
間に合う。
そういう速さで、守りが集まってくる。
でも、こっちはもう踏み直さない。
拳を引かない。
息が抜ける、その途中で。
足裏から胴へ、胴から腕へ、右の拳へ。
全身をつないできた動きが、そこで一瞬、きゅっと締まった。
打つ形と《流》が、一つに揃った。
《”雲耀”・
守りが集まりきる前へ、短い拳が届いた。
背中の箱から外れた、肋骨の下、身体の正面。
肘が伸びきるより先に、鈍い手応えが返る。
あやめの口が開いた。
声になる前の息だけが、そこから抜けた。
足で支えていた高さが落ち、片膝が舗装につく。
はじめは手首を離し、刃の外へ身体を抜いた。
右の刀の先が地面を擦り、柄を握っていた指がほどけた。
左も下がり、二本とも舗装へ落ちる。
あやめは、すぐに足を立て直そうとした。
膝が少し浮いて、また落ちる。
息を吸おうとして口を開き、片手で腹を押さえた。
顔は上がっている。こちらを追う目も残っていた。
けれど、刀を振るための腰が起きない。
落ちた刀の柄を、靴先で押した。
一本ずつ、あやめの腕が届かない舗装へ滑らせる。
指が追ってきたが、握るところまでは届かず、身体を支えるために地面へ戻った。
はじめも、ようやく最後まで息を吐いた。
危なかった。
滑って入っても、二本目までちゃんと来た。
最後の刃が通った場所を思うと、今になって首の後ろが冷える。
14:56
『はじめ、大丈夫?』
「動ける。今、箱取る」
声を出すと、思ったより息が弾んでいた。
拳を開く。肩の奥が重い。
朝から走って、登って、殴ってきた分に、今の分がちゃんと増えている。
それでも、両脚で立てる。手も動く。
あやめが顔を上げた。
白い髪が頬に落ち、口元が少し動く。
「……今のも、踊りのやつ?」
「
「先に……見せて余」
「見せたら、斬るじゃん」
あやめが笑いかけ、途中で息を止めた。
はじめは背中側へ回った。
黒いケースは、二本の短いベルトで腰の帯へ留められていた。
地面には当たっていない。
底を片手で支え、バックルへ指をかける。
「箱、外すよ」
はじめは留め具を順に外し、鞘に引っかけないよう持ち上げた。
箱の重さが、そのまま手へ移る。あやめの肩が動いた。
はじめは一歩離れたが、向こうの手はケースへ来ず、もう一度舗装を支えた。
取れた。
まだ、中を見なければいけない。
「ルイ姉。ケース、取った。確かめたい」
『左の抜け口から出て。角を曲がった先、今は人がいない。そちらを見る』
「分かった」
持ち手を握り直し、歩き出した。
抜け口の手前で一度振り返る。
あやめは膝をついたまま、顔だけをこちらへ向けていた。
刀は手から離れたところにある。
赤煉瓦の角を曲がるまで、背中に刃は来なかった。
◇ ◇ ◇
14:58
通りの脇でリュックを下ろした。
頭の上には空があり、通りの先も見える。
ケースを平らに置いてしゃがむと、閉じた蓋の上へ自分の影が落ちた。
『近づく人はなし。確認して』
携帯を出し、朝にらでんから届いた写真を開く。それを脇へ置いてから、ケースの留め具を外した。
黒い緩衝材のくぼみに、《蝉》がいた。
掌に載るくらいの、小さな品だった。
金属の胴に配された石。その左右に、薄い翅が広がっている。
あった。
写真を大きくし、石の並びと間隔を追った。
翅の輪郭、先端の形、内側を走る細い線。
画面とケースの中を順に見比べる。
見えている特徴は合っていた。
朝から画面の中でばかり見ていた《夜明けの蝉》が、今は手元にある。
もう少しよく見ようと、顔を横へ動かした。
翅が、青くなった。
さっきまで濃い紺だと思っていたところだった。
触っていない。ケースも動かしていない。
見る場所を少し変えただけで、翅の端まで明るい色が渡っていく。
さらに角度を変えると、その薄い面に淡い金色が浮いた。
「……すげー」
さっきの位置へ戻る。
金色が引き、青が深くなって、紺へ戻った。
《蝉》はずっと、同じ形で収まっている。
動いたのは、はじめの頭だけだ。
七宝、とらでんは言っていた。
見る角度で色が変わる。
聞いた時は、そのままの意味で受け取った。
言われたとおりだ。なのに、聞いていた時とは全然違う。
箱の縁へ指を置いた。力を入れていた指が、そこでようやく緩んだ。
こんな薄い翅の中に、何色もある。
これを二百年くらい前の誰かが作ったのか。
らでんに話したら、また知らない言葉が五個くらい増えるんだろうな。
今度は、増えてもいい気がした。
『はじめ? 中、合ってた?』
「うん。写真と、形も石の並びも合ってる。《夜明けの蝉》、回収した」
『よし。よくやった、はじめ』
「翅、めちゃくちゃきれい」
『らでんにも伝えてあげないとね』
「うん。これは話す」
もう一度だけ、顔を少し傾ける。
青の端に淡い金が見えた。
はじめは翅へ触れずに蓋を閉じ、二つの留め具を戻した。
閉じれば、ただの黒い箱だ。
でも、その中に何があるのかは、もう知っている。
リュックのカバーをめくって口を開き、中の物を片側へ寄せた。
ケースは収まる大きさだった。
背中側へ寄せて入れ、口を閉じてから両脇の調節ベルトを引く。
布越しに箱が固定され、背負い直しても中で動く感触はなかった。
水も脇のポケットにある。
『はじめ自身は? どこか切られてない?』
「袖は切られた。腕は平気」
裂け目の下を確かめた。
皮膚は切れていない。肘を曲げ、指を握る。
「ちゃんと動く」
『戻ったら見てもらおう。頬のも、触らないでね』
「それ、今日ずっと言われる」
『触りそうだから言ってるの』
伸ばしかけていた指を、肩紐へ戻した。
よく見ている。
背中の重さが、来た時とは違う。
軽い箱一つなのに、当たる感触がやけにはっきりしていた。
「ルイ姉。ココんとこ戻る。どっちへ出よう?」
『北には回らないで。角を二つ戻って、南の歩道を使おう。車道は詰まってるけど、歩く方は通れる』
「じゃ、歩いて戻る。二人にも言っとく」
携帯からかなたへ電話をかけた。
短い呼び出しのあと、聞き慣れた声に変わる。
『はじめちゃん。取れた?』
「取れた。用心棒も止めた。今、公園を出たとこ」
『僕らはまだ北の通り。こっちへ来てる連中は通してない。そっちはルイさんに見てもらって、先に戻ってて』
電話の向こうで、少し離れた声がした。
『はじめちゃん、荷物も一緒ー?』
「一緒! ちゃんと取った!」
『よかったぁ。気をつけて戻ってね』
「二人とも、ありがと」
『うん。じゃ、またあとで』
通話を終え、携帯をしまった。
あの二人が北で止めてくれている間に、こちらも取れた。
刀から一度も目を外せなかった時間を、外側から守ってくれていた。
「ルイ姉。いったんココのとこ。道、お願い」
『了解。次の角は左。今は急がなくていいよ』
肩紐を握って歩き出す。
ずっと取りに行っていた物が、今は自分と同じ速さで進んでいた。
◇ ◇ ◇
15:12
交差点の向こうで、黄色い作業車が潰れた車を持ち上げていた。
歩道まで柵が出ている。はじめは前の人につられて止まり、脇の細い道へ回った。
『そこを抜けたら、次は右。駅前には出ないで』
「こっちも混んでるね」
『一本ずつ見ていこう。通れる方へ案内する』
曲がった先では、店の男が外の看板を引っ込めていた。
携帯を肩と耳で挟み、片手で扉を押さえている。返事をするたび、向こうの通りへ目が行く。
隣の店も、まだ明るいのにシャッターを半分まで下ろしていた。
朝の銃声から、ずいぶん離れたはずなのに。
角の先には黒い車が二台停まっていた。
窓越しに話していた男が、電話へ出るなり顔を背ける。もう一人も、その返事を待つように携帯を持ち上げた。
はじめは二人の前を通らず、買い物袋を提げた人の後ろへついた。
◇ ◇ ◇
15:34
「お。また会った」
歩道の脇から声がした。
店先の低い腰掛けに、白い髪の女の人が座っている。足元には長いケース。
朝、柱の陰で笑っていた人だ。
「あっ、朝の!」
「今度は歩いてるんだ」
「ずっと走ってるわけじゃないよ」
「そりゃそうか。もうひと段落ついた感じ?」
「はやく終わってほしい〜」
獅白ぼたんが、ははっと笑った。
はじめも店の入口から外れ、肩紐を掛け直す。
ぼたんの目が、リュックへ向いた。
中を見せてとは言わなかった。
「大事なものでも運んでるのかい?」
「うん。そっちも重そう」
「重いよー。商売道具一式だからね。だから座ってる」
「なるほどね」
せっかくなので、はじめも空いている端へ腰を下ろした。
背中はつけない。
水を一口飲むと、思っていたより喉が乾いていた。
ぼたんの携帯が震えた。
画面を見て、片方の眉だけが少し上がる。
短く返事を打って、しまった。
「ぼたんも仕事?」
「まだ。今日は、手配が変わったって連絡ばっかりだ。ゴシカもずいぶんと荒れてるねぇ〜」
「それってうちらの朝の騒ぎで?」
「それだけなら、そろそろ落ち着いててもいいんだけどねえ。……なーんかきな臭いんだよなぁ」
通りの向こうで、黒い車の扉が閉まった。
中へ入ろうとしていた男が呼び止められ、また携帯を耳へ当てる。
ぼたんは、その人を見ていた。
「ほら、みんな、話が変わったって顔してる」
「それ、見たら分かるの?」
「みんなピリピリしてるし、さっきまで暇そうだった人が、急に忙しそうになるからね」
ぼたんの口元が、少し上がった。
「こういう日は、急に仕事が入るんだよねえ」
「忙しくなりそうってこと?」
「来るなら、実入りのいい仕事がいいな。せっかくここで待ってるし」
足元の長いケースへ、靴先が軽く触れた。
銃が入っているんだろうな、と今さら思う。
朝も、あれを持っていた。
まだ仕事は来ていないらしい。
でも、ぼたんは帰る気もなさそうだった。
15:42
「獅白さん。そこ、入口は空けておいてください!」
「空けてるよー。ぼたん、端っこ」
制服の女性が、手前の通りから戻ってきた。
遠くまで届く声。
この人も、朝に会った。
はじめが立つと、向こうも足を止めた。
「あっ、あなた! 朝の三人の!」
「あ、朝のお巡りさん」
「今は一人かな?」
「そう。これからはじめは戻るとこ」
「朝、止まってって言いましたよね」
「そうだけど。後ろから追われて銃来てたから、止まれなかった」
女性が、はじめの頬を見た。
笑って誤魔化せる感じではなかったので、水の蓋を閉めた。
「追ってきていたのは、誰なの」
「ベルベット商会の人。こっちは正式な代理人から頼まれた物を、受け取りに行っただけだったんだけど」
「受け取りで、あの騒ぎですか!?」
「はじめも、それ言いたいよ」
ぼたんが横で小さく笑った。
女性はそちらを見ず、手帳を開く。
「お名前と、依頼の確認ができる連絡先は?」
携帯を出し、委任状の画面を見せた。
轟はじめ、と名乗ると、女性は依頼の連絡先も短く書き留めた。
ハンターライセンスを見せると女性はすこし驚いていた。
「プロのハンターさんですか。一体マフィアとつるんで何するんです?」
「本当に受け取って運ぶだけなんだけどなぁ」
「これは、あとで確認します。怪我は手当てしてますね?」
「頬はしてもらった。袖も切れてるけど、中は平気」
左の布を少し持ち上げる。
腕を確かめた女性の無線から、別の通りの名前が聞こえた。
応援を求める声だった。
「百灯、聞こえています。こちら、歩行者を退避させてから向かいます」
返事は早かった。
通りへ足を向け、出てきた荷車を手で止める。
「いま車が入ります! 壁側へ寄ってください! そこのお二人も!」
はじめはぼたんと一緒に下がった。
白黒の車が二台、続けて通る。
朝の騒ぎがあった方とは、違う通りへ曲がった。
「まだ、あっちも揉めてるの?」
「さっきは別の通りでした。今度は、また別。通報が次々来るんです」
女性が無線の音を少し下げた。
その指が、すぐには離れない。
「朝の分だけで終わってくれればよかったんですけどね。今日のゴシカは様子が変だ」
「ほんとに、今日は忙しいねえ」
「獅白さんは、嬉しそうに言わないでください」
「そんな顔してた?」
「してました」
ぼたんが笑う。
お巡りさんは笑わなかった。
「頼むから、このまま何事もなく終わってほしいんですけど」
携帯を耳へ当てた人が、通りの向こうを足早に横切った。
女性はその人を一度見て、はじめへ目を戻した。
「あなたも、また余計な仕事増やさないでね!」
「わかってるよ。あとは運んで終わりだし」
「今は、ね。何かあれば百灯キョーコに。さっきの件も、後で確認しますから」
「うん。分かった」
キョーコは近くの店へ人を下がらせ、通りの先へ向かった。
歩いてきた老人には、段差のない方を指してから行く。
行きたいところがあっても、そこは飛ばさないらしい。
15:48
ぼたんが、長いケースを持ち上げた。
はじめも肩紐を引く。背中に硬い角が当たった。
「じゃ、届ける方、頑張って」
「うん。ぼたんも、いい仕事来るといいね」
「だねえ」
小さく手が上がった。
ケースを持った人が、さっき車の曲がった方を見てから、別の歩道へ入っていく。
「ルイ姉。ココんとこ、あとどっち?」
『次の角を右。正面の通りは避けて、南から戻ろう』
「了解」
歩き出す前に、肩越しにリュックの位置を確かめた。
さっきと同じところに、箱がある。
そのまま、身体の向きを戻す。
はじめは、口元が緩むのを止めなかった。
あの翅を、もう少し見ていたかった。
その続きは、届けてからにする。
赤煉瓦の建物を一つ過ぎ、ルイに言われた角を曲がった。
1994年9月18日
16:05
事務所の前まで来て、はじめは一度足を止めた。
両手で肩紐を直し、背中に寄せた箱が動かないことを確かめる。
取れた。今度こそ、持って帰ってきた。
あとはこれを、今夜二十二時までに競売施設の指定担当へ届ける。ココに車と道を聞いて、正式に受け取ってもらえばいい。
入口へ足を向けると、腿の後ろが少し張った。
ゆっくり歩いても、疲れた分が消えるわけではないらしい。知ってたけど。
事務所の入口にいた男が、はじめを見て扉を押さえた。
朝も見た顔だった。こちらが何か言うより早く、廊下の奥へ声を飛ばす。
「お戻りです」
その声に、書類を抱えた二人が脇へ寄った。
先に通してくれる。ありがたいが、そんなに端へ寄られるほど横幅はない。
「はじめ!」
奥からココが出てきた。
顔を見るなり笑い、こちらへ大きく手を上げる。
「取れたんだって?」
「取れた。箱も中も無事」
「よっしゃ。お前やるじゃねーか!」
差し出された掌へ、はじめも手を上げた。
ぱん、といい音がした。肩の奥にちょっと響いたが、そこは顔に出さないでおく。
「二人が止めてくれたからね。北の方、まだやってる?」
「そろそろ片づくって。さっき連絡あったよ。ほら、先に座んな」
言われなくても座りたい。
客用のソファまで行き、リュックを下ろしかけて、そのまま膝へ抱え直した。
ココがそれを見て笑う。
「大事そうに持つね」
「大事だから。これ、めっちゃ薄いとこある」
「箱に入ってんでしょ」
「はじめが雑にして壊れたら怖いし」
リュックの底を腿の上へ落ち着ける。
これなら、両手を空けても自分の腹に触れている。
「で、お願いがあって。ここから受け渡しのとこまで行きたい。車、出してもらえる?」
「ああ、出すよ」
ココは立ったまま、入口の男へ顎を向けた。
「競売施設まで一台。駅前を回せるか見といて」
「はい、会長」
はじめは、リュックの紐を握ったまま顔を上げた。
今、呼び方が違わなかったか。
聞く前に、腹が鳴った。
昼に三人で食べたのに。
あれはどこへ行ったんだ。
ココがこちらを見る。
はじめも見る。
「……今のは別件」
「だいぶ緊急そうだけど」
「そっちもお願いしたい」
ココが吹き出した。
「飯も! すぐ食えるやつ。私の分も持ってきて」
廊下の男が、返事とほぼ一緒に動いた。
朝から何度も出入りした部屋なのに、人の動く速さが少し違う。
ココの言葉を聞き終わるより先に、次の用事へ足が向いていた。
「ルイ姉、着いた。車の手配、してもらう」
『了解。こっちは外を見てる。出る時に呼んでね』
「うん。ご飯も来る」
『そっちの報告も来たか』
「大事なやつだから」
受信は残し、送話だけを切り替えた。
ココが向かいのソファへ腰を下ろす。
笑っていた目が、はじめの左腕で止まった。
「……それ、袖?」
「袖」
「中は?」
「はじめ」
一拍置いて、ココが声を上げて笑った。
「いや、そりゃそうだわ。切れてない?」
「うん。ほら」
裂けた布を持ち上げて見せる。
腕に赤い筋はなかった。指も握れるし、肘も曲がる。
ココは身を乗り出して確かめると、ようやく背もたれへ戻った。
「よかった。あのあやめ相手に、服で済んだなら安いもんだ」
「はじめの服なんだけど」
「それはごめんな」
すぐに謝られると、怒るところもなかった。
水と、紙に包まれたサンドイッチが来た。
はじめは受け取った皿を脇の卓へ置き、一つだけ手に取る。
膝からリュックをどけなくても食べられるのが、ものすごくありがたい。
一口かじると、パンの間から卵が少しはみ出した。
落ちる前に口で捕まえる。
「そんな急がなくても、誰も取んないよ」
「落ちそうだったの」
「そっちか」
ココも同じ包みを開いた。
皿もパンも、向かいとこちらで同じだった。
はじめはもう一口食べ、水を飲んだ。
喉が通る。肩に入っていた力が、少し抜ける。
ようやく、刀が来ない場所で座っている気がした。
携帯を出し、らでんへの連絡を打つ。
『《蝉》、回収した。写真と形も石の並びも合ってる。今から受け渡しに向かう。翅めちゃくちゃきれい』
最後の一文は、いったん消してから、また入れた。
それも報告しておこう。
あれは、ちゃんと見た。
送信して携帯をしまうと、ココがパンを持ったままこちらを見ていた。
「相方?」
「うん。まだ向こうで仕事してるから」
「じゃあ、こっちもちゃんと送らないとね」
はじめは頷き、残りを口へ運んだ。
北で二人が頑張ってくれて、ルイ姉が道を見てくれて、ここへ戻ればご飯まで出る。
最後の運搬も何とかなる。そう思うと、今になって膝の上の重さが嬉しくなった。
16:12
「でさ」
ココが空の包みを畳んだ。
「ちゃんと言っとくわ。今日は、本当に助かった。ありがとう」
はじめは、次のサンドイッチを取ろうとしていた手を止めた。
向かいの声が少し変わっていた。
さっきまでの笑いの続きなのに、目はこちらへまっすぐ向いている。
「あんたが商会をかき回してくれたおかげで、こっちも邪魔を片づけられた。おかげで、私がボスだ」
「……ボスだったじゃん」
「もっと上の」
「もっと?」
ココが親指で、天井の方を示した。
「親父の席。今は私」
「え」
はじめの手が、皿の手前へ戻った。
「ヴァレンティ会は、私がまとめる。桐生組が頭になるわけ。さっきの呼び方、聞こえた?」
「聞こえたけど。会長って」
「そ。今日から」
ココが、ちょっと得意そうに顎を上げた。
その仕草は分かる。何かうまくいった時の顔だ。
ただ、うまくいったことの大きさが、よく分からない。
「親父の席って、ゴシカ・マフィアのトップってこと?」
「そこ。今日から十老頭に桐生組が入る。嬉しいねぇ」
即答だった。
はじめは膝のリュックを見た。
箱を取り返して、歩いてここへ帰ってきた。
その間に、向かいの人が十老頭になったらしい。
「はじめ、そんな長いこと出てた?」
「時間の問題じゃないでしょ」
「でも、出る前と話の大きさ違うじゃん」
「だから。前から準備してたんだって。今日、急に偉くなりたくなったわけじゃないの」
ココは笑いながら、水へ手を伸ばした。
「椅子はもう揺れてた。そこへチャンスが来てね。商会が走り回って、動いてほしい連中も動いてくれた。あんたが取りに行ってくれたから、私も取りに行けたってこと。おかげで邪魔者が一掃できたよ。商会も他の組も、私に逆らう奴はゴシカにはいない。邪魔者は警察くらいかな。中立の掃除屋と」
「……取る物、違いすぎない?」
ココの肩が揺れた。
「そこは人それぞれじゃん」
「それで済む?」
「済んだんだわ、これが」
廊下で足音が止まった。
「会長。かなた様、わため様、二人も、こちらへ戻るとのことです」
「分かった。お疲れって伝えといて」
「はい」
男はそれだけ告げて離れた。
もう、呼び間違いではなかった。
はじめは皿へ手を伸ばし、二つ目を取った。
腹は空いている。話が大きくなっても、そこは変わらない。
「二人が戻ったら、お礼言ってから行きたい」
「入れ違いになるかもよ。車の方が早い」
「じゃ、あとで電話する」
「うん。喜ぶわ」
ココは頷いたあと、少しだけ身を乗り出した。
「私からも、ありがとね。あんたが無事に帰ってきてくれてよかった」
はじめは口の中を飲み込んだ。
「こっちも、ほんと助かった。朝からずっと」
言うと、ココが笑った。
大きい話のあとでも、知っている顔だった。
はじめも笑い返し、残りのパンを食べた。
16:17
「その《蝉》さ。実物、そんなにきれいだった?」
ココの目が、膝のリュックへ落ちた。
「うん。写真と違う」
「合ってたんじゃなかった?」
「物は合ってる。そうじゃなくて、見るとこ変えると色も変わるの」
「ああ、そういうことね」
はじめは頷いた。
言葉だけだと、本当にそれだけになる。
「ここでなら、見せられるよ」
卓の皿を脇へ寄せ、紙ナプキンで指を拭く。
リュックの調節ベルトを緩め、口を大きく開いた。
ケースは抜き切らず、底を膝で水平に支える。
中身が傾かない位置を作ってから、二つの留め具へ指をかけた。
蓋を開ける。
黒いくぼみの中で、薄い翅が紺に光った。
ココが、口を閉じた。
はじめは箱の縁を持ったまま、少し待った。
向かいの顔が横へ動く。部屋の明かりを受けて、翅の片側が青くなった。
「あ、ほんとだ」
「ね。そっち行くと、まだ変わる」
「どっち?」
「もうちょい」
ココが肩をずらした。
青かったところへ淡い金が差す。
「……いいね、これ」
声が近かった。
伸びかけたココの指が、箱の縁の手前で止まる。
はじめは無意識に底を支え直したが、その手は触れずに引っ込んだ。
「ずっと見てたくなるじゃん」
「分かる。さっき、ちょっと見てた」
「ちょっとで済んだ?」
「ルイ姉に呼ばれた」
ココが笑った。
はじめも口元を緩め、翅に触れないよう蓋を戻す。
一つ目の留め具を閉じたところで、向かいから言われた。
「……それ、私の就任祝いにくれない?」
指が止まった。
「……《蝉》?」
「うん」
「それは、だめ」
「即答じゃん」
「はじめがあげていいやつじゃない」
二つ目も閉める。
硬い音が、二人の間でした。
ココはまだ笑っていた。
「だよねえ。でも実物見たら、やっぱ欲しいわ」
「欲しいで持ってっちゃだめなやつ。お祝いは別の物にして」
「例えば?」
「それは、これから考える」
ココが吹き出した。
「何も決まってないだろー」
「就任したって今聞いたからね?」
ケースを背中側へ戻す。
緩めたベルトを引き、布越しに箱が動かないことを確かめた。
ココに贈る物なら、もっと大きくて丈夫な物がよさそうだ。
こんな薄い翅を、事務所の机へぽんと置かれたら落ち着かない。
口を閉じ、リュックを持ち直す。
顔を上げると、ココが笑っていなかった。
さっきまで水のコップへ添えていた指も、ソファへ預けていた肩も、止まっている。
こちらの手元ではなく、顔を見ていた。
「もう一回だけ、聞くね」
声は大きくなかった。
廊下で話していた二人の声が、そこで途切れた。
「はじめちゃん。私の就任祝いに、
はじめは、リュックの持ち手を握った。
冗談ではなかった。
最初から、欲しいと言ったのは本当だったのだ。
そのことが、今度はちゃんと分かった。
ココの膝と、自分の膝。
その間に卓がある。横へ抜けるには、先に足を床へ置き直さないといけない。
背中にはソファ。リュックは、まだ膝の上だ。
入口の方で服が擦れた。
そちらを見るために、目を外したくなかった。
喉の奥が、さっきより狭い。
水はまだ卓にある。でも、手を伸ばす気にはならない。
「渡さないよ」
はじめはココを見た。
「預かった物だから。これを届けるのが、はじめの仕事」
ココは動かなかった。
こちらも、持ち手から指を離さない。
廊下の奥で電話が鳴った。
一度、二度。
誰かが取ったところで、ココの口元が緩んだ。
「あー……そっか」
背もたれへ、大きく身体を戻す。
「悪かった。無理言ったね」
コップを取る指が動いた。
さっきのココだった。
片手で水を飲み、口を離してから、少し照れたように笑う。
「いきなり欲張りすぎたわ」
「……だいぶね」
返すと、また笑った。
はじめも息を吐く。
けれど、握っていた指は一度に緩まなかった。
入口から、車の用意ができたという声がした。
「じゃ、行きな。受け渡し、あるんでしょ」
「うん」
はじめはリュックを持って立った。
片腕ずつ肩紐を通し、背中へ引き寄せる。ケースは中にある。
携帯も、委任状も、写真も。何も置いていかない。
水を最後に一口もらい、空の包みを皿へまとめた。
「ご飯、ごちそうさま」
「そこまできっちり片づけなくていいって」
「食べたのはじめだし」
ココはその返しにも笑った。
いつもの速さだった。
どこからがいつもと違っていたのか、分からなくなりそうだった。
廊下へ出ても、止められなかった。
横へ寄っていた男たちが、今度も道を空ける。
はじめは帽子を直し、扉の手前で振り向いた。
ココが片手を上げた。
「じゃあね、はじめ。
「……うん」
返事をして、外へ出た。
傾いた日差しが、帽子の縁を白くした。
◇ ◇ ◇
16:22
『はじめ。その車、乗らないで』
耳の中で、ルイの声がした。
入口のすぐ右に、黒い車が寄せられていた。
後席の扉が開いている。脇へ立った男が、はじめへ手を差し出した。
「お荷物を」
はじめは、肩紐から手を離さなかった。
運転席にも人がいる。行きに送ってくれた運転手とは、違う顔だった。
『聞いて。あなたに懸賞が出た。手配の登録を確認した。まず、そこから離れて』
送話を戻す。
「……はじめに?」
『そう。車の向こうからも一人来てる。乗らずに右へ。青い日よけの角まで進んで』
後席の向こうに、靴が見えた。
車の陰から回ってくる。こちら側の男は手を引っ込めず、はじめと扉の間へ半歩出た。
はじめは、その足が着く前に横へずれた。
「ごめん。ちょっと用事できた」
差し出された手の外を通り、歩き出す。
「はじめさん。お車、こちらです」
声が背中へ来た。
振り返らず、歩幅を広げた。
『中で何があった?』
「ココに、《蝉》が欲しいって言われた」
『それで?』
「断った。二回とも」
ルイの返事が、少しだけ遅れた。
『分かった。今は戻らないで。日よけの手前、曲がって』
「うん」
角へ入ったところで走り出した。
靴底が舗装を叩く。
事務所の扉が見えなくなっても、肩の力が抜けなかった。
さっきは普通に外へ出られた。
ご飯の礼も言った。ココも笑っていた。
なのに、車には乗るなと言われた。
『後ろの二人、ついてきてる。次の出口は右。人が多いから、建物寄りを進んで』
「了解」
事情を聞きに帰る道は、もう使えなかった。
16:23
路地は、劇場前の広い通りへ抜けていた。
買い物袋を提げた人と、店から出てくる人。その間を、紙袋や飲み物が行き交っている。
はじめは右へ曲がり、建物に沿って進んだ。
向かいのビルで流れていた音楽が、途中で切れた。
『ゴシカ・シティのみなさーん、こんにちは!』
ものすごく、聞き覚えのある声だった。
はじめは顔を上げた。
商業ビルの外壁いっぱいにある大型画面で、莉々華が手を振っていた。
『本日はベルベット商会と桐生組から、共同でお知らせがあります!』
「……共同?」
道を歩いたまま、口だけが動いた。
画面の莉々華は、いつもの調子でにこにこしていた。
朝からあちこち走らされたこちらと違って、服も髪も整っている。
『両者の抗争については、先ほど無事に手打ちが成立しました。ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございます! ということで、さっそく次のお仕事です』
莉々華が、画面の横を示した。
そこへ、自分の顔が出た。
はじめは一歩だけ、歩幅を間違えた。
前の人の踵へぶつかる手前で足を引き、横へ避ける。
『こちら、轟はじめちゃん。両者共同の手配対象となります。懸賞金は』
写真の下へ、数字が出る。
100,000,000ジェニー。
『一億ジェニーです!』
「いちおく」
読めた。
読めたけど、頭がすぐにはついてこなかった。
『生死は問いません。携行品も回収対象ですので、そちらもお忘れなく。写真と詳しい条件は、登録者のみなさんへ配信しますね』
ピッ、と近くで音がした。
店の入口に立っていた男が、携帯を見た。
少し先でも鳴った。道の向こうでは二つ。
自分の耳に近いところで、また一つ。
はじめは画面から目を戻した。
左手に携帯。
右手が上着の内側へ入る。
別の男は、はじめの顔を見て、それから背中へ視線を落とした。
片手で誰かへ電話をかけながら、歩道の中央へ出てくる。
子供の手を引いていた女性が、二人の間を見て足を止めた。
すぐに子供を抱き寄せ、近くの店へ入る。
店の中から「警察、呼んで」と声がした。
すべての人が、こちらを狙っているわけじゃない。
でも、狙う人だけが止まらずに近づいてくる。
避ける人の作った隙間を、そいつらが使っていた。
『はじめ。画面を見ないで。二十メートル先の右、搬入口の通りへ入って』
「……あの二つ、仲直りしたの」
『聞いた。今は道を見て』
「はじめだけ、仲直りに入ってないじゃん」
『正確にはヴァレンティ会……今は桐生組か、傘下も含め全十一組の連名で懸賞金が懸かかってる。ベルベット商会も金虎堂も名前がある。つまり
莉々華の声が、頭の上から降ってくる。
『はじめちゃん、聞こえてるかな? 頑張って逃げてね。莉々華はお仕事が済んだので、ここで失礼しまーす』
画面の中で、小さく手を振る。
『まあ、この街から逃げるのは、難しいと思うけど』
笑顔が消えた。
何事もなかったように、冷たい飲み物の広告が始まる。
はじめの行く先で、男が銃を抜いた。