滞在三日目の朝、らでんは宿の共用机で茶封筒の口を開き、中身をもう一度確かめた。半ば壁に埋まった石柱を横から撮った写真もちゃんとおさまっている。昨夜、そぴあと頭を突き合わせて選んだ一束だ。塞がれた行き止まりの写真をこんなに大事に持ち歩くことになるとは、この町へ来る前には思いもしなかった。
封筒を鞄へ収めると、向かいでそぴあが大小二つの巻尺を机に並べていた。そぴあには今日も、歩いた道のりや建物の形を紙の上へ連れて帰ってもらうことになる。せめて見比べる写真くらいは、らでんがすぐ隣から出せるようにしておきたい。
「そぴあ、巻尺の袋、こっちの鞄にもまだ入るけど、片方持とうか?」
「あ、ありがとう。じゃあ、短い方お願いしてもいい? 長い方は私が持ってくね」
手渡された短い巻尺の袋を受け取り、写真の封筒のすぐ隣へ滑り込ませた。そのまま鞄を肩に掛けると、胸元で細い紐が服の下の何かをぐっと押した。あ、お守りだ。
慌てて襟元へ指を入れ、鋼の雪玉を服の外へ出してやる。不揃いな浅い窪みに朝の光が溜まるのを、掌の上でつい少しだけ傾けて見てしまった。せっかくカエラに作って分けてもらった翌朝から、鞄の紐の下敷きにしてしまっては申し訳ない。
奥の自室からピヨンが出てきたので、らでんはさりげなく雪玉から手を離した。机の上の忘れ物を見回すあの目にも、出発前から手元のお守りに寄り道していたところまでは見つかるまい。
「今日は、まずどこから中へ入れるかだね」
「はい。昨日の川沿いの戸口からだと、また平らな壁にご挨拶して終わっちゃうので」
「帰りには、壁の向こう側から挨拶できるといいね」
そぴあが鞄の留め具をパチンと閉じる横で、らでんは昨日描いた入口付近の見取図を封筒から少しだけ引き出した。塞がれた戸口の先には古い廊下が延びていて、その奥の保管庫にはまだ確認されていない品が残されているはずだ。どんな場所で、どんな姿のまま置かれているのか、早く実物に会って確かめたい。
そこへ入る道さえつながれば、品物の前に立てる。今日は図面の上の線を、自分の足で辿って確かめる日だ。
◇ ◇ ◇
記念館の資料室へ入ると、机の上にはすでに三冊の綴りが用意されていた。背表紙の厚みがそれぞれ違う。目当ての改修図が一枚出てくれば十分だと思っていたらでんには、ミオの用意の良さが頼もしいやら、三冊全部に手がかりがありそうでどこから手を付けたものか迷うやらだった。
ミオは一番上の分厚い綴りを開き、色付きの付箋が貼られた頁を指で押さえた。
「昨日言ってた改修の分、工事ごとに分けて出しておいたよ。こっちは屋根を直した分で、その次が、別棟から荷物を運べるようにしたときの書類。最後の薄いのは、ずっとあとから床を直したときのだね」
「あの戸口を塞いだのは、真ん中の工事のときですか?」
「たぶん、そのときだと思う。うちも古い図面は全部読み切れてないんだけど、一緒に見てもらえる?」
まず見つけたいのは、昨日自分たちが立ち止まったあの壁ができた場所だ。らでんが古い入口図の写しを机の真ん中に置くと、隣からそぴあが真ん中の綴りの改修図をぐるりと回して向きを合わせてくれた。外側の石垣の折れ角が同じ向きになり、昨日歩いた川沿いの道が図面の上でもすっと浮かび上がってくる。
古い図で小さな戸口があった場所には、改修図だと新しく壁を足す書き込みが入っていた。ここを塞いだことはこれで間違いない。次に知りたいのは、塞いだ入口の代わりをどこに作ったかだ。
「あ、ここですね。石の柱は残して、その間だけ壁で塞いだんだ」
そぴあの指先は、戸口のすぐ右側に描かれた四角い印の上で止まっていた。古い外観写真では細い庇の下に立っていた、あの石柱だ。
これなら、昨夜そぴあと選んでおいた一枚がさっそく使える。らでんは石柱を横から撮った写真を図面の脇へ並べ、正面からの古い写真と石の継ぎ目の位置を見比べた。地面からの高さがぴたりと重なる。昨日の夕方、塞がれた壁の前で粘って角度を変えて撮っておいた甲斐があった。
「昨日、壁に半分埋まってたの、やっぱりこの柱です。外から見えた石の継ぎ目も、古い写真と合ってました」
「じゃあ、探してた場所は間違ってなさそうだね」
らでんがそのまま図面の奥の廊下へ目を移しかけると、横で同じ綴りの後ろの方をめくっていたピヨンの手がふと止まった。
「……あ、ちょっと待って。今見てるその図、工事前の予定図だね。後ろの方に、工事が出来上がってからの図も入ってるよ」
危ない。まだ予定だった頃の紙の上の道を、もうそのまま歩くつもりになっていた。
ピヨンが開いた完成後の竣工図を、三人で覗き込み直す。旧戸口が壁で塞がれているのは予定図と同じだが、その奥に延びる廊下も、角を曲がった先の保管庫も消えずに残っていた。そして古い廊下の途中へ、横から新しく短い通路の線がつながっている。
「こっちの横からつなげたんですね」
その短い線を指先で辿っていくと、隣の別棟の中へ出た。山側には外へ通じる出入口も描かれている。この道なら、途中で壁に行く手を阻まれずに奥まで行けそうだ。
「あ、そこ、うちがいつも鍵を借りて入る方だよ。入口のすぐ先に掃除道具とかを置く部屋があって、点検の業者さんもそこを使ってるんだ」
「ああ、ミオさんが普段使ってる別棟の入口から、昔の廊下へそのままつながるんですね」
そぴあがさっそく薄い用紙を取り出し、別棟から古い廊下へ抜ける道を写し始めた。らでんも手元の古い戸口の写真を邪魔にならない脇へ寄せる。昨日は川沿いから正面の壁を眺めるしかなかった場所に、今日は横から回り込んで近づけるのだ。
けれど、図面を見比べているうちに小さな疑問が湧いた。どうしてわざわざ外の入口だけを塞いで、別棟からつなぎ直したのだろう。奥の保管庫を壊さずにそのまま残したことにも、何か訳があるのかもしれない。
「じゃあ、奥の保管庫はそのまま残して、荷物を運び込む道だけ変えたのかな」
「あ、その理由もこっちの書類に書いてあるよ」
ピヨンが引き寄せた工事の説明書きを覗き込むと、川沿いの狭い戸口から大きな荷を運び上げる手間を減らすため、と記されていた。それで山側の別棟へ搬入経路をまとめたのだという。
らでんは昨日歩いた川沿いの坂道を思い浮かべた。写真の入った茶封筒一つなら散歩がてら歩けるけれど、重い彫刻や木箱を抱えてあの坂から出入りするのは、確かに考えただけでもあまり嬉しくない。
「中の品を全部別の場所へ動かす代わりに、入口の方を使いやすいところへ動かしたんですね」
「昨日の塞がれた壁を見てるだけだと、そこまでは分からなかったねえ」
ミオも感心したように、夕方の壁の写真と完成後の図面を交互に見ていた。そのままミオが現在の施設管理図を引き寄せるのを見て、らでんは重なりかけた古図の端をさっとよけた。
「ああ、この奥の保管庫、今の管理図だと『旧庫』って書いてあるところなんだ。名前が短くなってるから、うち、昨日の一覧を見ても同じ場所だって気づかなかったよ」
「建物の道だけじゃなくて、名前の方もようやくつながりましたね」
これで、今の記念館の管理図の上でも迷わず目的の場所を指せる。ピヨンが控えの欄外に古い名称と『旧庫』の二つの呼び方を並べて書き留めるのを見ながら、らでんは未確認の残置品が並ぶ一覧表を開いた。
「うん。あとは、図面のとおり実際に歩いて行けるかだね」
紙の上では道がつながった。けれど、実際に自分たちがそこへ立ち入って調べられるかどうかは、また別の手続きが要る。
ミオが写し取った経路図を持って隣室の管理担当へ相談しに行く間、らでんは残置品の写真を一覧の順番どおりにそろえて待った。ほどなく戻ってきたミオの手には、金属の鍵と最近の設備点検記録が握られていた。別棟の入口から旧庫まで通り、三人で室内の品と現状を調べる手配がついたという。
これでやっと現物に会いに行ける。ただし、室内の保存設備を動かすことと、品をその場から運び出すことは、まず現状を見てから別に相談する。その許可の範囲をしっかり確かめてから、らでんは揃えた写真を封筒へしまった。
「途中の通路に何か荷物が置いてあっても、動かす前にうちに教えてね。あと、旧庫の扉の手前には、建物の外側を点検する細い通路も分かれてるよ」
「その細い通路も、見取図に入れておいていいですか? 外から見える範囲だけでも」
「うん、それは大丈夫。ただ、床にある点検口の蓋は、今は開けずにお願いね」
そぴあが頷いてメモを取ったので、らでんも残置品の一覧と写真の写しを受け取った。隣ではピヨンが、当時の保管に関する覚え書きが入った封筒を選んでまとめている。
ずっと見たかった現物の前に立った途端、目についた綺麗なところばかりに気を取られないようにしなくては。らでんは確認すべき一覧表を封筒の一番上へ入れ、きっちりと口を閉じた。
◇ ◇ ◇
別棟の出入口は、昨日歩いた川沿いの道から坂を少しだけ山側へ戻ったところにあった。なんだ、こんなすぐ近くから入れたのか。らでんは一度だけ昨日立ち往生した川沿いの方向を振り返ってから、ミオが鍵を開けてくれた戸口へと向き直った。
ミオが壁のスイッチを入れて照明がつくと、片側へ寄せられた運搬用の台車と、その脇を歩いて通れる廊下が現れた。そぴあが別棟の入口を手元の見取図に記して鞄から巻尺を取り出すまで待ち、四人で一緒に奥へ進む。右へ折れた短い連絡廊下へ入ったところで足元の床材が変わり、その突き当たりで、左右に延びる古い廊下へと出た。
「ここを右に行くと、昨日の戸口の内側ですね。まずそっちで、古い図面と長さが合うか確かめたいです」
目当ての品がある旧庫は左の奥だが、昨日外から見上げたあの壁の裏側がどうなっているのかもやっぱり気になる。らでんは封筒から石柱の写真を抜き出し、そぴあが示した右側の行き止まりへと進んだ。
突き当たりの淡い塗り壁のすぐ脇に、古い石が細く露出している箇所があった。外から見たあの石柱の反対側にあたるなら、写真の石の目と合う場所がこちらにも残っているはずだ。
「らでん、その写真、今の高さでちょっと持っててくれる?」
「うん、これくらい? 手がずれたら教えてね」
見比べやすいように写真の高さを保って待つ。そぴあは露出した柱の脇に巻尺の端を当て、連絡廊下の曲がり角まで測ってからまた戻ってきた。これで古い図面の線がそのまま確かめられると思ったのだが、手元の図と巻尺の目盛りを見比べるそぴあの手がそこでぴたりと止まった。
「あれ、少し寸法が合わないな。そもそも、この柱、古い図面にある幅よりだいぶ太いんだけど」
柱の幅が違うのなら、目印にした石柱そのものを取り違えたのだろうか。らでんは持っていた写真から、そぴあが合わせた巻尺の端へと目を移した。
そぴあが柱の縁として測った白い線は、天井から床まで定規を引いたように真っすぐ通っている。けれど、そのすぐ隣の石の継ぎ目だけが、わずかに古く傾いていた。昔からある石柱の端として見るなら、真っすぐすぎる白い線よりこちらの方が気になる。
「そぴあ、ちょっと待って。今当ててるところ、あとから塗った上張りの端っこかもしれないよ。本当の石の端って、もう少し内側じゃない?」
手元の写真を少し傾けて光を当てると、古い庇の陰に隠れていた小さな石の欠けが見えた。そして今、目の前で露出している石の下の方にも、そっくり同じ形の欠けが残っている。周りの白い上張りは、その古い欠けの途中まで上から薄くかぶさっていた。
「あ、ほんとだ! 柱の上に着せてある分まで一緒に測っちゃってるじゃん」
「思ったより厚着してたね、この柱」
「じゃあ、元の柱の中身はこの辺りからってこと?」
「うん、外に見えてる石の縁はここだと思う。上張りの下に隠れてる反対側までは、まだ分かんないけど」
らでんが写真を低い位置へ下ろすと、そぴあも膝を曲げてしゃがみ込み、同じ高さから覗き込んだ。らでんは露出している石の縁へそっと指を添え、写真の小さな欠けと並べて示した。
「昨夜選んだこの横からの写真、持ってきてよかったね。下の欠けまでちゃんと写ってるやつ。もし正面からの一枚だけだったら、その上張りの線が柱の端だと思ったままだったよ」
昨夜宿の机で選んだときは、ただ柱の向きを確かめたくて入れた一枚だった。それがこんな足元の小さな欠けまで教えてくれるとは、なんだか少し得をした気分だ。こうして暗い廊下の隅でそぴあと頭を寄せて覗き込んでいると、昨夜の共用机の続きをそのまま建物の中でやっているようでもあった。
すると、後ろから足元へ目を落としていたピヨンが、壁際の床を指差した。
「床も、ここだけ板を埋め直してるね。改修の記録にあった『戸の敷居を外した』って、この細長いところじゃない?」
言われて見下ろすと、確かに塞がれた壁のすぐ前にだけ、周囲と少し色の違う薄い木の帯が通っている。その両端の幅は、古い図面にある戸口の幅にぴたりと収まっていた。顔の前の柱ばかりを夢中で見ていたら、自分の靴のすぐ先にあるこんな大事な跡を見落とすところだった。
そぴあが本来の石の縁から曲がり角までを巻尺で測り直すと、今度は古い図面の寸法と綺麗に近づいた。最初に測った少し太い線の方も消さずに残し、現在の壁の上張りの端だと図面に書き添える。二本の線が並んだ見取図を見れば、どうして最初に柱が太く見えたのかも、らでんにはすっきり納得できた。
「あ、つながった。昨日、外から見てた壁って、内側からだとちょうどここなんだ」
らでんはしゃがんだ位置から目の前の白い壁を見上げた。もちろん、こちら側にも扉の取っ手はない。それでも、昨日は川沿いから眺めて引き返すしかなかった壁の向こう側に、今、自分たちの足で立っている。
それなら、今朝宿を出る前に言っていた約束くらいは果たしておこう。
「そぴあ、ご挨拶、しておきます?」
「お邪魔してます。入口は別の方から来ました」
そぴあが急に真面目な顔で声を小さくして壁に頭を下げたので、らでんは噴き出しそうになって写真の後ろへ口元を隠した。まさかそこまで律儀に付き合ってくれるとは思わなかった。
「はい、壁へのご挨拶が済んだら、そろそろ奥の品物にも会いに行こうか」
ピヨンに声を掛けられて、らでんは笑いを収めた。そうだった、今日一番会いたかったのは壁だけではない。
写真を封筒へ戻し、すでに廊下の奥を見ているピヨンの背中についていく。四人で先ほどの連絡廊下の口まで戻り、今度はそこを通り過ぎて古い廊下のさらに奥へ進んだ。突き当たりを右へ折れると、重そうな金属の扉と、その横に掛けられた『旧庫』の札が見えた。
扉のすぐ左手には、ミオが言っていたとおり、保管庫の外壁に沿って人が一人通れるほどの細い通路が延びている。その手前の床にある低い点検口の蓋を見て、らでんは部屋の中へ入ってからも壁の向こうの同じ位置が分かるだろうかと気になった。そぴあは旧庫の扉から点検口までの距離を手早く測って図に描き込み、通路が角の向こうへ折れて隠れた先は無理に埋めず空白のまま残しておいた。
「この床の蓋さ、部屋の中からだとどの辺りになるんだろう。あとで壁の位置と比べてみたいな」
「うん。そぴあ、その見取図あとで貸してよ。中に入ってからも場所を探してみる」
そのとき、金属の扉の前でカチャリと鍵が回る音がして、らでんは写真をしまう手を止めた。
ミオが重たい扉を押し開け、内側の照明をつける。白っぽい光の下に、背の高い棚が並び、すぐ手前に低い台が据えられていた。その低い台の上で、照明を受けて白く光った細長い端に、らでんははっきり見覚えがあった。
もう、手元の写真と交互に見比べなくても一目で分かる。封筒を持っていた手が、自然に体の横へ下がった。
「……あった」
あの白い柄だ。移送記録の一覧の乾いた一行でも、古い白黒写真の隅の影でもなく、確かな長さと厚みを持った本物の品が、今そこに残っている。
今すぐそばまで行って覗き込みたい。けれどらでんは逸る足をいったん止め、まず扉のところからそこへ歩いて行ける床の空き具合を確かめた。
入口から左手の低い台と、右奥の棚までの通路は、荷物がなく綺麗に空いていた。まず扉の立ち位置から室内全体を一枚カメラで撮り、そぴあの見取図へ左の台と右奥の棚の位置を入れてもらう。部屋のさらに奥には、まだ白い布が掛かったままの物や、こちらからは裏側しか見えない木箱も置かれていた。ここにある全部の品を見て回るには、とても午前中だけでは足りない。
左手の刀の台には、刃を下から受ける二つの支持具のほかに、品物の周囲をぐるりと囲う細い金属の枠が付いていた。目を移すと、右奥の棚にもよく似た細い外枠があり、その内側には一つの箱と、同じ大きさの三つの額が並んでいる。写真でずっと探していた品々が続けて目の前に現れて、一覧表を押さえるらでんの指先が急に忙しくなった。
「あ、この右奥の箱も一覧にありますね。上の額の方は、三つで一組になってます」
らでんが写真の写しと一覧の欄を指で示すと、ミオは棚の端に付けられた管理札と読み比べた。
「ああ、控えにあった『三面』って、この三枚の絵のことだったんだ。今の台帳にもそのままの字で写してあったから、うち、てっきり三つ折りの屏風か何かだと思ってたよ」
「この三枚、並べてある向きも前の写真とじっくり比べてみたいです。棚ごとここへ動かしたのか、それとも絵だけあとから置き直したのか、気になるので」
言いながら見ると、そぴあはもう右奥の額の前で膝を曲げて身をかがめていた。らでんもすぐ隣から一緒に覗き込みたい。手元の一覧表を閉じかけたちょうどそのとき、後ろでピヨンが別の紙を広げた。さっき資料室で、保管時の覚え書きと一緒の封筒に入っていた一枚だ。
「ねえ、この棚の札にある印、こっちの紙にもあるね。……それに、描いてある絵の方にも」
どの絵のことだろう。ピヨンの手元を横から覗き込んだらでんは、古い紙の中央に描かれた一人の人物へ目を留めた。今ここにある刀や箱、それに細長い灯りらしい品々が、その人物の周囲を取り囲むように配置されている。そして描かれたどの品の脇にも、右下の角だけが少し開いた四角い印が添えられていた。さらに目を凝らすと、中央に立つ人物の胸元にも、まったく同じ角の開いた四角い印が付いている。
紙の余白にあるセザールの文字は、これを祭の日の構成習作としていた。人物の背後の石段の上には長い布が渡され、周囲の建物や品の配置には鉛筆で描き直した線が何本も重なって残っている。実際にあった光景をそのまま写し取った記録というより、どこに何を並べるかを紙の上であれこれ考えている途中の下絵に見えた。
「ミオさん、この後ろに描いてある階段、町の神社の方ですか?」
「あ、そう見えるね。明日のお祭りでも、あの上のところに長い布を張るよ。でも、こんなふうに品物を並べるのは初めて見たなあ。うちの知ってる神社の飾りつけとは違うよ」
明日の実際の祭りと、この習作はどこまで重なるのだろう。らでんは紙から少し顔を離し、構図の全体を見渡した。町の祭りの景色の中へ手元の収蔵品を並べてみた絵らしいが、不思議なことに、真ん中に立つ人物にはまだ目や鼻といった顔立ちが描き込まれていない。
どんな顔の人かを描くより先に、胸元の四角い印だけを入れたのだろうか。そこだけが、らでんの胸に少し引っかかった。
「これ、品物を運んだり持ったりしてる人を描いたのかな。よく見ると、品物だけじゃなくて人にも同じ印が付いてるんですね」
「品物を扱う側の人に付ける目印なのかもね。それとも、品物と一緒に人も同じやり方で分類してるのかな。ただ、この下絵一枚だけだと、まだどっちとも言えないけど」
ピヨンの言うとおり、扱う役目の印なら分からなくはない。けれど、もしそうならどうして品物の札と同じ形の印を胸に付けたのか、描いた本人に理由を聞いてみたくなる。
ピヨンの視線の先を追うと、実際の刀の台と、三枚の絵をまとめる棚の札にも、やはり右下の開いた似た四角印があった。ただ、印の脇に添えられた細かな番号や書き込みはそれぞれ少しずつ違う。その細かな違いも含めて、見落とさずに残しておきたい。
「そぴあ、棚の札の方も図に写してもらっていい? この紙の印と、大きさも並べて見てみたいんだよね」
「うん、いいよ。紙の真ん中の人のところも、そのまま写しとくね。今のこの部屋の配置とは合わないけど、印の形同士なら比べられそうだし」
そぴあが鉛筆を動かして写し取る間に、らでんも習作の余白の文字までカメラの写真に収めた。今この場で四角い印の意味を一つに決めてしまうには、まだ見比べる材料が足りない。セザールがこの町の祭りのどこに興味を持ち、どうしてこの刀や箱を選んで石段の前に並べようとしたのか。今度はそちらの繋がりも、残された記録の中から探してみよう。
一通り写真を撮り終えると、ミオが入口近くの部材棚を教えてくれた。品物から外して別に保管してある支持具や小さな木片は、現在品物に付いている物と混ざらないよう箱を分けて収めてあるという。これから三人で詳しく調べる際は、添付された取扱い記録に従い、品物を下の支持紙や受け台に載せたまま動かさずに扱うことを改めて確かめた。
「じゃあ、うちはいったん別棟の机に戻って、管理図にも今日通った廊下の範囲を書いておくね。午前の分の調べが終わったら、どの品がどこにあったか教えてもらえる?」
「はい。ここにあるって確かめられた物と、まだ奥にあって見られてない物を分けて、あとでお渡ししますね」
ミオを扉の外へ見送り、ピヨンが金属の扉を静かに閉める。別棟へ戻っていくミオの足音が古い廊下の向こうへ遠ざかり、旧庫の中に三人だけになってから、らでんはそっと《凝》を使った。目へ集めたオーラで視界を澄ませて細部を確かめると、白い柄に近い刀身の根元と、周囲を囲う細い外枠の一角に、うっすらと残されたオーラの揺らぎが見えた。
品物そのものだけでなく、外側の枠にもある。それなら、右奥の箱の方はどうだろう。
「あっちの箱、投函口の縁にも残ってるね。そぴあ、下の方ってそっちから見える?」
「うん、箱を囲ってる外枠にもあるよ。正面から見て、ちょうど右下のところ」
「刀の台の奥側にも見えるね。品物と枠のどこに残ってるか、ちゃんと分けて記録しておこう」
ピヨンも《凝》で室内を確かめながら、低い台の向こう側を指し示していた。らでんは三人の目で見えたオーラの位置を、そぴあの見取図の写しへ丁寧に書き込んでいく。
刀と外枠、箱と外枠。すぐ隣り合って据えられているからといって、品物と枠が同じ働きをするとは限らない。
品物を傷めないための保存設備なのか、それとも品物を使うときに一緒に動かす仕組みなのか。外からオーラの位置を見ただけではまだ判断がつかず、らでんは図面の上でも品物と外枠の間を少し空けたままにしておいた。
「じゃあ、まずは外から見えるところを、手元の記録と比べてみますね」
ピヨンとそぴあが書類の写しを開く間、らでんは真っ先に左手の刀の横へと立った。さっき扉口から見えてずっと近づきたかった白い柄は、刃の根元へ向かって緩やかに細くなっている。そして暗い刀身の上へ走る金の蔓と、小さな三日月形の飾り。
もっとよく見ようとほんの少し体を横へずらした瞬間、沈んでいた金象嵌が蔓の先端から順番にきらりと光った。あ、これだ。驚いて半歩もとの位置へ戻ると、今度は逆の順番に金の光がすっと移っていく。これは絶対、そぴあにも見てもらわないと。
「ねえそぴあ、ちょっとこっち来てみてよ。横から見るとさ、この金の葉っぱが一度には光らないの。これ、すごくよくない?」
勢いよく呼んでおいて、一番よく見える場所を自分がしっかり占領していたことに気づく。らでんは慌てて半歩横へ譲り、そぴあが歩いてきて同じ高さへ目を下げるのを待った。その金の光が見えた瞬間にそぴあがどんな顔をするかまで見たくて、つい刀身と隣の横顔を交互に見てしまう。
「あ、ほんとだ。ここから柄の方に少しずつ動いてくと、金の線がつながって見えるんだね」
「そうそう! これ、実際に手で柄を持ったら、そのすぐ上に金の線がすーっと続くんだよね」
流れるような金の線を目で追うと、その白い柄へ人の手を添えた姿まで自然に思い浮かんだ。握るための場所も、最初から飾りの美しい流れの中に計算されて収まっている。
らでんは引渡し時の古い写真を台の隣へ持ってきて、小さな三日月と、その下で二手に分かれる蔓の形を見比べた。傷や線の曲がりまで、やはり同じ一振りの刀だ。古い写真では角度のせいで隠れていた刃先は、今の状態を別の紙へ新しく描き留めておく。そのすぐ脇で、ピヨンが刀の控えに添えられていた古い書類を開いた。
「この刀が出てきたの、昔の刑場を解体した現場だって。ここには儀礼用の刀って書いてあるけど、らでん、その下の行も読んでみて」
ピヨンが指した行には、実際に刑の執行に用いられた物として伝えられていた、と記されていた。
らでんは書類の文字を一度読み、それからセザールが書いた受入れ控えの分類欄でもう一度確かめた。そこにもはっきり、処刑具の欄に印が載っている。ついさっき、柄を握ったら綺麗だろうなと思い浮かべたばかりの自分の手の位置へ、ひとりでに目が戻った。
「……これ、刑を執行する人の手元まで、あんなに綺麗に見せるんですね」
白い柄のすぐ上から、最初の金の葉が伸びている。さっき体をずらしたとき、順番に光が渡っていくのを見て綺麗だと思った気持ちは、今から取り消すことなんてできなかった。だって、来歴を知った今もう一度見ても、その金の線は変わらず綺麗だ。
ただ、その白い柄を握った手が次に何をするのかまで考えてしまうと、もうさっきと同じ無邪気な目では眺められない。いったい誰のために、刀を振るう手元の動きをこんなにも美しく見せたのだろう。
「儀礼用って書いてあったから、使わずにただ掲げるだけの刀かと思ってた」
「うん、私もそっちだと思ってた。じゃあ、この金の飾り、実際に使うところを周りへ見せるためでもあったんだね」
らでんは一歩下がり、刀の全体へカメラのレンズを向けた。金の葉が光るところだけをアップで撮りたかったさっきとは、シャッターを切る気持ちが少し違う。美しい柄から鋭い刃先まで、実際に使える形のままここに残されているところも全部一枚に写しておきたかった。
セザールはこの重い来歴を知ったうえで、この刀を自分の保管庫へ受け入れている。そして、これをどう残そうとしたのか。
改めて低い台の上へ目を寄せると、刀身を支える二つの受け具は、一番鋭い刃先を巧みに避けて置かれていた。そのすぐ外側に、さっき《凝》で見たオーラの残る細い枠がある。
古い写真と見比べて確かめられるのは受け具の位置までで、外枠の足元がどうなっているかは台の下に隠れて見えなかった。
「この古い写真で比べられるのは、刀と二つの受けの位置までですね」
「じゃあ、外枠の足元のところは、今の見取図の方に分けて描いとくね。台の下の奥までどう続いてるかは、ここからだと見えないし」
そぴあが描きやすいように見取図の向きを変えたので、らでんは刀の記録の写しをそのすぐ脇へ置いた。一度に全部の仕組みは分からなくても、こうして外から見える形から少しずつ確かめていくしかない。
刀の台から右奥の棚へと移ると、今度は真ん中に置かれた木箱の細長い口が気になった。宿の机の上にもそのまま載せられそうな手頃な大きさで、正面の口は手紙の封筒ならすっと通せる幅がある。口の周りの金具に重なった細かな擦れ跡を見て、これまでに何度ここへ誰かの紙が差し入れられたのだろうと思った。箱の前板はぴったり閉じており、外から中は見えない。
その箱のすぐ上の段に、同じ大きさの絵が三枚並んで掛けられていた。一枚目は川の橋の袂、二枚目は坂道に沿う長い石段の通り、そして三枚目は鉢植えの並んだ窓の下に立つ二人の姿。よく見ると、黄土色の袋を肩に掛けた人物が、三枚のどの絵の中にも描かれている。
らでんの目も、その袋を提げた人の後ろについて、橋の袂から石段の通りへと自然に進んだ。
「これ、橋を渡って、次の絵で石段を上がって……それで、最後のこの家に行くところなのかな」
早く三枚目の窓の下を詳しく見たくなったが、その人がどんな道を通ってそこへ着いたのかも順番に見たい。らでんが絵の前を左から右へゆっくり移動していると、隣で見ていたそぴあが人物の肩の袋を指差した。
「ねえ、これ、三枚とも同じ人じゃない? ほら、袋の口の結び目、どれも片方だけ長く垂れてるよ」
なるほど、結び目の長さか。人物の顔つきばかりを追っていたらでんは、言われて黄土色の袋へ目を戻した。一枚目の橋では背中の後ろに半分隠れかけ、二枚目の石段では歩く腰の横へしっかり出ている。そして三枚目の窓の下では、ずっと握っていた袋を持つ手が下へ下がり、空いたもう片方の手が、向かいに立つ人へと真っすぐ伸びていた。
「ほんとだ、よく気づいたね。遠くの絵だと、顔より持ち物の形の方がずっと分かりやすいや。そぴあ、真ん中の二枚目も、もうちょっと近くで一緒に見てくれない?」
「うん。二枚目のここだと、石段の手すりの陰になってて、空いてる方の手が隠れてるんだけど」
「あ、ほんとだ。それで最後の三枚目になると、その隠れてた手が見えるんだね。この窓の下で、ようやく探してた誰かに会えたところなのかな」
この人は、そんなに長い石段を上がって誰に会いに行ったのだろう。そう思いながら三枚目を見つめていたところへ、ピヨンが書類の束から一通の手紙の写しを取り出した。
そこには、生き別れた姉を探している、と綴られていた。昔別れた町の名前と、最後に知っていた古い住所。短い切実な文面を一通り読んでからもう一度三枚の絵へ目を戻すと、ついさっきまではただの町の道順に見えていた二枚目の石段が、急に気の遠くなるほど長い道のりに感じられた。
「この手紙、その三枚の絵と一緒にセザールが受け入れてるね。控えの記録には、『箱に託された手紙に対応する連作』って書いてある。受け入れたときの絵の写真も、三枚とも後ろに残ってるよ」
ピヨンが見せてくれた写真の棚は今の旧庫の棚とは違う場所だったが、描かれた橋の欄干も、石段の曲がり具合も、最後の家の窓辺の鉢植えも、目の前の三枚とぴたりと合っていた。
あの箱の細い口へ入れられたこの手紙に対して、この三枚の絵が渡されたのだろうか。らでんは手紙を書いた人の気持ちになって、もう一度一枚目の橋から順番に見直そうとした。けれど目は、どうしても途中で我慢できずに一番右の窓の下へと行ってしまう。
「この絵を受け取った人は、ちゃんと一枚目から順番に見たのかな。もしらでんだったら、我慢できずに絶対先に三枚目を見ちゃいそう」
「そぴあも、絶対そっちから見ちゃうと思う。だってお姉さんに会えたのかどうか、まず一番に知りたいじゃん」
「ただ、そのあとの差出人からの返事は、この綴りには入ってないね」
ピヨンが控えの最後の頁までめくって確かめてくれたが、その後の記録や返事は見当たらなかった。
どうか本当に会えていてほしい。強くそう思ったあとで、らでんは手紙の写しの余白へ、鉛筆で「その後の返事や受取りの記録を探すこと」と小さく書き足した。
三枚目の絵の中で温かい手が伸びていることと、現実の手紙の主が本当に姉と再会できたかどうかは、まだ別のことだ。混同してはいけないし、だからこそ、この三枚を見てよかったねと思うだけで調べ終わりにはしたくなかった。
記録を書き留めてもう一度三枚目の絵へ向き直ると、隣のそぴあは絵の中の二人ではなく、もっとずっと低い額の下あたりをじっと見ていた。
「らでん、ちょっとこっちの下見て。三枚とも絵の大きさは同じなのに、この三枚目だけ、下の支えの形が違うよ」
呼ばれてらでんも棚板の上を横から覗き込んだ。左の一枚目と真ん中の二枚目には、額の下辺を広く受ける長い支えがある。ところが一番右の三枚目だけは、小さな受け具が左右の二つに分かれていて、真ん中の部分がぽっかり空いていた。
どうしてこの一枚だけ、わざわざ真ん中を空けたのだろう。不思議に思って立つ位置を少しずらすと、三枚目の額の下辺、ちょうど中央に近いところに深い木の割れ目があるのが見えた。塗装の薄い縁がそこだけわずかに浮いている。左右に分かれた二つの受け具は、その傷んで弱った箇所からきちんと距離を離して置かれていた。
「ああ、この真ん中の割れたところに額の重さが掛からないように、わざと間を空けて支えてあるのかもね」
「だとしたら、三枚の上の高さをあんなに綺麗にそろえるの、額の外側の大きさだけじゃ決められないね。下側で重さを受けられる場所が、一枚だけ違うわけだし」
そぴあが横の角度から受け具の配置を図に描き込む間、らでんは床にしゃがんだままの姿勢で三枚の額を見上げた。さっき正面から立ったまま眺めていたときは、ただ当たり前に三枚が並んでいるとしか思わなかったのに。
上の縁を同じ高さへぴたりとそろえるために、見えない下側で一枚だけまったく違う手間を掛けている。姉を探す再会の絵をずっと追っていたらでんの目が、今度はその絵を下から黙って支えている小さな道具から離れなくなった。
「その額の割れ目、ここへ受け入れたときからもうあったみたいだよ」
ピヨンが綴りから出してくれた受入れ当時の写真にも、三枚目の下辺のまったく同じ場所に深い裂け目が写っていた。割れた中央を避けて左右の二箇所で支えるようにした、と写真の脇にセザール自身の字で短く書き添えてある。
さらにピヨンが次の頁をめくると、工房の作業台の上でその額を仮に支えている小さな木の受け具の写真が出てきた。片方の端が斜めに削られていて、すぐ近くに古い釘穴が二つ並んでいる。この少し変わった木の形は、ついさっきも部屋のどこかで見た気がした。
「あれ、これとそっくり同じ形の木、さっきミオさんが教えてくれた入口の部材棚の箱にありませんでした?」
三人で入口近くの部材棚へ戻って確かめると、別分けされた箱の中の支持紙の上に、小さな木具がちょこんと載っているのが見つかった。斜めに落とされた片端と、少しずれて並ぶ二つの小さな釘穴。添えられた控えの札にも、三枚目の額の調整に使った仮受け、とはっきり記されている。
らでんは手元の古い写真を木具の近くへ寄せた。写真の奥では、作業台に向かったセザールが横倒しにした額の下をじっと覗き込んでいる。カメラの方へは顔も向けていない、その低い背中の姿がたまらなく気になった。
この人はあのとき額のどこを見て、どの位置なら重さを預けて大丈夫だと決めたのだろう。写真に写った一瞬だけでなく、あの手元の細かな仕事をもう少し近くで知りたかった。
「ピヨンさん、この木の仮受け、一度ここで読んでみてもいいですか。どんなふうに作業の跡が残ってるのか、見てみたいです」
「うん、やってみようか。何か見えたら、また私たちに聞かせて」
ピヨンが古い写真を棚の脇へ置き、そぴあも木具の外形をスケッチし終えて鉛筆を静かに下ろした。
もちろん、自分の見たい作業の場面が都合よくそのまま出てくるとは限らない。それでも、この小さな木の道具にどんな時間が残っているのかを確かめたいと、らでんは思った。添付の取扱い記録をもう一度読み、仮受けを下の支持紙に載せたまま動かさないよう注意して、欠けのない外側の木肌へそっと指先を添える。
《
指先に伝わる硬い木の感触へ、静かに意識を寄せた。
――――――
横倒しにした額の縁が、すぐ上にあった。セザールは片手でそれを支え、もう片方で薄い木片を差し込んだ。木片が傾くと、一度抜いて端を削る。試し、抜き、今度はわずかに向きを変えた。
「あと少し。……ここで受ければ、持つ」
セザールは顔を低くした。割れた箇所の下へ細い紙を差し入れ、引き抜く。額から手を離し、傾きが戻らないのを待つ間も、指先だけはすぐそばに残していた。
――――――
額から手を離したあとも、すぐそばに指先を残していた。
その最後の仕草が胸の奥にじんわりと残ったまま、らでんは読取を止めた。指先に触れていた木片は、すでに今の旧庫のひんやりした冷たさに戻っている。
らでんは仮受けからそっと手を離し、まず鞄から自分の記録ノートを取り出した。あの手つきにどうしてこんなに感心したのかを考えるより先に、今見えたままの順番を紙へ書き留めておきたい。
横倒しに置かれた額の縁。何度も抜いては木片の端を削り直す手。ぽつりと落ちた短い言葉と、割れ目の下から細い紙を引き抜いたところ。そして手を離してもすぐそばに指を残していた様子までを順に記して二人へ伝えると、そぴあがさっき描いた現在の支持具の図をすっと寄せてきた。
「それって、額の割れたところには重さが掛からずに、下の隙間を紙が通ってたってこと?」
「細い紙を差し入れて引き抜くところははっきり見えたよ。ただ、その紙がどこにも引っかからずにすっと抜けたのかまでは、見えた角度からは分かんない。受けを置く場所は、その前に何度も削って直してたんだけど」
「今の棚の受け具も、ちょうどその割れたところの両側を支えてるもんね。こっちの図にも、真ん中の間がどんなふうに空いてるかもう少し詳しく描いとこうか」
自分が見たばかりの細い紙の動きに、そぴあの具体的な問いがぴたりと重なる。らでんも記憶の中で確実に見えた範囲を確かめ直してから、ピヨンの方へノートを向けた。ピヨンは保管時の覚え書きとらでんのノートを並べて読み比べていた。
「今のらでんの話、こっちの記録と重なるところはあるね。写真の木の仮受けを使って位置を決めてから、今の本受けに替えたみたいだから。たぶん、その調整の途中の作業が少し見えたのかもしれないね」
いつのどの作業の途中だったかという点は、確実に見えた事実とは分けて推測の欄に書いた。そのうえで、らでんはもう一度だけ、右奥の棚の三枚の絵の正面へと戻った。
三枚の額は、やはり同じ高さに気持ちよく並んでいる。ついさっき初めて見たときは、その並びに何の不思議も手間も感じなかった。
けれど今は、自然と三枚目の額の下へと目が行く。薄い木片を少し削っては差し込み、また抜いて向きを変え、最後に手を離してもまだ指先をすぐそばに残してじっと待つ。あの目立たない少しずつの調整が、正面から見たときのこの何でもない穏やかな眺めを作っていたのだ。
橋を渡り、長い石段を上がってここまで来た人の絵だ。傷んだ最後の一枚も、こうして隣の二枚と並べて一緒に見られるようにしてある。らでんには、そのことがたまらなく嬉しかった。
「三枚並べて一緒に見るところまで、ちゃんと残したかったんですね」
隣へ、そぴあも正面へ戻ってきた。横から描いた支持具の図を手に持ったまま、らでんと同じように三枚の絵を見上げている。
「ねえらでん、こっちの正面からも見てみて。下の支えを見たあとだとさ、上の縁がこんなにきれいにそろってるの、さっきよりずっと気にならない?」
「すっごく分かる。あー、これ、上の絵と下の支え、両方いっぺんに見たいな。そぴあ、さっき描いた横からの図、ちょっと貸してくれない?」
「うん、いいよ。これ、棚のすぐ横に置いてみる?」
正面の絵を見れば、それを支える下の隙間を覗きたくなる。しゃがんで下を見たら、今度はもう一度、三枚が同じ高さにそろった正面の顔を見上げたい。目がいくらあっても足りないくらい忙しい。
らでんはそぴあから借りた支持具の図を棚の脇に置いた。それから、三枚の絵だけがまっすぐ並ぶ正面の写真もカメラで一枚撮る。今ここで感じた気持ちをあとで誰かに話すなら、細部の記録だけでなくこの並んだ眺めも絶対に要ると思った。
◇ ◇ ◇
午前の分の記録をまとめ始めても、らでんの目はときどき吸い寄せられるように三枚の額へと戻った。そのたびに手元の見取図へ意識を引き戻される。今のうちにこちらの記録もちゃんと整理して残しておかなくては、午後ここへ戻ってきたとき、同じ場所をまた一から調べ直すことになってしまう。
そぴあの見取図には、収蔵品そのものと周囲の保存部材とがはっきり別々に描き込まれていた。外の細い通路にあった低い点検口に近い室内側の床だけは、ちょうど左手の刀の台の下に隠れて見えない。そぴあはそこを推測で埋めずに未確認のまま残し、今日実際に歩いて通った廊下と扉への線を濃く引き直した。
「さて、午後はどこから見る?」
ピヨンに尋ねられて顔を上げる。詳しく知りたい場所は、朝ここへ来る前よりずっと増えていた。けれど、午後にまず何を確かめたいかはもう自分の中で決まっている。
らでんは左手の刀の周囲を囲う細い枠を見た。三枚目の額の受け具の形にあれだけ確かな理由があったように、こちらの外枠にも、わざわざこう作って据え付けた理由があるはずだ。今もオーラが残るその枠を、セザールはどんな手順で扱い、点検していたのだろう。
「私は、周りの保存設備の方から見てみたいです。一つずつ、どこに手を掛けて点検してたのか、作業の記録と照らし合わせたいので」
「私は、午後にもし何か動かすなら、その前に今の位置をちゃんと細かく残しておきたいです。動かしたあとで、どこが変わったかすぐ比べられるように」
「うん。じゃあ、私は設備の点検記録をもう少し詳しく調べてみるね。どこに触って動かしていたかとか、途中で安全に止める手順まで書いてあるかもしれないし。実際に原本の設備を試すかどうかは、お昼にその書類を見てから考えよう」
ピヨンが記録の綴りを閉じたので、らでんも自分のノートの午後の予定欄へその方針を書き留めた。早く仕組みを知りたいからこそ、実際にどこへ触れるかはまず手順の記録をしっかり見てから決めたい。
昼食へ行く前に、まず今朝分かった分をハンター協会へ伝えておく。三人の《凝》で確かめたオーラの位置と、具体的な動作や条件はまだ調べていないことを紙にまとめ、全員で旧庫を出た。ミオのいる事務室から少し離れた別棟の空き作業室を借りて、ピヨンが協会の窓口へ電話を掛けた。
『現物の置いてある保管庫まで入れたよ。収蔵品と、それを外側から囲う枠にオーラが残ってるのを、現地で三人で確認した。念の作用と発動条件はまだ調査中。今のところ、新しく怪我をしたり、設備に拘束されたりした人はいない。作成した見取図と午前の観察の控えもこれから送るね』
ピヨンが折り返しの連絡先を確かめて通話を終えると、らでんは手元の控えに報告済みの印を付けて封筒へしまった。
ミオの方へは、念の話ではなく、今日通った経路と確認できた品物の所在を正確に伝えたい。別棟のミオの机へ戻り、完成後の図面と照合した現在の通路と、旧庫の中で確認できた刀、箱、三連作の二組を写真で示した。品物と周囲の枠は今は動かさず、午後も引き続き三人で室内を調べたいと相談すると、ミオは管理図の『旧庫』に貼った付箋へさっそく書き加えてくれた。
「ありがとう。じゃあ、白い柄の刀と、箱と三枚の絵の組は、所在をこの旧庫で更新しておくね。部屋の奥にあるほかの物は、まだ全部見られたわけじゃないんだね?」
「はい。古い写真と一致したところまでは、この紙にまとめてあります。ただ、品の裏側と、閉まってる箱の中身はまだ見てないです」
「分かった。午後もこの別棟の入口からそのまま入れるようにしておくね。設備の点検書類は、うちがお昼休みの間に出しておくから、見たいところに印を付けておいてもらえる?」
午後に見たい書類まで先回りして用意してもらえるのが、本当にありがたかった。ピヨンが目録から必要な頁を選んで付箋を貼る横で、らでんは使った写真の写しを茶封筒へ戻す。
さっき読んだ木の仮受けも、刀や絵の収蔵品も、すべて旧庫の中の元の位置にきちんと置いてきた。手元へ持ち帰ったのは、午前中に書き増えたノートとカメラの写真だけだ。
そこへ、隣で書類を整理していたそぴあが、古い入口図の写しと今日描いた新しい見取図をぴたりと重ねて見せてくれた。昨日の夕方、川沿いの冷たい壁の前でぷつりと止まっていた線が、今日別棟から歩いた道と一本につながっている。
「ほら、らでん。午後ここへ戻ってくるときは、最初からこっちの道だね」
「うん! 次はもう、入口はどこだろうって探すところから始めなくていいんだね」
昼食から戻ってくれば、今度は迷わずあの三枚の絵の前に立てる。そう思うと、らでんは茶封筒へしまいかけたそぴあの支持具の図を、もう一度だけひょいと引き出した。
さっきはそぴあが描いた図を横から見せてもらってすっかり分かった気になったけれど、それだけで終わらせてしまうのはなんだか少し惜しい。自分の手でもあの支えの形を描いてみたら、また新しく気づくところがあるだろうか。
「ねえ、午後なんだけど、あの額の支えの部分、らでんも自分で描いてみたいんだよね。そぴあさぁ、ちょっと付き合ってくれない?」
「もちろん! じゃあその代わり、そぴあにもさっきの刀の金がつながって見える角度、もう一回教えてよ」
「いいよ、任せて。今度は最初から案内するね。どこに立てば一番きれいに見えるか、もうばっちり分かったし」
そぴあが笑いながら巻尺の袋の口を閉じる間に、らでんは午後すぐ使えるよう二人分の図面と白紙を揃えた。額の支えの描き方をそぴあに教わって、代わりに金の葉が光る場所へ案内する。昼休みの前に、午後の一番楽しみな約束までできてしまった。
茶封筒は今朝宿を出たときよりずっと厚くなったが、肩掛け鞄の中にはまだちゃんとおさまる。らでんは封筒の口を閉じ、ひとまず三人で昼食へ向かう支度をした。
ゴシカ・シティ編、最後までお付き合いいただきありがとうございました! さて、十老頭入りを果たした桐生組。となれば、気になるのは、その武力を担う念能力者集団――《陰獣》です。 皆さんは、誰に陰獣の一員として登場・活躍してほしいですか? 今後の構想の参考にさせていただきます!
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桐生組直参 天音かなた
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桐生組直参 角巻わため
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金虎堂頭領 虎金妃笑虎
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ベルベット商会 フィクサー 一条莉々華
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ゴシカでは掃除屋が陰獣を兼ねるしきたり
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その他新規で別のホロメン