儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第三十二話 万象観測器(プリンキピア)

 昼食を済ませて別棟の机へ戻ると、午前中にはなかった横長の紙を折り込んだ綴りが増えていた。

 らでんはさっそく鞄から、午前中にそぴあが描いた支持具の図を取り出した。三枚並んだ絵のうち、一番右の額の下だけ、小さな受け具が左右に離れて置かれている。その空白を見ると、額の割れ目の下から細い紙を引き抜いていたセザールの手がまた浮かんだ。

 どこで受ければ額が持つのか、何度も木片を削って試していたあの手。その調整の先にある今の支えの形を、午後は借りた図を見るだけでなく、自分の手でも描いて確かめておきたかった。

 

「こっちはね、旧庫に残してある設備の取扱い書類だよ。折り込んである大きい紙は、周りの枠を点検するときの図みたい」

 

 ミオが綴りの折り目を広げて見せてくれた。正面と横から見た設備の図が並び、足元の部分だけが大きく描き直してある。

 らでんは手元のそぴあの図をそのすぐ隣へ置いた。そぴあの描いた三枚目の受け具は、額の下辺の割れた箇所を避けて左右に分かれている。ところが古い取扱い図の方では、そのすぐ下を、別の長い一本がまっすぐ横切っていた。

 

「あれ、これって受けの続きかな。ねえそぴあ、額の下ってこんなふうに一本につながってたっけ?」

「ううん、そぴあが午前中に見たのは、こっちの離れた二つだけだよ。この長い線の方は、もっと手前にあったんじゃない?」

 

 横から見た図へ目を移すと、確かに二本の縦線のあいだにわずかな隙間が描かれていた。額を載せる受け具の足はそのまま奥の棚板へ降り、もう一本の方は品物の外側をぐるりと回っている。

 午前中に見た、あの細い金属の外枠だ。正面からだと重なって見えていただけで、額の支えと同じ部材ではなかったらしい。

 

「ああ、ほんとだ。点検で動かすのはこの手前の外枠で、額の支えとは別なんですね」

「図面の上ではね。向こうへ戻ったら、実物でもその二つがつながってないことを先に確かめよう」

 

 ピヨンは足元の拡大図を読み込み、該当する説明の頁へ細い紙を挟んだ。外枠の足元には小さな覆いがあり、そのすぐ手前に平たい接触板と記されている。

 小覆いを開いた状態で、内側の短い桟を点検位置へと動かす。元へ戻す際には二つの刻線をぴたりとそろえ、対応札を同じ番号の溝へ収めるという手順だ。

 らでんは説明文の中の「札」という字で目を止めた。

 

「これ、さっき棚の端に付いてた札のことですか?」

「ううん、形が違うね。棚の収蔵札は縦長だったけど、こっちの図にあるのはもっと細長いよ。それに、棚の収蔵札と番号を照合するって書いてある」

 

 どうやら棚の名札とは別に、外枠の側にも対になる札があるらしい。午前のそぴあの図には、まだそこまでは描き込まれていなかった。

 

 どこに触れて何が動くのかが分かれば、現地で確かめられることもはっきりする。らでんは拡大図をもっと近くで見ようと手前へ引き寄せた拍子に、すぐ横に置いてあった三連作の絵の写しまで一緒に滑らせてしまった。一番上の三枚目の写真で、袋を提げた人物が窓の下の相手へ手を伸ばしている。

 そうだった。この手紙の主の続きも、午後にお願いして探すのだった。

 

「あの、ミオさん、もう一つお願いしていいですか。午前中に見たお姉さんを探す手紙なんですけど、そのあとの返事や記録が残っていないか探したくて」

「ああ、あの三枚の絵と一緒にあった手紙だね?」

「はい。絵を受け取ったっていう記録か、もし宛先不明で送り返された封筒でもあればと思って。セザールの受入れの控えには、その先のことが書いてなかったので」

 

 ミオはらでんが差し出した手紙の写しを受け取り、記された差出人の名前に目を落とした。

 

「郵便のやり取りの控えはね、作品の書類とは別の束にも残ってるよ。ただ、うちもまだ全部の束は分けきれてなくて。今すぐここへ出せるかは分かんないな」

「もし探すなら、町の名前だけじゃなくて、差出人の名前でも見てもらえますか。途中で住所が変わってたら、町名だけだと見落としそうなので」

「うん、分かった。その二つを控えて探してみるね」

 

 ミオが手元のメモへ名前と古い住所を書き取るのを待ちながら、らでんは写しの中の三枚目の家を見つめた。絵の中では、二人はもうすぐ手が届く距離に立っている。

 けれど現実の手紙の主は、本当にこの場所まで辿り着けたのだろうか。三枚の絵を受け取って喜んだのか、それともまた別の一通を書いたのか。受入れの控えをぱたんと閉じてしまうだけでは、どうしてもその先が気になってしまう。

 らでんは自分のノートの余白へ、郵便の控えは未照合、と小さく書き留めた。今すぐ結末が分からなくても、次に探す場所はこれで一つ増やせた。

 

「それで午後の作業なんですが、今日はこの箱と三連作を囲っている外枠の一組だけ、点検してみたいです」

 

 らでんは広げた取扱い図へ向き直り、足元の接触板と小さな覆いを順番に指し示した。

 

「まず、この手前の板に触れて、隣の小さい覆いが図のとおりに開くかを確かめます。開いたら、内側の短い桟と対応札を点検位置まで動かして、また元の刻線のところへ戻す。今日はそこまでにしたいです。外枠が額の支えとは別になってることも、動かす前に実物でちゃんと確かめますね」

「動かすのは、その足元の小さいところだけなんだね。中の箱の蓋や、上の絵の方は?」

「そちらには一切触りません。もし予定していない場所まで動いたり、図と違う動き方をしたりしたら、その時点で点検を止めます」

 

 ミオは取扱い図の脇の用紙へ午後の実施範囲を書き留め、隣室の管理担当へ確認しにいってくれた。ほどなく戻ってきた手には、午後の立入りと限定点検の控えがある。決めた部材だけの作動確認と、元の位置への復帰。それを旧庫の現物の前でも一緒に指差して確かめることになった。

 

「うちは現地で場所と部材を一緒に見たら、明日の祭りの搬入の方へ戻るね。何かあったらすぐ別棟に連絡して。作業が終わったときも、また教えてもらえる?」

「はい。どこまで確認できたか、記録と一緒にお渡ししますね」

 

 そぴあが机の上の写しを綺麗に重ねてくれた。らでんはその一番上に、まだ何も描いていない白い紙を一枚足す。

 そぴあの描いた図を横から見せてもらうだけだった午前中とは違う。今度は実物の前で、隣に並んで描き方も教えてもらうのだ。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 別棟の廊下から旧庫へ戻ると、右奥の棚の三枚目の額は、午前中とまったく同じ高さで静かに待っていた。

 らでんは棚の前に膝を曲げ、額の下の左右の受け具から足元へと目を辿った。そのまま奥の棚板へ降りている受け具の足と、手前を横切る細い外枠。体を倒して横から覗き込めば、二つの部材のあいだには向こう側の棚板がちゃんと透けて見える。

 隣でそぴあが巻尺を当てて寸法を確かめる横で、らでんはまず額の下辺の割れ目を描き、その両脇へ二つの受け具を書き足した。

 ところが、その下の足元まで一気に描き込んだ途端、紙の上では全部が一本の線でつながって見えてしまった。

 

「あれ……そぴあ、これ、実物より下の方がくっついて見えるんだけど。どこから直したらいいかな?」

「手前の外枠の線を、もうちょっと濃くしてみて。あと、その横に横から見た小さい図も一緒に付けようよ」

「えー、できればこの一枚の中に全部収めたかったんだよねえ」

「だってらでんが見たいところ、正面と下と横の全部にあるじゃん。一枚の正面図に押し込むには、ちょっと欲張りすぎじゃない?」

 

 笑って指摘されて、らでんはしぶしぶ紙を横向きに広げ直した。空いた余白に横からの小さな断面を描き足してみると、受け具の足と手前の外枠が紙の上でも気持ちよく離れた。なるほど、午前中にそぴあが描いた図で、どうしてあそこだけ線が繋がらずに空白で残してあったのか、自分で鉛筆を動かしてみてやっと意味が分かる。

 

 もう一度三枚目の額の下辺へ目を戻すと、割れ目の両側で重さを受ける位置は、左右で対称ですらなかった。傷んで弱った箇所を避けてしっかり持つ場所を選べば、額の中心からは自然とずれる。らでんはその微妙なずれを綺麗に整えて消してしまわないよう、見たままの位置で紙へ写し取った。

 午前中に木の仮受けから見えた、何度も端を削り直していたセザールの手を思い出す。あの手元の調整の続きに、今のこの受け具の位置があるのだろうか。

 そう思いながらも、午前の記憶のノートはいったん脇へ置いた。能力で見えたのはあくまで途中の断片だけだ。今ここにある支えの形は、自分の目で確かめた線で残しておく。

 

「ここ、上の三枚をきれいに並べるために、下の支えはわざとそろえてないんだね」

「うん。そぴあも、正面から立ったまま見ただけなら、三枚とも同じ支えでいいと思っちゃうよ」

 

 描き上げた受け具の左右に、そぴあが測った寸法を小さく書き足してもらった。木片を削っていたあの手の記憶と、今のこの図をあとで一緒に見返せるようにするなら、どこまでが目で見た事実かもはっきりさせておきたい。ノートの該当する頁番号を隅に添えると、らでんの白い紙はようやく、そぴあの図をただ真似しただけの写しではなくなった。

 

「よし、描けた。じゃあ次はらでんの案内ね。そぴあ、こっちの台へ来てみて」

 

 左手の刀の台の前では、午前中の反省を活かして最初から一番よく見える場所を空けて待った。そぴあが隣へ来て刀身の高さに目を合わせるのを確かめ、らでんは半歩だけ手前の床を指差す。

 

「そこからね、白い柄の方へゆっくり動いてみて。金の葉っぱの先を見ててね」

「……あ、ほんとだ、光がつながった。ちょうどここだ」

 

 暗い刀身に沈んでいた金の蔓へ順番に光が渡り、そぴあの指先が宙でぴたりと止まった。

 

「この角度、やっぱり図の中に矢印を入れておこうかな」

「いいね。そうすれば、らでんが隣にいなくても、見る人にそこへ立ってもらえるじゃん」

「うーん、でも最初はやっぱり、横から案内してもらった方が面白いよ」

 

 もう一度だけ光の筋を確かめてから棚へ戻ろうとしていた足が、そぴあのその一言で止まった。そんなふうに言われたら、もう一回隣に並んで一緒に眺めたくなるではないか。

 白い柄の根元から、刃の向こうへと細い金の光が続く。実際に刀を手に取って振らなくても、握る手元から刃先へ流れる飾りの美しさはそこからありありと見えた。

 ただ、刑場で使われたという来歴を知った今は、その綺麗な光の動きを当時誰がどこから見ていたのかも気になってくる。らでんは午前に撮った写真の余白へ、今そぴあと立った観察位置の矢印を書き添え、処刑具としての受入れ控えと重ねてまとめた。

 

 右奥の箱の側へ戻ると、ピヨンとミオがすでに外枠の右下を覗き込んでいた。細い金属枠の足元に、手のひらより小さな覆いがある。すぐ手前に並んだ平たい接触板には、片隅だけ浅く丸くへこんだ箇所があった。昼休みに見た取扱い図の小さな欠き込みと、向きまでぴたりと重なる。

 小覆いのすぐ脇の溝には、細長い札が一枚収まっていた。溝は札の両縁を軽く受けているだけで、表面は下端まで外から見えている。上端に読める整理番号と、右下の角が少し開いた四角い印。棚の端に付いた縦長の収蔵札と番号を照合すると、どちらもこの箱と三連作の組に対応していた。

 

「ほんとだ、枠のこっちに、もう一枚札があったんですね。さっきの棚の収蔵札とは別の形だ」

 

 らでんも膝をついて近寄り、取扱い図で見た短い桟の位置を指差した。小覆いの内側へ続く奥の部分だけはまだ見えないが、手で動かす側の端は覆いの外に少し出ている。それが上の額の受け具へつながる部材ではないことを、四人で横から覗いて確かめた。

 取扱い図にある復帰位置をミオと一緒に見比べ、今日動かす予定の範囲を控えの紙へ残す。確認を終えたミオが祭りの準備で別棟へ戻っていくと、ピヨンが旧庫の金属扉を静かに閉めた。

 

 廊下を遠ざかる足音が聞こえなくなってから、らでんは目にオーラを集めて《凝》で接触板を見た。表面の浅いへこみから外枠の内側へ、細い筋のようなオーラがうっすらと残っている。取扱い図で「供給位置」と記されていた場所とちょうど重なった。

 

「やっぱり、このへこみがオーラを流すところなんですね。あ、小覆いを開けたあとの細かい手順もこっちに書いてある」

 

 接触板へオーラを供給している間に内部を点検し、短い桟と対応札を元の位置へ戻してから供給を切る。

 らでんは説明文の最後まで目を通し、「履歴欄」と書かれた対応札の下端へ視線を移した。今はまだ細い横罫が一本引かれているだけで、その下の余白は白く空いている。もし点検のあとでここに何か変化が残るのなら、動かす前の今の姿を先に撮っておきたい。

 カメラで対応札のアップを撮り、手元の図にも履歴欄の位置を書き足した。小覆いの内側にある戻し用の刻線と、札の溝がどう並んでいるかは、実際に覆いを開いてから確かめることになる。

 

「触る前に、そぴあの能力で測っておこうか」

「能力で? どんなふうに測るの?」

「小さな天球儀を出すんだよ。その周りにある物の位置とか速さを、そぴあに教えてくれるの。何を測るかは最初に九項目選ぶんだけど、途中で入れ替えられないから、先に決めておきたいんだ」

 

 そぴあは接触板と、その上にある三枚目の額を順に指差した。

 

「今日はここの枠を動かすでしょ。絵や支えまで一緒にずれてないか、動かす前と比べられるよ」

「あ、それはお願いしたい。こっちは動かしてないつもりでも、振動でずれてたら困るもんね」

「うん。じゃあ今回は、物の位置と向きと、動く速さを測るようにするね」

 

 そぴあは手元の図に、旧庫の床と壁の向きを基準の軸として書き込んだ。位置を縦横高さの三方向、姿勢を三つの角度、そして動く速度を三方向。それで合わせて九項目になる。

 らでんはその図の上で、観測してほしい部材を順番に指で追った。三枚目の額、左右の受け具、外枠の短い桟。そこへ対応札と小さな覆いも加えてから、自分の手を引く。

 

「桟と札を元へ戻したあとも、しばらく動かないか見てもらえる?」

「見られるよ。というか、そぴあの能力は一度出したら八分十六秒たつまで自分でも消せないから。もし点検が早く終わっても、残りの時間はそのまま測り続けることになるね」

 

 そぴあは時計を用意していたピヨンへ顔を向けた。

 

「それとピヨンさん、使っている間は《纏》のままなので、何かあっても攻防のオーラを増やせないんです。周りのことはお願いしてもいいですか」

「うん、こっちは私が見てるね。らでんがオーラの供給を止めた時間と、そぴあの観測が終わった時間も、私の時計で別々に付けるよ」

 

 ピヨンがストップウォッチと記録用紙をバインダーの上に並べた。

 もし予定と違う場所が少しでも動いたらすぐそぴあに声で伝えてもらい、らでんは接触板への供給を止める。外枠全体の状態はピヨンもすぐ横から目で確認する。そこまでの役割分担を三人で確かめ合って、手順書から顔を上げた。

 

「じゃあ、始めるね。《万象観測器(プリンキピア)》」

 

 そぴあのすぐ傍らに、小さな天球儀の形をした具現化物がふわりと浮かび上がった。

 一つの中心球を、傾きの異なる三層の細い環が取り囲んでいる。三つの環は互いに触れ合うことなく滑らかに回り、そぴあが作業の邪魔にならないよう半歩身を引くと、天球儀もそのすぐ近くへ静かについていった。

 そぴあは中心球を指差し、ここから半径二十八メートル、上も下も含めた球形の範囲を測れるのだと教えてくれた。

 

 らでんは回る三層の環を一度だけ目で追い、すぐに目の前の接触板へと向き直った。あの天球儀の細かい形もあとでじっくり見せてもらいたいけれど、今は自分が頼んだ観測の合図を待つ。

 

「最初の位置、全部取れたよ。らでん、いつでもどうぞ」

「開始から四十秒。ここから操作の記録を付けるね」

 

 二人の落ち着いた声を聞いて、らでんは右手の指先を接触板の浅いへこみへ置いた。指先から板へ、通常のオーラを少しずつ静かに送り込む。

 かちり、と乾いた音がして、隣の小覆いの端が持ち上がった。

 開いた覆いの下から、短い桟の接合部が姿を現す。らでんは手元を動かす前に、まず上の三枚目の額を見上げた。それから左右の受け具へ目を移す。動かすつもりのない場所まで、今の覆いの動きにつられて揺れたりしていないか。

 

「今のところ、小さい覆いだけ動いたよ。上の絵も受け具も、ぜんぜん動いてない」

 

 そぴあの確認の声を聞いて、らでんは右手の指先の力をほんの少し抜いた。板を強く押し込む必要はない。覆いを開いたままにする分のオーラだけを一定に保ち、空いている左手で脇の溝から対応札の上端をつまむ。

 取扱い図で示された向きへまっすぐ引き抜くと、その奥に隠れていた短い桟の端がはっきり見えた。抜いた対応札は、すぐ横に広げた支持紙の上へそっと置く。さっき写真を撮った下端の履歴欄には、まだ短い横罫が一本あるだけだ。

 続いて左手で短い桟の端をつまみ、手前へとゆっくり動かした。すると、重なって隠れていた目印の刻線がすうっと二つに分かれた。片方は動かない外枠の足の側に、もう片方は今引いた短い桟の下側にある。らでんは取扱い図に示された点検位置のところで左手を止めた。

 

「今、短い桟が手前へ六ミリ動いたよ。上の額の受け具の方は、位置も向きも変わってない」

「なるほど、この下の線ですね。真上から覗いただけだと、桟の陰になってて見えなかったんだ」

 

 らでんは床へ顔を低く下げて、桟の裏側を覗き込んだ。桟の端の高さだけを上から見ていると、少し手前へ引き出していても元の位置とほとんど変わらないように見える。けれど下側に刻まれた二本の線は、今はっきりと前後に離れていた。

 あとで元の位置へ完全に戻ったかどうかを確かめるなら、上ではなくこの下の刻線を見る必要がある。

 

「ピヨンさん、取扱い図にあった戻しの刻線、桟の上じゃなくて下側についてます。手元の写しにも、見る向きが分かるように書き足してもらえますか」

「うん、書いておくね。あと、抜いた札が入ってたのはこのすぐ脇の溝だね。札の番号も図面と合ってるよ」

 

 ピヨンが横から接合部の写真を撮り、そぴあが動いた距離と向きを数値で伝えてくれる。らでんは開いた小覆いの内側に覗いている部材を、取扱い図の線と一つずつ見比べた。

 細い外枠のさらに奥へも、別の部材がうっすらと続いているのが見える。あの先が棚の裏で何につながっているのか、もう少し首を伸ばして覗きたくなるが、今日の取扱い図で安全に辿れるのはこの手前の接合部までだ。奥の続きは、また別の記録を探してからにしよう。今は、動かした桟を元へ戻す位置をしっかり確かめた。

 

「ここで見たかったところは全部分かりました。元の位置へ戻しますね」

 

 左手の指で、短い桟を奥へと静かに押し戻す。桟の下にある動く側の刻線が、固定された足側の刻線へと滑らかに近づいていった。二本の線がぴたりと重なって一本にそろったところで指を止めると、隣で天球儀を見ていたそぴあが頷いた。

 

「うん。短い桟の位置と向き、動かし始める前の最初のところに戻ったよ」

 

 らでんは支持紙の上から対応札を取り上げ、元の脇の溝へとまっすぐ収めた。札の下端が取扱い図で決められた深さに達したちょうどそのとき、白いままだった横罫のすぐ下へ、細い黒っぽい線が一本すっと浮かび上がった。

 

「あ、ピヨンさん、札の下に線が出ました。今、溝へ戻し切ったところです」

「開始から三分半。札の変わったところもすぐ撮るね。短い桟の方は、そのまま動かさないで」

 

 新しく増えた線がどういう仕組みで出たのか気になったが、らでんは確認のために札をもう一度引き抜くようなことはしなかった。右手の指先からは、まだ接触板へオーラを流し続けている。小覆いは開いたままで、右側に立つピヨンの位置からも、桟の下でそろった二つの刻線がはっきり見えた。

 札の履歴欄に増えた線を、早く近くで確かめたい。けれどその前に、戻した桟が本当に安定しているかの確認が先だ。そぴあが桟と上の受け具の観測値を読み上げる間、らでんは重なった二つの刻線から目を離さずにじっと待った。

 

「開始から四分。桟の戻し位置、最初の記録とぴったり合ってるよ」

「こっちの目視でも、その位置から全然動いてないね」

「はい。じゃあ、オーラの供給を止めます」

 

 接触板のへこみへ流していた右手のオーラを、すっと切った。すると持ち上がっていた小覆いが静かに降り、乾いた小さな音を立てて足元の縁にぴたりと収まった。

 らでんは板の上に右手の指を置いたまま、閉じた覆いの縁をじっと見つめた。心の中で一、二、三、四、五秒と数えてから、ゆっくり右手を離す。指先は何の引っ掛かりもなく普通に板から離れ、一度止めたオーラの供給が勝手にまた流れ出すこともなかった。

 

「うん、覆いも完全に閉じたね。位置も角度も、始める前と同じだよ」

 

 そぴあのその声を聞いて、らでんはようやく右手を自分の膝の上へと戻した。ずっと同じ高さで構えていた肩の力を抜き、一度ゆっくりと息を吐き出す。

 手順どおりに開けて、中を見て、また元の場所へ戻せた。

 

「……ちゃんと、できましたね」

「うん。途中でどこを戻すのか分からなくならずに済んだね」

 

 ピヨンがバインダーの記録の一行を書き終えて閉じた。らでんは膝をついたまま、その記録用紙の方へ少し身を寄せる。短い桟を手前に引くと離れ、奥へ押し戻すと一本に重なるあの小さな刻線。さっきまでは古い紙の上の知識でしかなかった目印を、今は自分の指先の感触と一緒に思い返せる。それがなんだかとても嬉しかった。

 

 脇の溝に収まった対応札の下端には、さっき浮かび上がった細い線がそのまま残っている。閉じた小覆いの横へ顔を寄せて覗き込むと、接触板へのオーラを切ったあとでも線は消えていなかった。

 

「この下の線、始める前に撮った写真にはやっぱりないですね。履歴欄って、点検するとこうやって一本残るんだ」

「今私たちがやった手順とセットで記録しておこうか。らでんがこの箱と絵の組を点検して札を戻したら、この線が新しく出た。線そのものの細かい意味まで全部読めたわけじゃないけど、そこまでは確かだね」

 

 ピヨンが点検前と点検後の二枚の写真に、同じ組の記録番号を書き添えた。札自身が言葉で勝手に説明してくれなくても、こうして前後の写真と操作の記録を一緒に残しておけば、あとから見返すときにも迷わず辿れる。

 

 らでんはもう一度《凝》を使い、棚の上の箱の投函口を確かめた。細い口の縁には、午前中に見たのと同じ場所にうっすらとオーラが残っている。外枠の右下にも、やはり細い念が続いていた。今らでんが点検のために接触板から流し込んだ分のオーラはきちんと止まったが、箱や枠にもともと据えられていた念まで消えてなくなったわけではない。

 

「箱の口と外枠の念は、前と同じように残ってます。ピヨンさん、そちらの角度からも見えますか?」

「うん、見えるよ。今止められたのは、あくまで私たちがやった個別の点検の動作だね。この設備のほかの働きについては、まだ調べてない」

 

 らでんは頷き、そぴあが測った物理的な位置や速度の欄とははっきり枠を分けて、目視でオーラが残っている場所を記録紙に書き込んだ。こちらの確認者の欄には、自分とピヨンの二人の名前を添える。

 

 部屋の隅では、そぴあの天球儀がまだ静かに三層の環を回し続けていた。八分十六秒の制限時間が満了するまで、あと四分ほどはこのまま変化がないか経過を見守ることになる。

 

「ねえそぴあ、待ってるあいだに、今の桟の下の刻線、らでんの図にも描き足していい?」

「うん、いいよ。その紙、もうちょっとこっちへ向けて。……そうそう、下から覗き込むと、そっちの手前側が動く方の線だよ」

 

 もう実物の外枠へは手を触れず、膝の上のバインダーで鉛筆を動かして線を足した。オーラを供給している間だけ開いていた小覆いの姿は、枠のすぐ横へ小さな別図として描き添える。ぴたりと閉じた今の姿しか紙になかったら、あの大事な刻線が短い桟の下に隠れていることまであとから思い出せなくなってしまう。

 そぴあはときどき手元の天球儀へ目を戻しながら、復帰した桟や覆い、上の額と受け具の位置に少しも変化がないことを穏やかな声で伝えてくれた。らでんはその声をBGMのように聞きながら、今日実際に点検を終えた範囲だけを線で囲む。左手の白い刀の側と、外枠からさらに奥へ続く部分は、まだ手つかずの空白のままだ。

 

「あと少しで時間だよ。……うん、八分十六秒、終わり」

 

 ピヨンの手元のストップウォッチが四百九十六秒を示したところで、宙に浮かんでいた天球儀がすっと消えた。

 観測が終わる最後の瞬間まで、戻した短い桟や小覆い、対応札、そして三枚目の額と左右の受け具に新しいずれは一切起きなかったと聞き、らでんはようやく鉛筆を置いた。

 

「そぴあ、ありがとう。板から手を離したあとも本当に動いてないって、最後までちゃんと確かめられたね」

「うん。そぴあもね、能力で測る前にらでんとあの図を描いといてよかったよ。どの線がどこへ動いたのか、見てるあいだずっと分かりやすかったもん」

 

 らでんは二人が描いた図をそのまま重ねてしまいかけて、ふと手を止めた。小覆いが開いていたときの図と、閉じて元へ戻ったあとの図を、片付ける前にもう一度だけ横に並べて見たかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 旧庫を出て別棟の空き作業室へ戻り、扉を閉めてから今日これまでの記録を机に広げると、それだけで広い作業台の半分が埋まってしまった。

 ミオには先ほど、予定していた一組の部材の点検と元の位置への復帰を伝え、残りの箇所は未実施として控えを渡してある。この作業室も、宿へ帰るまでもうしばらく使わせてもらうことにした。

 白い柄の刀も、箱と三連作の額も、午前中に読んだ木の仮受けも、実物はすべて旧庫の元の場所に残してある。手元に持ってきた紙と写真だけで、机の上がこの埋まりようだった。

 

 らでんは三連作の正面写真を机の中央へ置き、姉を探す手紙の写しをそのすぐ隣に寄せた。さらにその下へ、額の支持具の図、今動かして確かめた外枠の図、そして履歴欄に線が浮かんだ対応札の写真を並べる。

 最後に、午前中に木の仮受けから読んだ記憶を書き留めたノートを開いた。もう机の上に収まりきらない。隣で見ていたそぴあが自分の図面を少し横へ引いて場所を空けてくれたが、そうすると今度は手紙の写しの端が外枠の図の下に隠れてしまった。

 

「らでん、本当はどれとどれを並べて一緒に見たいの?」

「えっとね、三枚の絵と、あのお姉さんの手紙。それから、額の支えを削って直してたところの記録も。……あと、外枠の覆いを閉じても箱の口には念が残ってたから、そっちの設備の記録もちゃんと分けておきたいんだ」

「それ、一緒に並べるにはだいぶたくさんあるね」

「うん。こうして出してみると、だいぶあるんだよ」

 

 自分の口で言ってみて、今どこに一番困っているのかがよく分かった。

 三枚の絵と一通の手紙だけなら、机の上に並べて一つの物語として眺められる。けれどそこへ外枠の細かい操作手順や刻線の記録まで同じ平面で混ぜてしまうと、同じ一組の収蔵品の記録のはずなのに、何の話を残したかったのか自分でも見失いそうになるのだ。

 外枠の記録には今日で「札に線が一本増えた」という確かな事実まで加わったのに、姉を探した差出人の欄は、朝からまだ返事が見つからず空いたままになっている。

 

 そのどちらかを、整理の都合で書き落としてしまいたくはなかった。

 

「たとえばさ、あの刀の金の葉っぱが一本の光につながる角度は、絶対残しておきたいんだよね。でも、そこだけの紹介にしちゃったら、昔の刑場から来た処刑具だってことが分かんなくなるでしょ」

 

 らでんは机の写真を無理に動かすのをやめ、手元の白い紙の隅に小さな四角を一つ描いた。

 

「この三枚の絵も、お姉さんを探した手紙と一緒に辿れるようにしたいし、木の仮受けは入口の別の棚にしまってあっても、どの額のどこを支えるのに使った道具なのか、あとからちゃんと戻ってこられるようにしたいんだ」

「なるほど。実際の品物の置き場所と、それについて調べて分かったいろんな記録を、迷子にならないようにつなげておきたいんだね」

「うん。それでね、まだ分からないところも『分からないまま』で残しておきたいの。あの手紙の人が本当にお姉さんに会えたのかは、今のらでんたちにはまだ書けないから」

 

 紙に描いた小さな四角の隣へ、今度は開いた本の頁のような形を描き足した。四角からその頁へと細い線を伸ばし、「受入れの公的記録」「現在の形と支え」「能力で読めた断片」と行を分けて書き込む。今日動かした外枠の操作記録は、それらとはまた別の行にした。

 横倒しの額から手を離したあとも、すぐそばに指先を残して待っていたセザールの仕草は、らでんの胸の中に今も温かく残っている。

 けれど、あのひとつの丁寧な仕草を見ただけで、セザールという人物がすべてを善意で大事に扱う人だったと物語を広げて書くことはできない。あの割れた額に掛けられた確かな手間だけを、見えたそのままの範囲で誠実に残したかった。

 

「それって、らでん専用の収蔵録、みたいなものかな」

 

 向かいから覗き込んでいたピヨンが、らでんの描いた本の頁を指差した。

 

「普通の紙の目録やカードでも、今らでんが言ったような記録同士の結びつけはできるよね。自分の念で新しく作りたいと思ってるのは、その先の部分?」

「はい。紙の記録をまとめるだけなら、今もこうしてノートに書けます。でも、肝心の実物は旧庫に置いたままですし、周りの枠にどんな働きを任せてあるのかも、まだ全部は分かってないので」

 

 らでんは最初に描いた小さな四角へと鉛筆の先を戻した。もし、自分自身で安全に管理できる専用の保管場所があって、そこへ危うい収蔵品の原本を一つずつ別々に分けて置けたなら。実際の保管場所が離れていても、手元の収蔵録の頁から、どの品物のどの記録なのかをいつでも正確に辿れるようにしたい。

 世の中には、触れるだけで危険な働きを持つ念の品もある。それでも、危ないからと品物に宿った働きを全部消して形だけの抜け殻にしてしまったら、作った人がなぜそうしたのかまで同じように調べられるとは限らなかった。

 

「品物そのものも、そこに残ってる念の働きも、一緒くたにしないで一つずつ別々の場所へ置けるようにしたいんです。調べて分かった安全な扱い方も手元の録に一緒に残して、あとでまた確かめたり、必要なときにはちゃんと使ったりできるように」

 

 最初の四角の隣に、もう一つ別の四角を描き足す。大きさの違う二つの箱のような四角を、外側から大きな枠でぐるりと囲んでみた。

 

「……自分だけの館にしたいんだね、らでん」

「まだ紙の上で、やっと小さい部屋が二つになったところですけどね」

 

 ピヨンが指差した不格好な二重四角を見て、らでんは少し照れくさそうに笑った。たしかに、これを博物館や収蔵館と呼ぶにはあまりにも気が早い。入口の扉も、通路も、まだ何一つ考えていないのだ。

 

「なんだか、自分が欲しい方から先に描いちゃいました」

「いいじゃん。そぴあ、らでんがどんなふうに品物と記録を残したいのかは、さっきの図よりずっとよく分かったよ」

 

 そぴあが机の上の紙をくるりと回し、二つの四角が描かれた図を自分の方へ向けた。

 

「これさ、品を置く場所を二つ作って、こっちの手元のページから一と二のどっちかを選べるようにしたいんだよね。まずは中に何も入れないで、空っぽの輪郭だけオーラで作ってみる?」

 

 言われて、胸の奥がトクンと弾んだ。紙に鉛筆で描いているうちに、自分の手元でも実際にオーラの形にしてみたくてたまらなくなっていたのだ。

 らでんは鞄から何の変哲もない普通の紙カードを二枚取り出し、表面に鉛筆で大きく「一」と「二」を書いた。机の上に広げていた写真や写しはすべて隣の空いた机へ移し、大事な記録ノートもいったん閉じる。もちろん、ここには旧庫の品物は何一つないし、既存の品を収めるつもりもない。

 まずは自分のオーラだけで、机の上に二つの空っぽの区切りを作って保ってみよう。そして手元の「一」と「二」のカードが、それぞれどちらの輪郭を指しているかという対応まで一緒に維持できるだろうか。

 ピヨンにも今から試したい条件を伝えてから、らでんは何もなくなった作業台の上へ両手を向けた。

 

 まず左側に、細長い箱のような輪郭をオーラで作る。底に当たる平らな面と、その四方の端から立ち上がる低い境目。続けて右側には、それより少し幅の広い二つ目の輪郭を作ろうと意識を向けた。

 ところが、目で追えるほどの薄いオーラの配置を二つ並べるだけでも、右の広い方へ意識を寄せた途端に、先に作った左の端がふっと薄くなった。慌てて左へ意識を戻そうとすると、今度は右側の角が丸くほどけていく。

 なんとか二つの輪郭が机の上に残っているうちに、らでんは手前に置いた「一」の普通のカードへ目を向けた。この一が左の輪郭に対応するものとして、結びつきをイメージしながら形を保ち直す。

 その瞬間、右側にあったはずの境目が、途中からすっぱり消えてなくなった。

 

「……あっ、待って、そっちも」

 

 声を上げたときには、残っていた左側まで一気に輪郭が崩れた。作業台の上は、始める前と同じただの空っぽの机に戻っている。

 らでんは力なく両手を下ろし、手元に並んだ二枚の普通のカードを見下ろした。紙に一と二の番号を書くところまではあんなに簡単だったのに、肝心の行き先の方が少しも残ってくれない。

 

「……ごめん。もうちょっと格好よく、二人に見せられるつもりだったんだけどな」

「ねえ、今どこで保てなくなった? やっぱり『一』のカードを見たとき?」

 

 そぴあは机のカードを動かさずに、すぐ横から尋ねてくれた。らでんは少し熱くなった頬を撫でながら、自分がどの順番でオーラへ意識を回したかを思い返す。

 

「ううん、カードを見るもっと前から、右の輪郭を広くしようとすると左が薄くなってた。それで最後に番号とのつながりを考えたら、右へ回してた分の意識までぽろっと抜けちゃって」

「そっか。じゃあさ、最初は左右ともまったく同じ大きさの形で試してみない? 最初から箱の大きさまで変えちゃうと、二つ同時に作るだけで大変なのか、それとも番号の対応を考えたせいで崩れたのか、どっちが原因か分かんなくなりそうだし」

 

 そぴあが手元の白い紙に、同じ大きさの小さな四角を二つ並べて描いてくれた。たしかにこれなら、途中で幅の違いに気を取られる必要はない。らでんは最初に自分が描いた不揃いな図を消さずに残し、そのすぐ隣へ、次に試す手順の順番を書き込んだ。

 

「うん、そうしてみる。これで、もう一回だけ。そぴあ、今度は左右のどっちが先に薄くなったか、横から見ててくれる?」

「いいよ、任せて。今度は両方とも、ここに描いた同じ四角の形ね」

 

 らでんは一度深呼吸をしてから、同じ大きさの小さな輪郭を作業台の左右へ同時に作った。今度はさっきより四方の端が綺麗にそろう。二つの輪郭を同じ視野に入れている間は、八つの角の位置もちゃんと目で追えた。

 けれど、手前の「一」のカードを左の輪郭へ結びつけた状態を保とうとした途端、やはり右側の奥の線がすうっと薄くなった。いけない、とそこへオーラを足し直す。すると今度は、左側の輪郭で保っていたはずの境目が、風船みたいに外側へぷくりと膨らんでしまった。

 

 片方の崩れを整えようとするたびに、もう片方の形が勝手に変わる。カードの番号と対応させたまま、二つの別々の形を同時に維持するだけの余裕が今の自分の手元にはまるで足りない。

 らでんは、崩れかけたオーラの端を無理に追いかけるのをそこでやめた。静かにオーラを体へ収め、長い息を吐く。

 

「今のは、右の奥の線からだったね。そこをらでんが直したら、すぐに左の横が広がっちゃった」

「うん、まさにそっちへ力を足したところだった。……そのときにはもう、二枚のカードの番号のことなんて全然考えてられなかったよ」

 

 そぴあが外から見ていた崩れ方の順番と、自分が内側で保てなくなった意識の順番を、同じ紙の図へ並べて書き足した。自分の思い描いたとおりにうまくいかなかったところを口で説明するのは、刀の金象嵌が光る角度を得意げに案内するのより、ずっと気恥ずかしくて照れる。それでも、どこでどう崩れたかを隣でちゃんと見ていてもらえてよかった。

 もし自分一人で部屋にこもって試していたら、最後には消えてしまった悔しさばかりが残って、どの段階で崩れたのかをこんなふうに図へ残せなかった気がする。

 

「よし、今日の試作はここまでにしようか」

 

 向かいで静かに見守っていたピヨンが、記録紙の試行二回目の下にすっと区切りの線を引いた。

 

「今のその不安定な形に、本物の収蔵品を預けるのはまだちょっと無理だね。まずは、空っぽの二つの形と、手元の番号との対応を一緒に保てるところから順番に練習しよう」

「はい。……これじゃあ、中にどんな品物が入るかなんて、まだ試すところまでいけてもいないですね」

 

 らでんはたくさんの矢印が書き込まれた紙を見下ろした。自分だけの収蔵館どころか、机の上に乗る小さな仕切り二つさえ満足に保てなかった。一と二を書いた紙も、完成した目録の票などではなく、まだただの普通のカードだ。

 大切な品物を一つずつ別々の場所へ安全に収めて、手元の録からいつでも辿れるようにする。その一番最初の入り口の形くらいは、今日のうちに二人の前で見せられるつもりだったのに。

 

「ねえそぴあ、そっちで描いてくれた図、らでんが失敗したとこも全部そのままもらっていい? らでんが自分で見えてた方のメモと、並べて残しておきたいんだ」

「もちろん、いいよ。じゃあそぴあも、らでんが書いたそっちの意識の順番、図に写させて。外から見てたらただオーラの形が崩れただけだけど、そのときらでんが中で何をしようとしてたかは一回ごとに違うじゃん」

 

 らでんは閉じていた自分のノートを机の真ん中へ寄せた。一と二を書いた二枚の普通のカードも、そのすぐ横へ戻す。

 作業台の上からはすっかり消えてしまった二つの輪郭が、二人の紙の上には、外から見た線と内側の順番という少し違う形でちゃんと残っていた。

 

 ピヨンが別室からハンター協会への定時報告を済ませてくる間に、らでんは今日一日で増えた図面と写真を順番にそろえた。旧庫の全体見取図には、今日実際に点検を終えた「箱と三連作」の一組だけに確認済みの印が入っている。白い柄の刀を囲む外枠や、部屋の奥の設備、それに外の通路にあった低い点検口の向こう側は、まだ調べていないままだ。

 

 ミオへの作業終了の連絡と旧庫の施錠の手配もすべて済み、三人で借りていた作業台の上を綺麗に空けた。二枚の番号カードを自分のノートへ挟み込むと、隣で荷物をまとめていたそぴあが、短い巻尺の入った袋をひょいと差し出してくる。

 

「らでん、今朝と同じで、短い方の巻尺またお願いしていい?」

「うん、いいよ。こっちの鞄に入れとくね」

 

 受け取った短い巻尺は、帰りの鞄の底にもちゃんとおさまった。今日は紙の上に描いた構想から、ほんの少しは実物の形へ進めるつもりだったのに、結局手元で増えたのはまた紙の束ばかりだ。それでも、そぴあが横で描いてくれたあの失敗の図だけは、どうしても作業室に置いていく気にはならなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 宿へ戻って小さな共同台所の鍋を覗き込むと、温まっただしの中で薄切りの牛肉がちょうどよくほぐれていた。

 らでんは帰り道で買ってきたうどんの袋をぱりっと開けた。今日書き溜めたノートと写真の束は、向こうの共用机の下に置いた鞄の中だ。今らでんの手元にあるのは、白い三玉のうどんと、細かく刻んだ青ねぎだけだった。

 

「ピヨンさん、このうどん、三玉とも一緒にお鍋へ入れていいですか?」

「いいよ、入れちゃって。ついでに棚から器の方も出してくれる?」

 

 鍋の湯気の中へうどんを滑り込ませてから、上の戸棚から丼を三つ下ろす。似たような落ち着いた柄のものを三つ選んだつもりが、並べてみると一つだけ底が深かった。

 

「そぴあ、器はどれがいい?」

「その一番大きいの」

「決めるの早いね」

「だってお腹空いたもん。らでん、お腹空いてないの?」

 

 そぴあにそう言われてから、自分もずいぶんお腹が空いていることにやっと気づいた。別棟からの帰り道では、晩ご飯のことを考えるはずの頭の隙間にまで、さっき机の上で崩れたオーラの輪郭が入り込んでいたらしい。

 

「うん、すごく空いてる。あー、らでんもそっちの大きい丼にすればよかったな」

「二人とも器は決まった? 先に言っておくけど、丼が大きくても、うどんの麺は一玉ずつだからね」

 

 ピヨンが菜箸で温まったうどんを持ち上げた。そぴあは深い丼を両手で受け取り、その上から熱いだしが注がれるのをじっと待っている。

 

「いいんです、おだしがいっぱい入るから、そぴあはこっちの深いのがいいんです」

「あ、それはすごく分かる。じゃあピヨンさん、らでんの器にもおだし多めでお願いします」

 

 仕上げに刻みねぎをたっぷり載せて食卓へ運ぶと、立ち上る甘い湯気で冷えていた頬がじんわり温まった。椅子を引いて向かい合い、三人で一緒に箸を取る。

 牛肉の柔らかい甘みが、透き通っただしによく移っていた。うどんの麺をひと口すすったら、次はすぐにお肉も一緒に口へ運びたくなる。まだできたてで熱いと分かっているのに、吹いて冷ますより先に箸が次の一口を持ち上げていた。

 

「らでん、七味いる?」

「いる、ありがとう。そぴあはもう自分のに入れた?」

「ううん、まだ。最初は七味を入れないで、そのままのおだしで食べたくて」

「そっか。じゃあ、らでんももうちょっとあとにしようかな」

 

 受け取った七味の小瓶を二人のあいだへ置き、そのままの甘めのだしでもうひと口食べた。ご飯を終えて共用机へ戻ったらすぐ書こうと思っていた記録のことは、いったん、あちらの机で静かに待っていてもらうことにする。

 

「そういえば明日は、ミオさん、朝から神社の巫女さんの方なんだよね」

「そうだね。もしお祭りで見かけて会いに行くなら、お仕事の邪魔にならないときにしようね」

 

 ピヨンが箸を休めて丼を置いた。らでんも大きく頷く。今日まで別棟の机で古い書類の束を抱えていた人が、明日はあの神社の長い石段の上に立つ。午前中にセザールの習作の写しで見たあの場所を、明日はそぴあと並んで実際に歩いてみたかった。

 

「お祭りの屋台で、お団子も食べたいな。もしカエラさんに会えたら、また一緒に誘おうよ」

「いいね! ねえそぴあ、味は昨日の夜に話してた甘いたれと醤油、あの二つでいい?」

「うん、その二つ。……でも、いざ屋台に行ってほかの味もあったら、その場で迷っちゃうかも」

「わかる、らでんも絶対迷う。じゃあとりあえず、甘いたれと醤油の二つは、昨日決めたとおり一口ずつ交換ね」

「本当にその二つだけで足りるといいけどね」

 

 向かいのピヨンに涼しい顔で言われて、らでんは七味の小瓶へ伸ばしかけていた手をぴたりと止めた。

 

「今のところは、ちゃんと二つの予定です」

 

 そぴあが深い丼の向こうでくすっと笑った。らでんもつられて少し笑ってから、自分のうどんへ七味をぱらりと振る。さっきまでの甘い湯気に、ぴりっと香ばしい香りが混じった。

 

 すっかり空になった器を三人で洗い、台所を片付けてから宿の共用机へと戻った。

 らでんが足元の鞄を開くより先に、そぴあはもう昼間に描いた図面を机の上へ出していた。ピヨンも向かいの席へ座り、協会から返ってきた報告の控えを静かにまとめている。らでんは椅子を机へ引き寄せ、その拍子に胸元で机の縁にことりと当たりかけた鋼の雪玉を、そっと服の内側へ押し戻した。

 

「そぴあ、さっきの別棟での失敗の図、その隣に並べて置いてもいい?」

「いいよ、最初からこっち空けといたもん。一と二を書いた番号の紙も出す?」

「うん、出す。でも、今夜は紙の上で考えるだけにしておくね。今からもう一回オーラを流して試しても、たぶんさっきと同じところで困っちゃうから」

 

 ノートから二枚の普通のカードを取り出して並べ、午後に作業室で試した二回の記録を見比べた。一回目に描いた図には左右で大きさの違う輪郭があり、二回目の図には同じ大きさの四角が二つ並んでいる。そしてどちらの図にも、途中で形が崩れた場所へ、そぴあとらでんのそれぞれ違う矢印が書き込まれていた。

 

 らでんは新しい白紙を一枚引き寄せた。もし明日もう一度試すなら、どの段階から先を足せばいいか。それを決める前に、今日自分が何を同時に保とうとして手が足りなくなったのかを、一枚の図の上でひと目で分かるように整理しておきたい。

 すぐ脇に置いた三連作の絵と手紙の記録には、まだミオからの連絡待ちで「返事を探す」という欄が空白のまま残っている。そちらも無理に閉じてしまわず、すぐ見返せるように頁を開いたままにしておいた。

 

「今夜はね、この二つの輪郭の境目のところだけ、紙に描き直したいんだよね。手元の番号の方を見るとすぐ薄くなっちゃったところ。そぴあ、寝る前にもう少しだけ付き合ってくれる?」

「うん、いいよ。じゃあ、そぴあが横から見てた側の線を、こっちの色で足していい?」

「お願い。らでんは、そのときどっちの箱へ力を回そうとしてたかを順番に書くね」

 

 そぴあが紙の左端をしっかりと指で押さえてくれた。

 らでんはそのすぐ隣に、今日の午後は自分のオーラで保ちきれなかった一本の境目を、まずは迷わない鉛筆の線でまっすぐ引いた。

 


 

 宙科そぴあ

 

 《万象観測器(プリンキピア)》

 

【基本性能】

 一つの中心球を三層の環が囲む、小型の天球儀を具現化する。

 天球儀はそぴあの近くに浮かんで随伴し、中心球を中心とした半径二十八メートル(第一完全数)の球形の範囲を観測する。

 具現化するときに、測定する物理量を九項目選ぶ。

 範囲内の物体や生物、発動後に入ってきた対象について、選んだ九項目を継続して測定し、結果をそぴあ本人へ伝える。

 

【測定精度】

 形状・位置の測定誤差は、十万分の一ミリメートル以下。

 

【持続時間と制約】

 具現化から四百九十六秒(第二完全数)、八分十六秒で自動的に解除される。

 本人の意思でも途中で止められず、時間を短くしたり延ばしたりすることもできない。

 選んだ九項目は、満了まで変更・追加・削除できない。

 観測に使う《円》も途中で解除・伸縮できない。中心は天球儀の移動に伴って動く。

 発動中、そぴあ自身のオーラは《纏》に固定される。

 

【測れること、分かること】

 得られるのは、選んだ項目の測定値。そこから計算し、原因や意味を考えるのはそぴあ自身である。

 物の来歴、人の心、念能力の正体や仕組み、未来を直接知る能力ではない。

 

【今回の観測項目】

 位置の三方向、姿勢の三つの角度、速度の三方向で、合わせて九項目。

 外枠の点検中と点検後に、部材や絵、受け具が元の位置から動いていないかを確かめるために使用した。

 

ゴシカ・シティ編、最後までお付き合いいただきありがとうございました! さて、十老頭入りを果たした桐生組。となれば、気になるのは、その武力を担う念能力者集団――《陰獣》です。 皆さんは、誰に陰獣の一員として登場・活躍してほしいですか? 今後の構想の参考にさせていただきます!

  • 桐生組直参 天音かなた
  • 桐生組直参 角巻わため
  • 金虎堂頭領 虎金妃笑虎
  • ベルベット商会 フィクサー 一条莉々華
  • ゴシカでは掃除屋が陰獣を兼ねるしきたり
  • その他新規で別のホロメン
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