開始の合図と同時に百九十八人が一斉に坑道へ流れ込んだ。最初の数百メートルはほとんど競走だった。我先にと前へ出る者、後ろから押しのける者、最初から全力で走る者。坑道の灯りは等間隔で、走る影が壁に伸びては消える。らでんはその流れに乗らなかった。
はじめが横で聞く。
「行かないの?」
「行きますけど、今飛ばす意味ないです」
「でも前の方が有利じゃね?」
「道が一本なら」
らでんは前を見る。坑道の壁、床、天井、古い鉱山設備。まだ入口付近で、床は乾き、足音は高く響く。
「ツェズゲラさん、経路自由って言いましたよね」
「うん」
らでんが続ける。
「じゃあ、そのうち分岐します」
メンチが横から言う。
「最初に走りすぎる奴、後で潰れそうね」
トンパは少し後ろから三人を見ていた。悪くない、とトンパは見た。少なくとも最初の勢いだけで走るタイプではない。だがそれだけで抜けられるほど一次試験は甘くない。
---
十分後、最初の分岐が来た。右、左、正面の三方向。壁には古びた標識、文字は半分剥がれている。受験者たちが一斉に止まりざわつき始める。
「どっちだ?」
「右だろ!」
「いや左!」
「正面が一番広い!」
何人かは考えずに走っていった。
はじめがらでんを見る。
「どれ?」
「ちょっと待って」
らでんはすぐには答えなかった。壁に近づく。古い標識、矢印、記号、数字。灯りの届く範囲で縁の錆びと剥がれを確かめる。小声で呟いた。
「これ、採掘区画の番号かな……」
メンチが聞く。
「読めるの?」
「全部は無理です」
らでんは床を見る。右は足跡が多い。ただし新しい。土埃の上に付いたばかりの靴跡で、つまり受験者が大量に流れただけ。左は古い台車跡で、溝に錆が溜まっている。正面は比較的新しい補修材で、壁の継ぎ目にまだ角が残っている。
「……正面」
メンチが聞く。
「理由は?」
「補修されてる」
らでんは壁を指す。
「少なくとも近年まで人が通ってた」
はじめが笑う。
「死ににくそうってこと?」
「そういうことです」
三人は正面へ進んだ。トンパも少し考えた後、同じ道を選んだ。
---
しばらく進むと最初の集団と差がついた。前には十数人、後ろにもかなりいる。ペースは速いがまだ余裕がある。坑道は緩く下り、息の深さが少しずつ変わる。はじめは本当に楽そうだった。息も上がっていない。足運びが軽い。らでんがちらりと見る。
「はじめさん、体力ありますね」
「まあまあ」
「まあまあじゃないと思います」
「らでんも全然平気じゃん」
「鍛えましたから」
「どれくらい?」
「必要そうな分だけ」
メンチが前を向いたまま言う。
「喋れるならまだ余裕ね」
---
一時間後、坑道の空気が変わった。湿気、温度、匂い。頬に当たる風が湿り、土の匂いが濃くなる。らでんが立ち止まる。
「待って」
「何?」
「水近いかも」
遠くからごうごうという音。メンチが耳を澄ます。
「するね」
前方から受験者が数人戻ってきた。
「水没してる!」
一人が叫ぶ。
「腰まである!」
別の受験者が走っていく。
「泳げば行ける!」
はじめがちょっと楽しそうな顔をする。
「泳ぐ?」
らでんは即答しない。近くの壁を見る。苔の帯、水滴、さらに天井近くの黒ずみ。腰の高さの濡れ跡とは別に、頭の上にも古い水位の跡が残っている。
「さらに水位変動があるかもしれない」
メンチも壁を見る。
「昔の水の跡があるね。かなり高いところ」
らでんが頷く。
「今腰まででも、急に増える可能性ある」
はじめが少し真面目な顔になる。
「じゃあ別ルート?」
「探しましょう」
近くにいた受験者が笑った。
「怖気づいたか?」
はじめが振り返るのを、らでんが先に言う。
「危ないかもしれませんよ」
男は鼻で笑う。
「試験だぞ」
「だからですよ」
男はそのまま水没区画へ入っていった。水音が高く跳ね、灯りに照らされた波紋だけが残る。らでんは止めなかった。はじめが聞く。
「いいの?」
「言いました」
それ以上は本人の判断。
---
少し戻る。脇道、古い保守通路。入り口は低く、中は狭くて暗い。だが頬に触れる空気は動いている。はじめが先を覗く。
「こっちから行けないかな」
らでんが止める。
「足場みてください」
灯りを寄せると、床の一部だけ色が違う。周囲より黒ずみ、縁がふやけている。はじめがつま先で軽く押す。ミシ。澱んだ音が短く返る。
「うわ」
「危なそうですね」
「見えてた?」
「色違がちがいました」
はじめが感心したように笑う。
「らでんは便利だなぁ」
「人を道具みたいに」
「褒めてる」
「雑っ!」
ここではじめが前に出る。
「じゃあここ、うち見る」
一歩ずつ足場の感触を確かめる。つま先、踵、重心、軋み、反発。抜ける板を避け、梁のある列を選ぶ。
「ここダメそう」
「そこは行ける」
「次、右」
身体感覚で通れる場所を選ぶ。らでんはその背中を見て後ろから追い、メンチは呼吸の乱れを見ながら続く。
三人の役割は自然に分かれていった。誰が決めたわけでもない。そうなっていた。
---
保守通路を抜けた時、後方から大きな音がした。ドン。続いて水音。坑道の奥で何かが崩れ、水が壁を打つ音が重なる。らでんたちが振り返る。遠く、さっきの水没区画の方向。はじめが言う。
「増えた?」
らでんは少しだけ顔を曇らせた。
「たぶん」
トンパが後ろから追いついてきた。
「何人か戻れなくなったかもね」
はじめがトンパを見る。
「助けに行くか?」
トンパは肩をすくめた。
「試験中だよ」
「でも」
「自分で選んだ道だろ?」
はじめは少し黙る。らでんもトンパを見る。まだ何も言わない。でも覚えた。
---
二時間目、最初の検査所。小さな地下施設。湿った空気が一度切れ、乾いた灯りの下で試験官補助員が一人、通過者の札に印を押している。らでんたちは無事に一つ目の印を得た。インクの匂いがかすかに残る。補助員が言う。
「残り五時間」
「次は?」
らでんが聞く。
「自分で探せ」
「ですよね」
---
ここから道はさらに複雑になった。上る道、下る道、古い台車線、崩落した採掘区画。風の強い通路では埃が頬を叩き、酸素の薄い場所では呼吸が浅くなる。らでんは自分が知っていることを使った。でも何でも分かるわけではない。
「古い換気記号かもしれません。風が来てるか確かめます」
はじめが前へ出る。
「じゃ、うちが見る」
らでんが即座に言う。
「一人で行かない。見える範囲だけ」
「分かった」
三人は少しずつ慣れてきた。その時だった。前方で悲鳴が上がった。
「うわっ!」
人影が崩れた足場から落ちかけている。受験者の一人、片腕だけで縁にぶら下がっていた。下は暗い縦坑、深さが見えない。灯りが届かず、落とした小石の音も遅れて返る。近くの受験者は止まらない。時間が惜しい。
はじめが一瞬で動いた。
「掴まれ!」
腹ばいになって腕を伸ばす。縁の砂が崩れ、肘の下が沈む。らでんもすぐに腰を支える。靴底を床の継ぎ目に食い込ませ、後ろへ引く。
「メンチさん、後ろ!」
「分かってる!」
三人で男を引き上げる。男は息を切らしていた。
「助かった……」
「よかったな」
はじめが笑う。らでんは時計を見る。数分失った。でも誰も後悔していなかった。トンパが少し離れたところから見ていた。
---
四時間目、第二検査所。通過者はすでに半分以下になっていた。補助員が札に印を押す。
「残り三時間」
はじめが言う。
「まだ三時間もあんの?」
メンチが返す。
「もう三時間しかないのよ」
らでんは坑道の傾きと水の跡を思い返す。
「たぶんこの先が出口に近い。ここまで下ってきたし、風が外へ抜けてる気がする」
「確かか?」
「ざっくりです。現場で見た感じだけ。出口付近で確かめます」
---
終盤、一番きつかった。疲れ、判断力が落ちる。灯りの間隔が長く感じられ、足音だけが重くなる。何人かはそこでミスをする。らでんも一度だけ足を滑らせた。浮いた砂利に靴が乗り、身体が沈む。はじめが腕を掴む。
「らでん! 大丈夫!?」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「ほんと」
はじめはしばらく手を離さなかった。掴んだ指に力が残っている。らでんが笑う。
「大丈夫ですよ」
「ならいい」
手を離す。その瞬間、らでんは少しだけ思った。この子、ほんとに反射で助けるんだな。
---
残り四十分、出口が見えた。坑道の先に細い光が差し、外気の匂いが一気に濃くなる。受験者たちが一気に速度を上げる。はじめも走ろうとする。らでんが止める。
「待って」
「なんで!?」
「最後ほど罠じゃないけど、事故る」
「罠ないって言ってたじゃん」
「だから事故!」
三人で笑う。でも最後まで足場を確認して進む。割れた枕木を避け、濡れた段差を声に出して越える。そして出口、外、光。広い採石場跡。眩しさに目を細めると、ツェズゲラが腕を組んで待っていた。
「札」
一人ずつ確認、二つの印。
「合格」
短い、それだけ。はじめが思わず声を上げる。
「よっしゃ!」
メンチも少しだけ笑った。らでんは大きく息を吐く。
「終わった……」
ツェズゲラが三人を見る。
「何が一番危なかった」
らでんは少し考えた。
「分かったつもりになることです。鉱山記号も、現場の風や足場を見て確認しました」
はじめは言う。
「行けそうだから行くこと。だいたい行けるけど、たまに行けない」
メンチは続けた。
「他人のペースに合わせること。限界は同じじゃないから」
ツェズゲラは短く頷いた。
「そうだ。今日学んだことを覚えておけ」
---
第一次通過者、九十一名。百九十八人から半分以下になった。トンパもしっかり残っていた。はじめが少し驚く。
「トンパのおっちゃん、普通に強いじゃん」
「おっちゃん言うなよ」
トンパが笑う。らでんも内心少し見直していた。怪しい人物だが、試験に来続けられるだけの実力は本当にあるようだ。
---
ツェズゲラが通過者全員を前にする。
「よく残った。ただし今ので満足するな。現場は毎回同じじゃない」
そして全員へ告げた。
「次の試験へ進め」
その言葉で第一次試験は終わった。
---
らでんは自分の札を見る。一つ目、突破。指先の土とインクの跡が残っている。はじめが肩をぶつけてくる。
「やったな」
「やりましたね」
メンチが前を歩きながら言う。
「まだ一次だけだから」
「分かってるって」
はじめが笑う。らでんもつられて笑った。まだ出会って一日。それでも三人で走った距離はもう何十キロにもなっていた。