開始の号令と同時に、百九十八名の受験者が一斉に坑道へなだれ込んだ。
最初の数百メートルは、ほとんど短距離走のような騒ぎだった。我先にと前へ割り込む者、肩で後ろを押しのける者、入り口から全力で駆け出していく者。靴音と荒い息が狭い石壁に反響して重なる。
らでんはその波に乗らず、歩幅を一定に保ったまま足を運んだ。
「あれ、行かないの?」
「行きますけど、最初から飛ばす意味はないかなって」
「でも、前に出た方が有利じゃね?」
「道が一本だけなら、そうなんですけどね」
隣を走るはじめへ答えながら、らでんは前方の闇と壁際へ視線を巡らせた。
削り出された岩壁、踏み固められた床、天井を走る古い配管と鉱山設備の金具。まだ入り口に近いこのあたりは地面も乾ききっていて、駆け抜ける集団の足音ばかりが甲高く跳ね返っている。
「さっきツェズゲラさん、経路は自由って言ってましたし」
「うん」
「なら、そのうち絶対に分岐が出てくると思うんです」
すぐ横を並走していたメンチが、前方の集団を見やりながら鼻を鳴らした。
「無理して最初から飛ばしすぎる奴、あとで勝手に潰れそうね」
◇ ◇ ◇
十分ほど走ったところで、最初の分岐が現れた。
右、左、正面へと分かれる三つの坑道。角の岩壁には古びた金属の標識が打ちつけられていたけれど、塗装は半分以上剥がれ落ちている。
先頭集団の後ろについて走ってきた受験者たちが、一斉に足を止めてざわつき始めた。
「おい、どっちだ?」
「右だろ!」
「いや、左だ!」
「正面が一番道の幅が広いぞ!」
言い合う声のあいだを縫って、何人かは確かめもせずにそれぞれの穴へ飛び込んでいった。
足を止めたはじめが、隣のらでんを振り返る。
「ねえ、どれがいいと思う?」
「ちょっと待ってくださいね」
らでんはすぐには答えず、標識の下へ歩み寄った。
壁の灯りが届く範囲で、錆びついた板の縁と剥がれた文字の跡に目を凝らす。かすかに残った矢印の向き、区切り線、角ばった数字の輪郭。
「これ、採掘区画の番号かな……」
指先を触れずに覗き込んでいると、後ろからメンチが声をかけてきた。
「読めるの?」
「おそらくですけど。全部の記号までは分かりません」
標識から目を離し、今度は三つの通路の床を順番に見比べた。
右の道には無数の靴跡がついている。けれどどれも乾いた土埃を踏み荒らしたばかりの新しい跡で、さっきの先頭集団がまとめて流れ込んだだけだと分かった。
左の道には古い台車のレールが伸びていたが、溝の底に赤黒い錆が分厚く溜まっている。ずいぶん前に使われなくなった区画らしい。
最後に正面の道を見る。ここだけ壁の継ぎ目を埋めた補修材の色が新しく、塗り直された角がまだ崩れずに残っていた。
「……行くなら、正面かな」
メンチが眉を寄せて尋ねる。
「理由は?」
「この道だけ、壁が補修されてます」
らでんは継ぎ目の白い筋を指先で示した。
「少なくとも、近年まで人が手入れして通ってた痕跡がありますから」
隣で聞いていたはじめが、にっと笑った。
「じゃあ、ここなら正解ってこと?」
「正解かは分かりませんけど、私はここを選びます」
二人も異論はないらしく、三人は正面の坑道へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
正面の坑道は緩やかな下り勾配になっていて、奥へ進むにつれて吸い込む息の深さが少しずつ変わっていった。
けれど隣を走るはじめは、まるで散歩でもしているみたいに涼しい顔をしている。呼吸も乱れていないし、地面を蹴る足運びも最初からずっと軽いままだ。
らでんは横目でその足元をちらりと見た。
「はじめさん、ほんとに体力ありますね」
「どうだろ。自分じゃ、まあまあだと思ってるけど」
「それ、ぜんぜん『まあまあ』じゃないと思いますよ」
「そういうらでんだって、まだ平気な顔してるじゃん」
「まあ、ここへ来る前にいろいろ鍛えましたから」
「へえ、どれくらい?」
「意識して走るようになってからは一年くらいかな? フィールドワークで歩いて回れるよう、最低限必要そうな分だけですけど」
前を向いたまま走っていたメンチが、呆れたように口を挟んだ。
「走りながらそれだけ喋れるなら、どっちもまだ余裕ね」
◇ ◇ ◇
走り始めてから一時間が経つころ、坑道の中の空気が変わった。
頬を撫でる風が急に湿り気を帯び、冷たい泥と土の匂いが濃くなる。
らでんは足を止めて手を上げた。
「待ってください。すぐ先に水があるかも」
暗い通路の奥から、低くごうごうと響く音が伝わってくる。
メンチも立ち止まって耳を澄ました。
「……ほんとだ。水の音がする」
直後、前方の暗がりから数人の受験者が慌てた様子で引き返してきた。
「この道はダメだ! 先が水没してるぞ!」
すれ違いざまに別の一人が叫ぶ。
「もう腰まで水が来てる!」
ところが、その横を別の受験者が勢いよく駆け抜けていった。
「腰までなら大丈夫だろ! 俺はそのまま泳いで突っ切るぞ!」
水しぶきの上がりそうな声を見送って、はじめがちょっと楽しそうに目を輝かせた。
「どうする? うちらも泳ぐ?」
らでんはすぐには頷かず、近くの岩壁へ目を向けた。
壁の下方に張りついた湿った苔の帯と、光る水滴。だが視線をそのまま上へ滑らせると、天井に近い高さにもう一筋、黒ずんだ横線が走っているのが見えた。
今言っていた腰の高さとは別に、頭上を優に越える位置まで水が上がった古い跡が残っている。
「いえ、ここからさらに水位が変動するかもしれません。壁の上の方にも水に漬かった痕跡があります。途中で上がってきたら危険です」
らでんの声を聞いて、はじめがすっと真面目な顔に戻った。
「そっか。じゃあ、別のルート探す?」
「そうですね、戻りましょう」
踵を返しかけたそのとき、すぐ近くにいた受験者の男が鼻で笑った。
「なんだよ、水ぐらいで怖気づいたのか?」
はじめがむっとして振り返りかけるより先に、らでんが男へ向き直った。
「天井の近くまで水の跡があります。このまま進むのは危ないかもしれませんよ」
男は聞く耳を持たず、肩を揺らして笑った。
「多少の危険は承知の上だ! なんたってハンター試験だぞ」
「ハンター試験だからこそ、ですよ」
それだけ言って、らでんは二人に目配せした。
◇ ◇ ◇
三人は来た道を少しだけ引き返し、本道の脇に口を開けていた古い保守通路を見つけた。
入り口の枠は頭をぶつけそうなほど低く、中は狭くて暗い。けれど立っていると、奥から頬に触れるかすかな風の動きがあった。空気は死んでいない。
はじめが身を屈めて暗がりの先を覗き込む。
「ここ、奥へ抜けられないかな」
そのまま一歩踏み出そうとする肩を、らでんが後ろから止めた。
「あ、待って。足場を見てください」
壁の灯りを頼りに足元を覗き込むと、敷き詰められた木板の一部だけ色が違っていた。周囲の乾いた板より黒ずみ、継ぎ目の縁が湿気でぶよぶよにふやけている。
はじめが体重を預けず、靴のつま先だけでその板を軽く押してみた。
《ミシッ》
湿り気を吸った鈍い音が、短く足裏へ返ってくる。
「うわ、ほんとだ」
「そのまま乗ってたら抜けてましたね」
「らでん、よく見えてたね?」
「板の色が周りと違ってたんです」
はじめが感心したように目を丸くして、それからけらけらと笑った。
「らでんはほんと便利だなぁ」
「ちょっと、人を便利な道具みたいに言わないでください」
「褒めてるって」
「褒め方が雑だなぁ〜!」
言い合いながら笑うと、はじめがひょいと一歩前へ出た。
「じゃあさ、ここはうちが足場チェック担当するよ。踏んで確かめる」
はじめは腰を少し落とし、一歩ずつ足裏の感触を確かめながら進み始めた。
つま先、踵、重心の乗せ方、板の軋みと下からの反発。腐って抜けそうな板を器用に避け、下にしっかり梁が通っている列だけを踏み分けていく。
「ここはダメそうでぇ、その隣は行けそう。次は右に寄って進んで」
理屈ではなく、身体に染みついた感覚で通れる場所を正確に選び取っていく。
らでんはその頼もしい背中を見つめながら同じ足跡を辿り、最後尾のメンチは二人の呼吸の深さと歩調の乱れに気を配りながら続いた。
誰が言葉にして決めたわけでもないのに、三人の役割はもう自然と噛み合っていた。
◇ ◇ ◇
開始から二時間目、三人は最初の検査所に辿り着いた。
岩盤をくり抜いた小さな地下施設だった。湿った坑道の空気がそこで一度途切れ、乾いた白い灯りの下で、試験官の補助員が一人だけ机を置いて待っている。
差し出した番号札に、一つ目の通過印が押された。新しいインクの匂いがかすかに鼻をくすぐる。
補助員は時計を見て、抑揚のない声で告げた。
「残り五時間」
「あの、次の検査所はどっちですか?」
らでんが尋ねると、補助員は顔も上げずに返した。
「自分で探せ」
「……ですよね」
苦笑いして検査所を出ると、その先から坑道の造りはさらに複雑になった。
急にせり上がる坂、深く落ち込む階段、途中で途切れた台車線、天井ごと崩落して塞がった古い採掘区画。強い風が吹き抜ける通路では乾いた砂埃が容赦なく頬を叩き、逆に空気が淀んだ場所へ入ると、途端に息が浅くなって胸が詰まった。
らでんは壁に残された印を見つけては、知っている限りの知識を手繰り寄せた。けれど、机の上で読んだ本だけで現場のすべてが分かるわけではない。
「これ、古い換気坑の記号かもしれません。ほんとに風が来てるか確かめます」
隣のはじめがすぐに腰を上げた。
「じゃ、うちがちょっと先を見てくる」
らでんは即座にその腕を引き止めた。
「一人で奥まで行かないでください。ここから姿が見える範囲だけ」
「分かった!」
声を掛け合い、確かめ合いながら、三人は少しずつ地下の歩き方に馴染んでいった。
そのときだった。前方の通路で、鋭い悲鳴が跳ね返った。
「うわっ!」
駆け寄ると、崩れ落ちた足場の縁に人影が引っ掛かっていた。
先行していた受験者の一人が、片腕だけで岩の角にぶら下がっている。その足元に広がっているのは、底の見えない真っ暗な縦坑だった。壁の灯りも届かず、崩れ落ちた小石がどこかに当たる音さえ、ずいぶん遅れて下から返ってくる。
すぐ近くを走っていた他の受験者たちは、ちらりと横目で見ただけで足を止めない。みんな自分の残り時間が惜しいのだ。
らでんが息を呑むより早く、隣のはじめが動いていた。
「掴まれ!」
迷わず床へ腹ばいになり、崩れかけた縁からまっすぐ腕を伸ばす。
男の腕を掴み取った瞬間、重みで縁の砂利がざらざらと崩れ、はじめの肘の下が危うく沈んだ。
らでんもすぐさま飛び込み、はじめの腰を両手で強く抱え込んだ。靴底を床の石の継ぎ目にぐっと食い込ませ、後ろへ体重をかける。
「メンチさん、後ろ!」
「分かってる!」
駆けつけたメンチがらでんの帯と肩を後ろから掴み、三人がかりで一気に力を引いた。
ずるり、と男の身体が坑道の床へ滑り上がる。
引き上げられた男は、蒼白な顔で肩を激しく上下させていた。
「た、助かった……」
「よかったな」
はじめは服の胸元についた砂をぱっぱと払うと、何事もなかったように立ち上がった。
◇ ◇ ◇
開始から四時間目、第二検査所に到着した。
周囲を見渡すと、ここまで辿り着いている受験者の姿は、最初の半分以下まで減っているようだった。
補助員が三人の札に二つ目の印を押す。
「残り三時間」
札を受け取ったはじめが、目を丸くして呟いた。
「え、まだ三時間もあんの?」
隣でメンチがすぐに言い返す。
「逆よ。もう三時間しか残ってないの」
らでんは二つの印が並んだ札を見つめながら、ここまで歩いてきた坑道の傾きと、壁に残っていた水跡の向きを頭の中で繋ぎ合わせた。
「たぶん、この先が出口に近いと思います。さっきからずっと下ってきてますし、風の抜け方が外へ向かってる気がするので」
「ほんと? 確かか?」
「ざっくりですよ。現場で歩いてみた感触だけなので、出口に近づいたらまたちゃんと確かめます」
けれど、その第二検査所を過ぎてからが、一番きつい時間帯だった。
四時間を越える地下行軍の疲れがじわじわと脚に溜まり、集中力が鈍ってくる。天井の灯りの間隔がさっきよりずっと長く感じられ、自分たちの重い足音ばかりが耳についた。前を行く受験者の中にも、足元をふらつかせて壁に手をつく者が出始める。
らでんも、下り坂の途中で一度だけ足を滑らせた。
乾いた岩の上に浮いていた細かい砂利に靴底が乗り、あっと思った瞬間には重心が後ろへ崩れて身体が沈む。
転ぶ、と身構えるより先に、横から伸びてきた手がらでんの腕をぐっと掴んだ。
「らでん! 大丈夫!?」
「あ……だ、大丈夫です」
「ほんと? 捻ってない?」
「ほんとに平気です」
体勢を立て直してからも、はじめはしばらくその手を離さなかった。
袖の上から伝わってくる指先に、まだぎゅっと強い力が残っている。
らでんは少し照れくさくなって、笑顔を向けた。
「ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」
「……ならいいけど」
ようやく指の力が抜け、手が離れる。
前を向いて歩き出しながら、らでんはさっき掴まれた腕の熱をぼんやりと感じていた。この子は、誰かが落ちそうなとき、考えるより先にほんとに反射で手が伸びるんだな、と思った。
◇ ◇ ◇
残り四十分を切ったころ、暗い坑道のずっと先に、針で突いたような細い光が見えた。
近づくにつれて乾いた外気の匂いが一気に濃くなり、出口が近いことを知らせてくる。
前方を走っていた受験者たちが、歓声を上げて一斉に速度を上げた。隣のはじめも、つられて前へ飛び出そうとする。
らでんは慌ててその袖を掴んだ。
「待って!」
「え、なんで!? もう出口じゃん!」
「こういう最後が一番、罠じゃないけど事故るんです!」
「ツェズゲラのおっちゃん、罠はないって言ってたじゃん!」
「だから、罠じゃなくて事故ですってば!」
言い合ってから、三人で思わず吹き出した。
それでも駆け出したいのをぐっと堪えて、最後の一メートルまで足場を確かめながら進む。割れた古い枕木を跨ぎ、水気で濡れた段差を指差して声に出しながら越えていった。
そして坑道の口を抜けると、視界いっぱいに外の光が開けた。
切り開かれた広い採石場跡だった。
久々の日差しの眩しさに目を細めると、出口の正面でツェズゲラが腕を組んで待ち構えていた。
「札」
言われるままに一人ずつ番号札を差し出す。そこに並んだ二つの通過印を一瞥して、ツェズゲラが告げた。
「合格」
短く、それだけだった。
瞬間、はじめが両手を突き上げて声を弾ませた。
「よっしゃ!」
隣でメンチも、肩の力を抜いてほんの少しだけ口元を緩める。
らでんは肺の奥に残っていた重たい空気を、ひとつ大きく吐き出した。
「終わったぁ……」
安堵する三人を、ツェズゲラが静かな目で見下ろした。
「この坑道で、何が一番危なかった」
問いかけに、らでんは少しだけ考えてから答えた。
「分かったつもりになることです。知っている鉱山記号があっても、実際の風や足場を見て確かめないと危ないところばかりでした」
続けて、はじめが首を捻りながら言う。
「行けそうだからって、そのまま突っ込むことかな。だいたいは行けるんだけど、たまにマジで行けないとこがある」
最後にメンチが、息を整えながら答えた。
「他人のペースに無理して合わせること。走れる限界は、一人ずつ同じじゃないから」
三者三様の答えを聞いて、ツェズゲラは短く一度だけ頷いた。
「そうだ。今日ここで学んだことを覚えておけ」
制限時間の七時間が過ぎるころには、採石場跡に集まった第一次試験の通過者は九十一名になっていた。
出発したときの百九十八名から、すでに半分以下まで減っている。
見回すと、その中にトンパの姿もしっかりと混じっていた。汗こそかいているものの、ちゃっかり時間内に二つの印を揃えて残っている。
気づいたはじめが、少し驚いたように声をかけた。
「あれ、トンパのおっちゃんもやるじゃん」
「いやあ、おっちゃんって言うのはやめてくれよ」
トンパは頭を掻きながら、人の良さそうな顔で笑ってみせた。
怪しい人物なのは間違いないけれど、毎年この試験会場へ辿り着いて生き残れるだけの脚と勘は、本当に持っているらしい。
やがてツェズゲラが通過者全員の前へ立った。
「よく残った。ただし、今の結果で満足するな。現場の条件は毎回同じじゃない」
厳しい視線で九十一名を見渡し、短く告げる。
「次の試験へ進め」
らでんは手元の番号札へ目を落とした。
これでまず一つ目、突破だ。札の縁には、坑道でついた土埃と赤いインクの跡がうっすらと残っている。
横から、はじめが軽く肩をぶつけてきた。
「やったな、らでん」
「はい、やりましたね」
一歩先を歩き出していたメンチが、肩越しに振り返って釘を刺す。
「ちょっと、まだ一次を抜けただけなんだからね」
「分かってるって!」
はじめが明るく笑い返し、らでんもつられて笑った。
朝の駅前で出会ってから、まだ一日も経っていない。それでも三人が並んで走り抜けた距離は、もう何十キロにもなっていた。