儒烏風亭らでんは世界を蒐集する   作:今日も元気ですマン

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第五話 第一次試験 現場に着け

 開始の合図と同時に百九十八人が一斉に坑道へ流れ込んだ。最初の数百メートルはほとんど競走だった。我先にと前へ出る者、後ろから押しのける者、最初から全力で走る者。坑道の灯りは等間隔で、走る影が壁に伸びては消える。らでんはその流れに乗らなかった。

 

 はじめが横で聞く。

 

 「行かないの?」

 

 「行きますけど、今飛ばす意味ないです」

 

 「でも前の方が有利じゃね?」

 

 「道が一本なら」

 

 らでんは前を見る。坑道の壁、床、天井、古い鉱山設備。まだ入口付近で、床は乾き、足音は高く響く。

 

 「ツェズゲラさん、経路自由って言いましたよね」

 

 「うん」

 

 らでんが続ける。

 

 「じゃあ、そのうち分岐します」

 

 メンチが横から言う。

 

「最初に走りすぎる奴、後で潰れそうね」

 

 トンパは少し後ろから三人を見ていた。悪くない、とトンパは見た。少なくとも最初の勢いだけで走るタイプではない。だがそれだけで抜けられるほど一次試験は甘くない。

 

---

 

 十分後、最初の分岐が来た。右、左、正面の三方向。壁には古びた標識、文字は半分剥がれている。受験者たちが一斉に止まりざわつき始める。

 

「どっちだ?」

 

「右だろ!」

 

「いや左!」

 

「正面が一番広い!」

 

 何人かは考えずに走っていった。

 はじめがらでんを見る。

 

「どれ?」

 

「ちょっと待って」

 

 らでんはすぐには答えなかった。壁に近づく。古い標識、矢印、記号、数字。灯りの届く範囲で縁の錆びと剥がれを確かめる。小声で呟いた。

 

「これ、採掘区画の番号かな……」

 

 メンチが聞く。

 

「読めるの?」

 

「全部は無理です」

 

 らでんは床を見る。右は足跡が多い。ただし新しい。土埃の上に付いたばかりの靴跡で、つまり受験者が大量に流れただけ。左は古い台車跡で、溝に錆が溜まっている。正面は比較的新しい補修材で、壁の継ぎ目にまだ角が残っている。

 

「……正面」

 

 メンチが聞く。

 

「理由は?」

 

「補修されてる」

 

 らでんは壁を指す。

 

「少なくとも近年まで人が通ってた」

 

 はじめが笑う。

 

「死ににくそうってこと?」

 

「そういうことです」

 

 三人は正面へ進んだ。トンパも少し考えた後、同じ道を選んだ。

 

---

 

 しばらく進むと最初の集団と差がついた。前には十数人、後ろにもかなりいる。ペースは速いがまだ余裕がある。坑道は緩く下り、息の深さが少しずつ変わる。はじめは本当に楽そうだった。息も上がっていない。足運びが軽い。らでんがちらりと見る。

 

「はじめさん、体力ありますね」

 

「まあまあ」

 

「まあまあじゃないと思います」

 

「らでんも全然平気じゃん」

 

「鍛えましたから」

 

「どれくらい?」

 

「必要そうな分だけ」

 

 メンチが前を向いたまま言う。

 

「喋れるならまだ余裕ね」

 

---

 

  一時間後、坑道の空気が変わった。湿気、温度、匂い。頬に当たる風が湿り、土の匂いが濃くなる。らでんが立ち止まる。

 

「待って」

 

「何?」

 

「水近いかも」

 

 遠くからごうごうという音。メンチが耳を澄ます。

 

「するね」

 

 前方から受験者が数人戻ってきた。

 

「水没してる!」

 

 一人が叫ぶ。

 

「腰まである!」

 

 別の受験者が走っていく。

 

「泳げば行ける!」

 

 はじめがちょっと楽しそうな顔をする。

 

「泳ぐ?」

 

 らでんは即答しない。近くの壁を見る。苔の帯、水滴、さらに天井近くの黒ずみ。腰の高さの濡れ跡とは別に、頭の上にも古い水位の跡が残っている。

 

「さらに水位変動があるかもしれない」

 

 メンチも壁を見る。

 

「昔の水の跡があるね。かなり高いところ」

 

 らでんが頷く。

 

「今腰まででも、急に増える可能性ある」

 

 はじめが少し真面目な顔になる。

 

「じゃあ別ルート?」

 

「探しましょう」

 

 近くにいた受験者が笑った。

 

「怖気づいたか?」

 

 はじめが振り返るのを、らでんが先に言う。

 

「危ないかもしれませんよ」

 

 男は鼻で笑う。

 

「試験だぞ」

 

「だからですよ」

 

 男はそのまま水没区画へ入っていった。水音が高く跳ね、灯りに照らされた波紋だけが残る。らでんは止めなかった。はじめが聞く。

 

「いいの?」

 

「言いました」

 

 それ以上は本人の判断。

 

---

 

 少し戻る。脇道、古い保守通路。入り口は低く、中は狭くて暗い。だが頬に触れる空気は動いている。はじめが先を覗く。

 

「こっちから行けないかな」

 

 らでんが止める。

 

「足場みてください」

 

 灯りを寄せると、床の一部だけ色が違う。周囲より黒ずみ、縁がふやけている。はじめがつま先で軽く押す。ミシ。澱んだ音が短く返る。

 

「うわ」

 

「危なそうですね」

 

「見えてた?」

 

「色違がちがいました」

 

 はじめが感心したように笑う。

 

「らでんは便利だなぁ」

 

「人を道具みたいに」

 

「褒めてる」

 

「雑っ!」

 

 ここではじめが前に出る。

 

「じゃあここ、うち見る」

 

 一歩ずつ足場の感触を確かめる。つま先、踵、重心、軋み、反発。抜ける板を避け、梁のある列を選ぶ。

 

「ここダメそう」

 

「そこは行ける」

 

「次、右」

 

 身体感覚で通れる場所を選ぶ。らでんはその背中を見て後ろから追い、メンチは呼吸の乱れを見ながら続く。

 三人の役割は自然に分かれていった。誰が決めたわけでもない。そうなっていた。

 

---

 

 保守通路を抜けた時、後方から大きな音がした。ドン。続いて水音。坑道の奥で何かが崩れ、水が壁を打つ音が重なる。らでんたちが振り返る。遠く、さっきの水没区画の方向。はじめが言う。

 

「増えた?」

 

 らでんは少しだけ顔を曇らせた。

 

「たぶん」

 

 トンパが後ろから追いついてきた。

 

「何人か戻れなくなったかもね」

 

 はじめがトンパを見る。

 

「助けに行くか?」

 

 トンパは肩をすくめた。

 

「試験中だよ」

 

「でも」

 

「自分で選んだ道だろ?」

 

 はじめは少し黙る。らでんもトンパを見る。まだ何も言わない。でも覚えた。

 

---

 

 二時間目、最初の検査所。小さな地下施設。湿った空気が一度切れ、乾いた灯りの下で試験官補助員が一人、通過者の札に印を押している。らでんたちは無事に一つ目の印を得た。インクの匂いがかすかに残る。補助員が言う。

 

「残り五時間」

 

「次は?」

 

 らでんが聞く。

 

「自分で探せ」

 

「ですよね」

 

---

 

 ここから道はさらに複雑になった。上る道、下る道、古い台車線、崩落した採掘区画。風の強い通路では埃が頬を叩き、酸素の薄い場所では呼吸が浅くなる。らでんは自分が知っていることを使った。でも何でも分かるわけではない。

 

「古い換気記号かもしれません。風が来てるか確かめます」

 

 はじめが前へ出る。

 

「じゃ、うちが見る」

 

 らでんが即座に言う。

 

「一人で行かない。見える範囲だけ」

 

「分かった」

 

 三人は少しずつ慣れてきた。その時だった。前方で悲鳴が上がった。

 

「うわっ!」

 

 人影が崩れた足場から落ちかけている。受験者の一人、片腕だけで縁にぶら下がっていた。下は暗い縦坑、深さが見えない。灯りが届かず、落とした小石の音も遅れて返る。近くの受験者は止まらない。時間が惜しい。

 

 はじめが一瞬で動いた。

 

「掴まれ!」

 

 腹ばいになって腕を伸ばす。縁の砂が崩れ、肘の下が沈む。らでんもすぐに腰を支える。靴底を床の継ぎ目に食い込ませ、後ろへ引く。

 

「メンチさん、後ろ!」

 

「分かってる!」

 

 三人で男を引き上げる。男は息を切らしていた。

 

「助かった……」

 

「よかったな」

 

 はじめが笑う。らでんは時計を見る。数分失った。でも誰も後悔していなかった。トンパが少し離れたところから見ていた。

 

---

 

 四時間目、第二検査所。通過者はすでに半分以下になっていた。補助員が札に印を押す。

 

「残り三時間」

 

 はじめが言う。

 

「まだ三時間もあんの?」

 

 メンチが返す。

 

「もう三時間しかないのよ」

 

 らでんは坑道の傾きと水の跡を思い返す。

 

「たぶんこの先が出口に近い。ここまで下ってきたし、風が外へ抜けてる気がする」

 

「確かか?」

 

「ざっくりです。現場で見た感じだけ。出口付近で確かめます」

 

---

 

 終盤、一番きつかった。疲れ、判断力が落ちる。灯りの間隔が長く感じられ、足音だけが重くなる。何人かはそこでミスをする。らでんも一度だけ足を滑らせた。浮いた砂利に靴が乗り、身体が沈む。はじめが腕を掴む。

 

「らでん! 大丈夫!?」

 

「大丈夫です」

 

「ほんと?」

 

「ほんと」

 

 はじめはしばらく手を離さなかった。掴んだ指に力が残っている。らでんが笑う。

 

「大丈夫ですよ」

 

「ならいい」

 

 手を離す。その瞬間、らでんは少しだけ思った。この子、ほんとに反射で助けるんだな。

 

---

 

 残り四十分、出口が見えた。坑道の先に細い光が差し、外気の匂いが一気に濃くなる。受験者たちが一気に速度を上げる。はじめも走ろうとする。らでんが止める。

 

「待って」

 

「なんで!?」

 

「最後ほど罠じゃないけど、事故る」

 

「罠ないって言ってたじゃん」

 

「だから事故!」

 

 三人で笑う。でも最後まで足場を確認して進む。割れた枕木を避け、濡れた段差を声に出して越える。そして出口、外、光。広い採石場跡。眩しさに目を細めると、ツェズゲラが腕を組んで待っていた。

 

「札」

 

 一人ずつ確認、二つの印。

 

「合格」

 

 短い、それだけ。はじめが思わず声を上げる。

 

「よっしゃ!」

 

 メンチも少しだけ笑った。らでんは大きく息を吐く。

 

「終わった……」

 

 ツェズゲラが三人を見る。

 

「何が一番危なかった」

 

 らでんは少し考えた。

 

「分かったつもりになることです。鉱山記号も、現場の風や足場を見て確認しました」

 

 はじめは言う。

 

「行けそうだから行くこと。だいたい行けるけど、たまに行けない」

 

 メンチは続けた。

 

「他人のペースに合わせること。限界は同じじゃないから」

 

 ツェズゲラは短く頷いた。

 

「そうだ。今日学んだことを覚えておけ」

 

---

 

 第一次通過者、九十一名。百九十八人から半分以下になった。トンパもしっかり残っていた。はじめが少し驚く。

 

「トンパのおっちゃん、普通に強いじゃん」

 

「おっちゃん言うなよ」

 

 トンパが笑う。らでんも内心少し見直していた。怪しい人物だが、試験に来続けられるだけの実力は本当にあるようだ。

 

---

 

 ツェズゲラが通過者全員を前にする。

 

「よく残った。ただし今ので満足するな。現場は毎回同じじゃない」

 

 そして全員へ告げた。

 

「次の試験へ進め」

 

 その言葉で第一次試験は終わった。

 

---

 

 らでんは自分の札を見る。一つ目、突破。指先の土とインクの跡が残っている。はじめが肩をぶつけてくる。

 

「やったな」

 

「やりましたね」

 

 メンチが前を歩きながら言う。

 

「まだ一次だけだから」

 

「分かってるって」

 

 はじめが笑う。らでんもつられて笑った。まだ出会って一日。それでも三人で走った距離はもう何十キロにもなっていた。

 

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