第三十七話 カイト
鉱山町から下ってきた古い列車が、幾つもの路線が交わる大きな乗換駅のホームへ滑り込んだのは、昼を少し回った頃だった。
約束どおりピヨンに買ってもらった幕の内弁当を待合室のベンチで三人で広げ、一ツ星認定のお祝いをもう一度ささやかに済ませると、乗り継ぎの時刻はあっという間にやってきた。師匠のチードルのもとへ戻るそぴあは北へ向かう急行に、次の仕事があるピヨンは西へ行く特急に乗る。
「じゃあね、らでん! 向こうへ着いたら、旧庫の測定図の清書をすぐ送るから!」
「うん、待ってる。丸いテーブルの件も忘れんでよ。あれ、らでん結構楽しみにしてるから」
改札の前でそぴあと両手を握り合って別れを惜しむ横から、ピヨンが肩掛け鞄を直しながら軽く手を挙げた。
「あんたも、ジンのところの新人さんと会うなら、変な無茶に巻き込まれないようにね。預かり品の追加点検で分からないことが出たら、遠慮なく連絡しなよ」
「はい。……いや、巻き込むのがジンさんの方だったら、もう手遅れでは? ともあれ、駅弁ごちそうさまでした!」
ひらひらと手を振ってそれぞれのホームへ向かう二人の背中を見送り、らでんは一人になった改札口で大きく息をついた。同じタイミングで鞄の中の端末が震え、画面には見知らぬ番号から、丁寧な文面で待ち合わせの場所と日時を尋ねるメッセージが届いていた。
◇ ◇ ◇
それから三日後の昼前。らでんは乗換駅の近くにある宿の自室で、右手首の包帯を新しい薄いガーゼへと巻き直していた。
旧庫で浅く切った傷口はもうほとんど塞がっていて、指を動かしてもひきつるような痛みはない。念のためガーゼの上からサポーターを兼ねた白い布を一周だけ留め、左手で襟元の鋼の雪玉と、左手首に結ばれたジンのミサンガにそっと触れる。
この町に宿を取ったのは、カイトとの合流に都合がいいからだけではない。前の仕事で預かった品の点検と記録を、落ち着いて進める時間が欲しかった。中でも投函箱と三枚の絵は、形や来歴、使い方を確かめ、収蔵録への登録まで済ませてある。昨日は記念館に連絡を入れ、一度だけ試してみる了承も取った。
時計の針が約束の十一時半に近づいたのを確かめて、らでんは肩掛け鞄を提げて宿の一階へ下りた。
待ち合わせに指定したのは、宿から歩いて数分のところにある、駅前の大通りから一本入った静かな喫茶店だ。煉瓦造りの低い入口をくぐると、焙煎された豆の香ばしい匂いと、昼前の落ち着いた話し声が混じり合って迎えてくれた。
さて、どんな人が来ているだろう。
あのジンが『今教えてる新人ハンター』『お前に似てる』と言ってよこした弟弟子だ。きっと師匠に輪をかけたような、挨拶もそこそこに突拍子もないことを言い出す無茶な人が座っているに違いない。そう身構えながら窓際の席へ目を向けたらでんは、思わず入り口のところで足を止めた。
日の当たる四人掛けのテーブルの奥に、キャスケット帽を被った長身の青年が一人で腰掛けていた。
背筋をまっすぐに伸ばし、膝の上で両手を軽く組んで、入り口の方を静かに見ている。テーブルの端には、角の擦れた厚手の革手帳と、折りたたまれた大きな地図が二枚、お冷やのグラスから少し離して綺麗に揃えられていた。水滴が地図へ撥ねないように、最初から距離を空けて置いてあるのだ。
らでんが目を瞬かせていると、向こうもこちらに気づいたらしい。青年はすっと立ち上がり、被っていた帽子に軽く手を添えて、迷いのない動きで頭を下げた。
「あ、カイト君、ですか?」
歩み寄って声を掛けると、青年――カイトは切れ長の目をまっすぐこちらへ向けて、もう一度丁寧に礼をした。
「はい。カイトです。あなたが、儒烏風亭らでんさんですね。急な連絡だったのに、時間を取っていただいてありがとうございます」
「こちらこそ、急に呼び出したみたいになっちゃって。ジンさんから話は聞いてます。あ、どうぞ、座ってください」
向かい合って椅子に腰を下ろしながら、らでんは内心で首をひねった。
言葉遣いも落ち着いているし、立ち居振る舞いにも無駄がない。長い髪は後ろで邪魔にならないようまとめられ、着ている服も長旅で歩き回っているはずなのに、袖口や裾の汚れがきちんと払われている。列車の中でジンのぶっきらぼうなメールを読んだときに想像していた「師匠そっくりの野生児」とは、まるっきり正反対の印象だった。
注文を取りに来た店員にカフェオレを頼み、カイトがホットコーヒーを追加で頼むのを待ってから、らでんは改めて向かいの顔を眺めた。
「……ごめん、ちょっと意外で」
「……俺が、ですか?」
「ジンさんから『お前に似てる』って言われたんですよ。で、あの人の言う似てるって、どの辺だろうって。いきなり窓から入ってきたりするのかな、とか、ちょっと身構えてました」
らでんが正直に打ち明けると、カイトの真面目な顔が、ほんの一瞬だけ微妙に曇った。
「ジンさんと一緒にしないでください。あんなふうに予定も言わずに人を振り回すのは、あの人だけです」
「あ、そこは一緒にされたくないんだ。分かる。私も一緒にされたくない」
「ええ、散々です。……らでんさんへ行けと言われたときも、連絡先だけ渡されて、らでんさんが今どこの街にいるのかすら教えてくれませんでしたから」
「それ、こっちもです。『お前んとこ行けって言っといた』『面倒見てやれ』。以上。いや、こちらの予定! せめて聞いてから紹介してくれませんかね、あの人」
途中から師匠本人への文句になっていた。カイトの口元も、とうとう緩む。
最初から「ジンさん」と呼ぶ声には確かな敬意が滲んでいるのに、その日頃の雑なやり口に対する溜め息の深さまで、驚くほどよく似ている。
「念を教わった順なら、私が姉弟子らしいんですけど。……カイト君の方が落ち着いて見えますね。らでん、まだ十八だし、急に先輩みたいな顔するのも変な感じがして」
「俺も、そう変わらない歳です。普通に話してもらって構いません。ジンさんから紹介された人に、先輩だからと身構えられるのも困りますし」
「じゃあ、お互いその辺は気にしないってことで。よかった、姉弟子らしくしろって言われたらどうしようかと思った」
初対面の少し硬い空気が、共通の師匠へのぼやきと短いやり取りですっと解けていくのが分かった。
運ばれてきたカフェオレとコーヒーがテーブルに置かれると、カイトは姿勢を直し、脇に揃えていた革手帳へ手を伸ばした。
「それで、今日らでんさんにお会いしたのは……ジンさんの居場所について、何か手掛かりをご存じないかと思ってのことです。俺の方で調べられる線を一通り当たったんですが、どうにも先が詰まってしまって」
「あの人を。……それは、なかなか。今までどんなところを回ったのか、ちょっと見せてもらってもいい?」
「はい。これです」
カイトがテーブルの真ん中へ広げたのは、折り目が白くなるほど何度も開閉された大きな地図と、細かい文字でびっしり埋められた手帳の頁だった。
らでんはカフェオレのカップを脇へ寄せ、前のめりになってその紙面を覗き込んだ。
地図の上には、赤と青の色鉛筆で小さな丸や矢印がいくつも書き込まれている。港町の名前、内陸の遺跡調査隊の拠点、古い文献が保管されている図書館、さらには密猟者や盗掘者が摘発された現場の記録まで。それぞれの地点には日付と番号が振られ、手帳の対応する番号の欄には、現地で聞き込んだ証言や、出入国記録の照合結果、そして「三週間前に出立済み」「同名の別人と判明」「痕跡なし」といった結果が、定規を引いたように整った字で記されていた。
しかも、ただ闇雲に足を運んだのではない。ある港で目撃情報が途切れれば、その時期に出ていた貨物船の寄港地を全て洗い出し、風向きや季節の海流から次に降りそうな港を三つに絞って、順番に自分の足で確かめている。予想が外れた場所には斜線が引かれ、なぜ外れたと判断したかの理由まで短く添えてあった。手帳の端には色分けされた小さな紙のインデックスが貼られていて、地域ごとの時刻表の写しや、港で聞き取った荷役の控えまでがすぐ引けるように整理されている。
「え、待って。この港も、その次の調査隊のところも? これ、全部一人で回ったの?」
「はい。ここ数ヶ月、ジンさんが立ち寄りそうな場所や、過去の仕事の関係先をリストにして順番に潰してきました。ただ、先週この南の港町で空振りに終わってから、次に辿れる線が完全に消えてしまって」
カイトは唇を引き結び、斜線ばかりが並んだ最新の頁を指先でトントンと軽く叩いた。
「その港町までは、半年ほど前にジンさんが古い石板の輸送に関わったという噂があって辿れたんです。でも、現地の倉庫番に話を聞いたら、荷物を引き渡したその日のうちに、行先も告げずに漁船へ便乗して出ていったと。そこから先は、近隣のどの港の入港記録にも似た人物がいませんでした」
らでんはその指先と、紙の端まで隙間なく書き込まれた文字を見比べた。これだけの手順を組み立てて、現地へ足を運び、一つずつ裏付けを取っている。努力していないどころか、駆け出しのハンターが一人でできる調査としては、これ以上ないほど丁寧で粘り強い仕事だ。
それなのに、手帳のどの頁を見ても、誰かに調査を分担してもらった形跡や、他のハンターに相談した記録が一行もない。全部の候補地を自分でリストにし、自分で歩き、外れたら自分の予想が甘かったのだと斜線を引いて、次の場所へ黙々と向かっている。
――ああ、なるほどね。
らでんは胸の奥で、思わず小さく頷いた。
ジンが言っていた『飲み込みは早えけど、一人で何とかしようとする。お前に似てる』という言葉の意味が、この手帳を開いた瞬間にすっきりと腑に落ちた。見た目の落ち着きや礼儀正しさではなく、気になったことを自分の手と足で確かめずにはいられないところや、行き詰まるまで一人で全部抱え込んで突っ走ってしまうところが、あの師匠の目にはそっくりに映ったのだろう。もっとも、自分まで同じ括りにされるのはやっぱり少し納得がいかなかったけれど。
「ここ、風向きまで調べてある。足取りを拾っただけじゃなくて、次にどこへ行けるかも考えてたんだね」
「いえ、結果が出ていませんから。これだけ回って掠りもしないということは、俺の追い方が根本的に間違っているんだと思います」
カイトは少しも誇ることなく、むしろ自分の不甲斐なさを恥じるように眉を寄せた。
こういう真面目な人が、あの気まぐれな師匠を相手にしていたら、それはもう苦労が絶えないはずだ。らでんは手帳から顔を上げ、目の前の頼もしい弟弟子へ改めて問い掛けた。
「一つ聞いてもいい? これだけ追ってるって、何か約束でもしてるの? ジンさんに届け物がある、とかじゃないんだよね」
◇ ◇ ◇
尋ねられたカイトは、コーヒーのカップに添えていた指を止め、少しだけ視線を落とした。それから、変に取り繕うこともなく、真っ直ぐな声で答えた。
「……最終試験の課題なんです。俺が自分で、ジンさんに頼みました」
「カイト君の方から?」
「はい。ハンター試験に受かって、念の基礎と水見式まで教わったあと、俺の方から言ったんです。一人前だと認めてほしい、これからもジンさんの後ろについていきたい、と」
カイトの声には、気負いとは違う静かな熱があった。
「まだ自分の固有の《発》までは形にできていませんが、基礎の四大行は毎日欠かさず鍛えてきました。だから、現場に同行して少しでも役に立ちたいと言ったんです。そしたらジンさんは、追跡の基本だけ教えてくれたあとで、『そこまで言うなら、俺を捕まえてみろ。見つけられたら認めてやる』って。……それきり、翌朝にはもう姿を消していました」
「……ああー。それは、言ってしまいましたねえ」
らでんは口元を押さえた。目に浮かぶ。弟子の真剣な申し出を聞いたジンが、どれほど面白そうな顔をしたか。カイトは覚悟を伝えたつもりなのに、あの人にはとびきり楽しそうな遊びへの招待状に見えたのではないか。
笑ってはいけない。カイトは今、本当に困っている。けれど、翌朝にはいなくなったというくだりが、もうあまりにも師匠だった。
「認めてほしい、ついていきたいって、よく真正面から言ったね。その勇気はちょっとすごいと思う」
らでんが心からそう言うと、カイトは少し意外そうに目を瞬かせた。
「すごい、ですか? 身の程知らずだったんじゃないかと、今は思うこともありますが」
「いや、身の程の話じゃなくてね。あの人、そこまで言われたら嬉しくなっちゃうと思うんだよ。で、嬉しくなると課題がややこしくなる。……順番、おかしくない? 普通、もう少し親切になるところでしょ」
「……嬉しくなって、ですか?」
「たぶんね。自分が教えた弟子が、本気で探しに来るんだよ? 全力で鬼ごっこを楽しめるじゃん。あの人の性格だと、期待してるからこそ手加減しない、は十分ありそう」
らでんが確信を込めて言うと、カイトはハッとしたように目を見開き、それから「……楽しんで、いる」と小さく復唱した。自分の力不足で突き放されたのかもしれない、と一人で思いつめていた肩の力が、その一言でふっと抜けたように見えた。
「言われてみれば……出ていく前の晩、いつもより妙に機嫌がよかった気がします。俺が必死に荷物をまとめている横で、地図も見ずに鼻歌を歌っていました」
「鼻歌まで出てたの? それはもう、相当楽しみにしてるなあ……。ごめん、カイト君は大変なんだけど、あまりにも想像がつく」
カイトが苦笑したので、らでんもようやく笑えた。師匠に会えないという困り事が、二人の知っているジンの話へ戻ってきた。
「そうだ、連絡は? この前仕事の報告でメールしたら返ってきたけど、カイト君の方は」
「いえ、短い連絡ならたまに通じます。ただ、どこにいるのか聞いても絶対に答えてくれませんし、今の段階で泣きつくような真似をしたら、それこそ『まだ無理だな』で終わってしまいそうで」
「ああ、聞きたいのはそこじゃない、って返事だけ来るやつね。私が横から聞いても、『自分で探せって言え』で終わりそうだなあ」
あの短い『おう』の返信を思い出すだけで、どういう返事が来るかは火を見るより明らかだった。ジンが誰とも連絡を絶っているわけではなく、あくまでカイトへの課題として居場所を伏せているのなら、らでんが裏から居場所を聞き出そうとしても意味がない。
カイトは手元の地図へ視線を戻し、赤鉛筆で引いた斜線の列を見つめた。
「……やっぱり、俺の読みが浅いんでしょうか。ジンさんの性格なら、普通の定期便や大きな街は避けるはずだと思って、裏のルートや辺境の調査拠点ばかりを狙って絞ってきたんですが」
「船の便も、風向きも、理由があって絞ってるんだよね。うーん……。らでんだったら、どうするかな」
らでんは手帳の頁を指先で辿りながら、自分が古い収蔵品の来歴や、塞がれた建物の通路を調べていたときのことを思い起こした。
最初から「ここが正解だ」と一つに決め打ちして当たったことなんて、実はほとんどない。工事前の予定図と完成後の竣工図を並べたり、正面の写真と横からの写真を突き合わせたり、一見すると間違いに見える太い柱の寸法も消さずに残しておいたり。そうやっていくつもの跡を机の上に並べてみて初めて、「あ、ここが繋がるんだ」と分かる瞬間がやってくる。
「たぶん、試す回数を増やす。あと、外れだと思ったところも残して、もう一回まとめて見るかな。一個ずつ片づけちゃうと、あとで並べたくなったとき困るから」
「外れたものも、ですか?」
「うん。この港にはいなかった、って結果も、その日にいなかったことは分かるじゃん。それが何個か並ぶと、あれ、こっちは通れないぞ、とか見えてくることがあるんだよね。そういう答え合わせが好きで」
らでんが自分のノートを扱うときのように両手を広げてみせると、カイトは真剣な目でその手元を見つめた。
「ただ、相手がジンさんだからなあ。普通はこの便に乗る、を、あの人は平気で飛ばしてくるんだよ。ゲームだったら、バグまで使ってRTAの世界記録を狙うタイプ。そりゃ普通の攻略本には載ってないよ、っていう」
「……あーる、てぃー、えー?」
カイトが首をかしげ、聞き慣れない略語を真面目な声で繰り返した。
「あ、ごめん。ゲームをどれだけ速くクリアできるか、っていう競争。道を順番に歩くより、壁の隙間を抜けた方が速いならそっちへ行く、みたいな。……ジンさん、やりそうじゃない?」
「なるほど……。道順どおりに追いかけても、そもそも同じ道を通っていない、ということですね」
「そう、それ。だから一回の先読みで当てようとするより、拾えた痕跡を増やして、何個か合わせてみる方がよさそう。あの人、手掛かりを一つずつ違うところに置くのも好きそうだし。……って、結局『もっと調べよう』になってしまった。相談に乗っといて、それか、らでん」
自分で言って、自分で困った。今まさに調べ尽くしてきた人へ、調べる回数を増やせとは。せめてもう少し、役に立つことが言えなかったか。
けれどカイトは笑わなかった。それどころか、手元の革手帳の前の頁をぱらぱらとめくり返し、自分が「無関係」「ただの立ち寄り先」として斜線を引いていた古いメモの欄を食い入るように見つめ直している。
「……いえ。すごく腑に落ちました」
カイトが顔を上げたとき、その瞳にはここへ来たときよりもずっとはっきりした光が宿っていた。
「俺は、一箇所外れるたびに『この線は違った』と切り捨てて、次の新しい線ばかりを探していました。でも、ジンさんが通ったかもしれない古い記録や、一見関係なさそうに見えて除外した場所も、消さずに並べて見直せばよかったんですね」
「そこまで自分で集めてきたものなら、なおさら残しておきたいよね。今の見方だと外れでも、あとで気になるかもしれんし」
自分の言葉が、目の前の弟弟子の役に立った。それだけで、らでんの胸の奥がぱっと明るく弾んだ。ジンから一方的に『面倒見てやれ』と投げられた用事だったはずなのに、今はもう、この真面目で一生懸命なカイトがどうやって師匠の尻尾を捕まえるのか、自分事のようにわくわくしてきている。
ちょうどそのとき、店内の時計が正午の鐘を小さく鳴らした。
「あ、もうお昼だ。カイト君、ご飯どうする? よかったら食べながらもう少し話さない? それでね、さっきの相談、もう一つ試せそうなことがあるんだけど」
◇ ◇ ◇
喫茶店を出た二人は、駅前の大通りから少し外れた、古い水路沿いの石畳の道を歩いた。
途中にある小さな大衆食堂へ立ち寄り、揚げたての白身魚のフライ定食を二人で平らげてから、宿の方へゆっくり戻る道すがらだ。食事のあいだに互いの専門の話を少しだけしてみると、カイトは将来、まだ人の手が入っていない未踏地の生態系や新種の生物を調査するハンターを目指しているのだと教えてくれた。古い道具や人が残した手紙を追いかけるらでんとは、見ている分野がちょうど背中合わせのように違っていて、聞いているだけでも新鮮だった。
十月下旬の澄んだ日差しが水路の水面を照らし、石積みの護岸の上には、黄色く色づいた街路樹の葉がいくつも落ちている。
らでんは歩きながら、水路の縁に一定の間隔で埋め込まれている古い鉄の輪に目を留めた。
「カイト君、ちょっとこれ見て。この輪っかの下だけ、石が丸くなってる。綱が擦れたのかな。ここ、昔は小舟で荷物を運んでたんじゃない?」
しゃがみ込んで石の擦れ跡を覗き込むと、カイトも隣で足を止め、同じ鉄の輪と水路の対岸を見渡した。
「ほんとだ。上流の方の橋桁が低く造り直されてますから、今はもう舟は通れませんね。……あ、らでんさん、その鉄の輪の下の隙間、ちょっとそのまま動かずに見ていてください」
「え? うん」
言われたとおりに息を潜めて石垣の隙間を見つめると、すぐ横の柳の枝から、喉元の赤い小さな鳥がすっと舞い降りてきた。
小鳥はらでんたちの存在を気にする様子もなく、鉄の輪の根元にある石の窪みへくちばしを差し込み、中に挟まっていた硬い木の実を器用にコンコンと突いて割り始めた。
「あ、実を割ってる。……え、そこを使うの?」
「この辺りにいるチャノドシジュウカラですね。あいつら、自分で木の実を押さえる力が弱いから、ああやって樹皮の割れ目や古い金具の隙間に実を固定して割るんです。その鉄の輪の根元にだけ細かい殻がたくさん落ちていたから、たぶんあそこをお気に入りの台にしてるんだろうと思って」
「待って、殻が落ちてたって、歩いてる間に見てたの? 輪っかしか見てなかったんだけど」
「ええ。水辺の石垣に新しい殻が溜まっているときは、大体すぐ上の枝に本人が隠れてますから。それに、石の隙間に挟んである実がまだ乾ききっていなかったので、ついさっき運んできたばかりだと分かります。……ほら、今の音、聞こえましたか?」
カイトが小さく顎を引いて、少し離れた街路樹の上を示した。
耳を澄ますと、チリリ、チリリ、と先ほどの小鳥とは少し違う、高い鈴のような鳴き声が二つ重なって聞こえてくる。
「あっちは渡りの前の群れですね。今年は山の冷え込みが少し早いから、もうこの辺りの街まで降りてきてるんだな。木の実の取り合いになる前に、あの子も冬越しの貯食を急いでいるのかもしれません」
高い枝先を見上げるカイトの横顔は、さっき喫茶店で手帳を睨んでいたときよりもずっと柔らかく、自然だった。
らでんは同じ水路の石垣を見て、昔の人たちが舟を繋いで荷物を上げた跡にばかり目が行った。けれどカイトは、その古い金具の隙間に落ちた小さな木の実の殻や、枝の上から聞こえる鳥の声から、今そこに生きているものの暮らしをすっと読み取ってしまう。使われなくなった人間の道具が、いつの間にか小さな鳥の食卓として別の役目を継いでいるというのも、なんだか楽しい発見だった。
そぴあと一緒に建物を調べていたときは、らでんが気になった傷や形を、そぴあが正確な寸法と図面にしてくれた。それとはまた違う、自分ひとりでは絶対に気づけなかった景色をすぐ隣で教えてもらえることが、らでんにはたまらなく面白かった。
「はあー、面白い。同じもの見てるのに、そこから鳥の暮らしが分かるんだ。荷揚げの道具が、今は食卓かあ。まだ現役だったんだね、これ」
「荷揚げ用だろうというのは、俺も言われて初めて考えました。鳥が止まりやすい、古い金具だとしか見ていませんでしたから」
「それ、後で調べてみようかな。舟の話が合ってたら、昔と今で使い道が二つあるってことになるし。カイト君と歩かなかったら、今の方は見落とすところだった」
らでんが笑いかけると、カイトも今度は遠慮のない、年相応の明るい笑顔を見せた。
「そうですね。誰かと一緒に歩きながらこういう話をするのは、久しぶりな気がします」
「じゃあ、また付き合ってよ。私が立ち止まってても、見てる場所は別かもしれんけど。……そうだ、さっきの、もう一つ試せそうなことなんだけど。宿で見てほしいものがあるんだ」
水路の角を曲がると、らでんが泊まっている三階建ての宿の看板が見えてきた。
「らでんさんの能力、ですか?」
「私の能力を使うけど、探す方は、預かってる古い品の力。ここにジンさんがいます、って地図を出してくれるわけじゃないから、また二人で考えることになりそうなんだけどね」
階段を上り、誰もいない二階の廊下の奥で足を止める。
「この前の仕事でね、人を探すための絵を預かったんだよ。小さな投函箱と、三枚の絵で一組になってるの。カイト君の手掛かりになるかもしれないなって」
らでんは自分の部屋の扉の前で立ち止まり、カイトの方へ向き直った。
「箱に手紙を入れて使うんだって。生き別れたお姉さんを探す手紙が残ってて、三枚の絵も、その旅を描いてるように読めるの。実際に会えたかまでは、まだ分からんのだけど。……カイト君も、ジンさんを探す手紙を書いてみない?」
カイトの目が、驚いたように大きく見開かれた。
「俺が、ですか? でも、そんな大事な調査の品を、俺の個人的な課題のために使ってもらうわけには……」
「そこは、らでんも手伝ってもらう側だよ。実際に人を探してる人と、一緒に確かめられたらありがたいし。……あと、単純に気になるんだよね。ジンさんを探す絵って、何が出るんだろうって」
らでんは襟元から細い紐を引き出し、カエラに打ち直してもらった鋼の雪玉を左手の掌に乗せた。
「この扉から、らでんの美術館に入れるの。念でできた空間なんだけど、よかったら一緒に来てくれる?」
カイトは掌の上の丸い鋼と、らでんの真っ直ぐな目を交互に見つめ、それから迷いなく深く頷いた。
「はい。よろしくお願いします、らでんさん」
◇ ◇ ◇
らでんが鋼の雪玉を部屋の鍵穴へそっと当ててオーラを通すと、カチャリ、と静かな音が響いた。
ノブを回して扉を押し開ける。その向こうに広がっていたのは、宿の木造の部屋ではなく、柔らかな白い光に満たされた石造りのエントランスホールだった。
「……ここは」
「ようこそ、《
らでんが一歩先へ踏み出し、カイトが続いて中へ入る。後ろで扉を閉めると、外の町の物音はすっと消え、高い天井と静かな空気だけが残った。
ピヨンとそぴあと一緒に旧庫から品物を退避させたあの日以来、ピヨンとそぴあ以外の誰かを自分の館へ招き入れるのは初めてだ。人生で最初の来館者はピヨンとそぴあだったけれど、こうして仕事の知人であり弟弟子でもあるカイトに「ようこそ」と言えることが、らでんにはなんだか誇らしくて、くすぐったいような嬉しさがあった。
カイトは帽子を脱ぎ、高い天井から奥の展示室へと続く回廊を、感嘆の混じった目でゆっくりと見渡している。
「すごいですね……。外から独立した念空間を、これだけの広さと安定感で維持しているなんて」
「昔の蒐集家が遺した念を、作品ごと受け入れるために作ったんだよ。展示はまだこれからなんだけど、記念館から追加で預かったものも、奥に結構あってさ。まだ確認したり整理したりしてるところなんだよね。作った人のことも伝わる展示にしていきたくて。……あ、奥の隔離区画には入らないでね。今日はこっち」
らでんが案内したのは、展示室に設けた休憩区画兼作業スペースだった。
いつかそぴあと一緒に丸いテーブルを選びに行く約束をしている場所だが、今はまだ、仮に持ち込んだ四角い木机と椅子が三脚、それに湯沸かし用のポットと人数分のマグカップが並んでいるくらいの、どこか庶民的で落ち着いた一角だ。壁際には、記念館から持ち帰った図面の控えや、これから整理する予定のノートがきちんと積まれている。
「ここは今、休憩所兼作業場。美術館まで来て、結局こういう机が一番落ち着くの、なんなんだろうね」
「ええ。なんだか、らでんさんらしい場所ですね。ただ品物を閉じ込めておく倉庫じゃなくて、誰かが見に来ることを前提に造られているのが分かります」
その「見に来ることを前提に」という言い方が、嬉しかった。空のケースばかり見せたのに、カイトには、その先まで少し見えていたのかもしれない。
「うん、誰かに見てほしいんだよね。ほら、今日使うのは、あっちに掛けてある三枚。箱の方は今ここで出すから、ちょっと待ってて」
壁には三つの額が横に並んでいた。利用するために先に復元して掛けておいたもので、中はまだどれも白い。古い原画と手紙は、傷めないよう収蔵庫に保管してある。次はここに、カイトの旅が描かれるかもしれない。
らでんは作業机の前へ立ち、自分の手元に一冊の装丁された本――《
表紙を開き、箱と三枚の額が描かれた頁を探す。《
「《遺念収蔵録》っていうの。預かったものを調べて、記録して、使うときはここから復元する。……木目まで結構ちゃんと出るから、ちょっと見てて」
この一組は、もう利用登録を済ませてある。館内で使うだけなら貸出票も要らない。らでんは頁へ目を落とし、投函箱の形を思い浮かべた。
机の上に淡い光が集まり、封筒が通る細長い口を持った木箱が形を結んだ。
木箱の縁には、封筒が何度も擦った細い跡まである。今ここで復元したものなのに、昔の誰かの手つきが残っているようだった。
「……木目も金具も。こちらが原物だと言われたら、信じてしまいそうです」
「元はね、会いたい相手を追い求めて、絵を描いていた画家の作品なんだって」
「人を探すために、絵を?」
「うん。会いたい人を探すことと、描くことが、その人の中では離れなかったんだろうね。それが人を探す念になって、こうして残った。……自分の得意なことを使って、なんとか会いにいこうとするの、らでんは好きだなあ」
らでんは壁の三枚へ目を向けた。昔の誰かの願いを受け取った作品が、今、目の前のカイトの話にも繋がろうとしている。それを一緒に見届けられるのが嬉しかった。
「今もこの箱に手紙を入れると、翌日、三枚の絵が現れるの。探し始め、探してる途中、それから会う場面。どこなのかは、絵を見て考えないといけないんだけど」
らでんは鞄から用意しておいた白い便箋と封筒、それに万年筆を取り出して、机の上のカイトの前へ置いた。
「便箋はこれ使って。決まった呪文があるわけじゃなくて、誰を探してるかと、どうしたいかを自分の言葉で書くらしいんだよね。前の手紙もそういう内容だったから」
カイトは椅子に腰を下ろし、白い便箋の前で万年筆を握った。
すぐに書き始めるかと思いきや、そのペン先が紙の上でぴたりと止まる。
「……どうしたの?」
「いえ。いざ手紙に書くとなると、何から書けばいいのか少し迷ってしまって。これまで、ジンさんの特徴や足取りは調査メモとして散々書いてきましたが、手紙として書くのは初めてなので」
「ああ、調査メモだと『何時何分、目撃』とかだもんね。手紙ってなると、急に書き出しが難しい。……どうして探してるか、からでいいんじゃない? さっき話してくれたみたいに」
らでんが椅子を引いて少し離れたところで湯沸かしポットのお湯を確かめながら待っていると、カイトは一度だけ深く息を吸い、それから万年筆のペン先を便箋へ下ろした。
カリ、カリ、と静かな部屋にペンの走る音だけが響く。
長い文章ではなかった。けれど、一文字ずつ確かめるようにペンを動かし、最後に迷いなく筆を止めたカイトの横顔は、とても澄んでいた。インクが乾くのを待って便箋を三つに折り、白い封筒へ収めて封をする。
「書けました」
「じゃあ、こちらへどうぞ。……普通の投函口みたいでしょ、そこは」
カイトが立ち上がり、復元された木箱の細長い投函口へ、白い封筒をゆっくりと差し入れた。
すっと封筒が中へ吸い込まれ、箱の奥で小さな音がしたと思うと、投函口の縁と、壁に掛かった三つの額縁に、淡く穏やかなオーラの光が一瞬だけ巡って静まった。箱が確かにカイトの手紙を受け取ったのだ。
らでんも思わず壁へ近づき、カイトと並んで三枚を見つめた。
一秒、二秒、三秒。
額の中は、白い支持紙のままぴくりとも変わらない。
「……やっぱり、今すぐには出ないね」
「ええ。らでんさんがさっき言っていたとおり、明日まで待つ条件のようですね」
「明日って分かってるのにね。端っこから一本くらい線が出ないかな、とか、今ちょっと思った。せっかちな鑑賞者で申し訳ない」
「……正直に言うと、俺も今、少しだけ期待して見ていました」
カイトが真面目な顔のまま白状したので、らでんは堪えきれずに吹き出した。
落ち着いて見える弟弟子も、中身はやっぱり早く結果が見たくてうずうずしているのだ。そう分かると、明日まで待つ一晩がなんだか遠足の前夜みたいに思えてくる。
せっかくお湯も沸いていたので、らでんはマグカップを二つ並べて紅茶のティーバッグを落とし、カイトと向かい合って一息ついてから帰ることにした。
「ところで、何て書いたの? あ、手紙だし、見せたくなかったら別にいいんだけど。ジンさんに話し掛ける感じで書いた?」
「いえ、隠すようなことじゃありません。……『ジン=フリークスさんを探しています。約束どおり、必ず自分の足で見つけ出します。今の俺がどこまで近づけているのか、確かめに行きます』とだけ書きました」
「なるほど。手掛かりをください、より、見つけに行きます、なんだ。……そういうところ、ジンさんが楽しみにしてそうだなあ。さて、どんな絵になるやら」
温かい紅茶を飲み干してカップを軽くすすぎ、二人は立ち上がった。
「じゃあ、このまま明日まで待とうか。途中で片づけて待ち時間が早まるわけでもないし。今日は部屋へ戻って、朝、また二人で見に来ない?」
「はい。明日の朝、またここへ来ます」
二人は壁に掛かった、まだ真っ白な三枚をもう一度だけ振り返ってから、雪玉の鍵で開いた元の扉をくぐり、夕方の光が差し込み始めた宿の自室へと戻った。
◇ ◇ ◇
翌朝。らでんが洗面を済ませて部屋の空気を入れ替えていると、約束の八時ぴったりに、控えめなノックの音が響いた。
扉を開けると、すでに旅支度を整え、革手帳と地図の入った鞄を肩に掛けたカイトが立っていた。いつでもそのまま駅へ走れそうな身ごしらえだ。
「おはようございます、らでんさん」
「おはよう。……もう出発できそうな格好だね。寝られた?」
「いえ、一応眠りましたが……目が覚めたら六時前でした。宿の周りを少し歩いて、朝の鳥を見てから来ました」
「らでんも六時半。人のこと聞けないな。よし、見に行こっか」
朝の挨拶もそこそこに、らでんは一度閉めた自室の扉へ再び鋼の雪玉の鍵を当てた。
昨日と同じ入口から、二人で《遺念収蔵館》のホールへ入る。昨日は白かった、あの壁の三枚に何が描かれているだろう。まだ廊下を歩いているのに、らでんはつい展示室の方へ首を伸ばしてしまう。
小走りに近い早足で展示室へ入る。投函箱は机に置いたまま、その向こうの壁には、昨日にはなかった鮮やかな三枚の絵が並んでいた。
「……出てる。カイト君、見て。三枚とも、ちゃんと絵になってる」
「……本当だ」
二人は壁の前に並び立ち、息を詰めて左端の一枚目から順番に目を向けた。
まず、左の一枚目。
そこに描かれていたのは、深い青緑色の海に囲まれた、特徴的な形をした島の風景だった。
画面の奥には、海に突き出た大きな岩山が、まるで巨大な鯨が背中と尾びれを海面へ浮かべているような独特の輪郭を描いている。その手前の穏やかな入り江には、小さな港の桟橋と、緩やかな丘の上に回る白い風車、そして豊かな森へと続く一本道が見えた。桟橋の近くには赤い屋根の素朴な家々が点在し、海の青さと森の深い緑が気持ちよく溶け合っている。
そして、その入り江を見下ろす草地の道端に、緑色の服を着た黒髪の幼い少年が一人、後ろ姿に近い斜めの角度でちょこんと立っていた。少年の少し先、森の茂みの陰には小さな狐熊のような獣の影も見えるが、看板も文字もなければ、ここがどこで、この少年が誰なのかを示す言葉はどこにも書き込まれていない。
「島、かな。それと……男の子がいるね。ジンさんじゃないよね、さすがに」
らでんが呟くと、隣のカイトは眉根を寄せ、島の輪郭と入り江の形を食い入るように見つめた。
「ええ。かなり小さな島です。大きな港湾施設じゃなくて、定期船が一隻着けるくらいの桟橋と、風車がある……。とりあえず、次の二枚目も見てみましょう」
視線を真ん中の二枚目へと移す。
二枚目の構図は、一枚目の明るい屋外から一転して、どこか旅先の薄暗い室内を描いていた。
ランプの光に照らされた木の机の上に、何枚もの地図や航路図、古い書類の束が幾重にも広げられている。その机の前に座り、帽子を脇に置いて、複数の紙面を真剣な目で見比べている後ろ姿――肩の下まで伸びた長い白銀色の髪は、どう見ても今すぐ隣に立っているカイト自身だった。机の端には、昨日喫茶店でらでんも見せてもらったあの角の擦れた革手帳まで、そっくりそのまま開かれて描かれている。
「あ、この手帳。今カイト君が持ってるのと同じじゃない? 髪も帽子も……二枚目はカイト君だよね」
「……俺ですね。一枚目の島へ行ったあと、すぐその場でジンさんに会えるわけじゃなくて、まだいくつもの記録を照らし合わせて探し続ける、ということでしょうか」
「そう読めるね。あ、でも見て。机に並べてる紙が何枚もある。昨日話してたみたいに、いろんな記録を合わせてるところなのかな」
どこの国の、いつの場面なのかは分からない。けれど、一枚目の島だけで探索が終わるのではない、と読むことはできそうだ。旧庫で見た連作の二枚目にも、長い石段を進む人がいた。そこから実際に何が起きたかの裏付けは、今回も絵の外で探さなければならない。
そして二人は、一番右の三枚目へと顔を向けた。
三枚目に描かれていたのは、風が吹き抜ける開けた大地か、あるいはどこかの高台のような場所だった。
画面の手前には、トレードマークのキャスケット帽を片手に持って立ち止まる長髪の青年――カイトがいる。そしてその数歩先、画面の奥に、一人の男が向かい合うようにして立っていた。
男の顔立ちは逆光のような陰影に紛れてはっきりとは描かれていない。周囲の景色も、どこの国のどの街と特定できるような建物はなかった。
けれど、頭に布を無造作に巻き、旅装のマントを羽織ったその男が、少し片足を引いてポケットのあたりへ手をやりながら立つ独特の重心の置き方に、らでんは思わず「あっ」と声を上げた。
「カイト君、この奥に立ってる人……!」
「……ええ。顔は見えませんが、この頭の布の巻き方と、少し肩を落として立つ癖は……間違いなく、ジンさんです」
カイトの声が、わずかに震えた。
いつ、どこで、どんな手順を踏めばこの場所に辿り着けるのかまでは、絵は何も語っていない。この絵が出たからといって、何もしなくても必ず会えると保証された予言書ではないことも分かっている。
それでも、これまで何ヶ月も空振りを続け、自分の追い方が全部間違っているのではないかと唇を噛んでいたカイトにとって、その探索の先に「ジンと向かい合う場面」が描かれたことの意味は計り知れなかった。
「……会えるかもしれないんですね、このまま追っていけば」
「少なくとも、三枚目はそう見える。前の連作も、出発、途中、再会、って読める並びだったし。……まず一枚目、もう一回見よう。あの島、どこか分かるかな」
二人はもう一度、左端の一枚目の絵の前へと戻った。
ここからは、絵をただ眺めるのではなく、現実の地図と照らし合わせて「どこへ行くか」を読み解く番だ。
らでんは一枚目へ近づき、入り江のあたりをじっと見た。島の形だけではなく、港や建物にも何か手掛かりがないだろうか。
「この鯨みたいな形、覚えやすいけど、似た岩のある島が他にもあったら困るなあ。カイト君、港の形も合わせて見られる?」
「はい。ただ『鯨に似た岩がある島』というだけでは、航路が絞れません。もっと具体的な条件が要ります」
「じゃあ、ここ。桟橋の後ろに白い風車が一基。それと、この桟橋、結構低くない? 小さい船が着くところに見える。防波堤はこっち側だけ厚いね。絵だから、方角までは決められないけど」
らでんが建物の造りや道具の配置を指し示すと、カイトは肩掛け鞄から自分の分厚い革手帳と、折りたたまれた広域の海図を取り出して机の空きスペースへ広げた。
「少し待ってください。この海岸の植生と、入り江の上の海鳥……俺が調べた南の海域に近そうです。前に写した島の略図があったはずなので、輪郭を比べさせてください」
カイトの指先が海図の上を素早く滑り、同時に革手帳のかなり前の頁――まだ調査を始めたばかりの頃に書き留め、のちに「無関係」として斜線を引いていた古いリストの頁を開いた。
「らでんさん、昨日『外れだと思った記録も捨てずに並べてみる』と言っていましたよね」
「うん。……その手帳に、何か残ってる?」
「俺が最初にジンさんの過去の足取りを洗ったとき、十年以上前の古い船便の記録に一つだけ、小さな離島への立ち寄り記録があったんです。ただ、そこには遺跡もなければハンター協会の支部もなく、ジンさんが仕事で関わるような施設が何一つなかったので、『ただの給水か嵐避けの寄港地で、今はもう関係ない外れだ』と判断してリストから消していました」
カイトは斜線が引かれた一行の下に、小さく書き添えてあった島の略図と、海流のメモを指差した。
らでんも横からその手帳を覗き込む。
カイトがかつて古い船便の記録から写し取っていた小さな島の略図――南側に開いた馬蹄形の入り江と、北西から南東へ盛り上がる独特の山の稜線。それが、今目の前の額縁に描かれている一枚目の島の構図と、驚くほどぴたりと重なった。
「あ、ここ。入り江の曲がり方、一緒じゃない? 防波堤もほら、この位置。鯨の形だけじゃなくて、港の方も合ってる」
「ええ。海域も、調べた鳥の分布と矛盾しません。大きな航路から外れた小島で、定期船が週に数便だけ通う場所……この略図の島です」
カイトは手帳から顔を上げ、一枚目の絵に描かれた鯨の背のような島をまっすぐに見つめて、はっきりとその名を口にした。
「――くじら島だ。ジンさんが昔立ち寄った記録にあった、くじら島です」
その名前が部屋に響いた瞬間、らでんは思わず両手をぱちんと合わせた。
「くじら島。……名前、そのままなんだ。いや、でも、分かった! 行けるところが見つかったよ、カイト君」
絵の中に文字で名前が書いてあったわけではない。らでんが絵の構図や桟橋・風車の形を読み取り、カイトがこれまで自分の足で集めていた海図や鳥の知識、そして一度は外れとして斜線を引いた古い記録を引っ張り出して繋げたからこそ、この一つの島へと辿り着いたのだ。
「その斜線、消さなくてよかったね。今の、らでん一人だったらずっと『鯨みたいな島』で止まってたよ」
「……らでんさんのおかげです。昨日、外れた記録も残して見直せと言ってくれなかったら、そしてこの絵を見せてくれなかったら、俺はあの斜線を引いた頁を二度と開かなかったと思います」
カイトは深く息を吐き、まるで宝物でも見るような目で一枚目の絵を見つめた。
もちろん、今この瞬間にジンがくじら島にいると決まったわけではない。二枚目の絵が示していたとおり、そこへ行ってからもまた新しい手掛かりを並べて考え続けることになるのだろう。それに、一枚目の絵の道端に描かれたあの緑の服の幼い少年が、なぜそこに描かれているのかも今はまだ分からない。
それでも、昨日まで「次に行く場所がどこにもない」と行き詰まっていた旅に、今、自分の足で向かえる確かな目的地ができたのだ。
「これ、忘れないうちに写しておかない? 絵はここに置いていくから、持って歩ける控えが欲しいよね」
「はい!」
二人は机に並んで座り、壁の絵と手元を見比べながら、らでんは自分の記録ノートに、カイトは革手帳の新しい頁に、一枚目の島の入り江と少年の位置、二枚目の机の構図、三枚目のジンらしい旅装の男の立ち姿を丁寧にスケッチして書き留めた。
らでんが桟橋の石積みの角度や風車の形、それに道端に立つ緑の服の少年の輪郭を細かく描き込む横で、カイトは山の稜線と海岸線の植生、さらには三枚目の背景に見える岩肌の層の特徴までを正確な線で写し取っていく。
「カイト君さ、その海岸線、あとでちょっと見せてもらえない? 私が描くと、なんか丸くなるんだよね。地図を見てるとき、どこを先に拾ってるの?」
「まず特徴のある岬と入り江の位置を取ります。細かいところはそのあとで。……らでんさんの建物の描き方も、見せてもらっていいですか。箱や窓の位置が分かりやすいので」
「あ、それはこの前、そぴあの図を横で見て覚えたやり方。先にここの幅を取るんだって。……教わったばっかりなのに、もう人に説明してるな、らでん」
描いた頁を見せ合い、抜けたところをそれぞれ補った。らでんは試用の経過と、三枚の内容を《遺念収蔵録》へ記録する。原本にも異常がないことを確かめ、記念館へ報告する項目を揃えた。絵は館に残すけれど、カイトの手帳には島の輪郭が写っている。見つけに行くための荷物が、一つ増えた。
本を閉じて顔を上げると、カイトはすでに自分の革手帳の後ろにある時刻表の控えをめくり始めていた。
◇ ◇ ◇
宿の部屋へ戻ってからわずか二時間後には、カイトの出発の支度はすべて整っていた。
この乗換駅から南の港町へ出る急行列車に乗り、そこから明日の朝に出る連絡船を乗り継げば、数日のうちにくじら島へ渡ることができるという。宿の一階にある公衆電話で港の船会社へ直接問い合わせて空席を押さえ、時刻表と照らし合わせて乗り継ぎの切符を手配したカイトの行動の早さは、さすがハンター試験を突破した駆け出しだと舌を巻くほどだった。
昼前の日差しが照らす駅の改札口まで、らでんは見送りに一緒についていった。
本当を言えば、あの絵に描かれていた鯨みたいな形の島がどんな場所なのか、らでんも自分の目でちょっと見てみたい気持ちはある。けれど、預かり品の調査も、ミオへ送る資料の整理も、まだ残っている。自分の館だって、整えていきたい。それに、あの三枚目でジンと向かい合っていたのはカイト自身だ。ここで自分の仕事を進めながら、その旅の続きを聞けるのも、きっと楽しい。
「らでんさん、何から何まで本当にありがとうございました。急な連絡で押しかけたのに、相談に乗っていただいただけでなく、あんな貴重な品まで使わせていただいて」
発車案内板の下で、カイトが帽子に手を添えて深く頭を下げた。
「いや、こっちも手伝ってもらったから。鳥の話も面白かったし、この絵をどう読むかも一人じゃ分からなかったし。らでんとしては、また一緒に調べたいことが増えてしまったんだけど」
らでんは笑って、カイトの肩掛け鞄を指差した。
「次にあの人を見つけたら、逃げるとき鼻歌はどうかと思う、って言っといて。……で、また詰まったら連絡してよ。私も、この箱のこと調べておくから」
「はい。ここからは、俺自身の課題です。くじら島でどんな手掛かりが見つかるか分かりませんが、必ず自分の足で確かめてきます」
構内放送が流れ、南へ向かう急行列車の入線を告げた。
「あ、来たね。じゃあ、気をつけて。島のこと分かったら、私にも教えてよ。あの男の子のこともちょっと気になるし」
「はい、必ず連絡します。らでんさんも、お体に気をつけて」
カイトはもう一度だけ力強く頷き、軽く手を挙げて改札の向こうへと歩いていった。
長い背筋を伸ばし、迷いのない足取りでホームの階段を上っていくその背中は、昨日喫茶店で初めて会ったときよりもずっと頼もしく見えた。
◇ ◇ ◇
カイトを見送ってから、数日後の午後。
らでんは宿の自室の扉から《遺念収蔵館》へ入り、休憩区画の四角い木机の上で、記念館へ送る点検記録の清書を進めていた。
右手首のガーゼは昨日の朝にすっかり外れ、今はもう傷跡がうっすらと残るだけで、ペンを握っても少しも痛まない。机の上には、先日そぴあから郵便で届いたばかりの旧庫の清書図面と、記念館の責任者へ宛てた『〇〇一』の試験動作確認の完了報告書が綺麗に並んでいる。そしてそのすぐ脇には、あの朝カイトと一緒にスケッチした三枚の絵の控えも置いてあった。
「……今頃、カイト君、あの島に着いたかなあ」
一枚目の絵のスケッチ――鯨の背中のような山と、入り江の道端に立つ緑の服の少年の絵を眺めながら、らでんは小さく伸びをした。あの少年は、島の案内人か、それとも昔のジンを見かけたことがある島の子どもなのだろうか。それとも、あの島にある何か特別な場所を知っている子なのかもしれない。
一区切りついた書類を封筒へ揃えて鞄へ収め、郵便局へ出しがてら外の空気を吸おうと、雪玉の鍵で宿の自室へと戻った、ちょうどそのときだった。
部屋の机の上に置いてあった通信端末が、ピピッ、と軽快な着信音を鳴らした。
画面を覗き込むと、差出人の欄に『カイト』の名前が表示されている。
「お、カイト君。……着いたかな」
らでんは嬉しくなって端末を手に取り、届いたばかりのメールを開いた。
『らでんさん、カイトです。
おかげさまで無事に船を乗り継ぎ、くじら島へ到着しました。先日は本当にありがとうございました。
まだジンさんご本人の現在の居場所までは掴めていませんが、あの絵のとおり、この島に来て正解でした。森で少し危ないところだった子どもを助けたのですが、驚くことがありました。
くじら島で、ゴンという子に会いました。ジンさんの息子です。』
らでんは端末を持ったまま、部屋の真ん中でぴたりと固まった。
最初のお礼の行は、うんうんと頷きながら読んだ。無事に着いていた。絵の手掛かりも空振りではなかったらしい。森で子どもを助けた、というくだりに一度目が止まり、怪我はなかったのだろうかと思いながら先へ進む。
そして、最後の一文。
もう一度、目をこすって画面の文字を読み返す。
『くじら島で、ゴンという子に会いました。ジンさんの息子です。』
頭の中で、あの朝見た一枚目の絵がぱっと浮かんだ。美しい入り江と鯨の形をした山。その道端にちょこんと立っていた、緑の服の黒髪の男の子。あの絵がどうして島と一緒にその男の子を描いていたのか、その意味が今、これ以上ないほど鮮やかに繋がった。
繋がったのだが――それよりも何よりも、もっと途方もない事実が、らでんの頭をガツンと直撃していた。
自分の左手首に巻かれたミサンガと、端末の画面に表示された『ジンさんの息子です』という文字列を、三回ほど交互に見比べる。
一拍遅れて、宿の静かな部屋に、らでんの全力のツッコミが響き渡った。
「……あの人、子供いたんかい!」
【念能力解説】
**《
過去の蒐集家が遺した作品と、そこに残る念を受け入れるために、らでんが作り上げた念空間の美術館。収蔵庫・展示室・休憩区画を備え、預かった品を保管し、調べ、誰かに見てもらう場所でもある。
鋼の雪玉の鍵で現実の扉を開くと、館へ通じる。客はらでんと一緒に入り、通常は同じ入口から外へ戻る。
**《
収蔵した品の形・来歴・使い方を記録し、調べて利用登録を済ませた品を復元して使うための本。原本は館に保管したまま、復元した媒体を通じて、そこに宿る念を使える。
三枚の額は、あらかじめ復元して館内に展示してある。使う際には、それと一組になる投函箱を復元する。古い原画や手紙を上書きすることはなく、館内での使用なので貸出票も不要。
**《
もとは、画家が自分の求める人物を追い求め、描くことから生まれた探索の作品。誰かに会いたいという思いが、これから辿る情景を絵にする念として残っている。
探したい相手を記した手紙を箱へ投函すると、翌日に「探し始め」「探し途中」「出会う際」を描いた三枚の連作が現れる。絵の人物や背景、構図から手掛かりを読み解くもので、相手の現在地や最短の道を教える案内図ではない。描かれた出会いも、無条件に保証されるわけではない。
残された資料には、生き別れた姉を探す手紙と、それに対応する三枚の絵がある。手紙の主が実際に再会できたかは、まだ分かっていない。かつて誰かの願いを受け取ったこの作品が、今回はカイトの旅の手掛かりを描いた。
ゴシカ・シティ編、最後までお付き合いいただきありがとうございました! さて、十老頭入りを果たした桐生組。となれば、気になるのは、その武力を担う念能力者集団――《陰獣》です。 皆さんは、誰に陰獣の一員として登場・活躍してほしいですか? 今後の構想の参考にさせていただきます!
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桐生組直参 天音かなた
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桐生組直参 角巻わため
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金虎堂頭領 虎金妃笑虎
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ベルベット商会 フィクサー 一条莉々華
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ゴシカでは掃除屋が陰獣を兼ねるしきたり
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その他新規で別のホロメン