第三十八話 伝えたいことが多すぎる
I-Tube――インターネット上で、動画を投稿・共有できるサービス。
歌、料理、ゲーム、旅先の記録。個人も企業も、それぞれの「チャンネル」から映像を公開し、見る側は検索やおすすめを頼りに、気になる一本を選ぶ。気に入った動画には感想を残し、チャンネルを登録して次の更新を待つこともできる。
録画した動画のほかに、生配信もある。カメラの向こうで今起きていることを見ながら、チャットで言葉を送り、配信者とその場でやり取りする。
自分の好きなものを、まだ会ったことのない誰かへ届けられる場所だ。
四分十八秒。
机の上のノート端末の画面隅で、再生時間の数字がそこまで進んでようやく、映像の中の自分が手元の木の小盆をくるりと裏返した。
「――でね、表じゃなくて、この裏側を見てほしいんですよ。ほら、ここ!」
小型スピーカーから流れてきた自分の声は、そこだけ急に一オクターブ近く弾んでいた。画面の中の十八歳の自分――儒烏風亭らでんが、両手で持った黒い隅切りの小盆をカメラのレンズへぐっと突き出し、嬉しそうに目を細めている。
けれど、そこまで辿り着くまでの四分ちょっとのあいだ、画面の中では何が起きていたかというと。
背筋を妙にしゃんと伸ばしたらでんが、机の真ん中に、表を上にした小盆を置いたまま、冬の乾燥で古い木地がどう縮むかとか、川沿いの木工所がどうやって塗りの前の板材を寝かせていたかとか、さらには先週末の古道具市へ行く途中に踏んだ霜柱がどれくらい立派だったかまで、実に真面目な顔で喋り続けていたのだ。途中、二分三十秒あたりでは、わざわざチラシの裏にマジックで描いた『木表と木裏の反り方の図』まで掲げて、ペンの尻でトントンと紙を指しながら熱弁を振るっている。肝心の小盆は、画面の一番下でただの黒い板切れみたいに眠ったままである。
「……おっそい! 裏返すまでが遠すぎる!」
らでんは再生を一時停止し、机の上に突っ伏して両手で頭を抱えた。
窓の外には、一九九七年一月の澄み切った午後の日差しが差している。カイトを乗換駅の改札で見送り、その数日後に届いた『ジンさんの息子です』という衝撃のメールに宿の真ん中でひっくり返りそうになったあの秋から、気づけばもう三ヶ月近くが過ぎていた。右手首に残っていた旧庫での浅い傷跡はとうに消え、今はもう冬の冷たい空気の中でも指先ひとつ痛まない。
あれからも文化財の調査や整理の仕事を続けながらいくつか街を巡り、年が明けてからは、古い漆器や木工職人の工房跡が集まるこの運河沿いの街の宿に、短期滞在用の部屋を借りている。窓際の広い作業机の左端には、『一九九七年一月十四日・発送控』と日付を記したミオ宛ての調査書類の封筒が、明日の朝一番に出せるよう綺麗に揃えて置かれていた。その横の記録バインダーには、そぴあから届いた旧庫の清書図面の控えと一緒に、秋にカイトと並んで描き写したあの三枚の絵のスケッチも大切に挟んである。
もちろん、自分の能力である《
今日も午前中は宿の自室の扉に鋼の雪玉の鍵を当てて館へ入り、記念館から追加で引き受けた未整理の収蔵品の状態を一つずつ見回ってきたところだ。いつかそぴあと丸いテーブルを選びに行く約束をしている休憩区画の木机で、新しく確認した品の寸法や来歴の裏付けを《
ただ、その本業の書類束と並べて、この一週間ほど宿の作業机の右側には、今までになかった新しい道具が陣取っていた。
小型のビデオカメラに、三脚代わりの低い卓上スタンド、手元を照らす角度調整つきのライト、それから昨日駅前の電器店で買ってきたばかりの銀色のスタンドマイクだ。電器店の棚の前で三十分も唸り、「人の話し声だけじゃなくて、木の器をコツンと叩いた音も綺麗に拾えるやつがいいんですけど」と店員さんに相談して選んでもらった、ちょっと自慢の新入りである。
らでんは机に突っ伏したまま片目を開け、白い布の上に置かれた実物の小盆へ視線を向けた。
先週の日曜日、宿の近くの古い神社で開かれていた青空古道具市を覗いたとき、店先のプラスチックのみかん箱の中から見つけ出した品だ。同じ箱の中には、角に真鍮の金具を当てて直した古い一合枡と、柄のひびを細い竹のピンで留めた栗の木匙も入っていて、店主のおじいさんが「冬の市で寒いから、三つまとめてでいいよ」と負けてくれたので、自分の小遣いでそっくり連れて帰ってきた。
どれも念が宿っているわけでもなければ、博物館のガラスケースに麗々しく飾られるような名品でもない。どこかの家の台所で、何十年もお茶やお菓子や汁物を運んできただけの、ごく普通の生活道具だ。だからこそ、守秘義務や危険を心配することなくカメラの前へ出して、その面白さを好きなだけお喋りできる。
中でもらでんが最初に手を伸ばし、「うわ、これ誰かに見せたい!」と胸が跳ねたのが、この黒い隅切りの小盆だった。古道具市の店主のおじいさんによれば、運河沿いの古い商家が台所を改装したときに出てきたものらしい。
小盆の表側は、長い年月のうちに黒漆がうっすらと擦れて、四隅の角から下塗りの朱色が少しだけ覗いている、落ち着いた素朴な顔つきをしている。これだけなら、ただの使い込まれた古いお盆だ。
ところが、ひっくり返して裏底を見ると、景色ががらりと変わる。
底板の真ん中に入った一本の乾き割れがこれ以上広がらないように、黄色みがかった柘植の木を削って作った『蝶々の形をした小さな埋め木』が二つ、割れ目を跨ぐようにしてぴたりと嵌め込まれているのだ。
しかも、ただ四角い木片で傷を塞いだのではない。左側の蝶々は羽を少し大きく広げた形、右側の蝶々はそれより一回り小ぶりな形で、黒い漆の裏底を二匹で仲良く斜めに飛んでいるように見える。さらに縁を指の腹でぐるりとなぞっていくと、表側の一箇所だけ親指の形に浅く窪んで漆が薄くなっている場所があり、そのすぐ裏に、小刀の切っ先でカリカリッと刻んだような爪先ほどの小さな刻み目が三つ並んでいた。まだ電灯が暗かった頃の台所で、湯気の立つ急須や湯呑みを乗せるとき、目を落とさずに手探りしただけでも「こっちが正面だ」とすぐ分かるように、使っていた人があとから付けた目印だったのだろうか。
割れたからといって薪にしてしまうのでもなく、上から黒い漆を塗り重ねて傷跡をなかったことにするのでもなく、普段は誰の目にも触れない裏底にわざわざ可愛い蝶々を二匹飛ばせて、それからまた何年も、毎日同じ場所を親指で支えながら使い続けた誰かがいた。
その手触りがたまらなく愛おしくて、I-Tubeに自分の動画を出してみようと思い立ったのだ。
十七歳の頃、寄席で観た落語にすっかり惚れ込んで、「自分もあんなふうに面白いものを言葉で手渡してみたい」とカメラを触り始めたときから、機材を繋いだり、旅先で見かけた一般公開の古い石橋や木彫りの看板を短い映像に撮って編集ソフトで切り貼りしたりする練習自体はちょくちょく続けていた。漆の艶がライトで白く飛びすぎないように、卓上ライトの傘に薄いトレーシングペーパーをテープで貼って光を柔らかくする工夫だって、自分なりに考えて仕込んである。
なのに、いざ「よし、I-Tubeへ公開するために、最初から最後まで自分の顔と声で一本ちゃんと話そう」とカメラの前に座った途端、なぜかこの有様なのである。
「いや、待って。頭の中ではさ、サッと裏返して『見てください、この蝶々!』だったんだけど。どこ行った、その軽やかならでんは……」
らでんは体を起こし、頬杖をついて一時停止中の自分の顔を眺めた。
画面の中の自分は、緊張のあまり瞬きの回数まで減っていて、まるで文化財保護委員会の年次報告会にでも出たみたいな固い顔をしている。しかも、低い卓上スタンドにカメラをそのまま乗せたせいで、レンズがだいぶ下から自分の顔を見上げる角度になってしまい、なんだか奉行所のお白洲で書類を読み上げている人みたいな威圧感まで出てしまっていた。
小盆の蝶々を見せたいあまり、「そもそもなぜ古い木盆の底が割れるのかと言いますと、冬場の乾燥した空気と、木目の向きによる縮み方の違いがですね」と一番最初の根っこから話し始めてしまい、気がつけば六分十二秒の動画のうち、四分十八秒まで小盆がただの黒い板として、表を上にしたまま置かれているのだ。
自分の中では、霜柱が立つような冬の冷え込みも、木材の乾燥も、職人の埋め木の工夫も、全部が「だからこの蝶々が素敵なんですよ」という結論へ繋がる大事な一本道になっている。だから親切のつもりで端から順番に並べたのだが、画面を見ている人からすれば、四分以上もただの黒い板とチラシの裏の図を見せられながら木材の講義を聞かされることになる。四分十八秒でようやく小盆を裏返した瞬間の、あの「ほら見て!」と言わんばかりの自分の笑顔との落差がすごすぎて、見返しているこっちの耳まで赤くなってきた。
「これ、最後まで見てくれる人、相当辛抱強い人だけだよねえ……」
らでんが苦笑しながらマウスを動かし、もう一度再生バーを先頭へ戻そうとした、そのときだった。
机の端に置いていた携帯端末が、ぶるっと短く震えた。
画面を覗き込むと、親友の轟はじめからメッセージが届いている。この街の駅前にある貸しスタジオの床が踊りやすいとかで、今週はすぐ近くのビジネスホテルに泊まり込んで、毎日のように新しいダンス動画を撮っているのだ。
『いま駅前の練習スタジオ出た。運河通りの角で叉焼まん四個買ったけど、らでんまだ宿にいる?』
そしてその一行の下に、短尺動画サービス『チックタック(TickTack)』の新しい投稿リンクが添えられていた。
◇ ◇ ◇
「お、新作上げてる!」
らでんは『いるよ! お湯沸かして待ってる!』と返信を打ち返してから、すぐにチックタックのリンクをタップした。
縦長の画面が切り替わった瞬間、前置きも挨拶も咳払いも一切なく、軽快なドラムのビートと一緒に映像の中のはじめが動き出した。
場所は、さっきまで借りていたらしい鏡張りのスタジオの隅だ。ゆったりした白いパーカーに濃い色のカーゴパンツという動きやすい格好で、最初の二拍でスニーカーの靴底が床を軽く蹴り、次の瞬間には肩と手首が小気味よい角度でピタッと止まる。
決して、ハンターとしての超人的な跳躍や、人間離れした速さを見せびらかしているわけではない。むしろ逆だ。一歩ごとの重心の移動が驚くほど滑らかで、音が跳ねる瞬間にだけ指先や顎のラインが鮮やかな輪郭を作るから、見ているこちらの目が自然とそこへ吸い寄せられてしまう。
特に八秒目あたり、くるりと半回転して一度カメラから視線を外し、曲のアクセントに合わせて正面へぱっと目を戻して、口元だけで楽しそうに笑う一瞬。
たった十五秒の映像なのに、終わったと思ったときにはもう自動で二周目の再生が始まっていて、らでんは止めるのも忘れてそのまま三周目まで見入ってしまった。
画面の右端に表示されているハートの数とコメントの数字は、らでんが見ている十数秒のあいだにも、くるくると桁が回るような勢いで増え続けている。『最初の止まるところ何回見ても気持ちいい!』『八秒目の目線で撃ち抜かれた』『次の休み、友達とこれ踊ってみます!』といった短い感想が、次から次へと滝のように流れていく。
そういえば今朝、宿の近くの商店街へ牛乳を買いに出たときも、パン屋の大きなガラス窓の前で地元の高校生らしい女の子が二人、端末をベンチに置いて「ここの手首を返すところ、もう一回!」「せーの、トン、パッ!」と楽しそうに同じ振りを練習していた。あの動き、間違いなくはじめが先週上げていた動画の振り付けだ。危うく牛乳パックを抱えたまま「その本物、いま駅前のスタジオにいますよ」と声をかけそうになって、慌てて口をつぐんだのだった。
それから十分もしないうちに、二階の廊下から聞き慣れた軽快な足音が近づいてきて、部屋の扉がコンコンと二回叩かれた。
「はーい、どうぞー!」
「お邪魔しまーす。……うわ、外さっむ。らでん、はいこれ、湯気出てるうちに食べて」
扉を開けて入ってきたはじめは、首元のマフラーを緩めながら白い紙袋を机の端へ置いた。冷たい外気をまとって笑う同い年の親友の顔は、さっき画面の中で何千もの反応を集めていた人気ダンサーと少しも変わらない。
「ありがとう、お茶いま淹れた! ねえ、チックタック見たよ。八秒目! あの、よそ見してから戻ってくるとこ、ずるいわ。三回見ちゃったじゃん」
「あ、そこ気づいた? 最初はずっとカメラ見てたんだけどさ。一回外した方が、戻ったとき目が合うでしょ。あっ、て」
はじめは上着をハンガーに掛けながら、ごく当たり前のことのように言った。ポケットの中の端末が続けざまに通知音を鳴らしているが、本人はチラッと画面を見て「お、夕方の人たちが見始めたな」と呟いただけで、すっかり慣れた手つきで通知を伏せて椅子を引き寄せる。
「でもこれ、前のやつ失敗してんの。見て」
「え、失敗したの?」
「するよ! カッコつけて回ったら、紐が顎にペシッて。自分の紐にやられてんの」
はじめが笑いながら見せてくれたボツ映像では、本当に八秒目のターンのところで白い紐が跳ねて口元に引っかかり、はじめが「ぶっ」と吹き出しながらカメラを止めに行く姿が映っていた。
「あはは! いいなあ、さっきのやつのあとにこれ見るの。急に親近感わくわ」
「でしょ。だから紐しまった。こういうの一個あるだけで、そこしか見なくなるからさ」
「あ、あと最初の二歩目なんだけど。右足出したとき、手首まで一回ピタッて止まるじゃん? あそこも音に合わせてるの?」
「うん。でもあれ、止まるとはじめに目が追いつくんだよ」
「目が追いつく?」
「ずっとシャカシャカしてたら、どこ見ていいか分かんないじゃん。……ほら、そのまま回るのと、ここでトンって止まるの。こっちの方が見やすくない?」
はじめは叉焼まんの袋を開ける前に、机の横のわずかなスペースで、肩と手首をトン、と止めてみせた。音楽も鳴っていないのに、その一瞬の静止と指先の角度だけで、らでんの視線がぴたりとはじめの手元へ縫い止められる。
「ほんとだ。止まったところを勝手に追いかけちゃう」
「最初の二秒で引っ掛かってくれないと、シュッて次行かれちゃうからね。……てか、らでんも撮ってたの? そのカメラと、銀色のやつ」
はじめの視線が、机の上のビデオカメラと、白い布の上の黒い小盆、そして一時停止されたままのノート端末の画面へと移った。
「……うん。I-Tubeに出したくてさ。一本、試しに撮ってみたんだけど」
らでんは少し照れくさくなって、自分の頬をポリポリと掻いた。
「五分くらいで、この小盆の面白いところを紹介するつもりだったんだけど……。自分で見てみたら、なんか思ってたんと違う気がして。はじめさぁ、ちょっと見てくれない?」
「いーよ。食べながらでいい?」
「もちろん。あ、でもちゃんと見てね」
はじめは熱々の叉焼まんを半分に割りながら、画面の方へ椅子を寄せた。らでんも自分用の叉焼まんを受け取り、覚悟を決めて再生ボタンをクリックする。
画面の中のらでんが、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げ、話し始めた。
十秒、三十秒、一分。冬の空気の乾燥について語り、二分目で木材の切り出し方と乾燥期間の話を始め、二分半でチラシの裏に描いた年輪の図を取り出し、三分目で漆の下地塗りの工程へ差し掛かる。その間、主役であるはずの黒い小盆は、画面の下の方で、表を上にしたまま動かない。
隣で叉焼まんを食べているはじめの顔を、らでんは横目でちらちらと窺った。うん、と頷いている。いま頷いたのは説明にだろうか。それとも叉焼まんの味にだろうか。
四分十八秒でようやく蝶々が出ると、はじめが「あ、蝶々だ」と言った。それきり、またお茶を飲む。
六分十二秒。再生が終わった。
「……どう?」
「まあ、いいんじゃない?」
「ちょっと、ちゃんと言ってよ〜! こっちはけっこう真剣なんですけど!」
「言ってるって。……いやあ、正直I-Tubeもお盆の話も分かんないし!」
「お盆の話までまとめて捨てないで!」
「捨ててないよ! でも途中から知らない言葉いっぱいだったから。はじめみたいによく知らない人には、ちょっと難しいかも、とは思った。こういうの好きな人が見るんだったら、それでいいんだろうけど」
そう言って、はじめは残りの叉焼まんを口に放り込んだ。
難しいかも。そうか、そこだったのか。らでんは一時停止した画面へ目を戻した。自分では簡単なところから順に説明したつもりでも、その順番にちゃんとついてきてもらえるとは限らない。
「うーん。詳しい人だけに見てほしい、ってわけでもないんだよねえ。『なんか可愛いな』くらいで、見てもらえたら嬉しいんだけど」
「じゃ、蝶々は可愛かったよ。それに、らでんがこれ見せたくてしょうがないのは分かった。あそこ、急にめっちゃ嬉しそうなんだもん」
「……そこは、伝わってた?」
「うん。だから、まあいいんじゃない? って」
「それを先に言ってよ、もう」
ちゃんと見てくれていたんじゃん。そう思ったら、さっきまで不安だったのに、今度はちょっと照れくさくなった。
「あれ、こっちのお盆?」
「うん、それそれ」
はじめは白い布の上から実物の小盆を手に取り、裏返した。
「あ、ほんとに嵌まってる。これ、誰がやったの?」
「分かんない。分かんないんだけど、そこがまたよくてさあ。割れたところに、わざわざこんな形で――」
「待って、いま二本目始まった?」
「違う、これははじめに話してるの!」
笑いながら差し出された小盆を受け取って、らでんもつられて笑った。もう一個、と紙袋へ伸びるはじめの手が、なんだかやけに気楽に見える。こちらはカメラの前で一言喋るだけで、あんなに肩が凝るのに。
「てか、前らでんが言ってた、歌で活動してる子いたじゃん。その子、I-Tubeやってるんでしょ?」
「奏ちゃん? うん、カラオケ配信とか、歌ってみたも上げてるよ」
「その子に聞いてみたらいいんじゃね? はじめに聞くより分かると思うけど」
「人に振るの早いなあ」
「だって、踊るとこなら言えるけど、お盆の話をどうするかって言われてもさあ」
「それはそうなんだけど! ……そっか、奏ちゃんか。夜、聞いてみよ」
奏ちゃんは、いつもあんなに楽しそうに歌って話している。どうやっているのか聞いてみたら、きっと喜んで話してくれるだろう。ついでに新しい歌も聴かされそうだけれど、それはこちらも望むところだ。
そう思ったら、少し気が楽になった。まだ完成していない一本を、ここでどうにか仕上げなくてもいいのだ。
ただ、それはそれとして。
「ねえ、帰る前にもう一回だけ付き合ってよ。最初に蝶々出してみるから。見やすくなったか、それだけ教えて?」
「あ、まだやるの? いーよ。このお茶飲むまでね」
「一瞬で終わりますから!」
らでんは意気込んでカメラの前に座り直し、録画ボタンを押した。
今度こそ、あの長い前置きはなしだ。五秒以内。とにかく最初に蝶々を見せる。
そう頭の中で唱えながら、らでんは「こんにちは!」と言うより早く、両手で掴んだ小盆をカメラのレンズの真ん前――距離にしてわずか五センチのところへ、ガッと突き出した。
「ほら、蝶々です! この裏側の二つの蝶々、見てください!」
そのまま十秒ほど小盆をレンズに押し付け、ハッと我に返って録画を止める。
すぐさま二人で再生してみると、画面に映っていたのは、開始一秒で自分の顔を黒い小盆で完全に隠し、画面いっぱいに真っ黒な底板を押し付けたまま、裏からくぐもった大声で『ほら、蝶々です!』と叫んでいる謎の人物だった。しかも新しく繋いだスタンドマイクに口が近すぎたせいで、『ボフッ、ボフッ!』と強い風みたいな息の音が入り、そのあと何を言えばいいか分からなくなって五秒間無言で小盆を揺らしている。
再生が終わった瞬間、部屋の中に一拍の沈黙が落ち、それから二人同時に机を叩いて笑い転げた。
「あははは! ちょっと待ってらでん、顔! 顔が全部お盆になってる!」
「待って、お腹痛い……! 怪しいわ、これ。お盆買わされるやつじゃん!」
「『蝶々です!』で黙るの何? そこから何かないの?」
「見せたら次がなくなっちゃった! 乾燥の話、どこに入れるの、これ!」
涙が出るほど笑ったあと、はじめは目尻を指で拭いながら、もう一度再生ボタンへ手を伸ばした。
「これ、もう一回見ていい?」
「もういいって! らでん、蝶々の可愛さで勝負したかったんだけど!」
どうやら、これはこれで面白いらしい。はじめの笑いが収まるまで待っているうちに、らでんまでまた可笑しくなってきた。あんなに難しい顔で悩んでいたのに、お盆で顔を隠した自分を二人で眺めていると、次はもう少しましになる気がしてくるから不思議である。
はじめは残りのお茶を飲み干すと、時計を見て「あ、そろそろホテル戻ってシャワー浴びてくるわ」と立ち上がった。
「完成したら送って。お盆じゃなくて、らでんがいるやつね」
「はいはい! 付き合ってくれてありがとね。叉焼まんも!」
◇ ◇ ◇
その日の夜。
夕方まではじめと笑っていた部屋が静かになり、簡単な夕食とお皿洗いを済ませたらでんは、再び宿の作業机の前でノート端末を開いていた。
はじめが帰ったあと、低すぎるカメラの下に工芸図録を二冊重ね、小盆を胸の前で返せば顔も一緒に入ることまでは、自分で何とか確かめた。けれど、いざ一人で銀色のマイクに向かって喋り出すと、今度は「ボフッ」と息が入るのを恐れて声が妙に遠くなったり、説明を削りすぎて三十秒で話が終わってしまったりする。チラシの裏の年輪図はゴミ箱へ片づけたけれど、代わりに何をどの順番で話せば「いつもの自分」になるのかが、まだ手の中でうまく掴めない。
画面の向こうにいる人に、まるで目の前で話すみたいに声を届けるのって、一体どうやっているんだろう。
そう思いながらI-Tubeのトップページを開いたとき、画面の右上にぽんと小さな通知が浮かび上がった。
『音乃瀬奏 がライブ配信中です:【歌枠】夜のおしゃべり&カラオケ配信♪』
「あ、奏ちゃんだ。ちょうど歌枠やってる」
らでんは嬉しくなって、すぐにその通知をクリックした。
何年か前、ソエル国立博物館のロビーで出会ってからというもの、奏とはずっと連絡を取り合う仲が続いている。年下なのに最初からちっとも物怖じせず、人懐っこく懐いてきてくれて、今では奏が新しい歌を録ったときや、らでんが旅先で面白い工芸品を見つけたときに、ちょくちょくメッセージや通話を交わす大切な友人だ。
ヘッドホンを耳に当てると、ちょうど三曲目のイントロが流れ始めたところだった。
画面には、可愛らしく飾られた配信用の背景と曲名の表示、そして右端にリアルタイムで流れていく視聴者のコメント欄が映っている。らでんも「こんばんは!」と挨拶を打とうとしてキーボードに指を乗せたが、奏が最初のフレーズを歌い出した瞬間、その指がぴたりと止まった。
明るくて伸びやかな歌声が、すっと耳の奥へ入ってきたからだ。
今は文字を打って話しかけるよりも、この歌が作り出している空気を壊さずに最後まで聴きたい。そう思って、らでんはキーボードからそっと手を離し、椅子の背もたれに体を預けて耳を澄ませた。
明るい曲調なのに、サビに入る前の少し切ない一節では、ただ声を張るのではなく、そっと息を混ぜるようにして言葉を置いている。そして一番のサビから二番へ移るところでは、リズムの跳ね方がぐっと軽やかになって、聴いているこちらの肩まで自然と揺れてしまう。
初めて歌を聴かせてくれた頃も真っ直ぐで素敵な声だったけれど、I-Tubeでカラオケの生配信や「歌ってみた」の投稿を重ねている今の奏の歌は、どの音をどう響かせたいかがもっとずっと鮮やかになっていた。
やがて最後の長いロングトーンが気持ちよく伸びきり、伴奏のピアノが静かに余韻を残して消える。
すると、その余韻が消えるか消えないかのうちに、スピーカーから「ふぅーっ!」という奏の元気な息遣いと、コップの氷がカランと鳴って水を飲む音が、すぐ耳元で聞こえてきた。
『ありがとうございまーす! 最後、長く伸ばしてみたんだけど。気づいた? あ、分かった? よかったー。そこだけ三回やったんだよ、始まる前に!』
さっきまで綺麗に歌い上げていた歌手のような声から一転して、まるで机の向かい側で身を乗り出して笑っているみたいな、近くて弾んだ話し声だった。
コメント欄に『すごく伸びてた!』『二番の入りも好き』『今日ちょっとキー高い曲じゃなかった?』と感想が流れると、奏はそれを一つずつ嬉しそうに拾い上げながら、『いや、一番はちょっと息足りなくて焦ったんだけどね。二番の入りはわざと変えた! ……あー、嬉しい。もう一曲歌いたくなっちゃった。みんな、まだ聴く?』と明るく呼びかけている。
コメント欄が『聴くー!』『次なに歌うの?』と一気に賑わうと、奏は『最後どうしよ。元気なのと、バラード。どっち? 迷ってるんだよね』と聞き返し、返ってきたコメントを見ながら『バラード? お、そっち多いな。じゃあ四曲目は元気なのにして、最後バラード。両方歌う!』と楽しそうに曲目を決めていく。
らでんはヘッドホンを押さえたままコメント欄へ目をやり、そこへ返ってくる奏の声に耳を澄ませた。
――ああ、すごいな。
歌が上手いのはもちろんだけれど、それ以上にらでんがハッとしたのは、曲が終わった瞬間のあの距離の近さだった。
あの奏ちゃんが、画面の向こうにいる顔も見えないはずの人たちと、こんなに自然に言葉を交わしている。一人で最初から最後まで完璧な進行を背負い込むのではなく、「ここを聴いてほしかったんだよね」「次どっちがいいと思う?」と自分から手を伸ばし、返ってきた言葉に本気で喜んで、その勢いのまま次の曲へと進んでいく。
だから聴いている側も、ただ音楽を流しているのではなく、「今、この場に一緒にいる」と感じて、つい言葉を返したくなるのだ。
それから二曲を歌い切って一時間ほどの配信が賑やかに終わり、最後の「おやすみなさーい!」という挨拶が閉じたあと、らでんは携帯端末を手にとって奏へメッセージを送った。
『奏ちゃん、お疲れさま! 三曲目の最後、すごく綺麗だった。二番の前に息を吸うところも、あれ好きだなあ』
送信して、マグカップの温かいお茶を一口飲んだ、その十秒後だった。
画面に既読がついたかと思うと、文字の返信ではなく、『音乃瀬奏・音声通話』の着信表示がぱっと浮かび上がった。
「はやっ!?」
らでんが笑いながら通話ボタンを押すと、遠く離れた街の自室にいるはずの奏の声が、受話スピーカーから部屋いっぱいに弾けた。
『らでん、見てたの!? 言ってよ! なんでコメントしないの!』
「聴いてた! 三曲目から。いや、歌の途中で話しかけるのもなと思ってたら、普通に最後まで聴いちゃった。ごめんごめん」
『いたなら、その場で自慢したじゃん。今の聴いた? って! ……でもブレス、分かったんだ。あれね、顔ちょっと横にして吸うようにしたの。マイクから逃がして』
「あ、変えてたんだ。息の音はうるさくないのに、次の歌が来る感じはちゃんとするんだよね。いいなあと思って」
『じゃあさ、あと五分ある? 聴いてほしいのがあるんだけど! 来週出す歌ってみた、今日仮で混ぜたの。まだ誰にも聴かせてないやつ。今送るから!』
挨拶もそこそこに、自分が今一番聴いてほしいものへぐいぐい引っ張り込んでくるこの積極性が、いかにも奏らしい。らでんも「うん、聴きたい! 送って!」と二つ返事で頷いた。
ノート端末の通信画面に届いた音声データをダウンロードし、通話をつないだままヘッドホンで再生する。
流れてきたのは、先ほどの生配信の元気な曲とはまた違う、少し落ち着いた夕暮れ時のようなテンポの歌声だった。
らでんは目を閉じ、三分半の音源にじっと耳を澄ませる。電話の向こう側では、離れた街の部屋で奏が「どうかな、どうかな」と息を潜めて待っている気配が、かすかな椅子の軋みや衣擦れの音から伝わってきた。
最後の音が静かに溶けて消えると、らでんはすぐに口を開いた。
「奏ちゃん、二番のサビの後ろ、低い声が入るでしょ。あれも自分で歌ってる? 一番にはなかったよね。あそこで急に広がって、うわ、ってなった」
『え、そこ分かった? 待って、一回で? 後ろの低いやつ?』
電話の向こうで、奏が椅子をガタッと揺らして立ち上がるような音がした。
『そう、そこ! 低くて何回も録ったの。ちょっと後ろに混ぜたから、誰も気づかないんじゃないかと思ってた。……よかったー! 今、報われました』
「綺麗だったよ。高い声のところもさ、部屋に跳ね返る感じがしないね。すっと聞こえる」
『それは毛布! 冬用の厚いやつをクローゼットの扉に掛けて、その前で録った。真ん中だとキンって響くんだよね。……あ、最後は? 「またね」ってとこ』
「あそこ、笑ってるでしょ。顔が浮かぶんだよね。らでん、あれすごく好き」
『え、分かるんだ。最後だけ笑いたくて、鏡見ながら歌ったの。小さいの、机に置いて。……いや、先にらでんに送ってよかった! もうちょっと整えて、来週出そ』
心底嬉しそうに弾む声を聞いていると、こちらまで胸の奥が温かくなる。
すると、一通り喜び終えた奏が、ふと気づいたように声を弾ませた。
『てか、すぐヘッドホンで聴けたけどさ。前に言ってた動画、撮ってた? I-Tubeの』
「お、鋭い。今日まさに撮って、さっきまで頭抱えてたところ」
『え、見たい! 何撮ったの? マイクも買った?』
「買った。銀色のスタンドのやつ。一本目はチラシの裏に図まで描いて、前置きだけで四分。二本目は五秒でお盆出したら顔が隠れて、マイクに風が吹いて……。奏ちゃんの聴いたあとだと、余計に恥ずかしいわ。声までガチガチなんだもん」
『何それ、見たいんだけど! ……いや、先にマイク。新しい方に繋いでみてよ。今、私に向かって喋って?』
◇ ◇ ◇
そういうわけで、夜の十時過ぎから、離れた街にいる奏とノート端末の通話をつないだまま、急遽マイクと話し方の実験が始まった。
らでんは通話ソフトの音声入力を、机の上の銀色のスタンドマイクへと切り替えた。
「えー、あー、テステス。奏ちゃん、今の声どう? 聞こえる?」
『うわっ。待って、らでん、今マイクまで何センチ?』
「五センチくらい? せっかくだから、ちゃんと声入れたくて」
『近い近い! 今、耳に風きたんだけど! 私も最初それやった。サビが台風中継になったからね。歌どころじゃなかった』
「台風中継は困るね!? じゃあ、このくらい? えー、本日はお日柄もよく……」
らでんが椅子ごとぐっと後ろへ下がり、背筋を伸ばして声を張り上げると、今度は電話の向こうで奏がケラケラと笑い出した。
『遠い遠い! 今度は体育館じゃん。校長先生来ちゃった。なんで五センチか体育館なの?』
「離れろって言ったの奏ちゃんじゃん! じゃあ、さっきの『ありがとうございまーす』くらいにしたい。歌のあと水飲んで喋ってたとこ、すごく近かったんだよ。あれはどうするの?」
『私、拳一個か二個くらい離して、ちょっと横に置いてる。正面だと息が当たるから。声は拾って、息だけ避ける感じ。さっきブレスのとき顔ずらしたのも、それ』
「あ、声じゃなくて息を避けるのか。なるほどね」
言われた通りに、らでんはスタンドマイクをカメラの正面から少しだけ左へずらし、自分の口元から握り拳二つ分ほど離した位置へ置き直した。そして、いつも宿の机でノートを書くときと同じ、肩の力を抜いた楽な姿勢で椅子に座り直す。これなら、カメラのレンズとのあいだに銀色のマイクが立ちはだかって、手元の小盆や自分の顔が隠れてしまうこともない。
『あ、今いい。椅子の音も普通に聞こえる。じゃあ、お盆のやつ。最初だけやってみて』
「よし、いくよ。……えー、皆さまこんにちは。儒烏風亭らでんです。今回は、古い木工品における乾燥割れと、その補修技法の一つである埋め木についてご紹介いたします」
『待って待って。それ、まだ挨拶?』
開始五秒で、奏から全力の待ったがかかった。
「えっ、今回はちゃんとお盆の話から始めたよ? 霜柱の話は抜いたのに!」
『霜柱? 何の話してたの、ほんとに。……いや、それより声! さっき私のハモリの話してた人、どこ行ったの?』
「いや、だってI-Tubeって、いろんな人が見るところじゃん? ちゃんとした言葉で説明しないと、失礼かなって……」
『じゃあ私が一曲歌って、「皆さまこんばんは。ここからは横隔膜とブレスの技法をご説明いたします」って始めたら? どうよ』
「こわいこわい。そっと閉じるか、熱ある? って連絡するね」
『でしょ。研究発表じゃなくていいよ。今ここにいる私に教えて。そのお盆、どこが可愛いの? いつものやつでいいじゃん』
いつものやつでいい。
そう言われて、らでんは机の上の小盆を両手で持ち上げた。目の前の無機質なレンズやマイクの網ではなく、通話の向こうでヘッドホンを着けて待っている奏の顔を思い浮かべる。
「……あのね、奏ちゃん。表は普通の黒いお盆なんだよ。でも裏返すと、割れたとこに小さい木の蝶々が二匹いるの。割れ目を止めるために、わざわざ蝶々の形で嵌めてあってさ」
話し終えるのと一緒に、らでんは小盆の黒い底板を指の爪で「コン、コン」と軽く叩き、続けて黄色い柘植の蝶々の部分を「カン、カン」と叩いてみた。
『あ、今の音、何?』
「お盆の裏と、蝶々を叩いてみた。聞こえた?」
『うん。二回目、ちょっと高くなったよね? 硬い感じの』
「そう! お盆より、蝶々の柘植って木が硬いから音が違うんだよ。へえ、電話でも分かるんだ。昨日、木の音も拾いたいって言ってマイク選んだの。試してみてよかった」
『聞こえるよ。触ってる指の音も。今らでん、すごい楽しそうだし。私、木のこと分かんないけど、それ見たい。蝶々のとこ、動画で』
「ほんと? このくらい普通に喋ってていいんだ」
『そっちがいい。……あ、でもさ、一個』
「うん、なに?」
『その、乾燥で割れたとこを直す話は聞きたい。さっき言ってた、いきなりお盆出したら顔が隠れちゃったやつ? 見せるだけで終わったら、何の蝶々か分かんないじゃん。先に見せてもらったら「なんでそこにいるの?」ってなるから、そこから教えてよ』
らでんは目を瞬かせた。
昼間、はじめに難しいかもしれないと言われて、とにかく先に見せようと張り切ったときは、前にあった説明を全部削りすぎて、ただ小盆を突き出して終わる押し売りになってしまい、なぜその蝶々がそこにいて、どうしてそんなに愛おしいのかが抜け落ちてしまっていた。
はじめの「蝶々は可愛かった」が嬉しかったのに、見せて終わりでは、自分の方が物足りなかった。そこからもう少しだけ、一緒に覗き込んでほしかったのだ。今、奏ちゃんが「なんでそこにいるの?」と聞いてくれているみたいに。
「あー、順番か。奏ちゃん、ありがとう。ちょっと分かった気がする」
『お、先輩っぽかった? ……で、サムネは? もう作った?』
「え? 表を撮って、白い文字で『隅切り盆』って入れようかなとは……」
『え、表? 蝶々は? 一覧のときから見せとこうよ。黒い四角だけだと、何の動画か分かんないでしょ』
「そっか、入口から裏でいいのか!」
『笑って蝶々持ってるとこ、表紙にしたら? 出したらすぐ教えてね。一番に見るから。あと私の歌ってみたも、今度はコメントしてよ? 黙って最後まで聴かないで!』
「任せて! 一番乗りで書きに行くから!」
◇ ◇ ◇
通話を切ったあと、らでんはすぐには録画ボタンを押さず、椅子に深く腰掛けたまま、机の上の小盆とスタンドマイクを見つめた。
静かになった冬の部屋の中で、ふと、十七歳の頃に初めて寄席の客席で聴いた落語のことが思い出された。
出囃子の太鼓と三味線の音が賑やかに鳴り止んで、高座の温かいオレンジ色の照明の下へ上がってきた噺家さんが持っていた道具は、一本の扇子と、一枚の折り畳んだ手拭いだけだった。
それなのに、噺家さんは最初に「江戸時代の長屋の構造はこうで、当時の蕎麦の値段はいくらで」なんて説明は一言もしなかったのだ。ただ座布団の上で軽く頭を下げ、まくらの世間話で客席の肩の力をふっと抜いたあと、手にした扇子を箸に見立てて、さも不思議そうに首をかしげながら最初の一言を転がした。時には折り畳んだ扇子で膝の前をトン、と軽く叩くだけで、そこには古い木戸や煙管や湯気の立つお椀が立ち上がり、客席にいた自分も、隣で笑っていたおじいさんも、「え、今この人は何を食べようとして、何をそんなに気にしているんだろう?」と前のめりになって、次の言葉を自分から待つようになっていた。
――うまい噺は、説明から始まっていなかったんだ。
らでんは膝の上で、自分の両手をぱちんと合わせた。
これまで文化財の調査記録や《遺念収蔵録》を書くときは、あとから誰が読んでも迷わないように、日付、材質、寸法、来歴、所見という順番で正確に並べるのが一番大事だった。だから自分の中では、頭から順番に背景を説明することが「品物を大事にすること」だと、無意識のうちに思い込んでいたのだ。
だけど、画面の向こうにいる誰かに「この品物、こんなに素敵なんですよ」と手渡すときは、自分のノートを整理する順番と、相手が知りたくなる順番は逆でいい。
大事なものを残すことと、全部を冒頭から説明することは同じじゃないのだ。
最初に、自分が一番ワクワクした『蝶々の埋め木』と『叩いたときの音の違い』、それから『親指の窪み』をそのまま見せる。そうすれば、画面の向こうの人が「どうして裏に蝶々がいるの?」「なんでそこだけ凹んでるの?」と知りたくなる。そのあとに、木の性質や職人の仕事の話を添えれば、知識は退屈な前置きではなく、相手が待っていた『答え合わせ』になる。
「よし。今の感覚が消えないうちに、もう一回だけ録ってみよう」
らでんは立ち上がって白湯を一口飲み、襟元の鋼の雪玉が服の内側にちゃんと収まっているのを確かめてから、二冊の図録で目線の高さに上がったカメラの前に座り直した。
スタンドマイクは正面から握り拳二つ分だけ左斜め。トレーシングペーパーを貼った卓上ライトの角度を少しだけ変えて、胸の前で小盆を裏返したときに、自分の顔も隠れず、黒い漆の艶と黄色い柘植の埋め木の両方に柔らかい光が当たる位置を探す。
録画開始の赤いランプが灯る。
らでんは最初の一秒で、胸の高さに持った黒い小盆の表側を映し――次の瞬間、指先でくるりと軽やかに小盆を裏返した。
ライトの光を受けて、黒い裏底に並んだ二匹の小さな木の蝶々が、くっきりと画面に浮かび上がる。そしてそのすぐ上で、らでん自身が楽しそうに目を細めて微笑んだ。
「ねえ、これ見てください。普通の黒い小盆なんですけどね。ひっくり返すと――ほら! 裏にだけ蝶々が二匹いるんですよ。可愛くないですか。これ、何だと思います?」
マイクの網ではなく、その向こうにいるはずの聞き手へ話しかけるように、普段の自分の声で言葉を転がす。続けて、小盆の黒い底板を指先で「コン、コン」と叩き、それから黄色い蝶々の部分を「カン、カン」と軽く叩いてみせた。
「今、音高くなったの、聞こえました? これ、描いてあるんじゃなくて、木を嵌めてあるんです。乾燥で割れたところが広がらないようにする『埋め木』っていう修理の跡で。こっちはお盆よりずっと硬い、柘植っていう黄色い木なんですね。それをわざわざ蝶々に削って、大小二匹並べてるんですよ」
手元の小盆を少しだけ傾け、埋め木の木目と、割れ目の線が隙間なくぴたりと噛み合っている様子をレンズへ見せる。昼間はあんなにぎこちなかった指先が、今は自分の言葉と一緒になって生き生きと動いていた。
「で、まだあるんです。縁をこうやって辿ると……ここ。表側だけ、漆が薄くなって、親指の形に凹んでるでしょ。その裏には、小さい刻み目が三つあるんです」
らでんは自分の右手の親指をその窪みにそっと重ねてみせた。
「暗い台所でも、手で触れば正面が分かる目印だったのかなって思うんですよね。割れても捨てずに、裏に蝶々を飛ばして、また何年もここに指を掛けて使ってた。お茶とか、お菓子とか運んで。……ちょっと昔の台所、覗いてるみたいじゃないですか? この川沿いの街で、どんなふうに使ってたんだろうなあ。実はこの辺の古い木工所だと、冬の乾いた風を――あ、待って。風から始めたら春になる。今日は戻ってこられなくなるので、そっちはまた今度にしましょう!」
自分で言いながら、昼間の六分十二秒の失敗を思い出して思わず吹き出してしまった。
けれど、らでんは録画を止めなかった。そのまま笑いながら小盆をもう一度だけ表と裏に返し、「皆さんの家にも、裏返してみたら面白い修理跡や目印がある道具が眠ってるかもしれません。よかったら、どこが一番気になったか教えてくださいね」と手を振って、録画停止ボタンを押した。
全体の長さは、四分三十五秒。
最初から最後まで通して再生してみると、冒頭の二秒で蝶々が目に飛び込んできて、木を叩く音も心地よく響き、最後に思わず笑ってしまったところまで含めて「あ、これなら誰かに見てほしいな」と素直に思える一本になっていた。
◇ ◇ ◇
翌日の昼下がり。
午前のうちに《遺念収蔵館》での定時確認と、ミオへ送る調査書類の発送を郵便局で済ませてきたらでんは、宿の机の前でノート端末の画面と睨み合っていた。
画面に開いているのは、I-Tubeの動画投稿ページだ。
昨夜録り直した四分三十五秒の動画に、見やすいように少しだけ字幕と、蝶々の部分が拡大される編集を足し、最後のおまけに同じみかん箱から出てきた一合枡と木匙も三秒だけちらりと映して、あとは右下の青い『公開』ボタンを押すだけの状態になっている。サムネイル画像も、奏の助言通り、裏底の二匹の蝶々と自分の笑顔が一緒に映った一番明るいコマを選んだ。チャンネルの紹介欄にも、『儒烏風亭らでんです。古い道具や美術品、工芸品の面白いところを机の上からお話しします』と書き添えてある。
それなのに、マウスを握った右手が、ボタンの数ミリ手前でさっきから行ったり来たりしていた。
「タイトル、これでいいかなあ。『古い木盆の裏にいた二匹の蝶々』。もうちょっとちゃんと、『隅切り盆の埋め木補修について』……いや、違う。それ昨日の校長先生だわ」
一人でブツブツ言いながら、タイトル欄の文字を消しては元の『古い木盆の裏にいた二匹の蝶々』へ戻し、サムネイル画像の蝶々の写真を三回拡大して確認する。説明文の誤字がないかも指差しで二回読んだ。
さらに念のため、映像の最初から最後までをもう一度コマ送りで確認し、ハンター協会の書類や館の鍵である鋼の雪玉、その他仕事に関わるものがこれっぽっちも映り込んでいないかを確かめる。映っているのは、宿の白い壁と、木机と、らでん自身と、古道具市で買った三つの道具だけだ。
はじめに録画を見てもらったり、奏と電話で話したりするときは、「ねえ、ちょっと聞いてよ」と気軽に頼めたのに、世界中の誰が見るか分からない外の世界へポンと出すとなると、急に胸の奥がこそばゆいような、落ち着かないような不思議な気分になる。
らでんは一度椅子から立ち上がって、別に喉も渇いていないのに電気ケトルのスイッチを入れ、部屋の窓を少し開けて冬の空気を入れてからすぐ閉め、筆立ての鉛筆を背の順に並べ直してから、もう一度椅子に座り直した。
「よし。出すぞ。出さないと始まらないもんね!」
息を吸って、青い『公開』ボタンをカチッとクリックする。
画面が切り替わり、『動画が公開されました』という文字と、再生回数『0回』の表示が並んだ。
公開した直後に、すぐ何百人も何千人もが集まってくるわけがないことは、もちろん分かっている。はじめにも、自分のチックタックのアカウントで宣伝したりしないでねと頼んでおいた。まずは自分の言葉で話したこの一本が、通りすがりの誰かにどう届くのかを確かめたかったからだ。
そうは言っても、やっぱり気になるものは気になる。
らでんは机の横で、古道具市で買った一合枡と木匙のスケッチを取り出して鉛筆を動かし始めたのだが、五分おきにチラチラと端末の画面へ目が滑ってしまう。
十分後。再生回数、二回。うち一回は、さっき自分でちゃんと音が出るか確かめた分だ。
十五分後。端末がピロンと鳴り、コメント欄に記念すべき一件目の書き込みがついた。
『一番乗り! 蝶々、最初からちゃんと見えるじゃん! サムネも見やすいし、コンコンって音も聞こえた。最後、笑っちゃったとこ好き!』
差出人のアイコンは、見慣れた奏のアカウントだった。約束通り、通知を見てすぐに飛んできてくれたらしい。その変わらぬ速さに、らでんの肩の力がふっと抜けて笑顔がこぼれる。
続いてはじめからも、端末のメッセージで『休憩中に見たよ。ちゃんと最初から裏返してる。押し売りじゃなくなったね』と連絡が来た。
二人に礼を返したあとも、動画の再生数は、一時間に二回、三回と、本当に少しずつ、散歩の足取りくらいのゆっくりした速さで増えていった。あまりにも画面ばかり見てしまいそうだったので、夕方には買い物籠を提げて運河沿いの商店街まで夕飯の野菜と豆腐を買いに出たのだが、すれ違う窓の灯りを見るたびに「この街のどこかの家でも、誰かがI-Tubeを開いてたりするのかな」なんて考えが頭をかすめて、帰り道がいつもより少しだけ早足になった。
夜になり、お風呂から上がってタオルで髪を拭きながら画面を覗き込んだとき。再生回数は『十九回』になっていた。
まだ二十回にも満たない小さな数字だけれど、自分とはじめと奏を除いても、どこかの誰かが十数回、あの四分半の動画を開いてくれたのだ。そう思うと、それだけでもなんだか不思議な温度がある。
そろそろ寝ようかと、ドライヤーを片づけて最後に一度だけ画面を更新した、そのときだった。
コメント欄の数字が『1』から『2』へ変わり、見たことのない名前のアカウントから、新しいコメントが一つ届いていた。
『おすすめの関連動画にたまたま出てきて、最初の一秒で裏返した蝶々に「おっ」と思って最後まで見ました。埋め木の音の違いも面白かったんですが、一分四十秒あたりで映っていた裏の縁の三つの小さな刻み目、あれは漆の上から彫ってあるんでしょうか? それとも塗る前からある目印ですか? うちの実家の古い木鉢の裏にも似た傷があったのを思い出して、さっき戸棚から引っ張り出して裏返してみました』
らでんはドライヤーのコードを束ねかけたまま、画面の前で目を丸くした。
一回読み、二回読み、三回目には思わず「うわあ……!」と声が出ていた。
知らない誰かが、最初の一秒の蝶々で足を止めてくれた。
それだけでなく、一分四十秒のところで映した裏の縁の小さな刻み目をちゃんと見て、「漆の上から彫ったのか、塗る前からあるのか」という、らでんが動画の中で言いそびれていた一歩先のところまで気にしてくれたのだ。しかも、その人はこの動画を見たあと、自分の家の戸棚から古い木鉢を出して、実際に裏返してみたのだという。
自分が古道具市のみかん箱の前で感じた「うわ、この裏側すごいな」というワクワクが、画面と電波を通って、見たこともない誰かの家の台所まで届いて、その人が古い道具を見る目をほんの少しだけ変えた。
数千件のハートが並ぶような派手な出来事ではないけれど、今のらでんには、このたった一つのコメントが、胸の奥でキラキラと音を立てるくらい嬉しかった。
「あー、これ見せたいなあ。文字で書くより、刻み目にライト当てた方がすぐ分かるのに」
らでんは机の上の小盆を手に取り、裏の縁にある三つの刻み目を指先でなぞった。
この刻み目は、漆が塗られたあとに、何か鋭い道具でカリッと削りを入れたものらしい。だから斜めから光を当てると、黒い漆の層の下から、乾いた木地の色がほんの少しだけ覗いて見える。
それなら、動画の最後に三秒だけ映した同じみかん箱の仲間――真鍮の金具で角を直した古い一合枡と、竹鋲で柄の割れを留めた栗の木匙も並べて、実際に光を当てながら見せる方がずっと面白いに決まっている。
その直後、コメント欄を見ていたらしい奏から、『ねえ、今の見た? これ、生で見せながら返事したら? 二、三十分くらいで。マイクも昨日のままでいけるじゃん!』とメッセージが飛び込んできた。
生配信。
録画と違って、途中で止めて撮り直すことはできない。画面の向こうの人と、同じ時間をそのまま繋ぐ場所だ。
少しだけ心臓がトクンと跳ねたけれど、それ以上に「今すぐこの刻み目に光を当てて見せたい」という気持ちが、ぐんぐん前へせり出してきていた。
◇ ◇ ◇
翌日の夜八時。
宿の作業机の上には、黒い隅切りの小盆と、古い一合枡、それから竹鋲で直された木匙の三つが、柔らかい白い布の上に並んで置かれていた。
らでんは一時間前に、昨日の動画のコメント欄への返信と自分のチャンネルの告知欄へ、『夜八時から、昨日の木盆の刻み目について、実物をライトで照らしながら少しだけ生配信をします』と短い案内を出しておいた。
カメラの位置よし。スタンドマイクの距離は、正面から少し左へ握り拳二つ分。手元には、話す順番で迷子にならないように書いた簡単な箇条書きのメモを一枚置いてある。
時計の秒針が、八時ちょうどを指した。
らでんは一度だけ深く息を吸い、画面の『配信開始』ボタンをクリックした。
一秒の読み込みのあと、画面の左上に赤い『LIVE』の文字が点灯し、経過時間の秒数が「00:01、00:02……」と動き始める。
録画のときなら、ここで噛んだり変な顔になったりしても「あ、もう一回!」と止められた。けれど今、この赤いランプが光っているあいだは、自分が咳払いをしようが黙り込もうが、そのまま外の世界へ流れていってしまうのだ。
そう思った瞬間、せっかく練習したはずの最初の挨拶が、頭の中からすっぽり抜け落ちた。
「えー、あ、こんばんは! 儒烏風亭らでんです。えっと、この街は晴れ。夜になってだいぶ冷え込んでまいりましたが――って、なんで天気予報やってんの、らでんは!」
開始十秒で、自分の口から飛び出した謎の定型句に、らでんは思わずカメラの前で両手を合わせて笑ってしまった。
すると、まだ『同時接続・3人』だった画面右側のチャット欄に、ぽん、ぽんと文字が流れた。
『こんばんは! お天気お姉さん始まったかと思ったw』
『こんばんは、昨日の動画でコメントした者です。見に来ました!』
一人は奏、そしてもう一人は、昨夜あの刻み目の質問を書いてくれた視聴者だった。さらにその数秒後には、通りすがりで覗きに来たらしい別のアカウントからも『こんばんはー、古い道具の配信ですか?』と書き込みが入る。
「あ、こんばんは。来てくださってありがとうございます! 押したら急に緊張しちゃった。危うく明日の降水確率まで言うとこでしたね」
自分が構えていたことをそのまま口にして笑うと、チャット欄に『初配信あるあるですね』『声、すごく聞きやすいですよ』と返事が返ってきた。
目の前で、本当に自分の言葉に対する返事が返ってきている。
一昨日の夜、奏の歌枠を聴きながら「画面の向こうの人とあんなふうに話せるんだ」と驚いていたあの景色の中に、今、自分自身が座っているのだ。
「昨日の動画に、すごく嬉しい質問をいただいたんですよ。この裏の三つの刻み目、漆を塗る前からあるのか、あとから彫ったのかって。今日は実物、照らしてみようと思って。……これです。見えます?」
らでんは机の上の小盆を手に取り、カメラのレンズから二十センチほどのところへ裏側の縁を掲げた。
計画では、ここから手元のメモ通りに「一、刻み目の深さ」「二、塗装の断面」「三、他の道具との比較」と順番に説明するつもりだった。
ところが、小盆を掲げてすぐ、チャット欄に新しいコメントが流れた。
『あ、今の角度だとライトが黒い漆に反射して、刻み目が白く飛んじゃってるかもです』
『もうちょっとだけ、お盆を左に傾けてもらえますか?』
「あ、飛んでる? ほんとだ。ありがとうございます。ちょっと待ってね……こう? ライトを横からの方がいいかな」
らでんは手元のメモから目を離し、自分のプレビュー画面とチャット欄を見比べながら、左手で卓上ライトの首を少し横にずらし、右手の小盆をゆっくりと左へ傾けた。
すると、黒い漆の強い反射がすっと消え、縁に並んだ三つの小さな刻み目の断面が、くっきりと画面に浮かび上がった。
『おお、見えました!』
『ほんとだ、中の黄色っぽい木の色が見えてますね。漆を塗ったあとから彫った跡だ』
『しかも三本のうち、真ん中の一本だけ、ちょっと角が丸く擦り減ってませんか?』
「そう、真ん中だけ丸いんですよ。待ってくださいね。昨日見せた表の窪みに、右の親指を当てて……ほら、裏の刻み目には人差し指の腹が当たるんです」
らでんはカメラの前で、実際に右手で小盆の縁を持ってみせた。すると、自分の人差し指の先端が、三つの刻み目の真ん中にぴたりと収まる。
「ほら、板の表と裏で、ちょうど向かい合ってるんですよ。暗い台所での目印かなって昨日は思ったんですけど、濡れた手で持っても滑らないように、引っ掛かりを作ったのかもしれないですね」
『なるほど! 滑り止め兼、正面の目印!』
『だから人差し指が一番当たる真ん中の線だけ、長年のうちに丸くなったんですね』
『もし左利きの人が使ってたら、反対側の角が減りそう』
視聴者から次々に返ってきたその言葉に、らでんは「あっ」と声を上げた。
「あ、反対側! 見てみましょう。……こっちは刻み目なし。でも角の漆、少し薄いですね。両手のときは左を添えて、片手だと右でばっかり持ってたのかなあ。いや、面白いな。使ってた人の手つきまで見えてくる。一人で見てたときより、ずっと」
机の脇に置いていた箇条書きのメモは、もう三分目あたりから一度も見ていなかった。
自分が一方的に用意した説明を読み上げるよりも、画面の向こうの人が「もうちょっと左に傾けて」「真ん中が減ってませんか」「左利きならどうだろう」と投げてくれる言葉を受けて、その場で一緒にお盆を回して確かめる方が、何倍も面白い発見が飛び出してくるのだ。
『昨日の動画の最後にチラッと映ってた、後ろの白い布の上の木匙と四角い枡も同じところで見つけたんですか?』
別の視聴者からの質問が流れる。同時接続の数字も、いつの間にか八人に増えていた。
「そう! これも同じ古道具市、同じみかん箱にいたやつです。栗の木匙なんですけど、柄の割れを、鉄じゃなくて竹で留めてるんですよ。ほら、細いのが横に二本。竹鋲っていうんですけど、ちょっと光当ててみますね」
らでんが木匙を持ち上げてレンズへ近づけると、チャット欄に『竹で留めるの初めて見た』『お湯や汁物に入れても錆びないからかな?』『あ、それありそう! しかも木と同じくらい少ししなるから割れにくそう』と、視聴者同士のやり取りまで自然に重なり始めた。
「あー、お湯! 錆びないし、木と一緒にしなるから。なるほどねえ。汁物に使うんなら、鉄の釘だと錆びて木が傷んじゃいますもんね」
『さっきのお盆みたいに、その匙も先っぽの減り方で右利きか左利きか分かりますか?』
「利き手! ちょっと正面から見せますね……こっち、向かって左だけ斜めに減ってるの、分かります? 右で持って鍋底を手前に掬うと、ここが当たるんですよ。だから、使ってた人も右利きだったのかなあとは思うんですけど」
『ほんとだ、片側だけ斜めに減ってる!』
『お鍋の底を掬う音まで聞こえてきそうです』
「竹のピン可愛いな、で終わってたのに、鍋から掬ってる手まで浮かんできましたね。……もう一個、枡も見ます? 同じ箱の仲間」
『見たいです!』
『一箇所だけ角が金色に光ってますね』
らでんは白い布の上から四角い木枡を持ち上げ、四つの角のうち一つだけに薄い真鍮の板が巻かれている部分をカメラへ向けた。すると、新しく入ってきた視聴者の一人から、こんなコメントが流れた。
『それ、元は四隅ぜんぶに金具がついてたのが、三つ取れちゃっただけじゃないですか?』
「あ、私もそう思ったんですよ。飾りが三個取れたのかなって。でも、ほかの角、見てください。……釘抜いた穴、ないんです」
らでんが木枡をくるくると回して他の三つの角をライトの下へかざすと、そこには綺麗な木組みの継ぎ目があるだけで、金具を打ち付けた痕跡は一つもなかった。
「ここの角だけ、上も斜めに丸く減ってるんですよね。米櫃とか、深い米の箱から掬うとき、毎日ここを下にしてたのかなあ。それで薄くなったところに、あとから真鍮を当てたんじゃないかなって思うんですけど」
『ほんとだ、他の角に釘穴がない!』
『掬うときの角だけ減るのか、納得しました!』
『同じみかん箱の三つ、どれも直して大事に使われてたんですね』
疑問を投げてくれた人が、実物の木肌を見て「ほんとだ!」と頷いてくれる。
話すほどに声が弾み、手元の道具を裏返しては光にかざす。伝えたいことが多すぎて四分間の前置きに迷い込んでいた一昨日の自分が嘘みたいに、今は画面の向こうから届く一言一言が、らでんの次の言葉と次の発見をどんどん引き出してくれていた。
◇ ◇ ◇
「――それでは、今日はこのあたりで! 来てくださって、本当にありがとうございました。また面白いものを見つけたらお話しするので、よかったら遊びに来てくださいね。おやすみなさーい!」
カメラに向かって大きく手を振り、らでんは『配信終了』のボタンをクリックした。
左上の赤い『LIVE』の表示が消え、経過時間の時計が三十四分十二秒で止まる。ヘッドホンを外すと、宿の部屋には、冬の夜の静けさと、卓上ライトの柔らかい温かさだけが戻ってきた。
「……ふぅーっ!」
らでんは椅子の背もたれにぐーっと伸びをして、自分の両頬を手のひらで軽く押さえた。暖房を強くしているわけでもないのに、頬がぽかぽかと熱い。
たった三十分ちょっと。集まってくれたのは最大で九人という、小さな小さな最初の生配信だ。
けれど、画面の向こうにちゃんと人がいて、自分が差し出した古い小盆や木匙や一合枡を一緒に覗き込み、「そこ、もっと見せて」「こうじゃないかな」と言葉を返してくれたあの三十分は、本当にあっという間で、胸の奥がまだパチパチと弾けているみたいに楽しかった。
机の上の携帯端末が、立て続けに二回震えた。一つ目は奏からだ。
『おつかれー! 最初の天気予報、何だったの? お茶吹くかと思ったじゃん。でも、竹のピンとか枡の話してるとき、すごい楽しそうだった。来週歌ってみた出したら、次の歌枠でやろうかな。「本日の降水確率」って』
思わず吹き出しながら、すぐにもう一つのメッセージを開く。こちらははじめからだった。
『スタジオの帰り。アーカイブ最初と最後見たよ。顔、ちゃんと出てたね。お盆じゃなくて。手元もこの前より見やすいし、らでん楽しそうだったじゃん。はじめも明後日、新しい振り付け撮るから。最初に送るね』
らでんは端末を両手で包み込むように持ち、二人にそれぞれ返事を打った。
奏には、『天気予報はやめて、恥ずかしいから! 歌ってみたの方を楽しみにしてるんですけど! あの二番、また聴きたいなあ』と送り、はじめには、『今度はちゃんと顔も出せました! この前も付き合ってくれてありがとね。明後日のやつも早く見たい。今度どこで止まるのか、三回見て当てるから送ってよ』と返す。
自分がやりたかったことが一歩進んだ嬉しさと一緒に、二人がこれから見せてくれる新しい歌や踊りが楽しみでたまらない気持ちが、自然と指先から溢れてくる。
メッセージを送り終えたらでんは、白い布の上に並んだ小盆と一合枡と木匙をもう一度眺め、手元の記録ノートを新しいページへめくった。
さっきの配信でほとんど使わなかった箇条書きのメモの隣に、万年筆で新しく三行を書き足す。
・左手使いの道具の減り方(他の鉢や匙でも比べてみる)
・水回りの木工品に使われる竹鋲と木釘の違い
・一合枡の角の真鍮金具、どんな道具で曲げた跡があるか
どれも、自分一人で机に向かっていたときには思いつかなかった、今日の視聴者とのやり取りから生まれた次のタネだ。
ノートを閉じ、次に発送する調査書類の束を確かめてから、らでんは机の上の小さなカメラと銀色のマイクへ目を向けた。
明日も昼間はしっかり本業の調査と《遺念収蔵館》の整理を進めよう。そして、また「これを見てほしい!」と思うものに出会ったら、この机の前で赤いランプを灯せばいい。
「さて、次はどの順番で見せようかな」
小盆の裏で飛ぶ二匹の小さな蝶々を指先でそっと撫でて、らでんは冬の夜の静かな部屋で、一人きりの笑顔を浮かべた。
ゴシカ・シティ編、最後までお付き合いいただきありがとうございました! さて、十老頭入りを果たした桐生組。となれば、気になるのは、その武力を担う念能力者集団――《陰獣》です。 皆さんは、誰に陰獣の一員として登場・活躍してほしいですか? 今後の構想の参考にさせていただきます!
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桐生組直参 天音かなた
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桐生組直参 角巻わため
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金虎堂頭領 虎金妃笑虎
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ベルベット商会 フィクサー 一条莉々華
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ゴシカでは掃除屋が陰獣を兼ねるしきたり
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その他新規で別のホロメン